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2023/04/11

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「書籍と批評」

 

[やぶちゃん注: 底本のここ(本文冒頭の「德田秋聲氏」の始まりをリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。本パートは、皆、知られた作家ばかりであるから、特に作家注は附さない。]なお、このにある「澄江堂雜記」は、本書の電子化注の一番最初で既に終わっている。

 

 

      書籍と批評

 

 

 裝幀と著者

 

 自分は裝幀家の裝幀には倦怠を感じ、今のところ裝幀的な考案は行き詰つてゐるも同樣である。殊に畫家の裝幀はその繪畫的な詰屈以外には出てゐない。癖のある畫家の拵へ上げた裝幀がどれ程天下の讀書生を惱ますか分らないやうである。裝幀が畫家に委ねられた時代は、もういい加減に廢《や》められてもいい。裝幀に其内容を色や感じで現はすことは事實であるが、其書物の内容や色を知るものは恐らく著者以外に求められない。著者こそは凡ゆる裝幀家の中の裝幀を司《つかさど》るべきである。裝幀に一見識をもたない著者があるとしたら、それこそ嗤《わら》ふべき下凡の作者でなければならぬ。著者はその内容を確《しつ》かりと裝幀の上で、もう一遍叩き上げを爲し鍛へ磨くべきである。作者の精神的なものが一本鋭利にその裝幀の上に輝き貫いてゐなければならぬ。

 自分は日本だけに限られてゐる書物の「凾《はこ》」に就て時時考へるのであるが、「凾」はもはや「凾」以外に出られないことである。自分は「凾」の下の橫面に和本仕立の餘韻と便宜と[やぶちゃん注:ママ。「とを」の脱字を感じさせはする。]豫測し、そこに書物の名題を附けることにした。重ねて置いてもその書物が何であるかが分るからである。或意味で此「凾」は不經濟と不用との故に廢止する說も聞かないではなかつたが、日本の書物としての特徵ある凾はもつと進んでもよいが、決して廢止する必要はない。或は最《も》つと「凾」であるために美しく製《つく》らるべきであらう。大抵凾は小包用程度の實用品であるために、相應の美を持つ凝つた裝幀本でも、凾は見搾《みすぼら》しく[やぶちゃん注:ママ。普通は「見窄らしい」と表記する。]見るに堪へないハトロン紙張りである。自分は表紙に紙[やぶちゃん注:底本は「級」。誤植と断じ、「ウェッジ文庫」版で訂した。]を用ひても凾は布を用ひたいと思ふ位である。凾に寒冷絨張りをしたものは、岸田劉生氏裝幀の武者小路實篤全集であり、これが自分の記憶するところによれば凾に布類を用ひた最初であるやうに考へてゐる。[やぶちゃん注:「寒冷絨」「寒冷紗(かんれいしや)」(かんれいしゃ)と同義だろう。荒く平織に織り込んだ布のこと。「絨(じゆう)」(じゅう)は「厚い毛織物」を指し、江戸時代の「絨」は「じよん(じょん)」とも読んで、それは、輸入の毛織物の羅紗類で、少し品質の悪いものを指した。]

 裝幀の就中《なかんづく》卑しいものは徒らに金色燦爛たるもの、用なき色彩を弄んで塗りつけたもの又しつこい好みの混亂したもの等である。裝幀は澁い飽きない、見る程よくなる好みを打込むべきである。又別な意昧で凝らず謟《へつら》はずに中間的な淡泊な味《あぢは》ひと狙ひとで行くべきである。金ピカの裝幀の賤劣さは自分の常に慄毛(おぞけ)をふるふところのものだ。

 裝幀は精神的であり力の込められたもの程自分は好いてゐる。美しくあつても其爲に古さがあればよい。裝幀を靜かに見てゐると著者の面貌を髣髴する書物はないか、自分の裝幀に就て求めてゐることは常に此「一つの事」だけである。

