柳田國男 鉢叩きと其杖
[やぶちゃん注:本篇は以下に示す底本の「内容細目」によれば、大正三(一九一四)年九月発行の『鄕土硏究』初出の論考である。連載論考の一つ(そのため、文中で既に掲載した記事や、これからの内容を予告したりするので注意が必要。それは、原則、一々注記しない。悪しからず)で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。これは、現在進行中の「續南方隨筆」の「鹿杖に就て」に必要となったため、急遽、電子化することとした。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)を視認した(ここから)。但し、加工データとして、所持する「ちくま文庫」版全集の第十一巻の「毛坊主考」に収録されたものを使用した。
底本ではルビが少ないが、躓き易いもの、或いは、難読と思われる箇所には推定で《 》によって歴史的仮名遣で読みを添えた。一部は「ちくま文庫」版を参考にした。冒頭で述べた理由での電子化であるので、注は必要最小限度に留めた。また、一段落がだらだらと長いので、文中にも注を挟んだ。
また、本篇は旧時代(実際には、近代にも残り、今も隠然としてある)の差別民への柳田國男自身の差別意識(注で明確に示した)や、現在は使われていない差別用語や古い情報が多量に出現する。その辺りは心して批判的に読まれたい。それに関わって、一部の地名の現在位置は敢えて注しなかった箇所があることをお断りしておく。]
鉢 叩 き と 其 杖
關東の鉦打に對立して京以西の國々には鉢叩と云ふ部落がある。二者は單に名稱が似通うて居るのみでなく、其成立と生活狀態とに於て亦著しい類似を示し、元は一つの日知《ひじり》階級が右にも往けば左にも分れたのでは無いかと想像せしむる理由がある。ゆえに此次はその鉢叩を細敍するのが順序である。さて鉢叩と云ふ名稱は、鉦打《かねたたき》が鉦を打つから其名を得たのと同じく、鉢を叩いたが故に鉢叩だと云ふのが普通の說ではあるが、少なくも中古以來の鉢叩の叩くものは、鉢では無くて瓢《ひさご》であつた。從つて其ハチと云ふ語が不明になる爲に、色々珍しい傳說も現はれた。之に就いての意見は追つて述べて見ようと思ふ。第二の肝要なる點は、鉦打は時宗遊行上人の門徒であるに對して、鉢叩は今日までも引續いて空也上人の流れを汲む天台宗の一派であつたことである。鉦と瓢と二種の樂器の差別も、或は二派の念佛式の相異に基づくもので無いかと思ふが、それは自分のいまだ詳かにせざる所である。空也派では每年十一月十三日を以て祖師の忌日とし、其日より四十八日間卽ち除夜の晚まで、その派に屬する例の道心者が、瓢簞を叩き髙聲に念佛して每夜洛中洛外を隈なく𢌞る。之を鉢叩と稱し俳諧の冬季の一名物であつたから、京都の人で無くともよく知つて居る。但しそれが大槻如電翁などのやうな素人の思附《おもひつき》では無かつたことを、此《これ》から述べんとするのである。
[やぶちゃん注:「大槻如電(じょでん/にょでん 弘化二(一八四五)年~昭和六(一九三一)年)は学者・著述家。本名は清修(せいしゅう)。如電は号。仙台藩士大槻磐溪の長男で、弟は、かの辞書として知られる「言海」の著者大槻文彦である。彼の研究対象は歴史・地理・音楽・服飾等、非常に多岐に亙っている。詳しくは、当該ウィキを見られたい。柳田が「思附」きと批判する原拠は不明。]
