「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 池袋の石打
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここ。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。
なお、本篇はサイト版で既に、「選集」底本で新字新仮名の「池袋の石打ち」を二〇一〇年五月十三日に公開しているが、今回のものが決定版となる。
また、「選集」では、標題の次行の下方に『川村杳樹「池袋の石打ちと飛驒の牛蒡種」参照』という編者注がある。以下の標題の次行のそれを指す。川村杳樹は柳田國男の変名ペン・ネームの一つである。本篇のために、柳田國男のその正規表現版「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」を先だって電子化注して公開しておいたので、まずはそちらを、必ず、読まれたい。私の考える「池袋の石打」の真相もそちらに示してあるからである。]
池 袋 の 石 打 (大正三年四月『鄕土硏究』二卷二號)
(『鄕土硏究』第一卷第六號三二一頁參照)
獨逸で所謂「ポルターガイスト」は騷鬼《さはぐおに》が義で、色々の例と解說を「大英類典」十一板二十二卷の其條に載せ居る。「五代史」に、漢隱帝卽位、宮中數見下怪物投二瓦石一撼中門扉上、隱帝召二司天趙延乂一、問二禳除之法一、延乂對曰、臣職二天象日時一云々、禳除之事、非二臣所一ㇾ知也、然臣所ㇾ聞者、殆山魈也。〔漢の隱帝、卽位し、宮中、數(しばし)ば、怪しき物の瓦石(ぐわせき)を投じ、門扉を撼(ゆる)がすを見る。隱帝、司天の趙延乂(ちやうえんがい)を召して、禳除(じやうじよ/はらひ)の法を問ふ。延乂、對(こた)へて曰はく、「臣は、天象・日時を職とす云々、禳除の事、臣の知る所に非ざるなり。然(しか)れども、臣の聞く所は、『殆んど、山魈(さんしやう)のなすなり』。と」と。〕爰に「見二怪物一〔怪しき物を見る〕」と有るは、『怪しい現象を見た』の義で、正體を見得なかつたればこそ、「臣所ㇾ聞〔臣の聞く所は〕」云々と云《いつ》たので、取も直さず、騷鬼だ。「古今著聞集」變化第二十七に、八條殿御所え[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、眼に見えぬ物が、土器片を投げ、又、三條前右府の白川の亭え、何處《いづこ》よりと無く、礫《つぶて》を雨の樣に打《うつ》た、二條の譚《たん》有り。何れも、狸の所業《しわざ》とし居る。予、貧乏故、每度、此邊で、俗に「狸が土を雨《ふら》す」てふ家に棲む。今、此文を書いておる古屋も、屢々、夜中、土が異樣に降る。是は、屋根裏の板間《いたのま》に塗《ぬつ》た土が乾いて、一時《いつとき》に碎け墮《おち》るのじや。一昨年、近村《きんそん》鉛山(かなやま)で、每日、石が飛込む家に、大勢、災《わざはひ》を禳《はら》ふ爲、百萬遍を修むる所え、又、石が飛込むを、予の知人が、障子の穴から覗くと、其家の子守り少女の所爲《しよゐ》と判り、敎唆した隣家の女房共《とも》、當《たう》田邊町警察署へ、引《ひか》れ罰せられた。
[やぶちゃん注:「ポルターガイスト」ドイツ語“Poltergeist”は、“poltern”(「騒々しい音を立てる」)+“Geist”(「霊」)で、「騒がしい霊」という意味の合成語。日本では、浅野和三郎(明治七(一八七四)年~昭和一二(一九三七)年:元は大本教(おおもときょう)信者であった彼は大正一二(一九二三)年三月に『心霊科学研究会』を創設した)が「ポルタアガイスト」=「騷々しい幽」と和訳し、幽霊屋敷に起こる怪音・非物理的現象として紹介した。当該ウィキには、先に示した柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」に出た、池袋・沼袋の事例も挙げてある。