[やぶちゃん注:現代の訳の分からぬベロベロと本巻きついているあの「帯」という奴を犀星が見たら、椅子を振り上げて怒るだろうなぁ。あなた、あの帯って日本にしかない、余計なイラつくものだって、知ってましたか? 四十三年程前、私の最初の教え子のお姉さんが日本語以外に六つの外国語を喋ることが出来、超有名大学の図書館司書をされておられたのだが、その方から、あの「『帯』を何んと英語に訳したらよろしいか、ご存知でしょうか?」と、妹を通じて質問された(私は図書館司書の資格も所持している)ので吃驚した。その方が謂わく、外国にはこのような(帯)物はどこにもない、とのことであった。売らんかなの出版社が安易に作ったゴミのような異物なのである。あんなモノこそ、廃止すべきだね。]

 

 作家と書物

 

 自分は一年の間に一册位の書物を出したいと思うてゐる。尠《すくな》くとも十年位は人人に愛讀されもし秘藏もされたい望みも持ち、さういふ書物出版の場合には良心を打込んでゐる。「庭をつくる人」もその意味で百年位は人人に讀まれる作家的權利を自分は持ち、又今度出た「芭蕉襍記《ざつき》」も同時に芭蕉の光茫とともに、百年の後代を負ふことは勿論であらう。若し自分が不幸にして一卷の書物すら出すことができないとしたら、自分の作家運の弱さに據るものであらう。幸ひ自分は平均此一卷あての書物を世に送ることのできるのは、自分の仕事榮《しごとさかえ》を感じる所以《ゆえん》である。かういふ場合出版書肆の有名無名なぞ問題ではない、自分の書物を出版する程の出版書肆は、自分の著作の殘る意味で、その書肆も自分とともに後代への橋渡しをしてくれるであらう。

 凡ゆる作家詩人はその愛情のこもつた作集を世に送る爲に、一年に一度位は寢食を忘れて書物をつくるべきである。書物などは子供らしい等と言ふことはならない。作家が作を爲すことは前途に彼の後世へ呼びかける、「書物」の纏め上げがあるからである。片片たる雜稿の中にも我我の作家生活の苦衷を物語るものは、誠に一卷の姿を爲し裝ひを纏め上げた時、その雜稿もなほ榮光を負ふべきものである。作家はその半生に於て、誠に好き數卷の書物を著はして置くべきである。彼が世に容れられなくなつた時にも、自ら彼自身を嘆くべき數卷を抱擁し得ることもでき、顧みて自らの孤高淸雅をも持つことができるからである。

 作家が己の著書に情熱を失ふことは、その乾燥された情熱に既に退嬰《たいえい》的な或時期を見なければならぬ。自分の著書がどうでもいいやうな作家ずれは、自分の好まないところである。凡ゆる作家は新鮮な喜びをその著作に經驗することに據つて、益益よき書物の人たらねばならぬ。何人《なんぴと》もその著書によつて喜びを頒《わか》ち合はねばならない。よき作家はよき書物を殘してゆくことは、既に彼がよき作家であることを證明してゐるやうなものである。その著書を見よ。そして彼が作家としてどの程度の高さにゐるかを測るべきであらう。いい加減の作者に決してよき書物が殘る筈がないのである。

 自分は他の作家とともに益益よき書物を時時出版し、これに據る作家的な喜びを經驗したい願ひを何時も持つてゐる。併乍《しかしなが》らかういふ自分にも書物はその出版迄の樂しみであり、市上に出るころは自分と離れた感じで、校正中の意氣込みが無くなり、何か淋しい氣がする。初めて自分の書物が世に出ることに依つて彼と自分とが昨日の親密さを失うてゐることも發見するのである。

 元祿の昔、蕉門書肆に井筒屋庄兵衞といふのがあつた。その時代ですら顧客の尠い俳書を出版し、今は珍籍に加へられてゐる。彼も元より一書店に過ぎないが、上木《じやうぼく》困難な時に敢然として自ら蕉門俳書の出版に從事したことは、彼自身發句人だつたばかりではなく、矢張りその犀利《さいり》の眼底に既に遠い後世を托《たの》み得たためであらう。

[やぶちゃん注:「犀利」文章の勢いや知力の働きが鋭いこと。また、真実を鋭く突いているさまを言う。]