京の鉢叩の居住地は四條坊門油小路(下京區龜屋町)の極樂院光勝寺、一名を空也堂と云ふ寺の地内であつた。其寺の住僧は十八家の鉢叩の一﨟(いちあい)卽ち最年長者であつて、此人のみは頭に毛が無く法衣《はふえ》を着た眞《まこと》の和尙で、代々法名の一字に空の字を用ゐて居た。其他の鉢叩は悉く有髮妻帶《うはつさいたい》で法衣の上ばかりと見ゆるようなものを着て居たが、それも元祿以後のことであつて、昔は皆鷹羽の紋を附けた素袍《すあを》の上ばかりを着ており、常は茶筅《ちやせん》を賣つて生計を立てゝ居たと云ふ(祠曹雜識十五、閑田耕筆二、佛敎辭典)。此徒自ら稱する所に依れば、彼等が祖先は平定盛《たひらのさだもり》と云ふ者であつた。獵をもつて常の業とし後世《ごぜ》の念もなかつたのを、空也の敎化《きやうげ》に由つて發心入道し、法名を眞盛《しんせい》と呼び私宅を捨入《しやにふ》して此寺を建てたとある。此緣起はどうも單純な作言《つくりごと》で無いやうだから些しく之を分析して見たい。先づ第一に寺の開基を獵人《かりうど》の歸依とすることは非常に多くある型である(鄕土硏究二卷一九頁參照)。此が京都の眞中である故にちと珍しく聞えるが、山々の伽藍の地は多くは以前の地主から其地を乞はねばならぬので、髙僧傳道の事績は必ず山人と交涉があつた。つまり髙野山の丹生明神(にふみやうじん)、三井寺の新羅明神(しんらみやうじん)乃至は羽前《うぜん》山寺《やまでら》の磐司(ばんじ)磐三郞(ばんざぶらう)などの話を世話に碎いた一條の物語である。第二には定盛が鹿を射て發心したと云ふこと、是は後に說かうとする鹿裏(かはごろも)鹿杖(かせづゑ)の由來を說明せんとするものらしい。第三には平定盛と云ふ名である。是は諸國の空也派の口碑に天慶の亂のこと及び將門の遺族とか亡靈とかの話を折々伴つて居るのを考へると、定の字は違うが最初は平貞盛を意味して居たらしい。空也の傳記に比べて年代は合ふ。唯《ただ》何分にも平家の總領が鹿を獵して生活する野人であつてはをかしいから(さう言へば獵人が京都の中央に住んだのもをかしいが)、誰かそつと別人にして置いたのであらう。法名を眞盛と云つたなどが殊にその想像を强くする。而して[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では以下総て「しかうして」と読んでいるが、私はこの読みが甚だ嫌いで、「しかして」と読むのを常としている。従って振らずにおく。]何の爲に貞盛を引合《ひきあひ》に出したかと言へば、前にもちょつと申したごとく(鄕土硏究二卷二二六頁)、戰亂の後に於て御靈《ごりやう》の憤怨《ふんゑん》を慰めねばならぬ必要を最も多く感じた人は、征討軍の中でも將門の當《たう》の敵たる貞盛であるべく、空也の念佛は又苑目的を達するに最有效の方法であつたから、緣起としてこの二つを結合させたので、決して空想の小說では無いのである。
[やぶちゃん注:「平貞盛」天慶二(九三九)年に発生した「新皇将門の乱」を母方の叔父藤原秀郷とともに平定(翌年)した人物。]
鉢叩は勿論京都以外の地方にも住んで居た。今其二三の例を言へば、近江栗太《くりもと》郡下田上《しもたなかみ》村大字黑津《くろづ》[やぶちゃん注:現在の滋賀県大津市黒津(グーグル・マップ・データ)。以下、無指示は同じ。]にはナツハイ堂の址と云ふ處があつた。空也の流れを汲む鉢叩と云ふ者、每年七月此處に來て瓢を叩き鉦を鳴《なら》して踊念佛をしたと傳ふ。件《くだん》の鉢叩の子孫は享保年間までは相續して居つたが、後は只此堂の跡と云ふ地に石佛二體があるのみ云々(栗太誌十九)。ナツハイ堂は夏祓堂(なつはらひだう)であらうとのことである。同國東淺井《あざゐ》郡小谷《おたに》村大字別所[やぶちゃん注:現在の滋賀県長浜市湖北町(こほくちょう)別所附近。]