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2023/04/09

柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」

 

[やぶちゃん注:本篇は、現在進行中の南方熊楠「續南方隨筆」の「池袋の石打」のために必要となったため、急遽、電子化する。従つて、注は最小限度に留める(調べてみて、容易に注が出来そうにないものは、立項自体をしなかった。悪しからず)。初出は以下の底本の巻末にある「内容細目」に、大正八(一九一九)念八月発行の『鄕土硏究』とある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第九巻(一九六二年筑摩書房刊)の正字正仮名版の当該篇を視認した。但し、所持する「ちくま文庫」版『柳田國男全集』の当該部(巻十一所収の「巫女考」収録のもの)をOCRで読み込み、加工データとして使用した。( )は底本のルビ、《 》は私が推定で補った歴史的仮名遣の読みである(一部は「ちくま文庫」版のルビを参考にした)。

 なお、標題は本文の柳田のルビに従えば、「いけぶくろのいしうち、と、ひだのごんぼだね」と読む。]

 

       池袋の石打と飛驒の牛蒡種

 

 市外山手電車線の分岐點池袋の驛から、西北に當つて大きな森が池袋村である。百年この方此村に付《つい》て妙な一の浮說があつて、多くの江戶人の隨筆に出て居る。又今日でもそれを見た聞いたと云ふ者の噂がある。勿論村の者は之を否認し、自分も亦必ずしも之を信じては居らぬが、話の筋はざつと斯《か》うである。市中の家で此村の娘を女中に置くと必ず色々の不思議がある。或は生板《まないた》に澤庵漬と庖丁を載せたまゝ棚の上へ上つたとか、行燈《あんどん》が天井に引着《ひつつ》いてしまつたとか、其他にも信じ難い樣々の說があるが、就中《なかんづく》著名であることは、家の内へ何處《いづこ》からとも無く絕えず石を打込《うちこ》む。或はそれは單に下女に雇入《やとひい》れたゞけで此不思議があるのでは無い、其家の主人が其女に手を掛けると始めて起る現象であると云ふ。果してどちらであるかは究めにくい問題であるが、兎に角に其女を還して了《しま》へば不思議は直《ぢき》に止むと云ふ。村の氏神が氏子を他處《よそ》の者の自由にさせるのを嫌はれる爲だと云ふのが普通の說明である。老人たちはいくらも似寄つた話を聞いて居るであらうが、自分の知つて居る一二の例を申せば、文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。種々《いろいろ》の祈禱・守札《もりふだ》も何の效驗も無かつた處に、ふと心附くと此騷動の最中に其女ばかりは平氣で熟睡して居る。もしやと云ふので訊ねて見ると當時の人が目《もく》して原因と爲《な》すべき事實があつた。早速其者に暇《いとま》を遣ると其日より石が飛ばなくなつた。何でもオサキ持《もち》の家の娘であらうとの說であつた(十方庵遊歷雜記第四編の上)。最近の例としては明治四十年[やぶちゃん注:一九〇七年。]頃のことであるが、ある家に頻《しきり》に石打の不思議があつた。どうしても原因が解らなかつたが、一日《いちじつ》天氣がよくて細君は外へ出て張物か何かをしてをり、下女は井戶端の盥《たらひ》に向つて洗濯をして居ると、又々盛《さかん》に石が戶や壁に當る。其時にふと見ると右の下女がそこらの小石を拾つて足の下から之を投げる、其すばやいことは殆と[やぶちゃん注:ママ。柳田の書き癖。]目にも留らぬ程で而《しか》も彎曲をして妙な方角に打着(ぶつゝ)かるので、今迄其女の所業であることが知れなかつた。此話をした人は其下婢が何の爲にそんな仕打をしたかは聞いて居なかつたが、其女は確かに池袋の者と云ふことを聞いたと云ふ(畑田保次君談)。又一說には池袋の村民は他村の人と婚姻を結ぶことを忌んで居る。其譯は昔からの言傳へに產土神《うぶすながみ》の村の人が減ずるのを嫌ふ爲か、若《も》し他村へ嫁に遣る家があれば、其家ヘ何處《いづこ》からとも無く石を打ち又は行燈が天井へ擧がる等の奇怪があるからである(人類學會報告七、若林氏)。此もあまり古代の事實では無いらしい。之を見ると村の女を占領した者の祟《たたり》を受けるは勿論で、之を許した氏子の側でも責任を免れないのである。從つて石打の行爲が假に村の娘の所作であるとすれば、說明が一寸と六つかしくなる。

