佐々木喜善「聽耳草紙」 四四番 御箆大明神
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。この標題の「御箆」は本文にも「ちくま文庫」版にもルビがない。本文中での、使用法から、所謂「へら」で、竹・木・象牙・金属などを細長く薄く平らに削り、先端を少し尖らせた、或いは、平たく薄めにした道具で、布や紙に折り目や印をつけ、又は、物を練ったり、塗ったりするのに用いるそれである。されば、「おんへらだいみやうじん」と読んでおく。或いは「おへら」かも知れない。]
四四番 御箆大明神
或所に大法螺吹きがあつた。あまり僞言(ボカ)ばかり吐き步くものだから、世間では誰も相手にする者がなくなつて、ひどく貧乏になつた。法螺吹きもその事にやつと氣がついて、これは不可(イケ)ない。俺も何とかして世間並の付合ひが出來るやうにならなくてはいけないと思つて、改心して、村の觀音堂へ行つて、七日七夜のお籠りをした。そしてどうぞ觀音樣もうし、俺を世間並の眞人間にしてクナさいと願つた。
一夜二夜三夜とお籠りをして、七日七夜の滿願の日の朝になつたけれども、別段これぞと云ふ靈驗(シナシ)もなかつた。そこで少々向つ腹で、ぶらぶらと御堂の前坂を下《お》りて來ると、偶然に鳥居の下に赤い小箆《こべら》が一丁落ちて居た。ぜえツこんな物かと思つたけれども、いやいやこれでも何かの役に立つこともあるかと、それを拾つて、ふところに入れて、又ぶらぶらと廣い野中を步いて行つた。すると急に裏心がさして來たので、路傍の藪蔭に入つた。そして用をすませてから何かないかなアと思つて、腰のあたりを探ると、先刻《さつき》の小箆に手が觸れた。仕方がないからそれで尻を拭いた。するとお臀《しり》がいきなりこんな調子で鳴り出した。[やぶちゃん注:「裏心」にはルビがなく、「ちくま文庫」でも振られていない。普通なら、「うらごころ」と読むところだが、実は「心」自体も「うら」と読む。従って、私はここは「うらががさして來た」ではないかと考えた。「心(うら)」は一般的には、「うら悲し」「うら淋し」「うら荒(さ)ぶ」等のように、形容詞・動詞に付いて、本来は、「心の中で・心の底から」の意を表わし、さらに。その意が弱まって、「何ということなく・何とはわからず・おのずからそのように感じられる」の意を表わす。されば、ここはシチュエーションから「何となく、便意を催して、何んとも我慢出来ずなった」ことを言っているものと判断した。]
オツポコ
コツポコ
すツてンねンジン
白樂源治のさんがんか
淸水觀音の六角堂の
鳴らば鳴れ鳴れ
タケツ
シツチリ
四五六ろツパイ
ガタビチ
ガタビチ
法螺吹きはひどく魂消《たまげ》てしまつた。これはことだ。ナゾにするこつたでエやい、と思つたがどうすることも出來なかつた。閉口して呆氣《あつけ》にとられて其の箆を見ると、其の箆は片面が朱塗りで片面は黑塗りであつた。これには何か譯があることだべと思つて、今自分が拭いた赤い方ではなく、裏の黑い方でテラリと撫でて見ると[やぶちゃん注:自分の「尻」を撫でたのである。]、今迄の大變な鳴り音がピツタリと止まつてしまつた。フフンこれは成程面白いものだと思つた。
法螺吹きどのは、それを持つてぶらぶらと町の方へ行つた。すると町端《まちはづ》れにジヨヤク馬(雌馬)が一匹、ざアざアと小便をして居た。そこで試みに其の小箆で、テラツと馬の尻を撫でてみる。と、案に違はず、
オツポコ
コツポコ
すツてンねンジン
とそれが馬の尻であれば尙更どえらい音を出して鳴り渡つた。小店前《こみせまへ》に腰をかけて、辨當の蕎麥燒餅を食つて居た馬主《うまぬし》は、飛び上つて魂消て、ああこの馬が何(ナン)に憑《つ》かれたべやい。事なことア起つた、山伏法印樣さ行つて來なくてはならぬと、大騷ぎで狼狽(アワ)て出した。そこで法螺吹きは、何これしきの事でさう騷ぎなさんな、俺が直してやるからと云つて、蔭へ廻つて、例の小箆の裏の方でテラリと撫でると、ぴたツとその大きな鳴音《なりね》が止まつた。馬主はひどく喜んで、法螺吹きに酒を買つてお禮をした。法螺吹きはますますこれはいゝ物だと喜んで家に歸つた。
法螺吹きと同じ村の長者どんに美しい娘があつた。法螺吹きは、かねて其の娘に惚れていたが、言ひかける折りが無くて、愁へて居た。そして何とかして娘の聟殿になりたいものだと常に考へて居た。
そこで或る夜、長者どんの雪隱《せつちん》に忍び入つて匿れて居ると娘が小走りで入つて來た。法螺吹きは待ちかねて居たので、物蔭からそろりと出て、娘の白い尻を小箆でテラリと撫でた。するといきなり
オツポコ
コツポコ
すツてンねンジン
ガタビチ
ガタビチ