の枝《ゑだ》鄕大洞《おほほら》と云ふ地には、ずつと後年まで鉢叩と云ふ者が村の南方に離れて住んで居た。空也上人の流れを汲む者だと云ふ(淡海木間攫《あふみこまざらへ》十)。世俗に所謂唱門師《しよもじ》と云ふは此かとの說がある。筑後三瀦(みつま)郡江上村大字江上[やぶちゃん注:現在の福岡県久留米市城島町(じょうじままち)江上(えがみ)附近。]には、少なくも二百年前迄、歌舞妓傀儡《くぐつ》及び踊念佛を業とし俗に鉢叩と呼ばるゝ者が十戶ばかり住んで居た。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童俳優を專らとし人をして頤(おとがひ)を解《と》かしめ、凶事には念佛褊綴(へんてつ)[やぶちゃん注:「褊裰」とも書く。法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して、十徳のように製した衣。主に空也宗の鉢叩の法衣であったが、江戸時代には羽織として医師や俗人の剃髪者などが着用した。「へんてつ」とも読むが、慣用読み。グーグル画像検索「褊綴」をリンクさせておく。]を專らとして人をして感を起さしむ、其體《てい》凡俗にして或時は衣冠(!)を帶して鄕士に形容し、或時は編綴を着け僧侶に準擬《じゆんぎ》す。故に其居處を名づけて寺家《じけ》と謂ひ、世俗呼びて鉢叩又は念佛坊と謂ふ。其先を問へば傳へ云ふ空也上人の流れを汲む者と云々とある(筑後地鑑《ちくごちかがみ》上)。鉢叩が所謂河原者《かはらもの》と似たやうな業體をするのは妙であるが外にも例がある。つまり念佛を賴む人が少なくなり茶筅の需要も多くない結果の據無《よんどころな》しであらう。筑前では今の糸島《いとしま》郡前原(まへばる)町大字泊[やぶちゃん注:現在の福岡県糸島市泊(とまり)。]の大日堂[やぶちゃん注:同地区には現存しない模様だが、近くの南東のこちらに、三つの「大日堂」を確認出来る。また、サイト「お寺めぐりの友」のこちらに、泊のここにある曹洞宗の歓喜山桂木寺(けいぼくじ)について、『本堂に向かって右手奥に大日堂がある。 安置されている大日如来は』、『元は大祖山大日寺の本尊』であって、『大日寺は同じ泊村にあったが』、『明治・大正期も近隣住民不在の為、大正』一三(一九二四)年九『月にここに移された』とあって、さらに、「糸島郡誌」に『よれば、大日寺は元は』糸島市志摩芥屋(しまけや)『の大祖神社』(たいそじんじゃ:ここ)『の神宮寺であったようである』が、『建治年中』(一二七五年~一二七七年)に『大日寺は』この『泊村に移された』とする(大日如来の写真有り)。さらに驚くべきことに、『桂木寺の門前の道を東に』二百メートル『程進むと、民家風の建物の扉に「高野山真言宗 太祖山大日寺」と表記された看板が掲げられている。ここが、芥屋から移転してきた大日寺の跡と思われる』とあった。調べてみてよかった(但し、この辺りだが、ストリートビューで見る限り、現在は民家自体が見当たらない)。]の傍に又數十人の鉢叩が住んで居た。此大日堂は以前の大祖山大日寺の址で、天慶四年[やぶちゃん注:九四一年。]空也上人の創立する所と稱し、本尊は志摩(しま)郡[やぶちゃん注:筑前国(福岡県)のそれ。旧郡域は当該ウィキを参照されたい。]五佛の一つで名譽の大日である。大日堂の境内に住むからか鉢叩のことをも後には人が大日と呼んだ。最初は專ら九品《くほん》の念佛を修じたのであつたが、次第に歌舞を業として四方に遊行し、淫靡の音樂をもつて俗を悅ばしめて口を糊《のり》すやうになつた。