「曾呂利物語」正規表現版 第四 / 九 耳切れうん市が事
[やぶちゃん注:本書の書誌及び電子化注の凡例は初回の冒頭注を見られたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文學大系』第十三巻 「怪異小説集 全」(昭和二(一九二七)年国民図書刊)の「曾呂利物語」を視認するが、他に非常に状態がよく、画像も大きい早稲田大学図書館「古典総合データベース」の江戸末期の正本の後刷本をも参考にした。今回はここから。なお、所持する一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注の「江戸怪談集(中)」に抄録するものは、OCRで読み込み、本文の加工データとした。さらに、挿絵については、底本では抄録になってしまっているので、今回は、同書にあるものが、比較的、状態がよいので、それをトリミング補正した。]
九 耳切れうん市(いち)が事
信濃の國、善光寺の内に、比丘尼寺、ありけり。
また、越後の國に「うん市」と云ふ座頭はべる。常に、彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。
ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。
少し快くして、彼の寺に行きけり。
主の老尼、
「うん市は、遙かにこそ、覺ゆれ。何として、打絕(うちた)えけるぞ。」
と云ひければ、
「久しく所勞の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」
と云ふ。
兎角して、其の日も暮れければ、
「うん市は、客殿、宿(やど)られよ、」
と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。
爰(こゝ)に、「けいじゆん」とて弟子比丘尼あり。三十日程さきに、身まかりぬ。[やぶちゃん注:「慶順」「慶純」「慶淳」などが考えられる。]
かの「けいじゆん」、うん市の臥したる所へ行きて、
「其の後(ご)は、久しくこそ、覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ、伴ひ侍らん。」
と云ふ。
うん市は、死したる人とも知らず、
「それへ參るべく候へども、御一人(おひとり)坐(おはしま)す所へ參り候(さふらふ)事は、如何(いかゞ)にて候ふまゝ、えこそ參るまじ。」
と云ふ。
「いやいや、苦しうも候はず。」
とて、是非に、引き立て行く。
彼(か)の寮の戶を、内より、强く、さして、明くる日は、外へも、出ださず。
さて、暮れぬ。
うん市、氣詰まり、
『如何(いかゞ)すべき。』
と思ひながら、すべきやうも、なし。
めうけつに、行事の鐘の音、しければ、
「ぎやうしに逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事、あるまじ。」
と云ひて出でぬ。[やぶちゃん注:「めうけつ」岩波文庫の高田氏の注には、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とあるのだが、ちょっと、それでは、意味が採れない。私は「妙訣」(歴史的仮名遣も「めうけつ」)で、「非常に上手い奥の手」の意ではないかと感じた。則ち、丁度いい具合に彼女が勤行のために寮を出ねばならなくなったことを、「うん市」の内心に即して、かく言ったのではないか? と思ったのである。以下、「うん市」は、これを機に、かの尼「けいじゆん」の寮から出る算段を考え出しているからである。「ぎやうし」同じく、高田氏の注で、本文を『行事』と書き変え、『意によって改』したとされた上で、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とされている。しかし、これは例えば、「行師」(ぎやうし)ではなかろうか? 言わずもがなだが、この台詞は「けいじゆん」の「うん市」への禁足を指示したものである。則ち、彼女の師であるところの、「比丘尼に『逢』って勤行をなしてより、また帰って参りますから、恐れ入りますが、余所(よそ)へ出て行くことは、決してなさいまするな。』と言っているのではなかろうか? 但し、この後に再度出る「ぎやうし」は「出でける」とあるので、高田氏の「行事」の方がしっくりはくる。]
さて、
『如何(いかゞ)して、出でん。』
と、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事も、ならず。
夜明けて、けいじゆんは、歸りぬ。
かくする事、二夜(よ)なり。
其の中(うち)に、食ひ物、絕えて、迷惑の餘りに、三日目の曉、ぎやうしに出でけるうちに、寮の戶を、荒(あら)らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出であひ、戶口を蹴放(けはな)し、見れば、うん市なり。
「此の程は、何處(いづく)へ行きけるぞ。」
と、尋ねければ、
「爰に、居てこそ侍れ。」
と云ふ。
見れば、しゝむら、少しもなく、骨ばかりにて、さも、恐ろしき姿なり。
「如何に、如何に、」
と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下(した)より、
