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2023/05/31

佐々木喜善「聽耳草紙」 九六番 怪猫の話 (全九話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「怪猫」は本文でもルビがないが、響きの禍々しさから、「くわいびやう」と読んでおく。]

 

      九六番 怪猫の話 (其の一)

 

 或時、一人の男が旅からの歸りがけに、國境の峠に差しかゝると、谷合《たにあひ》の方で何者だか大變奇怪な聲で騷いで居た。はて不思議な聲だが何であらうと、木に登つて樣子を窺ふてゐると、多勢《おほぜい》の猫どもが寄り集まつて、何事かがやがやと言ひ合ひをして居るところであつた。其中の大猫がみなに向つて、まだ某殿(ダレソレドノ)のお頭領(カシラ)が見えぬが、何して居るべと云ふやうな事を喋言《しやべ》つた。木の上の男は、今猫の云つた某《だれそれ》は自分の家の名前なので、はてな不思議なこともあればあるものだなアと思つて、じつとして居ると、稍《やや》しばらく經つてから、其所ヘ一匹の年寄猫(トシヨリネコ)がやつて來た。すると多勢の猫どもが、みんな土下座をして、お頭樣々々々と言つて、其猫のまわりを取卷いて機嫌をとる。某は木の上からつらつら見ると、やつぱり其はまぎれも無い自分の家の飼猫《かひねこ》の年寄りの三毛猫(サンケ《ねこ》)であつた。

 老猫《としよりねこ》は、お前達はみな揃つたかと言ひつゝ、其頭數を檢べて見てから、あゝ皆揃つたやうだ。斯《か》う揃つたら、そろそろ仕事に取りかかるベアと言つた。木の上の男は何をするのだべえと思つて見て居ると、家の猫が先きに立つて、ぞろぞろと峠へ出て、皆別々に木の蔭や草の中などに入つて匿れて、其儘鳴りを沈めてじつとして居た。

 恰度《ちやうど》其所へ一人のお侍が通りかゝつた。すると猫どもが、それツと云つて其侍をぐるりと取り卷いて喰《く》つてかゝつた。ところが其侍は餘程の腕利《うでき》きであつたと見え、かへつて猫どもが慘々に斬殺《きりころ》されてしまつた。其れを見て年寄り猫はひどく怒つて、祕傳祕術を盡して侍と鬪つたが、どうしても侍にはかなはず、眉間《みけん》に太刀傷《たちきず》をうけて、其所を逃げ出してしまつた。

 侍は猫どもが皆逃げ去つたのを見てから、木の上に居る人、もはや安心だから下りなされと聲をかけた。男は木の上から降りて、最前からの樣子を殘らず委しく話した。そして彼《あ》の負傷《てきづ[やぶちゃん注:ママ。]》を負ふた年寄り猫は某の家の猫だと云つたし、某とは私の家の名前、又彼(ア)れはまぎれも無く私の家の飼猫である。どうも合點が行かないまス。私一人ではどうも怖(オツカ)なくて歸れないから、お侍樣も一緖に行つてクナさいと賴んだ。侍もともかくもと云つて、某を連れ去つて行つた。[やぶちゃん注:底本は読点だが、「ちくま文庫」版を採った。]見ると峠の上から里邊の方へ雪の上に赤い生血《なまち》が、ポタリポタリと滴(コボ)れてゐた。さうして其血の跟《あと》が男の家の門前まで來て、あとは絕えてゐた。いよいよこれは怪しいと、二人は言ひ合つて家の中へ入つた。

[やぶちゃん注:「跟」は音「コン」で、「くびす・きびす・かかと(踵)」、「従う。人のあとについていく」の意であるが、「ちくま文庫」版が、この漢字を使わずに『あと』と平仮名にしてあるのに従った。訓自体には「あと」というそれはないものの、意味から違和感は全くない。]

 侍と男が家の中へ入つて行くと、奧座敷の方で、何だかウンウンと呻《うな》つて苦しんで居る樣子である。あれは何だ、どうしたと訊くと、家族は、先刻(サツキ)祖母樣が外へ出て誤つて氷(スガ)で滑つて眉間を割つたと言ふ。男と侍とは顏を見合せて頷《うなづ》き合つた。さうして侍は俺が割傷(ワリキズ)に大層よく利く藥を持つて居るから、どれどれと云つて、祖母の寢室へ行つてやにわに刀を拔いて斬り付けた。祖母はキヤツト叫んで、飛び起きて侍に喰つてかゝつたが、何しろ深傷《ふかで》を負ふて居るから、二《に》の太刀で血みどろになつて死んでしまつた。

 家族の人達は其を見て、あれアあれア何たらこつた。祖母樣が殺されたと言つて騷ぎ𢌞るのを、男が騷ぐな騷ぐな、實は斯う云う譯で此のお侍樣を賴んで來たのだと云つた。暫時《しばらく》モヨウ(經《た》つ)と殺された祖母樣が大猫《おほねこ》になつた。

 やつぱり怪猫《くわいびやう》が、幾年か前にほんとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の此の家の祖母樣を食つて、自分がさう化けて居たのだと云ふことが其時訣《わか》つた。家の人達は之れから先き、どんな災難があつたか知れないのに、ほんとうにお蔭樣であつたと言つて、お侍に厚く禮をした。

(此話は諸國にあるやうに、其怪猫が旅に出て居る自家の主人の歸還の日を知つて居て、峠に待ち伏せして居たとも、そして又其主人に退治されたとも語るが、此所には村の犬松爺樣が話した通りを記して置く。大正七年の秋の分。)

[やぶちゃん注:附記は頭の丸括弧のみが半角上へ抜き出ている以外は、全体が二字下げポイント落ちであるが、類話譚解説となっているので、引き上げて読み易く同ポイントとした。]

 

       (其の二)

 或所に狩人《かりうど》があつた。山立《やまだち》に行く朝、鐵砲の彈丸(タマ)をかぞへて居るのを、飼猫の三毛猫が爐傍《ろばた》に居て眠つたふりをしながらそれを見て居た。狩人は何の氣なしに其儘《そのまま》山へ行つた。

[やぶちゃん注:「山立」を「やまだち」と読むと、辞書では「山賊・山賊行為」或いは「 狩人・猟師・またぎ」としかないのだが、普通に「山猟・狩猟に行くこと」の意として私には違和感がない。]

 山へ行くと見た事も聞いた事もない恐しい怪物に出會《であは》した。それは大きな一目(ヒトツマナコ)の化物《ばけもの》であつた。そしていくら擊(ウ)つても擊つても平氣であつた。そのうちに持つて來ただけの彈丸《たま》が盡きてしまつた。すると其怪物は忽ちに大きな猫になつて其狩人に飛掛つて來た。そこで狩人は秘法の秘丸(カクシダマ)で難なく擊ち止めた。さうして其死んだ猫を檢べてみると、傍らに一個(ヒトツ)の唐銅(カラカネ)の釜の葢《ふた》が落ちてをつた。猫は其釜の葢を口にくわへて居て彈丸を防いだものと訣《わか》つた。

 然し其猫はどうも自分の家の飼猫によく似てゐたので念のために其釜の葢を持歸《もちかへ》つて見ると、案の定、家の釜の葢はなくなり、猫も居なくなつてゐた。

  (祖父のよく話したもの。私の古い記憶。)

 

       (其の三)

 遠野町の是川某と云ふ侍が、或時子供達を連れて櫓下《やぐらした》といふ所の芝居小屋へ江戶新下りだという狂言を觀《み》に行つた。家にはたつた一人侍の妻ばかりが留守をしながら縫物をして居た。すると今迄爐《ひぼと》の向側《むかふがは》で居眠りをして居た虎猫が、ソロソロと夫人の側へ寄つて來て、突然人聲《ひとごゑ》を出して、奧樣、只今旦那樣方が聽いて居る淨瑠璃《じやうるり》を語つて聽かせ申しやんすべかと言つて、絹でも引裂くやうな聲で長々と一段語り終つてから、奧樣シこのこと誰《たれ》にも話してはならないまツちや、と言つて恐ろしい眼《まなこ》をして睨みつけた。そのうちに皆が芝居から歸つて來たのでその夜はそれツきりで何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「櫓下」恐らくは旧鍋倉(遠野)城の南の虎口(こぐち)附近に櫓があったようにも推定されているから、グーグル・マップ・データ航空写真の、この麓附近であろうと推測する。今でも遠野市街地からは外れた場所だが、そもそも江戸時代まで旅役者たちは「河原乞食」と卑称され、村落共同体の辺縁の河原の橋の下に逗留するのが常であった。ここには、まさに来内川があり、現行、二基の橋も掛かっている。]

 或日、日頃懇意して居る成就院の和尙樣が來て、四方山《よもやま》の話をして居たが、爐傍に居眠りして居る虎猫を見て、あゝ此猫だな、先達《せんだつて》の月夜の晚に俺が書院に居ると、庭ヘ何所からか一匹の狐が來て手拭《てぬぐひ》をかぶつて頻《しき》りに踊りを踊つて居たが、獨言《ひとりごと》に、なんぼしても虎子《とらこ》どのが來ないば踊りにならねアと言つた。おかしなこともあればあるものだ。これからどうなる事かと見て居ると、この猫が手拭をかぶつて來て、暫時(シバラ)く二匹で踊つて居たが、どうも今夜は調子がはじまらないと言つて、踊りを止めて二匹で何所かへ行つたツけが、其猫はよく見るとこの猫だ。そんなことを話して和尙樣は歸つた。

[やぶちゃん注:「成就院」現存しないが、『遠野市編さん活動報告』第二十四号(二〇二二年五月発行・PDF)の鍋倉城調査の記事中に写真があり、「成就院跡」が示されてあった。グーグル・マップ・データ航空写真で、この中央附近にあったことが判った。]

 其夜侍の妻は先夜の猫の淨瑠璃のことを旦那樣に話した。其翌朝奧方がいつまでも起きなかつたので家の人達が不審に思つて寢室へ行つて見ると、奧方は咽喉笛《のどぶえ》を喰ひ破られて死んで居た。

 虎猫はそのまゝ行衞不明《ゆくへふめい》になつた。

 

       (其の四)

 遠野町の某家の人達、或夜芝居見物に出て家には老母一人が留守をして居た。夜もやがて大分更けて行き、今の時刻で云ふならば十一時過《すぎ》とも思はれる頃、老母の室《へや》に飼猫の三毛猫が入つて來て、お婆樣お退屈で御座ンすぺ。おれが今夜の芝居をして見せアンすぺ[やぶちゃん注:半濁音であるので注意。]かと言つて、芝居の所作《しよさ》から聲色《こはいろ》を使つて、奇怪な踊りを踊つて見せた。それが終ると猫は、お婆樣この事を決して他言し申さんなと言つて澄まして居た。

 間もなく家人が芝居から歸つて、老母に今夜の狂言の事を語つて聞かせる。それが猫の物語つたのと寸分違はなかつたので、老母は遂に飼猫の事を話すと、皆は大變驚き氣味惡がつて居た。

 或夜其家の主人が成就院を訪問して住持と碁をかこんでいた。外はいゝ月夜であつた。夜が更けると庭で何者かが立ち騷ぐ氣配がするので聽耳を澄まして居ると、住持は石を置きながら、ははア今夜も來て踊つて居るなアと獨言《ひとりごと》をした。何か踊つて居りますかと言つて、障子を細目に開けて庭前を見ると、月夜の下に一疋の狐と一疋の猫とが頻《しき》りに踊りを踊つて居るので奇怪に思つてよく見ると、それは正《まさ》しく自家の猫である。それから障子を締め、實は斯《か》く斯くと昨夜の事などを物語り、怪態(ケタイ)なる事もあるものだと話して家へ歸つた。ところが老母が何物にか咽喉笛《のどぶゑ》を嚙み切られて斃《たふ》れてゐた。其後猫の姿は二度と人目につかなかつた。

 

       (其の五)

 同町鶴田某の飼猫、暮れ方になると手拭《てぬぐひ》を持つて家を出て行くので、家人が變に思つて後(アト)をつけて行つて見ると、大慈寺《だいじじ》裏へ行つて狐と一緖になつて盛んに踊りを踊つてゐた。

[やぶちゃん注:「大慈寺」岩手県遠野市大工町(だいくちょう)に現存する。曹洞宗福聚山(ふくじゅさん)大慈寺。]

 

       (其の六)

 同町裏町に太郞と云ふ人があつた。一匹の三毛猫を飼つて居たが、この猫は巧みに人の口眞似をしたり、又手拭《てぬぐひ》をかぶつて踊《をどり》を踊つて見せた。或時棚の魚を盜んだので主人が撲《なぐ》つて傷をつけた。人が誰に打たれたと訊くと太郞方《たらうがた》と答へた。

 

       (其の七)

 昔、同町の或所に一匹の老猫があつた。此猫人間に化けて淨瑠璃(ジヨウルリ[やぶちゃん注:ママ。])を上手に語つた。或時例(イツモ)の樣に近所隣りの人達が大勢集まつて其語り物に聽き惚れて居ると、或旅人が疲れたので、墓場から棒片(ボウキレ)を拾つて、杖について其家の前を通りかゝつた。そして大勢の人々が猫の啼き聲に感心して居るのを見て不思議に思つて、其譯を訊くと、前のやうな事なので、自分も其淨瑠璃を聽かうと思ふが如何《どう》耳を傾けても矢張りたゞの猫の啼聲《なきごゑ》である。其所に居た人々が旅人の杖を借りてつくと成程普通の猫の啼聲であつた。

[やぶちゃん注:この「棒片(ボウキレ)」というのは、恐らくずっと古い時代の徳のあった人物(僧か)の卒塔婆の縦長の破片であったのではなかろうか。]

 

       (其の八)

 又同じ町の新田某と云ふ人の家の飼猫はよく物眞似をしたが、なかでも淨瑠璃語《じやうるりがた》りが上手であつた。師走の十四日の阿彌陀樣の緣日などには、其寺で打ち鳴らす鐘の眞似などまでして人々を驚かして居た。

 

       (其の九)

 昔の話であるが、同所の某家で一匹の猫を飼つて居た。同家の嫁女《よめぢよ》が或夜鐵漿《おはぐろ》をつけ終つて鏡を見てゐると、其猫が人語《じんご》を發して、あゝよくついたついたツと言つた。嫁は大變驚いて其由《よし》を夫《をつと》に告げた。そして尙重ねてあんな化猫を飼つて置けばどんな事が起るか分らないから早く殺した方がよいと頻りに言つた。夫も初めの中《うち》はそんな事があるもんかと言つて氣にもとめなかつたが、嫁が餘り氣味惡がるので、遂に之れを殺して裏の畠の傍(ホトリ)に埋《う》めた。

 翌年の春猫を埋めた邊(アタリ)から大層勢《いきおひ》のよい南瓜《かぼちや》が生へ[やぶちゃん注:ママ。]て茂り、素敵な大きい南瓜が實《みの》つた。町内でも珍しく大きなものであつたので、其家では喜んで取つて煮て食ふと、忽ちアテられて、家族が皆枕を並べて病《や》み苦しんだ。巫女《みこ》に裏[やぶちゃん注:「占」に同じ。]を引いて貰ふと、生物(イキモノ)を殺した事はないか、それが崇(タヽ)つて居ると云ふ。よつて其の南瓜の根を堀[やぶちゃん注:ママ。]つてみると、不思議にも猫の骸骨の口から蔓の根が生へ[やぶちゃん注:ママ。]出してゐた。

  (昭和三年の冬の頃。その三乃至九迄岩城と云ふ
   法華行者《ほつけぎやうじや》の人から聽いた
   話の八。)

[やぶちゃん注:この話の猫のニャアニャア声が、「あゝよくついたついたツ」「ニャアァ~ニョ~クッニィタ~ッ」と聴こえてしまうことは、いかにもありそうなことではある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(1) / 序文・「第一編 鷲石に就て」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、「鷲石」は、「しうせき」(しゅうせき)で、その正体の最も有力な対象物は褐鉄鉱(リモナイト:limoniteで、ウィキの「褐鉄鉱」によれば、『吸着水や毛管水を含んだ針鉄鉱(ゲーサイト、α-FeOOH)、または鱗鉄鉱(レピドクロサイト、γ-FeOOH)の一方または両者の集合体であり、鉱物名としては褐鉄鉱は使用されていない』とあり、『天然の錆である』とあって、さらに『団塊状で内部に空洞のあるものを鳴石、壷石とい』うとある物が、以下で語られる「鷲石」である(空洞中には水を持っているものもある)。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「日本語と日本文化 壺齋閑話」の「鷲石考:南方熊楠の世界」に、『鷲石にまつわる伝承はとりあえずヨーロッパに広まっている。中国には鷲石そのものの伝承はないが、それと似たような話はある。禹余糧』(うよりょう:以下の本文にも出る。歴史的仮名遣は「うよりやう」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある』とある。引用元でも以下で解説が続く)『中国では、鷲石に相当する石は禹余糧と呼ばれている。むかし禹王が会稽の地で宴会を催した時、余った食料を江中に捨てたところが、それが化石となったので禹余糧と呼ばれるようになったというのである。小野蘭山によれば』、『この石は「はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色あり。その内空虚にして、細粉満てり」というから、ヨーロッパでいう鷲石と同じなわけだが、中国人はヨーロッパ人と異なり、これを鷲と結びつけることはしなかったのである。中国人には、鷲を性と結びつけるという発想がなかったためかもしれない』。『中国人も、この石の形が母胎に子を宿すに似ているところから、これを催生安産の霊物としたが、ヨーロッパ人とは異なり、これを昔の聖人が食い残した食物と結びつけたことから、長生して仙人になれる特効薬と考えるようにもなった。また、その成分の鉄が栄養源とて相当に働くことから、これに広い薬効を結びつけるようにもなった。鷲石をもっぱらセックスや繁殖と結びつけたヨーロッパ人とは、アナロジーの働く範囲が多少ずれていたわけであろう』と言及されておられる)『と呼ばれているものだ。日本では孕石というものがほぼこれらに対応している。そこで熊楠はこれらの伝承に潜んでいる共通点と相違点を摘出することに取り掛かるわけだ』。『ヨーロッパで鷲石と呼ばれているものは、扁平な形状の石のようなもので、内部に空洞があり、そこに小石が入っている。それが子を孕んだように見えることから、人間の出産と結び付けられるようになった。この石の正体は褐鉄鉱で、鷲が巣くうような洞窟によく見られる。そこから鷲と結びついて鷲石と呼ばれるようになり、その鷲石に、出産やそのほかの効用が結び付けられるようになったわけである』とある。「孕石」は以下の序文に出るが、「はらみし」と読み、やはり、石の中に空洞部分があって、小さな石を持っているように感じられるもので「子持ち石」とも言い、「鷲石」のように(以上の通り、壺齋散人氏は同一とされる)安産等のお守りとされた。本文でも南方熊楠が考察するように、ある形状・性質・様態に見える対象物が、異なったものであるが、やはりそうした似たものを有する全く別な対象物と強い親和性と共時性持つと考える民俗社会の感応性、所謂、フレーザーの言う「類感呪術」である。

 

     鷲 石 考   南 方 熊 楠

 

    鷲 石 考

       第一 鷲石に就て

       第二 禹餘糧等に就て

 是は一九二三年三月十日ロンドン發行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯十二卷一八九頁に出た質問に對し、七月二十一日、二十八日、八月四日、十一日、十八日、二十五日の同誌上に載《のせ》た熊楠の答文を、本書の爲に自ら復譯した者である。但し、大意をとる。又『性之硏究』拙文「孕石のこと」より取《とつ》た所もある。爰には便宜上、「鷲石に就て」・「禹餘糧等に就て」の二篇に分ち述《のべ》る。

[やぶちゃん注:以上と次の「第一編 鷲石に就て」の「質問」の本文部分と「應答」一ページまでは、底本では、本文行間が他に比して有意に広いが、再現しない。なお、ここに出る‘Notes and Queries’の当該年のそれは、「Internet archive」でも、画像化が行われていない(リンク先は英文‘Wikisource’の同誌の「Internet archive」にリンクしたリスト)ので、視認出来ない。

「孕石のこと」サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)のページ・ナンバー『(497)』に、「孕石のこと」(大正九(一九二〇)年十一月・十二月発行『性之研究』第二巻第二号及び三号発表)として読める(二部構成)。]

 

   第一編 鷲石に就て

 

    質 問  龍 動 キルフレッド・ジェー・チャムバース

 

 一六三三年附でリチャード・アンドリュースがニゥキャッスル女伯に出した狀は、史料手筆調査會第十三報に收め、出板された。其内に「予は、又、貴女へ、鷲石一つを送つた。是は、出產の節、腿《もも》に括《くく》り付《つく》ると、安產せしむ。」とある。此石の性質・効力に付《つき》て、一層、詳知したし。

[やぶちゃん注:「龍動」ロンドン。]

 

    應 答   日本紀伊田邊 南 方 熊 楠

 

 此答文は、主として、大正九年東京刊行『性之硏究』二號と三號に出した拙文「孕石の事」と、予の未刊稿「燕石考」より採り成した物である。

[やぶちゃん注:「孕石の事」については、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)(新字新仮名)の、ページ・ナンバー『(497)』の「孕石のこと」で読める。

「燕石考」(えんせきかう)は英文論文‘The Origin of the Swallow-Stone Myth’ (「燕石神話の起原」)であるが、平凡社「選集」の第六巻、及び、河出文庫の『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」で岩村忍氏の訳(二つは同一)で読める。この「燕石考」及び「燕石」(「竹取物語」の「燕の子安貝」を始めとして、比定対象物は複数ある)については、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)」の私の注で少しく引用に形で述べてあるので参照されたいが、その複数の比定物の内では、タカラガイ類(腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae)の他に、有力な一つが、「石燕(せきえん)」で、これは二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石で(腕足類の知られた現生種では、舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina が知られる)、石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国では、その粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。]

 

 此石を古希臘でエーチテースと云《いつ》た。その意譯で、獨語のアドレル・スタイン。露語のオーリヌイ・カーメン。佛語のピエール・デーグル。西語のピエドラ・デ・アギラ。皆な、英語のイーグル・ストーンと同じく、「鷲石」の義だ。獨語で、又、クラッペル・スタイン、露語でグレムチイ・カーメンといふは、ガラガラ鳴る故、「ガラガラ石」の意だ。

 西曆一世紀に成つたプリニウスの「博物志」卷十の三章に、鷲に六種ありと述べ、四章に、其内、四種は、巢を作るに、鷲石を用ゆ。此石は、藥効、多く、又、よく火を禦《ふせ》ぐ。其質、恰《あた》かも孕んだ樣で、之を、ふれば、中で、鳴る。丁度、子宮に胎兒を藏《をさ》むる如く、石中に小石あり。但し、鷲の巢より採《とつ》て直《すぐ》に使はねば、藥效なし、と記す。又、委細を三六卷三九章に述べて曰く、「鷲石は每《いつ》も、雌雄二個揃ふて、鷲巢《わしのす》にあり。是れ無ければ、鷲は蕃殖《はんしよく》せず。隨つて、鷲は、一產二子より、多からず。鷲石に四種あり。第一、アフリカ產は、柔かで小さく、其腹中《ふくちゆう》に、白く甘い粘土を藏む。その質、碎け易く、通常、女性の物と、みなさる。第二に、雄なる物は、アラビア產で、外見、沒食子《もつしよくし》色(暗褐)若くは帶赤色、其質、硬く、中にある石、亦、堅い。第三、キプルス島の產は、アフリカ產に似るが、其より大きく、扁たく、他の圓きに異なり、内には、好き色の砂と、小石が混在し、その小石は、指で摘《つま》めば、碎くる程、柔《やはら》かい。第四は、ギリシアのタフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ。川底より見出され、白く、圓く、内にカリムスてふ一石を藏む。鷲石、種々なれど、是程、外面の滑《なめら》かなは、ない。是等の鷲石、孰れも牲《にへ》に供えた[やぶちゃん注:ママ。]諸獸の皮に包み、妊婦や、懷胎中の牛畜に佩《おび》しめ、出產の際迄、除かねば、流產を防ぐ。もし出產前に取去《とりさ》れば、子宮、落脫す。又、出產迫れるに取去《とりさら》ずば、難產する。」と。

[やぶちゃん注:以上のプリニウスの「博物誌」の当該部は、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で確認した。熊楠は「卷十の三章」と言っているが、引く内容自体は「四」である。そこでは、その鷲石を『ある人はガキテスと呼ぶ』とある。「三六卷三九章」は『鷲石(アエティテス)』の項で、『タフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ』の部分は『タピウサ種として知られている第四種は、タピウサのレウカス島に産する。タピウサというのは、イタカからレウカスへ船で行くとき』、『右にある地区だ』とある。「タピウサ」は判らないが、「イタカ」は現在のギリシャの「イターキ島」、「レウカス」は「レフカダ島」であるから、グーグル・マップ・データのこの中央附近になるか。「川底」(訳本では『渓流』)とあるからには、レフカダ島の内陸部であろうか。]

 

 一九〇五年板、ハズリットの「諸信及俚傳」一卷に云く、鷲石は臨產の婦人に奇効ありと信ぜられた。レムニウス說に、左腕に、心臟より無名指へ動脈通ふ處あり、其邊え[やぶちゃん注:ママ。]此石を括り付置《つけおけ》ば、いかな孕みにくい女も、孕む。孕婦に左樣に佩びしむれば、胎兒を强くし、流產も、難產も、せず、又、自ら經驗して保證するは、產婦の腿に、之を當《あつ》れば、速かに安產す、と。ラプトン曰く、孕婦の左臂《ひぢ》又は左脇に鷲石を佩びしむれば、流產せず、且つ、夫婦、相《あひ》好愛《かうあい》せしむ。又、難產の際、之を腿に括り付《つけ》れば、忽ち、安產す。又、蛇の蛻皮《ぬけがら》を腰に卷付《まきつけ》ても、安產す、と。是は、東西に、例、多き、「似た物は、似た患《わづらひ》を救ふ。」といふ療法で、眞珠が魚の眼玉に似るから、眼病にきくの、キムラタケは陽物そつくり故、壯陽の功、著し、とか、虎や狼は、犬より强いから、その肉や骨は犬咬毒《いぬのかうどく》を治《いや》すとか、黃金の色が、似おる[やぶちゃん注:ママ。]から、黃疸に妙だ、等、信ずる如く、蛇が皮をぬぎ、穴をぬけるのが、赤子の產門を出《いづ》るに類し、鷲石の内部に小石を藏《ざう》せるが、子宮に胎兒を藏むるに似たよりの迷信だ。

[やぶちゃん注:『ハズリットの「諸信及俚傳」』イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著のFaiths and Folklore(「信仰と民俗学」)。

「レムニウス」オランダの医師で作家のレビヌス・レムニウス(Levinus Lemnius 一五〇五年~一五六八年)。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの左にある“ Ætites ”の項がそれ。「アエタイト」は熊楠が古ギリシャ語で「エーチテース」と音写したそれで、ギリシャ語由来の鉱物「鷲石」の意である。

「無名指」薬指の異名。

「ラプトン」“Lupton”。人物は不詳だが、前注の箇所の、すぐ後に出て来る。

「キムラタケ」まず言っておくと「キノコ」ではない。葉緑素を欠いた多年草で完全な寄生植物にして高山植物であるシソ目ハマウツボ科オニク(御肉)属オニク Boschniakia rossica の別名である。奇体な形状は当該ウィキを見られたいが、異名の『キムラタケは、「黄紫茸」「金精茸」と書いて「きむらたけ」と読み』、中国や本邦で『強壮剤として利用されたことによる』。『また、「をかさ蕈」「おかさたけ」ともいう』とあった。]

 

 一五六八年、ヴェネチア板、マッチオリの「藥物論」には、「鷲石をふれば、内部に音する事、孕めるが如く、其腹中に、一石、あり。之を產婦の左臂に佩ぶれば、流產を防ぐ。扨、愈よ、臨產となれば、臂から取去《とりさ》り、其腿に括り付ると、安產する。此石、又、盜人を露はす効、あり。パンに之をそつと入《いれ》て、食《くは》しむるに、盜人、嚙めども、嚥《の》み下す、能はず。又、鷲石と共に煮た物をも、嚥み能はず。その粉を、蜜蠟か、油に和し、用《もちふ》れば、癲癇《てんかん》を治す。」と出で、一八四五年、第五板、コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」六頁には、『鷲石を、孕婦の腿に付れば、安產すれど、其胸に置《おか》ば、出產を妨《さま》たぐ。ジオスコリデス說に、此石を燒《やい》た粉を、パンに混じ、嫌疑ある人々に食せば、少しでも其粉が入《はいつ》たパン片を、盜人は、嚥み能はず。今も、希臘人は、呪言を誦して、右樣のパンを盜人穿鑿に用ゆ。』と筆す。全く、鷲石の内に一石を藏すると、盜人が取つた物を懷中すると似るより、此石、よく、盜人をみ出《いだ》すと信じた者か、と迄は書《かい》た物の、なぜ癲癇にきくかは、一寸、解き難い。先《まづ》は、氣絕した患者が囘生《くわいせい》すると、鷲や人の子が產まれて世に出るとを、一視《いつし》して、言ひ出《だ》したで有《あら》う。

[やぶちゃん注:『マッチオリの「藥物論」』イタリアの医師・博物学者ピエトロ・アンドレア・グレゴリオ・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli 一五〇一年~一五七七年)。当該ウィキによれば、『医学に関する著作に加えて、プトレマイオスの』「ゲオグラフィア」『などのラテン語やギリシャ語の著作からイタリア語への翻訳をおこなった。特に、ディオスコリデスの本草書』「薬物誌」の『翻訳と解説が有名となった』一五四四『年にジャン・リュエルのラテン語訳を元に、図版なしで最初の翻訳・注釈本が出版され』、一五四八『年に』は『増補版の解毒剤に関する著作が加えられ』、一五五〇年と一五五一年にも『増補版が出版された』。一五五四『年には』「ディオスコリデスの著書への注解」( Commentarrii in sex libros Pedacii Dioscoridis )が『出版された。それまで広く流布されていたジャン・リュエルの注釈本とは一部の解説が異なり』五百八十三に及ぶ『木版画が添付された』とある。所持する『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」(一九一一年河出文庫刊)にある長谷川興蔵氏の注によれば、この「藥物論」というのは、『熊楠は恐らく内容に即して、『薬物論』としたのであろうが』、彼が従ったものは、同英文ウィキにある、一五六八年版の‘I discorsi di m. Pietro Andrea Matthioli sanese, medico cesareo, et del serenissimo principe Ferdinando archiduca d'Austria &c. nelli sei libri di Pedacio Discoride Anazarbeo della materia medicinale. Venezia’が、それであるとしておられるようで、“discorsi” は『談話』の意であるとされておられる。

『コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」』フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に初版を刊行した“ The Dictionnaire infernal ” (「地獄の辞典」)と思われる。]

 

 一八八五年第三板、バルフォールの「印度事彙」一に、プリニウスは鷲石が治療に効ある外に、難船等の災禍を禦ぐと說《とい》たとあるが、プリニウスの書にそんな事、一向みえず。暗記、又、引用の失だろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。扨、『アラビア人、之をハジャー・ウル・アカブと稱へ、タマリンド果の核《たね》に似たれど、中空で、鷲の巢の内に見出ださる。印度から鷲が持つてくると信ず。』と述た儘、何に用《もち》ゆと、かき居らぬが、必竟、歐人同樣、專ら、產婦に有効とするのだろう。そして又、アラビア人は鷲石は難船等の災難を予防すと信ずるので有《あら》う。

[やぶちゃん注:『バルフォールの「印度事彙」』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。ちょっと手間取ったが、「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India(一八八五年刊第一巻)の当該箇所はここの右ページの終りにある“EAGLE  STONES”の項であることが判った。

「タマリンド果」アフリカの熱帯原産で、インド・東南アジア・アメリカ州などの亜熱帯及び熱帯各地で栽培され、食用となるマメ目マメ科デタリウム亜科 Detarioideaeタマリンド属タマリンド Tamarindus indica の果実。]

 

 プリニウスの「博物志」三七卷五九章に、メヂアより來たるガッシナデてふ石は、其色、オロブス豆の如くで、花紋あり、此石を振《ふる》へば、子を孕みおると判る。三ケ月間、孕むとあるから、其丈《だ》けたてば、石が子を產むのだ。同卷六六章には、ペアニチスは、子を孕む石で、婦女の安產を助く。マケドニア產で、外見、水がこり固まつた樣だ、と載す。孰れも、構造、鷲石に似乍ら、鷲に係る話のない品らしい。

[やぶちゃん注:既出の訳書では、『メディア産のガッツシナデスはヤハズエンドウの色をしており、』(中略)『これは妊んでいて、それを振ると支給の中に石はいっていることを示すといわれるひとつの宝石である。「胎児」が発育するのに三カ月かかるという』とあった。この「ヤハズエンドウ」(矢筈豌豆)は、マメ目マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra で、我々が異名の「カラスノエンドウ」(烏野豌豆)で親しんでいるものと同じである。当該ウィキによれば、『原産地はオリエントから地中海にかけての地方であり、この地方での古代の麦作農耕の開始期にはエンドウなどと同様に栽培されて作物として利用された証拠が考古学的資料によって得られている。そのため、若芽や若い豆果を食用にすることができるし、熟した豆も炒って食用にできるが、その後栽培植物としての利用はほぼ断絶して今日では雑草とみなされている』とある。熊楠の「オロブス豆」のそれはギリシャ語由来の“orobus”で「苦いレンゲ」(マメ科マメ亜科ゲンゲ属 Astragalus )の意のようである。]

 

 鷲石の外にも、色々の物を、種々の鳥が用いて、繁殖の助けとする話、多い。其役目の異同に隨ひ、雜と分類して說かう。

 (一) 卵を破れざらしむる物 一八八〇年刊行『ネーチュール』二二卷に、チャテルが引た如く、『フィロの「避邪方」に云く、鷲は巢の内に、或石を匿しおき、其卵の破壞を防ぐ、丁度、燕がパースレイの頂芽を以て、子を護る如し。其石を、孕み女が頸に付れば、子は安々と產れる、と。又、エリアノスの「動物書」三卷二五章に云く、甲蟲が燕の卵を害しにかゝると、燕はパースレイの小枝の尖(さき)を投《なげ》て、以て、之を防ぐ。』と。

[やぶちゃん注:以上の Nature ’の当該部は「Internet archive」のこちらの右ページ下方から始まって次のページに及ぶ、「チャテル」(CHATEL)氏の記事 “The Stone in the Nest of the Swallow”であることが視認出来た。それを見るに「フィロ」は“Phile”なる人物で、その書「避邪方」は Remedies Against Sortileges ’(「諸魔法に対する処方類」)であり、「エリアノス」は“Ælianus”、その書名「動物書」は‘ Natura Animal ’であることが判った。則ち、「エリアノス」は「アイリアノス」で、熊楠は以下の「(二)」では「アイリアノス」と表記している。古代ローマの著述家クラウディオス・アイリアノス(ラテン文字転写:Claudius Aelianus 一七五年頃~二三五年頃)のこと。彼の「ゲスタ・ロマノルム」(ラテン文字転写:Gesta Rōmānōrum)は、中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集で、標題は「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるよう、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。以上の引用に出た芥川の影響については、「芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通」の「昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛」の中に言及があり、また、「芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》」の「《12―20》」にも記載があるので、見られたい。なお、以下、欧文文献の著者や書名、及び、神話・歴史上の神や人物は、注を始めると、異様に手間がかかり、ちっとも電子化が進まなくなるため、私がどうしても躓いたもの、是非ともオリジナルに語りたく感じたもの、そして、注しないと後が読めないもの以外は、ちょっと調べても判らない場合は、注することをあっさりやめることとする(既に先行して熊楠が引用して分かっている場合は例外的に記す)。私が判っているものも、原則、注しない。悪しからず。

「パースレイ」原文“parsley”で、これは、所謂、「パセリ」、セリ目セリ科オランダゼリ属又はオランダミツバ属オランダゼリ Petroselinum crispum のことである。]

 

 (二) 塞がれた巢を開通する物 オーブレイの說に、サー・ベンネット・ホスキンスの園丁が、試しに、啄木鳥の巢の入口の孔を、斜めに釘を打つて、遮《さへぎ》り、其巢のある木の下に淸淨な布を廣げおくと、數時間へぬ内に、鳥が、釘を除き、其時、用いた葉が、布の上に留まり有た。世に傳ふ、ヒメハナワラビは、斯《かか》る障碍物を除くの功あり、と(一九〇〇年板、ベンジャミン・テイロールの「ストリオロジー」、一五三頁)。猶太《ユダヤ》說に、ソロモン王、音を立《たて》ずに金石を掘り出ださんとて、鬼神の敎え[やぶちゃん注:ママ。]により、ガラス板で鴉(はしぶとがらす)(又、シギとも、鷲とも云)の巢を葢《おほ》ふと、鴉、還つて、其卵を護る能はず、飛去て、智石(シャミル)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を持來つて、ガラスを破つた。是は、鐵も力及ばぬ堅い物を、容易に切り開く力、あり。又、アイリアノスは、漆喰(しつくひ)で、ヤツガシラ鳥の巢をぬりこめおくと、忽ち、ポア草を持來り、漆喰にあて、之を破り開き、子に餌を與ふ、と言た。「ゲスタ・ロマノルム」には、駝鳥が、同じことをする、と見ゆ(ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章)。日本にも「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、水晶の如く、堅くて、玉の樣なる物なり。オランダ人、持來る。又、常に、ギヤマンを、オランダ人、無名指に、かねの環を掛けて、挾み持て、刀劍の代りに用るなり。石鐵の類、何にても堅き物を、このギヤマンにて磨る時は、微塵に碎けずということ、なし云々。全體、ギヤマンと云は、鳥の名なる由。此鳥、雛を生じたるをみて、オランダ人、其雛を取りて、鐵にて拵え[やぶちゃん注:ママ。]たる籠に入れ置く。時に、親鳥、雛の鐵籠にあるを見て、頓て、此玉を含み來り、鐵の籠を破り、雛を伴て飛去る。其落し置たる玉ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、鳥の名を呼で、ギヤマンということとぞ。此物、オランダ人も何國にある物と云事を知ず、と云り」と記す。

[やぶちゃん注:「ヒメハナワラビ」シダ植物の一種で、維管束植物門大葉植物亜門大葉シダ綱ハナヤスリ(花鑢)亜綱ハナヤスリ科ハナワラビ(姫花蕨)属ヒメハナワラビ Botrychium lunaria 。ユーラシア・北アメリカ・グリーンランドなどの極地附近に分布し、本邦では、北海道から本州中部以東の高山・亜高山に稀れに植生する。

『ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章』イングランド国教会の牧師にして、考古学者・民俗学者。聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)が一八六六年に刊行したCurious Myths of the Middle Ages(「中世の奇妙な神話譚」)。一八七七年版を「Internet archive」で「十六章」は、ここから

『「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、……」事前に私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』「譚海 卷之十一 ギヤマンの事」として、フライングして電子化しておいた。必要と思われる読みは、そちらで附してある。]

 

 (三) 卵を暖むる物 支那人は、鸛(こう)と鵲(かさゝぎ)が、礜石《よせき》で、卵を暖め孵《かへ》すといふ(「博物志」四。「本草綱目」十)。日本でも、「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ。支那人は、礜石の性、熱く、昔し、之を埋めた地は、乾いて、植物、生ぜず、と信じ、明朝《みんてう》に、南京の乞食、其少量を嚥《のん》で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)。だから、鳥がそれで卵を孵すと云《いつ》たのだ。人參が物を溫むるとの信念に就ては、「本草綱目」一二、「大英百科全書」十一板一二卷、其條。一八七二年板、ラインド「植物界史」五二九頁。一八八四年板、フレンド「花及花傳」二卷六二八頁をみよ。

[やぶちゃん注:「礜石」多数の死者が出たというのでお判りかと思うが、これは砒素を含んだ鉱物の一つで、猛毒。鼠殺しなどに使われた。

「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。以上の「鸛」のそれが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本の画像のここの、後ろから二行目で視認出来る。

『「本草綱目」十』「金石之四」の「礜石」の記載。「漢籍リポジトリ」の同巻[032-24a]以下を見られたい。「鸛」はそこに、三度、出る。その[032-26a]に続いて「特生礜石」が立項されてあり、その「集解」の中に。『𢎞景曰舊説鵲』(☜)『巢中者佳鵲常入水冷故取以壅卵令熱今不可得』とある。

『「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ』国立国会図書館デジタルコレクションの『新編信濃史料叢書』第二十一巻(一九七八年信濃史料刊行会編刊)同書第五巻の中に神鳥としての鶴の挿絵があり、そのキャプションに当該内容が記されてあるのを視認出来る。

『明朝に、南京の乞食、其少量を嚥で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)』前者では確認出来なかったが、「中國哲學書電子化計劃」の「五雜俎」の電子化の「第五卷 人部」に、「京師謂乞兒爲花子、不知何取義。嚴寒之夜、五坊有鋪居之、内積草秸、及禽獸茸毛、然每夜須納一錢於守者、不則凍死矣。其饑寒之極者、至窖乾糞土而處其中、或吞砒一銖、然至春月、糞砒毒發必死。計一年凍死、毒死不下數千。而丐之多如故也。」とあるのが(ガイド・ナンバー「54」)確認出来た。]

 

 (四) 一旦失なふた活力を囘復する物 「甲子夜話」一七に、お江戶靑山新長谷寺の屋上に鸛が巢を構へたのを、和尙の不在に、寺男が、其卵を盜み煮食はんとした。處へ、和尙、歸り、雌雄そろふて、庭に立《たち》て訴ふる體《てい》に、和尙、僕を糺して、仔細を知り、煮た卵をみるに、熟し居《をつ》た。「これを、還さば、心を慰むに足らん。」とて、巢に戾しやると、三、四日の間だ、一つの鸛、みえず、然るに、なにか、草を啣(ふく)んで歸り來り、其卵、遂に、孵つた。其草の實、地に落ちて生ぜしをみると、イカリソウ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]だつた、と記す。「本草綱目」の淫羊藿《いんやうかく》はイカリソウで、能く、精氣を益し、筋骨を堅くし、眞陽不足者宜ㇾ之、久服之使人好爲陰陽上ㇾ下子、嘗有淫羊、一日百遍合、蓋食此草故名。〔眞陽の足らざる者は、之れを宜(よ)しとす。久しく服(ぶく)すれば、人をして、好んで、陰陽を爲(な)し、子、有らしむ。嘗つて、淫羊有り、一日(いちじつ)に、百遍、合(がふ)す。蓋(けだ)し、此の草を食せるなれば、故に名づく。〕とある。又、夫絕陽無ㇾ子、女人絶隂無ㇾ子〔丈夫(じやうぶ)の絕陽にして、子、無きもの、女人(によにん)の絕陰にして、子、無きもの〕に、功、有りと。鸛、蓋し、是を以てするか、と靜山侯は言《いつ》た。男女を暖ためて、子、有《あら》しむるから、卵をも、暖め、雛に孵らしむると心得たのだ。今も件《くだん》の寺に、かの草と傳說を傳え[やぶちゃん注:ママ。]、先年、三村淸三郞氏が、其葉を、寺僧より買ひ、予に贈られた。歐州にも、和漢產と別だが、此屬の草、數種あり。其一つ、ボリガラ・アルピヌムを、英語でバレン・ヲールト、不生殖草といふ。和漢產と反對で、之を食へば、一件を遂行し能《あた》はなくなるといふより、名づけたと承はる。氷洲《アイスランド》人は、鴉の卵を煮熟しても、親鴉が、或る黑石もて、よく復活せしむと信じ、蘇格蘭《スコットランド》にも同說あり。今の希臘人、亦、鷲が伏せおる[やぶちゃん注:ママ。]卵を、取て煮た後、其巢に返しおけば、親鳥がジョルダン河へ飛び往き、一小石を齎し、歸つて巢に納めて、卵を孵す、と、いひ、其石を採つて、邪視を避け、種々の病を治す。之を「緩(ゆる)め石」と呼《よん》で、屢ば、鍍金《めつき》して珍藏す、と(ベーリング・グールド「中世志怪」一六章。一九〇一年八月と、一九〇四年八月、龍動《ロンドン》發行、『マン』)。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」のそれは、先行する南方熊楠の「鴻の巢」の注に必要であったため、既に「フライング単発 甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」として電子化注してあるので、そちらをまずは見られたい。

「淫羊藿」「イカリソウ」は、モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ(錨草)属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum 当該ウィキによれば、『和名』『「錨草」』で、『花の形が和船の錨に似ていることに由来する』。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『地方によって、カグラバナ、ヨメトリグサともよばれ』、『中国』での『植物名は淫羊藿(いんようかく)』とあり、『花言葉は、「あなたを離さない」である』とあった。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名である』。『淫羊霍とは』、五~六『月頃の開花期に』、『茎葉を刈り取って天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ、キバナイカリソウ、海外品のホザキノイカリソウ(ホザキイカリソウ)も同様に使われる』が、『本来の淫羊霍は中国原産の同属のホザキノイカリソウ E. sagittatum』『(常緑で花は淡黄色)で』、『名は』、『ヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』とある。

『「本草綱目」の淫羊藿』同書の「淫羊藿」であるが、「漢籍リポジトリ」の「卷十二下」の「草之一」[037-25b]以下であるが、見て戴くと判るのだが、熊楠は、例によって漢文原文をパッチワークしており、ソリッドにはこの引用部は存在しないので、注意が必要である。但し、同書の述べている内容を改変はしていない。

「三村淸三郞」市井の書誌学者三村竹清(ちくせい 明治九(一八七六)年~昭和二八(一九五三)年)の本名。号のそれは、彼が京橋八丁堀で竹問屋を営んでいたことによる。後に屋代弘賢や曲亭馬琴のそれを真似て、『新耽奇会』を作ち、珍しいものを持ち寄って集い、その図録「新耽奇漫録」を纏めている。

「ジョルダン河」中東のヨルダン川。]

 

 全體、「この鷲石とは何物か」と尋ぬるに、「大英百科全書」一一板一六卷にある通り、其純正品は、褐鐵鑛の團塊、中空で砂礫を蓄へ、ふれば、ガラガラと鳴る物だ。ポストクとリレイが、英譯本プリニウス「博物志」三六卷三九章の註に、鷲石は、粘土を混じた鐵石の圓塊《ゑんくわい》で、或は、中空、或は、内に、他の石、又、少しの水、又、或る礦物末を藏むるとあるのが、普通品で、不純の褐鐵鑛だ。日本にも、大有りだが、たゞ之を鷲と連ねた話は、ない。古來、本草家や玩石家が、漢名「太一餘糧」、和名「スヾイシ」、又、漢名「禹餘糧」、和名「イシナダンゴ」とした兩品が、尤も歐州の鷲石に恰當《かふたう》[やぶちゃん注:過不足なく一致・相当すること。]し、漢名「卵石黃」、和名「饅頭石」といふは、やゝ似て、非なる者らしい。歐州の鷲石に種々ある如く、支那でも「太一餘糧」と「禹餘糧」の區別、判然たらず。因て、漫《みだり》に此樣《かやう》な石を「太一禹餘糧」と呼《よん》だと、「本草綱目」にみえる。『性之硏究』第一卷第六號二三二頁に、「鷲石」を「孕石」と書き有《あつ》たに就ては、本話の最末に拙見を述よう。一八七四年、パリ板、スブランとチエールサンの、「支那藥材篇」にも、既に、予輩、浙江沿岸地方より得た「禹餘糧」てふ物は、西洋で「鷲石」と云《いは》るゝ「水酸化鐵」で、大きさ、鴨卵《かものたまご》ほどで、中空に、多く、小石粒あり、下痢を止むるに藥用さる、とある。

