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2023/04/29

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート ヒジリと云ふ語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」標題後の参照附記の右に『柳田国男「聖という部落」参照』とある。これは、先に電子化した「柳田國男 鉢叩きと其杖」を含む連載の直前の一章「聖と云ふ部落」を指す。初出は『郷土研究』大正三(一九一四)年八月初出で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。当該の柳田の論考は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本登録」で見られる「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)のここから視認出来るので見られたい。今までのように、それを電子化すると、結局、一日仕事になるので、やらない。悪しからず。]

 

     ヒジリと云ふ語 (大正四年四月『鄕土硏究』第三卷第二號)

          (『鄕土硏究』第二卷第六號三二七頁參照)

 柳田君の論文に、小山田與淸《ともきよ》が『日知(ひとり)は日之食國(ひのをすくに)を知看(しろしめ)す日神(ひのかみ)に比したる美稱也」と云ふは、聖帝(せいてい)と書いてヒジリノミカド抔と訓んだ場合には當嵌《あてはま》るが、「日本紀」の古訓に、『大人』、又、『仙衆』を『ヒジリ』と讀み、後に、『人丸は歌の聖(ひじり)』抔云ふに適用し得ぬ、と有る。

[やぶちゃん注:以上は、冒頭注の当該書のここの段落冒頭『ヒジリと云ふ語が佛敎の中で發生したものでないことは、其語義の方からも證明し得るやうに思ふ。……』以下に出る。

「小山田與淸」国学者・故実家であった小山田与清(天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)。号は松屋(まつのや)。江戸の高田氏の養子となり、漕運業を営み、後に隠居して小山田の本姓に復し、学問に専念した。村田春海門下であるが、漢籍にも造詣が深く、博覧を以って知られ、特に考証に力を尽した。蔵書五万巻に及び、「群書捜索目録」の編纂に心血を注いだ。平田篤胤・伴信友とともに春海・加藤千蔭以後の大家と称される。「考証随筆松屋筆記」(文化末年(一八一八)頃から弘化二年(一八四五)頃までの約三〇年間に和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在知られているものは八十四巻)が著名(概ね「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)であるが、以上の引用は柳田論考の方に、これは孫引きで、『燕居雜話引十六夜日記抄』を出典とする。「燕居雜話」(天保八(一八三七)年自序)は江戸後期の儒者日尾荊山(ひおけいざん:本名は瑜(「ゆ」と読んでおく)の考証随筆。所持する吉川弘文館随筆大成版で確認した。「卷之四」の「聖字和訓」である。短いので、国立国会図書館デジタルコレクションの正字表現の「日本隨筆大成 卷八」(昭和二(一九二七)年)所収の当該部を視認して以下に示す。【 】は底本では二行割注。

   *

   ○聖字和訓

小山田與淸が、十六夜日記抄に、日知(ヒシリ)は日之食國を知看(シロシメ)す日神に比したる美稱なり。神武紀己未の年に、大人【ヒジリ、】垂仁紀九十九年に、神仙【ヒジリ、】云々。また聖帝【ヒジリノミカド、】云々。續日本紀十九に、聖之御子曹云々。萬一に日知之御世徒云々。此外いと多かり。歌仙にいへるは、古今の序に、柿本人丸なむうたのひじりなりけると有といひて、ひじりといふことは、日ノ神に比したるといへるは如何にぞや。[やぶちゃん注:以下は底本には『頭書』とある。鍵括弧閉じるまでが、それ。]瑜おもヘらく、是壯歲忽々の考删なるべし。」こは生知の聖の義にして、獨知の略語也。まして歌の名人なればとて、かけまくも賢き日神にたぐへ奉るべきことかは、萬葉に日知とかけるは、訓を借りたるにて、例のことなり。宇義もていふべきことにあらぬぞかし。

   *

この「壯歲忽々」(さうさいこつこつ)「の考删」(かうさつ)というのは、「壮年の頃の早まった思い込み」という意であろう。]