[やぶちゃん注:「文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒《おもちづつ》組與力高須鍋五郞と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。……」「耳囊 巻之二 池尻村の女召使ふ間敷事」を参照されたいが(「耳囊」は旗本で南町奉行の根岸鎮衛(しづもり)が佐渡奉行時代(一七八四年~一七八七年)に筆を起こし、死の前年の文化一一(一八一四)までの約三十年に亙って書きためた全十巻の雑話集)、その私の注の内ウィキの「池袋の女」の引用で、発生は文政三(一八二〇)年三月のことである。

「十方庵遊歷雜記」は文化九(一八一二)年から文政一二(一八二九)年まで、江戸を中心に房総から尾張地方に至る各地の名所・旧跡・風俗・伝説・風景等を詳細に記した見聞記で、著者は津田敬順、本名は大浄、「十方庵」(じっぽうあん)は号で、江戸小日向廓然寺(かくねんじ)の住職である。国立国会図書館デジタルコレクションの『江戸叢書』巻六(大正五(一九一六)年江戸叢書刊行会刊)の同書同巻の「第四拾八 秩父郡の三害お崎狐なまだこ」の中の一節で、ここの右ページ後ろから二行目以降に現われる。原文はもっと描写が細かい。是非、見られたい。

「人類學會報告七、若林氏」「J-STAGE」で、『東京人類學會報告』第一巻第七号(明治一九(一八八六)年九月発行)の原本当該記事PDF)が視認でき、その若林勝邦氏の「婚姻風俗集 第五」の冒頭の「村内結婚」の条がそれである。

 此等の噂は要するに取留も無いことであるが、巫女《ふぢよ》問題の硏究者に取つては一笑に付し去るべくあまりに流布して居る。固《もと》より動機又は理由のはき[やぶちゃん注:ママ。]とせぬのは直接に池袋の人から聞くことが能(でき)なかつた爲であらう。池袋の村民はそれは自分の村では無く少し離れた沼袋村の事だと主張する(山中共古翁談)。フクロとは水に沿うた地形を意味し、武藏には殊に多い地名であるから間違ひさうな話である。現に享和[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]の頃に出來た野翁物語《やをうものがたり》卷六には、之と類似の一事例を擧げて、目黑邊の某村と云ひ、氏神が氏子の他出するを厭ひ此処村人を雇ふ家には不思議ありと記して居る。だから其村が池袋であるか否かは未詳として置いてよろしい。唯東京に近い村に妙な心理上の威力を有する部落があることだけは爭ふべからざる事實である。而も此話は昨今に始つたもので無い證據には、偶發の事實としては昔の人も往々に之を記錄して居る。其一の例は享保九年閏四月二十二日、江戶の旗本遠山勝三郞殿家來神田宅右衞門なる者の小屋に、何方《いづかた》よりとも不相知《あひしらず》石瓦打込み申し候、初の程は隣屋敷松平隼人殿屋敷の子供の仕業かと存じ候處、左樣には無之《これなく》、後々は樣々の物を打込み申侯。右打込み候石瓦取集め印を致し置き候へば、いつの間にか不殘《のこらず》失せ、祈禱致し候ても不相止《あひやまず》云々。此家の主人は同月二十八日に根井新兵衞と云ふ人を招き蟇目鳴弦(ひきめめいげん)の式を行はせると、それより二日目に駿府から召抱《めしかか》へた猪之助と云ふ十四歲の調市(でつち)に野狐《やこ》が附いて居た。段々糺明すると每々樣々なる儀を仕り候事白狀により悉く顯はれ、正氣に罷成《まかりな》り五月に入りては常の通《とほり》何事も無之、透《すき》と相止み申候とある(享保世話)。次には出羽の鶴ヶ岡の出來事で只寅年とのみあるが元祿十一年の事らしい。藩士加藤利兵衞の屋敷に石を打込む者があつた。三月に始り五月に入つて殊に甚しく、座敷に飛込み障子などを破る。五月十五日の如きは一日に石の數二百三十ほども打つた。一寸から四五寸迄の石である。日蓮宗本住寺の僧に祈禱せしむるに、何の驗《しるし》も無かつたが、ふとした事より手懸りを得、段々穿盤して下女の仕業であることが知れた。それからも氣を附けて居ると、十八日の日其下女が奧庭に往きて石を拾つて居るのを發見した。然《しか》るに石を打附けんとする手元を押捉へて、嚴しく詮議をしても一語をも吐かず、却つて正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない。そこで女の母親を呼び共々に起して見ると、一時ばかり目を明けたがやはり何事をも言はぬ。さして本性は違つたとも見えないが、事の外草臥(くたび)れたやうであつた。乃《すなは》ち請人《うけにん》を呼んで引渡してしまつた。勿論石打の怪はそれで絕えたのである(大泉百談卷三)。

