フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「天狗の情郞」(てんぐのかげま)の注に必要となったため、急遽、電子化する。特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧記号も用い、段落も成形した。実は、これは二〇一七年に『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で電子化しているのだが、ここで、正規表現で仕切り直して示すこととした。但し、そこで私が述べた感じは、今も全く変わっていないので、転用してある。]
49-40 天狗、新尼をとる
嵯峨天龍寺中《ちゆう》、瑞應院と云《いふ》より、六月の文通とて、印宗和尙、話《かた》る。
――天龍寺の領内、山本村と云に、尼庵《にあん》あり。「遠離庵《をんりあん》」と云。その庵に、年十九になる、初發心《しよほつしん》の尼あり。
この三月十四日、哺時《ほじ》のほどより、尼、四、五人連《つれ》て、後山《うしろのやま》に蕨《わらび》を採《とり》にゆき、歸路には、散行《さんぎやう》して庵に入る。然るに、新尼《しんに》、ひとり、歸らず。人、不審して、
「狐狸のために惑はされしか。又は、災難に遭《あひ》しか。」
と、庵尼、うちよりて、祈禱・宿願せしに、明日に及《およん》でも、歸らず。
その十七日の哺時比《ごろ》、隣村淸瀧村の樵者《きこり》、薪採《たきぎとり》にゆきたるに、深溪《ふかきたに》の邊《あたり》に、少尼《わかきあま》の、溪水《たにみづ》に衣《ころも》を濯《あら》ふ者、あり。
顏容、芴然《こつぜん》たり。
樵、
「かゝる山奧に、何《い》かにして、來《きた》れりや。」
と問へば、尼、
「我は、愛宕山《あたごやま》に籠居《こもりを》る者なり。」
と云。
樵、あきれて、彼《か》れを、すかして、淸瀧村まで、つれ還り、
「定めし、かの庵の尼なるべし。」
と告《つげ》たれば、其夜、駕(かご)を遣はして、迎《むかへ》とりたり。
尼、常は實體《じつてい》なる無口の性質《たち》なるが、何か、大言《だいげん》して罵《ののし》るゆゑ、「藤七」と呼ぶ俠氣(きやうき)なる者を招《まねき》て、これと對《たい》させたれば、尼、
「還《かへ》る、還る、」
云《いふ》て、
「去らば、飯を食せしめよ。」
と云ふ。
乃《すなはち》、食を與へたれば、山盛なるを、三椀、食し終り、卽《すなはち》、仆《たふ》れたり。
其後《そののち》は、狂亂なる體《てい》も止《やみ》て、一時《いつとき》ばかりたちたる故、最初よりのことを尋問《たづねとひ》たれば、
「蕨を採《とり》ゐたる中《うち》、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるが、
『此方《こなた》へ來るべし。』
と言ふ。その時、何となく貴《たふと》く覺へて、近寄りたれば、彼《かの》僧、
『この杖を、持《もち》候ヘ。』
と云て、又、
『眼を鿃《ふさ》ぐべし。』
と云しゆゑ、其《その》若《ごと》く爲《なし》たれば、暫しと覺へし間に、遠方に往《ゆき》たりと見へて、金殿・寶閣のある處に到り、
『此所は禁裡なり。』
と申し聞かせ、又、團子のやうなる物を、
『喰ふべし。』
とて與へたるゆゑ、食ひたる所、味、美《うま》くして、今に、口中に、その甘み殘りて忘られず、且《かつ》、少しも空腹なること、なし。
又、僧の云ひしは、
『汝は、貞實なる者なれば、愛宕へ往きて籠《こも》らば、善き尼と、なるべし。追々《おひおひ》、諸方を見物さすべし。讚岐の金毘羅へも參詣さすべし。』
など、心好《こころよ》く申されたる。」
よし云《いひ》て、歸庵の翌日も、又、
「僧の御入《おはいり》じや。」
と云ゆゑ、見れども、餘人の目には、見へず。
因《よつ》て、
「これ、天狗の所爲《しよゐ》。」
と云《いふ》に定め、新尼を親里《おやさと》に返し、庵をば、出《いだ》せし――
と、なり。
或人、云ふ。
「是《これ》まで、天狗は、女人《によにん》は取行《とりゆ》かぬものなるが、世も澆季《げうき》に及びて、天狗も女人を愛することに成行《なりゆき》たるならんか。」
■やぶちゃんの呟き
「嵯峨天龍寺」「瑞應院」右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。但し、塔頭「瑞應院」は現存しない。
「印宗和尙」不詳。
「天龍寺の領内、山本村」距離の近さからは、現在の亀岡市篠町山本であろうか。但し、幕末には亀山藩領であった。また、尼僧らの庵があったとすれば、殆んどが山林なので、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)に限られる。ロケーションとしては納得出来る。
「遠離庵」「をんりあん」と読んだ理由は「厭離」と音通するからである。
「哺時」は午後の非時(ひじ)である「晡時」。音は「ホジ」で申(さる)の刻。現在の午後四時前後を指す。但し、広く「日暮れ時」を言うので、ここは「ひぐれどき」と訓じている可能性もある(「東洋文庫」版ではそうルビを振る)。但し、私は、ここは尼寺でのシチュエーションであるからには、「晡」ではなく「哺時」(ホジ:食事の時間。本来は仏僧は午前中一回の食事しか摂らず、それを「斎(とき)」と称するが、それでは実際にはもたないので、午後に正規でない「非時」として晩飯を摂る)の意であると(同じく午後四時頃になる)考える。
「淸瀧村」現在の京都市右京区嵯峨清滝町(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧山本村からは、相応な尾根を幾つも超えた場所ではある。
「芴然」の「芴」は「野菜」、特に「蕪(かぶら)の類」を指す。私は根茎の白さで、「青白い顔つき」ととる。
「澆季」現代仮名遣「ぎょうき」。「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で、原義は「道徳が衰え、乱れた世」で「世も末(すえ)だ」と嘆息するところの「末世」(まっせい)を指す。単にフラットな「後の世・後世・末代」の意もあるが、ここで静山が言っているのは、鎖国で閉塞して爛れきった江戸時代の末期の世相を前者として捉えていたものでもあろう。
最後に。私は、この怪異は擬似的なもののように思われる。則ち、『柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)』の注で述べた通りで、寧ろ、佯狂(ようきょう)を疑うのである。善意に解釈するなら、この、なったばかりの若き尼は、実は尼になりたいなどとは思っていなかったか、同じ修行の尼僧らとの関係に於いて、実は激しいストレスを持っていたことから、一種の精神的な拘禁反応による心因性精神病から、ヒステリー症状を発し、突発的に山中へ遁走してしまい、保護されて庵に戻ってからも、病態が変化しただけで、遂には幻視(僧の来庵)を見るようになったのだ、と診断出来なくもないが、それより、全部が尼をやめるための大芝居だったと考えた方が、遙かに、ずっと、腑に落ちるのである。静山が或る人の言葉を借りて言い添えた最後の皮肉も、実はそうした悪心を、この尼の心底に見たからではあるまいか、とも思われるのである。
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