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2023/04/14

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鹿杖に就て

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『柳田國男「鉢叩きとその杖」参照』と添えてある。これは、同誌前号に柳田が発表したその論考に対する、南方熊楠の見解の主張である。この柳田の論考は、幸いにして、「ちくま文庫」版全集に載り、正字正仮名版も国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来ることから、昨日、急遽、先行して当該論考「柳田國男 鉢叩きと其杖」を電子注をしておいた。まずは、そちらから見られたい。但し、かなり旧被差別民への配慮のない言及があり、問題の箇所もあるので、心して読まれたい。

 なお、標題の「鹿杖」は「かせづゑ」と読み、突く方の先が二股になった杖、また、上端をT字形にした杖で、「 撞木杖(しゅもくづえ)」を、また、僧侶などが持つ、頭部に鹿の角を附けた杖を言う。]

 

     鹿 杖 に 就 て (大正三年十月『鄕土硏究』第二卷第八號)

         (『鄕土硏究』第二卷第七號四〇三頁以下)

 「嬉遊笑覽」卷二中に、『「和名抄」に『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』。斯かれば、今、俗、「撞木杖(しゆもくづゑ)」と云物也』。

[やぶちゃん注:『「嬉遊笑覽」卷二中』国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻二の「器用」パートの「杖」にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)の左ページ後ろから五行目からに出る。但し、ここは、引用が入れ子構造で、甚だ読み難いから、ここは特別に、以下に分離して訓読して示す。

   *

『唐韻云𣈡橫首杖也(漢語抄云𣈡加世都惠一云鹿杖)」』

〔「唐韻」に云はく、『「𣈡」は橫首杖(よこくびづゑ)なり。』と。〕

[やぶちゃん注:以下、源順による割注。]

〔(「漢語抄」に云はく、『「𣈡」は「加世都惠(かせづゑ)」、一(いつ)に云はく、「鹿杖(かせづゑ)」と。』と。〕。

   *

なお、この「𣈡」の現行の音は「テイ」或いは「ダイ」だが、「倭名類聚抄(鈔)」の国立国会図書館デジタルコレクションの版本の当該部を見ると、南方も柳田も省略してしまった割注の最初の反切指示部分に『他禮反』とあることから、この場合は「タイ」と音を示していることになる。因みに、「𣈡」は古くから「歩行する際の補助杖」を指す語である。]

 熊楠按ずるに、「大和本草」にシユモクザメを『カセブカ』と記し、「形、經(たていと)・緯(よこいと)を卷く所の『カセ』と云《いふ》器《き》に似たり。」とある。

[やぶちゃん注:「大和本草」の記載は二箇所あり、私のブログの電子化注では、まず、「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に、『○カセブカ其首橫ニヒロシ甚大ナルアリ』と出、また、「大和本草諸品圖下 鮪(シビ)・江豚(イルカ)・スヂガレイ・カセブカ (マグロ類・イルカ類・セトウシノシタ・シュモクザメ)」にバッチリ絵入りで、キャプションに『カセブカ』として、『其ノ橫ハ縱(タテ)ニ比スレハ少シ短シ橫ノ兩端ニ目アリ』。『是フカノ類』『味亦同』『形狀甚異ナリ』『其形狀婦女ノ布ノ經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似タリ』と出ている。「カセブカ」はメジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名で、本邦産種は(シュモクザメという標準和名種は存在しない)、

シロシュモクザメ Sphyrna zygaena

ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran

アカシュモクザメ Sphyrna lewini

の三種である。因みに、「かせぶか」の漢字表記は「挊鱶」で、「桛(かせ)」とは、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH型やX型の器具で、頭部の形状をそれに見立てたもので、以上のキャプションが言っているのも、そのことである。]

 「本草啓蒙」には『撞木の如くカセヅエの頭に似たり』と見ゆ。紀州にて、「かせ糸」・「かせ繰《く》り」・「かせ屋」など云ふたのは、件《くだん》の糸を卷く器に基ける名か。

[やぶちゃん注:「本草啓蒙」では、巻是四十]の「鱗之四」の「鮫魚」(サメ類)の項に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の版本の当該部を視認して電子化する。【 】は二行割注。

