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2023/04/21

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川龍之介の書𤲿」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和一〇(一九三五)年三月九日発行の『文藝春秋』初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。なお、「𤲿」と「畫」の混在はママである。]

 

芥川龍之介の書𤲿

 

 文士學者必ずしも書𤲿の愛好者ではあり得ない。現代の文士殊に小說家には、案外この方面に無頓着といふより寧ろ、かういふものを輕視したり、或は强ひて近づけない人すらあるかのやうに思はれるが、それむあながち理由のないわけではないらしい。

 芥川君も藝術感情からは、化政度の文人趣味などを單なる道樂といふ點から輕蔑の餘り「妄に予を以て所謂文人と倣《みな》すことなかれ。予を以て詐僞師と倣すは可なり。謀殺犯人となすは可なり。やむを得ざれば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と倣すこと勿れ。十便十宜あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり」と憤慨してゐる。

[やぶちゃん注:「化政度」「化政文化」を指す。江戸後期の文化・文政時代(一八〇四年~一八三〇年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化。当該ウィキによれば、『浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。広義の定義では』、十八『世紀後半から』十九『世紀前半の非常に長い期間を含む場合がある』とある。

「「妄に予を以て所謂文人と倣すことなかれ。……」この引用は、大正一三(一九二四)年二月発行の『中央公論』に発表した「梅花に對する感情」(添題「このジヤアナリズムの一篇を謹現嚴なる西川英次郞君に獻ず」)の第四段落の途中の一節だが、所持する岩波旧全集で校合したところ、引用に不全がある。第四段落全体を示しておく。

   *

 予の梅花を見る每ごとに、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐僞師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大學敎授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを竝稱するは所謂文人の爲す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。

   *

以上の「十便十宜帖」(歴史的仮名遣「じふべんじふぎでふ」)は、所持する筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第四巻の注に、『清の文人李笠翁が山地に庵を結び、山居に十便と十宜があることを説いた』(というより、「作った詩の」である。ウィキの「十便十宜」を見られたい)『故事により描』かれた画題で、『この題で大雅と蕪村との合作がある』とあるものを指す。なお、この一篇は、同年九月十七日に刊行した随筆集「百艸」に収録する際し、他に十三篇を合わせて、総標題を「續野人生計事」として、その「十一」に所収させてある。私は、正編「野人生計事」はサイト版で古くに電子化注しており、「續野人生計事」の幾つかも、独立して電子化してあるが、残念なことに、本篇は洩れている。新字であるが、「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。]

 彼は「文學好きの家庭から」の中で「私の家は代々舊幕臣、卽ち御奥坊主だつた、父も母も甚特徴のない平凡な人間です」などと云つてゐるが、どうしてどうして、父君はもと官吏で、一中節・圍碁將棋・盆栽・俳句などのほか、ときに南𤲿の山水を描き、彫刻までやるといふ器用な通人肌の老人であつた。

[やぶちゃん注:「文學好きの家庭から」大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』初出。これは私のサイト版の古い電子化注があるので見られたい。そこで注したものは、ここでは繰り返さない。

「父君」養父芥川道章(どうしょう 嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)は、龍之介を預かった際には東京府内務部技手二級判人官であった。]

 母君といふのは、鷗外先生の筆によつて有名になつた幕末の大通、津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人の姪である。ことによると鳶魚先生あたりでさへ、一寸油斷が出來ないほどの江戶通だつた。然もまた其伯母は、彼《か》の有名な木挽町狩野家の一族、狩野勝玉に嫁《か》してゐる。この勝玉は明治の大家狩野芳崖・橋本雅邦と同門の親友だつたが、惜しむべし早世してゐるらしい。猶早世した叔父の一人は、判事としてよりも、南𤲿家として有名な河村雨谷に就て南𤲿を學んだ人ださうである。

[やぶちゃん注:「母君」養母芥川儔(トモ 安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)。

「津の國屋兵衞即ち津藤で通つた人」細木香以。ここは私の「芥川龍之介 孤獨地獄  正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」を参照されたい(前のリンク先はサイト版であるが、他に同PDF縦書版、及び、同ブログ版も用意してある)。

「狩野勝玉」(かのうしょうぎょく 天保一一(一八四〇)年~明治二四(一八九一)年)は日本画家。駿河出身。深川水場町狩野家の狩野貞信(梅春)の子。名は昭信。狩野雅信(ただのぶ)に学び、維新後は内務省地理局雇となり、外国に贈る屏風などを制作した。また、フェノロサの新日本画創造運動にも加わり、狩野芳崖・橋本雅邦・木村立岳(りゅうがく)とともに「勝川院門下の四天王」と称された。享年五十二であるから、「早逝」と言うのは如何か。芳崖と雅邦は調べれば、すぐ判るので、注さない。