[やぶちゃん注:「沼袋村」現在の中野区沼袋一~四丁目及び野方(のがた)一丁目等が相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。池袋からは南西に三~四キロメートル離れた位置にある。

「享保九年閏四月二十二日、……」グレゴリオ暦一七二四年六月十三日。「享保世話」(享保七年から同十年に至江戸市井の巷談を集めたもの)のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集」第二(国書刊行会編・一九七〇年刊・正字正仮名・活字本)のこちらの、左ページ下段中央から当該部が視認出来る。

「蟇目鳴弦(ひきめめいげん)」「ひきめ」は「響目」(ひびきめ)の略。朴(ほお)又は桐製の大形の鈍体の響鳴器である鏑(かぶら)を矢先に装着した矢。矢を射た際に音を響かせるところから言った(別にその音を出すために開いた穴の形が蟇の目に似ているからとも言う)。本来は「犬追物」(いぬおうもの)や「笠懸」などで、射る対象を傷をつけないようにするために用いたもので、本体に数個の穴があり、射ると、この穴から風が入って音を発する。この音が鳴弦と同じように、妖魔を退散させる呪力を持つと考えられた。

「調市(でつち)」「丁稚・丁児」(でっち)に同じ。少年の使い走り。

「出羽の鶴ヶ岡」現在の山形県鶴岡市。

「元祿十一年」一六九八年。

「本住寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大泉百談」庄内藩士杉山宜袁(よしなが 元文六・寛保元(一七四一)年~文化八(一八一一)年:庄内藩主酒井家の三河以来の譜代の臣で、家老にまで出世し、郷土史に造詣深く、庄内の古今にわたる事跡を調査記録して後世に残した)が「大泉散士」の名で著した庄内史。]

