大手拓次 「Glycine の香料」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]
Glycine の香料
やきつくした凝視のかげに、
ふるぃ織布(おりぎれ)をひろげて、またたたみこむ。
海の潮鳴のおとをきき、
魚どものおよぎまはる形を聽く。
さうさうとしてふる雨の腹に、
喪心の神の悲願をたたへて、
うづまきめぐる水の死相をときしめす。
[やぶちゃん注:「Glycine」グリシンは、この場合、フランス語の“glycine” (音写「グゥリィシーヌ」)で、日本固有種である「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。サイト「COLORIA MAGAZINE(カラリアマガジン)」の「藤の花はどんな香り?香水やアロマなどのおすすめグッズも紹介」によれば、『藤の花の香りは、ひと言で表すならば』、『「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」で』、『咲きたての頃にはほのかな香りですが、満開の時期に藤棚へ近づくと、ジャスミンに似たほのかな甘さのあるお花の香りがふわっと漂ってきます』。『とはいえ』、『ジャスミンほどエキゾチックでまったりとした甘さではなく、控えめで奥ゆかしさのあるパウダリーな甘さがあり、「上品」や「気品」といった言葉がよく似合います』。『この品のある甘い香りが、古くから日本人の心を掴んで離さないのでしょう』。『藤の花の香りは人によって感想が異なる複雑な香りでもあります』。『藤の花の香りの香水やトイレタリー』(toiletry:身体の洗浄や身嗜み、嗜好などを目的とした商品の総称。パーソナルケア(personal care)用品とも呼ばれ、基本的に身嗜みのため、身体を手入れするためのものを言う語。当該ウィキに拠った)『などが販売されていますが、じつは藤の花からは直接香料を抽出することはほとんどありません』。『藤の花からは強い芳香を感じますが、実際に抽出しようとするとかなり難しいらしいのです』。『そのため』、『香水などに使われる藤の花の香りは、いくつかの合成香料と天然香料を掛け合わせて作られています』。但し、二〇一二『年には化粧品会社のコーセーが藤の花の香りを解析することに成功しており、香りの成分をもとに藤の花の香りを再現することに成功しています。これから、より忠実に藤の花の香りを完全に再現した香水が登場する日も近いかもしれませんね』とあったから、この拓次の言う「Glycine の香料」は実際のフジの花から抽出されたそれを指すのではないことになる。彼が幻想した藤の花の香りの幻想の「香料」ということになる。それはそれで面白い。因みに言っておくと、この「Glycine」という綴りは、実はマメ目マメ科ダイズ属 Glycine (原種とされるものはツルマメ Glycine soja )の属名として同一であり、これはギリシャ語(ラテン文字転写)「glycys」(「甘い」の意)」が語源であるが、この場合は実の味のことを指すのであろう。大豆類の花が甘く香るというのは、私は聴いたことがないし、ネットで、一応は調べたが、見当たらない。]