只野真葛 むかしばなし (60)
一、村田春海(はるみ)が父は、ほしか問屋にて、數代(すだい)の富家なり。代々、風流人なりし故、兄弟共、眞淵の弟子とせしなり。父なくなりて後、兄も三十の年にて、子もなくて病死す。春海は公儀御連哥師(れんがし)の家を繼(つぎ)しが、兄のなくなりし時、其家を捨て、町家をつぎしなり。生付(うまれるき)、かやうに分(ぶん)なき所有(あり)し人なり。其心から[やぶちゃん注:底本は「其心がから」。「日本庶民生活史料集成」で訂した。]、富家をも、また、潰して、流浪したり。
「大家をつぶせし人のしわざは、かくべつの事なり。」
と、父樣、被ㇾ仰し。
たゞ壱(ひとつ)を聞(きく)に、吉原晝三(よしはらのちうさん)に、なじみ、通ひて、根引(ねびき)のつもりに成り、手付金二百兩、渡せしに、其後、音づれなかりしを、
『一日、二日は、何かとゞこほる事もや。』
と思(おもひ)て有(あり)しに、あまり程ふる故、人をやりてきかせたれば、
「此ほど、よきつれ有(あり)て、熱海へ湯治に行(ゆき)し。」
とて、留守なり。二百兩を、すて金にして、かまはぬ心なり。されば、哥も、人がら、よかりしなり。
濱町のかり宅の近所に、春海、親類有し故、そこにかゝりて有しが、餘り、もの不自由のてい故、昔、父の代に、さる大名に、用金、多くいだせしを、返濟なかりし故、ひとつは家もつぶれし事と、段々、申(まうし)たて、
「俗名村田平四郞儀、只今、流浪致居候間、何卒御合力金(かふりききん)いたゞき度(たく)。」
と願(ねがひ)て、三十兩被ㇾ下はづ[やぶちゃん注:ママ。]にて有しが、
「受取(うけとる)時は、同人自身に出(いづ)べし。」
と、役人、いはれしとぞ。
「かしこまりし。」
とて、歸り、
「明後日は、ぜひぜひ受取にでられよ。」
と云(いひ)しに、其日に成(なり)て、
「いやなり。」
とて出ず。
「其元(そこもと)の爲、三度、五度、やしきへ通ひ、漸々(やうやう)成難(なりがた)き事を、こしらい[やぶちゃん注:ママ。]しに、餘りしき事なり。」
と腹立(はらたてれ)ば、
「心ざしは、かたじけなし。其金、得たるも、同じ事なり。されど、三拾兩ばかりの金、受取に、頭を下ゲて出る事、何とも、はづかし。ゆるし給(たまは)れ。」
とて、出ざりしとなり。其親類、父樣に逢ふて、
「ケ樣の人故(ゆゑ)、こまる。」
と咄したりとぞ。
[やぶちゃん注:「春海」「只野眞葛 いそづたひ」で既注の、国文学者で歌人の村田春海(延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)。
「ほしか」「干鰯」江戸時代、鰊(にしん)・鰯(いわし)などの乾燥肥料で、油粕とともに金肥(購入肥料)の中心商品作物で、特に木綿栽培の肥料として多く利用された。初めは九州・北国ものが多かったが、元禄(一六八八〜一七〇四年)頃から、九十九里や三陸方面で発達し、幕末は松前物が支配し、商業的農業の発達を齎した(「旺文社日本史事典」に拠った)。
「晝三」前回に既出既注。
「根引」「身請」(みうけ)に同じ。芸娼妓(げいしようぎ)を落籍させることを言う。
「こしらいしに、餘りしき事なり」「無理をして、ようやっと、かく仕舞わしてやったのに、ここに至って、余りのことじゃないか?! どういう料簡かッツ?!」。怒ったのは、その手筈をわざわざやってやった春海の親類。]
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