「河村雨谷」姓名は川村雨谷(天保九(一八三八)年~明治三九(一九〇六)年)が正しい。江戸出身。名は応心。司法官にして画家。慶応元(一八六五)年、長崎奉行支配定役となり、在任中に木下逸雲・鉄翁(てっとう)祖門に文人画を学んだ。明治二(一八六九)年、刑部(ぎょうぶ)省に務め、大審院判事に進んだ。明治三一(一八九八)年の退官後は、文人画界の重鎮として活躍した。]

 一體私がなぜかやうなことを擧げるかといへば、元來趣味などといふものは。天禀《てんぴん》の性情はさることながら、多くはその環境から生れて來る情操的なもので、かういふ血緣と家庭に育くまれた芥川君の文學者になつたのも寔《まこと》に自然なことでもあり、又假りに𤲿家となつゐたとしてからが、決して不自然ではなからうと思はれるからである。

 芥川君は既に「我が家の古玩」の中で――「蓬平《ほうへい》作墨蘭圖一幀《いつたう》、司馬江漢作秋果圖一幀、仙厓作鐘鬼圖一幀、愛石の柳陰呼渡圖一幀、巢兆《さうてう》、樗良《ちよら》、蜀山、素檗《そばく》、乙二《おつに》等《ら》の自詠を書せるもの各《かく》一幀、高泉《かうせん》、慧林《ゑりん》、天祐《てんいう》等の書各一幀、――わが家《や》の藏幅はこの數幀のみなり。他《た》にわが伯母の嫁《とつ》げる狩野勝玉作小楠公圖《せうなんこうづ》一幀、わが養母の父なる香以の父龍池《りゆうち》作福祿壽圖一幀等《とう》あれども、こはわが一族を想ふ爲に稀に壁上に揭ぐるのみ。中略――[やぶちゃん注:この「中略――」は下島の注。]。われは又子規居士の短尺の如き、夏目先生の書の如き、近人の作品も藏せざるにあらず、然れども未だ古玩たらず。(半ば古玩たるにもせよ)」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「我が家の古玩」正しくは「わが家の古玩」。遺稿。旧全集では末尾に編者による『(昭和二年)』のクレジットがある。「青空文庫」のこちらで新字であるが、全集類聚版底本のものが読める。

「蓬平」佐竹蓬平(寛延三(一七五〇)年~文化四(一八〇七)年)は画家。信州下伊那郡生まれ。名は正夷。池大雅に文人画を学び、また、篆刻にも優れた。天明三(一七八三)年、肥前長崎から肥後熊本などに遊び、一時は上野(こうずけ)沼田に住んだが、晩年は郷里信濃の飯田で過ごした。

「愛石」(生没年未詳)は江戸後期の画僧。紀伊生まれ。名は真瑞。文化・文政の頃に活躍した。野呂介石(のろかいせき)に学び、池大雅の画風を慕った。水墨・淡彩の山水画を得意とした。

「巢兆」建部(たけべ)巣兆(宝暦一一(一七六一)年~文化一一(一八一四)年)は俳人・画家。江戸生まれ。名は英親。加舎白雄(かやしらお)に俳諧を学び、夏目成美・鈴木道彦とともに「江戸俳諧の三大家」と称された。また、谷文晁の門人でもあり、書にも優れた。

「樗良」(享保一四(一七二九)年~安永九(一七八〇)年)は俳人。鳥羽生まれ。本名は三浦元克。俳諧を百雄(ひゃくゆう)に学び、蕪村一派とも交わり、俳壇の重要な位置を占めた。

「蜀山」太田蜀山人南畝。

「素檗」藤森素檗(宝暦八(一七五八)年~文政四(一八二一)年)は俳人。濃上諏訪生まれ。名は由永。油商人。父や同地の俳人に手解きを受け、後に加藤暁台(きょうたい)・井上士朗に学んだ。同郷の「奥の細道」で芭蕉に同行した河合曾良の百回忌に記念集「續(ぞく)雪まろげ」を刊行。俳画にも優れた。

「乙二」岩間乙二 (宝暦六(一七五六)年~文政六(一八二三)年)は俳人。陸奥白石(現在の宮城県)の千手院住職。本姓は亘理(わたり)、名は清雄。俳諧は父に学び、江戸で夏目成美・鈴木道彦らと交わった。東北・蝦夷地を巡り、箱館で『斧の柄社』を結成し、同地の俳壇の指導に当たった。与謝蕪村に私淑し、最初の蕪村注釈書「蕪村発句解」を著わしたことで知られる。