 斯《かか》る物を、鷲に引合《ひきあは》した古歐人の心が、知れぬ樣だが、全く解說なきに非ず。此田邊町の北、三哩《マイル》[やぶちゃん注:約四・八三キロメートル。]斗《ばか》り、岩屋山の頂《いただき》に近く、岩洞中に觀音像を安置し、參詣、斷《たえ》ず。洞の内外の岩壁、自然に棚を重ねた狀をなし、鷲が巢《すく》ふに恰好だ。此岩壁と岩棚に、無數の小石を含みあり。何れも楕圓で、較《や》や扁たく、空なる腹内に、黃土、滿つ。「饅頭石」と稱ふ。此饅頭石を包んだ岩が軟らかいから、風雨でさらされて、饅頭石、離れ出で、或は、洞底に、或は、棚上に、時々、落留まる。信心の輩、拾ひ歸つて記念とし、佛壇抔に納め、不信心の者は、硯滴(みづいれ)に作り、又、小兒の玩物とし、或は、中の黃土を𤲿《ゑ》の具に試みたが、うまく行ぬと、きく。此近處に、鷲をみること、全くなきに非ねば、鷲が、此岩棚に巢くひしことも、なしと限らず。果して鷲が巢つたなら、かの饅頭石が、多少、其巢内に見出された事も有《あら》う。扨、ボストック及びリレイ英譯、プリニウス十卷四章註に、鷲石、乃《すなは》ち、「含鐵《がんてつ》子持ち石」の片塊《へんくわい》が、たまには、鷲の巢の中より見出ださるゝは、有り得べきことだ、と言ひおり[やぶちゃん注:ママ。]、凡て、人間の判斷は、必しも、一々、正確嚴峻な論理を踏むを、またず、多くは、眼前の遭際《さうさい》に誘はれ、左右される。既に以て、ベーン先生の「論理書」にも、數日間、或る地に滯在中、晴天斗り、續いたら、其地は、年中、晴天のみである樣《やう》心得た人、多く、彼《かの》地は、いつも天氣のよい所など、よくいふ物、と說かれた。其と齊《ひと》しく、當初、此石を鷲石と名づけた地が、上述、田邊近所の岩屋山の如く、自然に、鈴石、多くある岩山に、鷲が巢くひ、其巢の内に、偶然、鈴石を見出だす事、一度ならず、阿漕《あこぎ》の浦のたび重なりて注意すると、其石中に、又、小石を藏せるを見て、石が子を孕んだ物と誤認し、延《ひい》て、鷲が、此石に、其卵を孵す力、あり、と知《しつ》て、巢に持ち込んだと、合點したゞろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「岩屋山の頂に近く、岩洞中に觀音像を安置」現在の和歌山県田辺市稲成町にある「岩屋観音」(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像の、これとか、これ、或いは、これや、これを見ると、熊楠が言っている崖面の特異な楕円状の穴群が確認出来る。なお、サイト「AND LOCAL」の『和歌山県・田辺市 絶景と厳かな境内「岩屋山 観音堂(観音寺)」へ行ってきた。』によれば、『ここは今から約』八百五十『年ほど前、那智山の滝で苦行された文覚上人がその後、牟婁地方をまわられた時、一夜の夢に霊感をおぼえて岩屋山に立ち寄られ、そして、大岩窟に念持仏の聖観世音像をおまつりしました』。『これが観音密寺の始まりと伝えられて』おり、『その後は、仏徳高い厄除け寺として、人々の信仰を集めてきましたが、昔、小栗判官兼次が、当山に参籠し』、『観音霊夢によるお護りをうけたと語り継がれていることなどによっても、古くから熊野信仰につながる霊場として広く世に知られていたことがうかがわれます』。『今もなお、『岩屋山』の名で親しまれ』、『健康長寿、交通安全、学芸成就を願ってお参りする人々が後を立ちません。特に、ひき岩群に設けられた新西国』三十三『番霊場を巡れば、その眺めは絶景かつ雄大であり、大自然の静けさと霊気ただよう寺院として感慨そぞろ深いものがあります。高山寺の末寺であり、天正年間』、『豊臣勢による熊野侵攻の際には、高山寺の尊像をここに移して災禍をまぬがれ、太平洋戦争末期にも、万一を考えて再度の避難地となった』とあった(最後に『(岩屋山説明書より)』引用とある)。]

 

 此樣《こん》な石に催生《さいせい》安產の奇効ありと信ずるには、必しも、その偶然、鷲巢内にあるを見るを須《ま》たず。そは、和漢共、斯る石を右樣の効ある物と信じ乍ら、鷲と何の關係ありと說かぬで、知れる。蓋し、支那人は、烏麥(からすむぎ)が、至つて生え易く、熟して落ち易きをみて、催生劑とした如く、饅頭石の内に、土や砂礫を藏め、宛然、母の體内に子ある如きをみて、是にも、催生安產の効ありと、したのだ。少しく類例を擧《あげ》んに、米國のズニ印甸《インジアン》の女は、產に臨んで、生(なま)で豆を嚥む。豆が、やすやすと喉を滑り下《おり》る樣に、子も安く產まるゝといふのだ。ニゥギネアのコイタ人は、山の芋の收穫を增す爲め、畑に、その種芋(たね《いも》)の形した石を栽《う》え[やぶちゃん注:ママ。]、バンクス島人は麪包果《バンのみ》を殖やさん迚、呆れる程、此果に酷似した珊瑚石を植《うう》る(「本草綱目」十。「重修植物名實圖考」一。一九一九年十一月『マン』八六項。一九一四年板、バーン「民俗學必携」二四頁。一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁)。

[やぶちゃん注:「烏麥(からすむぎ)」単子葉植物綱イネ科カラスムギ属 Avena の食用にされる四種、或いは、その代表種であるエンバク Avena sativa

「ズニ印甸」アメリカ・インディアンの一民族。ニューメキシコ州中部と、アリゾナ州との州境附近に住む。独自の言語を有し、その起源や初期の歴史は知られていない。トウモロコシ農耕を主な生業とし、銀細工・籠細工などに優れている。社会は 十三の母系氏族から成るが、主な役職には男性が就く。複雑な儀礼体系を有し、男性が神乃至は精霊に扮して、仮面や衣装を着ける「カチーナ踊り」も残されているが、殆んどが現代社会に同化されてしまった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「コイタ人」パプア・ニュー・ギニアの中部地方、ポート・モレスビー(グーグル・マップ・データ)一帯の乾燥して痩せた海岸地帯に住んでいる少数民族。元々は内陸部に住み、海岸地帯の部族と交易に携わっていた。白人と接触後、海岸地方に移住し、オーストロネシア語系の言語を話す「モツ族」と共存するようになった。そのため、現在では、彼等固有の言語を話す者は非常に限られ、若年層はトク・ピシンや、英語を好んで話す傾向にあり、村での生活も文化面もコイタ族特有のものは殆んど残っていない(当該ウィキに拠った)。

「山の芋」パプア・ニュー・ギニア周辺で知られる古い芋類は、タロイモ(単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科 Araceaeのサトイモ類)・ヤムイモ(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea のヤマノイモ類)である。現在はそれに、タピオカの原料として知られる、キントラノオ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ  Manihot esculenta も挙げられるが、これは、後に南米から移入されたものであり、しかも、木本低木であり、狭義の日本人のイメージする「芋」類とは、ちょっとズレがある。

「バンクス島人」バンクス諸島(現在のバヌアツ共和国の北部にある群島)の先住民。

「麪包果」常緑高木でポリネシア原産のクワ科パンノキ属パンノキ Artocarpus altilis の実。当該ウィキによれば、『ほどよく熟した実を調理したとき』には、『焼きたての穀物のパン』『のような触感』があり、風味は『じゃがいもに似ている』とあった。

『一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の‘The Melanesians : studies in their anthropology and folklore ’ (「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読め、指示されたページは、ここと、ここ。前の部分には石の霊性が語られてあり、後の部分では、珊瑚石がパンの実に驚くほど似ているという記載がある。]

 

 そこで、鷲石を、石が子を孕んだ物、又、鷲が子を孵す爲め、巢へ持込だ、と解して、妊婦に佩びしめ[やぶちゃん注:底本では「ネしめ」であるが、意味不明なので、「選集」で訂した。]、試るに、利く場合も、有る。扨は、產婦に偉効ありと判斷し、評判高まるに付ては、催生安產と、殆んど、同功一體なる、卵を暖ためるの、卵の破壞を禦ぐの、煮拔かれたのを、再活せしむるのと、雜多の奇驗《きげん》も、此石に附會さるゝは、知れ切つた成行き。人間に取ても、此石のお蔭で、妻が安產すれば、新產婦は、一生の大厄を免れて、命、維《こ》れ、新た也。萬機《ばんき》改造して、特樣《とくやう》の妙趣、あな、にへやう[やぶちゃん注:「あな」は感動詞だが、参道の「穴」を掛け、「にへやう」は「煮えやう」か。]、まして、女などの企て及ばぬ備え[やぶちゃん注:ママ。]、多し。去《され》ば、後漢の安世高譯出「佛說明度五十校計經《ぶつせつめいどごじふかうけいきやう》」に云く、佛言。是人譬如婬泆女、上頭姪決自可、已妊身不ㇾ知胞胎兒在腹中日大、幾所婬泆、妬女爲復婬泆自可、至兒成就、十月當ㇾ生、兒當ㇾ轉未ㇾ轉、當ㇾ生未ㇾ生、其母腹痛、自慙自悔當ㇾ墮、痛時妬女啼聲聞第七天、「伊也土言布乃仁私多可羅土漸土宇美」、兒生巳後其母痛愈、便復念淫泆、「禰太布利で夫仁佐波流公事工み」、便不ㇾ念ㇾ慙不ㇾ念ㇾ痛、便婬泆如ㇾ故、「阿太々女氏吳奈土足遠佛津可美」、如ㇾ是苦不ㇾ可ㇾ言、妬女亦不ㇾ能自覺苦痛。「於是夫茂嬶阿殿比女波自米駝土薄加遠伊比」〔佛、言はく、「是の人は、譬へば、婬泆妬女(いんいつとぢよ)のごとし[やぶちゃん注:「婬泆」淫(みだ)らな男女関係。]。上頭(としわか)くして、淫泆を、自(みづか)ら可とす。すでに姙身(みごも)るも、胞胎兒(はうたいじ)の、腹の中に在つて、日に大(おほ)きになるを知らず、幾所(いくばく)の淫泆、妬女、復(ま)た、淫泆を爲(な)すを自ら可とす。兒(こ)の成就するに至れば、十月(とつき)にして當(まさ)に生むべし。兒、當に轉ずべくして、未(いま)だ轉ぜず、當に生まるべくして、未だ生まれず。其の母、腹痛して、自ら慙(は)ぢ、自ら悔(く)ゆ。墮(お)つるに當りて、痛む時、妬女の啼く聲は、第七天に聞こゆ。「いやと言ふのに、したからと、やつと、うみ。」。兒、生まれ已然(をは)りて後(のち)、其の母、痛み、癒(い)ゆれば、便(すなは)ち、復た、婬泆を念(おも)ふ。「ねたふりで、夫(をつと)に、さはる、公事(くじ)だくみ。」。便(すなは)ち、慚(はぢ)を念(おも)はず、痛みを念はず。便ち、復た淫泆なること、故(もと)のごとし。「あたためて、くれなと、足を、ぶつつかみ。」。是(か)くのごとき苦しみ、言ふぺからざるに、妬女は亦、自ら苦痛を覺(さと)る能はず。是(ここ)に於いて、夫(をつと)も 嬶(かかあ)殿、ひめはじめだ、と、ばかをいひ。」。〕妻が安產、夫は大悅、苦んで、泣き、產んで、苦を忘れ、世にトシゴを、引つ切りなくうむすら、少なからず。隨つて、孕んでは、鷲石を佩びて、安產、產んで後は、之を帶びて、夫妻相好愛す。是ほど結構な事なく、鷲石ほど、重寶な物、なし、と信ずるに及んだのだ。

 中世歐州で、普く讀まれた「動物譬喩譚(フィシヨログス)[やぶちゃん注:ルビでなく、本文。]」原本の第十九譬喩《ひゆ》は、ヴュチュールが、石の内に、又、石を放在する者を以て安產する話だ。ヴュチュールは、種屬、多般で、支那にも有《あつ》て、鵰《てう》と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭《とくとう》故、「博物新編」には「禿鷲《はげわし》」と譯した。鷲と近類だから、鷲石の話を、禿鷲が安產を得ん爲め用ゆる石に振替《ふりかへ》たのだ。プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女《はらみをんな》の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言《いつ》た。一六四八年、ボノニア板、アルドロヴァンジの「礦物集覽」四卷五八章に、大アルベルツスから引て述た、禿鷲體内に生ずるクヮンドリなる頑石《ぐわんせき》は、詳說を缺きおる[やぶちゃん注:ママ。]が、禿鷲の安產石で有《あら》う。

[やぶちゃん注:「動物譬喩譚(フィシヨログス)」フィシオロゴス(ラテン語転写:  Physiologus )は、中世ヨーロッパで、聖書と並んで広く読まれた教訓本。表題はギリシア語で「自然を知る者・博物学者」の意。ヨーロッパでは五世紀までに訳されたラテン語版が流布した。参照した当該ウィキによれば、『さまざまな動物、植物、鉱物の容姿、習性、伝承が語られ、これに関連して宗教上、道徳上の教訓が、旧約聖書や新約聖書からの引用によって表現されている。とくにラテン語版は、のちに中世ヨーロッパで広く読まれる動物寓意譚』「ベスティアリウム」『(Bestiarium)の原型になったと言われる』とある。

「ヴュチュール」「種屬、多般で、支那にも有て、鵰と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭」「禿鷲」「鷲と近類」熊楠は民俗史上のそれを言っているものの、ここでの謂いは鳥類学上からは、当時の時点でも、既にして誤りが多過ぎる。まず、「ヴュチュール」は英語“:vulture”で、腐肉を漁る猛禽類を広く指す俗称であって、特定の鳥の種名ではなく、ハゲワシ類やコンドル類を指す。その「ハゲワシ」であるが、これはタカ科 Accipitridaeの多系統の科を指す。分類学的になかなか決定がなされなかったが、現行では、タカ科のハゲワシ亜科 Aegypiinae及びヒゲワシ亜科 Gypaetinaeに属する種に「ハゲワシ」類は限定されている。しかし、では、中国語でそれを指すと熊楠の言っている「鵰」(現代仮名遣「ちょう」)は、実際には何を指すかと言えば、タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、オオワシ(タカ科オジロワシ属オオワ Haliaeetus pelagicus)・オジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)・ハクトウワシ(タカ科ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus)等のように、比較的大きめの種群を漠然と指す通俗通称なのである。而して、教義に日本で「鵰」は何に当てられるかというと、本邦にも棲息する大型であるタカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 、漢字表記で「角鷹」「熊鷹」「鵰」がそれなのである。中文ウィキの同種のページを見ると、「鷹鵰」が当てられていることからも、クマタカで納得されるのである。以上から、「クマタカ」は熊楠の言うような「コンドル」類及び訳語の「禿鷲」類とは「同類」ではないのである。コンドルはタカ目コンドル科コンドル属コンドル Vultur gryphus であって、以上の意味限定から、コンドルは絶対に「鵰」ではないし、ちょっと禿げてるからと言っても、現行の狭義の分類学上の狭義の二科の「ハゲワシ」類とも、当然のごとく、全然、同類ではないのである。因みに、ヨーロッパ南部からトルコ・中央アジア・チベット・中国東北部に分布し、本邦には迷鳥として北海道から沖縄まで各地で記録があるタカ科クロハゲワシ属クロハゲワシ Aegypius monachus は頭部に羽毛がなく、灰色の皮膚が露出している見た目で確かに正統に「禿げた鷲」であり、嘴も太く、鉤状になっていて先端部が黒いという、如何にもな、正統な「鵰」に属する種(で全長一~一・一〇メートル、翼開長二・五〇~二・九〇メートルで、本邦で記録されたタカ科の鳥の中で最大である)がおり、このクロハゲワシの旧和名は非常に困ったことに実は「ハゲワシ」だったという悩ましい過去の事実もあるのである。

『プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言た』前掲訳書でも『ハゲタカの羽』となっている。問題ない。広義の「ハゲタカ」に該当する現生種は二十三種おり、タカ科ハゲワシ亜科Aegypiinaeには、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに生息する十六種が含まれているからである。]

 

 爰で、鷲を性慾と蕃殖に關して有勢の物とした話が、諸方に少なからぬに付て述べ置《おか》う。先づ、古希臘の傳說に、トロイ王トロスの子ガニメデス、艷容無双で、大神ゼウス、之に執心の餘り、鷲をして、取て天上せしめ、之を酒つぎ役の寵童とし、神馬二匹を、其父に償ふたという事で、歐州の美術品に古來大鷲がこの少年を捉つて天上するところが多い。ローマで少年の美奴酒の酌を勤めるを、ガニメデス、それから轉じて、カタミツスと呼でより、英語で男色を賣る者をカタマイトといふ(スミス「希﨟羅馬傳記神話辭彙」二、及び「ヱブスター大字書」)。ツラキア生れの名娼ロドピスは、曾て動物訓話作者イソップと共に、サミア人ヤドモンの奴《ど》たり。後ち、サミア人ザンデスの奴となり、埃及の大港ナウクラチスで、藝妓商賣をした。一日《いちじつ》、此女、浴する間に、鷲がきて、其靴一つを摑み去り、埃及王が裁判しおる前に落した。王、其事の奇にして、其靴の美しきに迷ひ、持主を尋ねて息《やま》ず、遂に此女を探り當て、后とした。ロドピスは「頰赤」の義で、わが邦では、川柳にも「頰赤の匂比囊《にほひぶくろ》で防ぐ也」と有《あつ》て好評ならぬ[やぶちゃん注:「好評でならぬ」の意。]。北印度で韋紐《ヴイシユニユ》[やぶちゃん注:読みは「選集」のルビに拠った。]神は金鷲に乘ると信じ、翼ある美童像もて其鷲を表はす所が、希臘のガニメデスに似おる[やぶちゃん注:ママ。](一八四八年發行『ベンガル皇立亞細亞協會雜誌』一七卷五九八頁)。

 南印度のトダ人、傳ふらく、老媼ムラッチの頭に、鷲が留まり、其より、此婆、孕み、男兒を擧たのが、コノドルス族の先祖、と。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」に高名な、猴王ハヌマンの緣起に、アヨジャー王ダシャラタ、子なきを憂ひ、牲《にへ》を供えて[やぶちゃん注:ママ。]禱《いの》るに、牲火中《にへのくわちゆう》に、神、顯はれ、天食パノヤス[やぶちゃん注:神の食物の名か。]を授けて、其三妃に頒たしむ。其時、一妃の分を、鷲が掠め去《さつ》て、アンジャニ女《ぢよ》の手に落す。此女、亦、子なきを悲しみ、苦行中だつた。今、天食を得て、甚だ、喜び、之を食ふと、忽ち、孕んで、ハヌマンを生《うん》だ、とある。

[やぶちゃん注:『南印度の「トダ」人』インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。]

 

 所謂、金鷹は佛經の金翅鳥《こんじちやう》で、佛說に、昔し、ビナレ城に、タムバ、治世の時、釋尊の前身、金翅鳥王に生まれ、年、若し。一日、少年に化《くわ》してビナレに往《ゆ》き、王と博戲《ばくち》するを、宮女蘿等、其美貌に見とれ、王后に語る。他日、化《ばけ》少年、又、往《い》つて、王と博戲する時、后、盛裝して入《はいつ》て見る。少年、亦、王后の麗容に驚き、忽ち、象牙の英語[やぶちゃん注:ivory。洒落。]で相惚《あいぼ》れときた。鳥王、乃《すなは》ち、暴風を起し、天地晦冥、宮人、愕き、走り出るに乘じ、后を摑んで、自分が住む龍島につれ行て、之と淫樂し續く。王、其樂人サツガをして、遍く海陸に后を搜さしむ。サツガ、海商の船に乘つて、金島に渡る。船中の徒然を慰むる爲め、商人どもサツガに奏樂を勸めると、易い御用なれど、予が海上で奏樂したら、魚、驚いて、船を破るべし、といふ。一向、信ぜずに、强いられ、止《やむ》を得ず、絃を鳴《なら》すに、魚類、大騷ぎし、其内の大怪魚一つ、飛揚《とびあが》つて、船に落ち、二つに破り了《をは》る。鳥王は、后を盜んで、飽く迄、之と淫樂し乍ら、知らぬ顏して、每度、ビナレ王と博戲にゆく。此時も、丁度、其方《そつち》へ行《いつ》た留守中で、后は技癢《ぎやう》[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくて、うずうずすること。]の至りに堪《たへ》ずと有《あつ》て、所詮、女房にやもちやなさるまい抔と、うなりつゝ海濱に出步く内、本夫に仕へた樂工が、船板を便りに此島え[やぶちゃん注:ママ。]流れ寄《よつ》た處へ、行合《ゆきあ》ひ、事情を聞き、猴《さる》にかき付《つか》れたんぢやないが、逢《あひ》たかつたと、抱伴《だきつ》れて宮中に歸り、十分、保養し、本復《ほんぷく》せしめ、美裝・美食に手を盡して、之と淫樂し、「斯《かか》りける處え[やぶちゃん注:ママ。]亭主歸りけり」の警句を忘れず、注意して匿しおき、鳥王、出で行けば、又、引出《ひきだ》して、サツガと歡樂した。斯《かく》て一月半の後、ビナレの海商、薪水《しんすい》を求めて、島に上りしに、便船して、王宮に戾り、鳥王、來つて、タムバ王と遊ぶを見、絃を皷《なら》して、「王后、鳥王に盜まれ、海島にあり、自分、其島へ漂著して、飽く迄、王后と歡會した。」事を謠ふた。金翅鳥王、之を聞《きい》て、后の好淫、厭足なきに呆れ、怒り去《さつ》て、后を伴れ來て、タムバ王に返し、再びビナレえ[やぶちゃん注:ママ。]來なんだ、とある。唐譯の、此譚は、これと、大分、差《ちが》ふ。商船、難破して、商主、死し、其妻、一板を便り、海洲に漂著して、金翅鳥王の妻となり、其子を生む譚、あり。又、梵授王が、妙容女を妃とし、其貞操を全うせしめん爲め、金翅鳥王に命じて、晝は、之を、海島に置き、一切、人間に見られざらしめ、夜は、之を、王宮に伴《つれ》來たらしめ、天に在ては願わくは比翼の鳥と契りし内、速疾《そくしつ》てふ名の樂工が、サツガ同然の難に逢《おふ》て、其島に上り、王妃に通じ、共に、鳥王を欺き、王宮え[やぶちゃん注:ママ。]つれ歸り、姦通の事、露はれて、阿房拂ひになり、賊難に遇《おう》て、妃は、賊魁の妻になり、情夫、速疾を殺し、種々《いろいろ》と、淫婦に、ありたけの醜行《しうぎやう》を重ねた後ち、野干《やかん》の謀《はかりごと》に遵《したが》ひ、恆河《ごうが》に浴して、改心、易操[やぶちゃん注:意味不明。]したと稱し、再び、王に迎へられて、大夫人と成《なつ》た次第を述べある。其から、本邦の羽衣傳說に似た希臘の神話、有《あつ》て、女神アフロジテが、川に浴するを、其甥ヘルメス神が垣間見《かいまみ》、鷲をして其衣を攘《かす》め去《さら》しめ、「望みを叶へたら、返しやる。」とて、之に通じたといふ。セストス市の少女、鷲を育つると、每度、鳥類を捉へ來たり、返禮した。少女、死して、屍を燒く火中に、鷲が投身して、殉死し、市民、碑を建て、之を旌表《せいひやう》[やぶちゃん注:人の善行を褒めて、世に広く示すこと。]したと有《あつ》て、何にしろ、鷲は、美童や婦女ずきとされた物だ(一九〇六年板、リヴァース「トダ人篇」、一九六頁。一九一四年、孟買《ボンベイ》板、エントホヴェン「グジャラット民俗記」、五四頁。カウエル「佛本生譚」、三卷三六〇語。「根本說一切有部毘奈耶雜事」、二九。一八七二年板、グベルナチスの「動物志怪」、二卷一九七頁。プリニウス「博物志」、十卷六章)。

[やぶちゃん注:『リヴァース「トダ人篇」、一九六頁』イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌‘The Todas’ 。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で原本が読め、ここが当該部。]

 

 鷲と子孫繁殖を連ねた信念は古羅馬に在《あつ》た。アウグスツス帝がリヴィア・ズルシルラを娶つた直後、鷲が白牝鷄を后の前垂れに落し、其牝鷄が月桂枝を銜《ふく》み居《をつ》た。卜《うらな》ふと大吉兆と知れ、其枝を植ると大森林となり、牝鷄を畜ふと大繁殖した。因て其所を牝鷄莊と號した。ネロ帝の末年、其鷄、皆な、死に、月桂林は萎み亡《う》せたので、「帝統、絕ゆべし。」と知《しつ》た想《さう》な。鷲に摑み去れた幼兒が名人となり、或は著姓の祖と成た例、日本に少なからず。奈良大佛の創立者良辯僧正、攝州高槻の鷲巢見氏の祖等だ。印度にも大王の后となつた太陽姬(スリア・バイ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は、貧な牛乳搾り女の娘で、一歲の時、老夫婦の鷲に捉去《とりさ》られ、其巢で養はれたといふ。(グベルナチス、二卷、一九六頁。「元亨釋書」本傳。「翁草」三。一八六八年板、フレール「デッカン舊日譚」六章)。

[やぶちゃん注:「グベルナチス、二卷、一九六頁。」この部分は「選集」では『グベルナチス、一巻一九六頁。』となっているので、「Internet archive」で調べたところ、第二巻で正しいことが判明した。ここである。そこには確かに、「アウグストゥス家の繁栄の瑞兆として、嘴に月桂樹の枝をくわえた白い雌の鷲鳥、リヴィア・ドルシッラの膝の上に落ち、その枝が植えられ、鬱蒼とした月桂樹の森林と成った。牝鶏は非常に多くの子孫を産んだことから、この出来事が起こった別荘は「雌鶏別荘」(“Villa of the Hen”)と呼ばれるようになった。」とあって、「ネロの生涯の最期の年、鶏は、総てが死に、月桂樹もまた、総て枯れた。」とあるから、間違いない。この平凡社に「選集」は、総てが、原本に当たって厳密に検証されて校訂されているわけではない(今まで何度も煮え湯を飲まされて、延々、徒労の探索をさせられたりした経験がある。専門家が校訂編集している訳ではないと覚悟された方がよく、例えば、総ての漢文部は、全部が本文(白文・訓点附漢文)なしで訓読されてあるものの、この訓読、正直な感想を言うと、漢文の苦手な日本文学の大学生でも、こうは決して読まないと、呆れるおかしな部分が、多々、見られるのである)ので、注意が必要である。]

 

 一九〇九年板、ボムパスの「サンタル・パルガナス民談」、九六章は、雌雄の禿鷲が人の双生兒を養ひ、二兒、步み得る程に成《なつ》て、高い木の上から、地に下《おろ》し、『「カーラゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、アサンの下に殘されて、夫婦の鷲に育てられつる」巡禮に御報謝を。』と、唄を敎えた[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。蓋し、其母、カーラ果を集めに行《いつ》て、林中で双生兒を生《うん》だが、折角、取つた果物を、持還《もちかへ》らずば、明日が過《すご》されず、子と果物と兩持ちすべき力も、なし。「儘よ。食ひさえ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。多発する。]すれば、子は、又、出來る。運さえよくば、引還《ひきかへ》し來るまで、活きおれ。」と言《いつ》て、アサンの葉を二兒に被せおき、果物を負ひ歸つた間だに、禿鷲夫婦が取去《とりさつ》て育て上《あげ》たのだ。扨、二兒がひよろつき乍ら、件の唄を張上《はりあ》げ、村に入《はいつ》て乞食すると、ちつとの物になるを、巢に持歸《もちかへ》つて、生活した。禿鷲、かねて、二兒に敎えて、其親の住《すむ》村え[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、往《ゆか》ざらしめた。一日、二兒、乞食に出で、「なんと、鷲が『往くな』と云た方え、往《いつ》てみようでないか。」と、相談、決して、彼《かの》村へ往き、唄ひ𢌞り、生みの兩親の家え、くるを、見れば、小さい巡禮、「ドレドレ、御報謝進上。」と、盆に、しらけの志《こころざし》、イヨーと、懸け聲迄は書いてゐないが、其母親が、お弓もどきに出て聞くと、唄は根つから吾が事なり、彌《いよい》よ、尋ねて、吾子と知れ、大悅びで、夫と共に、二兒を大籃《おほかご》にふせおいた體《てい》、恰《あたか》も、安珍を道成寺の鐘下に匿した如し。禿鷲は執念深いからどうせ只はおくまい、ドウモ安珍ならぬと案じたのだ[やぶちゃん注:「安心」に引っ掛けた洒落。]。果して、禿鷲、此家え、舞ひ來たり、屋根を穿つて、飛び入り、籃を覆《くつが》へして、二兒を捉へた。父母も、「やらじ。」と二兒を執《とら》へ、エイ聲《ごゑ》出して引合《ひきあ》ふたので、二兒の體が、二つに割れ、父母は、泣く泣く、手に留《とどま》つた半分の屍骸を、火葬した。禿鷹も、片割れの死骸を持歸《もちかへ》つたが、自分が育てた者を、食ふに忍びず、火葬の積りで、巢に火を掛《かけ》ると、燒けおる[やぶちゃん注:ママ。]屍骸から、汁が迸《ほとば》しり、其口に入《はい》た。それが無上に旨《うま》かつたので、燒いてしまふは惜《をし》い物と、殘つた屍骸を引出して食《くつ》たのが、この鳥、人屍《じんし》を食《くら》ふ濫觴だ、といふ次第を說《とい》た者である。誰も知る如く、パーシー人は、必ず、其屍を、此鳥の腹に、葬る。

[やぶちゃん注:書名の中の「サンタル・パルガナス」は“Santal Parganas”で、インド東北部の地方名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「アサン」インド・ミャンマー・タイを原産とし、熱帯アジア大陸部に植生する高木落葉樹であるフトモモ目シクンシ(使君子)科Combretaceaeモモタマナ(桃玉菜)属クチナシミロバランTerminalia alata  個人サイト「タイの植物 チェンマイより」の同種のページによれば樹高は二十~三十メートルに達し、葉は単葉で、ほぼ対生し、長さ十~十五センチメートルの楕円形を成す。本種の実は翼果で、五つの翼を有する。但し、『大きく』、『あまり遠くへは飛ばないで、樹下に落下していることが多い』とあり、「その他の名称」の項に『ヒンディ-語・ベンガル語Asan』、『英名AsanBurma laurel』とあって、この「アサン」は現地での正統な名であることが確認出来る。また、『仏典の植物 タイ語HPには本樹はバ―リ語名アッチュナと』あるとされ、『そして「仏典の植物」(満久)には』『本樹は梵語名アサナ漢訳仏典名-阿娑那(あさな)と』、『記載されている』ともあった。

「お弓」母と娘の関係から浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の母「お弓」(娘は「おつる」)のことだろう。

「パーシー人」ヒンディー語で、「パールシー」「パールスィー」と音写される、インドに住むゾロアスター教の信者を指す語。]

 

 歐・亞共に、獸畜が、人の子を育て上げた譚、多し。アタランタが牝鹿に、シグルドが牝熊に、ロムルスとレムスの双兒が牝狼に乳せられ、后稷《こうしよく》が牛・羊に養はれ、楚の若穀於擇《じやくこくおせん》が牝虎に育てられた抔だ(コックスの「民俗學入門」、二七五頁。スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」。「琅邪代醉編」七)。こんな例、今もなきに非ざれば、鷲や禿鷲が食ふ積りで捕へ去《さつ》た人の兒を、子細有《あつ》て食はず、其内、慈念を生じて、養ふ處を、人が見付け、救ふて、己れの子とするは、丸で無い事でないと惟《おも》ふ(一八八〇年板、ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下。大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節[やぶちゃん注:後の資料は「選集」のものを参考にして追補してある。])。此一事は、「鷲が、人間繁殖に關し、力あり。」と信念の唯一の源因たらぬ迄も、大《おほい》に之を强めたは爭ふべ可らず。

[やぶちゃん注:「アタランタ」ギリシア神話に登場する女性の英雄で、俊足の美貌の女狩人として知られるアタランテー(ラテン文字転写:Atalanta)であろうが、当該ウィキによれば、彼女は牝熊に乳を与えられている。そこに、また、『アタランテーは』『カリュドーンの王子』『メレアグロスと関係を持っていた。彼女は後にパルテノパイオスを産み』、『パルテニオン山に捨てた。このとき』、『テゲアー王アレオスの娘アウゲーもヘーラクレースの子を捨てており、牧人たちは』二『人の赤子を拾って養育し、前者をアタランテーが処女を装ってパルテニオン山に赤子を捨てたことからパルテノパイオスと名づけ、後者の子を牝鹿』(☜)『が養っていたことにちなんでテーレポスと名づけた』という話と熊楠は混同したものかも知れない。

「シグルド」不詳。ゲルマン神話に登場する戦士ジークフリート(ドイツ語: Siegfried)は古ノルド語では「シグルズ」(Sigurðr)であるが、彼のことか。しかし、彼が熊に乳を受けたという記述は、ネット上には見つからない。

「后稷」当該ウィキによれば、『伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は棄、号は稷。不窋の父。后稷はもともと棄』『(捨てられし者)という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。后稷の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという』。「史記」の「周本紀」に『よれば』、伝説の聖王『帝嚳』(こく)『の元妃(正妃)であった姜嫄』(きょうげん)『が、野に出て』、『巨人の足跡を踏んで妊娠し』、一『年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが』、『牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたが』、『たまたま山林に人出が多かったため』、『捨てられず、氷の上に捨てたが』、『飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。棄と名づけられた』。「山海経」の「大荒西経」に『よると、帝夋』(しゅん)『(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる』。『棄は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷』『の官をつとめ、邰』(たい)の地に『封ぜられて、后稷と号した』。「魏志」の「東夷伝」の「夫餘」には、『「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。その』後、『子を生んだ。王は、その子を溷』(こん)『(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水』(しえんすい)『までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで』、『橋をつくり、東明は渡ることができた。そこで魚鼈』(ぎょべつ)は、『ばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘』(紀元前一世紀から紀元後五世紀に満州北部(中国の東北部)に存在した国。「扶餘」とも書く。住民はツングース系の狩猟農耕民族で、一世紀から三世紀半ば頃までが全盛期で,東満州・北朝鮮一帯に発展したが、後、高句麗や鮮卑(せんぴ)に圧迫されて衰え、四九四年、勿吉(もつきつ)に滅ぼされた)『の地に都を置き、王となった」とある』。一方、「史記」巻四の「周本紀」には、『「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐』(ふ)『まんと欲す。之を踐むや、身』、『動き、孕める者の如し。居ること』、『期にして』、『子を生む。不祥なりと以為』(おも)い、『を隘巷』(あいこう:裏通り)『に棄つ。馬牛過る者』、『皆な』、『辟』(さ)『けて』、『踐まず。徙』(うつ)『して』、『之を林中に置く。適會』(たまたま)、『山林』、『人』、『多し。之を遷』(うつ)『して』、『渠中の冰上』(溝の中の氷が張ったその上)に『棄つ。飛鳥、其の翼を以て』、『之を覆薦』(ふくせん:覆って敷いてやること)『す。姜原』(きょうげん)『以て』、『神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め』、『之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」と』あって、『牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余』(「夫餘」と同じ)『と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した』「六度集経」にも『あることを指摘し、「此種の伝説の播敷」(はふ:広める)『も頗る広き者なることを知るべし」とする』とある。熊楠は「牛・羊に養はれ」たとするが、以上を読むに――鳥に養われた――とするのが、適切である。

「若穀於擇」「じゃくこくおたく」(現代仮名遣)と読んでおく。「擇」の字は不審だが、これは、春秋時代の楚の公族で宰相(令尹(れいいん))であった闘穀於菟(とう こくおと/とう こうおと 生没年不詳)のことである。ウィキの「闘穀於菟」によれば、は『姓は羋』(び)、『氏は闘、諱は穀於菟』(「穀」は「乳」の、「於菟」は「虎」の意)、『字は子文。楚の君主の若敖』(じゃくごう)『の子の闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相といわれる。以下、子文の名で記す』。『闘伯比が鄖子』(うんし)『の娘と密通して、子文が生まれた。娘は子文を雲夢沢』(うんむたく:注に『現在の洞庭湖の北に広がっていた沼沢地の名前。現在は上流からの堆積物により埋没し、江漢平原となっている』とある)『の中に捨てたが、狩りに出た鄖子が虎に育てられた』(☜)『子文を見つけ、娘が育てることを許したとされる』。『紀元前』六六四『年、令尹に抜擢されると、私財を投じて楚の財政を救った。成王は、貧乏で食いつなげなくなった子文のために何度か俸禄を増やそうとしたが、そのたびに子文が下野し、取り消すと戻ってきたので、遂には諦めたという。代わりに、子文が登朝するたびに』、『肉の干物一束と朝飯一籠が贈られ、この習慣は』、『のちに楚の令尹に受け継がれていくようになった』。『弟の闘子良の子の闘椒(子越)が生まれた際に』は、『「必ずこの子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、声は山犬や狼のようである。きっと我々、若敖氏に害をなすだろう」と言ったが、子良は聞き入れなかった』。『臨終の際には一族を集めて「子越が政治を執るようになったら、楚を離れて難を逃れるようにせよ」と遺言し、「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」と泣きながら、若敖氏の滅亡を予言した』。『子文の死後、子越は予言された』通り、『名君荘王に叛いて』、『若敖氏を滅亡させた。しかし、荘王は「あの子文の家系が途絶えたとあっては、私は人に善行を勧めることができなくなる」と言って、国外にいて』、『乱に加担しなかった一族の闘克黄に跡を継がせた』とある。

『コックスの「民俗學入門」、二七五頁』イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ

『スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。

「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の官吏張鼎思(ちょうていし)の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

『ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下』アイルランドの地質学者ヴァレンチン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)が一八八〇年にロンドンで刊行した ‘Jungle life in India’。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。狼に育てられた少年の話から入っている。

『大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節』「青空文庫」の南方熊楠「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」(新字新仮名)の「(四)史話」が読み易いであろう。正規表現では、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻 『十二支考 Ⅰ』(渋沢敬三編一九五一年乾元社刊)のここから当該部を視認出来る。]

2023/05/30

譚海 卷之十一 ギヤマンの事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考(1)』に必要となったので、フライングして電子化する。] 

 

○ギヤマンと云もの、水晶の如く堅くて、玉(ぎよく)のやうなる物也。おらんだ人、持來(もちきた)る。

 又、常に、ギヤマンを、おらんだ人、無名指[やぶちゃん注:薬指の異名。]に、かねのわをかけて、はさみ持(もち)て、刀劍の代りに用(もちふ)る也。

 石鐵(せき・てつ)の類(たぐひ)、何にても、堅き物を、此ギヤマンにて磨(す)る時は、微塵に、くだけずといふ事、なし。

「人をも、害す。」

と、いへり。

 又、物をうつし取(とる)に、ことごとく、あざやかに、うつりて、みゆる也。

 壁にわづか成(なる)穴あれば、穴にギヤマンをあてゝみる時は、鄰の事、殘らず、うつりて、みゆる也。

 全體、ギヤマンと云(いふ)は鳥の名なる、よし。

 此鳥、雛を生(しやう)じたるをみて、おらんだ人、其ひなを、とりて、鐵にて拵へたる籠(かご)に入置(いれおく)時に、親鳥、ひなの鐵籠に有(ある)をみて、頓(やが)て、此玉を含(ふくみ)來りて、鐵の籠を破り、雛をつれて飛去(とびさ)る。

 其(その)落(おと)し置(おき)たる玉ゆゑ、鳥の名を呼(よん)で、ギヤマンと云(いふ)事、とぞ。

「此もの、おらんだ人も、何國(いづこ)にある物と云(いふ)事を、しらず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「ギヤマン」江戸時代のダイヤモンド(金剛石)の呼称。オランダ語 diamant の訛りとも、ポルトガル語 diamão の訛りともされる。本来は、ダイヤモンドそのものをいう語であったが、水晶などの宝石類や、ダイヤモンドで加工されたカット・グラスを含め、広くガラス製品一般の呼称ともなったが、実は、既に早く室町末期に、オランダ人によって製法が伝えられていた酒杯・瓶・鉢などのガラス製の器具「ビードロ」と混同され、板状のガラス板を除いたガラス製品を総称して「ぎやまん」「ビードロ」と呼ぶようになって、両者の厳密な区別はなくなった。なお、「ビードロ」はポルトガル語の vidro の訛りとされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鳥の名」不詳。]

「近代百物語」 巻五の二「猫人に化して馬に乘る」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、本篇には挿絵はない。]

 

  (ねこ)人に化(け)して馬(むま)に乘る

 

 奧州、「しのぶもじずりの石」の事は、みな人の、よく知る所なり。

[やぶちゃん注:この石については、私の「諸國里人談卷之二 文字摺石」、及び、の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を参照されたい。]

 其ほとりに、玉笹立左衞門(たまざゝりう《ゑもん》)といへる鄕士(かうし[やぶちゃん注:ママ。)あり。

 武勇、たくましく、其へんにて、人にしられたるもの也。

 ひとつの名馬をもちて、はなはだ、愛育す。

 ある日、朝、とく、馬飼(むまかい[やぶちゃん注:ママ。)、おきて、見るに、其馬、くひ[やぶちゃん注:ママ。「くび」(首)。]を、櫪(むまふね)にたれて、汗、ながれ、あへぐ事、遠路(ゑんろ)を馳(はせ)たるときのごとし。

[やぶちゃん注:「櫪(むまふね)」「馬槽」とも書く。馬の飼料を入れる「かいばおけ・まぐさ入れ」のこと。]

 馬飼、おどろき、

「誰(たれ)か、馬を盗みて、夜(よる)、出《いで》たるや。」

と、うたがひて、翌朝(よくてう)、馬を見るに、又、汗して、あへぐ事、きのふのごとし。

 あやしく思ひて、夜、其ほとりにふして、ひそかに是れを伺(うかゝ)ふに、内に飼(かい[やぶちゃん注:ママ。])をきける「黑ねこ」、厩(むまや)の内に來り、ほヘ[やぶちゃん注:ママ。「吠え」。以下同じ。]、おどりて、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、わかき男のかたちに化(け)し、衣冠、みな、くろし。

 馬に、くら、をき[やぶちゃん注:ママ。]、乘りて、出《いづ》る。

 門、はなはだ、高し。

 鞭をもつて、馬にあつれば、おどつて、門を、はねこへ[やぶちゃん注:ママ。]て、去る。

 あかつきにおよんで、かへり、すなはち、馬より下(を[やぶちゃん注:ママ。])り、鞍を、とき、又、ほへおどつて、もとの猫となり、常のごとし。

 馬飼、人にも語らず、おどろき、あやしみて、又、あくる夜も伺ひ、馬に乘り出《いづ》るあとにしたがひ、追ふて行く。

 雪、少し、ふりて、足あとを、したひゆくに、ひとつの古き墓のまへにして、馬の足跡、なし。いづくへ行きたるやらん、見へず。せん方なく、其夜は、かへりぬ。

 又、あけの夜は、宵より、件《くだん》の墓所(はか《しよ》》にいたり、辻堂の天井にかくれて伺ふに、夜半(やはん)ばかりになりて、黑衣(こくゑ[やぶちゃん注:ママ。])の裝束(しやうぞく)して、馬に乘り、來《きた》る。

 馬より下《お》り、馬を、辻堂のはしらにつなぎ、墓の石塔を、のけて、穴の中に、入る。

 又、中に、數人(す《にん》)ありて、わらひ語る聲、聞へたり。

 暫くして、穴より、出《いで》て、かへる。

 數人、おくりて、出《いづ》る其中に、年老たるものとおぼしくて、

「立左衞門が一家の『名(な)の帳(ちやう)』は、いづくに置きたる。」

と、とふ。

 黑ねこ、こたへて、

「既に、香(かう)の物桶(《もの》をけ)の下に、納め置きたり。憂(うれふ)る事、なし。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「香の物桶」漬物桶。]

「かならず、つゝしみ、もらす事、なかれ。もれなば、我等、みな、殺されん。次に、此ころ[やぶちゃん注:「此の頃(ごろ)」。]、出生(しゆつしやう)せしおさな子[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、名をつけたらば、『帳』に、はやく、しるすべし。これを、わする事、なかれ。」

と、いふて、わかれける。

 あかつきにおよんで、馬飼は、家にかへり、此よしを、ひそかに、主人に告(つげ)たり。

 立左衞門、おどろき、「黑ねこ」の、ゆだんしてありたるを、見すまし、しばりて、

「しか」

と、はしらに、くゝりつけ、香の物桶のほとりを、さがせば、はたして穴の中に、一軸の書(しよ)、あり。

 具(つぶさ)に、家内男女《かないなんによ》の名を、のせたり。

 おさな子、生れて、わづか一月《ひとつき》なり。いまだ、名をつけざるをもつて、のせず。

 やがて、猫を引出《ひきいだ》し、棒を以て、打殺(うちころ)し、家中の侍(さむらい[やぶちゃん注:ママ。])、數十人(す《じふにん》)をつれて、墓所(はか《しよ》)にいたり、墓をあばき、こぼちければ、數十の「ねこ」、むらがり出《いづ》るを、ことごとく、ころしつくして、かへりけるに、其のち、なんの怪異もなかりしと也。

[やぶちゃん注:この妖猫が隠していた怪しい帳面は、恐らく、この玉笹家に古くから巣食うてきた妖猫らが、当家の人間の寿命を自在に操作し、それに代わって化けるための呪的なそれででもあったものであろう。]

2023/05/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 九五番 猫の嫁子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      九五番 猫の嫁子

 

 或所に一人の百姓があつた。正直者であつたが貧乏暮しなので嫁のくれてもなく、四十を越してもまで獨(ヒトリ)で居た。ところが其隣は近鄕きつての長者どんであつたが話にならぬ程の極道者で、たつた一疋居る牝猫さへも、これは餘計な口のあるものだと言つて、首筋をつまんで戶外(トガイ[やぶちゃん注:ママ。])へ投げ棄てた。

 貧乏な百姓が寢て居ると、夜半に頻りに猫の啼聲《なきごゑ》がするから、なんたらこの夜半に不憫だと思つて、寒いのを耐え[やぶちゃん注:ママ。]て起きて、猫を内へ入れてやつた。そしてどうしてお前はこんな寒い夜に外で啼いて居《を》れや。またお前の檀那どんに酷(ヒド)い遣《や》つたのか、どらどらそれだら俺の所に居ろと言つて、なけなしの食物《くひもの》などを自分と同じやうに猫にも分けてやつて、愛(メゴ)がつて居た。

 或夜百姓が退屈(タイクツ)まぎれに、お前が人間であつたらよかつたになア。俺が畠さ出て働いて居るうちに、お前は家に留守居して居て麥粉《むぎこ》でも挽《ひ》いて置いてけでもしたら、なんぼか生計向(クラシムキ)が樂になるべえに、お前は畜生のことだからそれも出來ないでア、とそんなことを言ひながら、其夜もいつものやうに猫をふところに入れて抱いて寢た。