 予、「古事記」を見るに、故其大年神。娶二神活須毘神之女伊怒比賣一、生二子大國御魂神一、次韓神。次曾富理神、次白日神、次聖神。〔故(かれ)、其の大年神(おほとしのかみ)、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の女(むすめ)、伊怒比賣(いのひめ)を娶(めと)りて生める子は、大國御魂神(おほくにみたまのかみ)、次に韓神(からのかみ)、次に曾富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)、次に聖神(ひじりのかみ)。〕本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、山城の向日明神《むかひのみやうじん》などを傍證として擧居《あげを》る。「古事記」に載せた同父兄弟の諸神の事功、相類《あひるゐ》せるが多い。大年神(おほとしのおかみ)は穀(たなつもの)の神で、向日神(むかひのかみ)と聖神(ひじりのかみ)の外に、園(その)の神、山里(やまさと)開(ひら)いた神、竈(かまど)の神、井の神、田地の神等を生んだ。乃《すなは》ち其兄弟が多くは田宅に關するから、類推すると、件《くだん》の二神も村落開設に功有《あつ》た神だらう。「記傳」卷六に、『上代日向(ひむか)ふ所を賞稱(ほめたゝ)へたる事多し』と云ひ、卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』〔此の地は朝日の直(た)だ刺す國、夕日の日照る國」〕の傳に、龍田風神祭祝詞《たつたのかぜのかみのまつりのりと》「吾宮は朝日の日向(ひむか)ふ處、夕日の日隱(ひかく)る處」等の古辭を引いて、古く、或は「日向(ひなた)」或は「日影(ひかげ)」を讃《ほめ》た由、いひ、「萬葉集」に、家や地所を詠む迚《とて》、「日に向ふ」とか、「日に背《そむ》く」とか言うたのが、屢ば見ゆ。日當りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事經濟未熟の世には、家居《いへゐ》と健康にも、大利害を及ぼせば、尤も注意を要した筈だ。又。日景(ひあし)の方向と、增減を見て、季節・時日を知ること、今も、田舍に少なからぬ。隨つて察すれば、頒曆(はんれき)抔、夢にも行《おこなは》れぬ世には、此點に注意して、宮や塚を立て、其影を觀て、略《ほぼ》時節を知《しつ》た處も本邦に有ただらう。されば、向日神(むかひのかみ)は、日の方向から、家相・地相と曆日を察するを司つた神と愚考す(「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條、サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」參看)。

[やぶちゃん注:『本居宣長の「記傳」十二に、『白日神の「白」の字は「向」にて「牟加比(むかひ)」なるべし。』とて、……』国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年日本名著刊行会刊)の「第二」のここ(左ページ)で当該部が視認出来る。

「卷十五、『此地』『朝日之直刺(たゞさす)國。夕日之日照(ひてる)國』の傳に、龍田風神祭祝詞……」同前の著書のここで視認出来る。右ページの「○夕日之照國」の注の中に出現する。

『「エンサイクロペジア・ブリタニカ」十一板、卷廿、オリエンテイションの條』「Internet archive」の原本のここから(右ページ右段下方)から視認出来る。

『サー・ノルマン・ロキャー「ストーンヘンジ」』イギリスの天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Sir Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)が一九〇六年に刊行した‘Stonehenge, and Other British Monuments Astronomically Considered’ (ストーンヘンジ、天文学的に考慮されたそれ及びその他のイギリスの石造建造物)。幸いなことに、英文サイトこちらで、電子化されたものが分割して読めるようになっている。]

 予は、柳田君の前に、君同樣、「ヒジリは『日を知る人』、卽ち、漢語で書けば『日者(につしや)』と云ふ語抔が、其初《はじめ》の意味。」と解いた人有るを、聞《きか》ず。隨《したがつ》て、柳田君の此解說を近來の大發明と感じ入り、其から類推して向日神(むかひのかみ)を上の如く釋《とい》たのだ。而して、向日神が、日の方角を察して家・地・曆日を知る神で、其弟、聖神(ひじりのかみ)は、日の次第で善惡を知つた神で、頗る似寄つた職を兄弟が司つたものに相違無い。日の次第や善惡を知悉する、乃《すなは》ち、曆と占《うらなひ》とを兼ねた者を聖人(せいじん)とするは、柳田君が擧げた新羅王の外に多々例有り。支那の上古、三皇五帝は、多く律・曆制定に功有《あり》て聖人たり。後代にも、刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ。其頃の曆は、孰れも曆と占を混《こん》じた者だ。ヨセフスの語に、上帝、大洪水前の諸聖父(パトリアルクス)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を長生せしめたは、其發明した幾何學と星學を成就せしむる爲で、六百年歷《へ》て、一運、過《すぐ》るから、せめて六百歲生きねば此成就は望まれぬに由《よ》ると云《いつ》たのも、是等の智識富める者を、神異の人とするに出たのだ(一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)。プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章に、古祕魯《ペルー》國人の曆學が、甚だ未熟だつた事を評して、古墨西哥(こメキシコ)の僧は若干の曆學智識に基いて星占術を立て、他から神聖らしく見られたが、祕魯の僧徒は、悉く、日の後裔と仰がるゝ貴族の出身ばかりだつたので、別段、星占術(アストロロギー)で身に威光を添ふるを要せなんだからだ、と說いた。向日神や聖神が、天照大神の末でなくて、素盞嗚尊《すさのをのみこと》の胤(すゑ)だつたのも、古祕魯同前の理由に出たものか。

