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2023/04/28

佐々木喜善「聽耳草紙」 五二番 蛇息子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから(本文はそこで終わりだが、次のコマに附記がある)。]

 

   五五番 蛇 息 子

 

 閉伊ノ郡《こほり》に刈屋長者と云ふ長者があつた。或時ツボマエで一疋の蛇を叩き殺したら、三ツに切れて死んだ。長者には子供が無かつたがそれから間もなく妻女が懷姙した。今まで欲しい欲しいと思つて居たのだから、其喜び樣はなかつた。其中《そのうち》に月が充ちて、玉のやうな男の子が生れた。それから年々通し子に先にもまさるような美しい男の子を二人生んだ。男の子ばかりの三人兄弟だものだから、長者はなんぼか心丈夫に思つて大事に育てゝ居た。三人の兄弟はまた類《るゐ》の無いほど仲が良かつた。長者夫婦も非常に喜んで居ると、總領が二十歲《はたち》の時に死んだ。それからは續けて二十歲になれば子供が死に死にして、遂に三人とも亡くしてしまつた。

[やぶちゃん注:「年々通し子に」「としどし、とほしごに」(=年子(としご)に)恵まれて、の読みと意味であろう。]

 長者夫婦はそれをひどく泣き悲しんで、どうしても亡くなつた子供の事は忘れられない、忘れられないと言つて嘆いて居た。すると旅の六部《ろくぶ》が來て、田名部《たなぶ》の恐山《おそれざん》にお詣りをすると、死んだ子供等の姿が見えると言つた。そこで長者は身上《しんしやう》を皆賣つて、妻を連れて恐山詣《まゐ》りに出かけた。

[やぶちゃん注:「閉伊ノ郡」当該ウィキによれば、近代の明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の「閉伊郡」の『郡域は、遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡および釜石市の大部分(唐丹町を除く)に』相当し、『分割以前の陸奥国内で』は、『津軽郡に次いで』、『面積が大きく、陸中国では最も面積の大きい郡であった』とある。そちらの地図を参照されたい。

「六部」既出既注

「田名部の恐山」現在の青森県むつ市田名部(たなぶ)宇曽利山(うそりやま)にある恐山(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。私も訪れたことがある。なお、ここは田辺部の飛び地で、恐山の手前の「三途の川」から南東の短い国道四号が貫通する部分の間は、青森県むつ市大畑町である。これは、各地の飛び地によくある理由で、古くから主な関係を持っていた地域に近代以降も所属するそれとして、こうなったものであろう。霊場としての恐山の歴史的・民俗学的な内容(知られたイタコの口寄せ等。但し、そこにある通り、『恐山で口寄せが行われたのは戦後になってから』である。以下でも、霊を呼び出すのはイタコではない)は、当該ウィキ及び、そこの各種リンク先を参照されたい。]

 恐山に行つて、お上人樣にかくかくの譯であるから、どうぞ子供等の姿を一目なりとも見せて下されと、願つたら、お上人樣はそれでは見せてやるが、姿を現はした時、少しでも聲を出してはならぬ。そして儂《わし》の衣の袖の下から顏を出して見て居ろと言つた。そしてお上人樣がお經を上げ始めると、遠くからにぎやかな音が、だんだんこちらに近づいて來るのであつた。いよいよ須彌壇《しゆみだん》の所まで來て、壇をぐるぐると廻るのは、懷かしい吾子三人であつた。夫婦は初めのうちは、お上人樣の衣の袖の下から默つて見て居たが、あんまり懷かしさに、思はず知らず子供等の名前を呼んだ。すると忽然と三人の姿が一ツになつて大きな蛇に化(ナ)つた。そしてその大蛇が、長者殿實は俺等はお前に殺された蛇である。それでお前だち[やぶちゃん注:ママ。]の子供に生れ變つて讐《かたき》を取らうと思つて、天を探しても地を分けても草葉の露ほども子種《こだね》とてないお前だちの子供として生れたのだが、お前だちにあんまり大事にされるので、俺等の本望を遂げかねたのが口惜しいぞやと言つて、ベカツと消えてしまつた。

 (閉伊郡橋野通にあつた話。菊池一雄氏御報告の分の一。)

[やぶちゃん注:「須彌壇」(現代仮名遣「しゅみだん」)仏像を安置する台。元来は仏教の世界観で世界の中心に聳えるとされる高山である須彌山に象った台座のこと。ネットの小学館「精選版 日本国語大辞典」によれば、寺の『仏堂内の仏像の台座をいうが、内陣の中心位置に造り付けられ、その上に安置した仏像を載せるものと、仏像の台座としてのものの二種類があり、一般には前者を指す』とあり、また『「須彌壇」という語自体は近世になってから用いられ始めたようで、それ以前は「仏壇」と称している』とあった。リンク先には図がある。なお、恐山にある恐山菩提寺については、ウィキの「菩提寺(むつ市)」によれば、『この寺の創建年代等については不詳であるが、寺伝によれば』、貞観四(八六二)年に『天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられる』が、『その後』、『衰退していたが』、戦国時代中期の大永二(一五二二)年、『曹洞宗の僧』宏智聚覚(わんちじゅがく)『が南部氏の援助を受け』、現在のむつ市市街地にある『円通寺』(ここ)『を建立して』、『恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた』とあるので、この話の成立は、まずは、それ以降と考えていいだろう。]

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