早川孝太郞「三州橫山話」 川に沿つた話 「蜘蛛に化けて來た淵の主」
[やぶちゃん注:本電子化注の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で単行本原本である。但し、本文の加工データとして愛知県新城市出沢のサイト「笠網漁の鮎滝」内にある「早川孝太郎研究会」のデータを使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。今回はここ。]
○蜘蛛に化けて來た淵の主 瀧川村の奧から流れる大荷場川と云ふ川に、瀨戶ヶ淵と云ふ淵があつて、其處にはブトの類が澤山ゐると謂ひましたが、淵に惡い主《ぬし》がゐて、命を奪《と》られる人が時折あると謂つて、釣に行く者は稀れでした。淵の上から高く水が落ちかゝつてゐて物凄い所でした。
其處へ附近の出澤《すざは》村の某と云ふ者が、釣に出かけると、其日は又珍しくブトが捕れるので 時の經つのも忘れて捕つてゐて、見るともなく水面を見ると、一匹の赤い蜘蛛が這つて來て、岸に踞んでゐる其男の足を一巡りして[やぶちゃん注:底本は「一巡りて」。少しおかしいので、後の『日本民俗誌大系』版で『し』を補った。脱字であろう。]、還つて行つて淵の眞ん中頃になると見えなくなつて、暫くすると同じ蜘蛛がまたやつてきて、同じやうに足を一巡りして歸つて行つて、それを、同じやうに幾度も繰返して行つたので、不審に思ひながら足を見ると、細い蜘蛛の糸が幾重にも卷き付いてゐるので、そつと其糸をとつて傍の杉の切株に引掛《ひつか》けて、其儘釣をしてゐると、淵の底の方で、やあと大勢の懸聲《かけごゑ》がしたと思ふと、其の切株が、 そつくりもぎ取られて、淵の中へ沈んで行つたと謂ひます。
この話をした鈴木戶作と云ふ男の弟が、此處で釣をしてゐると、水面から一尺程入つた處に、赤いキラキラと輝くやうな物を見て驚いて歸つて來たと謂ひました。
其後《そののち》村の男が、淵の上の松を取ると謂つて淵へ鉈《なた》を落したので、淵の主が川下の淵へ越したので現今は主がゐないとも謂ひます。
[やぶちゃん注:ここに語られる蜘蛛の怪は、本邦で広汎に存在する水辺の「化け蜘蛛」譚の典型的なものの一つである。私の住まう鎌倉の源平池にさえある、実はかなりポピュラーな怪奇談なのである。私の「柴田宵曲 妖異博物館 蜘蛛の網」を読まれたい。
「瀧川村の奧から流れる大荷場川」「早川孝太郎研究会」の早川氏の手書き地図の左端の中央やや下の位置に『大ニバ川』とある。この川は、手書き地図の諸ポイントから、現在は「七久保川」と呼ばれているもの(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)がそれと判った。「大荷場」は、この七久保川の右岸に現在の地名として確認出来る。
「瀨戶ヶ淵」ここに「瀬戸淵の滝」がある。サイド・パネルに五十二葉の写真を見ることが出来る。「早川孝太郎研究会」の本篇(PDF)に、この瀬戸淵についての編者注があり、『私が子供の頃は大きな淵で、四、五メートルの深さがあって、ちょっと薄気味の悪い処でした。近年、林道工事の影響で土砂が流れて来て、一時』、『殆んど淵が埋まってしまいましたが、最近、少し回復してきたようです。言い伝えによると、「メクラ(追分)」「カイクラ(一鍬田)」「瀬戸ヶ淵」と言って』、『この三つの淵は底が互いに繋がっていて主が行き来をしていると言われていました』。『川小僧達は、ここも遊び場にしていましたが、大荷場川の水はとても冷たくて、夏でも』十『分と入っていることが出来ませんでした』として瀧の写真も添えておられるので、見られたい。なお、この注の中の、「メクラ(追分)」というのは、横川追分地区(グーグル・マップ・データ航空写真)の寒狹川内のどこかの淵であろう(淵らしき箇所は複数ある。現在の地区割りに従うなら、挟まれてある下流の二箇所が候補となるか)。また、「カイクラ(一鍬田)」(「ひとくわだ」と読む)は、これも既注であるが、再掲しておくと、現在の愛知県新城市一鍬田(ひとくわだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、「カイクラ」は現在、「海倉橋」(かいくらばし:但し、ネット・データの中には「かいそうばし」と記すものもある)に名が残る。豊川の相対的にはずっと下流の方である。
「出澤村」現在の新城市出沢(すざわ:グーグル・マップ・データ航空写真)。横山の中央部の寒狹川を隔てた右岸で、殆どの部分は山間である。]
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