 百姓は翌朝もまだ星のある中《うち》から起きて、山畑へ行つて働き、夕方遲く家へ戾つて來た。すると誰だか灯(アカシ)もつけない家の中で、ごろごろと挽臼《ひきうす》を挽いて居るものがあつた。不審に思つて入つて見ると、それは猫であつた。百姓は魂消《たまげ》て、猫々《ねこねこ》俺が昨夜あんなことを言つたもんだから、お前は挽臼を挽いて居てくれたかと言つて、其夜は小麥團子《こむぎだんご》をこしらへて猫と二人で食つた。それからは何日(イツ)も百姓の留守の間には猫が挽臼を挽いて居た。おかげで百姓は大變助かつた。

 或晚、爐《ひぼと》にあたつて居ると、猫は、私は此儘畜生の姿をして居ては思ふやうに御恩返しが出來ないから、これからお伊勢詣《いせまうで》をして人間になりたい。どうか暇《いとま》をケテがんせと言つた。百姓もこれはただの猫では無いと思ふから、猫の言ふまゝに話をきいてやつた。そして猫のおかげ[やぶちゃん注:底本は「おかけ」。「ちくま文庫」版で訂した。]で少し蓄《た》めた小錢(コゼニコ)を猫の首に結着《むすびつ》けて旅に出した。猫は途中惡い犬にも狐にも出會はず、首尾能《しゆびよ》く伊勢詣をして家に歸つた。歸りには神樣の功德で人間の姿になつて歸つた。そして百姓と夫婦になつて、人間以上に働いたものだから、末には隣の長者どんよりも一倍の長者となつた。

 (村の大洞丑松爺の話の三。大正九年冬の採集分。)

[やぶちゃん注:「お伊勢詣」江戸時代のそれは、実際に犬や豚が伊勢参りをしている。それぞれの宿駅の町役人が、次の宿に向けた正式な依頼状を、その体に結び付けて、伊勢神宮に参詣を完遂している事実が、複数の事実資料として残っているのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九四番 虎猫と和尙

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   九四番 虎猫と和尙

 

 或所の山寺にひどく齡《とし》をとつた和尙樣があつた。九十にもなるこつたと謂ふ話で、餘り齡を取つたものだから勞れ切つて、今では夜晝うとうと眠(ネブ)かけばかりして居た。さういふ譯だから山寺に捨てられた樣になつて、世間でも案じ出す人がなかつた。たゞ一疋のこれも猫仲間では餘程の老齡(トシヨリ)な瘦《やせ》きれた虎猫ばかりが和尙樣の相手になつて、和尙樣と同じ樣にいつも爐傍《ろばた》で眠(ネブ)かけばかりして居た。

 或日その虎猫が、和尙樣に向つて、和尙樣々々々お前樣も大分齡をとつたものだから、世間では相手にしなくなつたが此俺は隨分永々と和尙樣のお世話になつて居るから、何とかその恩返しをしたいと思ふが、何もよいことが無くてはづみが無いと言つた。

 和尙樣は猫が物を言ひ出したから、少し驚いたが、すぐ心を落着けて、何さ虎や、俺とお前は何も考へないで此所に斯《か》うして居ればよいのだでヤと言つた。すると虎猫は、うんにや和尙樣さうでアない。俺は此頃よいことを聞込《ききこ》んだから和尙樣さ敎(オセ)べと思つて居た。この寺も今一遍(ヒトカヘリ)繁昌させて和尙樣にも行先きを安樂にさせたいと思つて居る。それで近い中《うち》に所の長者どんの一人娘が死ぬから、その葬式の時に俺が娘の棺箱《くわんばこ》を中空《ちゆうくう》へ釣上《つりあ》げて中合(チウアヒ)に懸けて下(オロ)さずに居るから其時に和尙樣が來て御經を讀め。そして其經文の中で、南無トラヤヤと謂ふ聲をかけた時に、俺がその棺箱を下(シタ)へおろすからと謂ふのであつた。

 さうして居るうちに眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に、長者どんの一人娘が病氣になつて死んだ。可愛い娘が死んだのだから長者どんでは、所のありとあらゆる宗派のお寺の和尙樣達を呼んで葬禮(トムライ[やぶちゃん注:ママ。])をした。ところがたつた一人《ひとり》山寺の眠《ねぶ》かけ和尙樣ばかりは誰《たれ》も忘れて居て招かなかつた。とにかくさうした所では見たこともないような立派な葬式が野邊に送られた。

 その葬禮の行列が野邊へ行つて、やがて蘭塔場[やぶちゃん注:卵塔場に同じ。墓場。]𢌞《らんたうばめぐ》りをしはじめると、どうした事かひどく綺麗に飾り立てた棺箱がしづしづと天へ釣上つて、高い高い中合《ちゆうあひ》に懸つてしまつた。人々は驚いて、たゞあれヤあれヤと言ふばかりであつた。それを見てまた多數(アマタ)の僧侶達は、いつせいにお經を誦んだり珠數を搔揉(カイ《も》)んだりしたが、何の甲斐もなかつた。しまひには一人一人自分等の宗派の祕傳をつくして、空を仰いで叫んで見たが、お日樣が眩しいばかりで一向利目(キキメ)はなかつた。

 長者どんは、おういおういと聲を立てゝ泣き悲しんだ。そして和尙達の腑甲斐《ふがひ》無いことの惡口を言つた。村の人達も長者どんと一緖になつて和尙樣達を惡く言つた。そこで長者どんは、誰《だれ》でも何でもよいから、あの棺箱を下(オロ)してくれた者には、一生の年貢米も上げるし、またお寺も普請してやるし、又望みによつては門も鐘搗堂《かねつきだう》も、何でもかんでも寄進してやると言つた。それを聞いて和尙樣達は尙更一生懸命になつて空を仰いで叫んで見たが、やつぱり何の驗《しるし》もあらばこそ。

 長者どんはおいおい泣いて、彼方《あちら》へ走《は》せたり此方《こちら》に走せたり、あゝあゝ誰にもあの棺を下すことができないのか、念のためにこの近所近邊のお寺の和尙達をみんな殘らず呼んで來てケろと叫んだが村の人達は近所近邊の和尙坊主どもは皆此所に來て居ると言つた。長者どんは、ほだら後《あと》には誰《たれ》も殘つて居ないかと訊くと、誰《だれ》だか人込みの中から、ここさ來ないで殘つて居るのが彼《あ》の山寺の眠(ネブ)かけ和尙樣たつた一人だけだが、連れて來たつて役には立つまいと言つた。僧侶達も口を揃へて、吾々でさへ出來ないものだもの、彼の眠かけ和尙が來たつて、かへつて邪魔になるばかりだと言つた。長者どんは否々《いやいや》さうでない。とにかく彼の和尙樣を早く招(ヨ)んで來うと言つて、人を急がせて迎へにやつた。

 山寺の眠かけ和尙樣は破れた法衣を着て、杖をついて步くべ風もなく[やぶちゃん注:足も耄碌して、歩くというより、摺り足でのろのろと来たことを言うのであろう。]靜かに來た。そして草の上に座つて空を仰ぎながら靜かに御經を誦(ヨ)んだ。そしていい加減なところで、虎猫が敎へた南無トラヤヤトラヤヤと謂ふ文句を誦込(ヨミコ)んだ。さうすると今迄何(ナゾ)にしても動かなかつた娘の棺箱が天からしづしづと下りて來て地上(ヂベタ)に据[やぶちゃん注:ママ。]《すわ》つた。人々は皆《みな》聲を上げて和尙樣を褒めた。そして皆は和尙樣の足下《そつか》にひれ伏して拜んだ。他の僧侶達は面目《めんぼく》なくて、こそこそと遁げて自分の寺へ歸つて行つた。

 斯う謂ふ譯で、その御葬禮は眠《ねぶ》かけ和尙樣だけで引導した。長者どんは淚を流してありがたがつて朱塗《しゆぬり》の駕籠《かご》を仕立てゝ和尙樣をば山寺へ送り還《かへ》した。

 それから眠かけ和尙樣の山寺は俄《にはか》に立派に建直《たてなほ》された。今迄無かつた山門が出來たり、鐘搗堂が建てられたりした。そして和尙樣は世の中から生佛樣《いきぼとけさま》とあがめられて、每日々々參詣人がぞろぞろと絕間《たえま》なく續いて、たちまち門前が町となつた。

 

畔田翠山「水族志」 タマガシラ (タマガシラ)

(二八)

タマガシラ【紀州若山】 一名エビスダヒ【泉州小島浦】アカバナ【筑前福間浦】チダヒ【尾州常滑】マムダヒ【土佐浦戶】イチ【勢州慥柄浦】レンコ【紀州田邊】シマダイ

形狀棘鬣ニ似テ細ク厚シ鱗麁ク眼赤色瞳黑色下唇ノ裏白ク腹白色

遍身淡紅色ニ乄背ヨリ腹上ニ至リ紅色ナル橫斑條ヲナス脇翅腹下

翅俱ニ紅黃色腰下鰭及尾紅黃色背鬣上ハ黄色ニ乄淡紫紅斑アリ下

ハ淡赤色尾岐ヲナス味輕シ

○やぶちゃんの書き下し文

たまがしら【紀州若山。】 一名、「えびすだひ」【泉州小島浦。】・「あかばな」【筑前福間浦。】・「ちだひ」【尾州常滑。】・「まむだひ」【土佐浦戶。】・「いち」【勢州慥柄浦。】・「れんこ」【紀州田邊。】・「しまだい」

形狀、棘鬣(まだひ)に似て、細く、厚し。鱗、麁(あら)く、眼、赤色。瞳、黑色。下唇の裏、白く、腹、白色。遍身(へんしん)、淡紅色にして、背より腹上に至り、紅色なる橫斑(わうはん)、條をなす。脇翅(わきびれ)・腹下翅(はらしたびれ)、俱に紅黃色。腰下鰭(こししたびれ)及び尾、紅黃色。背鬣(せびれ)、上は黄色にして、淡紫紅、斑(まだら)あり、下は淡赤色。尾、岐をなす。味、輕し。

[やぶちゃん注:底本はここ。これは、ズバり、

スズキ目スズキ亜科イトヨリダイ科タマガシラ(玉頭)属タマガシラ Parascolopsis inermis

である。国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「タマガシラ」の項の「方言」で本書を挙げてある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタマガシラのページをリンクさせておくが、その「方言」には以上で畔田が挙げている異名は載らない。]

「近代百物語」 巻五の一「巡るむくひの車の轍」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻五

   巡るむくひの車(くるま)の轍(わだち)

 不義・不忠・不孝・大慾のひまびま、嫁そしり・あくび・入湯(にうたう[やぶちゃん注:ママ。「にふたう」が正しい。])・せんそく[やぶちゃん注:「洗足」か。]のついでに、ねんぶつ・だいもくなどを、となふれば、極(ごく)重罪も、せうめつして、ごくらくといふ所へ、すぐどをりし、黃金の(わうごん)蓮(はちす)のうてなに、

「のらり」

と、座を、くみ、百味(《ひやく》み)のおんじき[やぶちゃん注:「飮食」。]とて、甘美(うまき)ものを、取りくらひ、暑きときは、凉風(りやうふう)きたり、さむきときは、暖氣(だんき)いたり、異香(いきやう)くんじて、花、ふりくだる、よい所へ、ゆかふとは、おもひもよらぬ事ぞかし。

 十人が十人ながら、ねんぶつ・だいもくを楯にして、𢙣(あく)の上(うは)ぬりする事、多し。「我がため人をなきになしては」との古哥(こか)の心も、かへりみず、人を𢙣所に、いざなひ、ばくちを、すゝむ。とりわけて、色(しき)よくの罪ほど、おそろしきものは、なし。

[やぶちゃん注:私は和歌嫌いで、この古歌を知らない。識者の御教授を乞う。]

 今はむかし、備中の國に、山城屋(やましろ《や》)善左衞門といふ人、あり。家、冨みさかへて、何《なに》うとからぬ身のうへなりしが、苦(く)は、色かへる、まつかぜの音(おと)にて、此家の内室(ないしつ)、よめ入りして、三年めに初產(うひざん)せしが、𢙣血(おけつ)の所爲(わざ)にやありけん、腰、いたみて、起居(たちい[やぶちゃん注:ママ。])もならねば、善左衞門、氣のどくがり、国中(こくちう)の医(い)は、いふにおよはず、近国までも、聞合《ききあは》せ、名ある医者は、ひとりも殘さず、金銀のあるにまかせて、くすりをもちひ、あるひ[やぶちゃん注:ママ。]は灸治、有馬の入湯、ねりやく・さんやく・くすり食(ぐひ)、あまさず、もらさず、六年ばかり、あるとあらゆる養生すれども、そのしるし、さらに、なし。

 かくては、家内も、おさまらざれば、としかましき[やぶちゃん注:この頭の「と」は「か」の崩しの彫りを誤ったものではなかろうか。]女をかゝへ、妾(てかけ)はんぶんは、世帶(せたい)のまかなひ、「いま」と名づけて、万事の出しいれ、内義がはりを、つとめしに、生れつきたる利口(りこう)もの、ちから、ありたけ、氣をつけて、旦那のこしも、お内義どうぜん、打ちぬくほどの上手(じやうず)もの。

 出人りの人々・ほうばいも、

「いま、ならでは。」

と、うやまふにぞ、いよいよ、募(つの)る强(がう)よくしん、病氣ながらに、お内義の、生きてゐらるが、ひとつ、氣がゝり。

『なき命(いのち)なら、とてもの事、片時(へんし)も、はやふ[やぶちゃん注:ママ。副詞「早(はや)う」。]、すぎゆかなば、あとは、我が手に入るものと、まどろむうちの、ゆめごとに、死(しん)だと見ては、おきての[やぶちゃん注:「起きての」。]、びつくり、むねのほむらは蛍火(ほたるび)の、おのれと焦(こが)す、ねつの、さしひき、病(やまひ)となれば、いまは、おどろき、我が命ありての望み、死しては、何のねがひのあらん。いざや、心をとりなをし[やぶちゃん注:ママ。]、仕(し)やうの手だてもあるべし。』

と、いろいろと、案じつゞけ、まくらによりて、ふしたりしが、

「むつく」

と。おきて、

『あら、うれしや。我が大ぐわんも成就せり。御息所(みやすどころ)の「うわなりうち」も、神のちからに、きどくを、あらはす。われ、また、神にふかくいのらば、いかでか、しるしの、なからんや。』

と、内義の姿を、繪にうつし、我がやすみ所に、かくしおき、朝朝(あさあさ)、けわひのたびごとに、まづ、さかさまに、壁に、つりさげ、何かは知らず、口にとなへ、釘、おつ取りて、喉に、うち、

「大ぐわん成就、なさしめ給へ。」

と、强氣不敵(がうき《ふ》てき)の、女のねんりき、百日ばかり、いのりしに、内義のうんめい、つきたるにや、しだひしだひ[やぶちゃん注:ママ。]に、おとろへて、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、むなしくなりける所に、ふしぎや、七日にあたれる夜より、「いま」がふしたる一間のうちに、内義のすがた、

 

Kasya1

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

ゆうれいといふ物

世に有(ある)べき理(り)なし

皆(みな)我(わが)こゝろより

むかつて見る也

一ゑい眼(まなこ)にさへ[やぶちゃん注:「ゑい」不詳。「影」(えい)か。]

ぎれず空(くう)

花(げ)乱(みだれ)つい

    すと

     いふ

喩(たとへ)これ

 しるべ

   し

   *

「空花」は、煩悩にとらわれた人が、本来、実在しないものを、あるかのように思ってそれにとらわれること。病み霞んだ目で、虚空を見ると、花があるように見えることに喩えたもの。「ついす」「墜す」か。

   *

《窓から覗く「いま」の下壁の彼女の台詞。》

たしかに

 そのお人

    しや[やぶちゃん注:ママ。「じや」(ぢや)だろう。]

     が

《本妻の怨霊の頭部の背後に、その霊の台詞。》

はら立[やぶちゃん注:「たつ」。]

   や

   はら立や[やぶちゃん注:ここは底本では踊り字「〱」。]

   *

但し、本文での怨霊の登場は「いま」の寝る一間の内部であるから、齟齬はする。]

 

 

「すつく」

と、あらはれ、しうねき顏色(がんしよく)、そばに立ちより、

「おのれに覺えのある事なれば、くはしくいふには、およばねども、神にいのりつ、佛をたのみ、あた、どふよくな、むごたらしい。ころそふ[やぶちゃん注:ママ。]とまで、たくみしな。おもひしらせん、おもひしれ。」

と、手あしに、

「ふつ」

と、くひつけば、まぬがれんにも、にげんにも、五體、すくみて、うごかばこそ、上を下へと騷動し、

「ゆるしてたべ、たすけてたべ、いたや、いたや、」

と、泣きさけぶ。

 家内の人々、おどろきて、

「夢ばし見つるか、正氣を、つけよ。」

と、ゆりおこせば、やうやうと、目をひらき、手あしをさすり、

「さては。夢にて、ありけるか。」

と、かたられもせぬ夢のさま、

「此ほどのつかれにて、かわつた[やぶちゃん注:ママ。]夢に、おそはれまし。皆樣までを。」

と、笑ひに、まぎらし、

サア、行(い)て、おやすみあそばせ。」

と、また、引きかづく、ふとんのうち、何とやらん、心にかゝり、すこしも、卧(ふさ)でありけるが、また、翌(あけ)の夜も、おなじ夢、つゞくほどに、廿日《はつか》あまり、毎夜のせめに、手あしを見れば、痣(あざ)のごとく、「眞(ま)あを」になりて、歯がた、あらはれ、血ばしりける。

「かくては、いのちも、あやうし。」

と、いとまをねがひ、宿にかへり、難儀のあまり、せんかたなく、旦那寺(だんなてら)の和尚をまねき、はづかしながら、なみだをながし、始終のおもむき、さんげを、すれば、和尚は、くはしく聞《きき》とゞけ、

「よくも、あらはに、かたられたり。ともに惡趣に墮(だ)せん事、かゞみにかけて、見るごとし。いざ、とぶらひて、まよひをはらし、くげんをすくはゞ、成仏得脱(じやうぶつとくだつ)、うたがひ、なし。」

と、「普門品(ふもんぼん)」の千部を、しやきやうし、香花(かうげ)をそなへて、法事をなせば、障碍(しやうげ)、たちまち、しりぞきけるにや、病者のがんしよく、すゝしく[やぶちゃん注:ママ。]なりて、ゆめ見る事も、なかりしが、四、五日すぎて、初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]のころ、表に、

「わつ」

と、さけぶ聲、母は、あはてゝはしりゆき、くすりをあたへ、だきおこせば、しばらくありて、よみがへり、

 

Kasya2

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

生(いき)ながら火(ひの)

      車(くるま)に

乘(のせ)られ

たると

いふ事

  世に

噺(はな)しに

  

こそ

 聞(きく)事

  なれ

とかく

 善(よき)を

  なし

   𢙣(あく)を

     すべからず

《火の車に乗せられた「いま」の右足の先に彼女の台詞。》

あつや

  あつや[やぶちゃん注:ここは底本では踊り字「〱」。]

《左下方の「いま」の母の右下の母の悲しい驚きの台詞。》

のふむすめ

是はなに

   事

    ぞ

   *

「のふ」は「喃(のう)」で感動詞。人に呼びかける際に発するそれ。]

 

「たゞ今、しばらく、まどろむうち、うつゝともなく、ゆめともなく、車のおとの、聞ゆるにぞ、

『あら、ふしぎや。』

と見る所に、火の車を、とゞろかし、牛頭・馬頭の鬼、大おん、あげ、

『なんぢが罪(つみ)、廣大(くわうだい)なれば、迎ひの為(ため)の此車、はやく、來たれ。』

と、つかみ、のせ、虛空に追つたて、ゆきけるが、俄(にはか)に、はげしき風、ふきおこり、猛火(みやうくは)、さかんに、もへあがり、骨もくだくる其《その》くるしさ、

『わつ。』

と、さけぶ、と、おもひしが、お世話で、ふたゝび、よみがへれど、火の車にまで、のせられて、ぢごくに、おつる、我が身の上。かくまで、おもき罪科(つみとが)も、身よりいだせる事なれば、たれをうらみん、やうも、なし。さきだゝせます父母(ちゝはゝ)を、あとに殘して、なげきをかけ、これまた、一つの、とがぞかし。娘のせめを見るにつけ、かならず、惡事し給ふな。」

と、いふうちに、面色(めんしよく)かはり、はや、「だんまつま」の四苦八苦、虛空をつかみ、眼(まなこ)を、いからし、

「うん」

と、ばかりに、息、たへたり。

 かゝるむくひを、ありありと、まさに見たりし其人の、ことばのごとく、かきしるす。

  

佐々木喜善「聽耳草紙」 九三番 古屋の漏

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。

 なお、底本では本篇の標題の通し番号が「九四番」となっているが、これは、「九三番」の誤りであるので、訂した。標題は本文のルビを参考にすれば、「ふるやのもり」である。]

 

   九三番 古屋の漏 (其の一)

 

 或る山里に一軒の百姓家があつた。其家では大變によい靑馬《あをうま》を一匹持つて居た。その靑馬を盜む氣になつて一人の馬喰(ばくらう)が宵のうちから厩桁(うまやげた)の上に忍び込んで匿(かく)れて居たし、又山の狼もその馬を取つて食ひたいと思つて厩の隅に忍び込んで匿れて居た。そして其家の爺婆の寢沈《ねしづ》まるのを待つて居た。

[やぶちゃん注:「靑馬」小学館「日本国語大辞典」によれば、『①青毛の馬。毛の色が黒く、青みを帯びた馬』とし、「日本書紀」を引用例とし、次いで、『②白馬。また、葦毛の馬。』(「葦毛」は馬の毛色の名で、栗毛(黄褐色)・青毛・鹿毛(かげ:明るい赤褐色から暗い赤褐色まで多様だが、長毛と四肢の下部は黒色を呈する)の毛色に、年齢につれて白い毛がまじってくるもの。とあり、これは、『③「あおうま(白馬)の節会(せちえ)」の略』或いは、その『節会に引き出され』る白『馬』を掲げ、そこでは、「万葉集」を引く。これについては、十『世紀中頃より漢字文献において「青馬」から「白馬」へと文字表記が統一される理由については、本居宣長、伴信友は馬自体が白馬に換えられたからであるというが、室町時代の』「江次第鈔」二の「正月」に『「七日節会〈略〉今貢二葦毛馬一也」とあり、後世においても』、『葦毛馬が使用されていたことが分かる。したがって毛色自体の変化というよりも、平安初期の』「田氏家集」下の「感喜勅賜白馬因上呈諸侍中」にも『「驄毛」』(そうげ:毛の色が黒く、青みを帯びた馬。)『の馬を「白馬」というように、灰色系統の色名範囲が』、『青から白に移行したことと、平安末期の』「年中行事秘抄」正月七日」に所引する『「十節」などに見える白馬に対する神聖視などから』見て、『意識的に「白馬」の文字表記を選択したものと考えられる』とある。なお、「おしらさま」と女性に纏わる民話の挿絵などでは、白馬が描かれることが圧倒的に多いようだが、これは「おしらさま」が馬の神である以前に蚕(かいこ)の神であることと関係すると私は思う。といって、白馬が有意に通常の農家に飼われていたというのは、ちょっと考え難いように思われ、私は頭の黒い「青毛」或いは「葦毛」を想起する。無論、老成したその色の馬で、白いものが混じっているものでも構わないけれども。]

 此家の爺婆は每夜孫を抱寢しながら昔(ムカシ)噺を語つてきかせて居た。其晚も厩の壁隣りの寢所(ネツトコ)では先刻から爺婆の昔噺が始まつて居た。すると孫が怖(オツカナ)い話を聽かせろとせがみながら、この世の中で何が一番怖(オツカ)なかべと訊いた。爺樣はさればさこの世の中には怖ない物もたくさんあるけれども、其中でも人間では泥棒だべなと言つてきかせた。それを厩桁の上の馬喰が聽いてははアすると俺が人間の中では一番怖ない者だなと思つて笑つて居た。するとまた孫が獸《けもの》ではと訊くと、さうさな獸と言つても數多いが、其中でも一番怖いものはまず狼だべなと爺樣は言つた。それを厩隅《うまやすまこ》[やぶちゃん注:後の「其の三」の読みを採用した。]の狼が聽いて、ははアするとこの俺は獸の中では一番怖ないもんだなと思つて笑つて居た。するとまた孫はそれよりもそれよりもつともつと怖ない物は何だべと言ふと、爺婆は口を揃へて、其は雨漏(アマモリ)さと言つた。さあそれを聽いた厩桁の上の馬喰と厩隅の狼とは一緖に、あれそんだら俺より怖ない物が居るのか、其雨漏[やぶちゃん注:ここ以降は「アマモリ」と表記する方が自然で効果的である。]と謂ふもんはどんた[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版もママであるから、遠野方言か。]ものだべと思つてがくがくと顫《ふる》へて居た。そして怖ないと思つて、しつくもつく(逡巡)して居る拍子に馬喰は厩桁を踏外して厩隅にどツと落ちた。落ちることもよいが其所に蹲《うづ》くつてわだ顫つて居た[やぶちゃん注:総てママ。同前。]狼の背の上に落ちた。そしてあれアこれだな雨漏と云ふ化物はと思つた。厩隅の狼はまた狼で、氣無しな[やぶちゃん注:油断しているさま、無防備なさまであろう。]所へいきなり背中の上へ馬喰に落ちて來られたので、魂消《たまげ》て、あれアこれこそ雨漏だと思つてやにわに厩から逃げ出した。そして雨漏を體《からだ》から振落《ふりおと》さうと身悶《みもだ》えをした。背上(セノヘ)の馬喰は馬喰で、今これに振落《ふりおと》されたらことだ、[やぶちゃん注:底本には読点なし。「ちくま版」で補った。]生命《いのち》がなくなる。これが死ぬか俺が死ぬかと思つて一生懸命に狼の首玉に縋《すが》りついた。さうすればするほど狼は大變《たいへん》がつて死物狂《しにものぐるひ》になつて駈け出した。そして野を越え山を越えずつとずつと遠くの方へ駈《か》けて行つた。そのうちに夜が明けた。

[やぶちゃん注:この時点で盗人の馬喰は自分が乗っているのが、「一番怖(オツカ)な」いアマモリという化け物と認識していることは、以下の段で明らかであるが、そういった意味でも。「あまもり」を漢字表記してしまうのは、読む民話としては、やはり、上手くないことは明白である。]

 夜が明けてアタリが明るくなつて見ると、奧山の奧果(オツパ)[やぶちゃん注:奥山のそのどん詰まりの深山の果て。]であつた。馬喰は雨漏と云ふ物はどんな物かと思つて見ると、それは狼に似た化物《ばけもの》であつた。何してもこれは大變なことになつたと思つて居るうちに、大木《たいぼく》の枝が垂下《たれさが》つてゐる所の下をそれが駈け通《とほ》つた。この時だと思つて其枝に手なぐり着いて木の上に這ひ上つた。それとも知らずに狼は夢中になつて何所《どこ》までも何所までも盲滅法《めくらめつぽふ》に駈けて行つた。

 狼はやつと自分の穴まで逃げて來た。そして心を落着けて見ると背中の上の雨漏はいつの間にか居なくなつて居た。そこで漸《や》つと元氣づいて其所邊(ソコラ)の獸仲間の所へ行つた。まづ第一番に虎の所へ行つて、ざいざいもらい殿はいたか、俺は今ひどい目に遭つて來た。この世の中には何よりも怖ない雨漏と謂ふものがゐる。俺はそれに背中に乘られて、昨夜から今まで駈け通しに逃げてやつと命だけは助《たすか》つて穴まで戾つて來た。とても彼奴《きやつ》の居るうちは俺は安心して此山に棲んで居られない。仇討《かたきうち》をしたいからなぞにかして力を貸してくれないかと言つた。虎はそれを聽いて、お前がそんなに狼狽《あわて》て居る程怖しい物では本統[やぶちゃん注:ママ。]に怖かない化物だべ。だが俺が行つたら最後取つて喰ひ殺して見せると言つて、巢から出て雨漏の居る所を探し步いてゐた。その途中で山猿が木の上に居て、虎どん狼どん何所さ行くと聲をかけた。虎と狼は、今俺達は雨漏といふ此の世の中で一番怖かない化物を退治に行く所だが、お前は木の枝の上にばかり居るから、そんな者を見かけなかつたかと訊いた。すると猿は大笑ひをして、さう言へば狼どんが今朝方《けさがた》背中に乘せて來た者なら、ほら其所の大木の枝の上に坐つて居る。あれが此の世の中で一番怖かない化物だべか、あんな者なら俺一人ででも生捕《いけど》つて見せべかと言つた。猿はあれは人間だと謂ふ事をよく知つて居た。虎と狼とは猿にさう言われて、むこふの大木の枝の上を見るとほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に人間に似た雨漏が居て此方《こちら》を見て居た。そこで驚いて虎と狼とは一緖にうわううと吠へた[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「ざいざい」「あらあら」の意か。

「もらい」以前に本文で『モラヒ(朋輩)』と既出している。]

 狼の背からやつとのがれて木に這上《はひあが》り、怖かなくてへこめつて居た馬喰は、今また目の前に狼ばかりか虎までが一緖にやつて來て、自分を見上げて、うわううと唸《うな》るので、これは大變だと思つてその大木の空洞穴(ウドアナ)へ入つて匿れた。すると其所へ猿と虎と狼とが來て、此所に匿れた、この空洞穴の中さ入つて匿れた、此中の雨漏を退治した者が明日《あした》から獸の中の一番の大將になるこつたと約束した[やぶちゃん注:この言上げは虎であろう。]。そして氣早《きばや》の猿はあれは人間だつけと謂ふことを覺えて居るものだから、第一番に自分の尻尾《しつぽ》を穴の中に突込《つつこ》んで、これや雨漏や居たか、居たかと言つて搔き𢌞した。馬喰も斯《か》うなつては命懸けだから猿の尻尾をおさへてうんと踏張《ふんば》つた。猿はこれはことだと思つて、穴の外でこれもうんと踏張つた。ところがあんまり力《りき》んだものだから尻尾が臀(ケツ)からぼツきりと引拔(ヒンヌ)けた。猿はそのはづみを食《く》つて前にサラツイテ(轉倒して)土で顏を摺りむいた。それであの獸は今でも尻尾が無く、顏はあんなに眞赤に赤だくれになつて齒をむき出すのだと謂ふことさ。

 その態(ザマ)を見て狼はこんどは俺が代つて遣つて見ると言つて、穴の中に陰莖を突き込んでがらがら搔き𢌞した。中に居た馬喰はまたかと思つて、それを引摑(ヒツツカ)んでぐつと力を入れて引張《ひつぱ》つた。狼は魂消《たまげ》てこれは大變だと思つて逃げ出さうとして力《りき》むと、陰莖がぶちりと根元から引拔けてしまつた。そしておうおうと痛がつて泣き叫んだ。だから今でも狼の鳴聲はあんなに高いのだと謂ふことさ。

 虎はそれを見て、俺はア迚《とて》も叶はぬから止めた、そしてこんな强い怖ない雨漏に居られては俺は日本が厭(ヤン)たから唐(カラ)さ往《ゆ》くと言つて、海へ入つて韓《から》の國へ渡つて行つた。だから虎はそれから日本に居なくなつたとさ。

 狼と猿も虎の言ふ事はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]だ、俺達も唐さ往きたいと謂つて海に入つたが、傷に潮水《しほみづ》がしみて痛くて堪《たま》らなかつたので、また陸へ引返した。雨漏は怖ないけれども仕方がないから日本に居ることになつたとさ。

 (大正九年の冬《ふゆ》村《むら》の原樂タケヨ殿の話。
  自分の古い記憶。)

[やぶちゃん注:「原樂」この姓はネットで姓名・苗字サイトでも登録されていないし、「原楽 姓 土淵 遠野」で調べても、かかってこないので、読み不詳。「はららく」と一応、読んでおく。]

 

       (其の二)

 昔、野原の中に一軒家があつた。其家には爺樣と婆樣と娘と三人だけで住んで居た。或大雨の降る夜、山の虎(トラ)が何か喰ふものは無いかと、のそりのそり其一軒家へ來た。

 其時爺樣が、それそれ古屋の漏《もり》が來た。そらまた來たと言つた。それは家が古い爲に雨が漏つて來たと言つたのであつた。娘が古屋の漏はそんなに怖(オツカ)ないものかと訊ねると、古屋の漏が一番怖ないと答へた。そんだらオイノ(狼)よりも怖ないか、オイノよりも怖ない。それでは山の虎よりも怖ないか、虎よりも怖ないと問答した。

 それを聽いた虎は、それでは古屋のモリと云ふ物は、俺よりも强い物だなア、これは日本に斯うしては居《ゐ》られないと云つてカラヘ渡つた。

 (栗橋村地方の昔噺、大正十四年二月下旬菊池一雄氏
  御報告の七。)

[やぶちゃん注:「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった村。現在の釜石市栗林町・橋野町(南東に接して栗林町がある)に相当する(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧村域の大部分は山間部である。]

 

       (其の三)

 爺樣と婆樣があつた。夜寢て居ると、厩のスマコ(隅)へ唐土(トウド)の虎がやつて來て、

   アナくぐツてチヨコチヨコ

   立ちどまつてソワカ

 と唄ひながらスカマ(蹲踞)ツてゐた[やぶちゃん注:「うずくまっていた・しゃがんでいた」。]。家の中では寢物語に、爺樣が、世の中で一番おツかねアものは何だベアと尋ねた。世の中で一番おツかねアものは唐土の虎だべやと婆樣が答へた。すると爺樣が、いやいやフルヤ(古家)のモルヤ(漏家)が一番おツかねアと婆樣に言つてきかせた。それを聞いた唐土の虎は、ハテ俺よりも怖ないものが居るのかと驚いて、厩から馬を曳き出して、それに乘つて逃げ出した。やがて夜明方になつて、あたりが白くなつたので、馬は初めて自分の背に乘つてゐるのが唐土の虎だといふことに氣がついて、跳ねあがつた。そこで虎は落馬して、そのまゝ川を一跨(マタ)ぎに跳越《とびこ》して、山に入つて隱れてしまつた。それだから唐土の虎よりも古家の雨漏りの方が怖(オツカナ)いのだと謂ふ。

 (遠野鄕地方の話。松田龜太郞氏の御報告の分。
  大正十一年冬の頃一六。大正十一年冬の頃。)

[やぶちゃん注:附記の最後のダブりらしきものは、ママ。「ちくま文庫」版では最後のそれは除去されてある。]

2023/05/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 再び毘沙門に就て

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)、及び、「青空文庫」の「十二支考 鼠に関する民俗と信念」の一部を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。なお、本篇は平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)には所収しない。冒頭「凡例」によれば、本篇の『大部分が本選集第二巻の「鼠に関する民俗と信念」に収録されているために割愛した』とある。所持するそれも参考にした。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読で附した。

 なお、先行する「毘沙門に就いて」(「就いて」はママ)は既にこちらで電子化しておいたので、まず、そちらを読まれたい。

 また、本篇はダラダラと長い。内容は、それぞれの部分で面白いのだが、だいたいからして、熊楠御得意の十倍返しの喧嘩腰で始まり、これ見よがしの嫌味を言い、かなりの生理的不快感が感じられる箇所も、複数、ある(但し、これは、別に、本文に書かれている通り、自信作であった本論考との連関が非常に強い、所謂「十二支考」の一つである「鼠に關する民俗と信念」が、雑誌に不掲載となったことへの憤りも影響しているのだが)。さらに、送り仮名表記の不全が異様に多く、読みを添えるだけでも、一々、正しいかどうかを調べねばならない始末である。されば、注は、必要最小限で、あさあさと附すこととする。悪しからず。ソリッドに本篇が電子化されるのも、恐らくは初めてであると思うので、後人の方に詳細注は譲ることとする。

 

     再び毘沙門に就て  (大正十五年九月『集古』丙寅第四號)

       附たり大黑天と歡喜天と關係ある事
       並びに大黑天の槌と鼠の事

 

 丙寅三號五葉裏に、黑井君は『南方熊楠氏は「毘沙門の名號に就て」と題して曰く、『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた』云々と書かれたが、此事件を信じて居るから申したので有《あら》うが、小生の立場からは些《いささか》の價値がないのである云々、其《それ》のみならず、佛の時代と毘沙門の時代が異《ちが》つて居る』と申された。然し、熊楠は價値の有無に拘らず、只々此話の出處を識者に問《とう》たのである。抑《そもそ》も、國土の紀年史さえ[やぶちゃん注:ママ。]無《なか》つた印度に、夜叉が神王に轉生した時代が知れ居るだろうか[やぶちゃん注:ママ。]。

 丙寅二號の拙文は、先づ、クベラ、又、クビラが毘沙門だ、とは「佛敎大辭彙」に出《いで》ある、と述《のべ》た。黑井君はクビラといふ發音は梵語にみえぬと言《いは》れたが、梵語程、發音の多樣な者なく、其が又、北印度、中央アジア、和漢と移るに伴《ともなつ》て、色々、移り異《かは》つた故、一切の梵語にクビラなる發音の有無は餘程、精査を要する。「佛敎大辭彙」は、熊楠如き大空の一塵程、梵語をカジリかいた「ゑせ者」よりは、恒河沙《ごうがしや》數倍えらい「學者」が集まり、大枚の黃白《くわうはく》[やぶちゃん注:金銀。金銭。]を掛《かけ》て出した者、それに「倶肥羅」を「クビラ」と訓じ、『毘沙門の異名』とし有《あれ》ば、クビラといふ梵語も有《あつ》たとしてよい。拉丁《ラテン》語に、羅馬共和時代、帝國時代、帝國衰亡時代、それから羅馬帝國滅後の「いかさま語」さへ、盛んに硏究され襲用されおる[やぶちゃん注:ママ。]如く、梵語にも種々の時代と、其行はれた國土の異なるにつれ、變遷・轉訛も有たので、どれも是も、梵語に相違ない。

 次に、予は帝釋が毘沙門をクベラと呼《よん》で佛の供養を佐《たす》けしめたてふ「經律異相」の文を引《ひい》て、クベラは實名、毘沙門は通稱のごとくみえる、と云《いつ》た。佛經に、此類の事、少なからず。帝釋如きも呼び捨て、又、至《いたつ》て親しみ呼ぶには憍尸迦《きやうしか》と名ざされおる。帝釋は通稱、憍尸迦は氏名らしい。今は、こんな事は、知れ渡りおるだろうが[やぶちゃん注:総てママ。]、明治廿六年、予、大英博物館の宗敎部長、故サー・ヲラストン・フランクスより列品の名札付けを賴まれた時、從前、佛敎諸尊の名號を、尊稱・通稱・實名・氏名、何の別ちもなく、手當り次第につけあるは、丁度、無差別に、耶蘇・基督・救世主・ナザレスの大工の忰《せが》れ、と手當り次第、呼ぶ樣で、不都合なれば、尊稱と通稱に限り、名札に書くがよいと進言して、それに決した。少し後に、土宜法龍師、見えられ、此事を聞《きい》て、誠に至當な事といはれた。佛敎を奉ずる者が、釋尊を瞿曇具壽《くどんぐじゆ》、道敎の信徒が、老子を李耳、抔、いはば、眞《まこと》の其徒でないと自白するに等し(「阿毘達磨大毘婆沙論」一八一)。諸敎の諸尊に、それぞれ[やぶちゃん注:底本は後半は踊り字「〱」であるが、濁音化した。]名號が多いが、其名號が、みな、ゴッチャクタに異名といふべきに非ず、種々の用途に隨つて、各別の名號が使はれたといふ事の例示迄に、クベラも毘沙門も同一の神の名號乍ら、使用の場合、意味が差《ちが》ふといふ事を述たのである。

 次に『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた云々』の文句は、丙寅第二號の拙文に明記しある通り、アイテル博士の「梵漢辭彙」一九三頁から引たので、此書(一八八八年龍動《ロンドン》出板)、本名「支那佛敎學必携」、予、在英の頃、佛敎の事を調ぶる[やぶちゃん注:底本は「調ふる」だが、訂した。]者が、皆な、持《もつ》た者で、アイテルは、身、支那に居り、色々、穿鑿したから、支那へ往《ゆか》ねば聞き得ぬ珍說を、多く、書き入れある。黑井君は、熊楠が『此事件を信じて居るから申したので有う』と言《いは》れた。成る程、熊楠は、攝・河・泉、三國の太守同樣、「毘沙門の申し子」といふ事で、小兒の時、小學敎場でさえ[やぶちゃん注:ママ。]毘沙門の呪《じゆ》を誦《ず》した位い[やぶちゃん注:ママ。]之を信仰したが、四十過《すぎ》て、一切經を通覽せしも、件《くだん》の「梵漢辭彙」に載せた話を、見ず。因《よつ》て丙寅二號五葉裏の上段十三、四行で、『此話は何の經に出で居《を》るか、識者の高敎をまつ』と、明らかに自分の無智無識を告白した。

 アイテルが述た通り、毘沙門にも色々あり、古梵敎のクヴェラ、現時ヒンズー敎のクヴェラ、佛敎四王天に在《あつ》て、「夜叉衆」を領する富神「毘沙門」で、スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物乍ら、世態《せいたい》が變るに隨つて、形も、姿も、食物も、動作も、生活も、全く異なる如く、古梵敎のクヴェラと、佛敎の毘沙門と、同じからず。佛敎の毘沙門は、「一切の夜叉の王」たるに、印度《ヒンズー》敎のは、ラヴァナに寶車を奪はるゝ程、弱い者なれば、是れ亦、同じからず。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」にも、佛經と齊《ひと》しく、之を「黃金と財富の神」としあるに、日本で、信貴山《しぎさん》が大繁昌するに反し、今の印度でクヴェラの像や、𤲿《ゑ》を求めても、得ぬ程、薩張《さつぱ》り、もてない位い[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]、是亦、違ふ。原來、佛敎、廣博で、インド諸敎の說を取り入れたれば、其の諸尊に關する傳說、亦、「委陀《ヴェーダ》」や『プラナ』に限らず。印度に、古く、梵敎の外に、異類・異族の敎、多かりしは、諺《ことわざ》になりある程。それに印度邊陲《へんすい》[やぶちゃん注:「辺境」に同じ。]の諸國から、トルキスタンや支那を經て、日本へ入る迄に、無數雜多の土地の傳說を攝取し居る可《べけ》れば、「委陀」や「プラナ」位い、調べた所ろが、現存佛敎の諸說を解くに、足《たら》ず。

[やぶちゃん注:「スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物」「スクモ」「螬」であるが、これは狭義には「甲虫類の地面の下に潜む幼虫」を指すが、ここは、セミのそうした土中に幼虫を指している。「ニシドチ」「復蜟」で、一つは、「大辞泉」には、『チョウやガのさなぎ。特に、アゲハチョウやスズメガのさなぎ。指でつまんで「西はどっち、東はどっち」と言うと、それに答えるように腰から上を振るといわれる。入道虫。西向け』とあるが、小学館「日本国語大辞典」には『セミの幼虫』や『根切り虫の蛹(さなぎ)をいう』とあった。]

 付《つい》ては、アイテルが述た『此神、前世、夜叉なりしが云々」の話が、支那の經藏にない以上は、西藏《チベット》・蒙古・カシュミル・ネパル・セイロン・緬甸《ビルマ》・暹羅《シャム》や、トルキスタン邊にそんな話がある事か、と識者の高敎をまつ次第である。アイテル博士に聞合《ききあは》せば、判つた筈だが、熊楠、右の話に初めて氣付《きづい》た時、聞合せに、手懸りなく、其後、彼《かの》人、物故したと聞《きい》て、其儘、打過《うちすぎ》て居りました。熊楠は、右の話を信ずる處《どころ》か、出處さえ[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]も、知《しら》ぬ者なれば、信じてよいか惡いかをさえ判じえず。誰か、アイテル博士に代つて、此話の出處を敎え[やぶちゃん注:ママ。]られん事を切望する。

 又、乙丑第二號第二葉裏上段に、黑井君は『聖天(乃《すなは》ち歡喜天)には、鼠も付《つい》て居る。右手の斧は、小槌《こづち》と代えて見て、左手の大根を以て、大黑天の二又大根《ふたまただいこん》と思へば、玆《ここ》で始めて。大黑天の化身の樣《やう》に思はる。けれども、何の緣《ゆかり》もないから、混合してはならぬ』と述られ、扨、其下段には、大黑天を『シヴアの息子ガネサ(歡喜天)の變名ではあるまいかと言はるるならば、理由もつくが、孰れにしても、硏究の餘地がある』と說《とか》れた。硏究の餘地が有るなら、何の緣もないと斷ずべからず。この文が發表されたは、大正十四年三月だつた。

 其一年餘前に、予は、大正十三年の子歲《ねどし》をあて込《こん》で、明《あく》る新年號の『太陽』に例年の順で、鼠の話を出すべく、十二年の十一月に、早く、其初分を草し、博文館へ送つた處ろ、九月震災の餘響で『太陽』も體裁を改むる事となり、永々《ながなが》、予を引立《ひきたて》て吳《くれ》た淺田江村君も退社し、予の原稿も、サランパン、一先づ、返却となって、予は、面《づら》を汚した泥鼠のチユウのねも出ず。其後、中村古峽君の望みで、十二禽の話の板權を賣渡《うりわた》したが、鼠の話は未完故、其儘、手許に殘し居り、其れには、歡喜天と大黑天と何の綠もない所《どころ》でなく關係大有りてふ說を述べある。此拙文は自分のみかは、誰が讀《よん》でも三嘆するから、歡喜・大黑二天のことを論ずる人の法螺《ほら》の種にもと、チト長文乍ら、其部分を全寫・解放と出かける。但し、大正十二年、後《あと》の年月を記した處だけは、只今、書加《かきくは》へる所に係る。

