大手拓次 「戀人のにほひ」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]
戀人のにほひ
こひびとよ、
おまへのにほひは とほざかる むらさきぐさのにほひです、
おまへのにほひは 早瀨のなかにたはむれる 若鮎のといきのにほひです、
おまへのにほひは したたる影におどろく 閨鳥(ねやどり)のゆめのにほひです。
こひびとよ、
おまへのにほひは うすくなりゆく朝やけの ひかりの靄(もや)のひとときです、
おまへのにほひは ふかれふかれてたかまりゆく 小草(をぐさ)のみだれです、
おまへのにほひは すみとほる かはせみの ぬれた羽音です。
こひびとよ、
おまへのにほひは きこえない祕密の部屋の こゑの美しさです、
おまへのにほひは ひとめひとめにむれてくる ゆきずりの姿です、
おまへのにほひは とらへがたない ほのあをの けむりのゆくへです。
こひびとよ、
おまへのにほひは ゆふもや色の 鳩の胸毛のさゆれです。
[やぶちゃん注:「むらさきぐさ」「紫草」。「むらさき」という場合、標準和名には、既に古代から染料として栽培され(かの「万葉集」の「紫野」がその栽培地を指す語)、後に所謂、「江戸紫」とよばれる色名で知られる現植物に双子葉植物綱シソ目ムラサキ科ムラサキ属ムラサキ Lithospermum erythrorhizon があるが、この草花は香気があるわけではないから、違う。この場合、日本固有種で、丁度、今、紫色の花を咲かせている「藤」、マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda を指す。「Glycine の香料」の私の注の冒頭を参照。
「閨鳥(ねやどり)」日本語では特に特定の種を指す語ではない。単語から受ける印象の一つは、フクロウ目フクロウ科フクロウ属 Strix 或いはタイプ種であるフクロウ Strix uralensis を想起させるようにも思えるが、そもそも、ここは、この「鳥」は「閨」房の中にいる♀の鳥であり、それはしどろに眠っており、夢を見ているというシチュエーションであるから、「梟」(ふくろう)はそれほど相応しくない。しかし、一つ考えるのは、本邦には棲息しないヨーロッパ中央部・南部や地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する、西洋のウグイスとも言われるほど鳴き声の美しいスズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos、小夜啼鳥、所謂、「ヨナキウグイス」(夜鳴鶯)、所謂、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)の名で知られるそれを思い浮かべる方もあろう。フランス語では“Rossignol”(ロシニョォル)。当該ウィキによれば、『森林や藪の中に』棲息し、『その名の』通り、『夕暮れ後や夜明け前によく透る声で鳴く』とあるのだが、その鳴き声は例えば、YouTube のNevezetes Névtelen 氏の“Csalogány (Luscinia megarhynchos) 2.”をお聴きになれば、ナイチンゲールの声は、美しいが、賑やかであり、「閨」に夢を見ている「鳥」を目覚めさせてしまう鳴き声であって、やはり「閨鳥」とは、逆立ちしても言えない。蛇足だが、寧ろ、夢を誘うなら、フクロウの方が相応しい。私の寝室のすぐ上の山蔭に十年以上、フクロウが棲んでいるが、私はその声を聴きながら眠りにつくのを常としているからである。以上から、ここは種を同定する必要はなく、先の太字下線の意でとっておけば、それで、その場面はすんなりと読めるものと思う。]