「高泉」高泉性潡(こんせんしょうとん 一六三三年(寛永十年相当)~元祿八(一六九五)年)は江戸前期に渡来した黄檗宗の帰化僧。姓は林。明の福建の生まれ。慧門の法を受け、来朝して山城に仏国寺を創建、後に黄檗山万福寺第五世を継ぎ、黄檗山中興の祖とされる。「慧林」慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年(慶長十四年相当)~天和元(一六八一)年)は明からの黄檗宗の渡来僧。福建省生まれ。四十一歳で出家し、四十六歳の時、かの隠元隆琦に從って来日した。摂津豊島(てしま)郡仏日寺の住持となり、隆琦の法を継いだ。延宝八(一六八〇)年、山城万福寺三世となっている。所持する「筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」の注では、江戸中期の浄土真宗本願寺派の僧で西本願寺学林四世能化を務めた法霖(ほうりん 元禄六(一六九三)年~寛保元(一七四一)年)を比定しているが、彼は「慧琳」であり、しかもそれは諱であるから、私はとらない。

「天祐」天祐思順(生没年未詳)は鎌倉時代の臨済僧。当初は天台宗を修学し、宋に渡り、十三年間、修行し、大慧派の北礀(ほくかん)居簡の法を嗣いだ。帰国後、京に勝林寺を開いた。通称は真観上人。「筑摩」版もこの人物に比定している。しかし、龍之介は「高泉、慧林、天祐」の順に非時系列に並べてあるところは、何だか、ちょっと違和感がある。]

 然し、猶、このほか先代より傳はるものや、支那から持ち歸つたものなどもあるのだから古人の意志如何に拘らず、古玩と新玩とを問はず、この機會に私の知つてゐるもののあらましを記すことにした。尤も假に生前人に贈つたもので、その出所と人名のわかつてゐるもの、また現在保存されてゐるもので其出所のわかつてゐるものは、それも略記することにした。

 一、龍池作福祿壽圖一幅

 一、勝川法眼《ほふげん》雅信𤲿一幅。

[やぶちゃん注:「勝川法眼雅信」先に出た狩野雅信と同一人物。「勝川」は号の一つ。弘化元(一八四四)年に法眼に叙せられている。]

 一、狩野松玉作小楠公ほか三幅。

 一、谷文晁咋鍾馗圖一幅。母君所藏たりしもの。

 一、曰(わく[やぶちゃん注:ルビ。])人作蛙の圖二幀。現在保存の一點は額仕立にて自身東京にて買ひしもの、他の軸物一點は、岸浪百草居より贈りしを更に室生犀星君に贈りしもの。

[やぶちゃん注:「曰人」遠藤曰人(あつじん 宝暦八(一七五八)年~天保七(一八三六)年)は俳人。本姓は木村。陸奥仙台藩士。松尾芭蕉の門人らの伝記「蕉門諸生全伝」を編集したことで知られる。門人は数千人と言われた。詩文・書画もよくした。ルビの誤植か。]

 一、愛石作山水圖一幅。京都或は東京で買ひ受けしもの。

 一、安田老山作松溪山水圖一幅。父君の得られりもの。

[やぶちゃん注:「安田老山」(文政一三(一八三〇)年~明治一六(一八八三)年)は画家。美濃生まれ。名は養。長崎で鉄翁(てっとう)祖門に学び、元治元(一八六四)年、清に渡り、胡公寿に師事した。明治六(一八七三)年に帰国、東京に住んだ。文人画に優れた。]

 一、兒玉果亭作梅溪山水圖一幅。父君の得られしもの。

[やぶちゃん注:「児玉果亭」(天保一二(一八四一)年~大正二(一九一三)年)は日本画家。信州渋温泉生まれ。名は道広。明治一三(一八八〇)年、郷里に竹僊山房を作り、おおくの弟子を育てた。]

 一、河村雨谷作墨蘭二幅、山水圖二幅、蘆雁二幅、其他一點。亡叔父の得たるもの。

 一、釋宗演書二幅。父君の得たるもの。

[やぶちゃん注:「釋宗演」(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は明治二五(一八九二)年に満三十二の若さで臨済宗瑞鹿山円覚興聖禅寺(藪野家菩提寺)管長となった人物。若狭国大飯郡高浜村生まれ。出家前の俗名は一瀬常次郎。日本人僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られ、山岡鉄舟や福沢諭吉らと親しく、夏目漱石は禅の弟子であり、漱石の導師も彼が勤めた。]

 一、成拙書一行一幅。自身得たるもの。

 一、夏目漱石書二幀。一は額。一は幅。

[やぶちゃん注:「額」は「風月相知 漱石」の書額。『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』の私の注で画像を掲げてある。]

 一、菅白雲額一幀。自身請ひ受けしもの。

[やぶちゃん注:「菅白雲」芥川龍之介の一高時代の恩師でドイツ語学者・書家の菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の号。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことで知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の私の注を参照されたい。]

 一、齋藤茂吉自詠書三四幅。他に壱碧童句讚一幅。

[やぶちゃん注:「碧童」芥川龍之介最年長の友人で「入谷の兄い」と呼んだ俳人の小澤碧童。]