 大黑天の事は石橋臥波《いしばしぐわは》君の「寶船と七福神」てふ小册に詳述されたから、今成るべく鼠に關する事どもと、かの小册に見えぬ事斗《ばか》り述よう。皆人の知る通り、此神が始めて著はれたのは、唐の義淨法師の「南海寄歸内法傳」による。義淨は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸亨《かんこう》二年[やぶちゃん注:底本は「咸享」であるが、誤りなので訂した。六七一年。]、卅七歲で印度に往き、在留廿五年で歸つた時、奉佛、兼、大婬で、高名な則天武后、親《みづ》から、上東門外に迎へた程の傑僧で、「寄歸内法傳」は、法師が、彼《かの》地で目擊した所を記した、法螺《ほら》ぬきの眞實譚だ。石橋君の著は、其大黑樣の所を抄した迄で、誤字も、多少、あれば、今は、本書から引《ひこ》う。云く、又、西方諸大寺、皆な、食厨《くり》の柱側、或は、大庫の門前に、木を彫《ほり》て、二、三尺の形を表はし、神王[やぶちゃん注:底本は「神主」であるが、誤植と断じて訂した。]となす。其狀《かたち》、坐して、金囊を把《と》り、却つて小牀《せうしやう》に踞《きよ》し、一脚、地に垂《た》る。每《つね》に油を以て拭ひ、黑色、形を爲し、莫訶歌羅(マハーカーラ。「大神王」の義)といふ。卽ち、大黑神也。古代相承して云く、是れ、大天(印度《ヒンズー》敎の「シワ大神」)の部屬で、性、三寶を愛し、五衆を護持し、損耗、無からしめ、求《もとむ》る者、情に、稱《かな》ふ。但《ただ》、食時に至り、厨屋《くりや》每《ごと》に香火を薦《すす》むれば、有《あら》ゆる飮食《おんじき》、隨つて、前に列す、と。乃《すなは》ち、大黑神は、今も、印度で大陽相を以て表はし、盛んに崇拜するシワの眷屬乍ら、佛法を敬し、僧衆を護り、祈れば好《すい》た物を授ける。臺所で、香火を供へて願へば、忽ち、飮食を下さると云《いふ》のだ。扨、この邊から、義淨は、唯《ただ》聞いたままを記すといふ斷《ことわ》り書きをして、曾て釋尊大涅槃處へ建《たて》た大寺は、いつも、百餘人の僧を食《くは》せ居《をつ》た處ろ、不意に、五百人、押掛《おしかけ》たので、大《おほい》に困つた。所ろが、寺男の老母が、「こんな事は、いつも、ある。心配するな。」と云た儘、多く、香火を燃《もや》し、盛んに祭食を陳列して、大黑神に向ひ、佛涅槃の靈跡を拜みに、多勢の僧が參つた。「何卒、十分に飮食させて不足のないように。」と祈り、扨、一同を坐せしめ、寺の常食を與ふると、食物が、殖《ふえ》て、皆々、食ひ足《たり》たので、揃ふて、大黑天神の力を稱讃した、とある。大分、怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家は、孰れも信心厚く、行儀も良《よか》つたから、事に慣《なれ》た老婆の言を信じ切《きつ》て、百人前の食物が、五、六倍にふゑた[やぶちゃん注:ママ。]と思ひ定め、食《くひ》て不足を感じ無《なか》つた者だろう[やぶちゃん注:ママ。]。寺の住職の妻を、「大黑」といふも、專ら、臺所を司つて、大黑神同樣、僧共《ども》に、腹を減《へら》させないからで、頃日《けいじつ》。『大每』紙へ出た、大正老人の「史家の茶話」に、「梅花無盡藏」三上を引《ひい》て、足利義尙將軍の時、既に、僧の妻を「大黑」と呼《よん》だと證した。云く、長享《ちやうきやう》二年[やぶちゃん注:一四八八年。]十一月二十八日、宿房の大黑を招き、晨盤《しんばん》を侑《すす》む。其體《てい》、蠻《ばん》の如し、戲れに詩を作《つくり》て云く、宿房大黑侑晨炊、合掃若耶溪女眉、好在忘心無一點、服唯繒布語蠻夷〔宿房の大黑 晨炊(しんすい)を侑(すす)む 合(まさ)に若耶溪(じやくやけい)の女(ぢよ)の眉(まゆ)を掃(は)くべきに 好在忘心(かうざいばうしん) 一點も無し 服は唯(ただ) 繒布(そうふ)して 語(ことば)は蠻夷(ばんい)なり〕[やぶちゃん注:「繒布」彩った絹織の布。あやぎぬ。]。意味はよく判らないが、當時、はや、夷子《えびす》・大黑を對稱した丈《だけ》は判る。高田與淸《ともきよ》は、「松屋筆記」七五に、大黑の槌袋に關し。「無盡藏」卷四を引《ひき》乍ら、卷三の、僧の妻を、「大黑」といふ事は、氣付《きづか》なんだ者か。

 永祿二年[やぶちゃん注:一五五九年。]、公家藤原某作てふ「塵塚《ちりづか》物語」卷三に、卜部兼倶《うらべかねとも》、說として、大黑と云は、元と、大國主命也。大己貴《おほなむち》と連族《むらぢぞく》にて、昔、天下を經營し玉ふ神也。大己貴と同じく、天下を運《めぐ》り玉ふ時、彼《かの》大國主、袋の樣なる物を、身に隨へて、其中へ、旅產《りよさん》を入《いれ》て、廻國せらるるに、其入物《いれもの》の中の糧《かて》を用ひ盡しぬれば、又、自然に滿《みて》り。其に依《より》て後世に福神《ふくじん》と云《いひ》て尊《たつと》むは、此謂れ也と云々、然して、其後ち、弘法大師、彼《かの》「大國」の文字を、改めて、「大黑」と書《かき》玉ひけると也、と記す。かく、「大黑天」は、「大國主命」を佛化したといふ說は、足利氏の代、既に在《あつ》たので、「古事記」に、大國主の兄弟八十神、各《おのお》の、稻羽《いなば》の八上《やかみ》姬を婚せんと、出立《いでた》つに、大國主に、袋を負《おは》せ、從者《すざ》として往《いつ》た話、あり。本居宣長、其賤役《せんえき》たるをいひ、事《こと》功《こう》の人に、後《おく》るゝ者を、今も「袋持ち」といふと述た。海外にも、マオリ人は、脊に食物を負うを、「賤民」とす(一八七二年伯林《ベルリン》板、ワイツとゲルランドの「未開民人類學」、六卷、三四五頁)。大國主も糧袋《かてぶくろ》を負《おふ》たとみえ、大黑神も、飮食不盡の金嚢を持《もつ》た所が似居《にを》るから、大國主の袋をも、「不盡の袋」と見て[やぶちゃん注:ここ以下は、底本の画像の順が入れ替わってしまっている。アドレス末「206に「三八八」及び「三八九」があり、次の「207に「三八六」及び「三八七」頁がある(というか、「208」には正しい画像が再度出る)。注意されたい。]、二神を合一したのだ。

 次は槌だ。「譚海」一二に、日光山には、「走り大黑」といふあり、信受の者、懈怠《けたい》の心、有《あれ》ば、走り失《うせ》て、其家に座《ましま》さず。殊に靈驗ある事、多し。是は、往古、中禪寺に、大《だい》なる鼠、出《いで》て、諸經を喰ひ敗《やぶ》り、害をなせし事ありしに、其鼠を追《おひ》たりしかば、下野《しもつけ》の足緖《あしを》まで逃《にげ》たり。鼠の足に、緖《を》を付《つけ》て、捕へて、死《しし》たるにより、其所《そこ》を「足緖」と云《いふ》とぞ、「足緖」は「足尾」也。扨、死たる鼠の骸《むくろ》に、墨を塗《ぬり》て、押す時は、其儘《そのまま》、「大黑天の像」に成《なり》たり。其より、日光山に、此鼠の死たる骸を重寶《ちやうはう》して、納め置き、今に「走り大黑」とて、押出《おしいだ》す。御影《みえい》は是也、と記《しる》す。一昨年、某大臣、孟子が、所謂、『大王、色を好んで、百姓と共にせん。』との仁心より賴まれた「惚藥《ほれぐすり》」の原料を採りに、中禪寺湖へ往《いつ》た時、「篤《とく》と、此大黑を拜まう。」と心掛けて滯在して、米屋旅館に、岩田梅とて、芳紀二十三歲の、丸ボチャ クルクル猫眼《ねこめ》の仲居頭《なかゐがしら》あり。嬋娟《せんけん》たる花の顏《かん》ばせ、耳の穴をくじりて、一笑すれば、天井から、鼠が落ち、鬢《びん》のほつれを搔き立てて、枕のとがを憾《うら》めば、二階から、人が落ちる。南方先生、其の何やらのふちから溢《あふ》るるばかりの大愛敬《だいあいきやう》に、鼠色の涎《よだれ》を垂《たら》して、生處《せいしよ》を尋ねると、足尾の的尾《まとを》の料理屋の娘と云《いふ》から、「十分、素養もあるだらう、どうか一緖に、『走り大黑』、身は桑門《さうもん》となる迄も、生身《なまみ》の大黑天と崇め奉らん。」と、企《くはだ》つる内、唐《からつ》けつに成《なつ》て下山し、トウトウ[やぶちゃん注:ママ。]「走り大黑」を拜まなんだ。全く、惚藥取りが、惚藥に中毒したのだ。其節、『集古』會員上松蓊《うへまつしげる》君も同行したから、彼女の尤物《いうぶつ》たる事は、同君が保證する。彼《あの》邊へ往《いつ》たら、尋ねやつて吳《くれ》玉へ。

[やぶちゃん注:「譚海」の当該分は所持する「日本庶民生活史料集成」版で校合した。実は「足緖」の部分は、本文は、ひらがなで、なお且つ、「あしほ」となっている。しかし、これは明らかに現在の栃木県日光市足尾町(あしおまち:グーグル・マップ・データ)のことだから、「あしを」が正しいので、そちらを採った。因みに、「譚海」では、冒頭に『大黑天は梵語にアカキヤラ天と稱す、マカキヤラは眞黑成事也。……』で始まる大黒天の考証があるが、熊楠には都合が悪かったからか、カットしている。なお、以上の引用の末尾は、『彼山の祕事にて不可思議也。』で終わっている。

「嬋娟」あでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。

「的尾」不詳。地名ではなく、屋号か。]

 件《くだん》の「譚海」の文に據れば、鼠が神に成《なつ》て大黑天と現じた樣だが、「滑稽雜談」二一には、大黑天神は厨家《くりや》豐穰の神なるが故に、世人《せじん》、鼠の來つて、家厨《くり》の飮食倉庫の器用を損ずるを、此神に祈る時、十月の亥《ゐ》の日を例として、子(ね)の月なる十一月の、子(ね)の日を(祭りに)用ゆるなるべし、と記す。「梅津長者物語」には、鼠三郞、「野らねの藤太」等《ら》の賊が、長者の宅を襲ふと、大黑、眞先に打つて出で、「打出の小槌」で、賊魁を打ち殺す事、あり。是ぢや、大黑は、時に鼠や賊を制止・誅戮《ちゆうりく》し、其槌は殺伐《さつばつ》の具と成つて居《を》る。

[やぶちゃん注:「鼠三郞」国立国会図書館デジタルコレクションで活字本の「梅津長者物語」を見たが、これ、「えひす」()「三郞」の誤記か誤植ではなかろうか。]

 槌は、いかにも、大黑の附き物で、繁昌を此神に祈つて、「鼠屋」、又、「槌屋」と家號したのが、ある。京で名高い柄糸(つかいと)を賣る「鼠屋」に紛はしく、「栗鼠(りす)屋」と名のる店が出た話あり(寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]板、「子孫大黑柱」四)。伊勢の「御笥《おたんす》作り」内人《うちんど》土屋氏は、昔し、「槌屋」と稱へ、豪富なりしを、惡(にく)み、數十人、圍み、壞《やぶ》りに掛《かか》り、反《かへ》つて、敗北した時、守武の狂歌に、「宇治武者は千人ありとも、炮烙《ほうろく》の槌一つには叶はざりけり」、「蛆蟲」を「宇治武者」に云《いひ》なしたので、當時、「焙烙千枚、槌一つに叶はぬ。」てふ諺が有たらしい(「石崎文雅鄕談」[やぶちゃん注:「鄕」は底本「卿」だが誤植と見て、訂した。])。それから娼屋には、殊に、「槌屋」の家號、多く、例せば、寶永七年板「御入部伽羅女《ごにふぶきやらをんな》」四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衞方に及んで、「したるい目付き掃部《かんべ》さま、これが『槌屋』の大黑也。」と、此娼を、家の大黑柱に、比べおる[やぶちゃん注:ママ。]。四壁庵の「忘れ殘り」上卷に、吉原江戶町三丁目、佐野槌屋の抱かかえ遊女「黛(まゆずみ)」」、美貌無双、孝心、篤《あつ》く、父母の年忌に、廓中・其外、出入《でいり》の者まで、行平鍋《ゆきひらなべ》を、一つヅヽ、施したり。「わがかづく多くの鍋を施して、萬治《ばんぢ》この方《かた》にる者ぞなき」と、ほめある。是等よりも、ずつと、著はれたは、安永二年、菅專助《すがせんすけ》作「傾城戀飛脚《けいせいこひのたより》」で、全國に知れ渡り、「忠兵衞は上方者で二分《にぶ》殘し」と吟ぜられた「龜屋」の亭主を、しくじらせた、北の新地「槌屋」の抱え、「梅川《うめがは》」ぢや。

[やぶちゃん注:「行平鍋」単に「行平」とも呼ぶ土鍋の一種。厚手の陶器製で、蓋・持ち手・注ぎ口がついている。加熱が緩やかで、保温性に富み。粥・重湯(おもゆ)を炊くのに適する。塩を焼く器から起こった名と伝えられ、在原行平が、須磨で、塩焼の海女と親しんだ故事に因むとされる。]

 槌は、只今、藁を打《うつ》たり、土を碎いたり、辨慶が七つ道具に備はつたり位は芝居で見るが、專用の武器とはみえず。

 だが、昔し、景行天皇、ツバキの槌を猛卒《まうそつ》に持たせ、誅殺し玉ふ(「日本紀」七)、此木は、今も、犬殺しが用ひ、身に、極めて痛く、當る。「史記」には、槌を以て朱亥《しゆがい》が晉鄙《しんひ》を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事、あり。北歐の雷神トール、百戰百勝するに、三《みつ》の兵寶《へいはう》あり。先づ、山を擊たば、火が出る大槌、名はムジョルニル、此神、之を以て、山と霜の大鬼を殺し、無數の鬼屬を誅した。次は、身に卷けば、神勇、二倍する帶で、第三には、大槌を執る時の手袋だ(マレーの「北歐考古編」、ボーンス文庫本、四一七頁)。吾邦でも、時代の變るに伴ふて、兵器に興廢あり。砲術、盛んならぬ世には、槍を貴《とうと》び、幾人、槍付けたら、鼈甲《べつかう》柄の槍を許すとか、本多平八の「蜻蜒《とんぼ》切り」抔、名器も多く出で、「昭代記」に、加藤忠廣、封を奪はれた時、「淸正」傳來の槍を折《をり》て武威の竭《つき》たるを示したと記す。槍より先は。刀劍で、「劍の卷」抔、名刀の威德を述べ、是さえ[やぶちゃん注:ママ。]有《あれ》ば、天下治まる樣に言ひ居り、又、弓矢を武威の表徵の如く唱へた。支那でも兵器の神威を說《とい》た者で、越王、「泰阿」《たいあ》の劍」を揮えば[やぶちゃん注:ママ。]、敵の三軍、破れて、流血千里、「湛盧《たんろ》の劍」は、吳王の無道を惡《にく》んで、去《さつ》て楚に往《いつ》たといひ、漢高祖が白蛇を斬った劍は、晉の時、自《おのづか》ら、庫の屋を穿《うが》つて、火災を遁《のが》れ、飛去《とびさつ》た由で、漢より晉迄、此劍を、皇帝の象徵と尊んだらしい。柬埔寨《カンボジア》でも傳來の金劍を盜まば、王となり、是れなくば、太子も王たるを得ず(「淵鑑類函」二二三。「眞臘風土記」。)。漢土で、將軍出征に斧鉞《ふえつ》を賜ふ、とあるは、三代の時、以前、之を以て、人を斬《きつ》たからで、「詩經」に武王鉞(マサカリ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を執《とれ》ば、其軍に抗する者、なし、とある。上古の人が遺した石製の斧や槌は、雷斧《らいふ》・雷槌《らいつい》など、歐・亞、通稱して、神が用いた武器と心得、神の表徵とした。博物館で、數《しばし》ば見る通り、斧とも槌とも判らぬ「間(あい)の子」的の物も多い。王充の「論衡」に、漢代に、雷神を𤲿《ゑが》くに、「槌で連鼓を擊つ」とした、と有《あれ》ば、其頃、既に「雷槌」てふ名は有たのだ。古希臘羅馬共に、斯《かか》る石器を神物とし、今日、西阿《にしアフリカ》に於る如く、石斧に誓ふた言《ことば》を、羅馬人は、決して違《たが》へず、契約に背《そむ》く者、有《あら》ば、祝官、石斧を牲豕《せいし》[やぶちゃん注:生贄の豚。]に投付《なげつけ》て、「此の如くに、ジュピテル大神が、違約者を、雷で、打て。」と唱えへ、北歐では誓約するに、雷神トールの大槌ムジョルニルの名を援《ひい》た。是れ、今日、競賣の約束固めに、槌で案《つくえ》を打つ譯である(一九一一年板、ブリンケンベルグの「雷の兵器」、六一頁)。刀・鎗・弓矢の盛行くした世に、刀・鎗を神威ありと見た如く、石器時代には、斧や槌が、武威を示す絕頂の物だった遺風で、神威を、斧や槌で表はす事となり、厨神《くりやがみ》「大黑」も、中々、武備も怠り居らぬといふ標《しる》しに、槌を持《もた》せたのが、後には、財寶を打ち出す槌と斗《ばか》り心得らるるに及んだと見える。「佛像圖彙」に見る通り、觀音廿八部衆の滿善車王《まんぜんしやわう》も、槌を持ち、辨財天、亦、槌を持つらしい。「大方等大集經」二二には、過去九十一劫毘婆尸佛の時、曠野菩薩、誓願して、鬼身を受《うけ》て、惡鬼を治《ぢ》す、金剛槌の咒《じゆ》の力を以て、一切惡鬼をして、四姓に惡を爲《な》す能《あた》はざらしむ。「一切如來大秘密王微妙大曼挈羅經《いつさいによらいだいひみつわうみめうまんだらきやう》」一には、一切惡及び驚怖障難を除くに、普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徵とした程、見るべし。佛敎外には、エトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。。本邦にも、善相公と同臥した侍童の頭を、疫鬼に、槌で打れて、病出《やみだ》し、染殿后を犯した鬼が赤褌《あかふんどし》に槌をさし居《をつ》たといひ、支那の區純ちう人は、槌で鼠を打《うつ》たといふ(一八六九年板、トザーの「土耳其《トルコ》高地探究記」、二卷三三〇頁。「政治要略」七〇。「今昔物語」二〇の七。「搜神記」下)。何れも、槌が、本《も》と、凶器たり、今も凶器たり得るを證する。〔(增)(大正十五年九月八日記)蒙昧の民が、いかに、斧を重寳な物とし、之をもつ者を羨やんだかは、一八七六年板、ギルの、「南太平洋之神誌及歌謠」二七三頁註を、みて、知るべし。〕

 石橋君は、『「大黑天に鼠」は、本と、クベラ神像と混《こん》じたので、クベラの像は金囊其他の寶で飾つた頭巾を戴だき、玉座に踞し、傍らに、金囊から、財寶をまく侍者、あり。後には、侍者の代りに鼠・鼬と成《なつ》た。日本の大黑が、嚢を負ひ、鼠を隨へるは、是に因ると云《いふ》た人、あり。』と言《いは》れた。クベラ、乃《すなは》ち、毘沙門で、印度《ヒンズー》敎の說に、梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て、梵天王に歸し、梵天王、其《その》賞《しやう》に、不死を與へ、福神とした。「羅摩衍《ラーマヤーナ》」に、數《しばし》ば、クベラを、「金と冨の神」と稱へたが、後世、印度で、一向、持囃《もてはや》されず、其𤲿も、像も、見及ばぬ(一九一三年板、ヰルキンスの「印度鬼神誌」四〇一頁)。之に反し、印度以北では大持《おほも》てで、「福神毘沙門」と敬仰さる。印・佛二敎共に、之を北方の守護神とし、支那では、古く、子《ね》は、北方、其獸は鼠としたるに融合して、印度以北の國で、始めて、鼠をクベラ、乃《すなは》ち、毘沙門の使ひ物としたのだ。日本でも、叡山の鼠、禿倉《ほこら》の本地、毘沙門といひ(「耀天記」)、橫尾明神は、本地、毘沙門で、盜《ぬすみ》を顯《あら》はす爲に祝奉るといふ(「醍醐腮雜事記」)抔、其痕跡を留むる。山岡俊明等、此印度以北の支那學說と、印度本土の經說の混淆地で作られた大乘諸經に見ゆれば迚《とて》、支那の十二支は印度より傳ふ抔言ふも、印度に、本と、五行の、十二支の、という事も、鼠を北方の獸とする事も、毘沙門の使とする事も、ない(『人類學雜誌』、第三四卷第八號、拙文「四神と十二獸に就て」參看[やぶちゃん注:私のPDF一括版『「南方隨筆」底本四神と十二獸について(オリジナル詳細注附)』を参照。])。去《され》ば、石橋君が聞及《ききおよ》んだクベラ像は、印度の物でなくて、多少、支那文化が及び居《をつ》た中央アジア邊の物だろう[やぶちゃん注:ママ。]。中央亞細亞に、多少、鼠を毘沙門の神獸とした證據なきに非ず。十二年前「猫一疋から大冨となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ國(今のコーテン[やぶちゃん注:「崑崙」のことか。])王は毘沙門天の後胤といふ。昔し、匈奴、此國に寇《こう》した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から、甲冑から弓絃《ゆづる》まで、紐や絲《いと》を、悉く、鼠群が嚙斷《かみたつ》たので、匈奴軍、詮術《せんすべ》を知らず、大敗した、王、鼠の恩を感じ、鼠を祭り、多く、福利を獲《え》、若《も》し、祭らないと、災變に遭ふ、と、出づ。似た事は「東鑑」に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し、甲斐源氏を伐《うた》んと、富士北麓に宿つた。其兵の弓絃を、鼠に嚙盡《かみつく》されて、敗軍した、と、あり。ヘロドトスの「史書」にも、埃及王が、クサタナ王同然、鼠の加勢で、敵に勝った話を出す。「宋高僧傳」一には、天寶中[やぶちゃん注:盛唐の玄宗の治世後半に使用された元号。七四二年~七五六年。]、西蕃・大石・康の三國の兵が。西凉府を圍み、玄宗、不空をして、祈らしめると、毘沙門の王子、兵を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、府を救ひ、敵營中に、金色の鼠、入《いり》て、弓絃を、皆、斷《たつ》たから、大勝し、其より、城樓、每《るね》に天王像を置《おか》しめたと記す。「天主閣」の始めとか。右の諸文で、唐の時、既に、鼠を毘沙門の使者としたと知る。

 今日、印度では、鼠を、ガネサ(歡喜天)の乘り物とす。大黑は、シワ大神の部屬と云《いふ》たが、ガネサは、シワの長男だ。シワの妻、烏摩后《うまかう》、子、なきを、憂へ、千人の梵士を供養して、韋紐《ヴィシュヌ》に禱《いの》り、美妙の男兒を生み、諸神、來賀した。中に、土星、有りて、土のみ、眺めて、更に、其兒《こ》を見ず。烏摩后、其故を問ふに、「某《それが》し、韋紐を專念して、妻が、いかに、彼《か》の一儀を勤むるも顧みず、『川霧に宇治の橋姬朝な朝な、浮きてや空に物思ふ頃』外《ほか》にいいのが有《ある》んだろう[やぶちゃん注:ママ。]と、九月一日の東京乎《か》として大燒《おほやけ》に燒けた妻が、某《それがし》を詛《のろ》ふて、『別嬪・醜婦を問《とは》ず、一切の物を、吾夫が眺めたら最後、忽ち、破れろ。』と、詛ふた。因て、新產の御子《おこ》に見參《けんざん》せぬ。」と、聞きも畢《をは》らず、后は、子自慢の餘り、「初產祝《うひざんいは》ひにきて、其子を見ないは、一儀に懸りながら、キツスをしない如しと怨む。「そんなら、必ず、後悔、あるな。」と、念を押した上、一目、眺むると、新產のガネサの頸、矢庭に切れて、飛失《とびうせ》た。吾邦にも、男の持戒をいやに疑ふて禍《わざはひ》を招いた例、あり。永祿十二年[やぶちゃん注:一五六九年。]十月、武田信玄、三增山《みませやま》の備え[やぶちゃん注:ママ。]を、小田原勢が擊《うつ》て、大敗した時、北條美濃守氏輝の身、危ふきに臨み、心中に、飯綱權現《いひづなごんげん》を賴み、「此命、助け玉はば、十年間、婦女を遠ざけます。」と誓ふた。處え[やぶちゃん注:ママ。]、師岡某、やつえ來り、馬を讓り、禦《ふせ》ぎ戰ふ間に、氏輝は免《のが》れた。歸宅後、夫人が、いかに思ひの色をみせても、構ひ付けず、此夫人は幾歲だつたか書《かい》てゐないが、其時、氏輝の同母兄氏政が卅三だから、氏輝は卅歲斗《ばか》り、隨つて、夫人も廿七、八、縮れ髮たつぷりの、年增盛りだつたでせう。婦女之身三種大過、何等爲、所謂婦女戶門寬大、兩乳汁流是名三種云々〔婦女の身、三種、大過《たいくわ》、何等(なんら)、三と爲す、所謂(いはゆる)、婦女の戶門、寬大なる、兩乳(りやうち)、汁(しる)流るる、之れ、「三種」と名づく云々。〕(「正法念處經」四五)、去《され》ば、「都傳摸年增東夷邊伐廣夷樣」〔「都傳摸(とても)年增(としま)東(と)夷邊伐(いへば)廣夷(ひろい)樣(やう)」其《その》廣夷《ひろい》野《の》に飽き果て、散播都天門《さはつても》吳弩《くれぬ》と、嘆《かこ》ちて、自害した。氏輝は、遺書を見て、不便《ふびん》がり、一生、女と交わらなんだ、と、あるが、後年、秀吉の命で、自裁した時、愛童《あいどう》山角定吉《やまかくさだきち》十六歲、今、打ち落した氏輝の首を、懷《いだ》いて走つた志を、家康、感じて、罰せず、麾下《きか》に列した、と有る(「野史」一二六)は、自分の家から火を出し乍ら、大睾丸の老爺を負《おひ》て逃《にげ》たので、褒美された樣な咄し。蓋し、氏輝は、女は遠ざけたが、「若衆遠《わかしうとほ》[やぶちゃん注:若衆道。]を春留《はどめ》する波は構はぬ庚《かのえ》さる」、小姓を愛し通したのだ。扨、烏摩后、首なき子の骸《むくろ》を抱《いだき》て泣出《なきだ》し、諸神、倣《なら》ふて、亦、泣く時、ブシュパブハドラ[やぶちゃん注:「金翅鳥」(こんじちょう)。ガルーダ。]、河へ飛《とび》ゆき、睡《ねむる》象の頭《かしら》を切《きつ》て、持來《もちきた》り、ガネサの軀《からだ》に繼《つい》でより、此神、今に、象頭だ。是れ、本邦慾張り連が子孫七代いかに落《おち》ぶれても頓着せず、「吾一代、儲けさせ玉へ。」と祈つて、油餅を配り廻り、之を食つた奴の身代、皆な、自分方へ飛んでくるように願ふ、歡喜天、又、聖天、是也。今も、印度人、此神を奉ずる事、盛んで、學問や事始めや、「障碍《しやうげ》よけ」の神とし、婚式にも祀《まつ》る。障碍神《しやうげじん》毘那怛迦《びなたか》も。象鼻あり。象、よく道を塞ぎ、又、道を開く故、障碍除・障碍神ともに、象に形どつたのだ。日本でも、聖天に、「緣祖」、又、「夫婦和合」を祈り、二股大根を供ふ(一八九六年板、クルックの『北印度俗敎及民俗』、一卷、一一一頁。アイテル「梵漢語彙」、二〇二頁。「增補江戸咄」五)。其名を、商家の帳簿に題し、家を立《たつ》る時、祀り、油を、像に、かけ、餅や大根を供ふる抔、よく「大黑祭」に似る。又、乳脂で煠《あげ》た餠を奉るは、本邦の聖天供《しやうてんぐ》の油煠げ餅に酷似す。其像形、象首・一牙で、四手に、瓢《ひさご》と、餅と、斧と、數珠をもち、大腹、黃衣で、鼠にのる(ジャクソンの「グジャラット民俗記」、一九一四年、ボンベイ板、七一頁)。佛典にも、宋の法賢譯「頻那夜迦天《びなやかてん》成就儀軌經」に、此神の像を、種々に造り、種々の法で祭り、種々の願《ねがひ》を掛くる次第を、說きある。聚落《しゆうらく》、人を、みな、戰はせ、人の酒を、腐らせ、美しい童女をして、別人に嫁《とつ》ぐを、好まざらしめ、夢中に、童女と通じ、市中の人を、悉く、裸で、躍らせ、女をして、裸で、水を負《おふ》て躍らせ、貨財を求め、後家に惚《ほれ》られ、商店を、はやらなくし、夫婦を睦くし、自分の身を、人に見せず、一切、人民を、狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に俱移等《ぐいと》來《こ》させ、帝釋天に打ち勝ち、人を馬鹿にして、其妻女・男女を取り、人家を燒き、大水を起し、其他、種々雜多の惡事・濫行を、歡喜天のお蔭で、成就する方《はう》を述べある。ダガ、餘り、大きな聲で數え立てると、叱られるから、やめる。

 斧と槌が、本《も》と、同器だつた事は上に述《のべ》た。晉の區純《おうじゆん》は、鼠が門を出かかると、木偶《でく》が、槌で打ち殺す機關《からくり》を作つた(「類函」四三二)。北歐のトール神の槌は、專ら、抛《なげう》つて、鬼を殺した。其如く、大黑の槌は、ガネサの斧の變作《へんさく》で、厨《くりや》を荒らす鼠を、平《たひら》ぐるが、本意とみえる。又、現今、韋紐《ヴィシュヌ》宗徒の追善用の厨器《ちゆうき》に、ガネサを𤲿く等より、大黑が、全然、ガネサの變形でない迄も、其形相《ぎやうさう》は、多く、ガネサより因襲したと惟《おも》はる。唐の不空が、詔を奉じて譯した「金剛恐怖集會方廣軌儀觀自在菩薩三世最勝心明王經」といふ、法成寺《ほふじやうじ》から、ツリを取る程、長い題目の佛典に、摩訶迦羅天《まかからてん》は大黑天也、象皮を披《ひら》き、橫に一槍《いつさう》を把《とる》云々。石橋君が、其著八六頁に「一切經音義」より、文、「諸尊圖像鈔」より、圖を、出したのをみるに、日本化しない大黑天の本像は、八臂《はつぴ》で、前の二手に、一劍を橫たへた狀《かたち》が、現今、印度のガネサが一牙を、口吻《こうふん》に橫たへたるに似、後ろの二手で、肩上《かたうへ》に一枚の白象皮《はくざうがは》を張り、而して𤲿にはないが、文には、足下に一《ひとり》の地神女《ぢしんぢよ》あり、双手で、其足を受く、とある。象皮を張《はつ》たは、大黑、もと、象頭のガネサより轉成せしを示す。ボンベイの俗傳に、ガネサ、其乘る所の鼠の背より、落ち、月、之を笑ふて、罰せられた、という事あり(クルック、一卷一三頁)。大黑像も、ガネサより因襲して、鼠に乘り、若《もし》くは、踏み居つたが、梵徒は、鼠を忌む故(一九一五年、孟買《ボンベイ》板、ジャクソンの「コンカン民俗記」八四頁)、追ひ追ひ、鼠を廢し、女神を代用したと見える。

 明治廿四、五年の間、予、西印度諸島にあり、落魄《らくはく》して、象藝師につき、廻つた。其時、象が些細《ささい》な蟹や、鼠を見て、太《いた》く不安を感ずるを睹《み》た。其後ち、「五雜俎」に、象は鼠を畏《おそ》る、と、あるを、讀《よん》だ。又、「閑窓自語」を見るに、『享保十四年[やぶちゃん注:一七二九年。]、廣南國[やぶちゃん注:現在のベトナムの中・南部に存在した阮(グエン)氏の王朝。]より、象を渡しし術を聞きしに、此獸《けもの》、極めて、鼠をいむ故に、舟の内に、程《ほど》を測り、箱の如き物を拵へ、鼠をいれ、上に、網を、はりおくに、象、之をみて、鼠を外へ出《いだ》さじと、四足にて、彼《かの》箱の上を、ふたぐ。之に、心を入るる故に、數日《すじつ》、船中に立つ、とぞ。然らざれば、此獸、水をも、えたる故に、忽ち、海を渡りて、還るとなむ。』と、有《あり》。此事、「和漢書の外《ほか》、亦、有《あり》や。」と、疑問を、大正十三年、龍動《ロンドン》發行『ノーツ・エンド・キーリス』一四六卷三八〇頁に出したを、答えが出ず。彼是する内、自分で見出《みいだし》たから、十四年七月の同誌へ出し、英書に、此事、記しあるを、英人に敎え[やぶちゃん注:ママ。]やつた。乃《すなは》ち、一九〇五年龍動出板、ハズリットの「諸信及俚傳」一の二〇七頁に『觀察に基づいた信念に、象は、野猪の呻《うめ》き聲のみならず、トカゲ等の、小さい物に逢《あつ》ても、自《みづか》ら防ぐ事、六《むつ》かしと感じ、駭《おどろ》く、と、いう事、あり。歐州へ將來する象を見るに、藁の中に潛むハツカ鼠をみて、狼狽するが、常なり。」と載《の》す。かく、象が、甚《いた》く、鼠を嫌ふ故、大黑が鼠を制伏した體《てい》を表《あらは》して、神威を揭げた事、今日、印度で、象頭神ガネサが、鼠にのる處を𤲿き、昔、希臘のアヴロ神が、クリノスより獻じた年供《ねんぐ》を盜んだ鼠を、射殺《いころ》したので、其神官が、鼠に乘る體《てい》を𤲿いたと、同意と、考ふ、と書き了《をは》つて、グベルナチス伯の「動物譚原」二の六八頁を見るに、ガネサは。足で、鼠を踏み潰すとある故、益《ますま》す自見の當れるを知つた。古羅馬の地獄王后ブロセルビナの面帽は、多くの鼠を、散らし縫つた(一八四五年、巴里板、コラン・ド・ブランシーの「妖怪辭彙」三九三頁)。鼠は、冬蟄《ふゆごもり》し、此女神も、冬は地府に歸るを、表はしたのだ。其から推して、大黑、足下の女神は、「鼠の精」と知《しれ》る。去《され》ば、增長・廣目二天が、惡鬼・毒龍をふみ、小栗判官《をぐりはんぐわん》、和藤内《わとうない》が悍馬《かんば》・猛虎に跨《また》がる如く、ガネサに模し作られた大黑天は、初め、鼠を踏み、次に、乘る所を、像に作られたが、厨神として、臺所荒しの鼠を制伏するの義は、上述、中禪寺の「走り大黑」位い[やぶちゃん注:ママ。]に痕跡を留め、後には、專ら、之を愛し使ふ樣《やう》思はるるに及んだのだ。「淇園一筆《きえんいつぴつ》」に、大内《おほうち》で、甲子祭《きのえねまつり》の夜、紫宸殿の大黑柱に、供物を祭り、箏《こと》一張で、四辻殿《よつつじどの》、「林歌《りんが》」の曲[やぶちゃん注:雅楽の曲名。]を奏す。是れ、本より、大極殿の樂也。此曲を舞ふ時、舞人《まひびと》、甲《かぶと》に鼠の形をつけ、上の裝束も、色糸で、幾つも鼠を縫付《ぬひつく》る、とある。是も、大黑に緣ある甲子の祭りに、其の使ひ物の鼠を、愛し翫《もてあそぶ》樣《やう》だが、本《もと》は、鼠が、大黑柱を始め、建築諸部を損ぜぬ樣、鼠を捉ふる「まね」して、之を厭勝《えんしやう》したので有《あら》う。

[やぶちゃん注:以下の附記一段は、底本では、全体が一字下げである。]

 以上、大正十三年正月、『太陽』え[やぶちゃん注:ママ。]出すべく、綴つた鼠の話の内、本題に關する所を寫し取り、其後、知《ち》、及んだ事を、少しく、書加《かきくは》へたもので、歡喜天と大黑天の間に、相纏《あひまと》はつた著しい關係あるを、證するに、十分と思ふ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 九二番 狼石

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      九二番 狼 石

 

 南部と秋田の國境に、たつた二十軒ばかりの淋しい村がある。此村から秋田の方へ越えて行く峠の上に、狼の形をした石が六個並んでゐる。正月の十七日の夜には此石の狼どもが悲しさうな聲を張り上げて啼くといふ話が村には昔から言ひ傳へられてゐた。

[やぶちゃん注:この峠について、考証してみた。まず、非常に参考になったのは、「国土交通省 東北地方整備局 秋田河川国道事務所」公式サイト内にあると思われる雑誌記事らしきページ画像の「歴史の道をゆく 来満街道――③」PDF)で、ここに出る「来満(らいまん)峠越え」と「不老倉(ふろうぐら)峠越え」が目に止まった。着目したのその後者の記載で、ここには嘗て銅山があり、『不老倉鉱山は四角岳の北側に位置し、天和(てんな)元年』(一六八一)『に発見されたいわれる。もとの名は狼倉(オイヌ倉)だったが、延享(えんきょう)四年』(一七四七)『に南部藩の直営になって不老倉と改称。当地では古来、オオカミをオイヌ(御犬)・オエヌと呼んで山神の使いとして尊び、オイヌに老いぬ=不老を重ねて、鉱山の繁栄を願ったものらしい』。『しかしその隆盛は短く、南部藩は寛政』六『年』(一七九四)、『産出量減少かや、雪崩による施設の崩壊を理由に休山届けを出している』。ここより北方向にある『来満峠越えの道は、この間の不老倉銅山の銅を野辺地に送るとともに、鉱山集落と三戸側を結ぶ生活道路として開かれたと考えられている。この道が本格的に整備されたのは明治に入り』、『同鉱山再建されてからだった。明治』一一(一八七八)『年、古河鉱業が採鉱を始めて発展』し、『大正の最盛期には、人口』五~六『千人ほどになり、多くの長屋が立ち並び、小学校』二『校、鉱山事務所、役所、郵便局、娯楽施設などがあった』とある。現在のグーグル・マップ・データ航空写真では(中央附近)、孰れも全く俤はない。現代の地図では峠名も出ないが、「ひなたGPS」の戦前の地図で両峠を確認出来る。しかし、既にして人家や施設の記号は孰れにも見られない。

 或寒い日であつた。朝からチラチラと雪が降つてゐて、夕方になるとそれが大吹雪(オホブキ)に變つた。此時どこからさまようて來たのか、みすぼらしい姿をした旅の巡禮の母娘の者が重い足を引きずりながら村に入つて來た。そして家々の門口(カドグチ)に立つて、一夜の宿を乞ふたが、何《ど》の家でも何の家でも泊めてくれなかつた。

 そのうちに吹雪はますます强くなるので、母娘の者は泣きながら一軒々々と寄つて步いて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]村端《むらはづ》れの二十軒目の家の戶口に立つた。其家の女房は親切に、俺ア家では旦那(ダナドノ)が八ケ間敷《やかまし》くて泊められないけれど、これから十町[やぶちゃん注:約一・〇九一メートル。]程行くと龍雲寺と云ふお寺があるから其所へ行つて賴んでみてがんセ、泊めてくれますべえからと敎へてくれた。そこで母娘が其寺へ行つて賴むと、住職が出て來て俺の所ではお前達のような人を泊める所はないが、ただ本堂の軒下でもよかつたら遠慮なく泊まつて行くがいゝと言つた。

 旅の母娘は吹雪の吹き込む本堂の軒下に抱き合つてゐたが、和尙はその姿を見て、可愛想な奴等だ。今夜の中《うち》に狼に喰はれてしまうだんべえがと言つてゐた。

 其夜は大變な大吹雪になつた。眞夜中頃になると山の方から狼どもの叫び聲が、吹雪の合間合間から聞えて來た。その叫び聲がだんだんと寺の方へ近づいて來た。母娘の者はあまりの恐ろしさに堅く抱き合つて顫《ふる》へてゐた。庫裡の方では狼の吠える物凄い聲を聽きながら、あゝ遂々《たうとう》狼がやつて來たなア。いよいよ彼《あ》の母娘の者がとつて喰はれてしまう[やぶちゃん注:ママ。]だらうと和尙は言つて居たが、寺の内へは入れやう[やぶちゃん注:ママ。]ともしなかつた。

 夜が明けた。和尙は早く起きて、本堂の軒下へ行つて見ると、案の定其所には母娘の姿は見えないでたゞ隅の方に古い笠が一個置かれてあつた。それでてつきり巡禮の母娘は昨夜の狼どもに喰はれたものと思つて居た。

 それから一月ばかり經つた或日、和尙は隣村に用事があつて行つて、夜遲く山路を歸つて來ると、背後(ウシロ)の方から狼の鳴き聲が聞えて來た。あれアと思つて怖しさに夢中になつて走り出すと、何時《いつ》の間にか和尙が駈けて來る路傍に六疋の大狼《おほおおかみ》が待ち伏せをしてゐて、和尙を喰ひ殺してしまつた。それからは村人が其所を通る時はいつも、狼が出て來て吠え立てるので、村中は一層難儀をした。

 或時村一番の力持と云はれてゐる熊平と云ふマタギが、よし俺が狼を退治すると言つて、鐵砲を持つて狼の穴の近くの木に登つて、穴から狼の出て來るのを待ち構へてゐた。すると狼どもは穴から飛び出して來て、木の上の熊平を目がけて頻りに吠え立てるので、熊平はやたらに鐵砲をブツたが一つもあたらなかつた。さうして居るうちに熊平の持つて居る彈丸《たま》が盡きてしまつて、手を空(カラ)にして居ると、狼どもは其の木に六疋で飛びついて、木をグラグラと搖すぶつて熊平をホロキ落さうとした。

 其時穴の中から美しい娘が駈出《かけだ》して來て、狼どもの側へ寄つて來て、あの人も鐵砲を打たなくなつたから、お前達も早(ハヤ)く穴さ入れと言つた。すると狼どもはまるで猫か犬かのように慣々《なれなれ》しく娘について穴へ入つて行つた。熊平は何しろ驚いて木から跳ね下りると一目散に村をさして逃げ戾つた。

 其後のこと、或月の冴えた夜に不意に六疋の狼が村を襲ふて來た。村の人々は驚いて鐵砲だの弓矢だのを持ち出して、それを防いだが、なかなか狼どもの勢力が强くて、どうにも出來なかつた。ところがいつか熊平マタギを助けた娘が其所へ駈けて來て、荒れ狂ふ狼どもを取り鎭めやう[やぶちゃん注:ママ。]とした。其時村方から射放《いはな》した一本の矢が飛んで來て娘の胸に刺さつた。娘は悲しそうな聲で叫んでそこにバツタリと斃《たふ》れてしまつた。

 この態(サマ)を見た狼どもは、忽ち猛惡になつて村人を五六人喰ひ殺した。倒れた娘は深傷に苦しみながらも、聲を張り上げて、これこれ村の人達を殺してはいけない。此村にはいつか私達に親切だつたオガさんが居るからと言つたまゝ息を引き取つてしまつた。

 六疋の狼どもはそれを聽いて悲しさうに啼きながら、娘の屍を何處へか運んで行つてしまつた。こんなことがあつてから、村の人達は自分達が不親切であつたことを後悔し、そして、

   惡い事をすれば――狼が來るぞ…

 と言つて、旅人などにも親切を盡す樣になつた。

 或時村の人が峠を通ると、六疋の狼が悲しさうな聲をあげて鳴いて居るのを見たことがあつた。狼どもは亡き娘を慕ひ悲しんでゐるらしかつた。そして六疋並んで日夜おうおうと啼いて居たが遂に其儘石になつてしまつた。

  (大正九年五月一日。千葉亞夫氏の御報告の中から、
  其後此の六ツの狼石の話のある陸中の山里の所在を
  尋ねたが訣《わか》らなかつた。然しいつか分るこ
  とであらうと思つて居る。)

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 九一番 狼と泣兒

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      九一番 狼と泣兒

 

 或る雨の降る夜、山の狼が腹がへつて、大きな聲で、おう、おうと啼きながら山から下りて來た。其時百姓家の子供が泣き出したので、母親はお前がそんなに泣けば、あの狼

にやつてしまうぞと言つた。[やぶちゃん注:底本では見ての通り、二箇所の不具合がある。一つは第二文の頭が「其時」ではなく、「時」となっている点で、「ちくま文庫」版の『その時』を参考に、かく、した。また段落末は「言つ」で断たれてしまっており(右ページ最終行末)、左ページ行頭は以下の次の段落になってしまっている。これも「ちくま文庫」版で訂した。]

 狼は恰度《ちやうど》其時、其家の壁の外を通つたので、これはよい事を聞いた、それぢあの子供を食へると思つて喜んだ。

 すると内の子供の泣き聲がばつたりと止んだ。母親があゝあゝこんなによい子を誰が狼などに遣るものかと言つた。狼は落膽して行つてしまつた。

(この話と九〇番は紫波郡昔話を騙む時に集《あつま》つた資料を、餘りに無内容だと思つてはぶいておいた物である。ところが今考へると、斯《か》う謂ふ物こそ昔話の原型を爲すものではあるまいかと思つたから採錄して見た。

昔話の發生と謂ふものは一面に於いて斯うした斷片的な單純なものから先づ成立《なりた》つて段々と幾つも寄り集り永年かゝつて一つの話になつたものであつたかと想像したのである。さう謂ふ觀方《みかた》からはこれらは尊《たつと》い種子であらう。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、全体がポイント落ちで二字下げであるが、総て本文と同ポイントで引き上げた。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九〇番 爺と婆の振舞

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      九〇番 爺と婆の振舞

 

 昔アあつたとさ、或所に爺(ヂ)と婆(バ)とあつたと、爺は町に魚買ひに行つたジシ、婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た。其所へ爺樣が魚をたくさん買つて來て、晚(バン)けは娘だの孫どもをみんなみんな呼んでお振舞ひをすべえナと言つた。そして晚景になつたから、娘だの孫だのが大勢來た、爺那《ぢな》婆那《ばな》、喜んでニガエガと笑つたとさ…

  (中野市太郞氏、當時尋常小學校生徒。)

[やぶちゃん注:語りが小学生だからと言って、これを微笑ましい「爺と婆の」「振舞」ひととることは私には出来ない。そも、「婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た」という「何か」とは、何か? 実は本当の「爺(ヂ)と婆(バ)」は殺されており、「切る」対象は本当の「爺と婆の」遺体であり、妖怪の変じた似非の奇体な「爺と婆の振舞」ひに来た「娘だの孫だの」を見て、「爺那婆那、喜んでニガエガと笑つたと」いうホラーとしてこそ感じられる。幼少年期というのは、道徳や善悪に捉われない故に真正のスプラッター・ホラーを容易に創造し得る逢魔が時の闇を持っている。これは幼年期の私自身とその行為と記憶がまさにそうだったから、間違いない。たまたま見つけたイネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「松谷みよ子『現代の民話』」の紹介記事に、この話が同書に採られており、それについてのイネガル氏の感想も載っている。私のような凄惨なダークまで踏み込んではおられるわけではないが、この話について、『確かに心温まる良い話だ、と感じると同時に、衝撃を受けた。今までに知っているどの笑話のパターンにも収まらないからだ』。『もう一度じっくり読み直してみたら、この話にはオチが無いことに気づいた。つまり、これはそもそも笑話ではないのである。聞き手を笑わせる話を笑話と呼ぶのであれば、ここで笑っているのは登場人物である爺と婆であって、話の聞き手ではないのだ。ふう。危うくだまされるところだった』と記されておられる。例えば、かの白石加代子氏が、この話を朗読されたら、と考えれば、皆さんも納得ゆかれるであろう。なお、次の「九一番 狼と泣兒」の附記に、本篇への言及があるので、参照されたい。因みに、そちらのワン・シーンには――狼が、家の中で泣いている子どもを『食へる』思う――という叙述が出る。]

2023/05/27

尾形亀之助 靑狐の夢 / 初出正規表現版(思潮社版全集の本篇は不全であったことが発覚した)

 

[やぶちゃん注:初出である国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌『あおきつね』(郷土趣味会発行・昭和二(一九二七)年一月一日印行)初出形。扉の表記で、「あお」はママ。但し、その前ページの目次には「靑狐」と漢字表記する。ここで視認出来る)の『二の卷』の当該部を視認した。踊字「〱」、及び、「え」の字の「江」の崩し字は正字ひらがなで示した。

 さて、私は二〇〇八年一月に思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を底本として本詩篇を電子化しているのだが、驚くべきことに、それと比べると、そちらは、大きな脱落があることが判った。具体的には、「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。」とあるのが、全集版では「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくる。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。」とあって、ゴッソりなくなっているのだ! 他にも、全集では、「企」が「企て」、「尾に包まるのだつた。」が「尾に包まるれるのだつた。」となっており、これは、頗るおかしい。問題だ。私は全集の編者である秋元氏の編集には、以前から、ある不審を抱いていたが、後の二箇所は確信犯で秋元氏が書き変えたものである気がしている。しかし、前の有意な脱落は、それ以前に呆れかえった。龜之助よ、遅まきながら、正規表現版を公開するよ……。

