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2023/04/16

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鴻の巢

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。今回は、ここから

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では標題次行の丸括弧附記(そちらではずっと下方)の右手に『川村杳樹「鴻の巣」参照』と添えてある。この川村杳樹は柳田國男のペン・ネームの一つ。則ち、これはその柳田の論考に対する熊楠の応答論考である。先だって、柳田國男の方の、その先行論考「鴻の巢」を電子注しておいたので、まずは、そちらを読またい。特に以下で熊楠で挙げる鳥類の種については、そちらの私の注で挙げてあり、リンク先でも私が詳細に検討し、種同定をしているので、その過程は繰り返すつもりはないからである。なお、これは柳田の確信犯の仕儀で、そちらの記載の中で、『自分は兼兼これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た』と、名指しで、やらんでいい挑発を柳田はヤラかしてしもうているからである。なお、最初に言っておくが、「鸛」の「こうのとり」の正しい歴史的仮名遣としては「こふのとり」である。表記上、怪しい読みがあるのは、みな、ママであるので注意されたい。

 

      鴻  の  巢 (大正三年十一月『鄕土硏究』二卷九號)

           (『鄕土硏究』第一卷第十號五九七頁)

 

 「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし、「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ。何れも、水を游ぐ者で、蛇と仇《かたき》を爲すを聞かぬ。本話言ふ所は、鴻や鵠でなく、鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)の事だ。「和名抄」にオホトリと訓じてある。和泉の大鳥神社、又、大鳥と云ふ苗字などに緣ある鳥らしい。この鳥、鳴かず、嘴《くちばし》を敲いて聲を出す。其聲に擬して「コウ」と呼んだか、又はどちらも水鳥故、鴻鵠《こうこく》の音を取つて「鸛」を「コウ」と呼ぶに至つたものか(「南留別志《なるべし》」に、『「鸛」を「コウ」とは「鴻」を誤れるなるべし。』)。兎に角、「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて、その「トウ」は「コウ」らしいから、鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ。(後日、訂正す。「トウ」は「トキ」、乃《すなは》ち、「日本紀」の「桃花鳥《たうくわてう》」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり。兼良《かねら》公の「尺素往來《せきそわうらい》」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば、足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる。)

[やぶちゃん注:『「本草啓蒙」に、鴻(こう)は鵠《こく》と同物で、ハクチョウの事とし』国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)のここで、『鵠 ハクテウ クヾヒ古書』立項して、以下に『一名』として諸漢籍から別名を引く中の二番目に、『鴻【急就篇註】』とある。「急就篇註」は、前漢末の元帝(在位:紀元前四八年~紀元前三三年)の宦官であった史游の作と伝えられる漢字学習書が「急就篇」で、これは、その後代(宋代か)の註。ここで言っている「ハクテウ」を安易には、現在の狭義の、

カモ科ハクチョウ属Cygnus或いは同属オオハクチョウ Cygnus Cygnus

に同定は出来ないものの、まあ、とんでもなく外れた見解でもあるまい。少なくとも、熊楠はそのつもりで言っているはずだ。

『「和漢三才圖會」には、鴻は雁の大なるもの、ヒシクイ、と言ふ』私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」の本文と私の考証注を必ず見られたいが、そこで考証した結論として、私は、最終的にそこに記された種を一種と認めず、

カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ(菱喰) Anser fabalis serrirostris 

及び

同属オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii

と、ヒシクイ類ではない別種の

マガン属サカツラガン(酒面雁)Anser cygnoides

を同定(候補)としている。

「蛇と仇を爲すを聞かぬ」柳田の論考の応じて、蛇を退治するシチュエーションに習性が合わないから除外したもの。

「鸛(こう)(英語でストーク、佛語でシゴニユ)」「鸛」の「音は「くわん(かん)」。英語は“stork” (ストゥク:この単語は米俗語で「~を妊娠させる」という動詞になっているのが面白い!)、フランス語は“cigogne”(シゴーニュ)。これは、江戸後期の「重訂本草綱目啓蒙」でも先の国立国会図書館デジタルコレクションの「鴻」よりも少し前のここに「鸛 コウ コウノトリ」として立項しており、以下、本邦の地方名と所載書名の混淆で、『コノトリ【秋田】 シリグロ【詩經名物辨解】 ヘラハズシ【筑後久留米】 クヾヒ【大和本草】 コウヅル』ある。これらの名と以下の本文を見ても、これは、