『「大英類典」十一板二十二卷』既出既注の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、「Wikisource」(英語版)このこちらで一九一一年版(=十一版)第十二巻の電子化された当該項が読める。
「五代史」は「中國哲學書電子化計劃」の「新五代史」の影印本(こちらの最終行以降)で一応、校合したが、熊楠の「者」は、あった方が訓読にしっくりくるので残した。
「漢隱帝」五代後漢の第二代皇帝劉承祐(九三一年~九五一年)の諡号。九四八年三月十四即位(十七歳)したが、当該ウィキによれば、政権内部に『権力抗争があり、内紛がおさまらなかった。この混乱に』乗じて、『相次いで叛乱』が起き、『加えて』、『蝗害や水害が深刻な後漢は大いに乱れたとされる』とあって、九五〇年に抑郭威が『兵を起こして南下』、その兵乱の『中で殺害された。享年』僅か二十一で、『これにより』、『後漢は事実上滅亡した』とある。この瓦石の怪異も、或いは、そうした凶兆ででもあったものか。
「司天」天文官。
『「古今著聞集」變化第二十七に、八條殿御所え、……』国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文学大系』第十巻(大正一五(一九二六)年国民図書刊)所収のもの(正字正仮名)で、以下に電子化する。二箇所は孰れも巻十七「變化(へんげ)」の条であるが、別々で、前者はここ、後者はここである。標題は、所持する『新潮古典集成』版のそれを参考に置いて便宜を図った。前話は新潮版では「六〇二」、後者は「六〇八」の仮番号が附されてある。読み易さを考え、一部に読点・記号を入れ、改行・段落を形成した。注は新潮版頭注を一部で参考にした。
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庄田賴度、八條殿の變化を捕縛する事
後鳥羽院の御時、八條殿に女院(によゐん)わたらせ給ける頃、かの御所(ごしよ)に化物(ばけもの)あるよし聞えければ、院の御所より、庄田若狹前司賴度(しやうだわかさのぜんじよりのり)が、いまだ六位なりけるを、召して、
「くだんの化物、見顯(あら)はしてまゐれ。」
と、仰せられて、彼の御所へ參らせられにけり。
頼度、卽ち、八條殿に參りて、寢殿(しんでん)のきつね戶に入てまちけり。[やぶちゃん注:屋根の破風(はふ)の下に換気のために取り付けられた格子戸のこと。その内側の固定板の上に潜んだのである。]
六箇夜まで、待ちたりけれども、あへて、あやしきこと、なし。[やぶちゃん注:「六箇夜」「むつかよ」と読むか。六日間、夜警を続けたことを意味する。]
御所樣に(ごしよさま)も、そのほどは、させる事、なかりけり。
七日にあたる夜、待ちかねて、少し、まどろみたりけるに、かはらけのわれをもて、頼度がうへに、
「ばらばら」
と、なげかけける。
この時、居なほりて、
『物は、ありけり。』[やぶちゃん注:『物の怪が、出たな!』。]
と思ひて、待ち居たるに、又、さきの如く、
「ばらばら」
と、まきかけけり。
されど、目にみゆる物は、なし。
しばしばかりありて、頼度が上を、黑き物の、へらさきやうなるが、走りこえけるを、下より、
「むず」
と、取り留めてけり。[やぶちゃん注:「へらさき」底本頭注には、『箆鷺であらう。觜の箆に似た鷺』とある。しかし、新潮版は、本文を『つくさき』として、ヘラサギ説を退け、『「つく」は恐らくは「木菟(みみずく)」。「木菟」には「さけ」の異称もあり、「つくさき」は「つく・さけ」の転訛か。ともあれ、「つく」が「木菟」ならば、全体が黒褐色で頭』・『目は猫に似ていることや、夜には人家に飛び行き』、『鼠を捕えるという夜行性の行動ぶりなどから、この場面での、頼度の連想を無理なく裏付けることができる』とあった。同書の頭注の主担当は西尾光一氏であるが、私はこの注に目が覚める思いがした。私は文学研究者は同時に博物学者でなくては、正しい注は打てないと考えている人間である。この注は、驚異的に素晴らしい!]