 圓本流行は苦苦しい輕佻な此時代に、書物を階級的所藏慾から解放したことは事實であつたが、到底十年の見越しのついたものではなかつた。寧ろ圓本は後世書屋の一隅に埃とともにあるべきもので、珍籍として保存されることは絕對に無いであらう。心ある讀書生の書棚には最早圓本はその背中をならべられてはゐない。唯《ただ》古典の復古的事業のみが其圓本的事業として所藏もされ、愛惜されるに違ひない。最近の「隨筆大系」の如きものは何よりも珍籍とされるであらう。

 漱石全集の圓本は舊版を所藏する自分に、書肆の德義を疑はしめ、又俳書大系の圓本も亦高價な舊版所藏の自分を不愉快にした。書肆はその自家の版行に自信を持ち、飽迄《あくまで》時代苦を游泳すべきである。徒らに流行の中にあつて巨利を博するために、よき讀者の心臟に影響してはならぬ。元祿の昔、二百年後をも睨んだ井筒屋庄兵衞を今は求むべきではないが、書肆もまた井筒屋の霸氣を持つことも、せち辛き現世にあつてこそ又必要なことであらう。

 圓本的運命の自覺症狀は却て出版界をもつと眞面目に、手で愛撫するやうな書物を求めるであらう。尠くとももはや天下の讀書生の求めるものは、圓本の粗雜な製本ではなく、じつくりと机の上で眺めたい書物である。押入の隅などにあつても忘れるやうな書物ではない。よき裝ひをもつ誠の友である書物の中に、彼等はその書籍の故鄕を指して急いでゐる。何と書物への憧れや喜びを失うてゐた時の欝陶しかつた事ぞ。彼等は昔、樹下にゐて繙《ひもと》いた好《よ》き書物を忘れてはゐない。書物の内容と裝幀とを結び合せたものが、何と我我に久しく遠ざかつてゐた事ぞ。――

[やぶちゃん注:共感出来る内容である。予言も当たっている。但し、十一年前以前、私は毎月コンスタントに、最低でも、五、六万円分の本を買っていたが、仕事をやめ、ネット世界にどっぷり浸かるようになってから、やっと三十五年間、死に積みにしてきた書籍のやっと半分以上までは、目を通すことが出來、しかもユビキタスによって、私は、最早、書籍を全くと言っていいほど、買わなくなった。しかし、淋しくはない。遠い外国の古い書物も、一瞬で読むことが出来るようになったからだ。犀星の初版本も、思ったより、高くないのは、買い手がすっかり減ったからだろう。本随筆集は昭和四(一九二九)年二月の出版だ。まだ百年には六年ある。そこは、ちょっと、犀星の望みは少し裏切られたかも知れないな。]

 

 「澄江堂句集」を評す

 

 澄江堂句集は故人の香奠返しとして、香花を供へた人人への高雅な配りものであつた。自分と故人澄江堂とは故人在世の折屢屢句集上板の事に言ひ及んで、自分は鄕里に和紙の出產地があり印刷も亦甚だ廉價である故を以て、自分の句集出來の後に故人も亦印刷の意嚮《いかう》を漏してゐた。併し風月の懊惱《あうなう》は君を君の好める鬼籍に選し、最大の樂しみだつた句集上板は君の一瞥をも煩はすことなく、遺族の手で印刷されたのである。

 故人の發句は曾て「新潮」誌上にこれを詳說したが、故人としての彼を見る時、その奧の方にある心得を悟達する爲に、更めて彼が奈何に發句道の達人者としての生涯の一端に觸れ得てゐたかといふことを考へて見よう。

 彼の發句は明治年間に於て子規や漱石、紅葉の諸家の俊英を以てするも、決して彼らの背後に立つものでなく、秋晴の中に巍峨《ぎが》として立つ一瘦峯《いちさうはう》としても、彼等の群峰《ぐんはう》を穩かに摩してゐた。後代明治の發句道に落筆する俳詩壇の新人は、先づ彼の發句を子規とともにその俳史の上に述說するであらう。彼が一個の小說作者である以外に發句道にいかに「靑き汗」を流した俳詩人だつたかを、念念絕ゆることなき縹茫《へうばう》の作者だつたかを嚙み當て索《さぐ》り當てるであらう。彼を元祿の靜か世にその世にその生を享《う》けしめ、蕉門の徒として存在せしめたならば彼は先づ大凡兆を越えたる作者たり得たであらう。[やぶちゃん注:「縹茫」用例がなくはないが、私は「縹渺」の誤記であろうと思う。「遙かに広いさま」を言う。]

  蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白桃や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入り日しづもる在所かな

  野茨にからまる萩のさかりかな

  春雨の中や雪おく甲斐の山

 彼は改造社の講演旅行のため北海道へ旅行したが、歸來《きらい》先づ芭蕉の奧の細道の行脚は、元祿の當時では死ぬ覺悟で行かねばできぬ困難な旅行だつたことを、彼自身經驗することに依つて新しく發見したやうに自分に話してゐた。その時の發句であり彼の作句の最後の吟草は「旭川」と前書した左の穩和な一句であつた。[やぶちゃん注:「歸來」「帰って来てから」の意の副詞的用法。]

  雪どけの中にしだるく柳かな

 彼の發句に微塵も濁りを見ないのは、その稟性《ひんせい》に淸《さやか》さがあつたためであらう。何よりも彫琢を凝らした彼は或意味で彼の小說作品よりも、形式が狹小だつたためにより苦心したかも知れぬ。その全生涯を通じて百吟に猶足らない發句は、恰も凡兆が句生涯を通じて七十數句しか殘さなかつたのと同樣の苦汁である。

 彼は發句を餘技扱ひにはせずに、殆ど其打込み方は少しの弛《ゆる》みも見せてゐなかつた。何よりも我我の氣附くことは、あらゆる發句の眞實は作者がどれだけ其一句に打込み相撲《すまふ》うてゐたかと云ふことである。その意味に於て彼は堂堂と發句の宮殿裡に打込んでゐた。漱石紅葉にはそれほどの眞劍さがない。彼が子規以後の淸閑な一存在を印《いん》した所以も此處にある。後代の史家は彼の發句を特筆してその眞實的切迫を記錄するであらう。

[やぶちゃん注:芥川我鬼の句を実に正当にして正統に評価した名文と言える。但し、犀星の評論や随筆では、かなり頻繁に見られるのだが、引用時の引用間違いが、ここでも致命的に生じている。特に「てにおは」を命とする発句の場合、表記の誤りは許されない。それが判っていながら、犀星は、原記載を確認しないで、自分の漢字用法や事実誤認の記憶にすっかり頼って誤まるという救いがたいミスをしばしばやらかす。ここでも、

 蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

は、

 臘梅や枝まばらなる時雨ぞら

が正しい。私の『定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集』(全五巻)の「一 発句」を参照されたい。なお、この私の「芥川龍之介全句集」は、現在、存在している如何なる芥川龍之介の句集よりも、多く、採句しているという点で強い自負を持っているサイト版テクストである(但し、Unicode以前に原型を作成したため、一部の漢字が正字でないのは許されたい。だいぶ前から、気になっていて直したいのだが、縦書PDF版など、複数のタイプもあり、しかも、原原稿を外付けHDの致命的損壊で失っており、さらに、これ、一気に全部をやらないと意味がないため、手をつけかねているのが本音である)。なお、この芥川龍之介句集は、私は、復刻本で所持している。]

 

 句集「道芝」を評す

 

 句集「道芝」は久保田万太郞氏の發句集である。久保田氏は故芥川氏とともに文壇人の中でも、餘技的な發句以外の發句を志し又苦吟する人であることは、何人も知るところである。

 「道芝」一卷の發句に見る久保田氏は、談林の悲曲を奏で乍ら蕉風の古調にも耳傾ける人である。或發句の古さは月並の見窄らしい零落の面影をもち、或發句は芭蕉道の本流のさざなみに手をひたしてゐる。その新古鋭鈍の尺度は到底渾然の域のものではないが、自らその意識的古調の中に潛む恍惚は、自分の正眼に構へた發句道の弓箭《きゆうせん》の叫びを微かながら偲ばしてゐる。此「微かながら」の丈夫境さへ容易に俳職人ですら得られるものではない。[やぶちゃん注:「ウェッジ文庫」では「弓箭」に『ゆみや』のルビを振るが、従えない。]