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

を指しているとは思われる。而して、江戸中期の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」でもやはり同種コウノトリを指している。柳田論文でも注で述べたが、これに違和感を持つ読者は恐らく有意にいるだろう。何故と言えば、殆んどの今の日本人は野生のコウノトリなんぞ、見たことも聴いたこともないからである。それだけ、現在では本邦では個体群分布が消滅してしまったからである。当該ウィキを見られたいが。近代以前はコウノトリは本邦に、かなり、いたのである。なお、そちらによれば、コウノトリはかなり荒っぽい性質のようで、『同種間で激しく争うこともあり、中華人民共和国での報告例』(二羽で争い、一羽が頭部を嘴で突かれて死亡したケース)『や、日本では』二〇〇二『年に兵庫県豊岡市に飛来して』二〇〇七『年に死亡するまで留まっていた野生オス(通称ハチゴロウ)の死因として、検死から』、『病気や重金属・汚染物質などが死因ではないこと』、二〇〇六年から翌『年に』、『主に野生オスが再導入オスを攻撃した目撃例が計』三十六『回あること、最後の争いの目撃例で』は『再導入オスが野生オスを撃退したところが目撃されたことから、再導入されたオスとの縄張り争いによる死亡が示唆されている』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。嘴を叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、威嚇、求愛、挨拶、満足、なわばり宣言等の意味がある』とあり、食性は『魚類、カエル類、ヘビ類、鳥類の卵や雛、齧歯類、昆虫などを食べる』。『水生動物は浅瀬で、ヘビ・鳥類の卵や雛・ネズミや昆虫などは乾燥した草地で捕食する』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』とあって、かなり強力な肉食性が認められ、蛇退治する神使の鳥としては、相応しい。以上にある通りで、熊楠も本種は鳴かないと言ってしまおっており、ネットでも平然とコウノトリは鳴かず、代わりにクラッタリングでさまざまな意味を持った音を出す、と、まことしやかに書いているのは、正しくない。正確には幼鳥の時は鳴けるが、ある一定段階まで成長すると鳴けなくなり、クラッタリングを代用するようになるのである。「兵庫県立コウノトリの郷公園」公式サイト内の『No.4「コウノトリのコミュニケーション方法 ~クラッタリングと鳴き声~」』の動画を、是非、視聴されたい。

「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。

『「古今著聞集」に、「トウ」を射た話があつて』これは、「卷第九 弓箭」の中にある、巻内通し番号で「第十三」、岩波「日本古典文学大系」本の通し番号で「三四九」の、所持する「新潮日本古典集成」版で「上六大夫、たうの鳥の羽を損ぜぬやう遠矢にて射落とす事」とする一話である。最初に言っておくと、この熊楠の指した「トウ」は、丸括弧内で熊楠自身が訂正している通り、

「トウ」≠「コウ」「鸛」

で、

「トウ」は我々が絶滅させてしまった「トキ」=朱鷺・鵇・ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon

(この学名はなんと美しいことか!)である。参看したあらゆる同書の注で「トキ」としている。以下、国立国会図書館デジタルコレクションの国民図書版『日本文學大系 校註』の 第十巻(大正一五(一九二六)年刊)を視認して示す。読み易さを考えて、段落を成形し、記号も追加した。なお、「新潮日本古典集成」版(昭和五八(一九八三)年刊・広島大学附属図書館蔵の九条本底本)では「とう」は総て「たう」となっている。

   *

 この昵(むつる)の兵衞尉(ひやうゑのじよう)、

「懸矢(かけや)を、はがす。」[やぶちゃん注:底本頭注に、『遠距離に放つ矢に羽をつけさせる』とある。新潮版では、『射捨て征矢(そや)をいう。羽のいたむのを避けるために、十筋、十五筋とたばねて壁などに懸けおくことからの呼称、また空を翔ける鳥を射るのに用いる矢だからともいう』。「はく」は「矧ぐ」で、『竹に矢尻(やじり)や羽などをつけて矢を作ること』を言うとある。]

とて、「とう」の羽を求めけるが、足らざりければ、郞等どもに、

「もしや、持ちたる。」

と尋ねければ、上六大夫(じやうろくたいふ)といふ、弓の上手(じやうず)、聞きて、

「この邊に『たう』やは、見候ふ。見よ。」[やぶちゃん注:「この辺りでトキを見かけた者はおらぬか? ちょっと見て来い。」。]

といひければ、下人、立ち出でて見て、

「たゞ今、河より、北の田には、見候ふ。」

といふを聞きて、卽ち、弓矢を取りて出でたるに、「とう」、立ちて、南へとびけるを、上六、矢をはげて、左右(さう)なくも射ず、[やぶちゃん注:直ぐには射放たずに。]

「いづれかは、こがれたる。」[やぶちゃん注:「今、飛んで御座る「とう」のうち、孰れの「とう」の羽根が御所望か?」。]

といひければ、

「最後(しり)に飛ぶを、こがれたる。」

といふを聞きて、なほもいそがず、遙かに遠くなりて、川の南の岸の上飛ぶほどになりにける時、能く引きて放ちたるに、あやまたず射おとしてけり。

 むつる、感興のあまり、不審(ふしん)をいだして、問ひけるは、

「など、近かりつるをば、射ざりつるぞ。遙かには遠くなしては射るぞ。心得ず。」

と尋ねければ、

「そのこと候。近かりつるを射落したらば、川に落ちて、その羽、濡れ侍りなん。むかひの地につきて、射落したればこそ、かく、羽は損ぜぬ。」

とぞいひける。

 心にまかせたるほど、誠にゆゝしかりける上手なり。

   *

トキについては、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」を参照されたい。

『鎌倉時代、既に、「鸛」を「コウ」と通稱したと見ゆ』以下の訂正で、これも無効となったので、熊楠は、改めて、『足利氏の世には、「鸛」を「コウ」と呼び、「鵠」の字を用いた事と知れる』としたのである。