 一、子規居士短册一點。たしか香取秀眞《ほつま》君より贈られしもの。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」芥川家の隣人にして知られた鋳金工芸作家。]

 一、井月稻の花句切れ一點。

[やぶちゃん注:井上井月の知られた一句ならば、「駒ヶ根に日和定めて稻の花」である。]

 一、下島空谷澄江堂書額一幀。

 一、董九如作山水橫物二幅。自身長崎にて得しもの。

[やぶちゃん注:「董九如」(延享二(一七四五)年~享和二(一八〇二)年)は幕臣で画人。本姓は井戸で、名は直道・弘梁。宋紫石(そうしせき)に学んで、清の沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画に優れ、晩年は墨竹を描いた。]

 一、金冬心人物橫物二幅。支那にて得たるもの、一幅は百草居に贈しかと思ふ。

[やぶちゃん注:「金冬心」清代の文人で「揚州八怪」の一人である金農(一六八七年~一七六三年)の号。一生を処士として終わったが、古代の美を愛賞し、その詩文・書画総てに高尚な趣を示す。

「百草居」日本画家岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ 明治二二(一八八九)年~昭和二七(一九五二)年)。館林生まれ。龍之介が親しかった日本画家小杉放菴(未醒)と親しかったので、その関係で知り合ったものであろう。]

 一、吳昌碩作墨蘭圖一幅。上海にて直接買ひしもの、晚年室生犀星君に贈る。

[やぶちゃん注:「吳昌碩」(一八四四年~一九二七年)は清末から近代にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。「清代最後の文人」と称され、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛された、中国近代で尤も優れた芸術家と評価が高い人物である。]

 一、陳寶琛《ちんほうちん》詩一幅。芥川仁兄正書陳寳琛と署するもの。(陳寳琛は支那第一の學者と稱 せられ、滿洲國皇帝の師傅《しふ》たりし人。北京滯在中訪問して古書𤲿なども見せて貰ひ、書を請ふたところ、二三日すると良紙を得る筈だからといつて書いて贈られた立派な書幅である)

[やぶちゃん注:「陳寳琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚・詩人・歴史家。私の「芥川龍之介漢詩全集 二十七」の注を参照されたい。

「師傅」養育係。]

 一、鄭孝胥詩書一幅。芥川仁兄大雅辛酉暮春孝胥と署したもので、北京で書いて贈られしもの。

[やぶちゃん注:「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「十三 鄭孝胥氏」を参照されたい。]

 「我家の古玩」の中に蓬平の墨蘭は、北原大輔君が贈つたもので、蓬平は池大雅の門人の一人だが、芥川君は大雅の氣魄ありとして珍重し、遺書により小穴隆一君に贈つたものである。江漢の秋果圖橫物は、何處で得られたか不明だが恐らく東京かも知れぬ。仙厓の鍾馗圖は、長崎の永見德太郞君から余ほど犠牲を拂つて得たもののやうに聞いてゐる。蜀山人の狂歌の幅は、確か小澤碧童君の贈つたものではないかと思つてゐる。巢兆・樗良・素檗・乙二などは多く俳書堂の賣立《うりたて》で入札したもののやうである。慧林、天祐の書幅は、京都で得たものと記憶してゐる。高泉の軸は、大正八年二月ある靑年𤲿家の手から風外の達磨と天祐の大橫物と同時に私の手に這入《はい》つたものだが、天祐は自笑軒の主人が是非にといふのでお讓りし、高泉は芥川君が欲しいといふのでお讓りしたもので、芥川君が自身で幅物を得られた最初のものである。

[やぶちゃん注:「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「永見德太郞」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。

「賣立」売立会。入札会・競売のこと。書肆「俳書堂」の譲渡に至る内情の話は、OdaMitsuo氏のブログ「出版・読書メモランダム」の「古本夜話1164 高浜虚子、俳書堂、『ホトトギス』」に詳しい。

「風外」風外本高(ふうがいほんこう 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)は曹洞僧。俗名は東泰二。池大雅の書画に私淑した画僧でもあった。]

 愛石の柳蔭呼渡の圖は、或とき私の所へ遊びに來て、懸つてゐたこの軸に惚れこみ、望むがまゝに献上したものである。これは装幀が傷んでゐたのを新しく仕替へ、桐の箱まで作つて私が箱書までしたのであるが、自決當時その室に懸つてゐたといふ、因緣淺からぬ軸なのである。

