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2023/04/15

柳田國男 「鴻の巢」

 

[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正二(一九一三)年十二月発行の『鄕土硏究』第一巻第十号初出の論考である。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第二十九巻(一九七〇年筑摩書房刊)のここにあるものを使用した。なお、本篇は所持する「ちくま文庫」版「柳田國男全集」(一九九一年完結初版)には所収していない。今回は底本で見開き一ページであるから、完全に視認によるタイピングとした。

 底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた(つもりだが、結局、あれこれ附した)。]

 

     鴻 の 巢

 

 第八號に高木君[やぶちゃん注:民俗学者高木敏雄。]が「魔除《まよけ》の酒」の說明として引かれた仙臺地方の昔話に付いては、自分は又別の方面から深く報告者たる菅野氏[やぶちゃん注:不詳。]の勞を謝すべき埋由をもつて居る。あの話の全體の組立は所謂 Beast and Beauty [やぶちゃん注:物語や映画で知られる近世フランスで書かれた異類婚姻譚民話「美女と野獣」( La Belle et la Bête )。当該ウィキを参照されたい。]系統から別れた一つの動物報恩譚で、蟹滿寺(かいまんじ[やぶちゃん注:])の緣起以來我邦にもありふれたるものではあるが、其中心なる一節に「蛙の易者の入智惠《いれぢゑ》」で、裏の植の樹に巢を食つて居る鴻の鳥の卵を、蛇の婿に取らせに遣る。婿は蛇の形を現はして木に登り、鴻の巢に首を入れると、忽ち親鳥に其頭を啄《つつ》かれて落ちて死んだ」と云ふ條(くだり)は、あまり外では見なかつた型である。自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た。此奇拔な鳥と蛇との鬪爭(あらそひ)の話は、傅說の形を以て二三の地方に分布して居るのであるが、どうもまだ由來が判らない。手控《てびかへ》にあるだけを序《ついで》に此へ列べて置かうと思ふ。新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る。

[やぶちゃん注:「鴻」この字が現わす鳥類は、必ずしも、ここで柳田がお気軽に(自身の主張に合わない多種の鳥である話柄は都合よく完全排除して)

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

として語っているほど、そんなに単純明快なものではない(後に電子化する「續南方隨筆」の「鴻の巢」の冒頭部で、南方鳥が盛んに柳田鳥を鋭い嘴で啄(つっ)きまわしているのは極めて正当である)。例えば、江戸中期の「和漢三才図会」でさえ、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を見られば判る通り、挿絵も記載も、到底、木の上に営巣する大型のコウノトリを叙述しておらず、私は最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 及びオオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

に同定している。さらに言えば、「鴻」は本来、漢語にあっても、一種を指す語ではなく、広義の「大きな白い(水)鳥」の総称であったのであり、南方鳥も以上の論考の冒頭、「鶴の一声」でブチ挙げている通り、『「本草啓蒙」に、鴻は鵠と同物で、ハクチョウのこととし』てあり、本邦のコウノトリの本邦での繁殖個体群及び周年棲息する個体群が絶滅してしまった現在、「鴻」の字は、寧ろ、お馴染みの、

カモ科ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

を指すものとして認識されているはずである。だいたい、自然界でコウノトリを本邦で見たことがある読者は極めて少ないだろう(私はない)。しかも、古くも、木の上にとまっていた白い鳥が、イコール、コウノトリであったという認識は、お笑いに等しいもので、実際には、絶対に木の上に営巣しない白いツル類がたまたま飛翔してとまっていた場合や、木の上に営巣してその糞で木が枯れてしまう白いサギ類をも、「鴻」と呼び、その巣群を「鴻の巣」と呼称していたと考える方が自然である。但し、真正のコウノトリが、嘗つては、本邦でも明治以前には、一般に見られた時期や場所はあった。その証拠が、幕末から明治初期に成った、『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「かう」』(私の電子化注)で絵図とともに確認出来る。