『「日本紀」の「桃花鳥」の古名の由、「本草啓蒙」に見ゆれば、「コウ」と別なり』前掲の国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の版本(弘化四(一八四七)年)では、見出し立項になっていないので、探し難い。蘭山は「鷺」の項に一種として入れ込んしまっているからである。当該部はここの右最終行から次ページにかけてで、『一種ツキ古名ハ一名トウ同上トウノトリ トキ 桃花鳥【日本紀】ハナクタ【江州】ダヲ【奥州】』として、以下に解説が続く。

『兼良公の「尺素往來」に「鵠の霜降り」・「トウの焦《こが》れ羽」と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば』室町後期に公卿で古典学者でもあった一条兼良によって編纂されたとされる往来物(学習書)。当該ウィキによれば、『全文が』一『通の書簡となっており、その中に年始の儀礼から日常生活までの』六十八『条目における単語の解説・用例が織り込まれている。当時の支配層である公家や武家の文化・生活・教育の水準を知る上での貴重な資料』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションの「羣書類從」第九輯 訂正版(一九六〇年刊)のこちらの右ページ上段の四~五行目に出現する。「トウ」の部分は「鴾」とあっているが、これもトキを指す漢字であるから問題ない。]

 「本草綱目」に、藏器曰、人探ㇾ巢取鸛子、六十里旱、能群飛、激散ㇾ雨也、其巢中以ㇾ泥爲ㇾ池、含ㇾ水滿ㇾ中、養魚蛇以哺ㇾ子。〔陳藏器曰はく、「人、巢を探つて鸛(くわん)の子を取れば、六十里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートル。約三十三・六キロ弱。]、旱(ひでり)す。能く群れ飛びて、激(げき)して雨を散らすなり。其の巢の中(うち)、泥を以つて池と爲し、水を含みて中(なか)に滿たし、魚・蛇を養ひて、以つて子に哺(はぐく)む。」と。〕「三才圖會」に、鸛每遇巨石、知其下有一ㇾ蛇、卽於石前術士禹步、其石防然而轉、禽經云、鸛俯鳴則陰、仰嗚則晴、善群飛薄ㇾ霄。〔鸛(くわん)、每(つね)に巨(おほ)きなる石に遇へば、其の下に、蛇、有るを知る。卽ち、石の前に於いて、術士のごとく禹步(うほ)をなせば、其の石、泐然(ろくぜん)として[やぶちゃん注:石が裂けるさま。]轉ず。「禽經」に云はく、『鸛、俯(ううむ)きて鳴けば、則ち、陰(かげ)り、仰ぎて鳴けば、則ち、晴る。善(よ)く群れ飛んで霄(そら)に薄(せま)るれり。』と。〕

[やぶちゃん注:「本草綱目」の当該部は「漢籍リポジトリ」のこちら[110-2b]の影印本画像で校合したが、熊楠の表記で問題ない。巻四十七「禽之一」の「鸛」の項の「正誤」の冒頭部である。

「三才圖會」は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の当該部と校合した。一部を補填した一方、熊楠の表記を採った箇所もある。但し、「泐然」の「泐」の字は影印原本も熊楠のも意味としても字義としても納得出来なかったことから、「選集」の表字を採用した。

「禹步」道教に於ける呪法を行う際の独特のがら千鳥足のようなに歩行呪法を指す。基本的には北斗七星の柄杓方を象(かたど)ってジグザグに歩くものであるが、他にも多様な形式・様態がある。]

 「埤雅《ひが》」には、鸛能解ㇾ縛、南方里人學其法者、伺其養一ㇾ雛、緣ㇾ木以篾絙、縛其巢、鸛必作ㇾ法解ㇾ之、乃於木下鋪ㇾ沙、印其足迹而倣學ㇾ之。〔鸛は、能(よ)く縛(いましめ)を解く。南方の里人、其の法を學ぶ者は、其の雛を養ふを伺ひて、木に緣(よ)りて、篾(べつ)[やぶちゃん注:竹・葭・高粱(コウリャン)殻などの植物の表皮を細く割り裂いたもの。]の絙(つな)を以つて其の巢を縛るに、必ず、法を作(な)して、之れを解く。乃(すなは)ち、木の下に沙を鋪(し)き、その足迹(あしあと)を印(する)して倣(なら)ひて之れに學ぶ。〕又、此鳥、礜石(よせき)を取つて卵を暖むる由を載す。

[やぶちゃん注:「埤雅」は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。これも「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本と校合したが、頭の部分が、版本が異なるのか、違う。但し、熊楠の置いたそれがないと、意味が通じないので、そちらを採った。

「又、此鳥、礜石(よせき)を取つて卵を暖むる由を載す」「礜石」は砒素を含む鉱物の一つで、猛毒で殺鼠剤に使われた。以上のリンク先の少し後から次の丁にかけて以下のようにある。一部は正字化した。異体字は表記可能なものに代えてある。礜石の部分を太字とした。事実ではなく、道教の蠱毒の蠱術的なニュアンスによる呪的解説のような感じを強く感じる。

   *

作窠大如車輪卵如三升杯擇礜石以嫗卵鸛水鳥也伏卵時數入水卵則不毈取礜石周圍繞卵以助煖氣故方術家以鸛煖巢中礜石爲眞物也又泥其巢一傍爲池以石宿水今人謂之鸛石飛則將之取魚置池中稍稍以飼其雛俗說鵲梁蔽形鸛石歸酒又曰礜石溫鸛石涼故能使卵不毈水不臭腐也

