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2023/04/12

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「それからそれ」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年二月五日発行の『中央公論』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。但し、前半は下島氏の個人的な趣味の、やや自慢げな話で、芥川龍之介からは、かなり離れて語られてあるが、下島の経歴の一部も知られて、相応には面白い。但し、そうした芥川とは無縁な部分にまで、注を子細に施す気にはならなかったので、一部を除いて、私の知っている人物には、原則(例外有り)、注は附していない。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 なお、私の芥川龍之介の記事を読まれてきた読者は、ピンとくるであろうが、この標題は、芥川龍之介の幼少期からの年上の知人で、キリスト教の信者であった室賀文武氏の芥川龍之介の回想録「それからそれ」(電子化注済み)と同じであることに気づかれるであろう。而して、これは両者の発表が完全に同時期であることから、偶然とはちょっと思われ難く、その題を借りたか、室賀が借りたかであろう。而して、本篇の一番最後になって、室賀氏の話が語られ、コーダとなっているのである。

 

そ れ か ら そ れ

 

 田端の芥川家玄關の門の右手向ひの隅に、いつも屛風が立ててある。その半雙は二枚折銀屛風の既に恐く燒けぼけのした……藤と紅葉の畫のほのかに浮き出た古いもの、また半雙の方は六枚折中屛風に……かなり大さな行草體で、「問余何意棲碧山 笑而不答心自閑 桃花流水杳然去 別有天地非人間」と書いてあるものとである。

 この李白の詩の書いてある而も破れのところどころに見える六曲屛風は、そも芥川龍之介君の奧さん初のお產の產室用として大正九年の春お產の直前、私に是非書いてくれといふので喜んで拙筆を揮つたのである。そしてこの屛風の中で長男の此呂志君が高らかな產聲をあげ、續いて二男の多加志君も三男の也寸志君もまたこの圍《かこ》ゐの内で生れたといふ、因緣淺からざる屛風なのである。

[やぶちゃん注:以上の七言古詩(平仄が合わないので七言絶句ではない)は李白の「山中問答」で、高校の漢文では、大抵、教科書に載る知られた「山中問答」である。訓読すると、

   *

    山中問答

 余に問ふ 何の意ありてか 碧山(へきざん)に棲むと

 笑つて答へず 心(こころ) 自(おのづか)ら閑なり

 桃花(たうか)流水 杳然(えうぜん)と去る

 別に 天地の人間(じんかん)に 非ざる有り

    *

詳しくは、漢詩サイトの中では、古くから最も信頼している、サイト「碇豊長の詩詞」の本篇のページがよい(お名前は「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」のこちらによれば、「いかりとよなが」と読む)。]

 すこやかにすくすくと生ひ立つた長男の比呂志君は、一體たれに似たといふのか並々ならぬ茶目さん型で、よくこの屛風の後ろから玩具の蛇を覗かせたり鬼の面などかぶつて人を駭かしたりしたものだが、演戲中足臺を踏みはずしてころがり落ち、もの凄いお化けさんが、しゆくしゆく泣き出したり……頗るユーモラスな場面も見せてくれた。殊に母君の病床に附添つた看護婦の如きは、この屛風利用の遊戲のために、さんざん惱まされたり笑はせられたりしたものでめる。また多加志君が漸く大きくなるにつれ、相撲はとる、組う

ちがはじまる、遂に也寸志君が產れては、追ひつ追はれつ三巴の一時期が出現して足蹴にされたり押し倒されたりといふ、謂ゆる屛風受難時代を見まもつた私であつた。

 指折り數へて見るまでもなく、屛風も既に十六年の星霜を經たわけだ。この圍ゐの内で生れた兄弟三人の發育するエネルギーによつて、かく大小幾個破れが出現したのを眺めてゐると、一寸センチメンタルな感じがしないではないが、その底から――古いものはさつさと破れてしまへ。新しい生命は限りなく發展せよ……といふ明朗な感情で一ぱいになる。

 更に故人の書齋へ這入ると、右のなげしの上に「澄江堂」と題する額が掛けられてゐる。これは支那漫遊から歸つて來た芥川氏が、例の我鬼窟を廢して澄江堂としたいから私に書いてくれといふのであつた。が、これは一應辭退した。なぜといふに、當時既に大家として押しも押されもしない盛名をはせてゐたから、も少しその盛名にふさにしい人の手になるものをといふ老婆心の動きと、また一つにはさまざまの人物が出入するから、その批評がさぞうるさからうと思つたからであつた。然しどうしても私に書けといふわけから、やむなく禿筆《とくひつ》を揮つたのがこれである。

