佐々木喜善「聽耳草紙」 五八番 お仙ケ淵
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
五八番 お仙ケ淵
小友(オトモ)村に上鮎買(《かみ》アユカヒ)と云ふ家があつた。此家の全盛の頃、お仙と云ふ下婢があつた。此女は每日々々後(ウシロ)の山へ往《い》つて小半時《こはんとき》も居て歸るのが癖であつたが、遂々《たうとう》そのまゝ還つて來なかつた。未だ乳放れのしない幼兒があるので、その夫は悲しみ且つ困つて、子供を背負つて山へ登り、
お仙お仙、
童(ワラシ)さ乳(チヽ)けてけろオ
と呼ぶと常の姿の儘で出て來て、子供に乳を與へた。お前が居ないと俺も此の子も困るから速(ハヤ)く家へ還つてくれと賴むと、もう物も言へなくなりたゞ頭を振るだけであつた。そのやうな事が四五日も續いた最後の日には、お仙の胸に蛇の鱗が生え出して居た。そして手眞似で、もう二度と此所へ來るな、いくら自分の子でも夫でも、段々と吾が性《しやう》が變つて來ると取つて食ひたくなると言ふやうで、形相《ぎやうさう》恐しく其所にある池の中に入つてしまつた。其後は夫も子供を連れて行かなくなつた。
それから七日ばかり經つて大雨が降つて、大供水が出た時、お仙は立派な蛇體になつて、主家の前を流れて通り、そして小友川の水口(ミナグチ)の淵と云ふ淵に入《はい》ると、元のお仙の姿になつて水上《みなかみ》に立ち上つたが、忽ち淵底に身を隱して其所の主《ぬし》となつた。其所をお仙ケ淵と云ふ。
お仙が子供に乳を與へた山を蛇洞といつて、今も古池がある。此話は餘り古い事ではないらしい。
(大正十年十一月、同村松田新五郞氏からの報告に據れば、
このお仙は物を云はぬやうになつたと云ふ事はなく立派な
我が性を換へて蛇性《じやせい》となつたので、實子でも
人間は食ひたくなる。それで以後決して當山に來るな云々
と云つたと謂ふ。本話の分は松田龜太郞氏の母堂から聽い
たのを記す。松田氏御報告分の六。)
[やぶちゃん注:この話、「遠野物語拾遺」の「三〇」に載るが、そこでは、「上鮎買」に相当する部分が『上鮎貝』となっており、『小友村字上鮎貝に、上鮎貝という家がある』と地名もその名であることが示されてあり、『上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎という』とする。少なくとも地名は「ひなたGPS」のこちらを見られたいが、現存し、「鮎貝」が正しい。但し、家の名が「鮎買」と表記を変えていた可能性は十分にあり得ることではある(以上の引用は、所持する新潮文庫「遠野物語」(「再版」の「遠野物語拾遺」とのカップリング版・昭和四八(一九七三)年刊)に拠った)。いつもお世話になるdostoev氏のブログ『不思議空間「遠野」 ―「遠野物語」をwebせよ!―』のこちらで電子化されてあるので、比較されたい。
「小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。
「水口(ミナグチ)の淵」「お仙ケ淵」不詳。但し、同村の小友川と鷹鳥屋川(たかとりやかわ)の分岐地点の右岸に「厳龍神社」(グーグル・マップ・データ)がある。先のdostoev氏の記事でも、ローケーションとして、ここを挙げておられ、『おせんが蛟だとして、小友には古くから蛟を祀る神社がある。それは厳龍神社だ。御神体の不動岩の根元から湧き出る水は神水と云われ、岩にに刻まれている蛇腹の痕は、蛟(ミズチ)が昇降した痕であるという。そう氷口』(現在地名読み「すがぐち」:「ひなたGPS」のこちらを見ると、戦前の地図では「氷」には『シガ』のルビが振られている。これは訛りをそのまま振ったものに違いあるまい。面白い。なお、ここは「遠野遺産」指定の地域遺産「氷口御祝」(すがぐちいわい:祝宴に先立って歌われる式歌)で知られる)『も含め小友の信仰の中心は、この厳龍神社となる』とある。
「蛇洞」「じやほら」と読んでおく。山の位置は不詳。ちょっと目が留まったのは、「ひなたGPS」を調べていて見つけた「大洞」の地名(現在もある)と、その北の上にある630.8のピークであった。]
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