   *

帽鯊【閩書】一名雙髻鯊 雙髻紅【共同上】 了[やぶちゃん注:底本では同字の異体字のこれ(「グリフウィキ」)だが、表示出来ないので、正字で出した。]髻鯊【寧波府志】バカセブカ【大和本草】一名シユモクザメ シユモクブカ 子[やぶちゃん注:「ネ」。]ンブツブカ【肥前】〉ハラヒザメ【大坂】 カイメウ【豐前】 ソノ首横ニ廣ク兩端ニ眼アリテ撞木(シユモク)ノ形ノ如ク、横首杖(カセヅエ[やぶちゃん注:三字へのルビ。])ノ頭ニ似タリ大和本草ニ形經緯ヲ卷トコロノカセト云器ニ似リト云フ

   *

とある。]

 「笑覽」に又「鹿杖に誠の鹿角を杖の頭に附けたる者、古畫に見ゆるは、空也の徒なるべし。」と言ひて、別に言《いは》く、『「平家物語」に、老僧かせ杖の二叉(ふたまた)なるにすがつて、と有るなど、古畫にて見れば、二股の方《かた》を地に突きたり。橫首(わうしゆ)と云《いふ》には背《そむ》けるにや。』と。

[やぶちゃん注:前掲当該部を参照(左ページ後ろから四行目から)。]

 因《よつ》て考ふるに、支那の仙人の侍童などが、頭の歪んだ杖に主公の瓢簞や經卷を掛けて步く圖で見る如く、橦木形なり鹿角頭(しかづのかしら)なり、上端に物を懸けて運び得る杖を、すべて、「かせ杖」と呼んだのだらう。姚秦《たうしん》[やぶちゃん注:中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた後秦(三八四年~四一七年)の別称。]の頃、譯されたらしい「毘尼母論《びにもろん》」卷四に、佛制、不ㇾ聽捉ㇾ杖人說法、杖頭若鐵若鹿角、皆應ㇾ著也、何以故、恐杖盡故。〔佛の制(おきて)に、杖を捉(とら)ふる人の、爲(ため)に說法するを、聽(ゆる)さず。杖の頭(かしら)には、若(も)しくは鐵、若しくは鹿の角を、皆、著(つ)くべし。何を以つての故に。杖の盡(つ)くるを恐るるが故なり。〕されば、佛の本規には、說法師の持つ杖は、磨耗(すりへ)らぬ爲に、鐵や鹿角を頭に附ける事としたのだ。

[やぶちゃん注:「毘尼母論」は「毘尼母經」と同じであろうと思い、「維基文庫」で当該の巻五の電子化中に、同じ文脈が出るので、それで校合した。熊楠の引用は誤りがあり、意味が通ぜず、おかしいので、本文及び返り点も私が半可通乍ら、推定で補填した。御叱正を俟つ。]

 鹿は、佛、出世前から、梵敎に緣厚く、「毘奈耶雜事」二八、「大藥」の傳に、婆羅門、鹿皮《しかかは》を著る。「毘奈耶破僧事」九に、摩納婆《マーナヴァカ》、鹿皮に臥す。北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」に、於ㇾ是栴檀摩太子、披鹿皮衣住山中、從ㇾ師學ㇾ道〔是(ここ)に於いて栴檀摩提太子《せんだんまだいたいし》は、鹿皮の衣を被(き)、山中に留(とど)まり住みて、師に從ひて道を學ぶ。〕など、例が多い。惟《おも》ふに此樣《かやう》な事どもが内典に多くあるを幸ひと、阿彌陀聖や空也の徒が、殺生を事とする下等民に敎《をしへ》を宣《のぶ》る爲、鹿角杖や鹿皮を用ひ、後には平定盛に殺された鹿皮を裘《かはごろも》とし、鹿角を杖としたまふ、などの傳說を作出《つくりだ》したんだろ。

[やぶちゃん注:『北凉譯「菩薩投身餓虎起塔經」』は「大蔵経データベース」では見当たらなかったので、そこにあった同経の法盛訳の「佛說菩薩投身飴餓虎起塔因緣經」にほぼ同文の文句があったので参看した。]