[やぶちゃん注:「我鬼窟を廢して澄江堂としたい」芥川龍之介が、この呼称を使い始めるのは大正一一(一九二二)年の春頃で、現在、芥川龍之介の書簡中で「澄江堂」の号が最初に使用されているのは、「芥川龍之介書簡抄110 / 大正一一(一九二二)年(一) 五通」の五通目の小穴隆一宛のそれとされており、クレジットの下方に『澄江堂主人』とある。しかし、下島は「支那漫遊から歸つて來た芥川氏が」と言っている。これが下島の記憶違いでないとすれば、中国特派から帰ったのは大正一〇(一九一一)年七月二十日頃で、下島への揮毫依頼・一度の辞退・再依頼は、この大正十年八月以降であったと考えられる。下島が実際にこの扁額を龍之介宅に持って行った日を記していないのが悔やまれる。

「禿筆」先の擦り切れた筆。ちびた筆。転じて、自分の文章や筆力を、遜って言う。]

 そののち知人から賴まれるがまゝに、額や掛物などまでいゝ氣になつて書いたのであるが、中でも佐藤惣之助氏の螢蠅盧の額は當時芥川氏から傑作として褒められたものである。また德田秋聲翁を額は囑を受けてから三四年ばかりののちに書いたもので、度々催促を受けて閉口やら恐縮やらをした覺えがある。猶自笑軒の裏座敷が新築されたとき、主人の依賴によつて茶がけを書いたことがあつた。昨年書いたものゝ中では岩田專太郞君依囑の額がある。これは私の好みの表裝をするなら書いてあげるなどと、わがまゝをいつて書いたものである。

[やぶちゃん注:「螢蠅盧」佐藤惣之助の俳号の一つ。音読みすれば「けいようろ」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの彼の句集「螢蠅盧句集」(昭和八(一九三三年刊)の扉を見ると、「螢蠅盧」には「そうのすけ」とルビが附してある。]

 雑誌の題簽は神代種亮君に賴まれて「書物往來」が初めてであつた。また室生犀星君のため同人雄誌「驢馬」の題簽を書いたが、これは讀賣新聞などで大變褒められて、何だか氣恥かしいやうな……併し惡い心持ちはしなかつた。驢馬といへば――堀辰雄、中野重治窪川鶴次郞の諸氏及び窪川稻子夫人等がこの襍誌出身の作家であることを考へると、轉《うた》た今昔の感に堪へない。

[やぶちゃん注:「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は「こうじろたねすけ」と読まれることが多いが、名は正しくは「たねあき」が正しい。書誌研究者・校正家。「校正の神様」と称され、芥川龍之介の作品の校正も多く手掛けているが、勝手に文章を弄ったりして、芥川龍之介もブチ切れたことがある。詳しくは、私の「澄江堂遺珠 神代種亮 跋 図版目次 奥附」の私の注を参照されたい。

「窪川稻子」作家佐多稲子のこと。戦後に窪川とは離婚している。]

 かなり書いた書籍の題簽のうち、室生犀星、久保田万太郞、佐藤惣之助氏などの著書竝《ならび》に啄木全集などはその出來ばえの良不良に拘はらず、何か忘れることの出來ないものが殘つてゐる。

 私が當時不用意に書いたこの澄江堂の額が、意外や文學者や詩人の間に評判となり、これが動機となつて、やがて一廉《ひとかど》の書家か何かでゞもあるかのやうな虛名を傳へられ、而も書についてのラヂオ放送までやらせられ、彼《か》の書家と稱する偉らさうな變な人たちの一部から、一寸反感まで買つたのであるが、いまこの額に對してその稺拙《ちせつ》を恥ずるよりも、もつと別な感情のゆらめきを自覺する。

 猶書き添へておきたいのは、嘗て文展時代に寺崎廣業門下の女流畫家として有名だつた河綺蘭香女史から、半切《はんせつ》へ何か書いてくれと依帳を受けていたが、それを果さぬうちに病歿された。そこで私の好きな王維の詩を書いて棺《ひつぎ》の中へ納め、聊かその責を果したことがある。また芥川氏の叔父竹内氏からも生前書の囑を受けて果さず、歿後靈前に供へてお詫びしたのであつた。

