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2023/04/04

佐々木喜善「聽耳草紙」 二五番 三人の大力男

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「いはやのをんな」。]

 

     二五番 三人の大力男

 

 或所に、十五歲になるまでも嬰兒籠《えじこ》に入つたまゝで口も利《き》けない男の子があつた。親達はこれは大變な子供を生んだものだと心配して暮して居ると、十五年目の或日、この子は突然に大きな聲を出して父親(トト)ツ百貫目[やぶちゃん注:三百七十五キログラム。]の鐵の棒を一本買つてケろツと怒鳴つた。

 父親はびつくらして、あれアこの子が口を利いた。お前は眞實(ホントウ)に口がきけるようになつたのかヤと言ふと、ウンこの通りに口は立派に利ける。俺に目方(メガタ)百貫目の鐵の棒を買つてケろツと言つた。父親は呆れて、まだお前は脚腰も立たない癖に、百貫目の鐵の棒もないもんだと言うと、俺は脚腰が立たないから、其鐵の棒を突張つて立つて見たいんだと言ふので、父親も其氣になつた。なにしろ十五年間も口の利けなかつた子供が、急に口が利けて其上にこんな小理屈まで言ふのだから、これはたゞの子供ではあるまいと思つて、そんだら買つて遣ると云つて、町の鍛冶殿の所へ行つて、百貫目の鐵の棒を注文して來た。やがて暫く經つと鍛冶殿から注文の鐵の棒が出來上つたと言ふ知らせがあつたから、父親は村人を百人程賴んで鍛冶殿へ行つて、その大きな鐵の棒を、えんさら、やんさらのほうい、ほういと木遣《きや》りを懸けながら擔いで來た。さうして嬰兒子に持たせた。

 嬰兒子は大層嬉しがつて、その鐵の棒を杖について、ウウンと唸りながら兩脚を踏ン張り締めて立上り、やアと丈伸(セイノ)びをするとムクムクと丈が伸びて、六尺肥滿の大男となつた。兩親は言ふまでもないこと、親類や其所に集まつて居た村人等は驚き、まづ喜んで、皆酒看を持つて來たり餅を搗いたりして立ツタリ祝ひを擧げ、今迄名前もなかつた嬰兒子に力(チカラ)太郞と云ふ名をつけて、大變盛んな御祝ひをした。

 力(チカラ)太郞はまた、其れでは皆樣に俺の力量(チカラ)をお目にかけると言つて、その祝の場で百貫目の鐵の棒を水車の樣にクルクルクルと片手で振り廻して見せたので、一同は眼(マナグ)を拔(ヌ)けらかして魂消(タマゲ)、これはたゞの人ではあるまい。神童(カミワラシ)であるに相違ないと評判し合つた。

 力(チカラ)太郞は田舍で生れたけれども、人優(ヒトマサ)りの珍しい力持ちであるから、一ツ廣い世界に出て力試しをし、人助けをしたいものだと思つて、兩親に三年の暇乞(イトマゴ)ひをした。兩親もそれでは世の中へ出て修業をして來いと言つて、五斗飯を炊いて、大きな握飯を握つて大袋に入れて持たせた。力太郞はその握飯を食ひ食ひ、百貫目の鐵の棒をドチン、ドチンと杖について地響きさせながら我が里を後(アト)にして何處《いづこ》ともなく旅に出た。

 松並木の大道を、行くが行くが行つたところが、向ふから三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]四方ぐらいの大石をごろごろ轉(コロ)がして來た者があつた。扨《さ》て天下の大道をあんな大石を轉ばして步くなんて太え野郞だと思つて行くうちに、その大石が力太郞の直ぐ前へ轉げて來た。そこでこれ惡戲をするなツと大聲をかけて、鐵の棒でガチンと止め、同時に片足を上げて大石を蹴飛ばすと、其大石は五六間[やぶちゃん注:九・〇九~十・九メートル。]向ふの田の中に落ちた。すると石を轉がして來た大男が甚《ひど》く憤慨して力太郞に喰つてかかつた。力太郞は野郞相手になる氣か、そんだらば名乘れツと云ふと、其男は俺こそは日本一の大力持ち石子太郞と云ふ者だツ、さう云ふお前は何者で、俺の石を蹴飛ばしたかと云つた。聞きたからば聞かせべえ俺こそは日本一の力太郞と云ふ者だ。勝負しろツと云ふと、石子太郞も承知之助だと呼んで、二人は取ツ組み合つたが、石子太郞は力太郞のために百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル。]ばかりブン投げられて泥田の中にハマリ込んだ。力太郞が、あはははツと大きに笑ふと、石子太郞は泥まみれになつて田から這ひ上つて來て、力太郞の前に兩手をつき、降參したから家來にしてケろと言つた。力太郞は石子太郞を其場で家來にして引き連れて、又その道をば南へ南へと二人連れで步いて行つた。