   *]

 古希臘人は鸛親子の愛渥《あつ》きを頌《しよう》し、獨逸人は人間の子は鸛が泉水より齎《もたら》して母の前に落すと直とに產《うま》ると信じ、又、鸛が人の上を飛び廻れば、其人、必ず死す、と信ず(グベルナチス「動物譚原(ゾーロジカル・ミソロジー)」二六一―二頁)。又、此鳥、決して種蒔きに害を成さず、と唄《うと》うた(グリンム「獨逸神異誌(ドイツエ・ミトロギエ)」二板、六三八頁)。マセドニアの基督敎徒、囘敎徒、俱に、鸛を吉鳥とし、其渡來を平和の徵《しるし》とし、土耳其《トルコ》人は、其每年、南に飛去るをメツカへ巡禮すると心得、鸛が巢くひ子生む家は黑死疫と火災を免かる、と信ず(アボット「マセドニアン・フークロール」一九〇三年板、一〇九頁)。「大英類典」十一板卷二十五に、丁抹《デンマーク》・獨逸・和蘭《オランダ》等では、鸛、夏日、南方より來り、樹に棲むこと罕《まれ》にて、專ら、家の上に巢くひ、其家、之を吉兆とす、と載す。

[やぶちゃん注:以上で語られる「鸛」は、本邦の前掲種コウノトリではなく、

コウノトリ属シュバシコウ(朱嘴鸛)亜種 Ciconia ciconia ciconia  

である。当該ウィキによれば、『高い塔や屋根に営巣し雌雄で抱卵、子育てをする習性からヨーロッパでは赤ん坊や幸福を運ぶ鳥として親しまれている。このことから』、『欧米には「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」または「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えが広く伝えられている。日本でも』、『この』伝承から、『「コウノトリが赤ん坊をもたらす」と言われることがある』。『日本聖書協会ホームページ』『によれば、「こうのとり」は旧約聖書にのみ現れ、その数は』六『件で』、「レビ記」(第十一章第十九節)、「申命記」(第十四章第十八節)では、イスラエルの人々が食べてはならない鳥の一つとして挙げられて』おり、「ヨブ記」(第三十九章第十三節)では、『「威勢よく翼を羽ばたかせる」駝鳥が「こうのとりの羽と羽毛を」持っていない、と言われている』。「エレミヤ書」 (第八章第七節)では、『「空のこうのとりも自分の季節を知っていると」と』あり、「ゼカリヤ書」(第五章第九節)には、『「こうのとりのような翼を」持つ女という箇所がある』。「詩篇」の第百四章第十七節の『該当箇所については』、三『つの訳を記すと、聖書協会』一九七四『年訳では、「こうのとりはもみの木をそのすまいとする」、聖書協会共同訳では、「こうのとりは糸杉を住みかとする」、新共同訳では、「こうのとりの住みかは糸杉の梢」と微妙な違いがある』。古代ギリシャの「自然認識者」の意である書「フィシオログス」では、『コウノトリをキリストの象徴として、また』、『その行動を人間のなすべき態度の模範と捉え』、『次のように語っている』。――『コウノトリはからだの真ん中より上は白、下は暗い色であり、キリストも同じく万人の神として上であるものの時もあれば、一人の人間として下であるものの時もあった。「天のものをなおざりにせず、地のものを見ごろしにしなかった」』……『コウノトリは雄と雌が同時に出かけることがない。雄が餌を探す間、雌は雛の世話をする。それを交代して巣を空けることがない。人は朝も夜も欠かさず祈りを行い、悪魔に負けてはならない』……『コウノトリが雛を育て上げて皆が跳べるようになり、時が来ると』、『一斉に飛び立ち』、『移動する。時が来ると』、『元の地に戻り』、『巣作りをし、雛を育てる。イエスキリストが昇天し、時至って再来し、「倒れたものを起こされる」のと同じだ』とある。『古代ギリシア・ローマ以降』、『西欧においてコウノトリは』「敬愛」或いは「貞節」の『象徴として取り上げられた。前者については、アリストテレスが、「コウノトリのひなは長じて親鳥を養い返すということは、この鳥について広く知られた話である」と記しているという』(カラスの伝承上の「反哺」である)。『中世盛期、英独仏伊の皇帝・王侯に仕えたティルベリのゲルウァシウス』(一一五二年頃~一二二〇年以後)『が神聖ローマ皇帝 オットー』Ⅳ『世に献呈した奇譚集』「皇帝の閑暇」(Gervasii Tilberiensis : Otia Imperialia ad Ottonem IV Imperatorem ; 一二〇九年~一二一四年執筆)の第九十七章には、『「コウノトリの巣に入れられた烏の卵」について語られて』おり、『種の雛が孵ると』、『コウノトリたちは嘴を打ち合わせて烏を告発し、母子鳥ともども』、『カラスを高い塔の上から突き落とす。このように話した語り手は、コウノトリの行状を人倫のあるべき姿と捉え、「貞操を守るべき」「近親相姦を罰すべき」「姦通を罰すべき」という教訓を引き出している』とある。ドイツでは、『コウノトリ』(ドイツ語“Storch”。音写「シュトールヒ」)は、「春、『アフリカを出発してドイツに渡り、夏の末に戻ってゆく」』、「『ドイツ』『にいる間は、人間の住宅の屋根や、教会の塔に棲みついている」。「ドイツ人たちの眼前では、鳥の姿で現われるが、秋になると帰ってゆく」。彼らの遠い本拠地では、人間の姿に戻るとする俗信があったが、この俗信はすでに』一二一四『年の文書(Gervasius von Tibury)に見られる。「人間に幸運をもたらし、稲妻や火事から、人間を庇護してくれるという信仰は、比較的新しく一般に拡がったもので』あ『る、といわれている」。コウノトリに弟・妹を連れてきて、と頼む童謡がある』。フランス出身のドイツの詩人で植物学者であった『アーデルベルト・フォン・シャミッソー』(Adelbert von Chamisso,/フランス名:ルイ・シャルル・アデライド・ド・シャミッソー・ド・ボンクール:Louis Charles Adélaïde de Chamisso de Boncourt 一七八一年~一八三八年:現在ではドイツ語で文学作品を残したロマン派文学者として著名で、後期ロマン派でリベラルな傾向を代表する文学者として活躍した)『の記述にあるように、コウノトリは飲み水の湧き出る井戸、泉、あるいは池から赤子を連れてくると信じられていた』。『ドイツ南西部シュヴァルツヴァルトのキンツィヒタール(Kinzigtal)地方では』、二月二十二日の『聖ペテロの日を「こうのとりの日」と』呼んで、『次のような行事を行っている。「こうのとりの仮面を」被るか、或いは『山高帽の左右に』、『こうのとりの雌雄をつけ、背中に大きなパンの塊りを二つ背負った「こうのとり小父さん」が村を訪れる」。村では子供たちが「(害虫よ、)出てゆけ』……『と歌いながら』、『小父さんを家々に案内し、小父さんは害虫などを寄せ付けぬ追い出しの唱え詞をいって、家々を祝福する。そして子供たちにはパンやお菓子を与えるという』。『ドイツ中世の最大の叙事詩人にしてミンネゼンガー』(「ミンネザング」(Minnesang:十二世紀から十四世紀にかけてドイツ語圏に於いて隆盛を極めた抒情詩であり、詩人は作曲もし、伴奏付きで自ら歌った。主題は主として恋愛である)を作ったり、歌った人の意)『たるヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ』(Wolfram von Eschenbach 一一六〇年/一一八〇年頃~一二二〇年頃又はそれ以降)『の歌には、自身をコウノトリと比べる滑稽な表現が見られる。「こうのとりは畑の種を食い荒らさぬという。

