譚海 卷之五 武藏野幷ほりかねの井の事
[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]
○武藏野の跡、殘りたる所は、江戶靑山より、稻毛(いなげ)の方へ、六里ばかり行(ゆく)時は、玉川に至る、川の前後、今に廣野にして、萩・薄、おほし、このあたり、それ也。四谷より高井戶道中に出る所も曠野(ひろの)あり、これも稻毛につゞきて、「武藏野」といへり。又、川越より八王寺へゆく間、三、四里、曠野にして、「武藏野」といひつたふ。是は、誠に人家もなく、むかしのまゝなるものと、おもはるゝとぞ。その道に「ほりかねの井」といふ物あり、大きなる井にて、摺鉢の如く、内ヘ、すぼく、外へ、廣く、地中へ掘入《ほりいれ》たる事、壹丈餘(あまり)にみゆる井なり、むかしは、水をくむ所まで、はるかに地中へくだりて、汲《くみ》たる事と見えたり。今は井、埋(うづ)もれて、落葉・あくたなどに、夫(それ)ともみえず、その井の面影のみ殘りてある事とぞ。
[やぶちゃん注:「稻毛」これは示された距離と「玉川」から、現在の多摩地域南部に位置する東京都稲城市(いなぎし)のことである。この地域は中世に稲毛氏(平安時代に支配していた小山田氏が鎌倉時代に改姓して稲毛氏を名乗った)の所領であった。
「ほりかねの井」中古より東国の歌枕として知られ、清少納言の「枕草子」にも載るが、八王子のそれは不詳。方角違いであるが、現在の埼玉県狭山市堀兼の堀兼神社の境内に「ほりかねの井」の伝承を持つ、その一つがあるがあって、ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、「狭山市」公式サイト内の「指定文化財」の「堀兼之井」(跡)を読むに(写真有り)、『この井戸は北入曽にある七曲井』(ななまがりのい)『と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに』二『基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永』五(一七〇八)年三『月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在を』、『この凹(おう)形の地としたこと』、『堀兼』とい地名は、「掘り難かった」と『いう意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保』一三(一八四二)年『に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか。神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」(林述斎編・文政一一(一八二八)年成立)を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは』、『定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永』五『年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とあった。この「七曲井」は埼玉県狭山市北入曽(きたいりそ)に跡がある。「江戸名所図会」(寛政期(一七八九年~一八〇一年)に編纂が始まったが、全冊の刊行は天保七(一八三六)年)の「卷之四 天權(てんけん)部」の「堀兼の井」には、先の堀兼村のそれを掲げ、「千載和歌集」を始めとして、最後に「枕草子」を引用、その後には、当地の土俗の言として「往古(そのかみ)日本武尊(やまとたてけるのみこと)東征のとき、武藏野、水、乏(とも)しく、諸軍、渴(かつ)に及びければ、尊(みこと)、民をしてここかしこに井を掘らしむるに、つひに水を得ざれば、龍神に命じて流れを引かしむる、となり【いまの不年越川(としこさずがは)あるいは入間川のことなりともいへり。】。』と記した後、「太平記」・「日光山紀行」を引きつつ、他の場所の「堀兼の井」(「堀」はママ)結果して、『堀兼の一所ならず』とし、畳み掛けて、『さればこの井一所に限るべからずといひて可ならんか』と結んでいる(本文は所持する「ちくま文芸文庫」版の本文を正字化して引いた)。]