 芥川君は、大正五年に大學を出られて二三年の間は(一寸學校の英語の先生もしてゐられたが、間もなくやめた)、勿論既に新進氣銳の鏘々《さうさう》[やぶちゃん注:「錚々」に同じ。]たる靑年文士には違ひなかつたが、より以上にあの恐るべき讀書力を以て東西殊に西洋の書物を讀破したもので、その知識慾の旺盛なることは大旱《たいかん》の雲霓《うんげい》にも比すぺきもの凄さだつた。だから繪𤲿や藝術に關する書物をも讀むばかりでなく、ルネツサンス前後から近代に至る有名な繪𤲿の寫眞や複製を買ひ集め(その國の本屋にまで註文して取り寄せ)その知識慾を充たしたものだつた。併し如何に天才兒芥川君も、反《かへつ》てお膝もとの我邦や支那の繪𤲿に就ては、まだまだ幼稚なもので、私のやうなものの話にさへ熱心に耳を傾けられたものである。とは云ヘ、さすがあの天禀《てんりん》をもつて、漱石の門に出入してゐたのだから、幼稚なりに違つてゐたのは勿論である。

[やぶちゃん注:「大旱の雲霓」「ある物事を強く待ちこがれること」の喩え。「孟子」の「梁恵王下」の一節に、「善政を行ってくれる君主を庶民が待ち望んでいることを、『大旱の雲霓を望むがごときなり(ひどい日照りの際に、雨の前兆となる雲や、日暈(ひがさ)を待ち望むのと同じことである)」と喩えたことによる故事成語。]

 大正七年の暮に私が神田の本屋で手に入れた、十便十宜の最初の複製書帖の大雅の𤲿を見て、彼は非常な衝動を受けたのである。といふのは、專らといつていゝくらゐ西洋𤲿の方にのみ氣を奪はれてゐた眼に、思ひも設けぬあるものを發見したからであらう。確か翌大正八年芝の雙軒庵で十便十宜の原帳を見て、今更ながらその駭きを新たにし、同時に蕪村との[やぶちゃん注:「の」は欠字で空白。推定で補った。]對比を心ゆくまで味つたのである。猶このとき多數の竹田《ちくでん》や草坪《さうへい》、山陽《さんやう》なども展ぜられてゐたので、我邦南𤲿の粹を觀賞することが出來たわけである。

[やぶちゃん注:「雙軒庵」実業家で書画骨董を趣味とした松本枩蔵(まつぞう 明治三(一八七〇)年~昭和一一(一九三六)年)の号。彼は後の昭和六(一九三一)年に先に彼が専務取締役であった九州電気軌道の株主の一人から横領罪・背任罪で訴えられ(起訴猶予)、枩蔵から九州電気軌道から収受した書画・骨董品は、売立会にかけられている(ウィキの「松本枩蔵」を参照した)。

「草坪」南画家高橋草坪(享保二(一八〇二)年頃~天保四(一八三三)年頃)は豊後杵築 の商家の出。名は雨。 十九歳の時、田能村竹田の門に入り、師とともに旅を重ね、画技を磨いて、門弟中、最も嘱望されていたが,胸を病み、竹田に先立って早世した。

「山陽」頼山陽。]

 その後翠軒あたりで得た支那𤲿の複製や、我邦で開かれた支那𤲿展の複製𤲿帖、我邦古代繪卷、古𤲿の複製を買ふばかりでなく、(博物館あたりで實物も勿論多少見てゐる)木版の浮世繪の會にまで這入つたのだから、如何に知識慾の旺盛だつたかを窺ふこと出來よう。

 かくてこの天才兒は、不思議にも我が邦の繪畫の鑑賞段階を、現代の軸畫、四條丸山派の繪畫、狩野雪谷《せつこく》派繪畫、土佐派、倭繪《やまとゑ》を一足飛びに乘り越えて、直ちに池大雅に打ち當てだのだからたまらない。「骨董羹」の中で、「東海の畫人多しとい、ども、九霞山磁の如き大器又あるべしとも思はれず」云々と云はせてゐる。また「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、しかし金がないからせいぜい五十圓位な大雅を一幅得たい。大雅の畫品を思へば、たとへ五百萬圓を投ずるも安いといふ點では同じかも知れぬ。。藝術品の價値を小切手や紙幣に換算出來ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである」といつてゐる。また「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。大雅を除けばこの人だと思ふ。山陽の才子ぶりたるは竹田より遙かに品下れり云々」ともいつてゐる。ここに一寸面白い揷話がある。それはあの有名な赤星家の入札會のときであつた。うち連れて見物してあるいたのだつたが、我々にはどれも結構なものばかりで、聊か眩惑を覺えるくらゐだつた。觀覽を了へてさて何か欲しいものがあつたかと問へば、彼の曰く「欲しいの玉澗の蘭だけだ」といふのだつた。――元信も雪舟も牧溪も梁廆楷も馬麟についても何とも云はなんだ。