』/『私も同じ、婦人方に粒ほどの損害も与えませぬ」』とあり、これは、『コウノトリは、蛙、蛇、トカゲなどの小動物しか食べないので畑に害を及ぼすことがないという常識が背景にあるからである』。『同じヴォルルラムの十字軍文学の傑作』「ヴィレハルム」(Wertheim:三百七十五詩節)『では、主人公の軍と戦う異教徒軍の石弓隊の描写において、彼らは「いっせいに数多くのまっすぐな矢をつがえ、矢尻までいっぱいに引き絞って射た。すると弦は巣の中のこうのとりの鳴き声のような音を立てた」と語られている』。『わが国でも一昔前まではよく読まれてい』『た』ドイツの小説家で「シュヴァーベン(Schwaben)派」の代表的文筆家の一人であった『ヴィルヘルム・ハウフ』(Wilhelm Hauff 一八〇二年~一八二七年)『の著名なメルヘン集』「隊商」(Die Karawane)中の一つ「こうのとりのカリフの物語」(Die Geschichte von Kalif Storch)は、バグダッドのカリフ、ハシッド(Kalif Chasid)とその大ワジール、マンソール(Großwesir Mansor)がコウノトリに変身する愉快な話である』などとある。

『グベルナチス「動物譚原(ゾーロジカル・ミソロジー)」二六一―二頁)』イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この‘Zoological Mythology,’ (「動物に関する神話学」・一八七二年刊)は「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、ここからが当該部

『グリンム「獨逸神異誌(ドイツエ・ミトロギエ)」』かのグリム兄弟の‘Deutsche Sagen’か。一八一六 年から一八一八 年の間に二部構成で出版されたもの。

「マセドニア」東ヨーロッパのバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域であるマケドニアのこと。

『アボット「マセドニアン・フークロール」一九〇三年板、一〇九頁)』イギリスのジャーナリストで作家のジョージ・フレデリック・アボット(George Frederick Abbott 一八七四 年~一九四七年)はギリシャの歌に関する研究や、マケドニア地方の民俗資料のコレクション、ギリシャとの同盟国との関係に関する著作があり、これは同年に刊行された‘Macedonian Folk-Lore’(「マケドニアの民間伝承」)である。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「大英類典」熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のこと。]