又傀儡の舞をなさしむとあるのは人形を使つたことであらう。霜月十三日をもつて空也の祭を營んだと云ふ(太宰管内志引、貝原翁[やぶちゃん注:貝原益軒。]說)。筑前の中には博多聖福寺の附近に住する寺中《じちゆう》と云ふ部落[やぶちゃん注:ママ。「博多聖福寺の附近」、「寺中と云ふ部落に住する」ではないか。現在の福岡市博多区御供所町(ごくしょまち)のこの臨済宗聖福寺附近。同寺自体は建久六(一一九五)年に本邦の臨済宗の開祖栄西が宋より帰国後に建立したもの。]、蘆屋植木[やぶちゃん注:「蘆屋」は遠賀郡芦屋町(あしやまち)、「植木」は旧鞍手(くらて)郡植木、現在の直方(のおがた)市植木。この二地区は江戸時代から芝居が盛んに上演されたことが知られている。則ち、以上の集落は一種の役者村を形成していたのである。]の念佛と名づくる人民など皆此類であつたと云ふ。蘆屋念佛が空也の徒であつたか否かはまだ知らぬが、此《これ》も亦昔は九品念佛を專らとした者が、後には歌舞の藝を諸國に鬻(ひさ)ぎて妻子を養ふやうになつたのである。而して芦屋に於てもやはり寺中町などゝ、此徒を呼んだと云ふのを考へると(太宰管内志)、博多の寺中及び筑後江上の寺家などゝ共に、何れも大寺の庇護の下に生息して居たこと恰《あたか》も東國に於て院内(ゐんない)と稱する一種の陰陽師《おんみゃうじ》が常に寺の世話を受けて終《つひ》に院内と云ふ名稱を得たのと同じでは無かつたかと思ふ。[やぶちゃん注:「院内」東日本に於いて民間陰陽師の村を称した。前の役者(彼らは「河原乞食」の蔑称でも呼ばれた)たちの多く住んだ村と同じく、しばしば非差別民とされていたことは注意しておくことが必要である。柳田は記載に際して、そうした注意を全くと言っていいほど払っていない。戦中以前の本邦の官学系民俗学者にありがちな痛い汚点と言える。というか、柳田國男は、実は、江戸以前の賤民を別な民族と考えていた確信犯の差別主義者だったのである。サイト「本の話」の角岡伸彦氏の「ケッタイな問題と私」(角岡伸彦著「はじめての部落問題」のレビュー記事)に、『柳田国男は「恐クハ牧畜ヲ常習トセル別ノ民族ナルベシ」と論じ』たとある。また、以下、すぐ後に名が出る竹葉寅一郎は慈善活動家で部落解放運動に寄与あった人物であるが、その彼が、『「えたの女が生殖器の構造異なれり」と身体構造の違いを指摘した』とある。]
又ハチと呼ぶ部落がある。事によると右の鉢叩と同類であるかも知れぬ。ハチの分布に就いては自分は殊に詳しく無いが、紀州熊野でハチ又はハチソボと云ふ階級はシクの下エタの上に置かれて居て其婦人は或は口寄巫《くちよせみこ》を業としている(鄕土硏究一卷二五三頁)。伊賀では鹽房(をんばう)(隱坊)[やぶちゃん注:古く、火葬や墓所の番人を業とした人。江戸時代、賤民の取り扱いをされ、差別された。原義は、本来、寺の下級僧が行っていたことから「御坊」であったものが卑称として転じたものと考えられる。]のことをハチと云ひ土師(はじ)と書いたものもあつた(賤者考《せんじやかう》[やぶちゃん注:紀州徳川家に仕えた国学者本居内遠(もとおりうちとお)の制度考証書。弘化四(一八四七)年成立。江戸時代に置ける被差別身分の由来を凡そ五十二項目に亙って考証したもの。その起源を古代の律令制に求める一方、同時代の被差別民の区分を細かく記し、特に芸能民の資料が詳しい。但し、その歴史的起源については誤りが多く、古代を是とする国学思想の偏見から、結局のところ、差別する立場を取っているのが惜しまれる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)]。