 但し、定盛が鹿を殺して悔いた餘り、入道したちう譚も、其前に、類話なきに非ず。梁の慧皎の「高僧傳」十二に、釋法宗は、臨海の人、少《わかき》にして、遊獵を好む。嘗て剡ん《えん》に於いて孕鹿《はらみじか》を射て、墮胎せしむ。母鹿(はゝしか)、箭(や)を銜《ふく》み、猶、地に就いて子を舐(ねぶ)る。宗、乃《すなは》ち、悔悟し、貪生愛子〔生(しやう)を貪りて、子を愛す〕は、是れ、有識《うしき》の同じくする所たるを知つて出家す、とある。〔(增)(大正十五年九月記) 江西省九江府の靖居山は、昔し、姓、傅《ふ》なる者、こゝで、鹿を射しに、墮胎して死す。其人。遂に、弓矢を折り、修道せり。因て名づく(「大淸一統志」一九四)。)

追 記 (大正六年一月『鄕土硏究』第四卷第十號)芳賀博士の「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、最も鹿射る技に長ぜる者の夢に、亡き母、現《あらは》れ、「我《われ》、惡業の故に鹿と成れり。明日の狩に、大《おほい》なる女鹿《めじか》に逢はば、汝の母と知つて、射ること、勿れ。」と言うた。寤《めざ》めて後、此事、氣にかかり、「明日は不參。」と申し込むと、保昌、大いに怒り、「汝、參らずば、首を刎ねる。」と叱られ、詮方無く、狩に出で、大きな女鹿に逢ふと、忽ち、夢の告げを忘れて、之を射る。鹿、射られて、見返つた貌《かほ》を見ると、我母の通りで、「痛や。」と言つた。忽ち、夢のことを憶ひ出し、其場で、髮、切つて、法師と成り、山寺に入つて、貴《たふと》き聖人と成つたと云ふ話が有つて、類話として、支那の惠原《けいげん》云々、少以弓弩爲ㇾ業、至武陵山、射一孕鹿、將ㇾ死能言曰、吾先身只殺ㇾ汝、汝今遂併殺害我母子、既是緣對、應爲ㇾ汝死、復向言曰、吾尋當成佛也、汝可ㇾ行ㇾ善、生生代代勿復結ㇾ冤、惠原卽悟前緣、遂落髮於鹿死之處、而置迦藍、名耆闍窟山寺。〔少(わか)くして、弓弩を以つて業(なりはひ)と爲す。武陵山に至りて、一(いつ)の孕み鹿を射る。將に死なむとするに、言(げん)を能くして曰はく、「吾、先身(せんしん)は、只、汝を殺せるのみ。汝、今、遂に、併(あは)せ殺して、我が母と子を、害す。既にして是れ、緣(えん)の對(つい)なれば、應(まさ)に汝の爲めに死すべし。」と。復(ま)た、向かひて言ひて曰はく、「吾れ、尋(つ)いで、當(まさ)に成佛せんとす。汝、善を行なふべし。生生代代(せいせいだいだい)、復た、寃(うらみ)を結ぶこと勿れ。」と。惠原、卽ち、前緣を悟り、遂に落髮し、鹿の死せる處に、伽藍を置き、「耆闍窟山寺(きじやくつさんじ)」と名づく。〕と、「朗州圖經」に見えたる由、「太平廣記」卷百一から引いて載せて居る。保昌は、空也よりは後の人だが、この「今昔物語集」の話は、或は、定盛が空也に敎化《きやうげ》せられたと云ふ譚よりも前に生じたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:『「攷證今昔物語集」卷十九に、藤原保昌、每度、鹿を狩る。其郞黨、……』これは「今昔物語集」巻第十九の「丹後守(たんごのかみ)保昌(やすまさの)朝臣(あそん)郞等(らうどう)、母の、鹿と成りたるを射て、出家せる語(こと)第七(しち)」(丹後守保昌朝臣郞等射母成鹿出家語第七)で、熊楠の言う、その原本当該部は「攷證今昔物語集  中」芳賀矢一編に成る大正三(一九一四)念富山房刊のここだが、非常に読み難い。新字であるが、「やたがらすナビ」のこちらで、まさに本書を訓読した電子化したものがあるので、そちらを参照されつつ、比較されたい。

『「太平廣記」卷百一』の「朗州圖經」の引用は「中國哲學書電子化計劃」の電子化されたものと校合し、本文の一部を訂し、返り点も不全箇所があったので、手を加えた。

「保昌は、空也よりは後の人」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は「道長四天王」と称され、道長の薦めもあり、和泉式部と結婚していることで知られる。空也上人は延喜三(九〇三)年生まれで、天禄三(九七二)年に没している。「後の人」とは言うものの、保昌数え十五の時に空也は亡くなっている。]

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