[やぶちゃん注:「狩野雪谷派」信濃松代藩士で画人であった酒井雪谷(天保四(一八三三)年~明治九(一八七六)年)。ブログ「UAG美術家研究所」の「松代藩の閨秀画家・恩田緑蔭」内の記事によれば、名は妙成。別号に竹蔭甘泉。嘉永末年(嘉永七年ならば一八五四年)に『江戸に赴き』、『藩の下屋敷深川小川町に居住していたが、その頃、松代藩士の樋畑翁輔に絵を習い、その後は歌川広重の門にも入ったという。しばらくして松代に戻り、藩務についてからも絵を嗜み、九代藩主・真田幸教にも絵を教えていたという』とあった。

「骨董羹」大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載された随筆。サイト版で電子化注してあり、また、特異的に私が現代語訳し、当時、高校三年生であった教え子(彼はこの協力を終えた直後に東京大学理科に現役で合格した)の協力を得て作成した、『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―という無謀不遜な試み やぶちゃん』もある。やはり下島の引用には不全がある。当該章を総て引く。

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       大雅

 

 東海の畫人多しとは云へ、九霞山樵の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅すら、年三十に及びし時、意の如く技の進まざるを憂ひて、敎を祇南海に請ひし事あり。血性大雅に過ぐるもの、何ぞ進步の遲々たるに焦燥の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも學ぶべきは、聖胎長養の機を誤らざりし九霞山樵の工夫なるべし。(二月七日)

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私の暴虎馮河訳も添えておく。

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       大雅

 

 本邦に画家多しと言えども、池大雅九霞山樵のような大人物は二人といないと言ってよい。しかしその大雅ですら、三十歳になるに及んで、思い通りに筆が進まないことを憂えて、七十三歳の南画家祇園南海に教えを請うたことがあった。昨今の血気だけは大雅より旺盛な芸術家連が、どうして自身が遅々として進歩しないことに焦燥を感じずにいられるのであろうか、まことに不可思議なことと言わざるを得ない――。ただただ、こうした輩が返す返すも学ばねばならないこと、それは、聖胎長養の機――禅僧が悟達した後も座禅修養を怠らないように、南画の大成者として既に崇められれていた彼が、初心に還って謙虚に南海に教えを請うた、生涯修練という真摯な覚悟の中で選び取った「時」――を誤らなかった九霞山樵の芸術家としての「人生の手法」である。(二月七日)

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『「澄江堂雜記」の中では、「僕は大雅の畫を欲しい、……』大正一一(一九二二)年四月発行の雑誌『新潮』に掲載された最初の「澄江堂雜記」(同題の記事は複数あり、なかなか煩わしい。その読み方の順を私なりに示し、リンクも張ったブログ記事「芥川龍之介 澄江堂雜記拾遺四篇」を参照されたい)の冒頭の「大雅の畫」だが、やはり引用が不全私のサイト版の当該作を見られたい。

『「雜筆」の中では、「竹田は善き畫描き以上の人なり。……』大正九(一九二〇)年の九・十・十一月発行の雑誌『人間』に三回に亙って掲載されたものの、初回冒頭の「竹田」。但し、やはり、恣意的に途中を抜いているので、私のサイト版電子化注「雜筆」でちゃんと見られたい。

「赤星家」美術・骨董の「松本松栄堂」公式サイト内の「赤星家」によれば、『薩摩出身の軍需商人で、薩摩の人脈を使って大砲成金とな』った人物で、『古神戸港の築港工事で大金を得て上京、日清戦争後は海軍が英国に発注した軍艦に取り付ける銃器全般の代理店を偶然つとめて』、『巨万の財を築き』、『その資金力で日本美術を買い占め、鑑識眼に優れた収集家として知られ』たとあり、『息子の鉄馬は自らは美術品の趣味がない為、愛好者の保護を期してそのコレクションを、三度の売立により手放し』たが、『赤星家の売立は、総額三百九十三万八千円となり、戦前の売立で』、『この額を超える売立は鴻池男爵家(六百八十九万二千四百八十六円)のみで』あったとある。

「玉澗」(生没年不詳)は宋末元初の禅画をよくした僧で、八十歳で没したとされる。室町以降の日本では、本文で後に出る牧溪と併称された画僧である。なお、以下の作家は龍之介がここでは関心を持たなかったのだから、私は注する気はない。御自身でお調べあれかし。]

 大正十一年には支那を漫遊したのだつた。上海では有名な吳昌碩を訪問して翰墨談も聞いたらしい。そして墨蘭の力作を貰ひうけた。盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた。北京では陳寶琛や鄭孝胥をも訪ねて種々の話を聞いたり御馳走になつたり、又祕藏の書𤲿なども見せてもらひ、そして前掲のやうな書畫を貰ひうけてゐる。

[やぶちゃん注:「盧山ヘは當時支那漫遊中の竹内栖鳳氏と同伴だつたと書いた廬山の繪はがきを送つてくれた」私のサイト版の「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」には下島宛書簡は、五通、載るが、その「九〇三」がそれ。