穢多《ゑた》ではあるが昔は僧形であつたと云ふ(竹葉寅一郞氏報告)。この點はまだ些しく疑はしい。文化四年[やぶちゃん注:一八〇七年。]松平大隅守家來より寺社奉行へ出したる書上によれば、其領分丹後國にも鉢と稱する者が居た。竹細工をもつて渡世とし、村竝《むらならび》には住居すれども家居を混雜せず、百姓町人と緣組はせざれども穢多非人の類には非ずとある(祠曹雜識《しさうざつしき》四十)。この竹細工云々の記事から考へるとハチはどうやらハチヤ又はチヤセンと稱する部落と同じ者らしい。鉢屋ならば山陰の諸國に澤山居た。前に引用した賤者考の中にも、「出雲にては番太《ばんた》をハチヤと謂ふよし、彼國より留學に來れる者言へり」とある。伯耆志を見ると村々の雜戶《ざつこ》に鉢屋甚だ多く、屠兒《とじ》[やぶちゃん注:中・近世、家畜などの獣類を屠殺することを業とした人を指す卑称。]とは別にして揭げてある。米子《よなご》に久しく居られた沼田賴輔[やぶちゃん注:「よりすけ/らいすけ」。紋章学者・歴史学者。神奈川生まれ。]氏は、伯州のハチヤは關東の番太に似た者で穢多ではないと言はれたが、勿論番太專業では此だけの人口は食へぬから他の職も色々あつたらう。因幡岩美郡中ノ鄕村の鉢屋などは石切細工が生業であつた(因幡民談三。三浦周行《ひろゆき》[やぶちゃん注:歴史学者。]氏は出雲の人であるが、その鄕里のハツチヤに就いて斯う言はれた。彼等は箕を直し茶筅を作り又石を切る。古くより土着して居るので金持も多い云々。此徒茶筅を作るが故に又一にチヤセンとも呼ばるゝことは次の章でさらに說はうと思ふ[やぶちゃん注:「茶筅及びサヽラ」。底本のここから]。而して鉢屋茶筅が亦空也の門派であることは明白な證據がある。松平出羽守家(松江侯)の同じ文化四年の書上に曰く、此領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱いは穢多に近い。國内に鉢屋寺が三箇寺ある。去《さる》丑年(文化二年)のことであるが、京都空也堂の院代と稱する僧下り來り、雲州鉢屋は我寺末派の者である故、爾今《じこん》取扱《おりあつかひ》を改めて貰ひたいと申し出《い》でた云々とあつて、之を謝絕した顚末が詳しく記してある(祠曹雜識四十。之を見ると此派の勢力が小さくて遠國の門徒の世話が時宗の鉦打ほども行屆かず、終に本業の念佛は忘却して色々の雜役を拾ふ所から、次第に特殊の待遇を受けねばならぬやうになつたのかと思ふ。山陽道は一般に茶筅の名で通つて居るが、獨り廣島領のみは之を穢多と同一に取り扱ひ、藝藩通志などにも屠者(としや)と瞽者(こしや)と二種より外の名目が見えぬ。今の廣島縣安佐《あさ》郡龜山村には大畑・靑・丸山・大野などの特殊部落[やぶちゃん注:差別用語として現在は使用してはいけない。以下同じ。]がある。此地の口碑によれば、昔はエタに長利派(ちやうりは)八矢(はちや)中間(なかま)の三種族があつたが後に皮田《かはた》と云ふ一種族新たに起り專ら獸類の皮を取扱ふやうになつた云々(廣島縣特殊部落調)。此古傳は頗る鉢屋退步の歷史を語るものゝやうに思ふ。
