《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)各種風骨帖の序
[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集(第十二卷・一九七八年七月刊)の編者「後記」によれば、大正一三(一九二四)年十一月発行の雑誌『人物往來』第五冊に「澄江堂餘墨壹」の大見出しのもとに紹介されたもの、とあって、同誌では、『文末に小字で「各種風骨帖は瀧田樗陰君藏の畫册なり。百穗、古徑、靭彦、未醒、恒友、芋錢六家の畫を收む。」とある』と記し、さらに、『大正十三年二十九日(推定)の小穴隆一宛書簡に「僕瀧田の画帖に叙する文二篇を作り大いに疲る 但し作るのに疲れたるに非ず畫箋へ書するのに疲れたる也』とある。ところが、底本では、岩波の旧新書版全集第十四巻に拠って、その報知に過ぎない『人物往來』を参考にした旨の記載がある。則ち、底本では、旧瀧田樗蔭蔵の現物の「各種風骨帖」に当たることが出来なかったことを意味している。そもそも、当たるべき「各種風骨帖」の現存について、なんらの記載が「後記」にはないことから、所在不明か、既に失われた可能性が字背に窺われるのである(この画冊名と瀧田樗陰のフレーズでネット検索をかけても、画像一つ、解説一つ、見当たらない)。さらに、小穴宛書簡を考えると、本「序」には、もう一つの案文があったことが判る。さらに、この「序」は、芥川龍之介自身が、現物の「各種風骨帖」へ揮毫したことも判るのである。
なお、本画帖の所蔵者瀧田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は、芥川龍之介も頻繁に作品を発表した『中央公論』の名編集者(主幹)として知られる。秋田市生まれで、本名は哲太郎。東京帝大在学中から『中央公論』で翻訳の仕事を始め、明治三七(一九〇四)年十月に正式に中央公論社に入社し、晩年まで編集を担当した。本願寺系の雑誌であった『反省雑誌』から改題したばかりの『中央公論』に文芸欄を設け、部数の拡大に成功した。新人作家の発掘に尽力し、同誌を新人作家の登龍門へと押し上げ、小説家は彼の来訪を心待ちにした伝説の編集者として知られる。以下、同帖所収の挙げられてある画家は、「百穗」は平福百穂(ひらふくひゃくすい)、「古徑」は小林古径、「靭彥」は安田靭彦(ゆきひこ)。「未醒」は小杉放菴(「未醒」の号が知られるが、後にかく変えている)、「恒友」は森田恒友(つねとも 明治一四(一八八一)年~昭和八(一九三三)年:ここで並んだ画家の中では唯一、洋画家であるが、ヨーロッパ遊学でセザンヌの影響を強く受け、リアリズムを基本として、西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自ら「平野人」と号して利根川沿いの自然を写生した画家であった)、「芋錢」は小川芋銭(うせん:ここに挙げられてある画家の中で私が唯一人、メチャクチャ好きな画家である)。]
各種風骨帖の序
諸公ノ畫ヲ看ルハ諸公ノ面ヲ看ルガ如シ。眼橫鼻直、態相似タリ。骨格血色、情一ニアラズ。我ハ嗤フ、杜陵ノ老詩人。晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ。秋夜燈下ニ此册ヲ披ケバ、一面ハ夭夭、一面ハ老ユ。借問ス、靈臺方寸ノ鏡、我面ハ抑誰ノ面ニカ似タル。
大正十三年十月上浣
澄 江 生 筆 記
[やぶちゃん注:「風骨帖」「風骨」は元は「人物の姿・風体(ふうてい)」を指したが、転じて「詩歌や芸術などの作風と詩想・精神」を言う語ともなった。
「面」「おもて」。顔。
「眼橫鼻直」「がんわうびちよく」。