[やぶちゃん注:「芥川氏の叔父竹内氏」芥川龍之介の伯父(実母フクの兄)で、養父芥川道章の弟(その関係では龍之介の「叔父」に相当する)であった芥川顯二(大正一三(一九二四)年に死去している)の養子であった竹内仙次郎。因みに、彼は芥川の実家であった新原家の女中であった吉村ちよ(明治二九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年:長崎県五島の生まれ)と結婚している(大正一一(一九二二)年四月。但し、たった四ヶ月で離婚し、龍之介の義兄西川家(龍之介の実姉ヒサの二番目の夫で例の鉄道自殺した弁護士)の女中となった。最後に言っておくと、この「吉村ちよ」こそが芥川龍之介の少年時代の淡い初恋の相手であったのである。]

 今もなほ衷心殘念に堪へないのは元高等學呟敎授から文部省へ入り、長く同省に在職、晚年柳樽評釋などを著した國丈學者武笠三《むかささん》氏に對してゞある。同氏は病臥中私に是非俳句を書いてくれといふので、榛原《はんばら》から上等の短暑册を買ひ求め、奥さんがわざわざお持ちになつたので、早速三句ばかりをしたゝめ、(當時は既に帝大附屬病院へ入院、)お見舞かたがた自參のつもりでゐたのであるが、俄かに逝去されたので、終《つひ》に生前の期持に添ふことが出來なんだ。而も靈前にこの短册を獻じたとき、奥さんから大變お待ちかねであつたと承つて遺憾と恐縮とにしばし暗淚《あんるい》のとめあえぬものがあつた。

[やぶちゃん注:「暗淚」人知れず流す涙。非運を嘆き、或いは同情する場合や、無念を偲ぶ場合などに多く用いる。]

            ×          ×

 三つ兒の魂が甦がへつたとでもいふのか、私は近來不思議に畫がかきたくなつて、暇さへゐれば畫筆に親しんでゐる。勿論私の樂しみつゝある畫といふのは、彼《か》の雲林、黃鶴、秋亭、夜半、山中人などの流れの末を汲む謂ゆる文人畫とでも稱すべきやつで、例の南畫家の唱へる偉らさうな標榜や、大げさな氣構へなどとは關係のない即ち、なるべく捕はれない自由な心をもつて、筆墨の匂ひに憧れようといふのである。が、さてやつてみると中々さう思ふやうにうまく行くものでない。

[やぶちゃん注:「雲林」画家で「元末四大家」の一人である倪瓚(げいさん)の号。

「黃鶴」同前の一人である画家王蒙の号。正しくは「黃鶴山樵」(こうかくさんしょう)。

「秋亭」清の商人で画家でもあった方西園か。号印に「秋亭」がある。彼は江戸中期に本邦に渡来し、画技を伝え、谷文晁や渡辺崋山らも大きな影響を受けた。

「夜半」与謝蕪村の師として知られる早野巴人(はじん)の号。正しくは「夜半亭」。

「山中人」芥川龍之介も好んだ江戸後期の南画(文人)画家田能村竹田(ちくでん:芥川龍之介の「雜筆」の冒頭の「竹田」を参照されたい)。画論に「山中人饒舌」がある。]

 私は元來書が好きであるやうに畫が好きで、描くことこそ滅多にたらなんだが、觀る方では支那や我邦に傳はる名畫と稱せらるゝ著名なものや、そのほか有名無名古畫新畫の區別なく、隨分觀てをる方ではなからうかと思つてゐる。のみならず、畫論や美學などといふものさヘ一通りは通讀してゐるので、甚だ烏滸《をこ》の沙汰かも知れぬが、門外者としては多少の知識はあるつもりである。ところは、この鑑識眼や知識のあるといふことが、皮肉にも作畫の上の妨害となりあゝでもなく斯うでもない……謂ゆる、意餘りて筆伴はずといふやうな苦杯を舐めさせられてゐる。

 實のところ、こゝ三四年かなり勉强をしたつもりでゐるが、どうも思ふほどの進步があがらない。隨つて保存しておいてもと思ふやうなものも出來ず、燒却の災危から免れ得るものは滅多にないといふ悲慘な狀態である。然しながら、この一見無駄のやうな努力も決して徒勞だとは思つてゐない。妙なもので、一步は一步一筆は一筆、自《おのづ》から前途が開けてくるやうな氣がするので、人の知らない樂しみも味覺される。