 

   靑 狐 の 夢

 

        尾 形 龜 之 助

 

 ぼんやりとした月が出て、動物薗の中はひつそり靜寂につゝまれてゐた。

 しかし、彼は秋晴れの美しい空に三日月の銀箔を見、そよ風に眼をほそくして自動車に乘るところであつた。彼は水色の軍服を着た靑年士官になつてゐるので、心もち反身になつて小脇に細いステツキを抱へ煙草に火をつけてゐた。

 そして、彼の瀟洒な散步は事もなく捗どつて、自動車が門を走り出ると彼はほつとした。ほつとして狐にかへつてゐるのであつた。

 又、或るときは街のペーブメントを步いてゐて、あまり小さすぎる靴をはいてゐるのに氣がついて姿をかくさなければならなかつた。

 

 彼は靑年士官になり紳士にもなつて、幾度となく催した企が何時も煙のやうにふき消された。動物園の晝の雜踏に、彼は首をたれ眼をつむつてゐた。靑い空が眼にしみた。さみしかつた。

 あるとき彼の檻の前に立つてラツパを吹きならす子供があつた。そのとき彼は頭にふる草鞋を載せる藝當を思ひ出して苦しい笑ひを浮べた。人間になりたい希望はもはや見はてぬ夢となつて、彼の親も死ぬまでその希望をすてなかつた。彼もその禁斷の血をひいてゐるのであつた。

 日暮れになつて、今までどよめいてゐた園内がひつそりすると、彼はぽつねんとした。そしてつむつてゐた眼をあけた。夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。彼はペタペタと冷めたい水を嘗めると脊筋まで冷めたくしみるので藁床に入つて尾に包まるのだつた。眠らうとしても眠れない。あわれな記憶が浮ぶ。呼ぶ。惡血が彼の尾を二倍も大きくするだらう。彼はふらふらと立ちあがる。

 「女に化けやう――」

 そして、彼は喰ひ殘りの雞の骨を頭に載せる。

 

[やぶちゃん注:「あわれな」はママ。]

南方熊楠 毘沙門の名號に就いて

[やぶちゃん注:本篇は最後の編者附記によれば、大正一五(一九二六)年三月発行の『集古』(丙寅第二号)に収録された論考である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第六巻 (文集Ⅱ・渋沢敬三編昭和二七(一九五二)年乾元社刊)の当該論考を視認した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。漢文部は後に推定訓を添えて訓読を示した。

 これは、私の、現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 再び毘沙門に就て』に先行する論考である(だから「再び」)ため、以下に電子化した。現行の諸本では、後者が単独で活字化されているものが多く、「再び」の標題が、どの論考を指すのか判然としない憾みを持たれる方が多いであろうと考え、先行して示した。ここでは私の掟破りの仕儀は行わず、底本通り忠実に字を起こしてある。その代わり、注は附さない。

 なお、最後のクレジットは最終行下一字上げインデントであるが、改行した。]

 

     毘沙門の名號に就いて

 

 クベラ、又クビラが毘沙門天の異名なる由は、佛敎大辭彙卷一俱肥羅天の條既に述べある。熊楠謂く、此二名が一神を指すを立證するに最もよき文句は、梁朝に敕撰された經律異相卷四一に羅閱城人民請佛經から引た者だ。佛が鷄頭婆羅門の供養を許した時、釋提桓因(帝釋)語毗沙門天王、拘鞞羅(クベラ)汝此婆羅門辨ゼヨ第三食、答〔釋提桓因(帝釋)、毘沙門天王に語りて曰はく、「拘羅(クベラ)よ、汝、此の婆羅門を佐(たす)け、第三食を辨(べん)ぜよ。」と。答へて曰はく、「受敎(じゆきやう)す。」と。〕とある。クベラは實名、毗沙門は通稱の如くみえる。アイテルの梵漢辭彙一九三頁には、此神、前世夜叉なりしが佛に歸依して沙門たりし功德により北方の神王に生まれかわつた。其沙門と成た時、他の沙門共驚て伊沙門〔伊(かれ)は是(こ)れ沙門〕と叫んだ、それ故毘沙門(ヴアイスラマナ、是男も沙門かの義)の稱へを得たとあるが、これは何の經に出た事か識者の高敎をまつ。伊沙門は音義兩譯らしい。金毗羅(蛟神)は、大灌頂神咒經卷七などをみると毘沙門とは別神らしい。印度で古來鰐を拜する其鰐神だろう[やぶちゃん注:ママ。]。吾邦に金毘羅を航海の神とするも此因緣か。佛弟子に金毗羅比丘あり、獨處專念を稱せられた(增一阿含經三)。是も鰐を奉じた氏子だらう。

  (大正一五、三、集古、丙寅ノ二) 

畔田翠山「水族志」 ハタジロ (マハタ)

 

(二七)

ハタジロ【紀州海士郡雜賀浦アクノ一種ハタジロト同名也】 一名シマイヲ【讃州高松領津田浦備中玉島】コリ

イヲ【備前岡山】タムリ【紀州田邊】マクチイヲ【筑前姪ノ濱】ダンダラ【筑前福間浦】シマヽス【尾州智多郡小野浦】ハタビラ【勢州土師】ハマヽス【紀州奥熊野矢口浦】アカマス【勢州阿曾浦】マス【紀州熊野九鬼浦勢州慥柄浦】シマダヒ【讃州八島】ナベヤキ【尾州常滑】

形狀「チヌ」ニ似テ扁ク細鱗アリ口眼「アク」ニ似タリ尾ニ岐ナシ眼黃褐

色瞳藍色全身淡褐身半白色ニ乄頭褐色喉下色淺シ頭ヨリ尾上ニ至

ルマテ褐色ノ橫斑條ヲナシ尾上黑色ノ大斑一ツアリ尾淡褐色黃ヲ

帶鰭本褐色末淡褐色上鬣端微黑色脇翅本淡褐色端淡赤色腹下翅藍

色腰下鰭藍色也本朝食鑑ニ旗代魚漁家所謂魚紋黑白相疊如旗之黑

白分染細鱗長鰭尾無岐色以黑爲上白者味劣略雖似藻魚而形扁首端

鬣亦細脆肉美白味淡而佳ト云此也此魚「アク」ニ似テ短扁キヿ「チヌ」ノ

如シ其三寸許者尾及脇翅淡紅色喉下ニ黑斑アリ餘ハ大者ニ同

○やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)の著になる本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」は所持する訳本(東洋文庫版)及び、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの板本(元禄一〇(一九六七)年刊)の当該部を視認して、訓読の参考にした。]

はたじろ【紀州海士(あま)郡雜賀(さいか)浦。「あく」の一種。「はたじろ」と同名なり。】 一名、「しまいを」【讃州高松領、津田浦。備中、玉島。】・「こりいを」【備前岡山。】・「たむり」【紀州田邊。】・「まくちいを」【筑前姪の濱。】・「だんだら」【筑前福間浦。】・「しまゝす」【尾州智多郡小野浦。】・「はたびら」【勢州土師(はぜ)。】・「はまゝす」【紀州奥熊野、矢口浦。】・「あかます」【勢州阿曾浦。】・「ます」【紀州熊野、九鬼浦。勢州慥柄(たしから)浦。】・「しまだひ」【讃州八島。】・「なべやき」【尾州常滑。】。

形狀、「ちぬ」に似て、扁(ひらた)く、細き鱗(うろこ)あり。口・眼、「あく」に似たり。尾に、岐(き)、なし。眼、黃褐色。瞳、藍色。全身、淡褐。身、半(なか)ばは白色にして、頭、褐色。喉下、色、淺し。頭より尾の上に至るまで、褐色の橫斑、條をなし、尾の上、黑色の大斑、一つあり。尾、淡褐色、黃を帶ぶ。鰭(ひれ)の本(もと)、褐色、末(すゑ)は淡褐色。上鬣(うはびれ)の端(はし)、微黑色。脇翅(わきびれ)の本、淡褐色。端、淡赤色。腹の下翅(したびれ)、藍色。腰下の鰭、藍色なり。「本朝食鑑」に、『旗代魚(はたしろうを) 漁家、所謂(いはゆる)、「魚紋(ぎよもん)は、黑と白とを相ひ疊み、之れ、黑と白と分け染めたる旗のごとし。」と。細き鱗、長き鰭、尾に岐、無く、色、黑きを以つて、上(じやう)と爲(な)す。白き者は、味、劣れり。略(ほぼ)、藻魚(もうを)に似ると雖も、形は扁く、首の端鬣(はしひれ)も亦、細く、脆(ぜい)なり。肉、美白、味、淡くして佳(か)なり。』と云ふは、此れなり。此魚、「あく」に似て、短く扁きこと、「ちぬ」のごとし。其の三寸許りの者、尾及び脇翅(わきびれ)、淡紅色。喉の下に黑斑あり。餘(よ)は大者(おほもの)に同じ。

[やぶちゃん注:後に示すが、多くの異名の一致と、美しい白身が美味である点から、これは、

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

と比定して間違いないという確信を持った。それは、

①「本草食鑑」の「旗代魚」の異名がマハタのものであること。

及び、

②本冒頭に配された「ハタジロ」の名が、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマハタのページの地方名の項に「ハタジロ」とあり、採取地を『三重県志摩市和具』とし、「ハタジロマス」もあり、これも同じ和具町の採取であったこと。

さらに、

③国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「マハタ」の項でも、「方言」欄で冒頭に『マス(白崎・盬屋・田邊・周參見・和深・太地・二木島)』(「マス」の太字は底本では傍点「﹅」)を掲げていること。

による。

「紀州海士郡雜賀浦」和歌山県和歌山市雑賀崎(さいかざき:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。和歌山市街の西南端。南東直近に歌枕として知られる「和歌の浦」がある。但し、正確には、紀ノ川の河口から雑賀崎に至る砂浜海岸で和歌浦に連なる景勝地であった旧「雜賀の浦」は、現在は埋め立てられて、和歌山南港となってしまっている。

「讃州高松領、津田浦」現在の香川県さぬき市津田町津田であろう。

「備中、玉島」岡山県倉敷市の旧玉島町。ここも江戸時代からの干拓で変容してしまったので、「ひなたGPS」の戦前の地図を示す。

「筑前姪の濱」福岡県福岡市西区姪の浜

「筑前福間浦」福岡県福津市西福間附近の海浜。

「尾州智多郡小野浦」愛知県知多郡美浜町(みはまちょう)小野浦

「勢州土師」三重県鈴鹿市土師町(はぜちょう)。

「紀州奥熊野、矢口浦」三重県北牟婁郡紀北町(きほくちょう)矢口浦(やぐちうら)。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町阿曽浦

「紀州熊野、九鬼浦」三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)。

「勢州慥柄浦」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦(たしからうら)。

「ちぬ」クロダイの異名。

「あく」複数の種の異名であるが、ここは同じハタ類のハタ亜科アカハタ属キジハタ Epinephelus akaara ととっておく「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキジハタのページに、「方言」として「アク」を『和歌山県和歌浦』(出典は前掲の宇井氏の「紀州魚譜」)として載せる。]

畔田翠山「水族志」 クチビダヒ (フエフキダイ・ハマフエフキ)

 

(二六)

クチビダヒ 龍尖

續修臺灣府志曰龍尖口尖而身豐味甘而脆美出澎多湖多多曬作乾按ニ

龍尖ハ「クチビダヒ」也日用襍字母ニ龍鮎「クチビダヒ」ト云「クチビ」ハ口

中赤色ニ乄火ノ如キヲ云大和本草曰「クチビダヒ」口尖色淡黑味與タ

ヒ相似較少按「クチビ」ハ形狀棘鬣ニ似テ嘴細長ニ乄尖リ口中赤背淡

紫褐色ニ乄如鱗褐斑アリ斑白色靑ヲ帶淡褐色ノ斑鱗ノ本ゴトニア

リ頰鱗ナリ淡褐色上唇上薄ク出扁ニ乄尖レリ下唇ノ下白唇淡紅色

ヲ帶背淡鬣褐色ニ乄刺ニ紅色アリ脇翅淡紅褐色腹下翅刺淡白ニ

乄翅ノ本淡黃末微紅色腰下鬣本淡褐色末黃色尾岐アリテ本黃褐色

末淡褐色㋑ロク井【紀州若山田邊】一名メイチ【熊野新宮】タルミ【勢州慥柄】タバメ【泉州堺】コロダヒ【防州岩國】クチビダヒノ五六寸ノ者也形狀「クチビ」ニ同乄小也全身

縱條アリテ條淡紅色或ハ條淡黃色腹靑白色背ヨリ淡黑色ノ斑八

九條ノ淡紅ノ條ヲ除テ腹上ニ至ル頭黃斑色ノ背鬣淡紅色ニ乄淡黑

斑アリ尾紅色ニ乄深赤色ノ斑橫ニアルト淡紅黃色ニ乄黑斑橫ニア

ルトアリ脇翅斑紅或ハ黃ヲ帶腹下ノ翅黃色或ハ黑斑アリ腰下鬣淡

黃色ニ乄赤斑アルト黑斑アルトアリ

○やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:冒頭の引用には衍字と思われるものがある。中文サイトのこちらと校合し、以下の訓読文では、そこに『龍尖(口尖而身豐,味甘而脆美。出澎湖,多曬作乾)』とあるのに従った。]

くちびだひ 「龍尖」

「續修臺灣府志」に曰はく、『龍尖(りうせん)、口、尖(とが)りて、身、豐か。味、甘くして脆く、美(よ)し。澎湖(ほうこ)に多く出づ。多く曬(さら)して、乾(ひもの)に作る。』と。按ずるに、龍尖は「くちびだひ」なり。「日用襍字母」に「龍鮎(りゆうねん)」は「くちびだひ」と云ひ、「くちび」は、口の中、赤色にして火のごときを云ふ。」と。「大和本草」に曰はく、『「クチビダヒ」 口、尖り、色、淡黑。味、「たひ」と相ひ似て、較(やや)、少(をと)る。』と。按ずるに、「クチビ」は、形狀、棘鬣(たひ)に似て、嘴(はし)、細長にして、尖り、口中、赤く、背、淡紫褐色にして、鱗のごとく、褐(かついろ)の斑(まだら)あり。斑は白色に靑を帶べる淡褐色の斑、鱗の本(もと)ごとにあり。頰(ほほ)、鱗(うろこ)なり。淡褐色。上唇(うはくちびる)の上、薄く出(い)で、扁(たひら)にして、尖れり。下唇の下、白く、唇、淡紅色を帶ぶ。背、淡く、鬣(ひれ)、褐色にして、刺(とげ)に紅色あり。脇翅(わきびれ)、淡紅褐色。腹下翅(はらしたびれ)の刺、淡白にして翅(ひれ)の本(もと)は淡黃、末は微紅色。腰下鬣(こししたびれ)、本は淡褐色、末は黃色、尾、岐(また)ありて、本は黃褐色、末は淡褐色。

㋑「ろくゐ」【紀州、若山・田邊。】 一名、「めいち」【熊野、新宮。】・「たるみ」【勢州、慥柄(たしから)。】・「たばめ」【泉州、堺。】・「ころだひ」【防州、岩國。】。「くちびだひ」の、五、六寸の者なり。形狀、「くちび」に同(おな)じくして、小なり。全身、縱條ありて、條、淡紅色、或いは、條、淡黃色。腹、靑白色。背より淡黑色の斑(まだら)、八、九條の淡紅の條を除(よ)けて腹の上に至る。頭、黃斑色。背鬣(せびれ)、淡紅色にして、淡黑の斑ある。尾、紅色にして深赤色の斑の、橫にあると、淡紅黃色にして黑き斑(まだら)の橫にあると、あり。脇翅(わきびれ)の斑、紅或いは黃を帶ぶ。腹下の翅(ひれ)、黃色、或いは、黑斑あり。腰下鬣(こししたびれ)、淡黃色にして、赤斑あると、黑斑あると、あり。

[やぶちゃん注:今回の底本はここ「大和本草」の引用は、「大和本草諸品圖下 クチミ鯛・ナキリ・オフセ・クサビ (フエフキダイ・ギンポ・オオセ・キュウセン)」の最初に出る「クチミ鯛」である(一部、表記が異なるが、問題はない)。そこで私はその「クチミ鯛」について、「大和本草附錄巻之二 魚類 クチミ鯛 (フエフキダイ)」で考証した通り、スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus でよい、としてある。国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「フエフキダイ」の項でも、「クチビ」「クチビダイ」を『紀州各地』の方言として冒頭に掲げている。但し、次のページに載る「ハマフエフキ」フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus erythracanthus (縫蔵氏の種小名はシノニムを調べたが、見当たらない。不審)の項で『體形色等フエフキダイに酷似する』とされ、「方言」の欄には『フエフキダイと混同してゐる』とあるので、同種もここに入れておくべきであろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイと、ハマフエフキのページもリンクさせておく。自然界では、確かに、これ、一緒くたにしそうだな。

「龍尖」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイ属アマクチビ Lethrinus erythracanthus のページを見ると、「外国名」の項にズバリ、「龍尖」とあり、しかも、その採取地を『台湾(澎湖)』(ここ:グーグル・マップ・データ。以下、同じ)とするので、フエフキダイの近縁種であるが、遙かに派手なことが判る。

「慥柄」現在の三重県度会(わたらい)郡南伊勢町(みなみいせちょう)慥柄浦(たしからうら)。]

只野真葛 むかしばなし (67) 有名人河村瑞賢登場

一、むかし、江戶に川村瑞軒といひし人は、鳶の者なりしが、ふと、金、少々、まうけて、

『上方へ行き、かせがん。』

と思ひ立(たち)、大津の宿(しゆく)まで行(ゆき)しに、人の相(さう)を見る人と、とまり合(あひ)て有(あり)しが、瑞軒が相を見て、

「好き相なり。高名なる相なり。さりながら、上方にては、名を揚難(あげがた)し。やはり、江戶にて、工夫、有べし。」

と云(いひ)し、となり。

 さすがの人故、是を聞(きき)て

『實(げ)に、さも、あらむ。』

と思ひ直して、又、江戶へ歸りしが、行來(ゆきき)に、貯金、つかへはたし、一錢なしにて、高輪(たかなは)に、手を組(くみ)て、浪の、よりくるを見てゐたりしが、其とき、所々の「堀さらへ」有(あり)て、人足、多く出(いで)たり。七月末にて、盆棚(ぼんだな)を流したるが、浪によせられて、ひしと、岸に有しを見て、ふと思付(おもひつき)、其(その)つゝみし中(なか)より、瓜と茄子を取出(とりいだ)して、「鹽(しほ)おし」にして、人足共の中へ、持行(もちゆき)、うりしに、

「加減、よし。」

とて、忽(たちまち)、うれしより、錢、取(とり)て、よき瓜・茄子を買(かひ)ては、つけつけして、大きに儲けしが「もとで」の取付(とりつき)なり【此「堀ざらへ」、錢を「かます」に入れて、人足どもに、升にて、はかり、あたへし、とて、昔の人の富貴(ふうき)のたとへに、いゝしを、おぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]たりし。されど、今のよふ[やぶちゃん注:ママ。]に「煮うり物」など、たいて[やぶちゃん注:ママ。「絕えて」の訛りか。或いは「たいてい」(「大抵」)の脱字か。]なき世ゆへ、漬物さヘ、めづらしかりしなり。今は、「まこも」にて牛馬をつくれど、昔は皆、正(まこと)の瓜・茄子を牛馬にせしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 だんだん、仕出(しだ)して、日用頭(にちようがしら)になり、御城御普請の足代《あしじろ》をうけ合(あひ)しに、外々(ほかほか)の入札より、かくべつ、下直(げぢき)にせし故、瑞軒方へ、おちしに、

「いかゞして、かく別に、やすく、受合(うけあひ)し。」

と、人々、ふしぎに思ひしに、其時までは、足代には、材木ばかりにて、「かすがい」にてとめる事なりし故、材木・かすがいの入用、はこび人足の手間などに、費(つひへ)ありしを、瑞軒、工夫にて、ちからに成(なる)ほどばかり、柱を用ひ、あとは、竹と繩にて、せし故、もとの入用(いりよう)・はこび手間など、かゝらず、大まうけせしとぞ。

 是より、竹・繩にてかける事と成切(なりきつ)たり。かすがいの時は、ぬけて、怪我する事も有(あり)し、となり。

 是より、

『材木屋。』

と、おもひ付(つき)て、りつぱに普請せしに、倉には、一本も、材木、仕入(しいれ)なきに、引移(ひきうつ)るといなや、風上(かざかみ)より、火、出(いで)たり。

 其内に、工夫して、我家へ、火をつけて、通し駕(かご)にて、木曾へ、にげ行(ゆき)しとなり。

 木曾に至りて、

「我は、江戶の材木屋なり。山の材木、殘らず、かいうけたし。江戶、大火に付(つき)、急(いそぎ)、仕入(しいれ)に來りし。」

と云しが、其名も聞(きき)しらぬ事故、手付金なくては、少し、人氣(にんき)、のらざりし時、あとより、四ツばかりの子の、泣(なき)てきたりしを、懷中より、金三兩、いだして、小刀にて、くり穴を明(あけ)て、「がらがら」にして、だましたるていを見て、大金持と見とり、皆、得心したりし故、山中の材木、みな、瑞軒が、札(ふだ)付けたりしに、果して、四、五日、過(すぎ)て、追々、材木、仕入に來りしに、先達(せんだつ)て、よき材木は、皆、瑞軒が札付(つけ)し故、其方より、かいうけることに成(なり)、手ばたき一ツにて、千兩、まうけしとぞ。

 しかし、是より、「〆買」といふ事を心付(こころづき)、火事の度(たび)に、物の直(ぢき)を揚(あげ)るといふ工夫も出(いだ)しなり。

 才は、あれども、下人より、仕出す人は、いづくまでも、下人の心なり。わるいことの先立(さきだち)せし人なり。若《もし》、下へ富貴のくだる折の、いたりしにや【大平つゞけば、上の人心、ゆたかにて、智に、うとく、下の者は、たからを得る事を工夫するかたちなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 此火事の便(べん)に、一度に大材木屋と成(なり)て、公儀の御用に、材木さし上(あぐ)る事ありし時、二千本の木の御用被仰付し時、御うけ申上(まふしあげ)、扨(さて)、二千本、御見分の時、

「千本、はこびて、木口(こぐち)を御覽に入(いれ)、跡の千本は、やはり、始(はじめ)の木の後(うしろ)の木口を、其座(そのざ)にて、つみかへて、御覽に入(いれ)、二千本、御見分の分(ぶん)にすめば、はこび手間、かゝらぬ。」

と工夫して、見分有(ある)役人方(がた)へ、色々、まひないしてすみしが、其内、壱人(ひとり)、朱子學者、有(あり)て、

『さやうの事、少もいはれぬ人、有しを、我方(わがはう)ヘ引込(ひきこむ)たく。』

おもひ、俄(にはか)に、學文して、書の名ばかりおぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]、さて、

「御用被仰付有難き。」

という[やぶちゃん注:ママ。]禮に行(ゆき)、書物の噺(はなし)、少々すると、其比(そのころ)、まれなる唐本(たうほん)に、其人の見たがる物ありしを聞(きき)だし置(おき)、

「我、持居候間、御覽に入(いる)べし。」

とて、歸り、急に尋(たづね)て、其書を、かいとり、かしてやりし、となり。

 大きに悅(よろこび)、早々、かへしたりしに、内の者に「まいない[やぶちゃん注:ママ。]」して、其書一册、紛失仕(し)たる由に、いひたて、隨分、旦那の氣の毒がる樣(やう)にいはせしに、多(おほい)に、「まじない」[やぶちゃん注:「賄賂(まひなひ)」に「咒(まじな)い」を洒落て効かせたものであろう。]きゝて、家中をさがしなどして、さわぎしが、元より「こしらい[やぶちゃん注:ママ。]事」なれば、いづくにかあらん、旦那は、氣の毒の山をつかね、瑞軒へ面目(めんぼく)なくてゐる時、かの見分なり。二千の數を千にてすまはせる事ならずと、おもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、さきの氣の毒さに、無言にて居(をり)たりし、とぞ。

 是にて、又、倍、まうけたり。

 是より後は、書を讀(よむ)人を、よしとや、思ひけん、白石先生、とし若(わか)の時分、

「聟(むこ)に仕度(したし)。」

と、いひし事は、「折たく柴」にある如くなり。

 娘の聟には、書物よむ人を、したり、とぞ。

 はじめは何といひしや、「瑞軒」は隱居名なるべし。

 後は、

「佛學をして、座禪する。」

とて、こもり居(をり)しが、湧(わき)て出る工夫は、やめられず、三日の内に、「淀のきりぬき」と云(いふ)事を考(かんがへ)だし、夜が明(あく)ると、はき物、はきながら、片手に尻をからげ上(あげ)て、

「淀のきりぬき。」

と、よばわりながら、かけ出して、公儀へ、願(ねがひ)をあげたり、とぞ。

 今も用(もちひ)るは、此人の工夫なり。

[やぶちゃん注:「川村瑞軒」これは無論、江戸初期の豪商・政商として全国各地の航路開拓・治水工事を指揮し、晩年には武士身分(旗本)を得た、かの河村瑞賢(元和四(一六一八)年或いは元和三年~元禄一二(一六九九)年)である。当該ウィキによれば、『伊勢国度会郡東宮村(とうぐうむら』:『現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれ』たが、『先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた』という。十三『歳の時』、『江戸に出』、『九十九里浜東端の飯岡で江戸幕府(桑名藩)の土木工事(椿海の干拓/新川の開削工事など)に携わり』、『徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようにな』って、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日にかけて発生した「明暦の大火」の『際には』、『木曽』・『福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た』とあった。当地鎌倉の建長寺に墓がある。なお、真葛は、そのやり口のあざとさに、かなり批判的な語り口を以って記しているのが、興味深い。

「淀のきりぬき」瑞賢が幕命を受けて行った事業のうち、現在も高い評価が与えられている「東廻り・西廻り海運」の刷新と並ぶ、「淀川河川の大規模な改修工事」を指す。]

只野真葛 むかしばなし (66)

 

一、菊田喜太夫といへる人は、すぐれて小祿なりしが、始(はじめ)、壱人身(ひとりみ)にて有(あり)し時、おもへらく、

『味よき物をこのむほど、費(ついへ)なる事、なし。心のかぎり、儉約を、せばや。』

とて、汁・香の物なく、味噌少々そへて、食せしに、

『さすが、膳𢌞り、さびしゝ。』

と思ひて、木にて、魚の形をこしらい[やぶちゃん注:ママ。]、竹ぐしにさして、みそを、ぬりて、燒置(やきおき)、味噌ばかり、くひて、又、付(つけ)ては、燒々(やきやき)して、二、三年、くひしほどに、金持と成(なり)て、いろいろ、かうも有しとぞ。

 後に妻子も持(もち)たれど、

「我等如くなる身代にて、味よき物、くうべからず。」

と諫(いさめ)て、家内にも、魚類を、くはせざりし、とぞ。

 金のくり合たのまれて、せし程に、鯛の、おほくとれたる時、さるかたより、鯛一枚、進物(しんもつ)にせし、とぞ。喜太夫は、るすなりし。家内、悅び、

「いざや。鯛を、くわん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて歸りを待てゐしに、喜太夫、かへりしかば、其由を云(いひ)て、魚をみせしに、

「たとへ、もらいたりとても、かやうの物は、くわぬぞ、よき。」

とて、頭と尾を持(もつ)て隣へ、垣ごしに、なげやりし、とぞ。

 家内は、あきれ顏見合(みあひ)てをるに、しばし有(あり)て、隣の人、外にいでゝ、魚を見付(みつけ)、大きに驚き、

「どうして、爰(ここ)に、鯛が來たぞ。犬のくわへてきたにしては、齒あとも無(なし)。」

とて、

引返し、引返し、みて、

「鯛を拾ふは、目出たい事なり。いざ、いわゝん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、人を集め、酒をかい[やぶちゃん注:ママ。]などして、にぎはふ躰(てい)なり。

 是を聞(きき)て、喜太夫、家内にしめすやう、

「あれ、あのばか共を見よ。『鯛一枚、ひろいし。』とて、酒を買、酢・せうゆを、つゐやし[やぶちゃん注:ママ。]、人、集め、飯《いひ》をも、費すべし。味よき物、くう[やぶちゃん注:ママ。]、無益なる事、是にて、しるべし。」

と云(いひ)しとぞ。

 かゝる心の人も有けり。

[やぶちゃん注:この話、既に全文を電子化注した「奥州ばなし」の「丸山 / (菊田喜大夫)」に、ほぼ同文が載っている。]

「近代百物語」 巻四の三「山の神は蟹が好物」 / 巻四~了

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、本篇には挿絵はない。]

 

    山の神は蟹が好物

 泉刕、貝塚といへる所は、海辺(《かい》へん)にして、漁獵の家、多し。

[やぶちゃん注:「貝塚」現在の大阪府貝塚市(グーグル・マップ・データ)の海辺部。]

 長介といへるもの、

「蟹を、とらん。」

とて籪(やな)をつくりて置《おき》、朝ごとに、かに、かゝるを、取《とり》て、產業(すぎわひ[やぶちゃん注:ママ。])とす。

[やぶちゃん注:「籪(やな)」この漢字は音「タン・ダン」で、水中に竹などを柵状に組み、入り込んだ魚や蟹などが出られないようにした仕掛けを言う漢語。]

 ある朝、ゆきて見れば、材木の切株、二尺ばかりあるが、やなにかゝりて、やなは、やふれて[やぶちゃん注:ママ。]あり。

 材木は、岡へ、ほりあげ置《おき》、やなを、つくろひて、かへり、あくる朝、ゆきて見るに、また、きのふの材木、ありて、やな、やぶれたり。

 又、つくろひて、次の朝、見るに、はじめのごとし。

 長介、あまり、ふしぎにおもひ、

『此材木、なにさま、ばけ物にてやあらん、火にくべて見ん。』

と、おもひ、蟹のかごに入《いれ》、持(もち)かへり、家ちかくなりて、籠(かご)の中、

「はたはた」

とする音し、材木、へんじて、生物《いきもの》となる。

 猿の身《み》、人の面(かほ)、手、ひとつ、足、ひとつ、あり。

 たちまち、言(ことば)を発して、

「我、靑山《せいざん》の神也。無性(《む》しやうに[やぶちゃん注:「に」まで送っている。])、蟹をこのめり。水中に入り、『やな』をそんずる罪(つみ)あり。これを、ゆるして、我を出《いだ》さば、後日(ご《にち》)、ふかく、恩を報ずべし。」

といふ。

 長介いはく、

「なんぢ、『山の神』にもあれ、我がやなを損ず。ゆるしがたし。」

といふ。

 彼(かの)もの、いろいろと、わび言すれども、聞き入れず。

「しからば、なんぢが名は、何(なに)といふ。」

と尋ねるに、長介、こたへず、家、いよいよ、ちかくなりて、彼(かの)もの、しきりにわび言(こと)すれども、聞かず。

 又、名を、とへども、こたへず。

「われは、いかんとも、すべきやう、なし。死なんのみ。」

といふ。

 長介、家にかへり、炭火(すみび)をもつて、これをやくに、何の子細も、なし。

 按ずるに、これを「山魈(さんさう[やぶちゃん注:ママ。])」といふ。人の名を知れば、よく、これに、あだを、なす。好みて、蟹をくろふ[やぶちゃん注:ママ。]、と、いへり。

[やぶちゃん注:「山魈」(歴史的仮名遣は「さんせう」が正しい)は中国神話に登場する子どもの形をした一本足(手は二本ある)の鬼怪(すだま)で、よく人を騙すとされる。私の寺島良安著「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「さんせい 山精」(図有り)を参照されたいが、そこでも蟹を好物とすることが記されてある。当該ウィキもリンクさせておく。なお、現代中国語では、アフリカ中央東岸に棲息する派手な顔の♂の色彩で知られる霊長目オナガザル科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx にこの漢名を当てている。]

四之巻終  

「近代百物語」 巻四の二「怨のほむらは尻の火熖」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 標題の「火焰」の「くわゑん」(歴史的仮名遣は「くわえん」でよい)はママ。]

 

   (うらみ)のほむらは尻(しり)の火熖(くはゑん)

 

 今はむかし、山城の國、宇治のかたほとり、鹿飛(しゝとび)といふ所に、㚑嶽(れいがく)といふ僧あり。

[やぶちゃん注:「鹿飛(しゝとび)」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「鹿飛の瀧」と呼ぶが、これは、滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。]

 うき世をはなれし山居(さんきよ)の身、生死(しやうじ)むじやうを、くはんねんし、善𢙣不二(ぜんあくふに)を、さとりあきらめ、餓(うゆ)れば、一飯に、はらを、ふくらし、渴(かつ)すれは[やぶちゃん注:ママ。]、一はいの水に、咽(のど)をうるほし、おきふしに、人を、はゞからず、

「あら、心やすや。」

と、佛(ほとけ)をはいし、ころもを脫(ぬぎ)すて、丸きあたまを、撫(なで)まはし、春の夜のゆめばかりなる短夜(みじかよ)の目(ま)たゞくあいだに、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時頃。]もすぎたり。

「さらば、一ぷく、たのしみて、ねぶりは眼の勝手しだひ。」

と、たばこ、引きよせ、煙筒(きせる)に、かゝれば、ふしぎや、表(おもて)に、人おとして、編戶(あみど)によりて、なげきの聲、

「ほとほと」

と、叩くにぞ、

「あら心得ず、此庵(いほ)に、ひるさへ、人のまれなるに、夜陰におよび、來るべき人しなければ、火をうちけし、松ふく風の、ひゞきならん。」

と、枕によれば、しきりにたゝひて[やぶちゃん注:ママ。]

「我は、遠國(ゑんこく)のものなるが、此所に、ゆきまよへり。道の案内(あない)を、なしてたべ。」

と、しみじみと、たのむにぞ、㚑嶽、おどろき、

「こは、そも、いかなる人なるぞ。山影(さんゑい)、門(もん)に入りて、おせども、出でず、月光、地にしいて、拂へども、また生ず。」

 

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[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

狸(たぬき)のばける

    は

 多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])く

  小童(《こ》わらんべ)

    也

是(これ)みな

 己(おの)

  己が[やぶちゃん注:「己」は底本では踊り字「〱」。]

  爲[やぶちゃん注:「なし」と訓じておく。]たる

     所

 なるへ[やぶちゃん注:ママ。]

    し

《中央やや下。霊嶽の台詞。》

 

   いつまて[やぶちゃん注:ママ。]

       もとまら

           れよ

《左下の女の台詞。》

おありがたふ[やぶちゃん注:ママ。]

 こざります[やぶちゃん注:ママ。]

   *]

 

と、古きことゞも、おもひいだし、柴の編戶を、おしひらき、月かげに、よくよく見れば、三五[やぶちゃん注:十五歲。]にたらぬ美少人(びせうじん)、なみだに、そでも、しほたれて、泣きしづみたるかんばせは、芙蓉(ふよう)にあめをそゝぐがごとく、賤(いや)しからざる詞(ことは[やぶちゃん注:ママ。])のはしはし、㚑嶽、見るに、痛はしく、

「そも、御身は、いづくの人、いかなる事にて、此所へ、夜中に、まよひ來たれるぞ。」

と、情(なさけ)のことばに、少人(せうしん[やぶちゃん注:ママ。])は、世に、うれしげなる顏をあげ、

「我が身は、備後のものなるが、人あきびと[やぶちゃん注:人買い。女衒(ぜげん)。]に、かどはされ、難波(なには)の浦に、つれ來たり、また、奧刕に賣りわたされ、ちかきに、東(あづま)にくだるのよし。陸奧(みちのく)のはてにゆき、『どふ[やぶちゃん注:ママ。]したうき目に、あふべきか。』と、あまりの事のおそろしさに、人目のひまを、うかゞひて、忍びいでゝ、忍(しの)はさふらへども、方角とても、しらざれば、今、此所に來たりしぞや。父が名は花垣(《はな》がき)十内、わたくしが名は、絹太郞、あはれみ給へ、御僧。」

と、たもとを、顏に、おしあつる。

 㚑嶽は、始終を聞き、いたはしさ、いやまさり、

「まづまづ、これへ。」

と、庵に、ともなひ、

「しばらく、こゝに滯留し、たよりをもとめ、古鄕(こきやう)へおくり、ふたゝび、親父へ、たいめんさせん。心やすく、おもはれよ。」

と、いとねんごろに、いひなぐさむれば、絹太郞は手をあはせ、

「さてさて、おもはぬ御苦労かけ、御懇情(こんぜい)なる御ことば、何をもつてか、此御おん、報ずべきやう、さらに、なし。しかれども、武士の子が、人あきびとに勾引(かどは)かされ、國にかへりて、朋輩(ほうばい)はじめ、町人までに指(ゆび)さゝれ、何《なに》めんぼくに古鄕にゆかん。とてもの事の御慈悲に、御弟子となして給はれ。」

と、おもひ入りたる顏色(がんしよく)に、㚑嶽、歡㐂(くわんき)、あさからず。

「しからば、近日《きんじつ》、おもひたち、愚僧、なんぢが古國(ここく)にゆき、十内殿へも、たいめんし、くはしくかたり安堵させん。まつ[やぶちゃん注:ママ。「まづ」。]、それまでは、扈從(こしやう)につかはん。此ほどの、つかれも、あらん。ゆるりと、休足(きうそく)すべし。」

と、おくそこもなき[やぶちゃん注:底意も何もない正直な。]出家かた氣《ぎ》、絹太郞は、發明(はつめい)もの、二、三日、くらせしが、一ッを聞きては、三ッをさとり、庵主(あんしゆ)の心に、さきだつ、とん智、㚑嶽、はなはだ、これを愛し、「神童」と異名して、五、六日も、つとめしが、ある夜、㚑嶽、酒など飮みて、四つ[やぶちゃん注:午後十時頃。]すぐるころ、ふしたりけるに、絹太郞も、傍(そい[やぶちゃん注:ママ。])ぶしせしに、いかゞはしけん、絹太郞、

「きやつ。」

と、一聲、大ひに喚(さけ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、庵主の夜着(《よ》ぎ)より、かけ出づる。

 すがたを見れば、コハ、いかに、幾年(いく《とせ》)ふるともしれぬ狸の、面(かほ)を、しかめ、齒を、むき出し、床(とこ)ばしらに、いだきつき、尻(しり)を、ねぶり、かしらを、ふり、庵主を、にらみ、とびかゝり、あたまのはちを、かきむしり、窓を引きさき、うせければ、庵主は、あんに相違して、月夜に釜をぬかれしこゝち、頭(かしら)の疵(きず)より、ながるゝ血に、眼(まなこ)くらめば、たもとより、揉(もみ)たる紙を、取出《とりいだ》し、おしぬぐへども、こらへばこそ、なを[やぶちゃん注:ママ。]も、したゞる血に、あきれ、身ふしも、痿(な)へて、くにやくにやと、はらが立つやら、おかしい[やぶちゃん注:ママ。]やら、相手、なければ、うらみも、いはれず。

 

Kinutarou

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

恩(おん)を

 恩と

思わぬ[やぶちゃん注:ママ。]

  も

また

 ちくせう

   成べし

好事(こうじ[やぶちゃん注:ママ。]

  も

なきには

 尓(しか)す

《中央の霊嶽の台詞。》

これは

 々に[やぶちゃん注:判読不能。「々」として「これは」を繰り返し、「に」は続いて「にげる」と苦しく読んでおいた。]

 げる

しや[やぶちゃん注:「じや」か。]

《逃げる狸の下方にキャプション。》

事を

 好むべ

  から

   ず

   *]

 

「南無あみだぶつ。」

と囘向(ゑかう)して、橫に、ころりと、夜着(よ《き[やぶちゃん注:ママ。]》)、うちかつぎ、あたまをかゝへ、ふしたりしが、夜《よ》あけてみれば、座敷も、床(とこ)も、血に染(そみ)しを、ぬぐひさり、二、三日も、すぎたりしに、夜更(《よ》ふけ)、庵主も、よくよく、ねいり、正躰(《しやう》だい[やぶちゃん注:ママ。])なきを、うかゞひて、夜着を、

「そつ」

と、引《ひき》あげて、毛のはへた手を、

「ぐい」

と入れ、尻(しり)と睾丸(きん[やぶちゃん注:二字へのルビ。])とを、大ひに、搔裂(かきさく)。

 㚑嶽は、

『夜盜(よとう)。』

と心得、おきなをれども、尻のいたみ、山葵(わさび)おろしに座するがごとく、人音《ひとおと》とても、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ねば、頭巾(づきん)を、疵に、おしあてゝ、こたへて[やぶちゃん注:「こらへて」か。]見れども、いたみは、つよく、呻(うめ)きながらに、夜を、あかし、外科(《げ》くわ)をまねき、てりやうぢに、あづかり、疵も、大かた、癒(いへ[やぶちゃん注:ママ。])、かゝれば、また、おもはずも、ねいりばな、いづくよりか取り來たりし松の木のもへさしの、三寸ばかりの火になりしを、尻に、

「ぬつ」

と、さしつくる。

「わつ。」と、とびのきなでさすれ

ど、かきさかれしより、火傷(やけど)の大きず、十倍の、そのいたみ、坊主、なきに泣きあかし、

「此のち、こゝに長居(《なが》い[やぶちゃん注:ママ。])せば、いかなるせめに、あはんもしれず、いのちありての山住《やまずみ》ぞ。」

と、杖にすがりて、よろめきながら、鹿飛(しゝ《とび》)を、出でされり。

此僧、たぬきを、いためもせず、「絹太郞」といひしときも、ことのほかの、ちやうあいなりしが、たぬきは、僧をうらみしは、とかく過去の「がういん」にや。

 おりおり[やぶちゃん注:ママ。]、尻にあだせし事、みな人、ふしんしける、とぞ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八九番 狸の話(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「貉」は「狢」とも書き、「三三番 カンジキツクリ」の本文の最初の注で附してあるのでそちらを見られたい。ここでは中間のシーンから狸であると断じておく。]

 

       八九番 狸 の 話

 

        狸の旦那(其の一)

 

 宮古在山中《やまなか》の家が五軒ばかりの村家での話。そのうちの或家で婚禮があつたが、大屋の旦那樣が宮古町へ行つて未だ歸らぬので、式を擧げることが出來ない。さうしてゐるうちに夜は段々更けて行くので人達は大變氣を揉んで居た。さう斯《か》うして居る所へ表で犬がけたたましく吠えたと思ふと、待ちに待つて居た旦那樣が雨戶を蹴破るやうにして、眼色を變へて入つて來た。そしてやアやア遲れて申譯が無かつた。さアさア大急ぎで式を擧げた擧げたと言ふかと思ふと、膳に向つて御馳走を氣狂者《きぐるひもん》のやうな素振りで食ひ散《ちら》した。振舞《ふるまひ》の人達は彼《あ》の旦那樣はこんな人では無かつたが、きつと今夜は酒に醉つて居るこつたと思つて見て居たが、大屋の旦那樣だから誰一人何とも言はなかつた。

 婚禮の式が濟んでから、其家の人達は大屋の旦那樣し今夜はゆつくりお泊りあつてお吳れやんせと言ふと、且那樣はいやいや明日は山林の賣買があつて朝早く宮古サ行かなければならぬから、俺はこれで御免をかうむると言つて急に立ち上つて、あわくたと玄關から出て行つた。すると又犬どもが猛烈に吠えかかつた。旦那樣はキヤツと叫んで床下に逃げ込んだ。

 見送りに出た人達やみんなは、これや本統[やぶちゃん注:ママ。]の旦那樣ぢや無い。道理で先刻《さつき》からの樣子が變つて居つた。それやツと言つて、はツく、はツくと犬どもを床下へ追込《おひこ》んでケシ掛けた。又其所に寄集《よりあつま》つて居た人達も總出で床板を剝がし乍ら犬を集めて來てかからせた。床下では暫時《しばらく》犬と何かが嚙合《かみあ》ふけはいがして居たが、やがてずるずると犬に引張り出されたのはひどく大きな古狸であつた。

 其所へ眞實の大屋の旦那樣が、宮古町で山林の賣買があつて、斯《こ》んなに遲れて申譯が無かつたと言つてやつと來た。數年前のことであると言つて大正十年[やぶちゃん注:一九二一年。]十一月二十日に宮古在の人から聽いた話である。

 

     狸 の 女(其の二)

 宮古在の山中に爺樣が一人、若者共が二人、都合三人で鐵道の枕木取りに上《のぼ》つて小屋がけをして泊つて居た。ある夜一人の妙齡(トシゴロ)の女が小屋へ來て、わたしヤ岩泉《いはいづみ》さ行くのでござんしたが、路を迷うてここさ來やんしたから、どうぞ一晚泊めてくなンせと言つた。爺樣は何俺ところには錄な[やぶちゃん注:ママ。「陸な」。「碌な」は当て字。]食物《くひもの》もねえでがんすし、亦《また》夜お着せ申す物もねえでがんすから、泊め申すのも如何《いかが》なもんで御座《ごぜ》えますが、それとて今から何處さ行けとも申されますめえからハイ宜《よろし》うげます、きたなくも宜かつたら小屋の中さ入つてお泊りんせと言つた。女はわたしや食物も何も入《い》[やぶちゃん注:当て字或いは誤記・誤植。]らなござんすケ、それではどうぞハアお泊めなすツておくれやんせと言つて小屋の中に入つた。そしてあゝほんとに寒いと言つて焚火に差覗《さしのぞ》いてあたつた。若者どもは快(ヨ)い心持ちになつてヒボト[やぶちゃん注:「爐」。]の側にごろりと寢ころんで、お互に朋輩の眠るのを待つて居た。たゞ爺樣だけはハテ不思議なことだ。この夜中にこんな物優しい姿をした姉樣が、こんな山中に迷い來るとは、どうも受取れぬ節がある。それにいくら何でも岩泉へ行くのにここへ來る筈がない。是は油斷の出來ぬ事だと内心用心をし乍ら、橫になつて寢たふりをして窃《ひそ》かに女の樣子を見て居た。

 それとも知らぬ女は、あゝ寒いあゝ寒いと言ひながら、ますますヒボトヘ摺寄《すりよ》つて行く振りをしながら傍の若者の體にちよいちよいと觸れた。そして赤い腰卷を出したり白い脛(ハギ)を出したり、それから無心らしく段々と陰部を出して若者どもの氣を惹いた。けれども若者どもは橫合に居つたからよく見えなかつたが、爺樣は差向ひであるから、その一伍一什《いちごいちじふ》[やぶちゃん注:一から十まで。残る隈なく総て。]をよく見て居て、これはまた如何にも可笑しい格好のもんだなアと思つて居た。それも初めはただ局部がちらほらと見えて居ただけだが、火の温(ヌク)もりに遭《あ》つてホウと口を開いてあくびをした。爺樣はコレダと思つた。

 爺樣は靜かに起き上つて、姉樣寒《さむ》かんべからこれでも被(キ)て寢(ヤス)んでがんせと言つて、空俵《からだはら》を取つて立ち上りそれを女の顏からかぶせると、いきなり力任《ちからまか》せに押しつけて、ヒボトから燃木尻《もえぎじり》[やぶちゃん注:爐中の薪(たきぎ)の燃え残り。]をとつてガンガンと撲《ぶ》つた。今迄眠つたふりして居た若者どもは驚いて、これもむツくり起上《おきあが》り、何だ爺樣ツ何すれやツと言つた。爺樣はこれは畜生だから早く撲殺《ぶちころ》せと言つて、なほガンガン打叩(ブツ《たた》)いた。女は空俵の中で初めのうちは、あれツお爺さん何しやんすと言つて居たが、しまひには苦しがつて獸《けもの》の啼聲《なきごゑ》を出した。そこで若者どもも初めて、人間でないと謂ふことが分つたので、爺樣と一緖に木や鉈《なた》で叩き伏せた。それは二匹の狸が首乘りに重なり合つて人間に化けて居たのであつた。これは大正七年の冬にあつた話である。