「態相似タリ」「たい、あひにたり」。
「情一ニアラズ」「じやう、いつにあらず」。
「嗤フ」「わらふ」。
「杜陵」「とりよう」(とりょう)。かの杜甫の号。筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」第五巻(昭和四六(一九七一)年刊)ではここに編者が『とりやう』と振っているが、その歴史的仮名遣は誤りである。
「晝中馬ヲ看テ人ヲ看ザル事ヲ」これは、私は、杜甫の五言古詩(例外的に彼のものとしては非常に長く、三十四句から成る)「韋諷錄事宅觀曹將軍畫馬圖引」(韋諷錄事(いふうろくじ)の宅にて曹將軍(さうしやうぐん)の畫馬(ぐわば)の圖(づ)を觀る引(いん))を指しているように私には思われる。杜甫晩年の広徳二(七六三)年五十三歳の時、成都での作である(杜甫は五十九で客死している)。「唐詩選」に収録され、所持する「杜詩」(一九六五年岩波文庫刊・鈴木虎雄訳注)の第五冊にも載っているのだが、余りに長いので、古くよりお世話になっている「Web漢文大系」の同篇をリンクさせておく。一九六一年岩波文庫刊「唐詩選」上(前野直彬注解)の解説によれば、絵の持ち主韋諷録事はよく判らない人物であるが、『成都の東北にあたる閬(ろう)州』(四川省北東部)『の役人で、成都に家を持っていたらしい』人物で『地方官庁の庶務課長といったところである』とあり、一方、『曹将軍は名は覇(は)』で、『玄宗から左武衛将軍という官位をもらった』人で、かの『曹操』『の曽孫である曹髦(そうぼう)(一度は帝位についたが暗殺されて天子の位も奪われ、高貴郷公と呼ばれた人物。絵の名手であった)の子孫といわれ、やはり絵の名人で、ことに馬を描かせては当時の第一人者として評判が高かった』とあり、『この人がかいた馬の絵を、韋諷が持っていた』のを見せて貰ったのであったとある。さらに、『曹髦は落ちぶれて四川の地方へ流されて来たので、そのときに描かせたものかもしれない』とし、杜甫が『その絵を見ながら作ったのがこの詩で、終りには安禄山の叛乱ののち、玄宗の花やかな時代があとかたもなくなくなったことへの感慨がこめられている』とあることから、その馬の絵を描いた曹髦の数奇な人生に思い致すよりも、杜甫自身の落魄の感に重ねている点を芥川は指弾しているようにも私には思われるからである。
「夭夭」「えうえう」(ようよう)は「若い女の瑞々しいさま」が原義。「健康的な清新さ」を言っていよう。
「借問ス」「しやくもんす」。「試みに問う」。
「靈臺方寸ノ鏡」「靈臺」は「魂のある所・霊府・精神」の意であるから、「その描いた人の心を表わすところの鏡」としてそれらの絵を見たものであろう。
「我面」「わがつら」。
「抑」「そも」。
「上浣」上旬。この大正一三(一九二四)年十月上旬を、新全集の宮坂覺氏の年譜で見ると、興味深い事実が見えてくる。この十月七日、『志賀直哉が古美術の写真帳作成のため上京し』(当時、志賀は京都郊外の宇治郡山科村に住んでいた)、『一緒に目黒の山本悌一郎』(実業家で政治家)『宅へ中国画』(☜)『を見に行く』とあり、同九日の条の最後には、『この頃、再び志賀直哉とともに、赤坂の黒田家』(ここには旧福岡藩黒田家の中屋敷が嘗つてあった)『へ筆耕図と唐画鏡』(☜:サイト「日本美術の記録と評価」の「昭和五年十一月-昭和六年六月」の「調査・見学記録」に、『考古学会大会黒田侯爵家画幅展観昭和六年五月』の条に、『筆耕図/唐画鏡一帖』とあった)『を見に行く』とあるのである。則ち、この序が書かれた時期、芥川は偶然にも中国画に幾つも親しく鑑賞していたことが判明するのである。]
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