[やぶちゃん注:「柳田君が擧げた新羅王」冒頭注の当該書のここの左ページ十行目下方以降に記されてある。

『刑和璞(けいくわはく)、曆の名人僧一行(いちぎよう)を、聖人ならんと歎じた事、「酉陽雜俎」に見ゆ』「中國哲學書電子化計劃」のこちらの二行目から影印本原文が視認出来る。第五巻の「怪術」パートにある。但し、この部分は長い話の一節で、開始箇所は、この後ろから二行目である。所持する今村与志雄訳注の「東洋文庫」版(一九八〇年平凡社刊)の同書の巻一の注によれば、「刑和璞」(そちらでは、「刑」ではなく「邢」である)は盛唐の道士で、『人の寿命を予知する能力に恵まれていた』とあり、「一行」(六七三年~七二七年)については、僧で科学者。特に暦象・陰陽五行に詳しかったため、玄宗皇帝の治世の開元暦を作っている。この僧は我々の想像を絶する有名人で、『現在、中国古代の代表的科学者のひとりとして、郵便切手(一九六二年一二月一日発行)にもなっている』(この切手は彼の中文ウィキに掲げられてある)。『一行については、唐代、一種の magician として目されていたのか、超現実的な奇異な逸話が多く語りつがれていた』とあった。本邦でも「真言八祖」(伝持の八祖)の一人に数えられている。

「聖父(パトリアルクス)」カタカナはラテン語。“patriárkhês”。人類の父と考えられている、聖書初期の登場人物の名でもあり、現在は「総大司教」を指す。

『一八七七年板、フラムマリオン「星學譚奇(アストロノミカル・ミツス)」二五頁)』これは、書誌データが正しくない。確かに、原著はフランスの天文学者で作家でもあったニコラ・カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion 一八四二年~一九二五年)が書いた‘Histoire du ciel’(「天国の歴史」:一八七二年刊)ものだが、これはそれをもとに、イギリスの地質学者で、聖公会聖職者でもあったジョン・フレデリック・ブレイク(John Frederick Blake 一八三九年~一九〇六年)が英語に翻案した‘Astronomical myths : based on Flammarion's History of the heavens’ (「天文学の神話――フラマリオンの「天国の歴史」に基づく」)である。「Internet archive」のこちらでブレイクの原本が見られ、ここが当該部である。

『プレスコットの「祕魯征服史(ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー)」一卷四章』底本ばかりでなく、「選集」も書名を、それぞれ「祕魯制服史」「秘魯制服史」とやらかしているのには呆れ果てた。同書はアメリカの歴史家で、特にルネッサンス後期のスペインとスペイン帝国初期を専門としたウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickling Prescott 一七九六年~一八五九年)が書いた‘The Conquest of Peru’(「ペルーの征服」:一八四七年刊)。「Internet archive」の一九〇八年版だが、当該章はここから。]

 兎に角ヒジリは日知(ひじり)で、曆書無い代には、中々、尊ばれた事、今日、田舍で「槌《つち》の入り」とか、「八專(はつせん)が來た」とか、心得た者は、梅雨(つゆ)明かぬに、糊を拵へず、種蒔き時を間違へぬほどの益は、必ず、有り。是等の心得無き者は、每々《たびたび》大齟齬(おほすかまた)をやらかすので、察すべし。是を以て、「古事記」の筆者、業(すで)にヒジリに「聖」の字を宛てたは、孔子以後、聖人と無し抔いふ儒說《じゆせつ》から見たら、餘りの事だらうが、常人に勝れた物知りを賢人と見立てて、拔群の賢人を聖と做《みな》す眼には、物知つたばかりの賢人の上に、特種の神智を備へたらしい日者を聖と立てたは尤もな仕方だ。扨、其日知りの道を司るとか、始めたとかの意で、聖神を立てたのだろ。近い話は、英語や佛語の Sage を聖人と譯した人も有るが、原(もと)拉丁《ラテン》の Sapiens(博識(ものしり))から出たので、聖賢孰れにも充て得る。英語で Wise Man と釋(しやく)するから、先《まづ》は賢人に當《あた》る。然《しか》るに、英語で Wise Woman 、佛語で Sage Femme 、孰れも、字の儘では、「賢女」(若《もし》くは聖女)だが、前者は「巫女(みこ)」又は「卜女(うらなひをんな)」、又、「魔術女」、後者は「產婆」に限られた名と成居《なりを》る。是はラテン語 Saga 、複數で Sagae が、產婆・卜女・媒女《なこうどをんな》・香具(かうぐ)媚藥賣(ほれぐすりう)り・墮胎師(こおろし)等に涉《わた》れる總名で、老衰した娼妓抔が、此等の如何《いかが》はしい藝道なら、何でも知《しつ》て居《をつ》た「怪《けし》しからぬ物知り女」を指した名で、其を「賢女」、又、「聖女」と英・佛に譯した所が、「日知り」を「聖」に充《あて》た「古事記」筆者の用意に似て居《を》る(一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」二卷一二五頁參取)。

[やぶちゃん注:『一八五一年板、ジュフール「賣靨史(イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン)」』不詳。]

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