 殊に我ながら不思議なのは、畫をかいてさへをれば雜念が往來しないばかりか、終日紙に向かつてゐても氣力の衰へを感じない。だから時として飯を食ふことも茶を喫むことも、人の來訪すら忘れることがある。そして出來たものが、聊かでも意に叶ふところがあれば一寸幸福を感じる。が、不出來であつても必しも失望するやうなことはない。要するに私の畫業は自分自身が描いてゐる間の樂しみを味へば足りるで、その出來不出來……即ち結果はどうでもかまはなぬといふ極端なエゴイズムの獨樂《どくらく》世界といつてよい。

 唯困るのは、少し氣短かなたちで、どうも畫の完成を急ぐ傾向がある。これは山水畫などには尤も禁物で、彼《か》の昔の支那人や大雅や竹田のやうに十日に一水五日に一石などといふ氣長いまねは出來ないまでも、兎に角さういふ悠然たる態度でかけるやうになつたら、その樂しみも一段深いであらうと思ふが、そこまでまだ一寸距離がありさうだ。

 私は小僧のとき、ほんの僅かの間ではあるが、彼の有名な改進黨の名士沼間守一《ぬまもりかず/ぬましゆいち》先生の玄關子《げんくわんし》兼《けん》新聞讀みをしてゐたことがある。先生は當時既に腦溢血に罹られ、痛ましくも半身不隨言調不自由の病軀を根岸の妾宅に橫たへてゐられたころである。或とき先生が私に前途の志を訊ねられたので、政治家も面白いと思ふが、どうも畫が好きで困ると答へたところが、それなら美術學校が出來てゐるから、そこへ這入つたらよからう……私が出來るだけ援助してやる。といはれたので非常に喜こんだ甲斐もなく急死されて了つたので、私の運命は急轉廻のやむなきに至つたわけである。若しそのとき先生が生きてゐられ……そして藝術學校へ這入つむたとすれば、たしか橫山大觀畫伯などと同期ではなかつたかと思はれる。あるとき芥川龍之介君にその話をしたら、同君は非常に興味を覺えたらしく――あなたが畫かきになつてゐられたら果してどういふ位置を占めてゐられるだらう……などと、彼一流の想像を逞しうして獨りで悅に入つたことがあつた。

[やぶちゃん注:「沼間守一」(天保一四(一八四四)年~明治二三(一八九〇)年)は幕末の幕臣にして、明治期の政治家・ジャーナリスト。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「玄關子」玄関番。書生。]

 大觀畫伯と芥川氏とは別に何等の交涉もないやうに思つてゐたが、あるとき偶然と芥川氏は、先日大觀畫伯を訪問したが、そのとき同氏のいふのに、あなたは畫かきとして大いに見込があるから、私の弟子になつてはどうかと云つたといふので、……大觀は豪傑だね……何を根據にあゝいふことが言へるのだらう……僕も小說家として今は相當の位置にゐるつもりだが俺の弟子にならんかと、ズバリ平氣でいふんだから偉いものだ、とつくづく感心してゐた。

            ×          ×

 今はもう一昨年の秋のことでめる。大森は馬込の新居魚眠洞室生犀星を訪問すると、庭の榴柘《ざくろ》の古木にアツといふほど見事な實が累々と燿《かがよ》つてゐる。たまらなくなつた私は早速、その最も優れた一枝を手帳の端に寫しておいた。そして何時か畫にしようと思ひながら其まゝ忘れるともなく忘れてゐたが、昨夏彼が新刊の隨筆集文藝林泉を贈られたので讀んでみると、その日記の中に、私が訪問して庭の榴柘を寫生したと書いてあるのではないか。そこで早速色紙に描いてみたが、相當にかけたやうに思つ

たから、彼が輕井澤から歸るのを待つて持つて行つて見せた。ところが非常に出來がいゝとお世辭をいつて喜こんでくれたのはいゝが、――これも空谷忌に昔を偲ぶ料《れう》となるんだな……といふのである。私はすぐ――冗談でせう、犀星忌の思ひ出の料にならないと誰が保證出來るだらう……とやり返して、奧さんともども笑つたのであつた。