 此二つの話などは原因が又所謂池袋とは別であるらしい。鶴ヶ岡の方は調べて見ると誠に埒も無い恨《うらみ》であつた。最初草履取の六藏なる者の脇差を此女が戲れに取つて差したのを、六藏が立腹してひどく叱つた。それが口惜くて六藏所持の錢一文を取つて呪詛したと自白して居る。併しそれからどうして石を打つことになつたか、どうしても理由を告げない。又祈禱僧が生靈か死靈か何かほかの驗を見せよと空に向つて宣言すると、忽ち錢二文を紙に包んで投げたので、或は下女などの仕業かと彼等の針箱を搜査することになつたとも見えて居る。何の事かよくは解らぬが、今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる。若し當時此等の婦人又は少年の身元を詳しく尋ねたら、或はかの東京附近の一村に似た話があつたのかも知れぬが、殘念ながら記錄は此きりである。併し我々は猶他の一方に世間の人から略《ほぼ》之と同じやうな意味に於て敬して遠ざけられて居る多くの家又は部落を聯想して見ねばならぬ。此等特殊の家族の起原を考へて見ると、其今日に於ける社會上の地位は同情に値する者がある。誠に婚姻交通の遮斷は怖しいもので、其結果は日常生活の慣習にも同化が行はれず、家庭の内情を知り得る機會が無い爲に愈〻《いよいよ》色色の臆說が起り、終《つひ》には魔術を以て人を苦しめるの、邪神を信じて富を求めるのと、不愉快な風評のみ多くなつたが、其本人等の極めて無邪氣なのを見ても明らかなる如く、最初に於ては決してさういふわけのものでは無く、單に職業の特殊であつたこと、又は奉仕する所の神が他の人と違つて居たに過ぎなかつたのであらう。職業と云つた所が決して後世のやうに神主專門巫女專門と云ふので無く、一方には家に附屬の田地があつてそれを耕して食ふこと他の百姓と區別は無い。又邪神と云ふのも程度の話で、近世の神道にこそ牴觸《ていしよく》はするが、昔はさまで奇怪でも無かつた諸國の社《やしろ》である。現に今でも田舍には狐を祭り蛇を祀つたといふ例がいくらもある。其爲に賤しめられる道理が無い。故に自分の解する所では、本來ある荒神《こうじん》の祭祀に任じ、託宣の有難味を深くせん爲に正體をあまりに祕密にして居た御蔭に、一時は世間から半神半人のやうな尊敬を受けて居たこともあつたが、民間佛敎の逐次の普及によつて、追々と賴む人が乏しくなつて來ると、世の中と疎遠になることも外の神主などよりは一段早く、心細さの餘りにエフエソスの市民の如く自分等ばかりで一生懸命に我《わが》神を尊ぶから、愈以て邪宗門の如く看做《みな》され、畏《おそろ》しかつた昔の靈驗談《れいげんだん》が次第に物凄《ものすさま》じい衣《ころも》を着て世に行はれることになつた。此が恐らくは今日のヲサキ持《もち》、クダ狐持《ぎつねもち》、犬神猿神猫神、蛇持《へびもち》トウビヤウ持《もち》などゝ稱する家筋の忌嫌《いみきら》はるゝ眞の由來であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる」と柳田が言っているのは興味深い。先のシークエンスを見ると、「正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない」で、母親が呼ばれたにも拘わらず、見当識が一向に回復しないというのは、私には演技というよりも、強い眠気の発作を主な症状とする睡眠障害ナルコレプシー(narcolepsy)が疑われるようにも思われた。或いは、奉公が実は彼女の強いストレスとなっていて、重度の強迫神経症を発症し、病的な被害妄想が昂進、石打ち行動を半ば無意識的にやっていた可能性もあるようにも思えてくる。悪戯がバレたことによる演技と大方は思われるかも知れないが、これは、事と場合によっては、御手打ちになっても文句は言えない行動であり、果して、ここまでやるか? という疑問も生じてくるのである。所謂、心霊現象(特に物が投げられたり、移動するポルターガイストや、亡霊の声が聴こえるといった複数の多く事例では、必ず、未成年の少女が、その事件に関わっていることが、よく知られている。少女期の第二次性徴前後に、神経症的な漠然とした不安や不満を生じた彼女たちが、目的や理由を持たずに、似非心霊現象を作為したり、主張したりすることは頓に知られる事実なのである。知られたものでは、アメリカの「ハイズビル事件」(ウィキの「フォックス姉妹」を参照)が最も有名で、霊現象ではないが、かのコナン・ドイルがマンマと騙された「コティングリー妖精事件」(リンク先は当該ウィキ)も知られる。しばしば、「こっくりさん」で集団パニックを起こすケースも小・中・高の少女であることが、断然、多く、精神医学者による、その発生メカニズムを解説した書物や専門雑誌論考も、私はかなりの数、読んでいる。私は少年期から今に至るまで、UFOフリークであると同時に、心霊現象の熱心な否定的ウォッチャーでもあるのである。

「ヲサキ持」私は次に出る「くだぎつね」と同義同類と思う。小学館「日本国語大辞典」にも「おさきぎつね」(御先狐・尾(を)裂狐)として、『人間に憑(つ)くとされる狐。関東地方西部で信じられ、狐持ちの家ではこれを飼いならし、種々の不思議を行なうとされた。管狐(くだぎつね)。おさき。』とある。