 隨分、美麗な鳥ではあり、諸國で斯く愛重されるから見ると、本邦でも古く之を神物としたのだろ。但し、好んで蛇を食ふ故、蛇を祀る人々よりは神敵と見られたであらう。又、神と仰ぐ蛇が何の苦もなく殺さるゝを見て、忽ち、鸛を崇《あが》める事もあつたであらう。蛇と鳥類と仲の惡い例は、歐州の黑鳥(ブラツク・バード)、印度の裁縫鳥(テイロル・バード)、又、阿弗利加の書記鳥(セクレタリ・バード)は蛇退治の爲に西印度ヘ移殖し、人、其功績を讃《ほ》む。印度で龍蛇を制すとて金翅鳥王(こんじてうわう)を尊《たちと》ぶは、誰も知る通りだ。古カルデアの傳說に、シャマシユの鷲、或る蛇の子を掠《かす》め、自分の子に食はす。蛇、之をシャマシユ神に訴ふ。神、蛇に敎へて、死牛《しぎう》の腹に匿れて、鷲、來たり、腸を食はんとする處を擊たしむ。蛇、其通りするに、鷲、其謀《はかりごと》を察し、蛇は志を遂げなんだ、とある(マスペロ「開化之曉(ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーシヨン)」一八九四年板、六九八―九頁)。

[やぶちゃん注:「歐州の黑鳥(ブラツク・バード)」スズメ目ツグミ科ツグミ属クロウタドリ Turdus merula の異名。「黒歌鳥」。全長約二十五センチメートルで、大型のツグミ類で、♂は全体に黒く、嘴だけが黄色い。♀は全体に暗褐色で地味である。ヨーロッパ・アジア南部・アフリカ北部に分布し、ニュージーランドには移入されたものがいる。公園・農耕地・林に棲み、地上をピョンピョン跳ねながら、ミミズや昆虫を探して食べる。落葉を嘴で撥ね退けるながら採食するさまは、日本のアカハラやクロツグミと同様である。木の実のある時期には、樹上で、それらをとって食べることもある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。当該ウィキによれば、『日本では』、『旅鳥』又は『まれな冬鳥として、北海道から沖縄県まで記録があり、特に西表島や与那国島での記録が多い』とある(私も西表島でその姿と鳴き声を、与那国島ではその声を聴いた。とても美しい声であった)。『基亜種を含めて』十五『亜種ほどが知られている。また、白変種個体が見つかる例もある』とあり、『囀りは美声で有名。オスはライバルのオスを見つけると、キィキィキィキィーッと鳴きながら向かって飛んでいく』。『ヨーロッパでは春の訪れを感じさせる鳥で、スウェーデンでは国鳥になっている』。『英語でこの鳥のことを Blackbird と呼ぶが、米語で Blackbird といえばムクドリモドキのことになってしまうので注意』が必要である。なお、『ビートルズの楽曲「Blackbird」や、マザー・グースの』六『ペンスの唄に歌われている「blackbirds」は、この鳥のこと』とあって、『クロウタドリのオスの美しい囀り。フランス北部の都市リールで録音されたもの』を視聴出来る。

「印度の裁縫鳥(テイロル・バード)」tailorbird。スズメ目ウグイス上科セッカ科サイホウチョウ属 Orthotomus 或いはオナガサイホウチョウOrthotomus sutorius の異名。後者の当該ウィキを参照されたいが、「裁縫」のそれは、同種のように『巣は露出した空間には作らず、メスが木に付いたままの大きな葉をクモの糸で袋状に縫い合わせ』、『円錐形のゆりかごのような土台を作り』、『その中に巣を架ける』ことに由来するものであろう。

「阿弗利加の書記鳥(セクレタリ・バード)」Secretarybird。タカ目ヘビクイワシ科ヘビクイワシ属ヘビクイワシ Sagittarius serpentarius の異名。当該ウィキによれば、『主に昆虫やクモなどの節足動物、小型哺乳類を食べる』。『一方で鳥類やその卵や雛、爬虫類、両生類、甲殻類なども食べ』、『地上を徘徊して、獲物を捕らえる』。『小型の獲物は嘴で咥えるが、ヘビ類などの大型の獲物は後肢で踏みつけて殺す』。『ヘビ類は頻繁に捕食するわけではないが、コブラ類も含めて捕食することはある』。『種小名serpentariusはラテン語の「ヘビ」に由来し、本種の食性にヘビ類が含まれることに由来していると考えられている』。『英名secretary(書記)は、冠羽が羽根ペンの軸のように見えることからが由来とする説もある』とある一方で、これは『アラビア語で「狩猟する鳥」を意味する可能性がある』とも言い、『saqret-tairsaqr=狩人もしくはタカ、er-tair=飛行もしくは鳥)に由来するという説もある』とあった。

「金翅鳥王(こんじてうわう)」底本では「こんしてうわう」であるが、「選集」も採用している一般的なそれで示した。但し、「きんしてうわう」の読みもある。サンスクリット名ガルーダ(garuḍa:迦楼羅)或いはスパルナ(suparṇa:「美しい羽の鳥」の意)の漢訳語。

インドの神話に登場する鳥類の王で、龍を常食するとされる。「金翅鳥」・「妙翅鳥」と漢訳されたものと同一視されている。大乗仏教では、八部衆の一つに数えられており、密教では、梵天や大自在天の化身、或いは、文殊菩薩の垂迹ともされ、風雨を止めるための修法である迦楼羅法の本尊とされるが、単独で造像された作例は残っていない。形像は鳥頭人身で、胎蔵界曼荼羅に表わされる(以上は平凡社「世界大百科事典」を主文に用いた)。

「古カルデア」メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称。当該ウィキによれば、紀元前十世紀以降に、この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族が「カルデア人」と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前七世紀に新バビロニア王国を建国した、とある。

