佐々木喜善「聽耳草紙」 二八番 姉のはからひ
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
二八番 姉のはからひ
ある所に姉(アネコ)と弟《おとと》とがあつた。秋の日に山へ栗拾ひに行つた。姉弟は栗の實に氣をとられて、別れ別れになつて居るうちに、姉は何者かに攫擢はれてしまつた[やぶちゃん注:「攫」は底本では「擢」であるが、「擢」には「抜擢」のように「選(え)り抜く・引き抜く」という意はあるが、「奪取する・さらう・誘拐する」の意はないので、誤字か誤植と断じて、「ちくま文庫」版で訂した。少し後の「これだこれだ姉はてツきり此館の中に攫はれて來て居る」では正しく「攫」が用いられているからである。]。弟はそれと悟つて、姉(アネコ)やい姉やい、と呼びながら尋ねて行つた。すると柴や木の枝に、姉がかぶつて居た手拭(テノゴエ)だの、姉の着物の引裂(ヒツチヤ)けた巾(キレ)等が引懸つてゐた。これは必度(キツト)此邊に居るのだと思つて、なほなほ奧へ分け行つて見ると、山奧に大きな構への館が一軒あつた。そして表の黑門の柱に、姉の着物の片袖がちぎれて引掛つてゐた[やぶちゃん注:底本「るた」。誤植と断じ、訂した。]。これだこれだ姉はてツきり此館の中に攫はれて來て居ると思つて、入つて行くべと思ふと、門の傍に黑鬼が番をして居て、どうしても入《はひ》れなかつた。はてナジヨにしたらよかべなアと思つて此方《こつち》の樹(キ)の蔭に匿れて見て居ると、其黑鬼は門口を塞ぐやうに橫になつた。さうしてぐうぐうと大鼾《おほいびき》をかき始めた。弟は此の時だと思つて、鬼の體を跨ぎ越えると、誤つて鬼の片足を踏みつけてしまつた。すると鬼は寢返り打つて、ケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないと呟いた。弟は體を潜《ひそ》めて土を這つて内へ入つて行つた。運良く黑鬼に見付けられなかつた。
弟は首尾能《よ》く一の門をば入つて行つたが、また少し行くと、こんどは靑い門があつて、其所には靑鬼が番をして居た。其所でもこれはナジヨにすべと思つて樹蔭《こかげ》に匿れて見て居ると、鬼は門口を塞ぐやうに橫になつて寢て、すぐにごほんごほんと大鼾をかき始めた。そだから弟は身を屈めて脚の方を通り技けべとすると、又誤つて鬼の足を踏みつけた。すると鬼は、またかケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないとつぶやいた。此所でもやつぱり弟は鬼に氣付かれないで、首尾よく門を通り拔げて行つた。
それから又少し行くと、こんどは赤い門があつて、赤鬼が番をして居た。あれや又此所にもこんな者が居た。ナジヨにすべなアと思つて樹蔭に匿れて見て居ると、赤鬼は先(セン)の鬼共のやうに門口を塞いで橫になつた。橫になると直ぐごほんごほんと大軒をかき始めた。そだから弟は屈(コゲ)まつて[やぶちゃん注:底本ではルビは「コゲマ」となっている。「ちくま文庫」版を採用した。]脚の方を通り拔けべと思ふと、[やぶちゃん注:底本は句点。同前で読点に変えた。]又誤つて鬼の足を踏付(フンヅ)けてしまつた。鬼は又どうもケツナ二十日鼠だ、うるさくて眠られないぢアと言つて、ごろりと寢返りを打つた。ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に危いところを、弟は鬼に見付けられないで其所も首尾よく通り拔けて行つた。
弟が館の玄關に行つて見ると、そこに姉の草履があつた。弟が姉々と呼ぶと、姉は出て來て、お前も此所へ來たか、速く内さ入《はひ》れと言つて内へ上げて、室の隅(スマコ)の葛籠(ツヅラ)の中に入れて弟を匿《かく》した。