「トウビヤウ持」「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(25) 「川牛」(5)」の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注を参照されたい。その注の前では、「犬神」「オサキ狐」「クダ狐」の解説も私の電子化注の記事にそれぞれリンクさせてあるので、そちらを見られたい。

 巫蠱(ふこ)の家が不使用に由《よ》つて元の職務を忘れてしまふと云ふことも、託宣の機會が時代の進むと共に追々と減少した事實を考へたら、强《あなが》ち無理な推定とは言はれまい。彼等は夙《つと》に一定の地に土着して食ふには事缺かぬ田畑ある上に、世間からは兎角不安の眼を以て視られ、時としては迫害をも受ける、更に又次の章に言ふ如く自分の家に取つても必ずしも有難い神樣でも無かつたから、何かの手段があつたら過去と絕緣したいと云ふ希望も漸次に强くなつて、老いたる親の死亡と共に祕傳や口授の相續せられざりし場合も多かつたと見ねばならぬ。故に一方には人の祀らぬ野狐が增加してやたらに子女に災《わざはひ》する。犬神の主《あるじ》を離れて野に住み人に憑く者をノイヌと云ふ(和訓栞《わくんのしをり》)。四國地方の犬神由來の傳說に、弘法大師が與へた狼除けの護符を無智の者が開いて見た爲に此神が四方に飛散したと云ふのも、見やうによつては此信仰の衰微と頽廢とを暗示する者とも言はれる。前に引いた遊歷雜記に、武州秩父邊の俗信として三種の家筋の忌むべきものを擧げて居る。其一は例のオサキ狐《ぎつね》の家、二にはナマダゴ(生團子)とて彼岸月見などに團子を作るに、甑(こしき)の中にきつと三づゝ生の團子が出來る家、第三にはネブツチヤウと云ふのは小蛇の類である。之を祀る家筋の者の住んだ屋敷は、元の主が死《しに》絕えた後も代つて來たり住む者が無く、荒れ次第に捨てゝ置くとある。此等は何れも世間から觀た所謂邪神の末路であつて、其家筋の者は忘れようとしても、周圍の者が却つていつ迄も記憶して居つた爲に、斯う云ふ噂が永く殘つて居るのである。

[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「巫」は「巫女(みこ)」、「蠱」は「呪(まじな)い師」の意。  呪法によって人を呪うことをも指すが、ここは所謂、主にブラック・マジックに関わる憑き物を使役する呪術師、及び、それを伝えている家系の主人を指している。

「次の章」この記事は『郷土研究』への連載記事で、次回のそれは、底本のここにある「蛇神犬神の類」である。]