「シャマシユ」当該ウィキによれば、『シャマシュは、メソポタミアの太陽神』で、『シュメール語ではウトゥ』『と呼ばれる。シャマシュはアッカド語で「太陽」、ウトゥはシュメール語で「太陽」または「日」の意』である。『シュメールにおける原初の』五『都市のうち、天から与えられた』四『番目の都市シッパル、ほかラルサにおいても』、『都市神を担い、両都市に神殿「エバッバル」を持つ』。『シュメール人は太陽を白色と見ており、エバッバルは』「白く輝く神殿」の意を含んでおり、『別名「白い家」とも呼ばれていた』。『元来は女神とされていたが、アッカドのシャマシュにシュメールのウトゥが取り込まれていく信仰過程で、性別が反転し』、『男神に変化していった』。『日の出と共にマシュ山』『のそばにある東の門から現』わ『れ、全てを照らしながら』、『天空を横切り、夕方になると』、『西の門より天の奥へと帰り』、『一夜を過ごすと、翌朝』、『再び東の門から現れるという』、『その姿は肩から太陽光線を放つ、長い髭を蓄えた長い腕の男性として描かれる』とし、記者注で、『そもそも、長い髭や長い腕は、太陽円盤から放射状に伸びる太陽光線の、擬人化だと考えられる』ともあった。以下、リンク先を見られたいが、このシャマッシュ神は、『善良なる太陽神』を主体として、『正義の神』でもあり、『第二の神格』として「生者を守る神」でもあり、それは広義の(ブラッキーでない)「冥界の神」でもあり、また、「占いの神」でもあったことが説明されてある。

『マスペロ「開化之曉(ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーシヨン)」一八九四年板、六九八―九頁)』フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年:一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった。以上は彼のウィキに拠った)のThe Dawn of civilization’( 一八九四年・ロンドンで刊行)。当外原本は「Internet archive」で刊行年が異なるが(一八九七年)、内容を見るに、ここでよいようである。]

追 加 (大正四年二月『鄕土硏究』第二卷第十二號) (『鄕土硏究』第二卷五三九頁參照)[やぶちゃん注:後者は前文を指す。]

 鸛を支那や歐州諸邦で靈鳥とする例は既に擧げたが、本邦でも此鳥を大分毛色の異《かは》つた物とせるは「甲子夜話」を見て判る。乃《すなは》ち此鳥の卵を取つて煑て、又、巢へ入れ置くと、淫羊藿(いかりそう[やぶちゃん注:ママ。])もて、覆ふて、見事、其卵を孵《かへ》したこと(卷一七)、火災ある兩三日前に巢を去り、又、雛を育て了《おは》れば、父鳥、去る事(卷二三)、去る前に、父が、子に飛び樣《やう》を敎へ、又、土を以て巢を構ふるを敎ふること、雛、三羽、有れば、雌雄、二を留《とど》め、餘子を將去《つれ》ること(卷六二)、鸛の雛の餌を雀が運ぶ事(卷四九)等なり。

[やぶちゃん注:以上の「甲子夜話」の各篇は、この公開に先立ち、急遽、総て、ブログ・カテゴリ「甲子夜話」で、事前に以下のようにブログで電子化注をしておいた。

「甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」

「子夜話卷之二十三 6 寺屋に鸛巢ふ事」

「甲子夜話卷之六十二 22 羅漢寺の話【五條】」の最後

「甲子夜話卷之四十九 5 鸛雛を雀養ふ」

が、それである。読まれたい。

 「聊齋志異」十六に、天津某寺、鸛鳥巢於鴟尾。殿承塵上、藏大蛇如一ㇾ盆、每至鸛雛團翼時、輒出呑食淨盡、鸛悲鳴數日乃去、如ㇾ是三年、人料其必不復至、而次歲巢如ㇾ故、約雛長成、卽逕去、三日始還、入ㇾ巢啞啞、哺ㇾ子如ㇾ初、蛇又蜿蜒而上、甫近ㇾ巢、兩鸛驚飛鳴哀急、直上青冥、俄聞風聲蓬蓬、一瞬間天地似ㇾ晦、衆駭異共視、乃一大鳥、翼蔽天日、從ㇾ空疾下、驟如風雨、以ㇾ爪擊ㇾ蛇、蛇首立墮、連催殿角數尺許、振ㇾ翼而去、鸛從其後、若ㇾ將ㇾ送ㇾ之、巢既傾、兩雛俱墮、一生一死、僧取生者、置鐘樓上、少頃鸛返、仍就哺ㇾ之、翼成而去。〔天津の某寺、鸛の鳥の鴟尾(しび)に巢くふ。殿の承塵(てんじやう)の上に、大蛇の、盆のごときもの、藏(かく)れり。每(つね)に鸛の雛の翼を團(あつ)むる時に至れば、輙(すなは)ち、出でて、呑食して、淨-盡(つく)す。鸛、悲鳴すること、數日にして、乃(すなh)ち、去る。是(かく)のごとくして、三年、人、『其れ、必ず、復(ま)たとは至らざらん。』ことを料(おも)ふも、次の歲、巢づくること、故(むかし)のごとし。約(ほ)ぼ、雛の長成すれば、卽ち、逕(ただ)ちに去り、三日にして、始めて還る。巢に入りて、「啞啞(ああ)。」となき、子に哺(はぐく)むこと、初めのごとし。蛇、又、蜿蜒(えんえん)として上(のぼ)り、甫(はじ)めて、巢に近づく。兩(ふたつ)の鸛は、驚き、飛びて、鳴くこと、哀しく急にして、直(ただ)ちに靑冥(あをぞら)に上る。俄かに風聲の蓬々(はうはう)たるを聞き、一瞬の間(かん)に、天地、晦(よる)のごとし。衆、異(い)に駭きて共に視るに、乃(すなは)ち、一(いつ)の大鳥(おほとり)、翼もて、天日(てんじつ)を蔽ひ、空より、疾(と)く下(くだ)る。驟(には)かなること、風雨のごとく、爪を以つて、蛇を擊つ。蛇の首(かうべ)、立ちどころに墮ち、兩(あは)せて、殿(でん)の角(すみ)を摧(くだ)くこと、數尺ばかり、翼を振(ふる)ひて去るに、鸛、其の後(あと)に從ひ、之れを送り將(ゆ)かんとするがごとし。巢、既に傾き、兩(ふたつ)の雛、俱(とも)に墮ち、一つは生き、一つは死す。僧、生きたる者を取りて、鐘樓の上に置けり。少頃(しばら)くして、鸛、返り、仍(な)ほ、就いて、之れに哺む。翼、成りて、去れり。〕とある。