「北京」滞在中のことは、私の「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を見られたい。但し、陳寶琛はそちらに出ず、私の前注の書簡にも、また、「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」にも出現しないので、この下島の話は貴重ではある。]

 「支那の𤲿」といふ彼の文章には、「雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀といふ畫帖の雄勁《ゆうけい》な松の圖で、文華段[やぶちゃん注:「殿」の誤植か誤字。それ以上に、この引用は激しい問題がある。後注を参照のこと。]の三四幅は𤲿品の低いものである。わたしは梅道人の墨竹を見、黄大癡《くわうたいち》の山水を見、王叔明の瀑布を見た(王叔明の𤲿は陳寶琛氏藏)。が、頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない云々。――南畫は胸中の逸氣《いつき》を寫せば他は措いて問はないといふが、この墨しか着けない松にも自然は髣髴と生きてゐはしないか、  [やぶちゃん注:二字空けはママ。下島が「……」或いは「――」を打ったのを、誤植で脱記号したか?]モネの薔薇を眞といふか、雲林の松を假《か》と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではあるまいか」といつてゐる。

[やぶちゃん注:「支那の𤲿」以下は大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」である。私はその部分だけを、「芥川龍之介漢詩全集 二十七」(リンク先はブログ版。サイト一括版もある)の注で引用してあるので見られたいが、下島は文章を弄った挙句、「頭の下つたのは雲林の松に及ぶものはない」という半可通な変な表現になってしまっている。表記も引用としては、そこら中に問題があり、これは以上の私の電子化を見て戴かないと、芥川龍之介の真意はまるで伝わらないと言える。

 支那から歸つて來た彼は氣分の上にも多少變化があつたものと見える。その一例は書齋の我鬼窟を改めて澄江堂とするななどがそれである。佐佐木茂索君が「澄江なんていふ藝者にでも惚れたのか」などと戲れたのだつた。不思議なのは澄江堂などといふ支那臭い一名をつけておきながら、芭蕉をはじめ元祿の俳諧硏究などが始まつや。(勿論以から俳諧には深い關心を持つてはゐたが)何だか西洋から支那、それから自分自身の邦へ、といつたやうな感じがないでもなかつた。俳畫や俳句の軸の欲しくなつたのはこの頃のやうに思はれる。まやこの頃既に洋畫家の小穴隆一君と懇親になつてゐて、近代フランス畫を對象として日本の洋畫を論じたり、ルノワルの中に大雅の共通點を見出したりしたものである。

 震災後山本悌次郞氏邸で、その夥しい別莊の支那畫の一部を見たといつてゐたが、別に大した感銘の話もなかつた。それは恐らく、支那で見たり、或いは我邦でも支那畫の展觀が隨分あつて、ひとわたり見てゐるから、特に感心したものがなかつたといふことになるのであらう。

[やぶちゃん注:「山本悌二郞」(明治三(一八七〇)年~昭和一二(一九三七)年)は新潟生れの実業家・政治家。独逸学協会学校卒業後、宮内省御料局給費生としてドイツに留学、帰国後、御料局勤務を経て、第二高等学校(東北大学の前身)教授・日本勧業銀行鑑定課長・台湾製糖社長などを歴任。 明治三七(一九〇四)年、衆議院議員となり、以来、当選十一回で、この間、田中義一内閣及び犬養毅内閣の農相となった。晩年は大東文化協会副会頭となり、国体明徴運動に参画した。]

 不思議なことには、現代の日本畫の批評といふやうなことは餘りしなかつた。唯僅かに靱彥《ゆきひこ》・百穗《ひやくすい》・古徑《こけい》・御舟《ぎよしう》などについて話があつたくらゐである。洋畫の方はよくは知らぬが、小穴君のほか、よく梅原龍三郎君、時としては岸田劉生君あたりの噂さがあつた。

[やぶちゃん注:「靫彥」安田靭彦。名はこの「靭」の字が正しい。

「百穗」平福百穂。

「古徑」小林古径。

「御舟」速水御舟。]

 瀧田樗蔭氏の畫册に、各種風骨帖といふのがあつた。それは百穗・古徑・靱彦・恒友・芋錢六家の畫を收めたもので、瀧田氏は芥川君にその序を請うて書いて貰つた。その序に――「諸公の畫を看るは諸公の面を看るが如し、眼橫鼻直、態相似たり。骨格血色、情一にあらず。我は嗤ふ、杜陵の老詩人、晝中馬を看て人を看ざる事を。秋夜燈下に此册を披けば、一面は夭夭一面は老ゆ云々」と書いてゐるから面白い。

[やぶちゃん注:「各種風骨帖」「の序」ネット上には電子化されていないので、先ほど、電子化注をしておいたので読まれたい。原文は漢字カタカナ交りで、読点等、下島の引用はやはり不全である。]