  まなかひを離れぬ蝶や夏隣

  しくるゝや梢々の風さそひ

  桑畑へ不二の尾きゆる寒さかな

  假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花

  朝寒やいさゝか靑きものゝ蔓

 これらの發句の完成された落着きは、二十年來發句道にいそしむ朝暮の彼が風色であり、二十年來久保田氏が築き上げた精進の美しさである。閑素や寂情や物佗しさの顯れがある。「しくるゝや梢々の風さそひ」の作者は机上の人であり得ても、遂に机上から離れて風物の呼吸を同時に呼吸してゐる作者でもある。「假越のまゝ住みつきぬ石蕗の花」の流轉の俳境は、同時に小說戲曲家としての彼の發句的小說面の佗しさを現はしてゐる。此句の成就もそこにある。「桑畑へ」の表現は彼が發句道にある手腕と冴えとを見せてゐるが、而も此發句の持つ味ひは自分の見立によれば、通俗的効果以外大して嚴格な感情を持つてゐない。一應の完成と一應の美しさとを索《さぐ》り得ても、底のない死的風景にすぎないやうである。

 この作者の性根にあるものは、江戶三百年が辿り着いた明治的開花の中に、まだ微かに殘る下町の人情風俗をいとほしむ心に充ちてゐる。極言すれば凡ゆる詩俳人の持つ遺傳的な回顧風の人情風景の中に、何よりも現代的な久保田万太郞氏が散步するだけである。發句道の打込み方に疎く均しく鮮銳ならぬ所以も、又ここにあると云ふのも氏を知らぬ者の言葉では無からう。

 併し彼が物思はしげな明治末期の俳人の悌をもつてゐることは、此鮮銳を缺いた平易な優情的發句道への縋り方で分るやうである。彼は發句道に向うて丁丁と打込むの達人者の氣合は初めから持合さない。唯ひたすらな縋りであると言うてよい。穩和な縋りは前記の染染《しみじみ》した句境をかたち作つてゐることは勿論、又彼が一かどの詩俳人たるの遂に最も肝要な腰を据ゑるに至つたのである。

  音立てゝ用ふりいづる春夜哉

  宵淺くふりでし雨のさくら哉

 この二面の寫實的風景の平凡は、啻《ただ》にその凡化である理由からしても得難き優しさである。彼のたまたま弱い美への縋りの最高の句であると云つてよい。彼がこの二面の寫實的感情への陶醉は、人事的陶醉の時には槪ね失敗してゐる。

  三味線をはなせば眠しほとゝぎす

  岸鈞に小さんの俥とほりけり

  竹馬やいろはにほへとちりちりに

 此等を以て淺草詩人として彼を云々するは、久保田氏も困られるであらう。しかも最も惡句を代表したものは、遂に之等のうす眠き句境である。久保田氏への自分の望みはこれらのうす眠き句の抹消されることを云ふものである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。

「岸鈞に小さんの俥とほりけり」の「鈞」は「釣」の誤記或いは誤植。国立国会図書館デジタルコレクションの原本「道芝」のここを見られたい。

 最後に。私は当時の文壇俳句のボス的存在であった久保田万太郎の句には一句として惹かれるものは、ない。一種、俳句道の精進者の自負を持った室生犀星の句も、まあ、久保田よりはマシという程度にしか感じていない。]

 

 「何もない庭」

 

 「何もない庭」は百田宗治君の第三か第四の詩集である。「何もない庭」は俳書のやうな裝幀で自費で出版された詩集である。

 「何もない庭」の中にある人生は極めて物閑かな、言はば市井の一陋居にたむろして、自分自身の心にも又他人へも潔癖をもつて暮してゐる男の詩集である。百田君が何時靜かな詩を書くやうになつたかと云へばそれは十年前の彼の詩集「一人と全體」に古くも深く根ざしてゐる物靜かさであつた。今日不意に物閑かさに入り込んでゐる譯ではない。何時の間にか彼は彼の心の向く方へ深まつて行つただけである。彼自身でさへ餘りに自分が靜かさに浸りすぎてゐることをその詩の中では時時心づいてなほ一層手綱を緩めてはならぬと思ふであらう。

