佐々木喜善「聽耳草紙」 五〇番 絲績み女
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。
標題は「いとうみをんな」。「絲績み」とは。「麻・苧(からむし)などの繊維を細く長くより合わせること・紡(つむ)ぐこと」を言う。但し、以下の本文の方言に従うなら、「いとおみをんな」となろう。]
五〇番 絲績み女
鼠入(ソニウ)に卯平と云ふマタギがあつた。殿樣の前でもこの卯平は、世の中のことで知らないことはない。又俺の思うことで何でもできないことはない。只だ惜しいことには天を飛ぶことばかりがまだ出來ないと豪語して笑はれたと云ふ人物であつた。
この卯平マタギが友人の川臺の小作マタギと云ふ人と二人で、松格(マツカク)嶽へ鹿打ちに出かけた時のことであつた。二人が山小屋に泊つて居ると、或夜の夜更けに何處からか若い女が出て來て、小屋の爐《ひぼと》に燃えてゐる火を盜んで、すたすたと山を登つて行つた。
二人のマタギがこれは怪しいゾと話をして居ると、小屋から見える向ふのソネに火が燃え出した。見ると先刻の女が座(ネマ)つて麻絲なオンでいながら、度々小屋の方を向いてニヤリニヤリと笑つてゐた。
卯平は小作に、お前アレを打つて見ろと言つた。小作が其の女を狙つて鐵砲を打つたが、[やぶちゃん注:底本は読点。「ちくま文庫」版で訂した。]幾度打つても其の都度ただ此方《こちら》を向いてニヤリニヤリと笑ふばかりで、少しも手答へがなかつた。卯平はそれでア分(ワカ)んねえ、彼《あ》の女でなく橫の績桶(おむけ)を狙つて打つてみろと言つた。績桶を打つと火も女もペカリと消えてなくなつてしまつた。
翌朝其所へ行つて見たら、大きな木の切株のやうな大きな古狸が死んでゐた。
(前話同斷の四。)
[やぶちゃん注:「前話同斷の四」とあるが、前話「四九番 呼び聲」には採取附記がない。但し、その前の「四八番 トンゾウ」には、『(陸中閉伊郡岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の二。)』とあるので、「四九番 呼び聲」がその三であり、これが「四」で辻褄が合う。以上三話はロケーションも旧岩泉村で違和感がない。
「鼠入(ソニウ)」「四八番 トンゾウ」に既出の「鼠入(ソニウ)川」地区(現在の岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)岩泉鼠入川(いわいずみそいりがわ)(グーグル・マップ・データ航空写真)から、小本川(おもとがわ)に南から合流する「鼠入川」を上流に遡って、西の山間部に現在もかなり広大な、しかし、殆んどが山間地である岩泉町鼠入(そいり)が確認出来る。但し、読み方が上記の通り、変わっている。
「川臺」この漢字表記では不詳だが、地名と思われるところから、調べたところ、現在の鼠入地区の尾根を南西に少し越えた近くに(マタギにとってはこの尾根は屁でもない)、岩泉町川代(かわだい)地区が現存する。私は、ここのような気がする。
「松格(マツカク)嶽」鼠入と川代附近を「ひなたGPS」の戦前の地図で調べたが、このピークは見当たらない。
「向ふのソネ」登山用語としては「曽根」「埆」で、「尾根」・「低く長く続く尾根」或いは「ガラ場になった石の多い場所」を指す。ずっと離れるが島根方言で「尾根」を「そね」と呼ぶことが確認出来た。
「ペカリ」副詞の「ぱっと」相当であろう。]