 芥川君は云ふまでもなく、どこまでも學者で同時に藝術家だつた。そして誰もが望むやうに最高を目標として精進した。だが、所謂藝術至上主義者などといふなまぬるい批評は當つてゐない。彼の讀書も體驗も勿論藝術のための滋養物であの驚くべき廣く且つ深い讀書から得た知識の輝きのほか、書畫や骨董などから得た彼の知識が、如何に創作の上に光つてゐるかは知るものは知つてゐやう。所謂書畫骨董趣味などと云ヘば、金持や貴族のお道樂か、或は單に所蔵慾の滿足ぐらゐに考へられてゐるのだが、ひとたび芥川君のやうな藝術家にふれると、そのものゝ生命が躍動する。例へばこゝに一例を擧げよう。

 彼の作「玄鶴山房」のあるシーンに「床には大德寺の一行ものが懸つてゐる」と書いたのだが、この大德寺の一行ものがどうもしつくりしないといつて氣にしてゐるから、それでは黃檗ものゝ一行としたらどうかと云ふと、あゝそれでしつくりした、といつてすぐ訂正した。一體大德寺の一行ものも黃檗の一行ものも、荼懸けの通り詞《ことば》のやうになつてゐてこんな場合どちらでもよささうなものだが、そこが彼の細かい神經は承知しないのだ。そして實際その室やら環境が、黃檗ものでなくてはしつくりこないといふやうなきわどいデリケートなところが、所謂翰墨趣味を活かした大事なところだと思つたのである。

[やぶちゃん注:『「玄鶴山房」のあるシーン』「五」の一節。『玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊れ死ぬことを便りにやつと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさへ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機會も得られなかつた。のみならず死はいざとなつて見ると、玄鶴にもやはり恐しかつた。彼は薄暗い電燈の光に黃檗の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪らずにはゐられぬ彼自身を嘲つたりした。』とあるシークエンスである。私のサイト版「玄鶴山房 附草稿」で確認されたい。]

 一體ある時期の芥川君を、書畫骨董の蒐集家のやうに評判したのは、彼は書畫骨董にもある意味の關心を持つてゐるといふことを、彼の名望に結びつけた俗說で、私が暴露に近い書畫目錄やうのものまで揭げたのは、ひとつは、さういふ人たちを失望させる効能があらうと思つたからである。彼は「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。成程書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然に……書物さへさうである。況や書畫とか骨董とかは一度も集めたいと思つたことはない云々」彼の自記は決して虛言をついてゐないのである。

[やぶちゃん注:『「續野人生計事」の中で、「僕は如何なる時代でも蒐集癖と云ふものを持つたことはない。……」前に示した「青空文庫」に「百艸」のそれが纏めて電子化されてあるので参照されたい。当該項は「七 蒐集」である。例によって下島の引用は不全というか、前後の文章を弄っている。]

 彼は繪を描いたか! といふ問題だが、小學時代の彼はこの道にも傑出した所謂天才のきらめきらしいものがほの見える。併し中學以後に餘りその蹟を示してゐないやうだ。どうもあれだけの素質を持つてゐるからには興至れば描かざるを得なかつたであらうと思はれるに拘らず、ところが、小穴隆一君と交遊するやうになつてから、いつとはなしに例の河童やら何やらを描きだした。河童は「水虎晩歸圖」と題して得意であり堂に入つたもので、當時すでに有名だつた。このほか傘を描いて「時雨るゝや堀江の茶屋に客ひとり」といふ句を題したものなどは、書畫共にほれぼれするやうな風格をあらはしてゐる。馬の圖や猫の圖、蜻蛉なども得意なもので、自嘲的な自畫像などもかいてゐる。例れも風韻豐かな書と共に個性のよく現はれてゐる尊い墨蹟である。大正十四年五月、修善寺の温泉宿から、佐佐木茂索君と私へ送つてくれた修善寺圖卷などは、ペン畫ではあるが、卓越せる天禀を窺ふのに充分である。私は常に思ふ。彼若し畫家たらば、必ず第一流になつてゐるであらうと……。

[やぶちゃん注:「水虎晩歸圖」「小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」で「蜻蛉」の句に添えた絵などとともに掲げてあるので見られたい。

「修善寺圖卷」『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』と、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』で掲げてあるので見られたい。]

 終りに、彼が書畫鑑賞の對象は、直に大雅、直に雲林、直に玉澗の蘭、直に良寬といつたやうなわけで、いゝころ加減のものや職工畫などには決して心を動かさなんだ、といふことである。

 附け加へておくことは、古陶磁の面白いのは十分わかつてゐるが、文藝作家があゝいふ固定したものに囚へられたら最後、ほんとの小說が書けなくなる、僕はそれを恐れると云つてゐたやうにに思ふが、書齋や骨董に對しても、幾らか同じやうな考へ方ではなかつたかと思はれる。

(昭和十三・六。文藝春秋)

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