フライング単発 甲子夜話卷之六十二 22 羅漢寺の話【五條】
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「鴻の巢」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。五条から成るので、条の間を一行空けた(但し、段落は四段しかないので、推定で最終段落を二つに分離した)。この「羅漢寺」については、直前に公開した「フライング単発 甲子夜話卷之二十三 6 寺屋に鸛巢ふ事」の私の注を参照されたい。最後の条はダイレクトに、その話を受けて書かれてある。]
62-22 羅漢寺の話【五條】
三月の末、開山忌とて招かれ、羅漢寺に往《ゆき》たりしとき、往持【彌天和尙。】出《いで》て、種々の物語ぜし中、普照國師【隱元。】、檗山《ばくざん》開創の後、宇治川に近き渡りあるを津處《しんしよ》とし、屢々、こゝより渡られければ、今も其處を「隱元渡り」と云ふとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「檗山開創」明朝復興の願いに始まった禅宗の一宗派黄檗宗は、江戸初期に来日した隠元隆琦(一五九二年~一六七三年)を開祖とし、現在の京都府宇治市にある黄檗山(おうばくさん)萬福寺(グーグル・マップ・データ)が、隠元隆琦を開山とする本山である。
又、卽非禪師は、隱元の弟子にて、年も餘ほど若かりしが、神通《じんづうう》を得たる人にて、隱元に隨《したがひ》て、この渡《わたし》をわたるとき、忽《たちまち》、河の向岸《むかふぎし》に立《たち》てあり。隱元、時に云《いふ》には、
「かく神通を人に見することは爲《なす》まじきこと也。人に見へざるこそ神通なり。」
とて、時々に、卽非がかゝる所行《しよぎやう》をば、止《とどめ》し、とぞ。
又、木庵禪師【黃檗の二世。】も國師の高弟にして、厚篤の人なりしと。或日、隱元、檗山の中妙高亭と云《いへ》るに、木庵、卽非と在りしとき【この亭は、淀川を望む所にて、其頃は、創寺のとき故、林木も長《ちやう》ぜざれば、川を往《ゆ》く船、この亭より能く見へたるが、今は樹抄《じゆべう》、茂密して、來還の船を見ることなしとぞ。】、淀河の舟帆《しふはん》を揚《あげ》て來《きた》るを見て、隱元、曰《い》ふ。
「汝輩《なんぢら》、あの行舟《ゆくふね》を駐《と》めよ。」
と。木庵、卽《すなはち》、起《たつ》て、亭の障子を閉《しめ》んとす。
卽非は言下に眼《まなこ》を閉ぢ、
「舟を停《と》め畢《をはん》んぬ。」
と、卽答せし、とぞ。
その心機の先後《せんご》、この如し。
[やぶちゃん注:「樹杪」現代仮名遣「じゅびょう」。木の梢(こずえ)。]
又、羅漢寺御成《おなり》のときは、例として、翌日、寺社奉行宅にて銀十枚を下さる。時として御成の場にて、法問を聴《きか》せらるゝことあり。このときは直《ぢき》に銀三枚を賜はるとぞ。
この事、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]の御時にや始《はじま》るかと。
又、かの堂脊の鸛巢《こうのす》、予が幼年の頃より、今に連綿する抔《など》、語れる次《つい》で、
「さて。大風《たいふう》には吹落《ふきおと》す歟《か》。」
と言《いひ》たれば、
「否々、一昨年、猛風の時にも、曾て損ずること、なし。又、時として彼《かの》巢を、人、見屆《みとどく》ることあるときは、屋脊《をくせき》に登り見るに、何《い》かにして銜來《くへきた》るや、土を以て、木枝《きのえだ》の隙をつめつゝ、中々、搖飄《やうへう》する底《てい》のことに、あらず。巢の廣さ、たゝみ二帖鋪《じき》もあり。」
と云。
又、前《さき》の廿三卷に云し如く、年々、鸛を長ずれば、父鳥、巣を去る。このことも和尙、云《いふ》には、
「雛、やゝ長ずれば、父鳥、翼を張《はり》て、飛形《とぶかたち》を敎ゆ。雛の習熟すると覺ゆれば、又、枝朶《しだ》を銜來《くはへきたつ》て、堂脊を步《ほ》して、巢なき所に於て、巢を構《かまふ》るの狀《かたち》をなし、巢を成すの事を習はしめ、亦《また》、熟すると覺しきとき、是より、父鳥、遂に來らず。若し、雛三羽なれば、雌雄二つを留《とど》めて、餘子《よし》は將《ひき》ゐ去るとぞ。
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