 前に述べた池袋の一村がヲサキ持の筋であると云ふことは頓《とん》と外では聞いたことが無い。此は恐らくは根の無い想像であつて、斯かる災《わざはひ》を人に被《かうむ》らしめる者はオサキ家《いへ》の外にはあるまいと云ふ誤れる前提から出た說であらう。口寄《くちよせ》の徒《と》が祭る神は所謂八百萬《やほよろづ》である。總稱して荒神と云ふ祟の烈しい神は、今でも地方によつて種々雜多の名を以て齋《いつ》かれて居る。山陽美作記(さんやうみまさかき)卷上に、塀和(はが)の善學(ぜんがく)、木山の生靈(しやうれう[やぶちゃん注:ママ。])、加茂の神祇、久世(くせ)の生竹(なまたけ)明神、これらは荒神であつて、もし其氏子と諍《あらそひ》でもすれば必ず相手に取付きて惱ます故に諸人之を恐るとある。中にも塀和の善學は、昔塀和村に善學と云ふ坊主があつて、其飼つて居た狐である。坊主死去の後此狐諸人に憑きて災を爲しける故に村人之を神に齋(いは)ひ、其坊主の名を以て之を呼んだのである。四國は犬神蛇持《へびもち》等の盛んな地方であるが、やはり之と別種の家筋で永く不思議の威力を有する者がある。阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)と云ふ處の庄屋は、代々の主人必ず身の内に黑い月の輪がある。此人の草履を外の者取違《とりちが》へて履《は》く時は忽ちに腹痛する。此には速か《すみやか》に其草履を脫いで我家の竃《かまど》の上に置き詫言《わびごと》をすれば痛みが止む。又此人に對して無禮をして忽ち身體の噤(すく)んだと云ふこともある。根元《こんげん》故ある家筋だと云ふが或は神孫であらうかとある。尤も近世如何《いかが》の譯かかの月の輪は腰の邊まで下《さが》つて草履の奇事も別して無いやうになつた(阿州奇事雜話卷三)。黑い月の輪は些《すこ》しをかしいが、多分圓い痣《あざ》が八犬傳の勇士などの如くあつたことを謂ふのであらう。此種の家筋に身體の特徵のあると云ふことは自然の話である。同じ國美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内の某家には、今でも其家に生るゝ者は必ず背中に蛇の尾の形がある(同上)。豐後の緖方氏が嫗嶽《うばだけ》の蛇神の末であるが故に蛇の尾の形があると云ふのと同日の談で、しかも阿州の方でも自ら尾形の一黨と稱して居るのである。豐後の緖方三郞の由緖は盛衰記以來の昔話である。人は之を三輪の神話の燒直しとして信用を置かぬが、兎に角四五百年前の古傳であれば、我々の硏究に取つては重要なる參考である。自分の解する所では山の名の嫗嶽はやがて長者の愛娘《まなむすめ》が神に婚(めと)られたと云ふ傳說の根據を爲す者で、ウバとは則ち第一世の巫女、譜第の神主の祖神として主神の傍に併《あは》せ祀られた者のことかと思ふ。若し然りとすれば緖方三郞の背の痣も九州の一隅を風靡するに於て大なる效果のあつたことであたう。

[やぶちゃん注:「塀和(はが)」現在の岡山県久米郡内の垪和(はが)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「阿波名西(みやうさい)郡下分上山(しもぶんかみやま)村の内字《あざ》粟生野(くりふの)」現在の徳島県名西(みょうざい)郡下分上山粟生野(くりゅうの)。サイト「いつもNAVI」のこちらで、やっと確認出来た(地図有り)。

「美馬(みま)郡穴吹山(あなぶきやま)の内宮内」現在の徳島県美馬市穴吹町(あなぶきちょう)口山宮内(くちやまみやうち:グーグル・マップ・データ)。

「嫗嶽」現在の大分県竹田市神原にあった旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図のこちらで、確認出来る。]

 飛驒の國でよく聞く牛蒡種(ごんぼだね)と云ふ一種の家筋の性質は、右に列記した諸國の類例と比較して始めて說明がつくやうに思はれる。此名稱はもと彼等が「よく人に取附くこと牛蒡の種のやうである」と云ふ處から出て居る。最初吉城(よしき)郡の上高原(かみたかはら)に住んで居たと云ふが、今では此國北部の諸村に分散して只の農家に交《まぢは》り、別に一つの部落を爲す者は無い。此家筋の特質は名稱と同じく凡て外部から附與したもので、彼等は常に絕對に之を否認する。世間の信ずる所では、此者に恨まれ又は惡《にく》まれると必ず物憑(《もの》つき)となつて大いに煩《わづら》ふ。それが牛蒡種の仕業であることはいつでも病人の口から聞くのである。祈禱加持を以て攻立《せめた》てゝ居ると、其苦に堪へずして我は某《なにがし》村の某と名乘り、或は逐立《おひた》てられて足腰のきかぬ病人が走つて其家の戶口まで往つて倒れる。さうすれば物憑は落ちたのである。又どうしても動くことのならぬ重病であれば、其憑いて居るとふ牛蒡種の本人を連れて來て、病人を介抱させると落ちるとも云ふ。勿論彼《かの》者は覺えの無いことを主張するが、自稱被害者がどうしても承知をせず、强ひて引張つて來るのである。此話は二三年前の旅行の際自分が吉城の人から聞取つた所であるが、どの點まで精確であるか、又今日でも果して此通りであるか否か、猶多くの報告を綜合して見ねばならぬ。押上中將《おしあげちゆうじゃう》が親しく上寶《かみたから》の村長から聞かれた所では、牛蒡種は他鄕に行けば何の力も無くなると云へば、追々には沿革を無視する新人物が入込《はいりこ》んで、愈巫道《ふだう》の痕跡を此世から拭ひ去ることも遠くはなからうと思ふ。併し近い頃までは牛蒡種の邪視《じやし》の力は非情の草木にさへ及んで、此眼で視られると畠の菜大根までが萎れ痛むと云つたものである。