[やぶちゃん注:「文藝林泉」昭和九(一九三四)年中央公論社刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のこちらで「日錄」の十月四日の条に確認出来る。]

 一體犀星氏はさういふことをポツリと平氣でいつてのける僻《くせ》がある。以前にも何かのをりに、――あなたは信州に墓があるのだが、束京へもどこかへ分骨しておくのだな……さうしないと空谷忌をやるのに都合がわるいなどといふのであつた。

 だが、これは彼がこの老人に對する美しい友情の發露で、いかにも犀星氏らしい心づかひだと思つてゐる。

 墓のことで思ひ出すのは、大正十五年の春私の娘が十四歲で病死した。平常可愛がつた芥川氏をはじめ犀星氏や久保田氏が自分の子供のやうになげき悲しんでくれたのである。また告別式には菊池氏や菅《すが》氏なども來て下さるいふやうなわけで、何のことはない少女文藝葬のやうな觀を呈し、大いに面目をほどこしたことであつた。それにつけてを當時、供物として脇本樂之軒氏から贈られた春蘭が、すがれながらに三つの蕾を孕んで、現に私の机の傍らに寂しい影をつくつてゐる。

[やぶちゃん注:「私の娘」養女であった小学校六年生であった下島行枝さん。肺炎で急逝した。実はこの前後の部分は、先の「芥川龍之介書簡抄132 / 大正一五・昭和元(一九二六)年四月(全) 八通」の「大正一五(一九二六)年四月九日・田端発信・東京市外中目黑九九〇 佐佐木茂索樣・四月九日夜 市外田端四三五 芥川龍之介」で電子化して、注をつけてあるので、是非、見られたい。

「脇本樂之軒」(わきもとらくしけん 明治一六(一八八三)年~昭和三八(一九六三)年)は美術史家。山口県出身。本名は十九郎(そくろう)。藤岡作太郎に国文学、中川忠順に美術史を学び、大正四(一九一五)年、美術攻究会(後の東京美術研究所)を設立し、昭和一一(一九三六)年には機関誌『画説』(後の『美術史学』)を創刊した。昭和二十五年、東京芸大教授。重要美術品等調査委員・国宝保存会委員も務めた。著作に「平安名陶伝」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。」

「菅氏」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)。ドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注を参照されたい。]

 遺骨は鄕見信州上伊那郡中澤村字原區の、恰度村の臍にでも相當する丘の裾の墓所に埋葬した。當時芥川室生久保田の三氏から贈られた悼亡句は、早速娘の晚年の手すさびに成る、刺繡の薔薇の花を配して帛紗《ふくさ》に染めぬき、學校の先生朋友知人そのほか緣故の方々ヘ記念として贈つたのであつた。その悼亡句は

   更けまさる火かげやこよひ雛の顏   龍之介

   うちよする浪のうつつや春のくれ   万

   若くさの香の殘りゆくあはゆきや   犀 星

 その後私の考案になる墓碑を建てたのであるが、材は鄕里三峯川《みぶがは》產の堅質《けんしつ》できめのこまかい光澤ゆたかな靑石を撰び、刻は久しく谷中天王寺前で修業したといふ石工の技術、表面の戒名は私の自筆、その裏面に三氏の俳句を肉筆さながらに彫刻したもので、一寸類の尠ないハイカラな形ちと趣きを現はした墓碑だと思つてゐる。

 この墓碑が建てられたといふことが知れると、文學好きな地方靑年や學校の敎師諸君なとが見に來るばかりでなく、紙に摺つて持ち歸る人さへ多く、今では一寸名高いものゝ一つになつてゐるさうである。

            ×          ×

 私の親しい友人に北原大輔といふ人物がゐる。藝術學校の邦畫科出身であるにも拘はらず、畫かきにならずに現に帝室博物館美術部陶磁器の主任を勤め、その道の天才としてかくれもない有名なもので……而もまた中々の變り種である。どう変つてゐるか……?一枚の端書を書くのに七八枚を費やすことがあつたり、外出の誘ひ出しにいつて便所へ這入つたのを見たら、一度自宅へ歸つて休息してから出なほして恰度いゝ、といふ變り方である。

