「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート お月樣の子守唄
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]
お月樣の子守唄 (大正三年一月『鄕土硏究』第一卷第十一號)
「お月樣(或は「あとはん」)いくつ、十三一つ、そらまだ若い、若船え乘つて、こぎこぎ見れば、夷子《えびす》か大黑か、福の神かみかみ、又今度お出で、守りのゼゼ(錢)で、ひともじ買てて、ぼりぼり咬みませう。」。子守唄と云《いは》んより、子守言葉と云べき者だ。「守貞漫稿」二五編に、月を觀て子兒及び小兒册《かし》つきの女の詞に、京阪にては、「お月さんいくつ、十三一つ、そりやまだ若や、今度京いのぼつて、守りのぜゞで、おまんを買《かう》て、お萬どこいた、油買《あぶらがひ》に酢買に、油屋のかどで、滑つて轉んで、油一升こぼして、太郞どの犬と次郞どの犬となめつて候ふ。」。江戶にては、「のゝさんいくつ、十三七つ、まだ年は若いな、あの子を產んで、此子を產んで、だあれに、抱《だか》しよ、お萬に抱しよ、お萬どこいた、油買に茶買に、油屋のゑんで、氷がはりて、滑つて轉んで、油一升こぼした、其油どうした、太郞どの犬と次郞どの犬と、皆なめてしまつた」。(『鄕土硏究』一卷七號の四三〇頁參照。)
[やぶちゃん注:「守貞漫稿」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証して纏めたもの。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、熊楠の編数は誤りで、「卷之二十八【遊戯】」である。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部をリンクさせおく(左丁の「月ヲ観テ小児及び小児カシツキノ詞ニ」以下。
「小兒册《かし》つき」「小兒傅(かしづ)き」で子守女のこと。
「『鄕土硏究』一卷七號の四三〇頁」「選集」の編者割注に、『弘津史文「子守唄」』とある。弘津史文(ひろつしぶん 明治二〇(一八八七)年~昭和二二(一九四五)年)は考古学者・民俗学者。山口県生まれ。参照したまる氏のブログ「かおめもぱの日記3」の「平生町 弘津史文先生 金石館跡」を見られたい。]
追 加 (大正三年十月『鄕土硏究』二卷八號)
拙妻に敎はつたのが刊行成りて、念の爲、讀聞《よみき》かせ居ると、田邊から、七、八町隔つた神子濱(みこのはま)から來て居る下女が、「かの在所で行なはるゝは、多少、違ふ。」とて敎へてくれたから、「實《げ》にや、勸學院の雀は「蒙求《もうぎう》」を囀《さへづ》る、下女ながらも、民俗學の穿鑿、感心の至り。」と賞して、筆記した。其詞に曰く、「昨夕(よんべ)來た嫁さん、結構(けつこ)な座敷へ坐らせて、襟とおくびと掛けてんか、能(よ)う掛けぬ、其《そん》な嫁ならいりません、田圃(たんぼ)の道まで送りましよ。京へ上(のぼ)つて男に惚れて、惚れた男に何買(こう)て貰(もろ)た、櫛や笄(かうがひ)、紅白粉(べにしろいころ)買(こう)うて貰(もろ)た、お月さん小月(こつき)さん、今度のきものは、裏は桃色表は鹿子(かのこ)、鹿子揃へて御乳母(おんば)に着せて、御乳母悅ぶ、お月さん怒る。お月さん小月さん、十三一つ、そらまだ若い、若舟(わかふね)へ乘つて、沖こね見れば、夷(えべす)か大黑か、福の神かみかみ。神々の錢《ぜぜ》で、ひともじ買《こう》てボリボリ嚙んで、くさい子を產んで、誰(だーれ)に抱かしよ、誰に負はしよ。」。
[やぶちゃん注:「拙妻」南方松枝(戸籍上は「まつゑ」 明治一二(一八七九)年~昭和三〇(一九五五)年)。西牟婁郡田辺町(現在の田辺市)大字下屋敷町十一番地、田村宗造(当時、闘鶏神社(グーグル・マップ・データ)宮司)と妻里の四女として生まれた。
「神子濱」現在の和歌山県田辺市神子浜。
「勸學院の雀は「蒙求」を囀《さへづ》る」諺。平安時代、藤原氏の子弟教育のために創建された学校勧学院に巣を作る雀は、身近な学生たちが、朝夕、朗読する「蒙求」を覚えて、声を合わせて囀る、というもので、身近に見たり、聞いたりすることは、自然に習い覚えてしまうことの喩えとされて使われる。「蒙求」(もうぎゅう)は唐の李瀚(りかん)の撰になる、年少者向けの歴史上の教訓を記した啓蒙書。
なお、「選集」では、以上の「追加」の前に以下の「追加」が挟まっており、それは本書には収録されていない旨の注記がある。以下に、「選集」(新字新仮名)からそのまま転写しておく。
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【追加】
「お月様の子守唄」刊行ののち拙妻に示すと、拙妻いわく、これは完全な物にあらず、わが祖母八十一で二十四年前残したるが、常に唱えしは次のごとし、と。その詞に、「井戸のぞーきんどと、竈(かま)のはたのぞーきんどと、せい競べをしたら、娵(よめ)の陰戸(ぼぼ)へ火が付いて、娵泣くな泣くなよ、赤い小袖三つ、白い小袖四つ、それが嫌(いや)ならツツツとお帰(かい)り、お帰りの道で、大箱小箱(おおばここばこ)、小箱の内に、雌鳥雄鳥(めんどりおんどり)、尾のない鳥と、尾のある鳥と、竹の筒(つつう)っぼ銜(くわ)えて、高い山へ上(のぼ)る、上るはいくつ、十三一つ、そらまだ若い」、以下既刊のごとし。ただし、これには月のことなし。月に関する子守詞にちなんで作りし一種の詞で、まずは今も唄わるる「入道清盛ゃ火の病い、山へ登るは石堂丸よ、丸よ卵も切り様で四角」などいう尻取り唄の前駆なるべし。山形最上地方には、「お月様なんぼ、十三七つ、まだ年若い、油買いに酢買いに、酢屋の前に、すとんと転んで笑われた」という由、小宮水心の『随筆大観』三七八頁に見ゆ。
(大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
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