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2023/04/09

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 「熊野雨乞行事」を讀みて

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、本文の冒頭に入れた「(『鄕土硏究』第一卷第七號四三八頁)」は、底本では、ご覧の通り、標題の中に二行割注で入れ込まれてある。しかし、標題はポイントが大きく、ここにそれを入れると、標題が長くなってしまい、バランスが甚だ悪くなるため、以下では、かく変更した。]

 

     「熊野雨乞行事」を讀みて (大正三年三月『鄕土硏究』第二卷第一號)

 

 「熊野雨乞行事」(『鄕土硏究』第一卷第七號四三八頁)に似た事が支那に有《あつ》たと見えて、「淵鑑類函」卷廿六に「紀異」を引《ひき》て、貴州有洞池、周十餘丈、下有石牛時出池間、歲旱民殺ㇾ牛祈ㇾ雨、以ㇾ血和ㇾ泥、塗ㇾ牛即雨、盡即晴、以爲ㇾ恒。〔貴州に、洞池、有り。周(わた)り十餘丈なり。下に、石牛(せきぎう)有りて、時に池間(ちかん)より出づ。歲(とし)、旱(ひでり)すれば、民は、牛を殺して、雨を祈り、血を以つて、泥に和(わ)し、牛に塗れば、即ち、雨(あめふ)り、盡(つ)くれば、即ち、晴(は)る。以つて恒(つね)のことと爲す。〕と見ゆ。

[やぶちゃん注:「熊野雨乞行事」の筆者は「選集」に『吉田美穂』とある。人物不詳。

「淵鑑類函」(清の康熙帝の勅により、張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍)の当該部は「漢籍リポジトリ」にあるこちらの当該巻の影印本([031-55a])で校合したが、そちらでは略字や、判り難い異体字があり、結果して、熊楠の底本通りで採用した。但し、返り点に問題があったため、読点位置を変え、レ点一箇所を除去し、代わりに一・二点を挿入しておいた。しかし、吉田氏の原論考が読めないので、どの点が「似た事」なのかは、不明である。ネットで幾つかのフレーズで検索を試みたが、発見出来なかった。但し、一つ、気になる記事は、あった。「壺」である。「元生石高原の麓の住人」氏のブログ「生石高原の麓から」の「金の神輿と雨乞いの壺 ~御坊市熊野~」である。和歌山県御坊市熊野(いや)にある熊野(いや)神社(グーグル・マップ・データ)には、『この境内に、金の神輿(みこし)と、雨乞いの壺が埋められていると伝えられる。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下に…」という。朱のタル七個、白玉二光、鏡なども埋められていたとか。紀州攻めにきた秀吉がかくしたものというが、いまはない。雨乞いの壺は、水を満たし、山で雨乞いをしたのでは、といわれている』とあり、さらに、『御坊市が編纂した「御坊市史」には次のように記載されている』とされて、『金の神輿(みこし)と雨乞の壺』と題し、『熊野権現神社に金の神輿を埋めているという。その場所は「朝日さし、夕日輝くその下…」という。また朱の樽七個白玉二光、鏡等所蔵していたといい、玉は豊臣秀吉南征の時』、『隠したのを明治の中頃、近くの百姓が掘り当てて持っていたが』、『当時の官人が伝え聞き、持って行ったままになっているという』。『雨乞の壺というのもある。雨乞の時この壷に水を満たし、松明をともして山で雨乞をしたのだろうという』とあった。この「壺」は意味深長である。古くは、単に水を壺に満たしたのではなく、何らかの生贄の血或いは当該動物の体内に生じた遺物・結石である「鮓荅」(さとう/へいさらばさら)などが、入れられたのではなかったか? 「鮓荅」は古くから雨乞いに用いられたからである。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。少なくとも、本篇の内容から、熊野地方の雨乞いの行事の中で、何らかの動物の生贄に近い儀式が行われた、或いは、そうしたものの代替的象徴的儀式が残存している、乃至、していたことは、間違いあるまい。何か、それらしいものを見つけたら、追記する。

(增)(大正十五年九月記) 古河辰の「西遊雜記」三に、『豐前小倉の南三里なる須川の瀧壺に雨を祈るにふらずといふ事なし、多くの獸を狩とり壺の水上で屠りて血を壺に流し入ると、壺にすむ鮫が壺の穢れを嫌ひ、一日の内に雨をふらせて壺の淨まる迄ふらす。』とある。

[やぶちゃん注:『古河辰の「西遊雜記」』江戸中期の地理学者古川古松軒(ふるかわこしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年:「辰」は本名)が天明三年三月末日(一七八三年四月三十日)に備中国下道(しもみち)郡新本(しんぽん)村(現在の岡山県総社(そうじゃ)市)の自宅を出て、山陽道を、陸路、西へ歩き出し、九州諸国を巡遊して同年九月十一日(グレゴリオ暦十月六日)帰郷した紀行誌。随所に地図を挿入し、地域社会の特質を独自の観点に立って記述し、農耕具や生産器具の図解も見事である。当時の西日本の民衆の経済生活を理解するうえで有力な史料とされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『吉備文庫』第五輯(山陽新報社出版部編・一九八〇年山陽新聞社刊・正字正仮名)で調べたところ、巻数は「卷之二」の誤りであることが判明した。しかも、熊楠の引用には梗概であるとしても、激しい誤りがあることも判った。当該箇所はここである。敢えて熊楠の引用には手を加えずに示したので、以下に正しい原文を視認して電子化しておくので、比較されたい。

   *

豊前の國は海邊に寄るほど風土よく見ゆれど、西南は山連々としてあし〻、九州にて上國といへども中國にくらぶれば人物言語も劣りて諸品自由ならず、小倉より南三里に須川の瀑布(たき)といふ有り、なたれし[やぶちゃん注:「なだらかな」の意か。]瀧ながら高サ百丈餘、瀧つぼ至て深く古しへより蛟(みつち)此淵にすめるを樵夫稀に見る事もあり、旱魃年にこゝに雨乞をなすにふらずといふ事なし、其法大勢にて狩をし數多の獸をとりて瀧の水上にて是を切りざみ、おびた〻゙しく血水を流しいのれば瀧つぼの穢れを嫌ひて一日の内に雨を下し、淵の淸淨になるまではふる[やぶちゃん注:ママ。「をはる」の誤記か。]事なしといふ。このこと備後の國にもあり、是は薪を數多きりて瀧つぼをうつむ事にて雨必ずふるとなり信じがたき事ながら、土人の物がたりを爰に記しあはせて後の考へに備ふ、人家もなきものすごき瀧のもやう甚おもしろく左に圖せり。[やぶちゃん注:底本には残念ながら図はないが、「国書データベース」で、写本ながら、ここで挿絵を見ることが出来る。右上の雲の中にキャプションがあり、「須川龍泉」「此滝小倉城南に落て海に入」「風景よく」「写得かたかた」とあって、その右下方に方位を示す「南」が打たれてある。]

   *

この「須川の瀑布」は現在の北九州市小倉南区大字道原にある「菅生(すがお)の滝」であろう(グーグル・マップ・データ)。すぐ近くに「須川神社」ある。]

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