佐々木喜善「聽耳草紙」 三〇番 山男と牛方
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
三〇番 山男と牛方
ある時、太郞といふ牛方《うしかた》が、牛三頭に魚荷をつけて、澤内(ワサウチ)(和賀郡)へ通つてゐた。そして山伏峠(岩手郡と和賀郡との境)の頂上で晝飯(ヒルメシ)を食ふ氣になり、焚火をして魚を炊(アブ)つて居ると、大きな山男がひよツくらやつて來て焚火に踏跨(バタ)がつてあたつた。そしてあゝ魚嗅(サカナガマ)りがするなア、あゝ魚嗅りがするなアと言つて、鼻をヒクヒクめかした。太郞は怖(オツカナ)くて面使(ツラヅカ)ひをしながら、さうともさ魚荷をつけて來ただもの、魚臭いのがあたりまへさと言つた。すると山男はそんだらその魚を俺にケロと言つた。太郞はこれは人から賴まれたのだから、ケラれないと言つた。すると山男はケラれなかつたらウゴ(汝)[やぶちゃん注:本文。]を取つて食ふぞと言つた。
そこで太郞は仕方がないから、魚荷を一俵、牛の背から下してケた。山男はあゝ甘いあゝ甘いと言いながら、見てる間にそれをペロリと食つた。そしてもう少しケロと言つた。
太郞はあとはワカらないと言つた。すると又山男はそんだらお前を取つて食ふぞと言つた。仕方がないから太郞がまた魚荷をやると、あゝ甘いあゝ甘いと言つて、それもペロリと平(タヘ)らげてしまつた。そんなことで山男は遂々《たうとう》牛三背中分の魚荷をみんな食ひ盡してしまつた。さうしてから山男は又何かケロ何かケロ、俺の言ふことをきかなかつたらお前を取つて食ふぞと言つた。太郞は仕方がないから、そんだら其の牛でも食へと言つた。さうして山男が牛三疋食つてゐる𨻶に其所を逃げ出した。
太郞が走《は》せて行き行くと船矧《ふなはぎ》が船をはいで居たので、俺は山男に追かけられて來た、助けて吳(ケ)ろと賴んだ。船矧はそんだら其所にある舟でも被つて匿れて居ろと言ふ。太郞は舟を被つて匿れて居た。
そこへ山男がやつて來た。船矧々々、今此所サ牛方は來なかつたかと聞いた。船矧が俺
は知らぬと言うと、山男は僞言(バカ)吹け、ヘタにまごつくとお前を取つて食ふぞと言つた。船矧は魂消(タマゲ)て其所を逃げ出した。さうして行き行くと、大きな淵があつた。其岸にはまた大きな松ノ木があつたから、それへよぢ登つて居た。其所へ山男が追(ボツ)かけて來て、お前はナゾにしてそんな高い所へ上《のぼ》つたと聞いた。船矧は俺は其所にある大きな石を負(シヨ)つて上つて來た。木に登るには石を負(シヨ)わぬと分(ワカ)らぬもんだと言つた。山男はそれを眞實(ホント)にして、其所にある一番大きな石を背負つて木を這ひ上つて來た。そしてもう少しで船矧の居る枝に手が屆くまで上つて來た。船矧はこれは堪らぬと思つて、鋸《のこ》で其の下枝を挽切《ひきき》つて置いた。それとも知らない山男が、其の枝に手繰(タグ)り着くなり、ビリビリツと枝が裂折《さけを》れて山男は大石を背負つたまンま下の深淵(フチ)へ倒(サカ)さに墮ちて沈んでしまつた。さうして二度と浮び出なかつた。
それで牛方と船矧は生命(イノチ)が助かつた。
(岩手郡瀧澤村武田採月氏からの御報告に據る
ものの一、大正三年頃の蒐集の分。)
[やぶちゃん注:「山男」私の最近の電子化注『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山人の市に通ふこと』及び『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』等を参照されたい。
「牛方」牛を使って荷物を運ぶのを生業としている者。
「面使(ツラヅカ)ひ」怯えて顔を左右にきょろきょろと動かすことであろう。
「船矧」十八世紀中期頃以降、上棚の上縁に矧付(はぎつけ)と称する舷側材を矧ぎ合わせる板材を組み合わせた構造の舟が建造されるようになった。その用材を山から切り出す職人を指していよう。
「岩手郡瀧澤村」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ。盛岡の北西の現在の岩手県滝沢市。]
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