鉢叩には鉦打と違ひ色々妙な持物《もちもの》があるために、其由來を訊ねるのによほど手懸りが多い。瓢簞と茶筅の事は別にまとめて之を說くつもりである。今一つ注意すべきものはワサヅノと名づけ鹿の角を頭に取附けた杖である。鉢叩が此杖を持つことは七十一番の職人盡歌合《しよくにんづくしうたあはせ》の歌にも見え(和訓栞《わくんのしをり》)、又明應年間[やぶちゃん注:一四九二年~一五〇一年。]に出來たと云ふ甘露寺[やぶちゃん注:不詳。寺名ではなく人名か。]の職人盡の繪にも、鹿の角の附いた杖に瓢《ひさご》を下げて之を地に立て、鉢叩が其傍で別の瓢を叩いて居る所がある(筠庭雜考《きんていざつかう》三)。後世の俳諧の鉢叩は左の手にフクベを持ち、右には一尺ばかりの細い篠竹を持つて之を打つてあるくから(增訂一話一言《いちわいちげん》四十六)、終に鹿の角とは別れてしまつたが、以前は杖も鉢叩に缺くべからざる道具で、而も鉢叩に限つて持つものと認めて居たらしい、と云ふのは三百年前の編述に係る空也上人繪詞傳、及び次いで世に出た雍州府志《ようしうふし》卷四にも、上人が北山に假住《かりずみ》せられし頃、每夜來て鳴いた鹿を例の平定盛が射殺したので、憐憫の餘り其角と皮とを乞ひ受け、皮は之を裘(かはぶくろ[やぶちゃん注:ママ。「かはごろも」の誤りであろう。「ちくま文庫」版も『かわごろも』と振っている。])として着用し角は之を杖頭に插した云々。遠慮の無いことを言へば此話は夢野の鹿の燒直しである。著聞集か何かにも下僕が鶯を射留めた話があつたが[やぶちゃん注:「古今著聞集」にそんな話、載ってるかなぁ? 私は記憶にないんだが。]、昔の人は克明だから斯う云ふ出典のある緣起をこしらえたので、虛誕(うそ)にしても罪が淺い。ワサヅノの空也門徒ばかりの物で無いことは證據がある。例へば袋草紙に惟成辨(これなりのべん)出家をして後、賀茂祭の日にワサヅノを持ちて一條大路を渡るとあり、夫木集の歌に「ワサヅノを肩に掛けたる皮衣けふのみあれを待《まち》わたる哉」[やぶちゃん注:衣笠内大臣藤原家良(いえよし)の一首。]などゝあるのは、昔は賀茂の祭にかゝる風體《ふうてい》の者が出たからであらう(和訓栞)。或は賀茂と貴船との關係から、此も空也上人の因緣に基いたやうに說き得るかも知らぬが、些し模倣の時代が早過ぎるやうに思ふ。今昔物語には金鼓《こんぐ》を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある。此なども空也に隨從した鉢叩の先祖と見られぬことは無かろうが、他に之を推測せしむる材料なき限《かぎり》は當時の聖《ひじり》なる者が一般にこんな杖を突いて居たと解するのが正しいと思ふ。
[やぶちゃん注:「夢野の鹿」「夢野の牡鹿(をじか)」とも言う。摂津国菟餓野(とがの)に住んでいた、ある鹿についての伝説。菟餓野の牡鹿が、自分の背に雪が降り積もり、薄が生える夢を見、それを妻の牝鹿に話したところ、牝鹿は、かねがね、夫が淡路島の野島に住む妾のもとに通うのを妬んでいたことから、この夢を、「『薄』は矢が立つこと、『雪』は殺された後で白塩を塗られること。」と占って、夫が妾のもとに行くことを止めた。しかし、夫は聞き入れないで淡路島へ出かけ、途中で射殺されたという。この後、「菟餓野」は「夢野」と改名された。「日本書紀」の仁徳三十八年七月の条や、「摂津風土記」逸文に見える伝説で、後、和歌などにもよく詠まれている。この伝承から転じて、「気にかかっていた物事が予感通りになること・心配していた事柄が現実となって現われること」の喩えとして故事成句として使用される(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「今昔物語には金鼓を叩き萬(よろづ)の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある」「今昔物語集」巻第二十九の「阿彌陀聖殺人宿其家被殺語第九」(阿彌陀の聖(ひじり)、人を殺して、其に家に宿り殺されし語(こと)第九)を指す。「やたがらすナビ」のこちらで新字だが、電子化されたものが読める。……しかし、これ、厭な話だぜ。]