[やぶちゃん注:「北原大輔」「北原大輔 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)のこちらの記事によれば、『陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は』昭和二六(一九五一)年五月二十二日、『脳溢血のため』、『北区の自宅で逝去した。享年』六十二『歳。明治』二二年五月十七日、『長野県下伊郡郡に生れ』、大正七(一九一八)年三月、『東京美術学校を卒業、同』十一年七月、『帝室博物館に入つて以来』、昭和一三(一九三八)年十一月に『監査官補を退くまで勤務し、引続き』、『学芸委員を仰付かつた』同十五年一月、『重要美術調査委員を依嘱され、戦後』の昭和二五(一九五〇)年十二月には、『文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前』、『東京美術研究所、又』、『日本陶磁協会にも関係した』とある。]

 私は嘗て北原氏を芥川氏に紹介するために、ある夏の夕方つい近いところの澄江堂へ同伴したのである。つがれた冷酒を舐めながら、滾々として盡きない談話は翌午前一時になっても終熄する氣色がない。私は睡魔に堪へずお先きにご免を被つたのであつたが、翌朝氣になるので訪ねてみると、いま歸つたといふのが午前の七時である。――芥川さんは中々面白い話をする人で……などとニヤニヤしてゐるではないか、一體初對面の人のところで徹夜をして憚らぬ北原氏は、さぞ不敵な面構へでもしてゐるかと思へぱ、その實一見女にしても見まほしい蒲柳のやさ男なのである。

 このやさ男は見かけによらぬ中々の酒豪で、今でこそ洒量大いに減じ、人物として重厚溫雅の氣品を加へたが、靑年時代は相手さへよければ二三晝夜ぶつ通して飮み明すことなど平氣なもので、然も論議飽くまで强靭、敢て人に屈することを知らない剛《かう》のものだつた。彼の好敵手脇本樂之軒とは、獻酬夜を徹することも屢々であつたが、あるときの如き論爭盡きざるがため遂に腕力をもつて解決せんと、見るからに堂々たる偉丈夫樂之軒と格鬪し、而も一步も讓らず互に力盡きてはじて和解の飮みなほしをしたといふ珍話もある。

 京都では自分の宿泊してゐる宿屋の所在を忘れ、とんだドン・キ・ホーテを演じたり、また洗足の友人を訪ねての歸りには電車に寢込んで、山の手省線を二三回廻つて終電の田町で逐ひ出されやりしたさうである。

 分けても有田伊萬里の古窯蹟發掘に出かけたときには、袴羽織に日より下駄、どこの旦那かと思ふやうな風體をして、自ら鋤《すき》を把《と》るといふ三昧《ざんまい》ぶりを見せ、人夫の疲勞も何のその、雨中提灯の光りで夜の十時過ぎまで作業を强行し、ヅプ濡れの泥まみれとなつて僻村の一軒荼屋にころげ込み、衣類を乾かしながら地酒のまづさをつくづく味ひながら、蚤にさゝれて夜を明かしたといふのだから、如何にも北原式を遺憾なく發揮したわけである。

 芥川氏は北原氏のすみきつた徹見力と外柔内剛、人にも物にも容易に許さぬ奧そこの粘り强さを賞揚し、――我々小說家の中には、あゝいふ飛び放れた偉いものはゐない……といつてゐたのだつた。

 北原氏は元來小說の食はず嫌ひで、――芥川さんは非常に頭のいゝ學者で而も得難い人物だが、あの人にしてなぜ小說なんか書くのだらう……實にをしいものだ、といつてゐたでは何になつたらと聞けば、――大學敎授にでもすると素的《すてき》だがなあ……と、いふのであつた。

 大觀畫伯は芥川氏を俺の弟子にならんかと勸め、北原氏は大學の敎授にしたいといつてゐるが、この優れた兩《りやう》象形《ぞうけい》藝術家の文學者芥川龍之介に對する態度は、一寸輿味ある問題だと思つてゐる。

 

 これもしたしい交友の變りだねに、クリスチアンの人室賀文武《むろがふみたけ》春城《しゆんじやう》いふのがゐる。これはもと芥川龍之介君の生家畊牧舍《こうぼくしや》の牛乳搾りをしながら、政治家を志して勉學したのださうであるが、當時乳兒の芥川氏を背負ひ愛撫措《お》かなんだといふ因綠の人物である。