 二人は旅を續けて南へ南へと行くが行くが行つたところが、ある日向ふから四間[やぶちゃん注:七・二七メートル。]四面の赤い御堂を頭に乘せてウンウン唸つて來る者があつた。又以つて日本一を名乘る畜生めが來たかと、力太郞主從は笑ひ話しをしながら行くと、御堂につかえて、人の通ることも出來ないありさまだから、力太郞が鐵の棒で御堂をドンと突きのめすと、御堂はグワラグワラと大きな音して大男の頭から壞れ落ちた。すると其男はとても憤慨して、何奴であつて俺の頭の上の御堂を斯《こ》のやうに打ち壞したか、此の日本一の力持ち御堂太郞の名前をばまだ聞いたことが無いかツ、其分《そのぶん》にはして置かぬぞツと怒鳴つて喰つてかかつて來た。力太郞は少しも騷がずセセラ笑つて、お前が日本一の力持ちなら、此所には其上の三國一の力持ち樣が二人御座る。これが俺の子分の石子太郞と云ふ日本一の力持ちだから勝負して見ろと云ふと、心得たと云つて御堂太郞と石子太郞とが、取ツ組み合つたが仲々勝負がつかない。そこで石子は止めろ、今度は俺が相手になつて遣ると云つて、御堂太郞の首筋を引ツ摑みブンと一振り振つて百間ばかり向ふへ投げつけた。すると御堂太郞は泥田の中にハマツて見えなくなつた。そこで力太郞主從が大笑ひをして居ると、御堂太郞は泥まみれになつて田から這ひ上つて來て、二人の前に兩手をつき、今迄どんな力持ちに出會つても、勝負に負けたことがなかつたが今度ばかりは降參した。どうか俺を家來にしてケろと言ふので、力太郞はそんだら俺の子分となつて一緖に行かうと云つて、主從三人がそれからまた南へ南へと旅を續けて行つた。

 旅を續けて行くと、或夜千軒の町へ入つて行つた。不思議なことにはその町ではヒンともシンとも人間や畜生の姿や音がなかつた。三人はこれには何か譯がある事だらうと語り合つて、町中隈(クマ)無く廻り步いて見ると、ある橫丁に一人の美しい娘が軒下に躇《うづくま》つて居てしくしくと泣いて居た。どうして泣いて居るか問ふて見ると、娘はこの町に二三ケ月前から化物が出て來て人間を取つて喰ひます。それで夜になるとこの通り灯を消して皆家の中さ入つて、息の音を潜めて居ます。それなのに今夜は私が喰はれる番に當つて、斯《か》うして私は此所で泣いて居ますと言つた。三人はそれを聽いて、よしよし俺達が其化物を退治して遣ツから泣くのは止めて、これから直ぐに俺達をお前の家さ案内しろ、決して心配することは無いと言うと、娘は喜んで三人を自分の家へ連れて行つた。[やぶちゃん注:「隈(クマ)無く」のルビは、底本では「無」に振られているが、誤植と断じ、訂した。]

 夜半頃になると、三人が待ち構へて居るとも知らず、化物は娘を奪(トリ)に、大きな聲を出してオウオウ唸りながら娘の家の戶を開けて入つてきた。それツと云ふので第一番に子分の御堂太郞が出て化物と格鬪したが、危《あやう》いので次いで石子太郞が出てかゝつた。これも危いので、親分の力太郞が出て奮鬪の結果遂に化物を退治した。[やぶちゃん注:「奪(トリ)に」は、底本では「奪(トリ)りに」となっている。衍字と断じ、送られある「り」の方を除去した。但し、「ちくま文庫」版では、『奪(と)り』となっている。]

 娘は申すまでもなく家族や町の人達は、此町の生命の恩人だと謂つて、三人に取り縋《すが》つて他所《よそ》へ旅立つことを泣いて止《と》めた。仕方なく力太郞は救つた娘と夫婦になり、石子太郞、御堂太郞にも夫々《それぞれ》の女房を持たせて、分家として三人諸共《もろとも》に永く其町に住むことにした。そして力太郞は其の町の殿樣になつた。

  (江剌郡米里《よねさと》村の話、佐々木伊藏と云ふ五十四歲の人の談話の筆記の一、昭和五年六月二十七日。)

[やぶちゃん注:最終段落の「持たせて」は底本では、「持にせて」とあるが、誤植と断じ、「ちくま文庫」版で訂した。

「江剌郡米里村」現在の奥州市江刺米里(えさしよねさと:グーグル・マップ・データ)。遠野市からは南西に当たる。

「昭和五年」一九三〇年。]

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