さてワサヅノと云ふ語の意味であるが、此迄未だ明瞭なる解說をした人が無い。ワサとは今でも紐を結んで輪にした形を謂ふから、各地を漂泊する旅の法師が其杖の頭を鹿角にした最初の趣旨は、荷物などを之に引つ掛けて肩にせんが爲ではなかつたか。此點は聖の根原を知る爲によほど重要な事であるから、支那其他の外國の類例を比較して詳しく調べたいものである。自分が之と關係があらうと思ふのは、古來鹿杖の漢字を宛てゝ居るカセヅエのことである。倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠《かせつゑ》、同じく行旅具《かうりよぐ》の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖。卽ち古代の漢名は𣈡[やぶちゃん注:音は「テイ・ダイ」。]で、又橫首杖とも云ふを以て察すれば、近世の坐頭が用ゐて居た所謂手木杖(しゆもく《づゑ》)のことかとも思はれる。此事に就いては伴信友《ばんのぶとも》の最も綿密な考證があるが(比古婆衣《ひこばえ》九)、其結論のみはまだ容易に信じられぬ。其說の大要に曰く、カセヅヱのカセは機織《はたおり》に使ふ挊で(古名カセヒ)絲を卷く爲に作つた二股の器《き》である。古く鹿をカセギと謂つたのも其角の形が似て居るからで、此と同樣に後世の所謂サンマタ或は枯木の枝をもカセギと呼んだのであると云ひ、挊杖《かせづゑ》の名の起りも其杖の尻が二股に分れて居た爲だらうと、繪卷などの中から尻の二股なる多くの例を寫し出して居る。而して其一名を橫首杖《よこくびづゑ》と云つた說明としては、單にさう云ふ尻の挊形なる杖が多くは其頭を手木形にして居たからと云ふことにして居るが、此點は自分の承認しにくい說である。現に伴翁の引證した繪の中にも、尻二股にして頭の橫首ならぬもの、橫首杖にして尻の普通のものもある。又平家物語の淸盛高野登りの條にも、老僧の白髮なるがかせ杖の二股なるにすがつて出で來給えりとあるを見ても、カセヅヱ必ずしも尻二股でなかつたことが分り、之を挊と名づけた所以は寧ろ頭の手木形であつたからと想像せねばならぬ。法師が挊杖を持つた例は外にもある。京都實法院の什物たる解脫房貞慶上人の像などはそれで、坐像の前に挊杖と草履が置いてある(考古圖譜四)。この上人は源平の亂の後京の眞如堂再建の爲に勸進聖《くわんじんひじり》となつて諸國を巡つた人と云ふから(眞如堂緣起)、多分は其德を記念したものであらう。仍《よつ》て思ふに橫首杖を行旅具に算へたのは、此杖も亦ワサヅノと同じく荷物などを結附《むすびつ》けて肩にするの用があつた爲で、更に之を鹿杖(ろくじやう)と書くのは單にカセの字の宛字では無く、鹿角を杖頭《つゑがしら》に插した空也上人などのワサヅノも亦カセヅエのことであつた證據かと思ふ。前に引いた今昔の阿彌陀聖の條に、「鹿の角の杖の尻には金の机にしたるを突き」[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]とあるが、机の字は杈《またぶり》椏《また》などの誤りかも知れぬ。さすれば伴翁の說の通り、此種の杖には尻の二股なのが多かつたと云ふ一例になる。是も亦行旅の必要からであらうが、西洋では鑛物又は地下水を搜索する術者が、昔からこの二股の杖を用いて居たのは注意すべきことである。
