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2023/04/25

佐々木喜善「聽耳草紙」 五一番 荒瀧の話

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      五一番 荒瀧の話

 

 靑笹村に荒瀧と謂ふ力士があつた。子供の時から小力《こぢから》が强くて、村の祭場《まつりば》などでは常に角力《すまふ》の大將になつて居た。そして方々のスバ(角力場)を踏んで步き廻つたが、どの村ヘ行つても荒瀧に勝つ者がなかつた。そこで俺は餘程の大力なんだなアと思つた。

 荒瀧はますます大力になりたいと思つて、遠野郡での御山(高山)六角牛山《ろつこうしさん》に願をかけて、冬の雪山を、裸體(ハダカ)で素足(ハダシ)で每夜御山《おやま》かけをした。雪山はいつも腰きり深かつたが、精神を籠めて居たから體には少しも障《さは》らなかつた。或夜、常のやうに御山の御頂《ゴテン》へ行つて、御堂の内で一生懸命に拜んで居るとこの山の主《ぬし》の若い女の神樣が現はれて、肩肌を脫いで白い乳房を出して飮ましてくれた。それからは每夜神樣が乳を飮ましてくれた。この山の神樣は他《ほか》の石上山《いしかみさん》、早池峯山《はやちねさん》の山々の女神達と御姉妹で、その中の一番の姉樣であつた。荒瀧に逢ふ時には大變黑い長い髮を引いて居つた。

 荒瀧はどんな强敵に出會つても、土俵で六角牛山の方を向いてジダシブミ(四股《しこ》)をすると、必ず勝つたと謂ふ。或る年その當時江戶相撲で橫綱の日ノ下開山秀之山《ひのしたかいさんひでのやま》といふ角力取りが來たことがあつた。その時荒瀧は飛入りに入つて秀の山の一番弟子を難無く負かしてやつた。そして土俵を廻つて降(オリ)やう[やぶちゃん注:ママ。]とする時、秀の山が立つて來て、どうもお前はよい體格(カラダ)だなアと言つて背をそツと撫でた。ただ撫でたやうに見えたのだつたが、その實は荒瀧の肋骨(アバアボネ)が二三本折られて居た。それから病氣になつて遂々《たうとう》死んだ。まだ生き居る老人で、この人を覺えて居る人たちもある。七十年ほどばかり昔のことでもあらうか。とにかく遠野鄕ではそれから荒瀧と謂ふ角力名《しこな》を禁じて居る。

 (故鄕の傳說であると謂ふ點で採錄する。敢て珍しい
 譚ではないが、彼《か》の秋田の三吉神《みよしのか
 み》の話等を思ひ起させる。彼の山ノ女神と里の男と
 の關係を話した赤子抱きの話などを參照して見て下さ
 い。)

[やぶちゃん注:「靑笹村」遠野市青笹町(あおざさちょう)地区(青笹の東を含む広域。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。)。

「六角牛山」岩手県遠野市青笹町糠前(ぬかまえ)にある六角牛山(ろっこうしさん)。

「石上山」ここ

「早池峯山」ここ

「日ノ下開山」「天下無双の強者」「優れた者」の称。現在の横綱力士の代名詞。天和2(一六八二)年、江戸幕府は、武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、禁止命令を布告し、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さをみせた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」または「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「秋田の三吉神」秋田県秋田市広面字赤沼にある太平山三吉神社総本宮の一柱である三吉神。同神社公式サイトのこちらの「御由緒」に、『霊峰太平山に祀る当社は、天武天皇の白鳳』二(六七三)年五月、『役の行者小角の創建と伝えられ、桓武天皇』の治世の延暦二〇(八〇一)年の『征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立、奉納された御鏑は神宝として今に伝えられてい』るとし、『古くからの薬師の峰・修験の山としての≪太平山信仰≫と、力の神・勝負の神を崇める≪三吉信仰≫があいまって、累代秋田藩主佐竹公の崇敬篤く、また』、『戊辰の役では』、『奥羽鎮撫総督九條道孝卿』が『里宮に祈願されるなど、古来より勝利成功・事業繁栄の霊験高い守護神として広く崇敬を受けて』いるとし、祭神は三柱で、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)(=大国主命)・少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)・三吉霊神(みよしのおおかみ)とし、最後のそれは『秋田で生まれた守護神』で『力の神・勝負の神・勝利成功・事業繁栄の神』とし、さらに「三吉信仰について」という項を設け、『三吉霊神は力の神、勝負の神、破邪顕正の神である。曲がった事が大嫌いで、力持ち。弱きを助け、邪悪のものをくじく神様である』。『太平の城主藤原鶴寿丸三吉は郷人の面倒を良くみた名君であったが、他の豪族にねたまれ』、『追い出されたため、世を捨てて太平山に篭り、太平山の神様即ち大己貴大神、少彦名神様を深く信仰し、修行せられて力を身につけ神様として祀られた郷土の神である』。『霊験談は数多いが、明治元年』の『戊辰役の際の霊験はあらたかであり、神さまの御神徳に感謝した秋田藩主佐竹侯より太平山を遥拝する雪見御殿、すなわち現在の里宮の地を奉賽され』、『以来、特に勝利成功、事業繁栄のお社として、地元はもとより、北海道、東北、関東などの遠方よりも熱烈なる信仰を持った崇敬者が訪れ、年々ご祈願の方々も多くなり現在に至っている』とある。

「山ノ女神と里の男との關係を話した赤子抱きの話」佐々木喜善著の「東奥異聞」(大正一五(一九一六)年三月坂本書店刊『閑話叢書』の一篇)の「赤子抱きの話」。国立国会図書館デジタルコレクションの平凡社『世界教養全集』第二十一巻(一九六一年・新字新仮名)のここから視認でき、その「二」の後半では、本話も紹介されてあり、また、同書底本で「東奥異聞」全部が「青空文庫」のこちらで電子化されてもあるので見られたい。]

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