 その後政界や政事家といふものゝ腐敗の狀態に、つぐづく愛想をつかし飜然、彼《か》の有名な宗敎家内村鑑三先生の門に入り、熱烈なるクリスチアンとなつたのであるが、彼は牧師的の宗敎家たるに甘んぜず、專ら實踐的な行動を志すのあまり、暫く行商生活などを送つたさうであるが、この間《かん》詩人の一面をも發揮して俳道に精進し、既に二十年以前に春城句集の發表をしてゐる。また久しく銀座の米國福音會社にあつて事務やら宿直やらの任に服し、傍ら俳句を作つてゐたが、昭和七年たしか六十五歲で會社を辭し、多摩河畔に一小庵を卜《ぼく》して神に仕へながら讀書と俳句に餘念なしといふ、一寸羨やましい仙人生活を營んでゐる。

[やぶちゃん注:「春城句集」大正一〇(一九二一)年警醒社書店刊。芥川龍之介が「序」を書いている。国立国会図書館デジタルコレクションの原本のその「序」をリンクさせておく。これは、室賀の晩年の状況を記した自筆書簡が引用される、敗戦後に書かれた『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その31) /「三十一 室賀老人のこと」 附・芥川龍之介の室賀文武「春城句集」の序』で電子化もしてある。]

 彼は妻子なくまた親類らしい親類もなく、洵《まこと》に天涯孤獨の……いや神と共にありといつてゐる一俳人である。常に炊事の煩《はん》を避けて餅や芋や菜つ菜や果物を常食とし、飯はよくよく食ひたいときのほか炊かぬといつてゐる。兎に角一ケ月六七圓の生活費で充分だといふのだから、その簡易生活のほどがわかると思ふ。

 彼が多摩河畔に居を卜するとき、――何をして生活するかと聞いたところが、自分は節約生活さへすれば、生涯人の厄介にならぬだけの蓄財がある。即ち食ふに事缺く心配はないつもりだから、神に仕へる傍ら俳句を作る。そして、聞く人があつたら神の道を說いて聞かせたいが、聞くものがなかつたら、多摩の川原の石ころにでも說いて聞かせるといふから「石に說くひじりもをはす櫻かな」といふ即興を贈つたころが、非常に喜こんで現に軸に仕立て掛てあるさうである。彼は最近その後の作句を撰び、第二句集を自費出版するさうで、私に題簽を書けといつて來てゐる。

[やぶちゃん注:「第二句集」本篇が公開された三ヶ月後の昭和一〇(一九三五)念五月に「第二春城句集」として向山堂書房から刊行されている。国立国会図書館デジタルコレクションの表紙画像はここ。而してこの標題のそれは、下島が言った通り、彼が揮毫したものである。同書の目次の前のある室賀の「附言」の最後の条を見られたい。]

 彼はさすが靑年時代政事家志望でありまた宗敎家だけあつて、今でも社會事業や國際關係などには一寸注意を拂つてゐる。一昨年の暮には米國移民法やそのほか日本に對する米國政府の態度があきたらるとろこ[やぶちゃん注:「ところ」の誤植。]があるといふので、恩師内村鑑三全集の内の英文二卷に自分の意見を添へ、親しくルーズベルト大統領に送つだのであるが、昨年一月その返事があつた。譯文は――

 

 親愛なる室賀殿

 大統領は十二月一日附貴殿の御書翰を讀みて大いに心を惹かれ御書を下されし事に對し衷心御禮申上ぐべき旨私に命ぜられ候大統領は貴殿が御親切にも御送呈下されし故内村鑑三氏全集中の二巻を有難く拜受仕り良き機會を得て之を讀まんと願ひ居り候大統領は貴殿の御友誼と御好意のこの表明に對して眞實感謝仕り候 敬具

     ワシントン白堊館にて 秘書

           エム・エー・ルハンド

  一九三四年一月十一日

 多摩河畔の見るもいぶせき草庵に隱れ、齡七十近い殉敎者のやうな一俳人が、何んのためにかひそやかに、斯ういふ粘滑油の點滴を試みてゐるといふことを誰が知つてゐるであらう……。

          (昭和一〇・二・五・中央公論)

[やぶちゃん注:室賀のこのルーズベルトへの書信と返答のことは、かなり前に知っていた。しかし、芥川龍之介の死後の話であり、特にそれを挙げるべきとは私は思わなかっただけである。しかし、ここでこうした室賀文武の行動がいくたりかの人に新たに知られ、彼の俳句が読まれ(私は残念ながら評価していないが)、その人の再評価がなされれば、芥川龍之介もまた、喜ぶであろう。]

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