[やぶちゃん注:「倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠、同じく行旅具の部に橫首杖、唐韻云𣈡橫首杖也、漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖」「和名類聚鈔」の国立国会図書館デジタルコレクションの元和三(一六一七)年の版本の当該部を示す。前の「僧房具」のそれは、ここ。後者の「行旅具」のそれは、ここ。
「鹿の角の杖の尻には金の机にしたるを突き」「やたがらすナビ」では、「朳(えぶり)」となっている。これは「柄振り」で農具の一種。長い柄の先に長めの横板の附いた鍬のような形のもので、土を均(なら)したり、穀物の実などを搔き集めたりする際に用いる。「えんぶり」とも言う(なお、能の小道具の一つで、これを元に簡略様式化したもので、竹竿の先に台形の板を附けたもの。雪搔きの仕草に用いるのものもかく呼ぶ)。「今昔物語集」は全部で五種を所持するが、池上洵一編の抄録本の岩波文庫「今昔物語集 本朝部 下」(二〇〇一年刊)の脚注に、『「杈」(またぶり)』が正か。二股。杖の下端には二股の金具えお付けていた意』とされた上、まさに、続けて『このあたりの姿は六波羅蜜寺の空也上人像に似て、阿弥陀聖の基本的スタイル。』とある]
東京西郊の納凉地熊野十二所《じふにそう》の森ある村の名を古くより角筈(つのはず)と云ふ。今は淀橋町《よどばしちやう/よどばしまち》の一《いち》大字《おほあざ》である[やぶちゃん注:現在の新宿区西新宿のここで、「ひなたGPS」の戦前の地図の方を参照されたい。]。江戸志には十二所緣起を引いて、伊勢神宮の忌詞《いみことば》に僧を髮長《かみなが》と稱し尼を女髮長《をんなかみなが》と稱し優婆塞《うばそく》[やぶちゃん注:在家信者。]を角筈と云ふ、其角筈であらうとある。成程熊野は昔より優婆塞の齋《いつ》き祀る神であるから、其社に近い角筈の說明としては尤もらしい。而して右の神宮の忌詞の古く物に見えて居るのは、延曆二十三年[やぶちゃん注:八〇四年。]八月造進と稱する大神宮儀式帳である。優婆塞と云ふ梵名が日本では例の聖又は沙彌《しやみ》を意味して居たことは此からも追々立證する考へである。其ヒジリを何故に角波須《つのはず》と呼ばしめたか。今までは此と云ふ心惡(《こころ》にく)い說も出なかつた。自分の見る所ではやはり亦ワサヅノまたはカセヅヱに基くものと思ふ。筈は言海には「打違《うちちが》ひたる文、又くひちがひ」とある。それ迄には進まずとも弓端調と書いてユハズノミツギと讀ませた古例を推せば、頭《かしら》を鹿角にした杖を突くのが特色である故に、角筈を以て聖の隱語としたと云ふても無理はあるまい。さうなれば鉢叩の本源は稍〻又明らかになるのである。
坐頭卽ち盲人の良い階級に手木杖《しゆもくづゑ》を持つことを許した理由も、自分はやはり同じ方向より觀察したいと思ふが今は枝葉に亙るから略して奥。本節の論ずる所を一括すれば、要するに鉢叩鉢屋と云ふ部落も亦毛坊主であつて、空也派に從屬し踊躍念佛《ゆやくねんぶつ》を專業とした一種である。彼等の持つ杖は昔の放浪生涯を表示して居る。今は土着して居るが世間の待遇は冷《ひやや》かであつた。彼等の職業は賤しかつたが其說く所の由緖は堂々たるものであつた。さうして作り言《ごと》が多かつたらしいと云ふ迄である。關東の鐘打と如何によく似て居るかは尙追々と立證せられるであらう。
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