大手拓次 「溫室の亡靈」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。同時期の拓次の様子は、先の回の冒頭の私注を参照されたい。]
溫室の亡靈
花がいちやうにゆれて、
うすむらさきのゆふやみが、
やはらかい毛のいきもののやうにあつまつてきた。
まつきいろにたれさがる異形の蘭の花、
恐ろしい繁みのまぼろしをうむ羊齒(しだ)の葉のそよぎ、
まつかな夢をひらめかす名もしらぬ毒草の花、
けむりのやうに手をのばす蔓草(つるくさ)のあをあをしさ、
むらがりきえるにほひのつよいまどはしに、
あたまをうたれ、
眼(め)をうたれ、
しびれる手をうたれれて、
わたしはをんなの蜘蛛のやうにおづおづとうづくまる。
わたしは、この溫室のなかにうまれでた、
かたちもないひとつの亡靈だ。
わたしはじめじめとした六月の濕氣のかげに、
うすばかげろふのやうな透明のからだをねかせて、
にがにがしくあまいもろもろの花のにほひをかぎながら、
ふけてゆくわたしの年月(としつき)のうへに笑ひと夢とをなげる。
[やぶちゃん注:「溫」の字体は詩集「藍色の蟇」に従った。
「をんなの蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Trichonephila clavata を指していよう。なお、和名は一般には「女郎蜘蛛」と考えられてはいるが、「上臈(じやうらう(じょうろう))蜘蛛」とする説もある。なお、「おづおづとうづくまる」という比喩からは、網を張って、凝っと動かずに、体幹部を低くして、獲物の掛かるのを待っているそれをイメージするのだが、これが確かにジョロウグモを指すのだとすれば、このジョロウグモは高い確率で、♂であると言える。同種ははっきりとした性的二形で、♀の方が大きいからである。成体でも♂の体長は〇・六~一・三センチメートルしかないのに対し、♀は二倍超の一・七~三センチメートルもあるからである。しかも、我々が想起する、腹部が黄色と暗青色の縞模様で、長い脚が黒地に黄色いラインが巻かれている如何にも毒々しいあれは、♀のそれであって、♂は、体が小さいだけでなく、ずっと地味な色合いであって、腹部は褐色がかった黄色に縦縞が入った姿をしている。さすれば、ますます「おづおづとうづくまる」という形容がいやが上にもマッチしてくるからである。
「うすばかげろふ」「薄羽蜉蝣」。昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidaeに属する種の総称、又はその代表種であるウスバカゲロウ Hagenomyia micans を指す。しばしば勘違いされるが、和名で「ウスバカゲロウ」と呼び、形状が酷似はするが、正統な「カゲロウ」(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera)類とは、これ、極めて縁遠い(なお、本科全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけでもない)。因みに、如何に多くの日本人がこれらを一緒くたにして誤認しているかは、私が現代文の授業で朗読しなかったことがない梶井基次郎の偏愛の名短篇「櫻の樹の下には」(リンク先は私の古いサイト版)の痛い誤りが、それを証明している。ここは比喩だし、まず正しくウスバカゲロウを指すと、一応は、好意的には認め得るから、それを語ることは控える。興味のある方――というより、種として全く異なるということがよく判っておられない方、梶井の誤りが判らない方は、是非、『橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(23) 昭和二十三(一九四八)年 百十七句』の私の「薄翅かげろふ」の注を見られたい。]