 大正元年の春、予の家、臺所の床下より、猫兒《ねこのこ》、二つ、出《いで》たのを、捕へ置くと、見苦しく瘦せた母猫が、宅近く、鳴き廻り、喧《やかま》しい。因《よつ》て、石を抛げて追拂《おひはら》ふに、半時斗《ばか》りして、無類に大きな牡猫、ニャ ニャ ニャ ッと短く鳴き乍ら、進み來たり、その後《うしろ》へ、件《くだん》の母猫が隨いて來た。牡猫の俠勇《けふゆう》、恰《あた》かも、「相手は何者(どいつ)ぞ。」と尋ぬるが如し。予、大いに感じて、二兒を放ち遣ると、一同、悅び、去る時も、牡猫が殿(しんがり)して退《しりぞ》いた。斯《かか》る者は、母を識つて、父を知らずだが、賴まるれば、誰の子とも知れぬ者の爲に、自分の命を賭《と》して助けに來るのも有ると見える。「志異」に、『大鳥』と、事々しく吹立《ふきた》てたるも、實は、此牡猫同前の俠勇な大鸛(おほこうのとり)が、貧弱な鸛夫婦の爲に、蛇を殺して復仇《あだうち》したので有らう。

 又、云《いは》く、濟南有營卒、見鸛鳥一ㇾ過射ㇾ之、應ㇾ弦而落、喙中銜ㇾ魚、將ㇾ哺ㇾ子也。或勸拔ㇾ矢放ㇾ之、卒不ㇾ聽、少頃帶ㇾ矢飛去、後往來郭間、兩年餘貫ㇾ矢如ㇾ故、一日卒坐轅門下、鸛過ㇾ矢墜ㇾ地、卒拾視曰、此矢固無ㇾ恙哉、耳適癢、因以ㇾ矢搔耳、忽大風催ㇾ門、門驟闔、觸ㇾ矢貫ㇾ腦而死。〔濟南(さいなん)[やぶちゃん注:山東省省都。蒲松齢もこの済南府内の出身で、ここで活躍した。]に營卒有り。鸛の鳥の過ぐるを見て、之れを射る。弦に應じて落つ。喙(くちばし)の中(うち)に魚を啣(くは)へり。將に子を哺まんとするなり。或るひと、矢を拔きて、之れを放つことを勸む。卒、聽かず、少頃《しばら》くして、矢を帶びて、飛び去れり。後ち、郭(かく)間(あひだ)を往復すること、兩年餘り、矢を貫くこと、故(むかし)のごとし。一日(いちじつ)、卒、轅門(えんもん)の下に坐せり。鸛、過ぎて、矢、地に墮つ。卒、拾ひ視て曰はく、「此の矢、固(まこと)に恙(つつが)なし。」と。耳、適(たまた)ま、癢(かゆ)し。因りて、矢を以つて、代へて、耳を搔けり。忽ち、大風(たいふう)、門を摧(くだ)き、門。伊驟(にはか)に闔(と)じ、矢に觸れ、腦(なう)を貫きて、尋(つ)いで、死す。〕是も、支那に、以前、鸛を神物とした遺風の譚と惟《おも》はる。

[やぶちゃん注:以上の「聊齋志異」の話(熊楠は分離して示しているが、原著では、一つの話として、二種を一緒に掲げてある)は、事前に先立って、ブログ・カテゴリ『柴田天馬訳 蒲松齢「聊斎志異」』にて、『蒲松齡「聊齋志異」 柴田天馬訳註「禽俠」』として、電子化しておいた。以上の原文と私の推定訓読とともに、読まれたい。

「大正元年の春」明治四五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御して皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が践祚(即位)したため、「登極令」(明治四二(一九〇九)年公布)に基づき、「改元の詔書」は公布され、即日に施行して、同日は大正元年七月三十日となった。熊楠は「春」と言っているから、事実上は、明治四十五年である。]

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