 

2023/05/26

ブログ1,960,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十年十二月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和三〇(一九五五)年十一月二十八日附・二十九日附・三十日附に連載されたとある。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、つい先ほど、1,960,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年五月二十六日 藪野直史】]

 

   昭和三十年十二月

 

「小説というものはさしみみたいに、なまなましいところがなくては、読み応えがない。どこかに、本物のはこびがないと、干からびてしまう」

 室生犀星の「失はれた詩集」(中央公論)はこういう書出しから始まっている。この作品は過去の肉親をめぐる諸人物を、回顧的に描いたものであるが、その限りにおいて一応の本物のはこびがあると言えるだろう。

[やぶちゃん注:『室生犀星の「失はれた詩集」』彼の新潮社版全集の目録を見ても、この作品は見当たらない。但し、この年の十月三十日附の日記には、『中央公論に原稿手交、「失はれた詩集」四十枚。』とあった。]

 この作品の優劣は別として、私はこの作家の近業にある興味を持っている。

 つまりこの作家は老齢にもかかわらず、生活者としては東洋的趣味人におちているらしいのにもかかわらず、文章の上ではいっこうに枯淡の趣きにいたらず、妙な感覚性を保ちつづけている点にだ。

 

 私はこの作家の中年の作品は、感覚というよりも言葉で、言葉や文字の効果だけで現実をとらえようとしているところがあって、文学としてはにせものであると今でも思うのだが、いつの間にかそのにせもの性というか擬体というか、そんなものが身体に貼りつき、骨身にからんで、近ごろでは擬体が本体になってきて、ぬきさしならぬものになっているようである。こういう文体をのぞけば、室生犀星という作家が存在し得ないような具合にまでなっている。

 作品の優劣とは関係なく、これは珍重すべきことだろう。

[やぶちゃん注:以上、強く同感する。]

 

 丹羽文雄「彷徨」(群像)は百八十枚の力作であるが、ここに本物のはこびがあるかと言えば、疑問である。にせもののはこびではないが、本物ではなく、そこからちょっとずれた感じがするのだ。私は丹羽文雄の作品を読むたびにそれを感じる。つまりこの作家の作品は、現実に照応した場所で書かれていない。ある枠の中で強引に書かれている。もちろん小説には小説としての枠はあるはずだが、それと別の意味の枠がこの作家にはある。

 この「彷徨」の前半は、前作「業苦」に類似しているが、後半はその主人公に二度も自殺を試みさせるところまで追いつめている。「業苦」で納得できなかったところを、更にこの作で追求したものとも言えるだろうが、そういうやり方を実験だと言えるかどうか。読者の側からすれば、どうもむだだという印象をのぞきがたい。碁にたとえて言うと、一所懸命に考えた揚句、せっせとだめを詰めているという感じがする。小説としての感動がない。それはこの作家の文章のせいかも知れない。正直に言うと、私にはこの作家の文章はひどく読みづらい。

 読者に不親切な文章だと思う。もっとも室生犀星のように、これが丹羽文雄の生理にまでなっているとすれば、いたしかたないことではあるが。

 

 その文体でもって効果を損じている作品の一つに、杉森久英の「山間」(新日本文学)がある。これは猿に変身した主人公を中心として、猿の生態を描いたものである。もちろんある種の寓話として書かれているのだが、こんなふつうの写実的な文体で、言いたいことを完全に言い、読者を納得させるのは、なみたいていのことでない。この作品がなみたいていの域にとどまり、寓意の浅さをのぞかせているのは、作者が文体の選択をあやまったからである。ごまかすと言うと語弊があるが、そこをうまくやるためには、もし私にやらせるなら、小島信夫や安部公房のようなやり方を採用するだろう。かえすがえすも杉森久英は文体をあやまった。

 その小島と安部であるが、それぞれ「声」と「ごろつき」を文学界に発表している。こういう型の作品は、読後ぐんと胸にこたえる時は、本物のはこびがあるんだなと了承するが、そうでない場合は作者が韜晦(とうかい)しているのではないか、という感じを私におこさせる。

 この二作の中「ごろつき」の方は私はよく判らなかった。これは独立した短編でなく、長編の一部じゃないのか。

 

 今月の雑誌では、たくさんの長編が完結し、また来年にかけてつづきつつある。こんなに長編が多いことは、未曽有のことだろう。

 雑誌に長編がすくなく短編ばかりの時期には、長編要望の声があちこちからあがるのであるが、こう長編だらけになると、醇乎たる好短編を要望する声がすこしずつあがりかけているようである。[やぶちゃん注:「醇乎」「じゅんこ」。全くまじりけのないさま。]

 しかし書いている当人たちは、当然のことだが、そういう声に耳をかす必要はなかろう。

 

 「新潮」の十二月号は恒例によって同人雑誌推薦小説特集で、十編の短編がずらりと並んでいる。同誌の「新潮雑壇」でその応募作品の興味ある分類をしているが、それによると応募総数は百二十六編で、その中からの十編だから、競争率は約十二倍になる。通読した限りではこの十編は、率直に言うと、そういう激しい競争に耐え残った作品としては、ひよわ過ぎるという感じがした。

 もっともそれは枚数のせいもあるだろう。二三十枚の短編ではどうしても布置がととのった作品がえらばれ勝ちであって、布置をととのえるためには、どうしても枚数に応じたこぢんまりした材料をえらび、それを手ぎわよくまとめた方が勝ちになるだろう。

 二三十枚からはみ出るような意欲を持った作家は、長編をえらぶだろうし、長編となれば「新潮」掲載の資格をうしなうのである。そういう意味でこれらの作品は、全同人雑誌の代表ではなく、その中のこぢんまり派の代表である。

 

 この十編の中で一番私にこたえたのは「落ちた男」(別所晨三)であるが、これは題材が大いに影響している。私には病的な高所恐怖症があって、そのせいで私はこの作品を読んでいて怖かった。高所恐怖がない人が読むと、大した小説ではないと言うかも知れない。でもこの作品は、私にそういう気持を誘発する程度に、高さというものが描けていると思う。[やぶちゃん注:調べたところ、この小説は南アルプスの知られた難所である屏風岩に挑む登山家を描いたものである。]

 最後にザイルにぶら下った男を墜落させずに、ああいう形で結んだところも、なかなか味があった。お話としては、岩登頂と女を混えた人間関係を、かんたんにからませただけのことであるが。

「桔梗軒」(藤田美代子)はちょっとおとぎ話のような抒情的な小説で、いかにも女らしくそつがない。野心というものはないが、ひとりでたのしんで書いている。

 野心と言えば、人々は同人雑誌を読む度に、とかく野心作を求めたがる。野心作が見当らないと、近ごろの同人雑誌は覇気がないと叱ったりする。

 なぜかと言うと、同人雑誌は文学修業の場、文壇に出るための予備校といった前提があるのであって、そこでそういう意味の野心が要求されるのだろう。

 しかしそういう関係は、現今ではすこし薄弱になってきているのではないか。戦前は同人雑誌で認められて作家になるというのが正道であったけれども、戦後はその正道は一応御破算になった。戦後出た作家の中で、戦前の正道を踏んで出たのより、そうでない方がずっと多いようである。

 それは雑誌ジャーナリズムの変化、文壇内部の変化、師弟関係の崩壊などの原因が上げられるだろうが、根本的には小説そのものの変化が上げられるかも知れない。

 

 すなわち金を出し合って同人雑誌をつくり、そこでお互いに技をみがき合うというやり方が、小説つくりのためにはふさわしくなくなっていると言えるだろう。これは私の断定でなく憶測である。そういう意味で同人雑誌の性格は変るべきであり、また現に変りつつある徴候もある。

 予備校的存在でなく、それ自身で独立した同人雑誌。そんなものがもっと出てもいいだろう。それじゃあ意味がないと開き直られてはそれまでの話だが。

 

「新潮」の同人雑誌推薦小説の筆者たちは、若くない人もいるだろうが、大体において若いと判定して、その若さ、若い生活やその感情が、充分に表現出来ているとは思えなかった。「十五歳の周囲」(三浦哲郎)にしても、「わかい指」(桑山裕)にしても、「鞦韆」(谷口栄)にしても、読めば一応判ったようでいて、どこかかゆいところに手が届かぬような感じがする。若さというものは自らでは描きがたいものだろう。[やぶちゃん注:調べたところ、作品「鞦韆」は「ブランコ」の読みが与えられてある。]

 むしろ中年の立場から、若さの判りがたさを描いた藤枝静男の「瘦我慢の説」(近代文学)の方が、ずっと面白く、かつ共感を覚えた。この作品はとりたてて問題を提出しているわけではないが、行文に妙な魅力がある。作者と題材の間に、一種のゆとりがあるからだろう。

 

 そういうゆとりのない作品に島尾敏雄「のがれ行くこころ」(知性)がある。この作品の後尾に埴谷雄高の理解と愛情にあふれた解説文があり、それにつけ加える何ものも私は持たないが、いくたの危惧を感じさせはするものの、このぎりぎりの場で書かれたこれはやはり、すぐれた作品である。

 しかし埴谷雄高の言の如く「艱難汝を玉にす、とは必ずしも限らない」のであるから、私も島尾敏雄のために切に生活を打開し、ゆとりを取戻すことを祈る。

 

 井上靖の「初代権兵衛」(文芸春秋)はたいへん面白い小説で、山根という主人公が宗近という男の紹介で、百五十円の古茶碗を買う。それを宗近にあずけて山根は帰京するのだが、その茶碗が初代権兵衛作というわけで、だんだん値段がせり上り、ついに百万円になる。そういう茶碗を中心にして、山根や宗近の心理の動きが自在に描かれている。私は貧乏性であるから、早く売ればいいのにとはらはらしながら読んだ。

 案の定最後にはすごい鑑識眼を具えた青年があらわれて、初代権兵衛はたちまち馬脚をあらわして元の百五十円に下落してしまい、私をがっかりさせた。

 まことに練達の手腕で、この作者は茶碗だの何だのと鉱物を媒介にして、人間という動物を踊らせるのに妙を得ていると思った。

 松本清張の「任務」(文学界)は軍隊小説で、軍隊の非人間性を題材としているが、それほど力んだところもなく、くねくねと描き成功している。

「任務」という題名は、最後の部分で死体を担架にのせてはこぶ時、「はじめて私に任務らしい感情が充実しました」から取ったもので、作者はそこに全部の重点を置きたかったのであろうが、そこは成功しているかどうか。

 同じく最後の一言を書きたかったために書いた作品に手塚英孝の「薬」(新日本文学)がある。留置場の中で、道路工夫で治安維持法で逮捕され、病気で弱り果てている金青年に、同房者の沖仲仕の親分がたずねる。「お前さんの言う革命が、もし起ったとしたら、お前さんはその時一体なんになるんだ?」金青年は苦しい呼吸の中から答える。「おれか、そしたら、おれまた、道路工夫やるさ」

 

 最後の一言を書きたかった小説は、古来からいくつでもあるが、それらにくらべてこの作品は、最後の持って行き方、盛り上げ方がうまく行ってないと思う。その一言が読者の全身を震撼させるというところまで行っていない。おれならこういう具合に書くんだがなあ、とこの作品は私をむずむずさせる。

 その他、芝木好子の「夜光の女」(文芸)、村上兵衛「雪の記憶」(近代文学)などにも触れようと思ったが、紙数が尽きた。

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 自畫像・奥附 / 「天馬の脚」~完遂

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。傍点「﹅」は太字とした。

 これを以って二〇二二年四月一日に開始した、本随筆集「天馬の脚」の全電子化注を終了する。]

 

     畫像

 

 室生犀星論

 

    一 自己批評

 

 自選歌や自選句の類は大抵の場合作者は惡句を集纂するものではない。又自己解剖も多少の感傷を交へた肖像畫たることは、凡ゆる自畫像の病癖と云つてよい程である。感傷以外自畫像の筆觸の中に脈打つものは、慘酷な表現意識でどれだけ遣《や》つけたかといふことであらう。我我素人の眼を以てすればどれだけ彼らは、醜く異體の分らぬ自畫像を描いてゐるかも知れぬといふ事である。

 自己批評の前には、實に澎湃たる感傷主義が何時も橫はつてゐる。假りに一個の室生犀星は彼自身に取つては、世界の室生犀星であることに何の渝《かは》りはない。併乍ら世界の谷崎潤一郞は彼自身も亦さうであらうが、世界自身に取つての谷崎潤一郞であつた。これらの眞理は自己批評の前で猶且眞理の輝きを放つてゐながら、そのことで彼自身を絕望にすることは滅多にない。谷崎潤一郞が世界的であれば室生犀星も亦世界的でなければならぬ。

 凡ゆる自己批評は莊嚴な道具立の中では必ず失敗してゐる。寧ろ醜い自畫像の如き畫面に於てのみ成功するものかも知れぬ。自選歌が作者に不相意な作品を剽竊《へうせつ》してまでも、その歌集を世に問ふことは稀有の事であらう。

 

    二 文學的半生

 

 彼自身屢屢その文學的半生といふものに眼を通して見て、曾て幸福を感じたことがない。若し彼の生ひ立と彼の作家たり得たこととを結び併せ、假りに出世や成就の意味を爲すものがあらば、彼には直ちに俗流的輕蔑を感じる丈である。彼と彼の今日の慘酷な醜い賣文的生涯は、啻《ただ》に恐怖を形造る許りではなく、無限の生活苦を前方に疊み乍ら脅してゐる。

 彼は彼を幸福者の一人者であるやうに數へ上げる者があらば、まだ何事も彼を解《わか》つてゐるものではない。彼は趣味を解し築庭を解し又凡ゆる靜かさを解《かい》しようとする人である。だが波が何故に慘めな原稿を書き續けながら喘《あへ》いでゐるかといふことは、人は何も知らないことである。人の知ることは趣味を解する彼だけである。そして恐るべき原稿地獄の中に悶《もだ》えてゐる彼は、日夜に經驗する眩暈《げんうん/めまひ》のやうな疲勞の狀態から殆ど解放されることが無い。その昏迷の中から彼はやつと一導の明りを睨《にら》んでゐるだけである。彼はその一導の道では端然と廢馬のやうに坐つてゐた。そして彼は凡ゆる靜かな彼自身を置くことや又眺めることに苦心してゐる。慘《さん》たる原稿のうめき聲は彼を幸福者にする人の耳には聽えやう筈がない、……彼はそれらの賣文的地獄の中で漸《や》つと靜かになれる處でのみ、竊《ひそ》かに呼吸《いき》づいて其地獄を手を以て抑制してゐる。それ故彼が表面にある平明を虜《とりこ》にした杜撰な非心理的批評家の徒には、彼の本來のものが解らう筈がない。

 彼は凡ゆる理解に對して曾て完全な滿足をしたことがなく、又それを望む程の野暮さをも持つてゐない。唯微《わづ》かながら彼の心に觸れる程度の理解や批評に對しては、(さういふ批評さへ稀である。)力ない笑ひを漏らすことは每日のやうである。

 彼は奈何なる雜文をも粗雜に書き抛《なげう》つたことは稀れである。無力は遂にこれを宥《ゆる》さないと一般である。彼は文學的嘆息を人の前ですらしたことが無い。彼は唯何ごともなきが如く心に煩ひなきものの如く、淡淡として其〆切を恐るる者の、醜い守錢奴のやうに原稿の中で懊惱《あうなう》して暮してゐた。恐らく死のごときものすら彼の本來を解くに何の意味すら値しないであらう。そして曾て彼を目《もく》して幸福者だといふものがあらば、彼はそれを叩き返してしまふ前に例の抵抗しがたい力ない笑ひを漏らすことであらう。彼の笑ひの中に刺し透すもののあることすら、彼は人から指摘されたことの無いことを知つてゐる。

 

    三 彼の作品

 

 彼はどういふ作品の中にも彼らしい良心の姿を顯してゐる。その作の内の一箇所を抉《ゑぐ》つてゐる安心をもつてゐる。彼とても到底その作のあらゆる隅隅にまで心を籠めることはできても、弛《ゆる》みのないことは斷言できないやうである。さういふ時の彼はその一《ひと》ところに苦しみ喘いでゐる。そこに彼は彼の良心を刻み込んでゐると云つてよい。彼は拙《つたな》いものであつても良心をもつて書かれたものに曾て惡意をもつた例がないからである。

 彼は彼だけのもつ人氣を何時《いつ》も感じてゐる。併しその乏しい人氣の中に絕望や悲觀を算《かぞ》へ上げる程の幼稚はとうに卒業してゐる。唯乏しい人氣《にんき》の間に立つ物靜かさは生活苦を伴うて訪れては來るが、その爲に彼の精神的な荒筋を搔き𢌞すことは稀れである。彼の生活苦は茫茫たる山嶽に彼を趁《お》ひ立てては試練するが、彼を卑屈や墮落に陷し入れることは毛頭無い。彼の經驗によれば凡ゆる物靜かな人氣の間に立つほど、また人氣の靜まつた時ほどその作者の鎬《しのぎ》を削る底の勉强をしてゐるときがない。それらの「時」を逸するものがあるとしたら、彼は作家であるために勉强を忘失してゐるところの、又止む無き抹殺の田舍に追はるべき輩《やから》であらう。

 併乍ら彼の風流めいた小說は彼と雖も辟易してゐる。風流意識の橫溢程《ほど》作を濁すことの甚しいことはない。彼は不知不識の中に彼の望んでゐる靜かさに入ひれる[やぶちゃん注:ママ。]ならばいいが、その爲に騷騷しい風流意識を搔き立てることは、惡疾の如き恐怖を感じさせてゐる。又凡ゆる詩的意識の混淆された小說の如きも、自分は詩人であるがその爲にも嫌厭《けんえん》してゐる。小說はそれ自身既に小說であり、同時に又詩的精神すらそれ自身でなければならぬ。それらを意識に計算した小說があり得たとしたら遂に自分は身慄《みぶる》ひするくらゐ厭《きら》ひもし恐れもするであらう。

 自分は常に湧くが如き人氣を輕蔑してゐる。同時に人氣のない寂漠の作者をも輕蔑してゐる。この間に立つて我我を氣丈夫にさせるものは、例の山嶽的氣魄を持ち合《あは》すものだけであらう。寂漠を食ひ荒してゐる鷲は下をも上をも見あげてゐるが、彼は到底氣魄以外には斷じて行動しない。彼は賣文地獄の中で生肉を食ひ荒し寂寞をも喫《す》うてゐる。彼、室生犀星の時たまに見る高慢や粗野な所以は、この意味の外では見られぬ。

 

    四 生活苦

 

 彼はその前途に恐怖以上の脅威を感じてゐる。彼をして正直に言はすれば、彼は凡ゆる「文」を通じて食はねばならぬ。これ程恐ろしいことはない。彼は到底「明日」や「あなた」委《まか》せやに安じて居られぬ。彼の前途を彼の病みがちな視力を以て眺めるとしても、幾萬枚かの白紙の城砦《じやうさい》が聳立《しようりつ》してゐる。彼はそれらを永い日も短い夜も書き續けねばならぬのだ。これ程の輕蔑以上の輕蔑が何處に有り得よう。彼の目はかすんで見えぬやうになるであらう。しかも猶書きつづける「彼」であらう。

彼は凡ゆる輕蔑の中に力無き笑ひをもつて立つより外はない。……

 彼は奈何なる雜文をも營營として書いてゐる。これは直ちに彼の生活苦が誘惑する慘忍な現世への彼の宿命であるとしか思へない。百田宗治《ももたそうぢ》の言葉を籍《か》りれば室生犀星は既に厭世をすら生活する男だといふが、此言葉の中に若干の樂觀的な見方が含まれて無いでもない。本來は厭世的な行方《ゆきかた》ではあるが、その厭世の中から彼自身繊《ほそ》い絹糸のごときものを手繰《たぐ》り寄せてゐる。金錢の爲に原稿を書くといふことは最早卑しいことではなからう。それらの詩錢に寄る彼らは慘めな仕事への、微かな慰めを求めねばならぬ。彼等は本來の藝術を叩き上げねばならないとしたら、金錢を得るための原稿を書くに不名譽を感じない。佐藤春夫は彼よりも遙かに人氣を抱擁してゐることは、直ちに彼の詩的氣魄や詩に就て彼を卑屈にするものではなく、佐藤は佐藤だけの人氣の中に存在するだけであり、そのため彼の微光に影響のあるものではない。

 

    五 冷笑的風流

 

 彼を一介の風流人としてのみ論《あげつら》ふことの既に彼を理解するものでないことは述ベた。何よりも東洋的な彼は又何よりも西洋風なものを好いてゐる。西洋風なものの中に何よりも東洋的なもののあることは否めない。我我はそれらを文學にばかりでなく壯大なミケランゼエロにも感じてゐる。

 彼を風流人として數へあげることは、彼の行詰りを冷笑するものとしか思へない。東洋の風流は既に二百年の昔に滅亡した。芭蕉がその最初であり最後の一風流人だと言つてよい。然乍ら我我の風流人的な氣魄が特質の中に目覺めてゐるとしたら、それは在來の風流と事變《ことかは》つた西洋流の敎養や思想の洗禮があるものと云つた方が適當であらう。曾て一個の社會主義者だつた芭蕉のことは述べたが、近代の混亂された諸思想の中をも潜り拔けねばならぬ風流的現象も、生優《なまやさ》しいさびやしをりを餌食にしてゐるものではなく、鷲の生肉《なまにく》を食ひ荒らすことと何の渝《かは》りがないのである。彼は彼を一人の風流人的な符牒を張られる前に、先づその張り手の人相から熟視したいものである。

 

    六 詩と小說

 

 彼も亦新感覺派だつた名譽を記憶してゐる者である。のみならずその新感覺派は彼に遂に不名譽な名前の下に沒落した。沒落したのではなく今も猶彼の文章の中に連綿として續いてゐる。何人もその文章の初期的情熱の中には何時も此新感覺派の潑刺《はつらつ》たる勇氣を持つてゐるものである。

 彼も亦新進の氣勢《きせい》の下に腕の續く程度で、書き續けた男だつた。何等の後悔なしに彼は殆ど野性的にさへ諸作品を公にした。後世に問ふ作品を書かうといふ氣持よりも、殆どその時代に滅亡する潔《いさぎよ》さを標準としてゐた。標準としたよりも寧ろ彼は「彼のうたかたの世」の厭世的な氣持の上で、何時《いつ》亡びてもよい覺悟と性根とを持合してゐた。併し歲月の辛辣な剌戟と抱負とは、滅びてもよいが亡びるまでの重厚を彼に加へた。彼とともに彼の作品の亡びることはいいが、亡びて後にも遣つてもゐない幅と奧行とを考へさせた。

 詩人である彼は當然詩作品が後世に遺《のこ》ることは信じてゐる。又彼の詩よりも一層微妙な發句が燦然《さんぜん》として或光芒を彼の背後に曳くことも信じて疑はない。併乍ら多くの小說作品の遺るか否やといふことを考へると、何時も後悔と口惜しさと憂苦《いうく》とを感じさせた。彼の内の或物は殘るだらう、然し或物は殘らないであらうといふ疑惑と不安とは、彼の詩や發句を信賴する程度の平安と信仰とを與へなかつた。これは卑屈な謙遜ばかりではなく、彼を根本的に悲觀させる最大のものだつた。彼は彼自身を建て直すべきであることは勿論、最《も》う揮《ふる》ひ立つべきものだつた。彼はそれらび氣持の下にどれだけ又新しい努力をしたことか分らない。その努力と精進の頂《いただき》に立つところの彼は矢張り詩や發句の殘る意味をもその小說作品の上に信じなければならなかつた。然しそれは到底苦痛に近かつた。

 あらゆる作品を通じていい加減に書いたもの程、動機に深い考へを入れなかつたもの程彼を後悔させるものはなかつた。不幸にも彼はその折折心をこめて書いたものも、今は單なる後悔を誣《し》ひるものばかり彼の身邊に押寄せてゐる。

[やぶちゃん注:「誣ひる」事実を曲げて言う。作り事を語る。「强(し)ひる」と同語源。]

 詩は彼の小說に相應《あひあ》はぬ心の風俗や溜息を盛るに便利だつたし、小說は又人生の荒涼を模素するに役立つことは實際だつたが、本來はその孰れをも手離し兼ねるのだつた。詩は詩のいとしさを小說は小說の親密を持合《もちあは》し囁《ささや》き合《あひ》してゐた故、彼はその一つを捨て一つを樹《た》てることが出來なかつた。小說を書くために詩情や幽思《いうし》[やぶちゃん注:静かにものを思うこと。]を荒唐《くわうたう》にする惧《おそ》れはあつても、詩を捨てることが出來なかつた。かれらは孰れも姉妹のごとく相離《あひはな》れられないものだつた。彼は小說家であり詩人であり同時に俳人であり得てもよかつた。併しそのためにより小說家でありより詩人である必要はなかつた。

 

    七 再び人氣について

 

 改造社の文學全集は何故か豐島與志雄や加能作次郞や宮地嘉六の諸先輩と同樣、その作品の編入を美事に超越した。自分の諸作品の特色や存在は決して全集にある諸君に劣るものではない。寧ろその傾向と特質の相違は或意味に於て逸早《いちはや》く全集に編入し、此存在を記錄すべき必然性のあるものであつた。

 ひとり改造社の手落ばかりでなく明治大正文學の一旗幟《いちきし》を等閑《なほざり》に附したと云つても過言ではなからう。これは自分ばかりの考へではなく、何人《なんぴと》の考への中にも比較的靜かに首肯《うなづ》れるべきより多き可能性のある事實であらう。

 加能作次郞の如きはその溫籍《うんしや/おんしや》の文章結構や文章世界編輯當時に於ては、可成りに高い諸作品を公表してゐる。宮地嘉六の如きもその最近の作品にはずば拔けて佳《よ》いものがある。豐島與志雄も亦新思潮派の一將たることは何人も知るところである。これらの諸先輩の作品を編入すること無きとき、これらの事實をも他の編入された諸君子は氣附かれなかつたであらうか。諸君子は相語り合ひ又己をのみでなく極めて地味な作家のために一容言を試みなかつたであらうか。改造社の全集は改造社のものであり得ても亦同時に全文壇の全集でなければならぬ。斯ういふ時、遠く社會から隔れてゐる諸作家は各自に相伴《あひともな》ふ心を持つことは、文壇人として當然のことであらう。又武士は相互ひと云ふことを知らなかつたのであらうか。改造社も亦再考の上これらの特色ある作家の作品をも、その全集に再編の上《うへ》後代の史傳的編者の憂《うれひ》を除くことに努めねばならぬ。

[やぶちゃん注:「溫籍」心が広く、包容力があって、優しいこと。]

 我我の心がけることは人氣すくなき作者の作をも絕えず注意せねばならぬことである。これは一個の室生犀星ばかりでなく、凡ゆる場合に眼を放してはならぬことである。編輯者はあらゆる慘忍なる編輯者であり、同時にあらゆる目をこまかく作者の上に注がねばならぬ情熱の編輯者でなければならぬ。

 

    八 彼の二つの面

 

 彼の作品は人生に卽したものと、又別樣《べつやう》の風色的《ふうしよくてき》なものとの二面がある。彼は所謂熾烈な熱情的な作者ではない。彼らしい靜かさに映るもののみを克明に描くことに據《よ》つて彼は滿足してゐる。彼は藝術的な露骨な勇躍を試みることの危險を恐れてゐる者ではなく、何よりも彼以外の物に親しみを有《も》つことを好まないからである。彼に親しみのない人生は遂に彼に取つて氣の進まない人生である。まだ彼は作品によつて救ひを人生に求めたことは曾て一度もない。「彼は柔かに物語る」以外「說明しよう」氣はないのである。

 彼は時折風色ある人生を物語るときは失敗してゐない。人生を人生としてそのまま生《なま》に取扱《とりあつか》ふ時は失敗してゐる。彼の焦繰《もど》かしさもここにある。低迷してゐる彼はいつも人生の作者として物足りなさを常に感じてゐる。

 彼は彼の色附《いろつき》の人生を振り捨てようとしながら、それに敢然たることを得ないでゐる。その作品は靑年諸君に取つてなくてならぬものではなく、どうでもよい作品のやうである。併しこのどうでもよい作品すら彼には無くてはならぬ作品である。かういふ氣持を感じながら猶己れを持《じ》すことを捨てない。

 竹林の中の聖人のやうにそんなに人生を諦めてゐる譯ではないが、彼の心底はエゴに固まり膠《にかは》づいてゐる故、滅多に感じないだけである。彼は彼だけの人生をもちながらそれ以外用なき人生へは這入《はい》つて行かない。彼が時代遲れの輩の如く社會主義なぞに興味をもたないのも、エゴが固まり過ぎた故であらう。或は詭辯《きべん》を弄するならば彼の靜かさを索《たづ》ねてゐる暮しも、所詮此《この》止み難きエゴの發作より外にはなからう。彼は孤獨と寂漠の罪に問はれて其昔の人のごとく或者の處刑《しよけい》を受けるとしたら、とうの昔に受刑されてゐる「箸にも棒にも」かからぬ我儘者であつたであらう。孤獨は或意味で社會主義者よりも油斷のならない恐るべき代物かも知れぬ。

 

    九 彼の將來

 

 特に大した將來の光輝もなく一凡化としての彼は彼の成就することに據り、目立たぬ程度で其存在を續けて行くであらう。彼は現在の彼より餘程しつかり者になるだらう。彼は人目に解らぬ進步や勉强をするだらう。彼は彼の氣持の中でのみ幾度か變貌もし又改められた「新鮮」をも發見するであらう。

 彼の發句や彼の「人物」は恐らく漸次に極めて鈍重に出來上つて行くであらう。大槪の場合負目を取らぬ男になるだらう。彼は自身でも驚く位老實の烈しさを感じるであらう。

 彼の小說は益益面白くなくなるであらう。併し彼の仕事は粗雜な危期を通り越してゐる爲、讀者は彼へのみの「安心」の情を施して讀むやうになるであらう。彼は貧乏するやうになるであらう。貧乏は彼を壯年期の中で再び烈しく舞はしめ鬪はしめるであらう。彼は鳥渡《ちよつと》位《ぐらゐ》その目付が變るかも知れぬやうになるであらう。

 所詮一凡化の作者としての彼はそれ以外を出ないに決つてゐる。彼は疊の上で天命を俟《ま》つの凡夫に違ひない。頓死するやうなことがあるかも知れぬ。人知れず死ぬやうになるかも知れぬ。ともあれ彼は彼だけの一俊峯《いちしゆんぽう》たる自負の下《した/もと》に、その意味では何人《なんぴと》の背後にも立つことは無いであらう。

 さういふ自信は彼をして可成りな自尊心を高めるであらう。彼は彼の稟性氣魄の世界でのみ傍若無人の頂《いただき》にかじりついて、人生の風雪の中を往《ゆ》くだらう。あらゆる輕蔑に酬《むく》ゆるにも最早彼の後方への唾《つば》は、砂礫のやうなものに變化してゆくであらう。何事も彼は決して油斷することなき「彼」への勉强を怠らぬやうになるであらう。老ゆると同時に若くなり烈しくなるであらう。行け! そして靑年期の末期にもう一度揮《ふる》ひ立つことを忘るるなかれ。而して誰でも氣の附くその末期的《まつごてき》勇躍の下に行け!

 

[やぶちゃん注:個人的には、本書の中で厭な印象を全体に感ずる章である。犀星は、高い確率で、本章を芥川龍之介の禍々しい憂鬱なる遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私のサイト版一括)を意識的に真似していると思う。〈健康な芥川龍之介〉が自身で「芥川龍之介論」をやらかしたら、こんな代物になる気がするのである。

 以下、奥附。字配やポイントの違いは一部を除いて再現しなかった。配置・罫線等は、底本の当該部の画像を見られたい。上部から下部、左奥の順で電子化した。]

 

昭和四年二月 八 日 印刷

昭和四年二月二十一日 發行

 

  版   權

  所   有

 

                 (新榮社製本)

[やぶちゃん注:以上は全体の二重罫線外下方右側に記されてある。]

 

   天  馬  の  脚

    定 價 金 貳 圓 五 拾 錢

 

著 者   室  生  犀  星

 

發行者   山  本     美

 東京市芝區愛宕下町四丁目六番地

 

印刷者   椎  名     昇

 東 京 市 芝 區 田 村 町 十 五 番 地

 

[やぶちゃん注:以下の一行は全体の二重罫線外下方に右から左に記されてある。]

二葉印刷合資會社印刷

 

發兌 東京市芝區愛宕下町    改  造  社

   四丁目六番地

              振替 東京 八四〇二番

              { 一 一 二 一 番

       電話芝(43){ 一 一 二 二 番

              { 一 一 二 三 番

              { 一 一 二 三 番

[やぶちゃん注:「電話芝(43)」は実際には四つの電話番号の中央位置で、「{」三つは実際には大きな一つ。]

「近代百物語」 巻四の一「勇氣をくじく鬼面の火鉢」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻四

  勇氣をくじく鬼面の火鉢

 國家、まさにおこらんとするときは、かならず、禎祥(ていしやう)あり。國家、まさにほろびんとするときは、かならず妖孽(ようけつ[やぶちゃん注:ママ。])ありと。いかさま、前表(ぜんひやう)は、興廃ともにある事ぞかし。

[やぶちゃん注:「妖孽」歴史的仮名遣は「えうけつ」或いは「えうげつ」が正しい。怪しい災い。災厄を齎す前兆。不吉な事件の前触れ。夭逆(ようげき)。]

 今はむかし、武田信玄公の御内(みうち)に大井田忠藏(おゝいだちうぞう[やぶちゃん注:ママ。])とて、万事に心よからぬ士あり。

[やぶちゃん注:「大井田忠藏」不詳。]

 生得(しやうとく)、どんよく・無礼にして、大酒(たいしゆ)をこのんで、邪婬を犯し、朋友とまじはるにも、物ごと、とかく、むつかしく、かりそめの事にも、理屈をつけ、邪智强慢(じやちかうまん[やぶちゃん注:ママ。])にいひなせば、參會も、うとく、五度が三度、三度が一度になりゆきて、のちには、途中にてのたいめんにも、默礼のみにぞ、なりにける。

 しかれども、生れつきの事なれば、おのれが、あしきといふ事を、しらず。

 召しつかひの男女にも、いさゝか、慈愛の心、なく、相應の給金にて、めしかゝへたるものなれば、

「我が心のまゝ也。」

とて、朝より晚まで、役儀を、いひつけ、片時(へんし)も休めず、せめつかひ、茶・たばこなども、數(かず)をきわめ、これに、たがへば、打擲(てうちやく[やぶちゃん注:ママ。「ちやうちやく」が正しい。以下でも同じ。])し、なさけといふ事、つゆ、しらず、人の難儀を、かへりみぬ傍若無人(ばうじやくぶじん)のふるまひなりしが、ある夜、家僕、急に來たり、

「たゞ今、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、玄関にて、あしおとの聞へしゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]、『何ものやらん。』と、うかゞひ見れば、からかねの鬼面の火鉢、おのれと、座中を步行(あるき)しゆへ、『あら、心得ず。』と引《ひき》とむれば、ふりはなちて、往來《わうらい》いたし、今に、しづまるやうすも、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。いづれも怪しき事に存じ、此段、さつそく申上《まうしあげ》る。」

と、色(いろ)を變じて、告(つげ)ければ、忠藏は、これを聞《きき》、すこしも、おどろくけしきなく、

「火鉢には、三足(《さん》ぞく)ありて、人間よりは、一足、多し。よく動くは、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり。」

と、事もなげにいひおゝせば、たちまち、火鉢、ちつとも、動かず、わざはひもなく、しづまりける。

 

Tukumogami1

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

化(はけ[やぶちゃん注:ママ。]

 物(もの)

  の

噺(はなし)

 も

古(ふる)き

 事

  な

   がら

道(どう)道[やぶちゃん注:二字目は底本では踊り字「〲」。]

 ゆく

   の[やぶちゃん注:感動詞「のう。」の縮約か。]

化[やぶちゃん注:読みは「か」か。]して

いろいろ[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]

  に

はたら

  く

   こそ

一興(いつけう[やぶちゃん注:ママ。]

  なれ

《忠蔵の刀の柄の上の彼の火鉢妖怪の面(つら)を罵倒する台詞。》

につくき

 しかみ

  づら

    め

《下方の家来(火鉢妖怪に刀の後部を握られている)の足元にある彼の恐懼の台詞。》

やれな

  さけ

 なや

《火鉢妖怪の上の妖怪の台詞。》

よふ火

   が

おこり

 まし

  たに

  まづ

  まづ[やぶちゃん注:これは底本では踊り字「〱」。

   *

驚く家来の左足の煙草盆も、左上の外の縁に近くにある石製の手水鉢も、孰れも妖怪となっているのが判る。]

 

Tukumogami2

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

壷(つぼ)の物云(ものいゝ)

   しに

 つぼは

   口(くち)あれは[やぶちゃん注:ママ。]

いふ

 はづ

   と

けし

 たる

   に

止(やみ)

 し

  と

 なり[やぶちゃん注:忠蔵が、一向、平然とかく言っているために、「化(け)したるに」驚きもせぬ故、彼奴(きゃつ)らは化かしようがないことから「止みしと」言う結果となったの意。]

《「さとう」壺の妖怪の上の妖怪の台詞。》

とつこい[やぶちゃん注:「どっこい」。]

 やら

  ぬ

  ぞ

《扇子を開いた忠蔵の右手の彼の台詞。》

おもし

 ろしおもしろし[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]

《左下ののけぞった家来の前にある、彼の大型の茶壺妖怪への懇請の台詞。》

ゆるし

 たまへ

《右下の非常に小さな茶壺(茶筅を持っている)妖怪の左手ある、その妖怪の台詞。》

つぼつぼ[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]にて

 まはろふか[やぶちゃん注:ママ。]

   *

最後の台詞は、主人が「壺には口があるから、喋るのは、理の当然じゃ。面白い! 面白い!」と、一向に驚かないので、小茶壺は、やけになって、「壺という壺ども、皆で、歩き回ってやろうかのう!」と言っているのであろう。]

 

 其のち、忠藏、昼ねの最中、家僕(けらい)來りて、急に、おこし、

「たゞ今、納戶に、たれとはしらず、はなしの聲の聞へしゆへ、行(ゆき)て見れども、人もなく、聲をしたひて、尋ぬるに、つねに御前(ごぜん)へさし上げる茶壷のうちより、聲を發す。これ、たゞ事に、あらずと存じ、うちくだきしが、ふしぎやな、おなじく、ならべし砂糖の壷、

『何咎(なにとが)ありて、我が友を、かくのごとくに、くだきしぞ。』

と、大おんあげて、罵(のゝし)りし。其聲、蝉(せみ)の鳴くがごとし。此むね、言上(ごんじやう)つかまつる。」

と、息、つぎあへず、訴ふれば、忠藏は、打ちわらひ、

「さてさて、おろかのものどもかな。二つの壷とも、口あれば、聲の出るは、しぜんの道理、あしなきものが、ありくにこそ、口なきものが言語こそ、不審ともいふべけれ、めづらしからぬ事ども。」

と、いひはなせば、壷の聲、ふたゝび出す事も、なし。

 家僕(けらい)ども、よりあつまり、

「『理《ことわり》の當然。』にて、奇怪をしりぞく、いかさま、古今(ここん)の英勇(えいゆう)。」

と、みなみな、これを感ぜしが、或る日、忠藏、出仕のとき、家僕一人、ひそかに來り、

「御出仕のうち、御座敷を掃除にまいり、朋輩ども、ふ圖(と)、天井を見あぐれば、七足にて、あゆみし、足がた、十五、六も見へけるゆへ、天井に、あしがたのつくべき道理あらざれば、此段、お耳に、入れ申す。」

と、くはしく、かたれば、忠藏、いなづき、良(やゝ)ひさしく、かんがへしが、とかく工夫(くふう)におちざれば、家僕を、まねき、小聲になり、

「かやうの事は、すておくべし。かならず、他所(たしよ)へ、さた、すべからず。」

と、吃(きつ)と、いひつけ、かへせしが、其のち、日を經(へ)て、忠藏妻(さい)、「とゝのへ物」の用事につき、婢(こしもと)を使(つかひ)とし、さふらい[やぶちゃん注:ママ。]どもへ、いひやりしに、おりふし、忠藏、外(そと)より、かへり、これを見るより、

「不義。」

と心得(《こころ》ゑ[やぶちゃん注:ママ。])、せんぎもとげず、男女(なんによ)を、よび出し、卽座に手うちにせし所に、士(さふらひ)のせんぎもなく、無罪の男女を誅(ちう)せし事、信玄公の御耳(《お》みゝ)に達し、

「平日(へいじつ)の不行跡(《ふ》かうせき)、武(ぶ)のみちに、そむきし重科(ぢうくは[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ぢゆうくわ」。])、閉門。」

仰せ付けさせられ、

「追(おつ)て罪科(ざいくわ)あるべし。」

とて、一門中(《いち》へもんぢう)へ、あづけられ、きびしく、番をつとめしに、あるとき、忠藏、手水(てうづ)にゆきしが、家僕(けらい)をよびて、

「此首(くび)は、何ものよ。首なれば、誰(たれ)か、手うちに、せられしぞ。」

と尋ねらるれば、家僕は、おどろき、よくよく見れども、首も、なし。

 返答に、あぐみはて、さしうつぶきてゐる所に、忠藏は、大ひに[やぶちゃん注:ママ。]いかり、

「主人に對して、返答せぬは、心中に、一もつ、あらん。」

と、取りて、引きよせ、打擲(てうちやく)しけるを、番の一門、

「なにごとやらん。」

と、走り出て、やうすを聞き、ひとへに、

『狂氣。』

と、おもへども、まづ、相應のあいさつして、いよいよ、番に、氣をつけしが、翌朝、忠藏、膳にむかひ、飯(いひ)わんの蓋(おゝひ)をとり、飛びのきて、興ざめ顏、

「何ゆへに、此膳へ、かく、生首(なまくび)は、のせたるぞ。昨日(きのふ)の首も、おのれら兩人(りやうにん)、うらみをむくはんため、なるか。おのれら、ごときの手に及ぶそれがしと、おもひしか。」

と、手討にしたる男女の名を、よび、

イデ、物見せん。」

と、かけまはり、虛空(こくう)を、にらみ、虛空を、つかみ、昼夜(ちうや)、死したる男女を、しかり、いどみ、あらそふありさまなりしが、此ほどのつかれにや、しばしがあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、まどろみしが、

「むつく」

と、起(おき)て、目を見ひらき、

エヽ、口おしや[やぶちゃん注:ママ。]、『おのれらに、かく、手ごめには、なるまじ。』と、おもひつるに。」

と、齒がみを、なし、みづから、柱に、頭を、うちわり、眼(まなこ)、ぬけ出《いで》、死したりければ、さつそく、此よし、申し上《あぐ》るに、信玄公、きこしめし、

「武道をわすれし、匹夫(ふつふ)の死かばね、㙒(の)に捨つべし。」

と仰せ出だされ、數代(すだい)の家は、沒収(もつしゆ)せられぬ。無道不仁(むだうふじん)を行へば、かくのごときの、あやしき死も、尤(もつとも)、あるべきことぞかし。

[やぶちゃん注:。大井田忠蔵は代々の信玄の家臣であったようだから、火鉢・煙草盆(セット)・手水・茶壺・砂糖壺も年代物と考えれば、民俗学的には典型的な付喪神(つくもがみ)譚である。ただ、展開は残酷・凄惨で、下男下女の複数が御手打ちになり、最後には忠蔵も誅されて野晒しとなり、冒頭の凶兆を示唆したのが付喪神であったというシメとなっている。但し、忠蔵は、生まれつき、病的な他虐性を持つ粘着質の異常性格であり、後半部の手打ちにした男女の亡霊も彼にしか見えないという点では、重度の被害妄想と幻視と断定してよく、かなり進行した精神疾患(強迫神経症或いは統合失調症又は脳梅毒)の一症例として見ることも可能である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八八番 貉の話(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「貉」は「狢」とも書き、「むじな」で、既に「三三番 カンジキツクリ」の本文の最初の注で附してあるのでそちらを見られたい。ここでは第一話については、その中間のシーンから狸であると考えてよいと思われる。]

 

        八八番 貉  の  話

 

         貉の頓智(其の一)

 

 或時、貉が畠へ來て惡戲《いたずら》をして氣無し[やぶちゃん注:無防備。]で居るところを百姓が捕へた。百姓は相憎《あひにく》と繩を持つて居なかつたので、家に居る子供を呼んで、やいやい貉を捕(ツカ)まへたから早く繩を持つて來うと叫んだ。童《わらし》はあわてゝ、父それそれ早くと言つて、其所にあつた竹切を持つて走せて行つた。父はそれを見てインヤ其れア竹切ぢや無いかと言ふと、それぢや父此れかツと言つて今度は小柴を持つて行つた。否々《いやいや》それでアねえ繩だ繩だと叫ぶと、それだらこれかと言つて、笊《ざる》を持つて行つた。そこで父は呆れ果てて、もどかしがつて分んねえ、そんだらお前がこの貉をおさえて居ろと言つて、貉を子供におさへさせて置いて、自分で繩を取りに家の方へ走つて行つた。

[やぶちゃん注:「竹切」以下の並列する対象物を見るに、竹を切るための小型の鋸(のこ)のような「たけぎり」ではなく、「たけぎれ」「たけきれ」で「竹の切れ端」である。]

 其間《そのあひだ》、子供は貉をじつと押へつけて居たが、貉が仰向《あふむけ》になつて大きな睾丸《きんたま》を丸出しにして、おかしな格好をした。だから子供が笑ふと、貉は兄々《アンニヤアンニヤ》何が可笑しいと訊いた。童は何が可笑しいつてお前の睾丸が見えないかと言ふと、ほだらお前の父の睾丸はどれ程くらゐの大きさだ、貉の半分もなかんべと言つた。子供は父親の睾丸を輕蔑されたのでムキになつて、なんだとお前の物などよりアずつと大きいやと言ふと、ほだらどれくらいだえと又訊いた。童は片手を放して指で小さな輪をこしらへて、これ位あると言つた。貉は鼻を顰《しか》めて笑つて、なんだとつたそれツくれえか、それじゃ貉のケエツペよりもトペアコ(小さい)だらと言ふと、童は、なんだとこんなに大きいんだと言つて、貉から兩手を放して空中に大きな輪を作つて見せた。その間に貉は山へ逃げて行つた。

 (私の稚《をさな》い記憶の一つ。奧州の兒童は誰
  でもこの樣な素朴な話を聽いて育つのである。) 

 

        貉の惡戯(其の二) 

 二升石と云ふ所に兄弟の子供等があつた。學校からサガルと牛にやる草刈りをした。或日この二人がいつもの通りに、鎌をもつて刈場の方へ行くと、いつも通る細道の眞中に大きなフルダ(蝦蟇《がま》)が死んで腐瀾(クサ)さつて[やぶちゃん注:漢字はママ。「腐爛」の誤記か誤植。「ちくま版」は『くさって』と全ひらがな。]、屍《しかばね》一杯にウヨウヨと蛆蟲《うじむし》が湧きムレて、臭くて臭くて、アゲたくなり[やぶちゃん注:嘔吐したくなり。]、手で鼻を掩ふて其所を急いで駈け拔けて通つて行つた。

