大手拓次 「靑い異形の果物」
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』時代Ⅱ(大正後期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正七(一九一八)年から大正一五(一九二六)年までの数えで『拓次三一歳から三九歳の作品、三四一篇中の四七篇』を選ばれたものとある。そこから詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。
底本の原氏の詳細な年譜によれば、大正七年の春頃、同僚で画家でもあった『逸見享と詩画集『黄色い帽子の蛇』、詩版画集『あをどり』を発行(いずれも自家版)』、ここまで詩活動は至って旺盛であった。一方で、同年『十二月、「ライオン当用日記」(ライオン歯磨刊)の編集』・『執筆に苦心する』という現実もあった。大正八年には、『作品の数も激減し、発表もし』ていない。これは『同僚の女性を思慕し、会社員としての仕事と、詩作との矛盾に苦悩』したこと、『祖祖母の死や祖父のおとろえも気を重く』させたとあり、注記で、『拓次は早く両親を失ったこともあって、想像以上に家族思いであった。祖父母を思っては許しを乞い、わけても祖母は彼の死の一つの母体でさえあった』と述べておられる。大正九年には、『四月、福島、仙台、秋田を単身旅行』し、この『春ごろ「未完の詩集・蛇の花嫁」と題する皮表紙ノートの詩作を残す』とあるものの、これは『死後刊行された『蛇の花嫁』とは内容的には無関係』であると注記しておられ、『七月から九月にかけて、耳鼻科や歯の治療で医者通いをする』とあり、一方、『この年、社内の文学愛好者らと回覧雑誌「アメチスト」をつくり、詩(作品名未詳)を寄せる』とあった。大正十年の項には、『二月から四月なかばまで眼疾のため会社を欠勤。三月、白秋より来信』があり、『新詩会への参加を勧誘される』とある。『四月中旬、一時出社』したが、同『下旬、ふたたび眼疾(結核性)悪化、麹町』『富士見町の朝倉病院に入院』、『七月、退院』するも、『十月、急性中耳炎のため本郷区』『真砂町の小此木病院に入院』している。一方、『同月、『現代詩集』(アルス刊、第二輯)に詩「彫金の盗人」ほか五篇が収録され』ている。十二月に小此木病院を退院しているものの、翌大正十一年も、『一月中旬まで毎日病院通いをしながら』の出勤が続き。『現順には』また、『小此木病院に入院』し、『三月末、退院』したが、時にこの『病院の看護婦に片思いの思慕をよせ』たりもしている。『四月以降も眼疾、耳疾になやみ、病院通い』が続いた。他方、『五月、「白い月」と題する和綴じノート(詩集体裁)をつくり、秋ごろまで』詩作し、九月には白秋・山田耕作主宰の『詩と音楽』創刊号に「仏蘭西薔薇の香料」(死後の『藍色の蟇』所収)『ほか三篇を発表。以下、同誌に毎号、詩を発表』するようになった。また、この頃、『ライオン児童歯科医院(ライオン歯磨本館焼失のため広告部は一時ここの二階で業務をとった)勤務の女性と』、別に『新人女性社員(山本安英)』(後に舞台「夕鶴」の主演女優として知られる彼女その人である)『に、同時に熱烈な片思いの思慕を寄せ』、それがまた、『数多くの詩に反映』したとある。大正一二(一九二三)年も、雑誌『詩と音楽』に精力的に詩を発表した。九月一日の関東大震災では、『勤務先は全焼』、『丸ビル内に移った仕事場に通』っていたが、『依然として医者通いは』続いた。大正十三年『二月、画家の戸田達雄と「詩集・薄雪草」と題する詩画集(スケッチブック)をつく』り、『「抒情小曲集、まぼろしの花」を作成(いずれも肉筆)』しており、この頃から『文語詩を書きはじめる』とある。この文語詩の主篇群と拓次のデッサンが、死後に刊行された逸見享編「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」(私のサイト縦書PDF版。ブログ分割版もある)に載る。七月には同じ逸見と『二人雑誌『詩情』(詩版画集)を発行(詩情社)、山田耕作から好評激励の書簡をもら』っている。また、『短歌雑誌『日光』に詩「悲しみの枝に咲く夢」ほか四篇を発表』している(この「悲しみの枝に咲く夢」詩集「藍色の蟇」に所収する)。そして、この『八月月、白秋より詩集出版に話があり、すぐ自選の作品の浄書にかか』り、『九月、「長い耳の亡霊」を総題として浄書原稿を白秋に送』ったが、原氏は注記で、『白秋に送った原稿は握りつぶされたかたちで、詩集出版は実現し』なかった、とある。大正十四年には詩作がコンスタントに続く。私生活では、『五月、ライオン歯磨、本所の本店にもど』り、そこへ勤務した。同年十一月には、この年の夏以来、『文通していた従妹と会』っている。彼女とは『結婚を意識して恋愛関係にあったが、結婚には至らなかった』とある。この年、一方で、『女性への思慕の情をこめた発表のあてもない文語詩小曲が、しだいに多くなる』とあり、相変わらず、『医者通いつづく』とある。大正一五・昭和元(一九二六)年の条には、『四月文藝雑誌『戦車』に詩「顔」』(私は未読)『を発表、大木惇夫との交際がはじまる。五月、大木の計らいではじめて白秋に会う(二十九日、谷中天王寺の白秋宅で徹宵、話しこむ)。六月、白秋よりの来信で、再度詩集出版を激励され』、『同月、百八十余篇を浄書して白秋に送る。総題は『藍色の蟇(ひき)』』であった。原氏のこの年の最後の附記に、『(白秋に送った「自序にかへて」と「おぼえがき」付きの詩稿は、またもや握りつぶされたかたちで、再度詩集出版は実現されなかった。ただし、死後自費刊行される同名詩集の礎稿となる。)』とはある。私は昔から大手拓次は北原白秋の嫉妬によって世に出ることを邪魔された――白秋に「呪われた詩人」であると思っているのでる。]
靑い異形の果物
むらがる果物のこゑ、
果物は手に手に、
まぼろしの矛(ほこ)を取り、
あをじろい月夜の雪なだれのやうに、
ものすごくもえながら走る。