と鳴り出した。娘はひどく魂消て、おいおいと泣いて奧の座敷に駈け込んだ。それから娘の鳴物《なりもの》が一向止め度《ど》なく夜晝さう鳴り續けるので、お笑止(カシ)がつて、靑くなつて、座敷から一向出ハらなくなつた。長者どんではそれで大騷ぎが持ち上つた。型通り醫者よ法者よと呼び寄せて手を代へ品を代へ療治をして見たけれども、何の甲斐もなかつた。仕方がないから門前に高札を立てゝ、此家の一人娘の不思議な病氣を直した者には、何でも望み次第と云ふ文句を書きつけた。
其の立札を見て、日々每日(ヒニチマイニチ)、俺こそ、俺こそと云つて、いろいろな人がやつて來たが、誰一人として滿足に行(ヤ)つた者がなかつた。一家親類が寄り集まつて、顏を集めて靑息ばかり吐いて居た。其所へ法螺吹きが行つた。そして俺は表の高札の文句の事で來たのだが、娘樣の病氣を直して見せると云つた。長者どんでは、來る者來る者必度(キツト)さうフレ込んで來るので、またかと宛(アテ)にもしなかつたが、表の高札の手前もあるものだから、ともかくも、そんだらと云つて、法螺吹きを奧座敷に通した。
法螺吹きが奧座敷へ通《とほ》つて見ると、あたりに金屛風を立て廻《まは》し、大勢の法印や醫者どもが詰めかけて、皆靑い面をして居た。そして俺達でさへ此の病氣は直せぬものを、お前の樣な素人になんで直せるもんかと、云ふ顏をして、じろじろ見るのであつた。その態(サマ)を見ると可笑《をか》しくてならなかつたが、我慢をして、娘の側に摺《す》り寄つた。そして周圍にさらりと屛風を立て廻させて、何所からも見えなくして置いて、娘の小さい尻を、小箆でテラリと撫でた。すると今迄あんなに大鳴りをして居つたものが、蓋をしたやうに、ぱたツと止まつてしまつた。娘は、あれやツ、おら直つたツと云つて、踊を踊つて奧座敷から駈け出した。長者どん夫婦も大喜びで、お蔭樣だ、お蔭樣だと云つて小踊りをした。其所に控ひて[やぶちゃん注:ママ。]居た者は面目玉《めんぼくだま》をつぶしてしまつて、こそこそと何時《いつ》の間にか、皆逃げて居なくなつて居た。
斯《か》う云ふ譯で、法螺吹き男は遂に長者どんの聟殿となつて、えらい出世をした。それも何もかにも其の小箆のお蔭だと謂ふので、後でそれを神樣に祀つて、御箆大明神樣と申し上げた。
(二番同斷の五。)
此の話は拙著、紫波《しは》郡昔話の中の(九九)にも朱塗小箆、もんぢやの吉片[やぶちゃん注:ママ。]噺《ばなし》其の四、として其の類話を出して置いた。其の方の話では、法螺吹き男に當るのが、モンジヤの吉と云ふ博突打《ばくちう》ちになつて居《をり》、石地藏樣と博打をして朱塗小箆を取ることになつて居る。そして娘の尻の鳴り樣《やう》も違ふ。これも人によつて態々《さまざま》に聽き覺えて居るたうである。私の母の語るのを聽くと、
ヒツチコ
ケエツチコ
トンゲエヂイ
あひうちうちの團扇は
淸水觀音の御夢想だ
ドツチビチ
ドツチビチ
と鳴つたと云ひ、又村の字野崎の佐々木長九郞と云ふ爺樣のは、斯う語つて居た。
ぶりつぶウつ大佛
スツポンベエチ
淸水ノ觀音堂の
六角堂の太鼓の皮にも
鳴らば鳴レ
鳴らば鳴レ
さくらくデツチの三貫かェ
ゴフクヤミにア
こツたんない
はくらくデツチのデツチデツチ
ドフンドフン
又村の大洞犬松爺樣の話では、
淸水觀音ヤ
すてビんのウ
どんがらやいッ
どんがらやいッ
ベツチコ
ヘツチコ
と鳴つたと謂ふ。私の「紫波郡昔話」(參照)
[やぶちゃん注:今回の附記は非常に長く、底本通りのポイント落ち全体二字下げで示すと、非常に読み難くなるので、ポイントを落とさず、引き上げて示した。なお、そこで示された佐々木の「紫波郡昔話」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのここから視認出来る。但し、標題は『(九九) 朱塗小箆(もんぢやの吉噺其四)』である(附記の「片」は衍字とも、ちょっとした話ということで「片噺」と佐々木が言い換えた可能性もある)。なお、その附記に出る旧紫波郡内の地名「野崎」「大洞」の読みは判らず、「ひなたGPS」で調べたが、旧紫波郡は広域に過ぎ、私の視力では探すのには無理があり、諦めた結果、位置も判明しなかった。
また、作中に出る囃子のようなものの意味はよく判らない。そもそも「村」が特定されていないから、「村の觀音堂」も判らない。原ソースは遠野での採話だが、だからといって、遠野に限ることは出来ないからである。されば、その妖しい囃子に出る固有名詞なども注は附けられなかった。悪しからず。
「二番同斷の五」「觀音の申子」と同じソースで、そちらの附記には、『遠野町、小笠原金藏と云ふ人の話として松田龜太郞氏の御報告の一。大正九年の冬の採集の分。』とある。]
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