 詩の最高峰は靜かさの中に縛《し》め付けられたものの一切で、穩かさで烈しさを叩き上げるものである。彼の詩は多難な幾樣かの生活から自ら髮ふりかざし乍ら叫ぶかはりに、沈んでその幾樣かの人生を縛め付け壓搾してゐるのである。この周到な心で戰ふことは容易なやうで却却《なかなか》できぬ。[やぶちゃん注:「却却《なかなか》」この字で用いる副詞としての「なかなか」は打消しを伴って「逆に・かえって・むしろ・とてものことに(~ない)」の意である。]

 

      出 奔

 

  妻よ外出するおまへに

  わたしは何かと氣をつけてゐる

  おまへといつしよに行くことのできぬ私は

  おまへが電車道をよぎり

  自動車をよけ

  天の加護ある子供のやうに

  無事に早く歸つてくるのを待つてゐる

  ――だのに、妻よ

  なぜおまへはこの家を出奔て行つたのだ。

 

 詩が進んで選ぶ道は少くとも今日以後に於ては最早人生の詩でなければならぬことである。これは私の十年以前からの信賴と少しも渝《かは》らない。――詩の中にさぐり當て搔き撫でる素材の如きものは、小說の中の人生をひねり潰して仕上げたもの、わづか十行の詩の中に人生の全幅に觸つて行くものでなければならぬ。單に詩が詩である意味のものは最早我我の後方に踰《こ》えて來てゐるのだ。

 出奔一篇もまたこの本物の詩を引提げて立つてゐる。在來の百田宗治君はぐつと背伸びをして立つてゐる。微塵も濁つては居らぬ。かういふ詩をいま提《ひつさ》げ立つてゐるものは、彼一人であると言つてよい。僕の見るところに疑ひなければ、彼ほど詩を勉强してゐるものは稀である。そして絕えず前へ前へと進んでゐる。俗錢名譽に走らず、念念歇《や》みがたい精進は何人《なんぴと》も嘆《たん》を久しくするところである。自分の言はうとするところも此一つの事がらだ。氣のつかない人はよく見るがよい。烈しさを靜かさで叩き上げることは簡單にできるかどうか――

 彼の靜かさは併乍ら完璧の域のものではない。詩の最高峰が淸らか靜かさ穩かさであるといふ信賴を彼がもつてゐるならば、なほ一層に澄み透らねばならぬ。澄むと云ふ事や透る事は容易に完璧されるものでなく、なほ幾樣かの數奇なる人生や心境の變選の後に自ら濁れる水の澄むごとく、極めて時間的に少しづつその淸澄の時を得るものであらう。

[やぶちゃん注:百田宗治の詩には小学生の中頃に教科書で出逢った。中学生になって詩集を買ったと記憶するが、書庫の底に沈んでいて取り出せない。どんな詩に感銘したのかも実は記憶していない。今度、探して読み返してみようとは思っている。]

 

 「鏡花全集」に就て

 

 鏡花全集の背中の黃緣と表紙の薄い紫とは何時もながら穩かな調和を藏めてゐる。鏡花氏の題字もその穩和な裝幀に當て嵌つて結構を盡してゐる。も一つ、その凾張りに内容の作品目錄を揭げ讀者が作品を繙《ひもと》く爲に便宜を計つてあるのは、誠に盡せりの感じである。

 鷗外全集や漱石全集にも書目を凾の上に表記してないために、予の如き健忘症の徒は全卷を一々繙到《はんたう》せねばならぬ不便がある。分けて俳書大系の如きは芭蕉時代や蕪村時代を別册に編成してはあるものの、これも逐一繙讀の爲に全册を當る臆劫《おくくふ》を感じてならぬ。早晚これらの全集は各册の書目を類纂の上、凾張りの上に明記すベきであらう。この點に於ける鏡花全集の便利なことは言ふまでもない。聞くところに據ると小村雪岱氏は、一々毛筆で支那版下の文字を詳細に書いた上、これを木版に付したものださうである。あれらの數百字を一々毛筆で書きつづる爲事《しごと》は、寧ろ數學的面倒と機械的の精緻を要するものであるが、小村氏がこの匿《かく》れた仕事を試みて居られるのは、私の竊かに舌を卷いて嘆賞する所以である。