「蟹滿寺(かいまんじ)の緣起」現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗普門山蟹満寺(かにまんじ)の起源縁起譚(経緯の中に毒蛇と娘の異類婚姻譚を含む)として知られる「蟹の恩返し」伝承で知られる。当該ウィキによれば、『本寺の創建年代や由緒については不詳であるが、周辺の発掘調査から飛鳥時代後期(』七『世紀末)の創建と推定されている』おあり、また、『寺の所在地の地名綺田(かばた)は、古くは「カニハタ」「カムハタ」』(柳田のルビ「かんまん」はこの撥音「カン」を誤認したか、もっと致命的に芭蕉の名句で知られる秋田の象潟の蚶満寺(かんまんじ)の読みと錯誤したものかとも思う)は、『と読まれ、「蟹幡」「加波多」などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになった』(これが事実ならば起源譚は後付けとなる)『とする』とあって、『この伝説が』「今昔物語集」に『収録されていることから、蟹満寺の寺号と蟹の報恩潭との結びつきは』、『平安』『後期以前にさかのぼることがわかる』とする。ここで言う「今昔物語集」のそれは、巻第十六の「山城國女人依觀音助遁蛇難語第十六」(山城國(やましろのくに)の女人(によにん)觀音の依りて蛇(へみ)の難を遁(のが)るる語(こと)第十六)である。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、電子化されたものが読める。

「蛙の易者の入智惠」こういう書き方は甚だ気に入らない。「今昔物語集」の当該話を知らない読者は、その中にそんなシークエンスがあるのかと誤認する謂いでよろしくない。これは「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の宮城県の「十宮(とみや)」伝承に現われるモチーフである。但し、そこでも「鴻」が登場しており、娘を孕ませた蛇を噛み千切って退治している(但し、蛇の子を孕んだ娘は恥じて入水自殺し、話は悲劇として終わっている)。

「自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た」思っても言わない方が良かったのでは、ありませんか? 柳田先生? 結果して倍返し型の論考が書かれて、先生がますます不愉快になっただけでしょう?

「新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立鴻巢町大字鴻巢の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る」国立国会図書館デジタルコレクションの明一七(一八八四)年内務省地理局刊のここ(「氷川社」の条)で視認出来る。この「今の北足立鴻巢町大字鴻巢」「鎭守氷川社一名鴻の宮」は現在の埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻(こう)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、「コウノトリ伝説」として、『昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り』、『卵を産み育て始めた。すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。これに対し』、『コウノトリは果敢に挑み』、『これを撃退させた。 それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。』とはあるが、出典は示されていない。「羅山文集」は江戸初期の朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の「羅山林先生文集」。]

「傳說す、昔大樹あり、樹神と稱す、民《たみ》飮食を以て之を祀る。しかせざれば則ち人を害す、一旦鵠《こく》來つて枝上に巢(すく)ふ、巨蛇其卵を吞まんと欲す。啄《つひば》みて之を殺す、是より神《かみ》人を害せず、是に於てか鵠が害を除き益あるを以ての故に鵠巢《かうのす》と砂一し、逢に此に名づけて地號とす云々。」鵠の字を用ゐたのは道春《だうしゆん》先生[やぶちゃん注:林羅山の後の別号。]の考へからで、實際は始《はじめ》から鴻巢と書いて居た。今の社傳も同樣で、行囊抄《かうなうしやう》にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にあるから、念のため其内に彼《かの》書を見ようと思ふ。此話だけでは蛇又は鴻と今の社との關係はまだ不明であるが、次の備前の話を見ると、此戰鬪は卽ち神社の爭奪であつたことが知れる。備陽記(享保六年自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。昔の氏神は正體大蛇なりしが、鴻常に此宮山に巢を掛け寶殿も鳥の糞に穢《けが》し、其上氏子の參詣も鴻の巢あるときは、恐れて怠りぬ。氏子共歎きて神に祈りけるは、如何にして氏神鳥類に惱されたまふぞや(中略)神力正にあらば忽ち鴻を亡《ほろぼ》したまふべしと申しけれぱ、其夜氏子共が夢に神現れ出でゝ、汝等祈る所至極せり、然らぱ明日辰の一天[やぶちゃん注:「一點」で午前七時から七時半であろう。]に鴻を退治すべし、汝等出でゝ見よとあらたかに告げたまふ。氏子も奇異の思を爲し殘らず神前に蹲踞して心を澄ます所に寳殿震動して大蛇一つ現れ出で、鴻の巢掛けたる大木に登り互に暫し戰ふ所に、鴻ども多く來りて終《つひ》に一蛇を突殺《つきころ》しぬ。夫《それ》よりして鴻の宮と謂ふと所の老翁共語る。此段不審なれども書き記し置かざれば此說を知らざるかと言はれんこと恥かし」とある。近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある。下總の三《さん》の社《やしろ》と云ふ宮にて、社の木に鴻棲み、蛇や石龜を食ひ散し、此地を穢《けが》す。氏子之を見て次第に神威を疑はんとするするとき、神託あり日を期して鴻を治罰せんと云ふ。共日の巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]となり、白蛇あり舌を閃《ひらめ》かして其木に登る。雌雄の鴻之を見て急ぎ蛇を捕へ、骨のみ殘して食ひ盡す。それより其鴻を神に祀り鴻の巢と呼ぶ(以上)。靈鳥が蛇を滅《ほろぼ》したと云ふだけの話ならばさして珍しくは無い。白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に、昔鳥海山に手長足長《てながあしなが》と云ふ毒蛇住み往來の人を害す。諸天萬神之を憫《あはれ》みたまひ、梢に怪しの鳥を棲ませて、毒蛇居れぱ有哉(うや)と鳴き、在らぬときほ無哉(むや)と鳴かしむ。故に其地を有哉無哉關《うやむやのせき》と云ふとある。但し此話には寺臭《じしう》がある。通例手長足長は害敵の名に用ゐられぬ。多くの社の末社に手長明神あり、二體あるときに手長足長の神といふ。それは仲居卽ち侍者の義かと思ふ。此話なども元の形ではやはり鳥の方が毒鳥であつたのではなからうか。兎に角に三つの鴻の宮の口碑が共通に神の敗北の記事を傳へて居るのは妙では無いか。氏子が元の氏神を見限つて新《あらた》なる優勝者を迎へたと云ふ點は、通例の毒龍譚と一括しては說きにくい。何か幽玄なる意味のある話であらうと信じ、些《いささか》でも考へ附いたことがあつたら又報告したいと思ふ。