 此道は二人が朝いつも通る路であるが、今まであんな物を見たことがなかつた。何所からあんなヤンタモノ[やぶちゃん注:厭な物(者)。]が出やがつたべえと語りながら、草を刈つて、シヨツて歸りしなに、また臭いかと怖(オツカ)な怖なで其所を通つて見ると、先刻《さつき》まであんなに蛆蟲がウヨウヨして臭かつたものが影も形もなかつた。

 ハテ不思議だと話し合つて、家へ歸つて父に話したら、それア貉にバカされたんだと言つた。

 (岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の六。)

[やぶちゃん注:「二升石」「岩泉地方」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)二升石(にしょういし:グーグル・マップ・データ航空写真)]

2023/05/25

「近代百物語」 巻三の三「狐嫁入出生男女」 / 巻三~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、本話には相当する挿絵はない。]

 

   狐嫁入出生男女(きつねのよめいりしゆつしやうのなんによ)

 

 百濟玄之介(くだらげん《のすけ》)といふ人、京都に、すこし、しるべありて、

『仕官をも、なさん。』

と、おもひ、越前より、都におもむく。

 まだ、冬のはじめなれど、越路(こしぢ)は寒(ひゆる)により、道より、俄(にはか)に、雪、ふり出し、次㐧に、大雪になり、山中、步行もなりかたきに、道のかたわらに、小(ちいさ[やぶちゃん注:ママ。])きわらふきの家、一軒、あり。

 けふり、立ちのぼり、あたゝかに見へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、立ちよりて見るに、年老たる嫗(うは[やぶちゃん注:ママ。])と、十六、七の女、木をきり、くべて、いろりにあたり居《ゐ》たり。

 女の髮は、みだれ、衣服は、あかつきたれども、花のまなしり、うるわしく、雪のはだへ、細やかに、立ちふるまひ、やさしく、山中に、かゝる人のある事、此世の人ともおもわれず、神仙のすまゐかと、あやしまれける。

 翁夫婦、玄之介が來たると見て、

「あまりの大雪なるに、先づ、火にあたり給へ。」

といへば、よろこんで、いろりのはたに座し、ぬれたる衣服を、あふりける[やぶちゃん注:「焙(あぶ)りける」。]。

 日もすでに、暮ちかくなりて、雪は、次㐧に、はげしく、かぜさへそひて、行くべきやうに思はれねば、一夜のやどりを求めける。

 翁夫婦のいわく、

「いやしき片山かげのすまゐなれば、まろふどを、もてなすべきやうも、なけれども、くるしからずは、とまりて、旅のつかれを休め給へ。」

といふに、嬉しく、足そゝぎなどして、昼のつかれを休めぬ。

 しばらくありて、嫗、酒盃をもち來りて、

「一つ、のみ、寒を、ふせぎ給へ。」

と、いふにぞ、悅びて、

「こよひのやどりをめぐみ給ふ上、いろいろの御心づかひは、嬉しく候ふなり。」

とて、さいつ、さゝれつ、盃(さかつき)、數(かず)かさなりけるに、昼見し娘、化粧(けわひ)し、衣服をあらため出でて、又、酒をすゝむ。

 みやびやかにして、うつくしき事、はじめ見たるには、近まさりして、覚ゆ。

『心を引きみん。』

と、一首、かくは詠じける。

 〽雪つみて峯の木ずへ[やぶちゃん注:ママ。]も心あらばこなたになびけ夜半の盃

娘、かへし。[やぶちゃん注:底本では改行がなくここに返し歌が記されるが、送った。]

 〽くれ竹の一よのふしはなびくともまつの千とせの色をこそまて

 此歌に、いよいよ、めでゝ、翁夫婦に、

「妻にせん。」

事を乞ひ望めば、

「いやしき山家そだちの娘、何とて、貴客の妻になるべき。」

と辭すれども、强(しい)て望みぬれば、翁夫婦も諾(たく[やぶちゃん注:ママ。])して、頓(やか[やぶちゃん注:ママ。])て、かたばかりの夫婦の盃、取りかわし[やぶちゃん注:ママ。]、其夜は階老のちぎりを、むすびて、ふしぬ。

 あくる日、雪も晴れしかば、娘をともなひ、都に登り、しるべの方にたよりて、仕官をなせども、おもわしき事もなくて、纔(わづか)の扶持方(ふち《がた》)なれども、先づ、ありつきぬ。

 万事、たらぬがちなるを、妻、「おり・ぬい[やぶちゃん注:孰れもママ。]」のわざに器用なる上、心を盡して、家をとゝのふるにより、朋友のまじわり・衣服・調度にいたるまで、欠(かく)る事、なし。

 夫婦の情、ますます、あつくして、一男一女を產(うむ)。

 三年も、たちしかど、出世する事もなければ、

「一先《ひとまづ》、故鄕へ歸るべし。」

と、官をやめて、夫婦、幼子をともなひて、もとの道にぞ、出でたちけり。

「前の翁の所にいたりて、孫を見せば、よろこび給はん。」

と、かたりもてゆきしに、其所にいたり見れば、草のいほりはありながら、翁も、うばも、あとかた、なし。

「これは。いかになり行きぬらん。」

と、事とふべき隣家(となり《や》)もなき深山(しんさん[やぶちゃん注:ママ。])の岩根、こけ、ふかくとざす、ましは[やぶちゃん注:意味不明。「ましら」の誤記ならば、「野猿」のことだが。]のすみかに入りて、玄之介も、妻も、おもひあまれるなみた[やぶちゃん注:ママ。]は、ひめも、そ[やぶちゃん注:強意を含んだ指示語ととっておく。]、とゞまらず。

 壁にそひたる、ふるき衣を、

「これや、かたみ。」

と、引きあぐれば、其下に、きつねの皮あり。

 ちり、つもりて、久しく埋れたるがごとくなるを、妻、これを見て、大きにわらふて、「此物、なを、ありといふ事を、しらざりき。」

と、やがて、これを着るに、たちまち、へんじて、きつねとなり、

「こんこん。」

と、ほへて[やぶちゃん注:ママ。]、門に出でて、はしりける。

玄之介は、おどろき、かなしさも、戀しさも、さめはて、二人の子どもを、たづさへ、道を尋ねて、かへり行きける。

 此二人の子ども、成人して、才能、秀(ひい)で、學者となり、女は、良人(りやうじん)のつまとなりて、さかへける、と也。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八七番 兎と熊

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      八七番 兎 と 熊

 

 昔はあつたとさ。或所に熊と兎がありましたとさ。此所いらだと大森山のやうな所へ、二人で薪取りに行くことになりましたとさ。そこで二人はケラを着て二十を腰にさし、先づ山へ行つたと。熊は鈍八(ドンパチ)で、兎は賢(サカ)しいから、未だ山へ行き着かないうちから、ナギダ、ナギダと言つてゐたとさ(小屋を建てて遊ぶことになつて茅(カヤ)を背負ひに行くと多くは語つている。又紺屋《こうや》を始めると言つて染物屋遊びの心算《つもり》で茅を脊負に行くとも云うふ)。

[やぶちゃん注:「大森山」最後の附記は雫石地方とあるが、雫石町の南南東の現在の岩手県紫波郡紫波町土舘天間沢の大森山か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「ナギダ」「難儀だ」か。]

 山へ行つてガチリツガチリツと木を切り始めたとさ。熊は强いから澤山取つたが、兎は僅か取つただけだつたとさ。取つた薪も熊は澤山(ウント)脊負ひ、兎は極少(ベアコ)脊負つて、家さ歸ることになつたと。所が兎は賢(サカ)しいから後に立つて、あゝナギダ、あ句ナギダと言つて步かなかつたと。兎どな兎どな、なんたら弱いものでござるな。俺さカツツイで步いてとらなデヤと言つたが、兎がどうしてもカツツイで步けないので、熊はどれどれそら程ナギダら、俺さ半分よこしてトラナヂヤと言つて、兎の背負つた薪の半分を取つて、步き出したとさ。又少し來ると、兎はあゝナギダ、あゝナギダと言つて步かなくなつたとさ。兎どな兎どなナントしたこつてざるナ、其れ程ナギダら俺サ皆よこしてございと言つて今度は皆背負つて出掛《でかね》た。

 それでも又少し行くと、兎はあゝナギダ、あゝナギダと言つて步かなくなつた。そら程ナギダら俺サ負(オ)ぶさつてございと言つて熊は兎まで背負つて步いて行つた。

 兎が熊の背中で、カチリ、カチリと火打石で火を切ると、熊は、兎どな兎どな背中の方で音がするが何でござるナと問ふと、兎は熊殿あれはカチリ山のカチ鳥の聲サと、何でもないふりして答へた。

 次に兎が火をボウボウと吹くと、熊は、兎どな兎どなあのボウボウといふ音はなんでござるナと訊いた。すると、兎はあれはボウボウ山のボウボウ鳥コさと答へて置いて、熊の背中から跳ね降りて、逃げてしまつた。

 熊は背中に火がついてだんだん熱くなつて來たので、始めて兎に計《はか》られた事に氣がついた。

 そして大火傷をしてウンウン呻りながら山を越して往くと、兎が藤蔓を切つてゐた。熊が兎どな兎どな、先程はよくも俺を騙して火傷(ヤケ)にしたなと云ふと、兎は全く知らないと云ふ顏付きで、前山の兎は前山の兎、藤山の兎は藤山の兎、俺が何知るベサと言つた。熊は如何にも成程と思ひ、時に兎どの藤を切つて何する心算《ツモリ》かナと問ふと、今日はお天氣もよし、一つ日向(ヒナタ)で遊ぶ考へで蔓を取つてゐるのさと答へた。すると熊はそれは面白さうだ、俺も加(カ)せてとらなでアと言つて二人で遊ぶ事にした。

 其所で二人で藤の蔓を取つて、何して遊ぶべと熊が問ふと、兎は山の頂上から手足をひんまるツて傾斜面(ヒラ)を橫にタンコロビするととても面白いと言つた。熊は成程と合點して、早速熊から始める事になつた。

 二人は山の頂上へ行き、まず[やぶちゃん注:ママ。]兎が熊の手足を結付《むすびつ》け、そらとても面白いから轉んで見とらなでアと言つた。熊は成程と思じょ轉び出すと、彼方《あちら》の樹の根へ突當《つきあた》り、此方《こちら》の藪の中に落ち込み、面白いどころか死ぬ思ひをして谷底へ轉げ落ちた。手足を結びつけられてゐるので容易に起き上ることも出來ず、漸《やうや》くの思ひで起き出して見ると、兎は逃げて何所にも居なかつた。

 熊がウンウン呻りながら山を越して行くと、兎が日向で、タデミソを作つておつた。兎どな兎どな、先程は其方(ソツチ)にだまされて死ぬ思ひをした。これこんなに體に傷がついてゐる。何うして吳れるなと言ふと、兎は何も知らないといふ顏をして、藤山の兎は藤山の兎、タデ山の兎はタデ山の兎で、俺が何知るベサと答えた。熊は成程と合點して、それも其筈《そのはず》と思ひ、時にタデ山の兎殿、其方(ソツチ)の今拵へて居るものはそれは何でござるナと訊いた。タデ山の兎は、是はタデ味噌といつて、燒傷(ヤケド)や打傷《うちきず》や皮の破れたところさ塗ると、すぐ治る妙藥でナ、今是を拵へて街へ賣りに出掛ける所でござると言ふと、熊は欲しくてたまらなくなつて、兎殿兎殿俺も此通り燒傷や突傷《つききず》で惱んでゐるが、少し讓つてたもれでアと無心に及んだ。兎はそれでは少し分けてやるべいと言つて、熊の背中の方へ𢌞りタデ味噌を其の傷へ塗りつけてやつた。

 すると鹽氣がだんだん傷へ沁み込んで痛くて耐《たま》らなくなつて來たが、兎はもう逃げて居なかつた。熊は口惜《くちをし》ながらも泣き泣き川べりさ下《お》りて體を洗ひ、タデ味噌を流した。漸く洗ひ流してウンウン呻りながら山を越えて行くと、又兎が一人で樹を伐つたり板を挽《ひ》いたりして忙しく働いてゐた。熊は漸く其所へ辿り着き、兎どな兎どな先程はひどい目に合つた、お蔭で身體《からだ》がこんなに腫れ上つた。どうしてくれると言ふと、タデ山の兎はタデ山の兎、杉山の兎は杉山の兎、俺が何知るベアサと言つた。

 熊も、杉山の此兎と、タデ山の先程の兎とは別なのかも知れない、この兎のいふのも道理だと考へ、時に兎どな杉板を挽いて何に使ふ氣かナと訊いた。杉山の兎は此の板で船を矧《は》ぐのさ、そして川の中さ乘り出してウンと魚を捕(トル)ベアと答へた。すると熊は成程其は面白さうだ、兎どの兎どの、此俺も加《か》せてたもれでアと言つて二人で船を矧いだ。

 二人は相談して兎は白いから白い杉板で船を矧ぎ、熊は黑いから黑い土船を造ることにした。

 熊のは黑い土船で、兎のは白い板船で、漸く二肢を拵へ上げ、各各(テンデ)に川の中へ乘り出した。熊の黑船は土で拵へた船であつたから、ともすると缺けて崩れる。其所ヘ兎は自分の白い板船をワザと突當《つきあ》てるので、段々熊の船は沈みかけて來た。熊は段々に困感して、兎どな兎どな助けてたもれでアと叫んでゐた。兎はよしよし助けに行くよと言つて居る間に、土船は段々に崩れて、熊はザンブリ水の中へ墜ちた。兎は助けるフリをして竿を突出《つきだ》し、それ熊殿上《くまとのうへ》とらなでア、それ熊殿上とらなでアと言つて、竿で深い淵へ突んのめしてやつて遂々《たうとう》殺してしまつた。

 それから兎は、其所へ熊を引づり上げて近所の家へ行つて、鍋を借りて來て熊汁を煮て食べることにした。[やぶちゃん注:底本は句点なく繋がっている。「ちくま文庫」版で句点を挿入した。]其所の家では大人は働きに畠さ行き、子供ばかりが宿居《やどゐ》をして居た。

 兎は子供等と共に其家で熊汁を食べ、骨と頭ばかり殘して置き、この童共(ワラサド)このワラサド、トドだのアツパだの來たらナ、この鍵(カギ)をガン叩いてぐるりと𢌞(マワ)り、この頭の骨をガリツ嚙(カヂ)れと言へ。俺は後《うしろ》の林で寢てゐるから默つてゐるんだぞと言つて出て行つた。すると親達が間もなく畠から戾つて來たので、子供等は兎の言い置いた通りを親達へ告げた。親達は、鍵をガンと叩いてグルリと𢌞り熊の頭の骨をガリツとかじり、ガンと叩いてグルリと𢌞つてガリツとかじりするうちに齒が皆な缺けたので、ひどく怒つて、あの兎の畜生に騙されて齒無しになつた、このワラサド兎は何所に居ると問ひ詰めた。兎はだまつて居ろといつたが、後の林で寢ていると告げると、其所にある釜マツカを持つて走り出し、子供の敎へた所へ行つて見ると、兎が寢てゐるので、マツカで突《き》のめし、このクサレ兎のお蔭で齒を一本もなく缺いてしまつた。憎い畜生だ。殺してしまふから枕元から刀を持つて來いと子供達に叫んだ。子供等は枕を持つて來いと聞き違へて、急いで枕を持つて行くと、此馬鹿ワラシ、枕ではない枕元の刀と言つたけアな、分らないならサイバンの上から庖丁を持つて來いと言つた。すると今度は子供はサイバンと聞いたからサイバンを持つて走つて行つた。なんて馬鹿なワラシだべ、そんだら此のマツカで兎を逃さないやうに押さへて居れと言ひつけて、自分で出刄庖丁を取りに走つて行つた。

[やぶちゃん注:「釜マツカ」不詳。大釜を焚くための太い薪か。

「サイバン」「菜板」で俎板のことか。]

 兎は其間に、一策を案じ、ワラサドワラサド、汝(ウナ)アツパのキンタマどのくらいあると尋ねた。子供は此位だと言つて片手で示すと、兎はそれでは分らない兩手でやつて見ろといふので子供は兩手を出し、この位大きいと云ふと、その兩手のゆるんだ隙をねらつて逃げ出した。そこへ恰度親が歸つて來たので、持つてゐた庖丁を兎目がけて投げ付けた。すると恰度兎の尾に當つて尾が切れたのでその時から、兎に尾が無くなつたといふ話。ドツトハラヒ。

 (岩手郡雫石地方の話。田中喜多美氏の御報告の分の
  一六。)

[やぶちゃん注:「かちやま山」の東北に伝わる熊ヴァージョンで、兎の尾が短く切られたようになっている由来譚あるが、熊の側に悪因が示されず。いかにも後味の悪い話で私は甚だ嫌いだ。私の民話の兎の印象は総じてよくない。英語でも「兎のように」は「性的な」の好色であることの別称である。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     海 老 上 﨟   (大正十四年九月『集古』乙丑第四號)

 

 岩瀨醒齋の「骨董集」下に、雛遊びの事共を多く述《のべ》た中に、海老上﨟《えびじやうらふ》の一條あり。『今、童《わらは》の戲《たはぶ》れに、鰕(えび)の目《め》を頭《かしら》とし、紙の衣裳をきせ、雛《ひいな》に造りて、「海老上﨟」とて玩《もてあ》そぶ。是れ、寬文の頃、早くありし業《わざ》にや。寬文十二年の「俳諧三ツ物」に『裏白やえび上﨟の下がさね 正長』」と載す。予、幼時、そんな物有《あつ》たやう想へど、定かに記憶せず。諸友へ聞合《ききあは》したが、皆、知らぬとの返事のみ。唯だ、平沼大三郞君のみ明答された。云く、

 

C1

 

[やぶちゃん注:底本よりキャプションも含めてトリミング補正した。キャプションは、右から左に『第一圖』として、『品川で作つた海老上﨟』とある。]

 

『小生、母に問《とひ》し處ろ、薄々乍ら、そんな物を玩んだ覺えありといえど、委しく記憶せず、幸ひに、近頃、外祖母が近所に來り住める故、拙妹が往《いつ》た序でに問合さしめしに、判然致し候。右の玩品は海老上﨟と稱へ、伊勢海老の目を引き拔くと蠶豆《そらまめ》の形をなし居り、上の黑き所が恰《あたか》もお龜の髮の形也。之に紙を切《きつ》て作つた衣裳をきせ、玩びし由。母の幼時迄、此風有《あり》しも、其後、追々絕《たえ》し事と存じ候。母は四十九歲、幼時、品川に住み、祖母も幼時より同處におり候。』と有て畧圖第一圖を添《そへ》て示されたので、古い事を、長命の人から聞き得たを、悅びの餘り、「腰かゞむ迄傅(かし)づくや海老上﨟」。

[やぶちゃん注:『岩瀨醒齋の「骨董集」』「岩瀨醒齋」は知られた浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の別号(本名とされる一つが「醒(さむる)」)。「骨董集」は文化一二(一八一五)年刊の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』第八十四の塚本哲三等編(大正四(一九一五)年有朋堂書店刊)のこちらで当該箇所を視認出来る。以上の本文はそれと校合し、おかしな箇所は訂した(例えば、底本では「鰕の目を顏とし」とあるのを、そちらに従い、「頭」とした)。

「寬文」一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。

「寬文十二年」一六七二年。

「俳諧三ツ物」連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を「三つ物」と称し、早くから、この三句だけを詠むことが行われてきたが、近世以降、歳旦の祝いとして各派で詠まれた。而して、その各派の、この「三つ物」を一つに集成したものが、「俳諧三ッ物」という同書名で何度も刊行されている。同名の異書が多く、調べるのが面倒であることが幾つかの資料から判明したので、調べない。悪しからず。

「正長」芭蕉の師であった北村季吟系の、上方の俳人のようである。後の熊楠の言いから

「平沼大三郞」小畔(こあぜ)四郎・上松蓊(しげる)とともに南方熊楠門下の「粘菌学の三羽烏」と称せられた人物で、熊楠の粘菌採集や生活面で協力した。]

 右の平沼君の答書を本山豊治《もとやまとよぢ》氏の『日本土俗資料』拾輯(今年四月刊)に出し、『此他にも例ありや』と問《とふ》たが、其方《そつち》からは更に答へを得ず。之に反し、御膝元の紀州よりは、多少の知らせに接した。例せば、東牟婁郡大島の「蛸」となん呼ばれた賣女《ばいた》は、先頃の大火まで、上巳《じやうし》[やぶちゃん注:三月三日。]每《ごと》に、平沼君報告通りの紙雛《かみびな》の頭《かしら》を、鰕の目で作つた。其邊《そのあたり》の海底で鮪網《まぐろあみ》をひくと、四百匁[やぶちゃん注:一・五キログラム。]位い[やぶちゃん注:ママ。]の大鰕を得、其目の大《おほい》さ、小指程有て、隨分、大きな雛人形の頭が出來る、と話された人、有り。同郡請川(うけがは)村では、年始の飾り、海老を貯はへて、上巳の日、女兒ある家へ菱切り餠に、桃の花一枝と、其鰕の足數本を添え[やぶちゃん注:ママ。]贈る。其日に限らず、小兒が鰕の目を頭として紙雛を作り、遊ぶ事あり、と聞く。津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白《うらじろ》を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治《いや》し、「濕《しつ》追出し藥《ぐすり》」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え、請川村如き海遠い僻地では、上巳の祝儀用のみならず、雜多の禁厭《まじなひ》醫療の爲に、飾り海老を貯へ置《おい》た事と察する。

[やぶちゃん注:「本山豊治」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は号の本山桂川(けいせん)の名で知られる民俗・民芸研究家。長崎市生まれ。早稲田大学政治経済科(明治四五(一九一二)年)卒。『日本民俗図誌』全二十巻や「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、「金石文化研究所」を主宰し、「史蹟と名碑」・「芭蕉名碑」などの著書がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「東牟婁郡大島」和歌山県東牟婁郡串本町の「紀伊大島」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「先頃の大火」調べたが、不詳。

「同郡請川(うけがは)村」現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)の南部和歌山県田辺市本宮町請川。熊楠の言うように、山間部である。

『津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治し、「濕追出し藥」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え』ブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で二〇一五年から電子化注を行っているが(現在の巻之五がつまらぬため、やや停滞中)、フライングするまでのものでもなく、最終巻「卷の十五」「諸病妙薬聞書」のリストの二箇所。以下に示す(三一書房『日本庶民生活史料集成』第八巻(一九六九年刊底本))。なお、同巻は病状毎の対治療のソリッド記載となっており、二条は離れている。

   *

○齒の痛みには

 正月のうらじろ【齒朶の事】を貯置き、きざみて切れに包み、ふくみ居れば治す。

   *

○しつをひ[やぶちゃん注:ママ。]出し藥

 正月かざりえびをせんじ、煮汁を飮べし。

   *

この「濕」とは漢方で言う「湿邪」。梅雨時などの湿度の高い時期に、余分な水分や老廃物が溜まることで引き起こされる心身の不調を指す。]

 

C2

 

[やぶちゃん注:画像は同前。キャプションは『第二圖』で指示線と記号(甲・乙・丙・丁及びイ・ロ・ハ・ニ・ホ)が附されてある。]

 

C3

 

[やぶちゃん注:同前で、『第三圖』。]

 

 田邊町の風流紳士佐山千世氏に問ふと、其幼時、上巳に限らず、鰕の目さへ、手に入《いら》ば、其れで人形を作り、翫《もてあそ》んだとて、特に、伊勢鰕二疋を携へ來り、眼前、之を製し、觀《み》せられた。凡そ伊勢鰕の目は第二圖(甲)で見る如く、蠶豆形で、「ニ」なる眼莖上《がんけいじやう》に附く。目の前部「ハ」は、球狀で、淡黃褐色、半透明故、内部の瞳とも云ふべき黑塊《こくくわい》が、映りだみて、見える。後部は、大分、扁《ひら》たく、その上面口《じやうめんぐち》は、眞紅で、前方に、偏《へん》して白き細條《さいじやう》一《ひとつ》あり。下面「イ」は眞白《しんぱく》で、其後瑞に、近く、やや歪んだ紅の短線「ホ」[やぶちゃん注:「乙」図。]あり。兩面共、滑らかに光り、墨附き良ければ、濃い墨で、黑く眼鼻を𤲿《ゑが》くと、件《くだん》の紅短線《こうたんせん》が、口に紅さした如く見え、宛然、「お多福」の面の如し。此故にや、かやうのことを知らぬなりに、今日も、田邊で、伊勢鰕の目を「お多福」と稱《とな》ふ。扨《さて》、頭は平沼氏が𤲿ける如くに黑からず、茶色の髮の歐米女人《によにん》が斬髮した體《てい》に見え、額の髮際が、兩方、不整等《ふせいとう》に上へ凸入《とつにふ》し居り、較《や》や、猴《さる》の前額《ぜんがく》を見る樣である。此目を引き拔くと、深い穴、有《あり》て、眼球の中空な内部に通じ、其穴は、廣いから、松葉や爪楊枝に合はず、帚《はうき》に作つた竹の細枝の一節を頂にして、其穴に差し込むと、節が、目の前端、乃《すなは》ち、「お多福」の頭頂に屆いて、しつかり食ひ留め、搖るがしめず。此鰕の尾は、五枚より成る。その眞中の一枚(「丁」)は、他の四枚と異《かは》り、左右整等で、先《まづ》は、力士の化粧廻しの樣だ。中が空虛で、小兒等《ら》、ホウズキの樣に吹き膨らす。今、二疋の鰕より、眞中の尾片《びへん》、二枚を採り、其胴に著き居《をつ》た端を、相《あひ》接近せしめて、帚竹《はうきだけ》の小枝で、眞中を串刺しにし、扨、上に突き出た枝の端に、鰕の目をさしこむと、第三圖通りの人形が出來る。扨、一手《いつて》で尾片を持ち、他の一手で竹枝を廻《まは》すと、第二圖の「乙」なる白色の「お多福」、「丙」なる赤色の「お多福」の二顏《にがん》が、此方彼方《こつちあつち》と、向き替るを、小兒の遊びとした、との事。念の爲め、斷わり置くは、紅面《こうめん》の方には、「お多福」の口に當たる紅短線が無いから、墨で口を𤲿くを要するが、白面《はくめん》の方には、それが自然に在《あつ》てやゝ歪みおる[やぶちゃん注:ママ。]ので、含笑《ふくみわらひ》する體《てい》に見える。又、此に類した「樟《くす》の葉のサムライ」と云《いふ》は、樟の實が、秋、熟した時、其葉、二枚を、上下とし、黑い實を頭として、其莖で、上下の葉を刺し合せたので、松葉を、大・小、刀《かたな》にさゝせた、と話された(第四圖)。

[やぶちゃん注:「佐山千世」佐山伝右衛門。詳しい事績や名前の読み方は判らないが、「風流紳士」とあるが、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションで資料検索をしたところ、この『官報』資料で(左ページ上から三段目の五・六項目)、佐山千世の名で、大正一四(一九二五)年三月時点では、『田邊銀行』取締役であったことが確認出来た。

「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 。]

 

C4

 

[やぶちゃん注:同前で、『第四圖』『田邊で作つた樟の葉さむらい』とある。]

 

 上に出した「腰かゞむ迄かしづくや海老上﨟」の句を傳聞して、

「季節がない故、句に成《なつ》て居《を》らない。」

と、二、三子、木葉天狗《こつぱてんぐ》が、やり込《こん》で來た。南方先生、長大息《ちやうだいそく》して、歎じて言《いは》く、

「だから、馬琴の歲時記ぐらいを、玉條と滿足する輩《やから》に附《つけ》る藥は、無しだ。汝ら、知《しら》ずや、京傳が引《ひい》た正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年に成た言水《ごんすい》の「俳諧江戶辨慶」に『海老上﨟龍のみやこや屠蘇の酌 如船』とあるを、遠《とほ》から御存知だが、貴樣等《ら》は、知《しら》ぬに極まり居る。正長が「裏白や」といひ、如船が「屠蘇の酌」と言《いつ》たので、海老上﨟は、飾り海老同樣、年始の物と判る。去《され》ばこそ、平沼さんのお祖母さんが、新年祝ひに、『腰かがむ』云々とやらかしたのだ。」

と聞いて、吃驚《びつくり》、木葉どもは、散りてんけり。其後も左思右考するに、どうも近來の名吟としか惟《おも》はれぬ。但し、飾り海老は目出度い物故、保存して禁厭醫療に用ひ、其目で、新年とか、上巳の外にも、雛人形を拵へ玩ぶ所、有たは、上述の如し。是は、雛遊びが、上巳に限らなんだ古風が殘つたので有る。「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」。これは何時頃の書で、此句は何の意味か、大方の敎示を冀《こひねが》ふ。

[やぶちゃん注:「季節がない」確かに、こいつら、救いようのない似非文人の木っ端どもである。かの芭蕉は「季の詞(ことば)とならざるものは無い」と明言している。しかも、歳旦句とは歳旦に詠むものだからこそ、そこに「季」は自動的に定まっているのである。字背にその雰囲気と年始の情景が髣髴すると同時にそれは、「新年」の「季」の特別な「晴れ」の句なのである(というより、私は中学時代に『層雲』に入った元自由律俳句で、今、定型を作ることがあっても、季語を絶対に意識しない無季語志向である)。一昨日来やがれ! 化け烏天狗ども!

「馬琴の歲時記」曲亭馬琴編の「俳諧歳時記」は近世歳時記の決定版という評価がなされているもので、発行書肆を異とした四種が刊行されているが、孰れも享和三(一八〇三)年上梓されている。岩波文庫で所持するが、そもそも馬琴は、俳才もなく、というより、彼は確信犯で発句を完全に馬鹿にしており、私は彼が「俳諧歳時記」を書くこと自体が、鼻白むどころか、馬琴の鼻を捩じり曲げてやりたい、ゲロを吐きたいほどであることを告白しておく。守銭奴バキンめガ!

「正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年」「延寶八年」は一六八〇年。徳川家綱が死去し、綱吉が将軍となった年。「後ち、八年」とあるからには、この正長の三ッ物の一句が載る「俳諧三ツ物」は、寛政十三年(二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に延宝に改元)に板行されたものということになる。「三ッ物」本では、これはかなり早い時期の刊行本の一つと考えてよい。

『言水の「俳諧江戶辨慶」』江戸初期の松尾芭蕉と同時代の俳人である池西言水(ごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は、ウィキの「池西言水」によれば、奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』、延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に第一撰集である「江戸新道」を編集、その後、「江戸蛇之鮓」、ここに出る第三撰集「俳諧江戶辨慶」(推定で延宝八(一六八〇)年刊)、「東日記」などを輯し、『岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある人物である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、同書の活字本の当該部(部立「元日」。右ページ下段中央)が視認出来る。

『「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ(右ページの頭書「蜜柑の猿」の条)を視認されたい。しかし、この熊楠先生も判らぬ「前句付廣海原」なる俳書は不詳である。]

 其から、「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、公の寵、衰へたるを歎きて、小さい衣服雛衣を、二つ、縫ひ、下前《したまへ》に、一首宛《づつ》歌を書《かき》て女神に進《まゐ》らせた記事を引《ひき》て、今の女童《めわらは》が「粟島サン」をさきに童部《わらはべ》の仕業《しわざ》に古いことが多いと述《のべ》たは、今日、西說受賣《せいせつうけうり》の民俗學者に、萬々《ばんばん》勝つた創見だ。扨、粟島に鎭座する少彥名命《すくなびこなのみこと》は、高皇產靈尊《たかみむすひのみこと》の指間《しかん》から、漏れ落ちたほど、小さかつたから、雛を奉るも由あり、と說《とい》た。「粟島祭《あはしままつ》り」は上巳の日で(今年より四月三日)、加太《かだ》の「鰕祭り」とて、伊勢鰕斗《ばか》りの料理で、加太浦、擧《こぞ》つて大飮した。此浦で、獨創でも無からうが、鰕の目も、此日、夥しく手に入《はい》る故、廢物利用で、鰕の目の雛人形を、澤山、此神に奉つたと察する。俗にいふ「人形廻し」、又、「夷廻《えびすまは》し」は、專ら、西の宮の夷《えびす》三郞左衞門の尉《じやう》は云々と、漁利の神をほめて、人形を廻し、錢を貰ひ、旅するを、漁村の人々が歡迎する。夷の顏を二つ、前後に合せて廻す事、佐山氏が示された海老人形に、全く似て居《を》る。かやうの「人形廻し」より「操《あやつ》り」、「操り」より「人形芝居」と進化した次第は、喜多村信節《のぶよ》の「畫證錄」や「嬉遊笑覽」を參考せば、判る。近年迄、紀州海草郡淸水てふ漁村では、每度、醵金《きよきん》して、人形芝居を傭《やと》ひ、興行せしめ、其都度、偶人《くぐつ》、一つ、失せた。之を盜めば、漁利多し、と信じたからだ。根本は「夷廻し」と呼んだのが、其から進化した人形芝居を呼ぶ事と成たと見える。

[やぶちゃん注:『「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、……』先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』のこちらで当該箇所を総て視認出来る。

「粟島祭りは上巳の日で(今年より四月三日)」和歌山県和歌山市加太にある淡嶋神社(現行の正式表記は「嶋」である)の例祭であるが、公式サイトの「年中行事」を見ると、「春の大祭」の項に、現在は四月三日としつつ、『以前は』三『月』三『日に行われていた』と注意書きがある。その前の「雛祭(雛流し)」は、三月三日の行事で、かなり力を入れて書かれてある。サイト「きごさい歳時記」の「粟島祭(あわしままつり/あはしままつり) 仲春」の記載では、『婦人の病の平癒を願って、櫛・乳型・雛人形が奉納された。全国から奉納されるおびただしい数の雛人形を舟に積み、海に向かって雛舟が流される。近年、関西では有名な行事となった』とあり、ウィキの「淡嶋神社」の「婦人病祈願」の項に、『淡島神は婦人病にかかったため』、『淡島に流されたという伝承から、婦人病を始めとして安産・子授けなど』、『女性のあらゆる下の病を快癒してくれる神社とされている。かつては祈願のため』、『男根形や自身の髪の毛などが奉納されていたが、現在はそれらに代わって』、『自身の穿いていた下着を奉納する女性が多い。境内奧の末社には絵馬などと共に多数の女性用下着が奉納されている』とあった。則ち、この春の大祭こそが、本来の女性を守る主祭であったのではないかと思われる。しかし、その奉納品の内容が内容だけに、三月三日の、近代以降、女子の晴れやかな「雛祭り」となった同日の、旧主祭事の執行を避け、四月に移されたのではないかとも私には思われる。さればこそ、この熊楠の、わざわざの注意書は、やはり移動した本来の大祭の方を言っているものと考えてよい。

「紀州海草郡淸水」「ひなたGPS」で旧「海草郡」相当の海浜をテツテ的に調べたが、ない。そもそも旧「海草郡」には「淸水」という村自体が、ない。而して、たった一つ、熊楠の表記誤記であるとすれば、現在の和歌山県海南市冷水(しみず)の可能性が極めて高い。ここは旧「海草郡」内で、海浜であるからである。「ひなたGPS」で戦前と現在の地図で示す。

「𤲿證錄」喜多村の考証随筆。]

 「窻《まど》のすさび」追加に、『惠比須の像迚《とて》、繪にも書き、木にも刻みぬるは、廣田の神主の像也。」と有て、神功皇后、筑紫より歸途に、西宮廣田の神社、荒れ果《はて》て、神主、釣を業《なりはひ》として、漸《やうや》く、神に仕へ、鯛を釣《つり》て獻じた。由緖を聽取《ききとり》て、所願を問《とは》れしに、神社再興を願ふて、造立された。其神主の名が「夷《えびす》三郞」、本社再興の功で、末社と崇められた。後世、堺の商人、此宮を信じ、月詣りして、富有《ふいう》と成たが、月詣り、叶はなく成たから、其宅に、神影を寫し、朝夕、拜みたい、と望むに、神に寫すべき形、無ければ、彼《か》の夷三郞が、鯛を釣《つり》て獻上に持ち行く體《てい》を繪《ゑが》き與へたのが、世に廣まつた、と出づ。「南水浸遊」に、『傀儡師《くぐつし》、昔しは、西宮並びに淡路島よりも出《いだ》し、夷の鯛を釣り玉ふ仕形《しかた》をして、春の初めに出來る故、「夷廻し」・「夷かき」とも云《いへ》り。』。「東海道名所記」六に、『又、淨瑠璃は、其頃、京の次郞兵衞とかや云ふ者、後に淡路丞を受領せし西の宮の「夷かき」を語らひ、四條河原にして、鎌田政淸が事を語りて、人形を操り、その後、「がうの姬」、「阿彌陀の胸割り」抔いふ事を語りける。』。「夷廻し」が操り人形の初めだつたのだ。「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、生存中、夷三郞殿の神慮に叶ふた道君房てふ人の像を作り、舞《まは》しありきしとか、西の宮なる百太夫の神像は古き雛の形ち抔、記す。其から推すと、佐山氏が示された、「お多福」面が廻る「鰕の目人形」は、專ら、元旦・上巳に依り祝はるゝ「海老上﨟」と異《かは》り、本《も》と、雛人形を廻して、船舶の無難と、漁利多き樣、祈つたを、眞似た兒戲《じぎ》だつたが、後には、鰕の目を頭として、エビスと、エビの、音便、旁(かたが)た、「夷廻し」の眞似事と成たで有《あら》う。紙雛を「船玉神《ふなだまがみ》」と齋《いつ》ぎ、船每《ごと》に、祕し納めおく事は、「松屋筆記」に見え、今日も熊野で一汎にする。

[やぶちゃん注:「窻のすさび」丹波篠山藩家老にして儒者であった松崎白圭(はくけい 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:伊藤東涯に学び、荻生徂徠門下の太宰春台らと親交があった。名は堯臣(ぎょうしん)。別号に観瀾)の考証随筆。「窓のすさみ」の方が一般的呼称である。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』(昭和二(一九二七)年刊)のここで当該部を視認出来る。

「西宮廣田の神社」現在の兵庫県西宮市大社町にある広田神社。私は神功皇后の実在を疑っているので、同神社の「御由緒」のページをリンクするに留める。

「南水浸遊」作家・浮世絵師の浜松歌国(颯々亭南水:安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)が書いた随筆。

「鎌田政淸」(保安四(一一二三)年~永暦元(一一六〇)年)は平安後期の武士。遠江国出身か。源義朝の家人で乳母子。「保元の乱」(一一五六年)では、京の白河殿で源為朝と戦い、その頰を射るなどの活躍を見せたが、「平治の乱」(一一五九年)では、一時、藤原信頼が政権を掌握すると、兵衛尉に任ぜられ、「政家」と改名した。しかし、結局、平清盛に敗れ、義朝とともにに東国へ落ちる途中、尾張国知多郡野間の鎌田の舅である長田忠致(ただむね)を頼ったが、裏切られ、義朝とともに殺された(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「がうの姬」不詳。しかし、これ、源義経と最期をともにした正室郷御前(さとごぜん 仁安三(一一六八)年~文治五年四月三十日(一一八九年六月十五日)をモデルとした古浄瑠璃ではなかろうか。故郷である河越では、京へ嫁いだ姫である事から「京姬(きやうひめ)」と呼ばれ、また、延享四(一七四七)年の浄瑠璃「義経千本桜」での義経の正妻は、平時忠の養女で川越太郎の実の娘「卿(きやう)の君」であり、音が似ている。

「阿彌陀の胸割り」古浄瑠璃の本地物(ほんじもの)。六段。六字南無右衛門作とされ、慶長一九(一六一四)年上演の記録がある。他人の難病を治すために娘が自分の生き肝を捧げようとすると、阿弥陀が身代わりになって、その胸から血を流すという粗筋。

『「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、……』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本で概ねの当該部が視認出来る。ここを見ると、熊楠の、この前後の部分全体が、これが種本じゃないか、とバレまくりだ。熊楠は、時に人が寄せて纏めたものを、あたかも自分が、それらの原本を照覧して書いているかのように記すことが、まま、ある。他の研究家のいい加減な謂いを激烈に指弾する割に、自分には、結構、甘いのである。

「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。]

 斯く、鰕の目の雛に紙を着せると、鰕の尾を衣裳に擬《ぎ》する、二樣、有り。之を作る理由も、多少、異なる樣だが、要は、雛遊びは、昔し、三月三日に限らず、鰕の目が、女の顏に似るから、其れで雛人形を作り、玩び、正月に作ったのを「海老上﨟」と稱へたが、後には、何時作つても、かく呼《よん》だと見える。

 

C5

 

[やぶちゃん注:同前で、キャプションは、『第五圖』『英國の海老上﨟』。]

 

 支那で「鰕杯《かはい》」とて、鰕の殼で盃《さかづき》を作り、其鬚を、簪の柄《え》にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆれど、其眼を玩具にすることを、聞かぬ。歐州に至ては、海老上﨟は有たが、日本のと大《おほい》に差《ちが》ふ。彼方《あちら》の鰕(ロブスター)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。以下の二箇所も同じ。]の胃は頭の内に在《あつ》て、其胃中に、人や獸の臼齒《きうし》の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體《てい》にみえるから、英國で「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」又は、「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」と名《なづ》けた。今は知《しつ》た人、少ないから、去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』に、「海老上﨟」なる語を載《のせ》た書、二種を擧《あげ》て、「何事か。」と問ふた人が有た。ベンスリー氏、答へに、「牛津(オクスフォード)英語大辭典」[やぶちゃん注:読みは「選集」に従った。]に、一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」に、「レヂー・イン・ゼ・ロブスター」なる語有るを、最も古い例としあれど、實は、其より、五十年古く、ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」に、『彼《あの》男が、一番、多く祈って、日夜、燒香するのは、『海老上﨟』だ。」とあり、舊敎徒が、基督の母マリアを「吾人《われら》の上﨟(アワー・レジー)」と呼ぶ故、此鰕の三つの臼齒の正中の奴を、「聖母」と見立てたらし、と有た。然るに、質問者が引《ひい》たは、一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」で、是が、一番、古い。熊楠は、十八世紀の末、ヘルブストが出した「海老上﨟の圖」を、一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」で見出《みいだ》し、古い記文丈《だけ》では、實形が分らない、須《すべか》らく、此圖第五圖を見よと告げ遣《やつ》たが、沒書と成た。英國に、近來、斯樣の穿鑿、大《おほい》に衰へ、日本人に先を超《こさ》れたを、不快での事らしく、大戰爭以來、彼《かの》國人の氣宇《きう》[やぶちゃん注:度量。]、頓《とみ》に狹く成た例は、外にも多々ある。日本人は銳意精勵して、西洋人に西洋の事を指數《さしず》してやらにや成《なら》ぬ。是は、怠らず、又、氣長くやらねば、遂げられぬ。

  花 待 つ と 腰 を 掛 け た か 海 老 上 﨟

[やぶちゃん注:『支那で「鰕杯」とて、鰕の殼で盃を作り、其鬚を、簪の柄にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆ』「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の四百四十四巻の「鱗介部」の「蝦一」の[449-26b]の影印本を見られたい。そこに(句読点・記号は私が附した)、

   *

「嶺表錄異」曰、『海蝦、皮殻、嫩、紅色。腦殻、與前脚有鉗者、色、如朱。土人、多製為盃、謂之「蝦杯」。亦有以其鬚為簮杖者。

   *

「簮」とあるのは、「簪」で大型の海老の触角をそれにするのは、腑に落ちる。因みに、エビ類の、ここで上﨟の首になるところの眼と眼柄であるが、彼らの視力は、それほど良くなく、感覚器としては、直ぐ直近にある触角の方が感覚器として遙かに有能性を持つ。従って、襲われるなどして、例えば、片方を眼柄ごと、欠損した場合、彼らは、そこに触角を再生させる。伏木高校時代の「生物Ⅱ」(私は全くの好みから「Ⅱ」を受講した)で、高橋先生より教えられ、参考書の図も見たが、後年、二十代の頃、行きつけの寿司屋の奈良兄さんが、三本触角の伊勢海老を見つけて呉れ、感動した。無論、すっかり私の腹中へと消えて行った。

「日本のと大に差ふ。彼方の鰕(ロブスター)の胃は頭の内に在て」誤り。ロブスター(英語:Lobster)は、狭義には十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ(ネフロプス)科Nephropidaeロブスター属 Homarus に属するが、彼らに限らず、エビ類の内臓(心臓・胃・肝臓)は総て、我々が「頭」と呼んでいる頭甲の頭腹部内にある。

「其胃中に、人や獸の臼齒の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體にみえる」これはザリガニ類に見られる「胃石」のことであろう。ザリガニの胃の中にある胃石の古称。胃石は石灰質で、食物を砕く働きをするものであるが(なお、熊楠は三個と言っているが、半球二個が合わさった一対。熊楠の謂いは、その合したものを中央襞部分が損壊されて三分割となったものを言っているものと思われる)、本邦の蘭方書では、「蜊蛄石(ざりがにいし)」又は「オクリカンキリ」(ラテン語:oculi cancri。但し、元来は「カニの眼」の意である)と呼称され、世界的にも眼病や肺病などの民間療法の薬として使われていた。この胃石は吸収しやすい形の非結晶ACCAmorphous Calcium Carbonate)でカルシウムを含むほか、様々な栄養素や免疫成分が凝縮されており、実際に薬効があった。サイト「ザリガニ.COM」内の「驚異のパワー! ザリガニの胃石オクリカンキリ」(画像有り)を見られたい。

「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」“lady in the chair”。

「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」“lady in the lobster”。

「去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』」残念ながら、「Internet archive」では、この年の‘Notes and queries’ ( v.146 1924 Jan-Jun.)は視認出来ない。

『一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」』「ガリヴァー旅行記」(‘Gulliver's Travels’)で知られるアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)の‘The Battle of the Books’(「書物戦争」。一六九七年 執筆で一七〇四年出版)。

『ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」』不詳。

「アワー・レジー」“Our lady”。

『一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」』不詳。

「ヘルブスト」ドイツの動物学者クルト・ヘルプスト(Curt Herbst 一八六六年~一九四六年)か。ハイデルベルク大学教授で、一八九二年に海水にリチウムを加えて、その中でウニ卵に発生を行わせると、植物極側の部分が著しく発達するのを発見し、外界からの作用によって発生に変化の生じることを示し、実験発生学に重要な資料を提供、また、海水からその成分の一つであるカルシウムを取除いて、その中にウニの胚を浸すと、胚が個々の細胞にまで分解することを見出した。この方法で胚を分解することは,発生学の実験技術として今日も広く行われている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」』イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:『チャレンジャー』号の探検航海で得られた甲殻類の研究で知られ、また牧師でありながら、進化論を擁護(自らダーウィンの弟子と称して憚らなかった)したことでも有名である。当該ウィキによれば、『進化論に関してダーウィンに反対する記事を分析する多くの論文を書いた。彼の行動は、宗教的な説教を行うことを禁じられることになった』とあった)の‘A History of Crustacea: Recent Malacostraca’ (甲殻類の歴史:現生軟甲綱)。]

追 記 本文中、粟島の神を女として、女童が、紙雛等を奉る由を、「骨董集」より引たが、土佐少掾正本「對面曾我」三に、『さても、ひいなの始りは、淡島の御神、住吉の明神に名殘を惜《をし》み、み形ちを、紙にて作り、御側《おそば》にならべおき給ひしより、をうなの、これを、翫ぶは、男を慕ふ習ひとや。」。作り物乍ら、そんな俗傳が有たのだ。淡島の神、もと、住吉の神に嫁《か》せしが、三熱の病ひ有《あり》て逐《お》ひ出されたといふ話、「滑稽雜談」卷五に出づ。

[やぶちゃん注:「對面曾我」歌舞伎狂言「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)の古浄瑠璃か。