 裝幀は作品と一緖に、或は全然裝幀のみの獨箇《いつこ》の値《ち》として永く後世に問はるべきものである。書物の晴衣《はれぎ》としての裝幀はその時代の結構や風俗文明の程度を後代に語るに優辯なことは、木板時代に於て元祿版や享保版の紙質や表裝の流行に伴うて、白ら元祿の典雅は享保の雅籍を超えてゐることは言ふまでもない。或意味では裝幀は百年の後に一瞥してその時代の何物かを釋明するものでなければならぬ。新潮社の「小說家全集」の如き一人一册宛の場合も、なほ凾張りに作品別を明記した方が便利で單行本購入の際に照合して缺《けつ》を補はねばならぬ。序《ついで》であるが同小說全集は手ずれがして黑表紙が剥脫した後にも書物としてよい好みを持つてゐることは、裝幀者の用意を窺ふべきである。

 裝幀は古本と姿をかへる時に初めてその味や澁みを表現すべきものであつて、すくなくとも十年見通しの裝幀に取り掛るのがその順序であらう。眼前流行の書物はそれ自身で亡びてしまふのだ。書物はその父が子の代にも子がその父となる世にも殘存してゐるもので、裝幀の堅實典雅たるべきは目前の興趣や、讀者への單なる心づくしではなく實に或意味では作品よりも一層後世に殘すべきものである。この意味で鏡花全集の「凾」は單なる「凾」ではなく、「凾」の種類に於ける好個のよき見本であらねばならぬ。以て推奬する所以である。

[やぶちゃん注:ここで犀星が指している「鏡花全集」は春陽堂版(全十五巻。大正一四(一九二五)年七月刊行開始で、昭和二(一九二七)年四月完結)のそれである。グーグル画像検索「泉鏡花 春陽堂」をリンクさせておく。犀星の底本本書は昭和四(一九二九)年二月発行である。私も所持する岩波書店の「鏡花全集」(全二十八巻)は昭和一七(一九四二)年から刊行が開始されたものである。]

 

 「芥川全集」

 

 自分は書物の裝幀程その作者の氣質の出てゐるものは無いと思つてゐる。裝幀を見て作者がどの程度まで氣持が上り詰めてゐるかといふことを見ることが出來、作者好みの中に時代の向側の何年かを睨んでゐるかといふことを感じる。(併し自分は裝幀以下の裝幀に對してはこの言葉を成す者ではない。)裝幀以下といふ言葉は充分に理解されてゐない本屋のそれをいふのだ。併乍ら裝幀にも時代と本屋との關係や經濟をも頭に入れなければならぬことは勿論である。唯作者の何者かが一本裝幀を剌し貫いてゐることを見ることができれば、自分の云ふところが通じるやうな氣がする。

 自分は詩集の如きは今年だけで百册に近く寄贈を受けてゐる。それらの裝幀は稺拙《ちせつ》ではあるが各各心を籠めてある點で、それらしい勇敢と典雅の姿をもつてゐる。坂本源といふ人は自作の裝幀に南京の黃ろい布を用ひ、その爲支那町を探ねたと書いてあつたが、その意氣と用意怠らぬことには感心した。

 芥川全集の裝幀は生前にその布の色を決定してあつたさうであるが、遺子比呂志君の文字も稺拙を超越した美事さをもつてゐる。全集の委員が比呂志君の文字を選んだことは、美しい思遣りでなければならぬ。芥川君の在來の書物の裝幀は些《いささ》か派手だつた。今、全集を見て芥川君の志もまた此處にあつたことを喜しく思うた。紺布地の粗面の美は初めて布地の美を引きずり出してゐる。併し自分としては此友もこのやうな全集の姿になつたかと思ふと、歲月の惱みが怨めしい位迅《はや》く訪ねて來たことを感じるのだ。

[やぶちゃん注:全面的に同感。なお、言っておくと、芥川比呂志氏のそれは、「芥川龍之介全集」と書かせたものではなく、当時の彼(満七歳。東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)二年生であった)の書いたものから拾い出して組み合わせたものである。

「坂本源」不詳。]

 

 「山村暮鳥全集」

 

 詩人山村暮鳥はその生涯を殆ど田舍の海濱で暮した。海濱にあつた家庭に朝日の溫かい美しさを喜び、海岸傳ひに散步する事を喜び、日常の細かい樣樣な生活の味ひを喜び、子供に自分の分身を發見する事を喜び、詩作に倦まないで其作の出來上りを喜び、――凡ゆる微妙な物の中にも、全き彼、山村暮鳥の魂魄を打込んで喜びもし生活もした人であつた。