[やぶちゃん注:「行囊抄にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にある」「風土記」は「新編武藏國風土記稿卷之百四十八 足立郡之十四」の「鴻巢領」の右下段の「神社」の冒頭の「氷川社」の条(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)。「行囊抄」は江間氏親の著になる地誌紀行のそれか。元禄九(一六九六)自序。

『備陽記(享保六年』(一七二一年)『自序あり)卷六に曰く、「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。……』国立国会図書館デジタルコレクションの「備陽記 本編」(石丸定良編・一九六五年日本文教出版刊・手書本の写真版であるが、問題なく読める)のここ(右上段から下段にかけてある「一 八幡宮」が当該部)。「「備前兒島郡(琴浦村大字)下村の八幡宮」は現在の岡山県倉敷市児島下の町(しものちょう)にある鴻(こう)八幡宮(グーグル・マップ・データ)。

「近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある」偶々、最近、電子化注した「大和怪異記 卷之四 第二 下総国鵠巣の事」がそれで、底本は原伝本に従った活字版底本であるから、是非、参照されたい。

「三の社」後身と思われる埼玉県鴻巣市本宮町にある鴻神社(こうじんじゃ:グーグル・マップ・データ)の公式サイト内のこちらに、『鴻神社は明治』六(一八七三)『年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といわれておりました』とある。

「白井眞澄の紀行齶田濃刈寢(あきたのかりね)、羽後飽海《あくみ》郡遊佐鄕永泉寺の條に」白井眞澄は江戸後期の本草学者にして希代の旅行紀行家として知られる菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本名。彼は天明四(一七八四)年九月十日に出羽国(現在の山形県及び秋田県)に入り、日記紀行文「齶田濃刈寢」を記し始めた。以下は、国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田叢書 別集』第四(昭和七(一九三二)年秋田叢書刊行会刊)の「菅江真澄集」第四のこちらの「うやむやの關」で視認出来る。

「有哉無哉關」「有耶無耶の關」は山形・宮城両県境の笹谷峠にあったとされる関所。「むやむやの関」「もやもやの関」などとも呼ばれ、古くより歌枕となっているが、位置は定かではない。個人サイトの中の「奥の細道をゆく」の「有耶無耶の関」で候補地が考証されてあるので見られたい。一応、山形県と秋田県の県境にある三崎峠付近が「有耶無耶関趾」(グーグル・マップ・データ)の比定地として存在しはする。私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花」の注の、「曾良随行日記」の象潟到着の前日の六月十六日(グレゴリオ暦では一六八九年八月一日)の条に、

   *

○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不ㇾ通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不ㇾ入手形。塩越迄三リ。半途ニ關と云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ關成ト云。此間、雨强ク甚濡。船小ヤ入テ休。

   *

と出る。]

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