見れば、古狸の、毛もなきにてぞ、侍りける。
やがて、おしふせて、指貫(さしぬき)のくゝりを、ぬきて、しばりて、生きながら、院の御所へ率(ゐ)て參りたりければ、御感(ぎよかん)のあまりに、御太刀(おんたち一腰(こし)・宿衣(とのゐぎぬ)一領(りやう)をたまはせけり。[やぶちゃん注:「指貫(さしぬき)のくゝり」指貫袴(さしぬきばかま)の下の端を踝(くるぶし)の附近で括り絞って止めるためにあった裾周りにつけられてある紐のこと。「宿衣」「上宿衣」の略。宮中などの夜間警護のためにする「宿直(とのゐ)」の際に着用する制服で、略式衣冠或いは直衣(のうし)を指す。]
その後は、かの御所に、化物(ばけもの)、なかりけり。
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三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事
三條前右大臣(さんでうのさきのうだいじん)の白河(しらかは)の亭(てい)に、いづこよりともなくて、つぶてを、うちけること、雨の如し。
人々、あやしみ、おどろけども、何のしはざといふことを、知らず。
次第に、打ちはやりて、一日一夜に二盥(ふたたらひ)ばかりなど、うちけり。
蔀(しとみ)・遣戶(やりど)を、打ちとほせども、その跡、なし。[やぶちゃん注:ここが怪異の肝部分である。明らかにそれらを打ち破った音がし、室内に石・礫があるのだが、蔀や遣戸には、貫通した後がないのである。]
さりけれども、人にあたること、なかりけり。
「この事、いかにして留むべき。」
と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、ある田舍侍の申しけるは、
「此事、留めん、いと、やすきことなり。殿原(とのばら)、面々(めんめん)に、狸をあつめ給へ。又、酒を用意せよ。」
と、いひければ、
『このぬしは、田舍だちのものなれば、定めて、やうありてこそ、いふらめ。』[やぶちゃん注:後部は『きっと、何か、経験上から確かな手段が浮かんだによって、かく言ったに違いない。』の意。]
と思ひて、おのおの、いふが如くにまうけてけり。
そのとき、この男、「さぶらひ」[やぶちゃん注:「侍所」家屋等の警護の者の控え場所。詰め所。]のたゝみを、「北の對」[やぶちゃん注:「きたのたい」。寝殿造の北方にあり夫人の居所とされる家屋。]の東庭にしきて、火を、夥(おびたゞ)しく起して、そこにて、この狸を、さまざま、調(てう)じて[やぶちゃん注:調理して。]、各々(おのおの)、能(よ)く能く食(く)らひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、
「いかでか、おのれ程の奴(やつ)めは、大臣家をば、かたじけなく、うちまいらせけるぞ。かかるしれごとするものども、かやうに、ためすぞ。」
と、よくよく、ねぎかけて[やぶちゃん注:本来は「祈禱・祈誓する」「呪文を唱える」の意だが、ここは、言上げして威嚇・呪詛したのである。]、その北は、勝菩提院(しようぼだいゐん)なれば、その、ふるついぢの上へ、骨(ほね)、投(な)げあげなどして、よく飮み、食(く)ひてけり。
「今は。よも、別のこと、さふらはじ。」
と、いひけるに、合はせて、その後、長く、つぶて、打つ事、なかりけり。
これ、更にうける事にあらず[やぶちゃん注:根も葉もない作り事ではなく。]、近き不思議なり。うたがひなき、狸のしわざなりけり。
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「鉛山(かなやま)」旧村名。現在の白浜温泉の前身であった村。ここの「白良浜」のある湾を鉛山湾(かなやまわん)とある(グーグル・マップ・データ)。先の「野生食用果實」の私の「紀州鉛山温泉」への注を見られたい。詳しく注してある。]
(增)(大正十五年九月記) 亞細亞の極東北の地にすむ馴鹿《となかい》、チュクチ人のテント内の物が、誰がするともなく、顚倒《てんたう》し、又、雪や氷片を抛入《なげいる》る事あり(一九一四年板、チャプリカ「シベリア原住民」、二三二頁)。埃及《エジプト》では、カイロ等の、人家の屋上や、窻間《まどのあひだ》に、屢《しなし》ばジン(迷鬼)住んで、街や庭え、石瓦を抛《はう》れど、人を殺傷せずと、いふ(レーンの「近世埃及人作法風俗誌」、十章)。これは池袋の石打よりは、「嬉遊笑覽」に出た播磨のオサカベ狐の惡戲《いたづら》に似ておる、家内の怪でなくて、家外の怪だから。狐が石や瓦を飛《とば》して、窻を破り、家内の人を傷つける話は、支那にも「夜譚漫錄」上、嵩桬篙《すうさこう》の條抔に見ゆ。
[やぶちゃん注:「馴鹿」哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus 。和名トナカイはアイヌ語での同種への呼称である「トゥナカイ」又は「トゥナッカイ」に由来する。トナカイは樺太の北部域に棲息(現在)しているものの、アイヌの民が本種を見知ることは少なかったかと思われ、このアイヌ語も、より北方の極東民族の言語からの外来語と考えられてはいる。
