「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 松山鏡の話
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。太字は底本では、傍点「﹅」である。
なお、冒頭に出る「『鄕土硏究』第二卷第八號四七四頁」に載るのは、「選集」によれば、『越原富雄「松山鏡の話」』という論考とある。この越原富雄というのは、児童劇作家・同研究家であった長尾豊(明治二二(一八八九)年~昭和一一(一九三六)年)のことかと思われる。東京浅草生まれで、旧制中学三年中退。大正三(一九一四)年に有楽座の「こどもの日」のために演劇脚本を書き、研究劇団『トリデ社』で俳優活動しながら、独学し、「マコモ生」「和田唯四郎」「孫董」「尾島満張慶亭」「要二郎」「越原富雄」「長尾まこも」などのペンネームで著述。後、児童文学・児童演劇に文筆を揮った。著作に「お話あそびと小さい劇」・「児童劇指導の実際」などがある。]
松 山 鏡 の 話 (大正四年三月『鄕土硏究』第三卷第一號)
(『鄕土硏究』二卷八號四七四頁)
一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)に、囘敎徒の傳說を載せて、婦女の嫉妬は最初の女人イーヴが創《はじ》めだ、とある。アダム夫婦、樂土に在つて、當初、暫くの間、頗《すこぶ》る和融したが、アダムは、每夕、祈念の爲、天に上《のぼ》つた。魔王、疾《はや》くより、女人の心底の弱點を知悉し、『是が、人間に災難を播(ひろ)むべき好機會。』と見て取り、イーヴを訪うて、「アダムさんは、御動靜、如何《いかん》。」と、問うた。イーヴ、「亭主は只今、祈念の爲、上天したところ。」と答ふると、魔王、信ぜぬ顏つきで、微笑した。「何故、いやに、笑ふか。」と問返《とひかへ》すと、「イーヴの氣を惡くしたり、アダムの名を損ずる樣な事は述べたくない。」と答へた。イーヴが益々聞きたくなるを見濟(みすま)し、いと氣の毒な振《ふり》して、御前樣(おまへさま)はまだ知らぬが、アダムさんは祈念に託して、每夕、情女を訪《おとな》ふのだと告げると、イーヴ、嘲笑して、上帝が作つた女とては、予、一人だ。アダム、爭(いか)でか、他に女を拵へ得ん。」と言ふと、「論より證據、本人を招いて見すべし。」とて、鏡を見せ、イーヴ、自分の形像を見て、『アダムの情女《いろ/いろをんな》、實在す。』と信じたのが、女人嫉妬の始りだつたさうな。
[やぶちゃん注:「松山鏡」所持する小学館「日本国語大辞典」(昭和五一(一九七六)年初版)を引く。第「一」義に、『昔話』として、『①鏡を知らないことを趣向とする笑話。親爺が上方見物に行って鏡を見、父親がいると思って買って帰るが、娘が見て、若い女を連れて来たと思う筋の話』とし、次に、『②越後国松の山の姫が、母に形見にもらった鏡に映る姿を母と思ってなつかしんでいたという話』とし、第「二」義の「一」に、先の『②から取材した謡曲。五番目物。観世・金剛・喜多流。作者不詳。先妻の三年忌に焼香のため持仏堂に行くと、姫が何かを隠すのでこれを怪しむ。しかし、姫が、母の形見の鏡に映る自分の姿を母と思って追慕していたことがわかり、鏡のいわれを教えてやる。そこに母の亡霊が現われ、娘の回向する功徳によって霊は成仏するという筋』とある。なお、ネットの「精選版 日本国語大辞典」(第二版)では、解説が少し追加されてあり、第「一」義に「三」があって、『③ ②の筋を大伴家持に付合したもので、家持が篠原刑部左衛門と改名、娘京子は形見の鏡で母をなつかしむが、継母のいじめに耐えきれず、鏡ケ池に入水する話』とあり、さらに『そこに母の亡霊が現われ、』の後が、『倶生神』(閻魔庁の書記官)『がこれを追って来るが、姫の回向する功徳によって母は成仏し、倶生神も地獄へ帰る。』とシノプシスの追加がある。また、リンク先には、小学館「日本大百科全書」の以下の落語の「松山鏡」がある。『落語。原話は仏典の』「百喩経」(ひゃくゆきょう)『にあり、中国明』『末の笑話集』「笑府」に入っており、それが『日本で民話になった。能』「松山鏡」や、狂言「鏡男」も『成立し、類話が各地に残るが、その落語化である。越後』『の松山村の正助は、親孝行で領主に褒められ、望みの品を問われたので、亡父に会いたいと答えた。そのころ村に鏡がなかったので領主は鏡を与えた。正助は鏡に写る自分を父と思って、ひそかに日夜』、『拝んでいた。女房が不審がり、夫の留守に鏡を見ると女の顔が写るので、けんかになった。比丘尼』『が仲裁に入り』、『鏡をのぞき』、『「二人とも心配しなさるな。中の女は、きまりが悪いといって坊主になった」』とあり、八『代目桂文楽』『が得意とした』とある。この落語の方は当該ウィキが詳しい。これらに出る、「松の山」「松山村」というのは、現在の新潟県十日町市松之山(グーグル・マップ・データ)で、そこに伝わる先の大伴家持絡みの伝承(家持がここ松之山に来たという史実はない)については、新潟県十日町市松之山のポータルサイト「松之山ドットコム」の「伝説 松山鏡」を見られたい。
『一八五三年板、パーキンスの「亞比西尼亞住記(ライフ・イン・アビシニア)」(五八―九頁)』「アビシニア」はエチオピアの別名。これはイギリスの上流階級の出身で旅行家であったマンスフィールド・ハリー・イシャム・パーキンス(Mansfield Harry Isham Parkyns 一八二三年~一八九四年)が書いた最も知られたエチオピア紀行(一八四三年から一八四六年まで滞在)“Life in Abyssinia”の初版。熊楠の指すのは、「Internet archive」の原本ではこちらである。]
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