夕方(ヨマガタ)、館の主《あるじ》の鬼が何所《どこ》からか還つて來た。そして爐《ひぼと》に踏跨(フンバタ)がつてあたりながら、これこれ女(ヲナゴ)やい、どうも人臭いなアと言つた。姉がそんなことはないと言ふと、鬼は何《なに》匿《かく》すなと言つて、庭へ下りて行つて薄(ススキ)の葉を見て、これや此薄の葉の上の露玉が一つ殖えてゐる。必ずこの館の中さ人間が一人入つたに相違ないでばと言つた。そして又内に入つて爐にあたりながら、室中をじろじろと見廻して居るうちに隅の葛籠に目をつけた。其葛籠からは弟の帶の端(バジコ)が少し出てゐた。鬼はあれや何だと言つて、づかっづかと立つて行つて、葛籠の蓋を押明《おしあ》けて弟を外へ引張り出した。姉は、其子は私の弟だから取つて食うことだけは許してケテがんせと言つた。鬼は奧齒まで出してせヽら笑つて居た。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」なのであるが、点の位置が、微妙に「許し」の位置よりも、半角分、上にあること、「許し」に傍点を打つことへのちょっとした違和感から、これは、思うに、その上にある「だけ」に打たれたるべきものだったのではないか? と疑っている。二年後に出た昭和八年刊の新版の同じ部分を見たが、全く版組は変わっておらず、同じであった。因みに、「ちくま文庫」版には傍点そのものが存在しない。]
夕飯時、鬼は、それではお客、飯の食較《くひくら》べをすべえぢや。そして食ひ負けた方を取つて食いツこだと言つた。けれども姉の計らひで、弟の椀(ワン)には中にカサコ(小椀)を伏せ入れて、其上にさつと飯を盛り、鬼の椀には捻《ひね》りつけて山盛りに盛つたから、弟の方が食ひ勝つた。鬼はこれは恐入《おそれい》つた。勝負と謂ふものは何事も三度と謂ふものだから、今度は煎豆《いりまめ》の食ひ較べをすべぢえ、そして負けた方をばやつぱり取つて食ふのさと言つた。(負けた方をば傳手(ツイデ)に取つて食うのさとも言つたと謂ふ。[やぶちゃん注:三度の食い較べの三度目を端折ることを言っていよう。このヴァージョンでは、鬼は自分が次は絶対に勝つと考えているのであろう。])けれども其時も姉の計らひで、弟へはあたりまへの煎豆、鬼の方へは小石をがらがらと入れて食はせたので、此時もやつぱり弟の方が勝つた。鬼は又驚いて、これはこれは恐入つた。待て待ていま一遍(ヒトガヘリ)だ。さア今夜ははアゆツくり寢て、明朝早く起きて、木伐《きこ》り較(クラゴ)をすべえ。やつぱり負けた方ば取つて食いつこさと言つた。そう言つてから鬼は自分の寢床に入つて、ごほらやいごほらやいと大鼾をかいて眠つた。[やぶちゃん注:主人の鬼と、門番の家来の鬼どもの鼾が差別化されているのが面白い。]
姉は夜の中に、弟の斧をばエガエガと磨(ト)ぎ澄まし、鬼の斧をばごしごしと石で刄《は》をおとして、ボボクシ(棒丸)のように碎いて圓《まる》めておいた。そして翌朝夜明に、さあさあ早く起きて木を伐つてがんせと言つた。鬼はそれでやお客も起きろと言つて跳ね起きて、庭に飛び下りて木を伐り始めた。同じ太さの木を弟と鬼は一緖に伐りはじめた。ところが弟の斧は木を丁々(ちやうつやう)と切つてゆくのに、鬼の斧は木の皮ばかりめくツて、少しも幹に刄が立たなかつた。鬼は今度こそは、弟に勝つて取つて食ふべと思つて一生懸命になつて木の幹を叩きのめして居るところを、姉は弟の側へ行つて弟々《おととおとと》今だ、早く鬼をその斧で斬り殺せと言つた。そこで弟は鬼の氣無(キナ)しなところを[やぶちゃん注:油断したところで。]、後(ウシロ)に廻つてごろりと鬼の首を斬り落した。
首領(カシラ)の鬼が斬り殺されたもんだから、あとの家來の鬼どもは、皆《みな》姉弟《あねおとと》の前に膝をついて降參をした。そこで姉弟は鬼の館にある寶物を殘らず小鬼(コオニツコ)に負(セオ)はせて、目出度く、吾家ヘ還つた。
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