「チュクチ人」主にロシアのシベリア北東端のチュクチ半島(チュコト半島)(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に住んでいる民族。その居住域は、ほぼツンドラ気候に属する。嘗つてオホーツク海沿岸に住んでいた人々が起源と考えられている。現在の総人口は凡そ一万六千人(当該ウィキに拠った)。
『一九一四年板、チャプリカ「シベリア原住民」、二三二頁』ポーランドの文化人類学者でシベリアのシャーマニズムの民族誌学で最もよく知られているマリア・アントニーナ・チャプリッカ(Maria Antonina Czaplicka 一八八四年~一九二一年:彼女は希望していた大学の特別研究員になれず、自殺している。三十六の若さだった)の‘Aboriginal Siberia: A Study in Social Anthropology’ (「シベリア先住民族:その社会人類学的研究」。オックスフォード・一九一四年刊)。以上は彼女の英文ウィキに拠った。「Internet archive」で原本の当該部がこちらで視認出来る。
『レーンの「近世埃及人作法風俗誌」、十章』イギリスの東洋学者・翻訳者・辞書編集者のエドワード・ウィリアム・レーン(Edward William Lane 一八〇一 年~一八七六 年:現代エジプト人のマナーと習慣や、アラビア語と英語の語彙集、及び、「千夜一夜物語」とイスラム教の聖典「クルーアン」の翻訳で知られる)の‘An Account Of The Manners And Customs Of The Modern Egyptians’。「Internet archive」の一八六〇年版の「十章」(“UPERSTITIONS”。「迷信」)は、ここから視認出来る。
『「嬉遊笑覽」に出た播磨のオサカベ狐の惡戲』「おさかべ狐」とあるが、これは、姫路城を棲み家とする強力な女怪「おさかべ姫」(後世、天守閣に住む狐の妖怪とする伝承も生まれた)のことで、彼女については、「老媼茶話巻之三 猪苗代の城化物」の私の「姫路のおさかべ姫」を注を見られたいが、「嬉遊笑覽」のそれは、所持する岩波文庫版の第四巻所収の巻之八の「方術」の中の「飯綱(いづな)」の中の「髪きり」の中に諺として『姫路におさかべ赤手拭』とはあるものの、「石打」の悪戯との連関性を見出せない。但し、試しに、岩波文庫とは明らかに底本が異なる国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見たところ(長い南方熊楠への注の経験から、南方熊楠の所持していたのは、こちらのものと同じ原本である可能性が非常に高いからである)、ふと、前の条「狐使ひ」或いは「五通」(本来は、仏教用語で禅定体験などによって得られる超自然的な「五神通(ごじんづう)」の力を指す。思い通りの場所に瞬時に行ったり、心のままに境界を変えたりすることの出来る「神足通」(「神境通」とも)、遠近粗細の境が見分けられる「天眼通」、三界の声を漏れなく聴き取る「天耳通」、他人の心を知ることが出来る「他心通」、過去の一切が認識出来る「宿命通」の五つだが、ここは強力な妖怪の持つ能力としてそれを転用している)の、ある部分が目についた。その二七二ページの後ろから七行目に、漢籍の「江南木客集」(この題名にある木客(もっかく)は、中国で古来より魑魅の一種とされ、妖鳥的変化で、人型にも描かれ、普通、人が登れないような断崖絶壁に住むとする。詳しくは私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(サイト版。図有り)の「木客」の項の私の注を読まれたいが、私は、この「木客」なる「木石の怪」「妖怪」「怪人」が、想像の産物ではなく、一種の少数民族、若しくは、特殊な風俗を有する人々の誤認ではないかという確信に近いものを持っている)の人型の妖怪の一節を引用した後に(太字下線は私が附した)、
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多くは美男子となりて婦人に通ずるよしを記せり。又其内に少拂之即擲沙礫[やぶちゃん注:「少しく之れを拂(はらひのけ)れば、即ち、沙礫(されき)を擲(なげう)つ。」。]などいへるは江戶近きゐなか池袋村の狐怪に似たり。[やぶちゃん注:以下略。]
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とあったのだ! 失礼乍ら、南方先生はこれを見つけたものの、ちゃんと読まずに、後の方をざっと見て、左ページ後ろから四行目の先に示した諺を見、これを「おさかべ姬」の悪戯と勘違いしたのではあるまいか? 大方の御叱正を乞うものではある。
『「夜譚漫錄」上、嵩桬篙の條』清代の霽園主人(閑齋氏)なる人物が書いた志怪小説衆らしい(中文サイトの幾つかの話を機械翻訳した印象から)。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで巻二にあるこれがその話である。狐に憑かれている者の家に、石が、突然、飛んできて窓が壊されており、後の方でも、中国式の煉瓦である「磚」(せん)が飛んできて、門・窓・器物が破壊されている。]