 家庭にある溫かい朝日のひかりや、机に對《むか》うて絕えず何か書いてゐる機嫌のよい彼の住居の遠くに、既に彼を召し拉(つ)れてゆくもののあることを知らう筈がなかつた。或は彼はそれを豫め知つてゐたかも知れなかつた。併し彼の不斷な詩作を恃《たの》む後代への心がけは、さういふ彼を現世から引き離すものを考へる暇《いとま》もない位、彼を全きまでに努力させ高揚させてゐたからであつた。しかも彼は最後に氷のやうに冷たい喜びをその手に握つてゐた。

 山村暮鳥は牧師の聖職に從うてゐたが、寧ろ彼は藝術的宗敎を奉じた側の人だつた。彼が牧師を辭したことは文學の中にあるもので宗敎に勝《まさ》るもののあることを發見したからであらう。彼の生涯の中で彼を終始した宗敎、その耶蘇敎的僞瞞《ぎまん》[やぶちゃん注:「欺瞞」の誤字の慣用表現。]の中にすらある多くの眞實が彼を最後までとらへ、彼を悒鬱《いううつ》[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じ。]にしたことも實際だつた。宗敎家を厭うた彼の生涯も所詮文學的表現の上では常に一つの思想としての、幽暗な匂ひのある宗敎の色や感じを搖曳してゐた。恐らく彼の生涯の中に絕えず明滅された是等の燈《ひ》は、その生ひ立《たち》からの宗敎的境涯の惰性の上からも、或は點火(とも)り或は消え或は明るく輝いてゐたものであらう。彼の詩的精神を貫ぬくものは何時も何か嚴かな物でなければ、冴えた美を射《い》り止めようとする狙ひや睨みの努力であつた。彼は此狙ひと睨みの間に悶えもし又自ら苦しみもした詩人だつた。樣式の轉換、語彙の淸新な意圖、素材への幼稚なまでの眞實性のある諸相は、軈《やが》て彼が最後まで自分を硏ぎ澄ますために怠ることなき人だつた。

 自分の何時も考へることは山村暮鳥は決して不遇な詩人でなかつたことだつた。彼を不遇として考へることは彼の素直な凡ゆる喜びに滿ちてゐる彼を憂欝にさせるものだつた。彼は彼だけの生活を拓《ひら》くために決して躊躇する人ではなく、寧ろ勇敢に進みもし突き破りもした人だつた。唯ひとつ最後に遺されてゐる彼の傳記が、彼の手で完成されなかつたことは何と言つても彼の末期《まつご》的炎を盡すことのできなかつた焦燥を自分に暗示して來るのだが、或意味に於て凡ゆる傳記的な感情の斷片ともいふべきものは、既に彼の詩の上に盛られてゐることを思へば、それすら彼の全鱗《ぜんりん》の上に何等の澁滯を來すものではなかつた。山村暮鳥は美事に完成され、そして寂しい一つの塔を日本詩壇の上に聳えさせてゐる。茨城縣磯濱の波はその塔を洗ひそそぐために、彼の好む燿《かが》やかしい朝日の光りとともに每日彼を訪れてゐるだらう。

[やぶちゃん注:太字は、底本では、傍点「﹅」。私は中学時代より暮鳥を愛してきたが、彼の全集は所持していない。但し、彌生書房版「山村暮鳥全詩集」(昭和三九(一九六四)年初版の昭和五一(一九七六)年の第六版)を所持しており、それや、ネット上の画像をもとに、ブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩【完】」で全詩篇の正規表現を目指した電子化注を二〇一七年五月に完遂している。なお、本篇については、加工データとして使用させて戴いている「ウェッジ文庫」の「天馬の脚」(二〇一〇年二月刊)の本篇の最後に、編集部注として、『本稿は『暮鳥詩集』(厚生閣書店、昭和三年)の序に「詩集に」の題で收載された。序の筆者は他に、萩原朔太郞、福士幸次郞、前田夕暮、土田杏村』とあった。]

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