 此次に自分の述べたいのは諸國の土甁(とうびやう)又は犬神系統の家々の話であるが、之と比べて見て最も面白いと思ふ點は、彼等の中には蛇なり狐なり何か平素から家に養はれて居る魔物が、本主の旨を受け若しくは意を體《たい》して出て往つて人を惱《なやま》すに反して、飛驒の牛蒡種に在つては災を爲す者は直接に人の生靈《いきりやう》だと云ふことである。之を見ても元一個の迷信の傳播《でんぱ》と見るのが誤りで、時代趨向《すうかう》の然《しか》らしむる所、諸國の俗神道《ぞくしんだう》が一樣に略《ほぼ》相《あひ》類似した、而も地方的に小變化のある發展をしたことが推測せらるゝのである。

[やぶちゃん注:「牛蒡種」当該ウィキによれば、『牛蒡種(ごぼうだね、ごんぼだね)は、長野県、岐阜県、福井県に伝わる憑き物』で、『特定の家筋につく憑き物とされるが、狐憑きや犬神のような動物霊ではなく、人間の生霊を憑かせるといわれる』。『岐阜県飛騨地方では例外的に、牛蒡種は人間の霊ではなく』七十五『匹の動物が憑いているといって』、「七十五匹」の『別名で呼んでおり、かつて九尾の狐の化けた殺生石を源翁心昭が砕いた際、その破片の一つが飛騨に飛び散って牛蒡種が生まれたものとされている』。『牛蒡種の力は妬みや羨望の念がもとになるといわれており、この家の者に憎まれて睨まれた者は頭痛や精神疾患を患うといい』、『さらには牛蒡種の家の者が他家の農作物、カイコ、陶器など器物の良さを誉めただけでも、それら農作物やカイコが駄目になったり、器物が壊れたりするともいう』。但し、『郡長、村長、警察署長といった高い地位の者に対してはその効力がないともいう』。『牛蒡種の名称は、修験者が仏法守護の護法善神を憑依させる儀礼「護法実(ごぼうざね)」、または牛蒡種の憑きやすさが』、『植物のゴボウの種の付着しやすさに似ていることなどが由来と考えられている』。『南方熊楠は』「十二支考」の「蛇に關する民俗と傳說」の中で『牛蒡種を邪視に類するものと述べている』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの一九五一年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第一巻 から、当該部を示すと、『本邦にも、飛驒の牛蒡種てふ家筋有り、其男女が惡意もて睨むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎む。他家へ牛蒡種の女が緣付て、夫を睥むと忽ち病むから、閉口して其妻の尻に敷れ續くと云ふが、覿切(てつきり)西洋の妖巫に當る』とある。

「吉城(よしき)郡の上高原」「上寶」ここは、この岐阜県高山市の上宝町(かみたからちょう)地区の広域(グーグル・マップ・データ)である。旧神岡鉱山の上流に当たる。

「土甁(とうびやう)」先に出て注した「トウビヤウ」に同じ。

「押上中將」陸軍中将押上森蔵(おしあげもりぞう 安政二(一八五五)年~昭和二(一九二七)年)。岐阜生まれ。台湾守備混成第一旅団参謀長・東京陸軍兵器本廠長・陸軍砲兵大佐・陸軍少将・陸軍兵器本廠長を経て、陸軍中将として旅順要塞司令官を務めた。柳田國男との交際機縁は不詳だが、南方熊楠(こちらの機縁も不詳)とも、かなり仲が良かったようで、熊楠の論考にもその呼称がしばしが出る。]

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