「しかじかの事にて、侍る。」
と語る。
「けいじゆんは、三十目ほど前に、身まかりぬる。」
と云へば、愈々、興さめてぞ、覺えける。
「一つは、けいじゆん弔ひの爲(ため)、又は、うん市が怨念を拂はん爲。」
とて、寺中、より合ひ、百萬遍の念佛を修行しける。
[やぶちゃん注:上の画像では切れているが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで見ると、「ゑちこの国みゝきれうんいちの事」と読める。百万遍を誦える尼僧三人の後ろの右手にいるのが「うん市」。でその膝に頭を載せようとする白衣の者が尼僧「けいじゆん」の亡霊である。]
各(おのおの)、鐘、うち鳴らし、誦經しける時に、何處(いづく)ともなく、「けいじゆん」、形を現はし、出で來たり、「うん市」が膝を、枕にして、臥しぬ。
念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、性體(しやうたい)もなかりければ、斯(か)かる隙(ひま)に、うん市、枕を外し、
「はや、國に歸り候へ。」
とて、馬を用意して送りぬ。
道すがら、いかにも身の毛よだち、あとより、取り付かるゝやうに覺え、行き惱みけるほどに、或(ある)寺へ立ち寄り、長老に會ひて、
「しかじかの事、侍り。平(ひら)に賴み奉る。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄合(よりあ)ひ、「うん市」が一身に、「尊勝陀羅尼(そんしようだらに)」を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。
さる程に、「けいじゆん」、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、
「うん市を、出だせ、出だせ、」
と、ののしりて、走りまはりしが、「うん市」を見付けて、
「噫(あゝ)、可愛(かはい)や、座頭は、石になりける。」
とて、撫で𢌞し、耳に、少し、「陀羅尼」の足らぬところを見出だして、
「玆(こゝ)に、『うん市』が、切れ殘りたる。」
とて、引き千切りてぞ、歸りにける。
さてこそ、甲斐なき命、助かりて、本國へ歸りしが、「耳切れうん市」とて、年(とし)たくるまで、越後の國にありし、とぞ。
[やぶちゃん注:「百萬遍の念佛」高田氏の注に、『災厄や病気をはらうために、犬勢が集まって念佛を百万回となえる行事』とある。この場合の回数は、その場にいる僧たちの念仏の総和を指す。
「尊勝陀羅尼」尊勝仏頂の功徳を説く陀羅尼(梵文(ぼんぶん)を翻訳しないままで唱えるもの。不思議な力を持つと信じられている、比較的、長文の呪文である)。これは、帝釈天が善住天子の、死後七度、畜生悪道の苦しみを受ける業因を憐れんで、仏に、その救済を請うたことから、仏はこの陀羅尼を説き、誦せしめたとされる。これを読誦すると、罪障消滅・延命など、種々の功徳があるとされる。
「可愛や」ここは「可哀想なこと!」の意。言うまでもなく、この「けいじゆん」は、生前、「うん市」に秘かに恋慕していたのであり、「うん市」の耳が「けいじゆん」の、まさに文字通り、〈鬼気迫る冥途の片恋〉の形見の品となる猟奇性が、これ、本話のオリジナリティと言える。すっかり、肉が落ちた「うん市」は哀れであるが、これまた、何の因果か知らぬが、「越後の耳切れうん市」として知られた座頭として相応に生きたというエンディグは、近過去の怪奇談(噂話)として、まあ、よく出来ているとは言える。
さて。無論、これは小泉八雲の“ THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI ”(明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークで出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集“ KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”(来日後の第十作品集)の第一話で(小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した)世界中で読まれることとなった「耳無し芳一」が永遠の名作である。私のものでは、「小泉八雲 耳無芳一の話 (戸川明三訳)」で電子化注してある。私の電子化注した類話では、「諸國百物語卷之一 八 後妻うちの事付タリ法花經の功力」、及び、「宿直草卷二 第十一 小宰相の局幽靈の事」がある。なお、小泉八雲の原拠は、天明二(一七一二)年に板行された一夕散人(詳細事蹟不祥)作の読本「臥遊奇談」(板元は京都)の巻之二巻頭にある「琵琶祕曲泣幽靈」(琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ)である。上記の戸川訳の私の注で電子化してある。但し、「臥遊奇談」のそれは、先に示した延宝五(一六七七)年板行の荻田安静編著の「宿直草(とのいぐさ)」の「宿直草」の影響を明らかに受けて書かれたものであるとされる。]
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