「三熱」本来は仏語。竜・蛇などが受けるという三つの苦悩で、熱風・熱砂に身を焼かれること、悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること、彼らの天敵である金翅鳥(こんじちょう)に食われること。「三患」とも言う。淡島神の由来は複数あるが、海に関わるものが有意にあり、龍神との親和性が認められるので、神仏習合期の説として納得出来る。

『「滑稽雜談」卷五に出づ』同書は俳諧歳時記。四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。写本二十四巻。四季の時令・行事・名物等を月の順に配列して二千二百八十六項目を収録。説明は、類書中、最も詳密で、広く和漢の書を典拠とし、著者の見聞を加えて考証している。著者は京都円山正阿弥の住職で,宮川松堅(しょうけん)の門下(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部が視認出来る。]

2023/05/24

佐々木喜善「聽耳草紙」 八六番 兎の仇討

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。長い。「仇討」は私は「かたきうち」と訓じておく。]

 

      八六番 兎 の 仇 討

 

 爺樣と婆樣があつた。爺樣が畑へ行つて豆の種を下《おろ》しながら、

   一粒蒔けば千粒ウ

   二粒蒔けば二千粒ウ

 と唄つて蒔いてゐると、狸が出て來て木の切株に腰をかけてそれを見て居ながら、

   一粒蒔けア一粒よ

   二粒蒔けア二粒さ

   北風吹いて元(モト)消(ケ)ベア

 とひやかした。爺樣はゴセを燒いて[やぶちゃん注:怒って。]、この野郞と追(ボ)ウと、狸はサツサと山さ逃げて行つた。その次ぎの日も狸が來て爺樣の豆蒔きをひやかして、追はれればサツサと山さ逃げて行く。そこで三日目には爺樣は狸がいつも來て腰かける木の切株に黐(モチ)を塗つておいて、知らん顏をして、いつもの通り、

   ハア一粒蒔けば千粒ウ

   二粒蒔いたら二千粒ウ

 と唄ひながら種子《たね》を蒔いてゐた。するとまた狸が出て來て、その木の切株に腰をかけて、うそうそ笑ひをしながら、[やぶちゃん注:「うそうそ笑ひ」「間の抜けた笑い」の意であろう。]

   ハア一粒蒔けば一粒よ

   二粒蒔いたら二粒さ

   北風ア吹いて元なしだア

 とひやかし初めた。それでも爺樣は取合はないで、

   三粒蒔けば三千粒ウ

   五粒蒔いたら五萬だツ

 と叫んで、繩を持つて押走《おつぱし》つて行つた。狸は素早く逃げようとしたが、黐がくツついて放れないで立つことが出來なかつた。それを爺樣は繩でぐるぐる卷きにして家へ下げて來た。そして土間(ニワ)の戶ノ口さ吊しておいて町へ用たしに行つた。

 婆樣はホラマエ(入口の土間)で粉を臼でスツトン、カツトンと搗いて居た。すると吊されてゐた狸が悲(カナ)しさうな聲を出して、婆樣々々、おれも搗いてすけるから、この繩を解いてケてがんせ[やぶちゃん注:底本は「がせん」。「ちくま文庫」版で訂した。]と賴んだ。爺樣にクラレル(叱られる)から厭(ヤ)んたんすと婆樣が言つても、いいから搗いてすけツから解いてケてがんせとせがんだ。あんまりうるさく賴むので、婆樣もとうとう我(ガ)を折つて繩をといてやつた。そして狸と二人で粉を搗いた。すると狸が婆樣々々俺が搗くから、婆樣は手合(テアワ[やぶちゃん注:ママ。])しをしてがんせと言つた。婆樣もだいぶ搗き疲れたものだから、そんだらと言つて、手合しをすると、狸は婆樣々々もツと臼の中を搔𢌞(カンマ)し申《まう》さい。まツと[やぶちゃん注:「もっと」の意であろう。]臼の中を搔𢌞し申さいと言つて、臼の中に婆樣の頭が屈(コゴ)み入つた時、狸はドエラ(いきなり)と杵《きね》を婆樣の頭の上に落して、婆樣を搗き殺してしまつた。そして婆樣の皮を剝いでかぶつて婆樣に化けて、婆樣をば細々《さいさい》に[やぶちゃん注:細(こま)かに。]切つてお汁にして食つて居た。

 爺樣が町から歸つて、婆樣今來たぢエ、狸はまだ生きて居《を》るかと訊くと、婆樣に化けた狸は、爺樣が歸らねエうちに杵で搗殺《つきころ》してお汁(ツケ)に煮て置いたから、早く入つて食(ア)がンもさいと言つて、すすめた。爺樣はそれを狸汁だと思つて食ひながら、何だか味が怪(オカ)しいので小頸《こくび》を傾(カタ)げ傾(カタ)げした。狸は爺樣々々あれア味(アナゴ)のええ狸だベアと言つて、爺樣が食ひ上げたところを見すまして、バエラ婆樣の皮を脫いで狸になつて、裏口から逃げて行きながら囃《はや》し立てた。

   婆々食つた爺々やい

   奧齒さ婆アンゴをはさんでろツ

[やぶちゃん注:「婆アンゴ」意味不明。「婆」を搗き込んだ「あんこ」(餡ころ餅(あんころもち))、或いは「団子」(ダンゴ)の意か。ただ、通常の「かちかち山」では、当該ウィキを見られたいが、この部分の狸の罵りは、一般に「婆汁、食べた! 婆汁、食べた! 流しの下の、骨を見ろ!」であるから、「アンゴ」はもしかすると、「顎(あご)」で、「奥歯に、婆の顎の骨を、挟んでるがいい!」という意かも知れないとも思った。]

 爺樣は始めて、婆樣が狸に殺されたのを知つておいおいと泣いて居た。そこへ兎が、爺樣なにして泣いて居ると言つて來た。誰だと思つたら兎どんだか、兎どん兎どんよく聽いてケ申(モ)せ、婆樣が狸に殺されたから俺はかうして泣いて居ると言ふと、兎は爺樣にひどく同情して、爺樣々々そんだら團子《だんご》をこしらへてケもされ、俺が行つて婆樣の仇《かたき》を取つて來てケるからと言つた。爺樣もさう言はれてやつと元氣がついて、そんだら賴むと言つて、團子をこしらへて兎に婆樣の仇討ちを賴んだ。

 兎は萱山《かややま》へ行つてやくと(故意(ワザ)と、或は冗談に)萱を苅る眞似をして居ると、そこヘ狸が來て、兎もらひ[やぶちゃん注:「朋輩」の意。親称。]が何してると聲をかけた。誰(ダン)だと思つたら狸もらひか、何所《どこ》サ行くと訊くと、なアに何所さも行かねアが、この下の爺の家の婆樣を食つて腹くちエから、斯《か》うしてぶらぶらと遊んで步いて居る。兎もらひが萱苅りだら俺もすけるからと言つて、萱苅りをしてすけた。そして夕方萱を負(シヨ)つて家へ歸る途中で、狸もらひ狸もらひ、そつちは足が早いから先へ立てと言つて、狸を前に立てゝ置いて、兎はカツチラ、カツチラと火打石を打つた。すると狸がその音を聽きとがめて、兎もらひあの音は何(ナン)だと訊いた。なアに此所の山にはカチカチ鳥コがいるから、あゝ鳴いて居るべたらと兎が答へると、狸はハアと言つて步いて居た。そのうちに兎は狸の負つた萱に火をつけて、プウプウと火を吹いた。するとまた狸がその音を聽きとがめて、兎もらひあの音は何(ナン)だと訊くと、なアに此所はプウプウ鳥がいる所だから、それであゝ鳴いているべたらと言ふと、ハアと言つて狸は步いて居た。さうしてゐるうちに狸の負つた萱に火が點(ツ)いてボガボガと燃え上つた。あツ熱ツ熱ツ、兎もらひ早く火を消してケろと言つて狸は飛び跳ね飛び跳ね步いた。その時には兎はいツちに(疾《とつ》くに)其所に居なくなつて居た。

 次ぎの日、兎が樺皮山《かばかはやま》へ行つて居ると、狸が來た。そして兎もらひ兎もらひ、汝(ソツチ)ア昨日萱山《かややま》で俺をひでエ目に遭はせたなア。俺アこれアこんなに背中を燒傷(ヤイ)たがと言つて恨《うら》んだ。すると兎は、狸もらひ狸もらひ、そんなことを言ふもんぢやねエ。それは萱山の兎だべたら、俺ア樺皮山の兎だもの、そんなことは知らない。それよりも[やぶちゃん注:底本は「そよりも」。「ちくま文庫」版を採った。]狸もらひは何所《どこ》を燒いた、どれ俺に見せろと言ふと、狸は痛がつて背中から尻の方までの燒傷《やけど》を見せると、これくれエの傷なんでもねアぢや。俺が直してやるから待つて居ろと言つて、樺皮を剝いで、狸の尻にしつかりと縫着《ぬひつ》けてやつた。そして斯うして置けば直ぐなほるからと言つた。狸は喜んでほんとに治るかと思つて居るうちに糞が出たくなつて、出たくなつて、サアことで、あつちの木の株へ行つてこすり、こつちの石角《いしかど》に來てこすつても、なかなか樺皮は脫(ト)れず、そのうちにモグしてしまつたりして[やぶちゃん注:「もぐす」は「漏らす」の岩手の方言。「糞を」である。]、靑くなつて、篠竹山《しのだけやま》へ來て空吹(ソラフ)いて居た(上の方を見ていた)。

 其所へ兎が來て、ざいざい[やぶちゃん注:「あらあら」の意か。]狸もらい[やぶちゃん注:ママ。]でアねアか、そこで何して居ると訊いた。何して居べさ、俺アお前に樺皮を尻さ縫着けられて、こんなに困つて居るでアと言ふと、ぢえツ、汝(ソツチ)はなに言ふ、それは樺皮山の兎だべだら、俺ア篠竹山の兎だ。そんなことア少しも知らねえ。ただその樺皮は篠竹で打つて打つて破らねエとお前が困《こま》ンベから、俺がその皮を取つてケると言うと狸も困つて居る矢先きだから、ほんにさうしてケろと賴んだ。そこで兎は篠竹を十本ばかり束ねて、それで狸の尻を、スツケタモツケタ、カンモゲタツと言ひながら、うんとうんと撲《ぶ》つた。すると狸の尻の樺皮も脫(ト)れたが火傷した肉も打《ぶ》ツ切れて、あゝ痛いツ、あゝ痛いツと言つて泣いた。それを見て兎は、はアこれ位でえンだと言つて、痛がつて轉び𢌞つて居る狸を其所に置き放しにして何所へか行つてしまつた。

(その次の日に兎は楢ノ木山《ならのきやま》へ行つて、木を伐つて居た。そこへ狸が來て、兎は楢ノ木船《ならのきぶね》を、狸は土船《つちぶね》を作り、共に漁に行き、例の楢ノ木船がツかり、土船あごつくりと言つて、船を叩いて、狸は水中に落ちて溺死をし、兎は首尾能《よ》く、婆樣の仇を討つたと謂ふ筋は、一般のカチカチ山の話と同じであるから畧す。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、ご覧の通り、本文と同ポイントで、字下げもない。]

「近代百物語」 巻三の二「磨ぬいた鏡屋が引導」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

   (とぎ)ぬいた鏡(かゞみ)屋が引導(いんだう)

 「女に、五障(しやう)の罪、あり。」

と、いふも、みな、「愚痴」より、おこる事ぞかし。

[やぶちゃん注:「女に、五障の罪、あり」ウィキの「五障」によれば、釈迦の『入滅後、かなり後代になって、一部の仏教宗派に取り入れられた』女性差別の『考え』方『で、女性が持つとされた五つの障害』、『「女人五障」ともいう。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない、という説である』が、『釈迦の言葉ではなく、仏教本来の思想ではない。ヒンドゥー教の影響から出てきた考え方とされる』とある。所謂、どんなに優れた仏徳を以ってしても、女性は、一度、男性に生まれ変わらなければ、極楽往生は出来ないとする「変生男子」(へんじょうなんし)説と同類である。]

 今はむかし、上總の國、八尾(やお[やぶちゃん注:ママ。])村といふ所に、「たんばや吉助」と[やぶちゃん注:ルビがない。「きちすけ」と訓じておく。]て、「割(きざみ)たばこ」を賣りて、世をおくり、家業、すこしもおこたりなく、朝、とく、出でて、近へんを、賣りまはり、朝飯(あさはん)、しまへば、割たばこ・油・もとゆひ紙・墨・筆など、一荷にして、昼食(ちうじき)を藤藍(こり)[やぶちゃん注:藤蔓で編んだ行李(こうり)。]に入れ、町々近鄕、賣りありく。

 女房「おせん」は、夫の留守、「みせあきなひ」と、たばこの葉どり、吉助は、晚に及び、宿にかへりて、洗足(せんそく)し、夕飯を、くふやいなや、又、切ばん[やぶちゃん注:刻み煙草を作るための作業台であろう。]に、おしなをり[やぶちゃん注:ママ。]、夜半のころ、箱に入れ置き、いかなる風雨(ふうう)・雪の日も、すこしも、あしを、やすめばこそ、元日ばかり、年中のたのしみに、しけるにぞ。

 衣類・諸道具、相應に、夫婦のあいだ、むつまじく、世を、おもしろく、わたりける。

 或とき、夫婦、酒宴に、たがひに、ほろゑひ、世間ばなし。

 吉助、おせんにいひけるは、

「其ほうと、斯(かく)夫婦になり、十年あまりをおくる中(うち)に、男子、一人、ありけれども、驚風(きやうふう)にて、むなしくなる。其のち、九年に、およべども、今に出生(しゆつしやう)あらざれば、もはや、此のち、子は、あるまじ。人の生死は、はかられず、我ら、さきだつ事あらば、そなたの、㐧(おとゝ)平七を、養子として、これにたより、一生を、おくるべし。」[やぶちゃん注:「驚風」漢方で小児の「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇の一つの型や、髄膜炎の類いとされる。]

と、いと、ねんごろにかたりしかば、おせんも、

「莞爾(につこ)」

と、打ちわらひ、

「つねづね、無病の御身なれば、なんぞ、さきだち給ふべき。我が身は、平日(つね)に肝積(かんしやく)あれば、いつぞは不慮に死に申さん。さあるときには、一つのねがひ、お叶へなされ下されかし。心がゝりは、これぞ。」[やぶちゃん注:「肝積」「続百物語怪談集成」では『癇癪』とある。肝臓にいる虫が悪さををして、ヒステリーを起こすと考えられた症状を指す。]

とて、しみじみと、たのみければ、吉助も、ともに笑ひ、

「ねがひとは、いかなる望み、身に應じたる事ならば、心のごとく、おこなふべし。去りながら、養生して、ずいぶん、無病になり給へ。さるほどに、望みとは、何等(なんら)の事ぞ。」

と尋づぬれば、おせん、よろこぶ色、見へて、傍(そば)に、さしより、小聲になり、

「我が身のねがひの、しなじなを申すも、なかなか、恥かしけれど、申さぬも、また、まよひなれば、つゝまず、あかし申すなり。いかなる過去の宿業(しゆくがう[やぶちゃん注:ママ。])にや、生得(しやうとく)として、悋氣(りんき)ふかく、死して、其まゝ引わけられ、野邊のけふりとなりなん事、此とし月の、なげきぞかし。何とぞ、七日、此家(や)にとゞめ、衣裳をも、あらためて、紅粉(べに)・白粉(おしろい)を粧(よそを[やぶちゃん注:ママ。])はせ、『おせんよ、妻よ、』と、いふて、たべ。」[やぶちゃん注:「悋氣」嫉妬心。]

と、なみだと惧(とも)に、たのみければ、吉助も、なみだぐみ、

「何事かとおもひしに、はなはだ、やすき望み事。しかし、さやうの心の出づるも、ひとへに積(しやく)のわざなるべし。とかく、心の養生、しや。」

と、いひなぐさめて、臥しけるが、其としの秋もたち、十月の中旬より、おせん、顏色、平日(つね)にかはり、次㐧(しだい)次㐧に、大病の、霜月すへには、必死の躰(てい)、たのみすくなく見へけるが、ある夜、夫を、ちかく、まねき、

「我が身、今般の、びやう氣の、おもむき、快氣は、なかなか、おもひもよらず、死も、はや、ちかしと覚ゆれば、かねて申しかはせしごとく、おたのみ申す。」

と、さゝやけば、吉助は、

「痛はし、痛はし、心、やすかれ。望みのとをり[やぶちゃん注:ママ。]、とりおこなひ申すべし。臨終を、正ねんに。」

と、いひ聞かすれば、うれしげに、咲面(ゑがほ)を、此世のおきみやげ、無常の風にさそはれゆけば、吉助、なみだ、せきあへず。

 いざ、葬らんと、おもへども、末期(まつご)までも、くれぐれと、賴みおきたる事なれば、新(あらた)なる衣裳を、きせかへ、紅粉・おしろいにて、面(かほ)を粧ひ、生(いけ)るがごとく、壁によせかけ、香花(かうげ)をそなへおきけるが、二日目の初夜どき[やぶちゃん注:戌の刻。現在の午後八時頃。宵の口。]より、誰(たが)いふとなく、亡者(もうじや)の居間(いま[やぶちゃん注:ママ。])より、

「吉助殿、そこにか、」

と、おせんが聲して、よびかくる。

 吉助、

「たれじや。」

と、行きけるが、人音とても、あらざれば、

「これは。不審。」

と、あたりを見れば、亡者にも、別條なく、肌(はだへ)は、ひへて、ありながら、顏色すこしもかはらねば、吉助も、身の毛だち、

「ぞつ」

とは、すれど、みせへ出で、たばこ切らんとする所に、また、

「吉助殿、そこにか、」

と、一度こそあれ、二度こそあれ、三度におよべば、そこ氣味あしく、後々(のちのち)は、

「吉助殿、そこにか、」

といふ每(ごと)に、

「いかにも。爰に。」

と、こたふるばかり。

 傍(そば)へは、ゆかねど、夜昼(よるひる)のわかち、なければ、心氣も、つかれ、

『かくては、また、我が一命(めい)、亡者のために、うしなふべし、兎(と)はいへ、七日にたらざるに、葬送などをするならば、かく、おそろしき心から、たちまち、鬼(おに)とも、虵(じや)ともなり、我を、引きさき、くらはんは、鏡にかけて、見るごとく、何(なに)とぞして、此難を遁(のが)れん。』

とは、おもへども、すべき手だてもなき所に、五日目の晝まへに、「鏡とぎ」の、とをり[やぶちゃん注:ママ。]しを、

「これ、さいわひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、よび入れて、「おせん」がかゞみ、二、三めん、

「磨ぎ給はれ。」

と、取り出だし、賃銀も相應に、やくそく、きわめ、茶・たばこ、出(いだ)し、

「扨(さて)、わたくしは、此たばこ、うら町へ、もちゆくあいだ、しばしのうち、鏡屋殿、留守を、おたのみ申すべし。且つ、また、女房、二、三日、大ねつにて、奧の間に、うちふし居(い[やぶちゃん注:ママ。])申し、時々に、『吉助殿、そこにか、』と、たづねる事の候べし。其時は、御世話ながら、『爰(こゝ)に。』と、おこたへ下さるベし。」

と、たのみおきて、吉助は、矢を射るごとく、出でさりけり。

 

Kagamitoginodan

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

女のたま

しひに

鏡(かゞみ)は

たとへし

 物なり

また常(つね)

 常[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

手(て)なれ

 し物ななれ

一念(ねん)を

  も

 是に

  当るべく   おぼゆ

《「鏡磨ぎ」の台詞。まず、下方中央。》

はてせわし

 なひ[やぶちゃん注:ママ。]

  まひり

   ます

  まひります[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

《「鏡磨ぎ」の台詞。中央左。彼の右手脇。》

五十か八十する

     する[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

 さていそかしい

   *

柱に角形の的型の店看板のようなものがあり、そこの「新田」とある。しかし、吉助の屋号は「たんばや」で不審。商標か。また、最後の「鏡磨ぎ」の「五十か……」以下の台詞は「続百物語怪談集成」にはない。この部分、他のキャプションに比して、墨色が薄く、書き方が如何にも素人による無理なせせこましい書き方(踊り字「〱」と判じた箇所)なので、或いは、小泉八雲の蔵本になる前の、旧蔵者の家人が落書した可能性がある。]

 

 鏡屋は、わき目もふらず、一心ふらんに、磨ぎける所に、おくより、女の聲として、

「吉助殿、そこにか、」

と、尋(たづ)ぬれば、鏡屋も、おなじく、こたふ。

 それより、たんたん[やぶちゃん注:ママ。]、せわしくなれば、「かゞみとぎ」も、はらを、たて、

「最ぜんより、爰に。」

と、いふに、

「あた、やかましい。」

と呵(しか)るにぞ、女、いかりの聲を出し、

「ねたましの我が夫や、はや、其ごとく、あき給ふか。『生きかはり、死にかはり、万劫までも、はなれじ。』と、心にこめし、かひもなく、いとしさ、かへりて、恨みのもとひ、ともに、冥途に、いざなひ、ゆかん。」

と、よろめき出づれば、かゞみ屋、おどろき、

「何ものやらん。」

と見かへれば、コハいかに、色、あをざめ、眼眥(まなじり)さがりに、みだれ髮、くちびるの色、くれなゐに、

「遁(のが)さじもの。」

と、齒がみを、なし、一もんじに、とびかゝれば、

「命あつての、かゞみとぎ。」

 

Doujyoujiinsupaia

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

昔(むかし)こそ

 道成寺(とうせうじ[やぶちゃん注:ママ。]

    の

   事

世(よ)に人(ひと)の

 知(し)れる

    所也

 

      女の一念(いちねん)

       こそ

     おそろ

    しき

     物

      なれ

《鏡磨ぎの台詞。中段上。》

のふおそろ

 しやおそろしや[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

《女の亡者の台詞。最下段。》

いづく

 まて[やぶちゃん注:ママ。]

  も

   ゆるし

     は

    せぬ

   *

本図を見る以前から、本文の後半の修羅は謡曲「道成寺」のインスパイアであることは明らかであった。]

 

と、其まゝおもてへ、はしり出で、ふだん、信ずる光みやう眞言、くりかけ、くりかけ、あしに、まかせて、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]、にげ行きて、ふりかへれば、はじめにまさる、其いきほひ、むかふには、大河(だいが)あり、おりふし、雪どけ水、かさ、まさりて、のがれんやうは、なけれども、

「もしも、天のたすけも、あらん。」

と、彼(かの)谷川(たにかは)に、

「ざんぶ」

と、飛びこみ、むかひのきしに、這(はい[やぶちゃん注:ママ。])あがれば、女も、川のなかばまで、追(おつ)かけしが、大おん、あげ、

「『なんぢを、生けては、おくまじ。』と、あとをしたふて、來たりしが、唱ふる『しんごん』の功力(くりき)にて、おもはず、今、成佛せり。これまでなり。」

と、いひ捨て、惡ねん、されば、死かばねは、水にしたがひ、ながれゆく。

 所の人々、あつまりて、

「前代未聞の珍事。」

とて、死かばねを、ひきあげさせ、しよほう[やぶちゃん注:ママ。]に、手わけし、吉助を、たづねまわれ[やぶちゃん注:ママ。]ど、ゆきがたしれず。

 すぐに、他國へ、ゆきたりけん、見し人とても、あらざれば、村中(むらぢう)として、葬送し、跡、ねんごろに吊(とふら)ひし。

[やぶちゃん注:吉助失踪というのは、私には拍子抜けの憾みがあった。]

2023/05/23

只野真葛 むかしばなし (65) /「むかしばなし 五」~始動

[やぶちゃん注:只野眞葛の「むかしばなし 五」の電子化注に入る。彼女については、私の「只野眞葛 いそづたひ」のブログ版、或いは、同縦書ルビ附PDF版の私の冒頭注、及びウィキの「只野真葛」を参照されたい(長男早逝の脱落以外はよく書けている)。

 本書は所持する現在の最新の校合テクスト(但し、新字体)である一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の東北大学附属図書館医科分館蔵底本ものを用いたが、恣意的に漢字を概ね正字化し、読み易さを考え、句読点や記号を補い、適宜、段落・改行を成形した。また、殆ど読みがないので、底本の読みは《 》示し、甚だ難読或いは誤読し易しと判断した部分は、私が( )で読みを添えた踊り字「〱」は正字化した。【 】は原本の傍注・頭注・割注である(その違いはそこで示した)。ストイックに注を附した(纏めて段落の後に附したものの後は一行空けた)。標題などはないので、通し番号でソリッドな部分と判断した箇所で切って分割して示す。なお、疑問の箇所は、所持する底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の中山栄子氏校訂(正字版)と校合した(正字正仮名のこちらを底本としなかったのは、本篇には漢字の使用が少ないこと、大形本であるため、OCR読み込みに少し面倒であったからに過ぎない。また、個人サイト「伝承之蔵」で画像化されている「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)の「昔ばなし」(正字正仮名。底本明記がないが、底本と同一(以下に示した)と鈴木氏は推定されておられる)も参考にした。

 底本解説によれば、底本の親本は文化九(一八一二)年序で、文政二(一八一九)年筆写になる六巻三冊本の佐々城直知編「朴庵叢書」所収で東北大学附属図書館医科分館所蔵のものが使用されている。なお、標題は冒頭で「昔ばなし」と出るが、底本の総表題に従った。

 同じ鈴木氏の解説に従うと、本篇の執筆は真葛(本名あや子)が『仙台へ移ってから』(寛政九(一七九七)年あや子三十五歳の時に仙台藩上級家臣只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称、只野伊賀)と再婚することとなったが、その頃、行義の江戸定詰が終わっていた)『十四年後の文化八年辛未』(かのとひつじ)『(一八一一)、四十九歳の冬から書き始められ、翌年春』に『完成した』とされ、『当時』は、仙台藩江戸詰の医師であった父平助も、父が工藤家の将来を託した弟源四郎も亡くなっており、『工藤家は母方桑原』(くわはら)『家のいとこが養子になって相続していた』。当初の『執筆の動機は、母の思い出を妹のために書き残すためであった』『が、しだいに父の実家長井家や養家工藤家の先祖のこと、また工藤家と桑原家の紛争や、その原因として〆(しめ)という』『母方の』『叔父の乳母の怨念が書かれるようにな』り、『そして自分自身の江戸での思い出や聞き書き、さらに巻五・六で奥州での聞き書きも加わり、膨大な内容になっていく。そのうち』の『奥州での聞き書きは、後年『奥州ばなし』に発展する。なお、どうしたわけか系譜と相違し、母方祖父が孤児であったという話を書いている』とある。ここに出る実録怪奇談集「奥州ばなし」はこの前に本カテゴリ「只野真葛」で既に電子化注を終えている。]

 

昔ばなし 五

 

 貞山樣と申せし殿樣、京にて、よき「うづら」有(あり)しを、鳥屋(とりや)によらせられて、

「いかほど成(なる)。」

と、とわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしに、鳥屋の男、

『是ぞ、高直(かうぢき)に申(まうす)べき時。』

とや思ひつらん、

「百兩なり。」

と、莫大の直(ぢき)、申上(まふしあげ)たりしを、聞(きか)せられて、

  立(たち)よりて

    きけばうづらの

   音(ね)はたかし

     さてもよくには

        ふけるものかな

と被ㇾ仰しを、きゝて、おほきに恥ぢまどひて、あたひ、なしに、奉りしとぞ。

[やぶちゃん注:和歌は二字下げベタだが、分ち書きとした。以下も同じ。

「貞山樣」かの仙台藩初代藩主伊達政宗の諡(おくりな)。]

一、此御家に富塚半兵衞といふ人、有り。親は歌人にて、おほく、よみたりしを、子なる半兵衞は、常には、よまねど、花の折(をり)、月見の夜など、題を賜われば、かたわならず、よみて出(いだ)せしを、人每(ひとごと)に、

「親の多くよみたるを見いでゝ、出すならん。」

と云(いひ)あへりし、とぞ。

 ある秋十五日、例の如く、よみて奉(たてまつり)しを、そこなる人の中よりいふ、

「そなたのいださるゝ歌は、今、考たるには、あらじ。親のよみ置(おき)しふる哥なるべし。」

と、いひしを、取あへず、其人の袖をひかへて、

  かゝる時

     おもゑぞいづる

    大江山

   ゆくのゝ道の

       とほきむかしを

といひし故によめる哥なる事、人々の、うたがひ、晴しとぞ。

[やぶちゃん注:歌の第三句目「ゆくに」の右に「いイニ」と振ってある。意味不詳。表は「幾(い)く野の道」の「意に」の意か。「日本庶民生活史料集成」にはないが、「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)版には、ある。]

 此人、一代、「をどけもの」にて、打向ひば[やぶちゃん注:ママ。]、おのづから、人の笑(わらひ)をふくませし、となり。しかつべらしく、云い[やぶちゃん注:ママ。]だせし顏付、いかばかりか、おかしからまし。

 極(きはめ)て貧なりしが、

「居屋舖(ゐやしき)の、圍(かこみ)、あれたり。」

とて、事を司どる役人より、度々、

「つくろへ。」

と、いはれし事ありしに、其いひいるゝ人も、したしく來かよふ中(なか)なりしが、御用むき故、しばしば、ことはりしなり。

 或時、其人の、きたりて、酒などのみし時、

  我宿の

    くものすがきも

   あらがきも

     貧のふるまひ

         かねてしるしも

と、かきて、出(いだ)せし、とぞ。

[やぶちゃん注:「富塚半兵衞」確かに伊達仙台藩にこの名の家臣がいる。但し、歴代名乗っているので、どの人物かは、私には判らない。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八五番 狐の話(全二十話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。長い。]

 

      八五番 狐 の 話

 

       隱れ頭巾(其の一)

 

 或所に、俺はなんぼうしても狐などに騙されるもんではないと、いつもかつも自慢して居る爺樣があった。或日山へ行くと、小藪の蔭(カゲゴ)に一疋の狐が居て、なんだか手拭のやうな物を頭に被つて前を見たり背後(ウシロ)を撫でたりして居た。爺樣はあれアあの狐が何して居ると思って見て居ると、ひらりとひどく美しい姉樣になつて、路傍へちよちよこと出て來た。そして爺樣な爺樣な何處さ行きますと聲かけた。爺樣はなあにお前は狐だげが、今俺が見て居たがやいと心の中で可笑しくて、あゝ俺は山さ木伐《きこ》りに來たが、お前こそ何所さ行けや、そしてお前は何所の姉樣だか、一向今迄見かけたことのない人だと言つた。狐はおらは此山のトカイ(裏)の村屋《むらや》から來たもの、これから町さ行くますと言つた。爺樣は愈々可笑しくて、それでは早く町さ行つて來もせ、あゝだども可笑しいぞ、なんだべその尻尾がと、故意(ワザ)と言つた。すると狐は直ぐ降參して、あら爺樣に遭つてはとても叶はない。實はおらは狐だがよく爺樣はそれを見破つたなもすと言つた。そこで爺樣は日頃の自慢をし出して、何ヤ俺ア狐などに騙される爺樣でアないでアと言つた。狐はそれにひどく感心したふりして、そんだらはア爺樣に隱頭巾(カクレヅキン)と謂ふ物をケルから、おらと友達になつてケテがんせ、其代り爺樣の握飯をおらにケテがんせと言つた。爺樣はそれはどんな物(モン)だと言ふと、狐はこんな物シと言つて、古い手拭のやうな汚《きたな》い巾《きん》を頭に被つて見せて、爺樣しおれが見えながすぺと訊《き》いた。爺樣はよく見たが、さう言はれると本當に狐の姿が見えなくなつて居た。爺樣は成程これはよい物だと思つて、そんだらそれと言つて、持つて居た握飯を狐に遣り、狐からは其隱頭巾を貰つた。そしてこれはよいことをしたと思つて、喜んで家に歸つた。

 其翌日、爺樣は町へ行つて、頭からその隱頭巾をかぶつて、そろりそろりと步いて行つた。そしてそろツと小店《こみせ》へ近寄つて行つて、窃(ソツ)とベヂエモノ(菓子類のこと)に手を差伸《さしの》べて一摑み盜んだ。すると町の人達はひどく怒つて、これやどこの盜人爺々(ヂンゴ)だ。そんな汚い女の古腰卷《ふるこしまき》などをかぶりやがツて來て、いけ泥棒をこきやがつて居ると言つて、皆寄つて來て、慘々《さんざん》に棒や何かで撲(ナグ)りつけた。爺樣はひどい目にあつた。其上眞裸體(マツパダカ)にされて、血だらけになつて、おウいおウいと泣きながら家へ歸つたとさア、ドントハラヒ。

  (隱風呂敷《かくれふろしき》と言ふ物だと語つた
  とも謂ふ。)

 

     駈 け 馬(其の二)

 昔、遠野から氣仙《けせん》へ越えて行く赤羽根峠《あかばねとうげ》に、惡い狐が居て、往來の人でこれに化《ばか》されぬと謂ふ者はなかつた。それで道中の者がひどく難儀をした。それを聞いた遠野の侍、それは事なことだ。畜生獸《ちくしやうけだもの》の分際として、生きた人間を馬鹿にするぢことが惡(ワ)り。一つ俺が行つて其狐を退治してケると言つて、大刀《おおがたな》を腰にさして辨當の握飯を背負つて出かけて行つた。

[やぶちゃん注:「赤羽根峠」岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)平倉(ひらくら)と岩手県気仙郡住田町(すみたちょう)上有住(かみありす)の間にある峠。当該ウィキによれば、『赤羽根トンネルが開通するまでは、国道』三百四十『号が峠を通っていた』。『旧道は急勾配・急カーブ・幅員狭小であることから、大型車の通行規制は無いが』、『非常に困難である。特に住田町側は』、『町道に格下げ後』、『整備が行き届いておらず、路肩崩落が数箇所発生し』、『事実上』、『大型車は通行不能である。また、冬季間は積雪のため』、『全面通行不能である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。]

 件《くだん》の赤羽根峠にさしかゝつて、何か今出るか、今出るかと思つて、刀の柄に手をかけ、眼玉を武士らしく四方に配つて、悠々と落着いて步いて行つたが、ぴちりと風の音もせず。草葉一つも動かなかつた。さうして何事もなく遂々《たうとう》峠の頂上まで登つて行つた。侍思へらく、ははア狐だなんて、どんなに惡智惠があつてもエツチエ(よくよく)なもんだぢエなア。俺の威勢に怖れて今日は出ないんだなア。やつぱり畜生獸などに化される手合ひは商人百姓の輩《やから》なんだと、可笑しくて堪らぬから、手頃の石に腰をかけて、あははツ、あはははツと笑つた。さうして負(シヨ)つて來た握飯を下《おろ》して食ふべえと思つて、風呂敷をひろげて居た。すると峠の下の氣仙口《けせんぐち》の村屋の方で、何だか人の叫聲《さけびごゑ》が聞える。何事だと思つて握飯を食ふのを止めて眺めて見ると、一疋の馬が駈け出して、それを二三の人々が追(ボツ)かけて來た。それが段々と峠の方に上つて來た。

 侍はあれは百姓どもが難儀をすることだ。一つ俺が馬止めの法でもかけて、馬を止めて遣りたいと思つた。さう思つて居るうちに、その荒駒《あらごま》が目の前に駈け込んで來た。あまりにその態《なり》が荒らく、自分に押ツかぶさるやうに來るので、侍は思はずあツと言つて石から飛び上つて草原の中に逃げこんだ。

 そのはずみに手に持つて居た辨當の握飯が落ちてころころと道路へ轉げていつた。すると其荒駒がいきなり其握飯に喰らひつくと、急に小さくなつて握飯を喰《くは》へたまゝ向ふの方へ駈けて行つた。やつぱり狐であつた。そのお侍もまた化されてしまつた。

 (遠野で友人俵田浩氏から聽いた話。)

 

        羽澤のお菊(其の三)

 

 此狐は菊の花を咲かせて見せてバカスので有名であつた。それで誰言ふとなく羽澤(ハザ)のお菊といつた。

[やぶちゃん注:以上の末尾、底本は行末で句点なし。補った。

「羽澤(ハザ)」岩手県胆沢(いさわ)郡金ケ崎町(かねがさきちょう)西根北羽沢(にしねきたはざわ)附近と思われる。後の「其の五」の附記を参照されたい。]

 或時、勘太郞と云ふひどい慾深爺《よくぶかぢん》が、町へ行くべと思つて羽澤を通ると、狐が三四疋、日向ぼツこをして遊んでゐた。勘太爺はそれを見て、ざいざい[やぶちゃん注:「あらあら」の意か。]狐どもは遊んでゐたなア、どうも貴樣達はよく人を騙して食物《くひもの》などを取るフウだが、何か殘つてをれば、此爺にも御馳走しろと言つた。狐の所もただでは通らないつもりであつた。すると狐どもは、爺樣々々、恰度《ちやうど》ええところだつた、昨夜人を騙して取つた油揚《あぶらあげ》があるから、これを食(アガ)らえンと言つて、二三枚出して御馳走した。

 爺樣は狐の油揚を食つて、フヽン狐なんてあまいもんだ。畜生、獸《けもの》などに騙される奴などは人間でもよツぽどコケな奴だべと思つて町へ行き、そんなことをみんなに話して自慢した。そして家で使ふ油揚豆腐蒟蒻《こんにやく》などを買つて、夕方、またぞろ羽澤の野を通りかゝつた。すると何とも言はれない美しい菊の花が野原一面にズラリと咲き亂れてゐた。勘太爺は是はなんたら美しいこツたべと思つて小立《こだ》ちして[やぶちゃん注:ちょっと立ち止まって。]暫時(シバラク)見惚《みと/みほ》れて居たが、イヤイヤこれは只見て居ても藝が無《ね》え、採つて持つて行つて食つた方が利巧だと考へついて、荷物をそこに下《おろ》して置いて、一生懸命に菊を取りはじめた。なにしろあんまり花が一面なので、取つても取つてもどうしても取りきれないから、これは一旦家へ歸つて嫁子《よめ・ご》みんなを連れて來て採るべ、こんなええものを人にただ取られるのはネツカラ藝が無え、さア人に採られないうちに家の者をみな連れて來(ク)べと思つて、まづ取つた菊は負(シヨ)つて、がさがさと家へ走《は》せて行つた。そして、ぜぜ[やぶちゃん注:「ぢえぢえ」と同じで、「さあさあ!」という呼びかけであろう。]羽澤野の菊の花取りにみんな步(ア)べ。コレヤ俺アこんなに取つて來たと言つて背中を見せると、婆樣は怒つて、何ぬかしているンや爺(ヂン)つやん、汝(ニシ)が負《しよ》つて居る物は、みなカンナガラでアねンしかヤと言つた。爺樣はウンネこれア菊の花だと言つた。婆樣はなアに汝(ニシ)アお菊に騙されて來アした。一體全體その面(ツラ)つきつたらありエンと言つて爺樣の胸倉《むなぐら》をとつてこづき𢌞した。爺樣もさう言はれるとやつと羽澤野《はざの》に置いて來た食物《くひもの》の荷物のことが案(アン)じ出されて、コレアしまつたと思つた。それでも氣が變だつたので、婆樣は土間から木炭塊(スミコゴリ)と鹽(シホ)とを持つて來て。

   キジンカヘレ

   キジンカヘレ

 と三遍唱へて、それを振りまいて狐を追つた。すると狐はヂヤグエン、ヂンヤグエンと啼いて逃げた。

[やぶちゃん注:「カンナガラ」「鉋殻」。鉋屑(かんなくず)。鉋をかけたときに出る木屑。遠野にもある岩手に伝わる知られた「しし踊り」の頭部に印象的につける「髪(ザイ)」(鬣(たてがみ))を「かんながら」と呼ぶ。

「キジン」「鬼神」か。]

 

        死 人 の 番(其の四)

 或時、三太郞と謂ふ道化者(ドウケモン)が町へ行く途中で、狐が二三疋日向ぼつこして居るのを見た。これは一つ魂消《たまげ》らしてやるべと思つて、コソコソ行つて不意に、ダアツと叫ぶと、狐どもはほんとに魂消て一丈ばかり飛び上つた。そして後を見々《みいみい》、尾の先端を太くして山の方に逃げて行つた。三太は大喜びで、サテサテ狐は千日前の事も悟ると聞いて居たがカラボガだ。今々《きんきん》のことも悟れない、矢張《やつぱ》り畜生だなアと笑つて其所を立ち去つた。そして町へ行つても其事をうんと吹聽《ふいちやう》して自分も笑ひ人も笑はせた。そしてその夕方魚《さかな》を買つて家路についた。

 ところが急に日が暮れて、あたりが眞暗になつたので、一足《ひとあし》も步かれなかつたが、向ふを見ると幸ひ燈のアカリコがあるから、其所へ訪ねて行つて宿をとつて泊めて貰つた。其家には一人の白髮だらけの婆樣が居たが、サテサテお客樣、おれは一寸隣家(トナリ)まで參つて來るからお留守をお賴み申すと言つて出て行つた。三太は何だかイケないと思つて、早く婆樣が歸つて來ればよいなアと思つて待つて居てもなかなか歸つて來なかつた。そのうちに爐《ひぼと》にくべる焚木《たきぎ》も無くなつたので、段々と火も消えさうになつた。薪《まき》でもないかなアと思つてそこらを探すと、今迄氣がつかなかつたが、向ふの隅の方に薄白いものが見えた。なんだべと思つてよく見るとそれは死人《しびと》であつた。ウンウン唸りながらむくむくと動き出して來たので、三太はあれアと叫びながら外へ逃げ出した。すると其死人は口を開いて腕を押しひろげて何か言ひながら、何處までも何處までも追(ボツ)かけて來た。三太はこれはことだやアと狼狽(アワ)てて其所にある大きな木に這ひ上《あが》つたが、其死人はそれを見つけないで木の下をウンウン唸りながら向ふの方へ走《は》せて行つた。三太はマズよかつたなア、それにつけても早く夜が明ければええがと思つて居ると、東が白んで段々夜が明けた。夜が明けたので見ると、其木は柿の木で、柿がうんとなつてゐた。上枝《うはえだ》を見るとひどく大きな柿がなつてゐるので、あれを一つ取つて食つて見ベエと上の方へ登つて行くと、枝がポキンと折れて眞倒《まつさか》さまに落ちた。運惡く下が川であつたので、水の中にドブンと沈んだ。然《しか》し別段怪我もなく、まアよかつたと思つたが、なんだか冷たいので氣がつくと、今朝(ケサ)狐を驚《おどろ》かした所で其所らぢうを這ひずり𢌞つて居た。町で買つた魚などは疾《と》うに影も形も無くなつて居た。

 

       幽  靈(其の五)

 前の三太郞父樣(トツチヤ)の妹のオヨシといふのが一里ばかり離れた在鄕(ザイゴ)へ嫁に行つて居た。不幸なことにはお產の肥立ちが惡くて永くブラブラして居たが、遂々《たうとう》死んでしまつた。

 さう謂ふ知らせが來たので、三太郞は取るものも取らずに妹の緣家へ駈け付けた。さうして葬式も濟ませて、夕方ダンパラといふ所の松原まで來た。其時はもうあたりは人肌も分らぬやうに暗くなつた。すると不圖《ふと》後(ウシロ)の方で女の泣き聲がして居るのを聽いた。ハテナと思つて聽耳《ききみみ》を立てると、その泣聲は隨分遠くの方で幽《かす》かではあるが、それにアセてははツきりと小譯(コワアケ)が分つた。そしてだんだん近づいて來たところがそれは如何《どう》しても先刻土の中に埋めた妹の聲なので、大層魂消てしまつた。何時(イツ)してこんなことアあるんもんではねえ。これは化物(バケモン)だと思つたから、三太は後《あと》も見ないで家の方へ駈け出した。するとその死んだ妹の聲がウシロクド(後頭部)にくツついたやうに何處までも何處までも後から追ひついて來た。それでもどうやらかうやら家まで駈けつけた。

[やぶちゃん注:「アセては」不詳。ただ、前後から見ると、「合(あ)せては」で、「遠く幽か」な「それ」と照らし「合」わせてみるに、妙に「はツきりと」それが人の「泣」き「聲」であることが「小譯」(理解すること)として判った、という意であろうという気はする。]

 家の人達は驚いて、お前は何《な》してそんな靑面(アヲツラ)してアワテテ歸つて來たかと訊いた。三太郞が、何言ふ、あれアあの女の泣聲がお前らには聽えないてかと言ふと、この人は酒に醉ツたくれて居ると言つて誰《たれ》も相手にしなかつた。そしてともかくも風呂に入《はい》れと言はれて臺所續きの風呂に入つたがまだ先刻《さつき》の泣聲が屋敷内(ヤシキウチ)の彼方此方(アツチコツチ)から聞えてゐた。ヤンタ[やぶちゃん注:「厭な」の意。]ことだと思つて居ると、直ぐ壁一重《かべひとへ》の外へ來て、兄々(アンニヤ《アンニヤ》)と言つて泣く樣《やう》であつた。またアレダと言つてひよツと壁の方を見ると、やつと小指が通るほどの小穴から、細い細い靑白い手がアンニヤ、アンニヤと泣くたびに、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと突き出て、遂々《たうとう》三太の首筋に絡《から》み着いた。三太はキヤツと叫んで風呂から飛び上つて布團をかぶつて寢た。それでも怖(オツカナ)くて巫子《みこ》を賴んで來て呪《まじな》つて貰つた。

(これも前話同樣金ケ崎の話である。ダンパラ(壇原)は村端《はづ》れの松林で、昔から此所には狐の巢があつた。その狐は子守女に化けるのが得意で、人が夕方此所を通ると、ネンネコヤ、ネンネコヤと謂ふ子守唄をよく聞かされた。又それより外のことは語れなかつたとも言ふ。それでこの狐のことを此邊ではダンバラ・ネンネコと名づけて居た。今でも居ると見えてよく人が化《ばか》されたと謂ふことを聞く。)

(以上その二、三、四は金ケ崎町、千葉丈助氏よりの御報告に據つた。大正十二年十月二十三日受。)

[やぶちゃん注:以上の附記は、ポイント落ちで、概ね本文より二字下げほどであるが、長いので、ポイントを下げず、上に引き上げた。

「ダンパラ(壇原)」岩手県胆沢郡金ケ崎町西根(にしねだんぱら)。漢字が現在とは異なるが、読みは同じ半濁音「ぱら」である。

 

     白 い 雀(其の六)

 遠野ノ町端れ愛宕山《あたごやま》の下に鍋ケ坂《なべあがさか》と云ふ所がある。此所に昔からよくない狐が居た。町の菊池某と云ふ者、綾織《あやをり》村へ鷄《にはとり》買ひに行つて、五六羽求めて俵に入れて背負つて來た。そして此坂を通りかゝると、往來の眞中《まんなか》に見たこともない白い雀がパサパサと飛び下《お》りてじつとしてゐた。元より鳥好きの男であるから其《その》動かないのをいゝことにして、その珍しい雀を捕(ツカ)まへやう[やぶちゃん注:ママ。]と手を伸べると[やぶちゃん注:底本は「伸べれと」。「ちくま文庫」版で訂した。]、ツルリと指の間をくぐつて三步ほども步くまた止まつてう躇(ウヅク)まる。そんな風なので邪魔になる鷄荷《とりに》をば路傍に下《おろ》して置いて、雀にかゝわつて居るうちに、ブルンと雀は飛び立つて姿を消した。はツと氣がついた時には既に鷄荷などは疾《と》うに無くなつてゐた。

[やぶちゃん注:「愛宕山」象坪山(国土地理院図)の異名。「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人」の「八九」の私の「愛宕山」の注を参照されたい。

「鍋ケ坂《なべあがさか》」この読みは国立国会図書館デジタルコレクションの「遠野町誌」(遠野郷土研究会編一九八四年国書刊行会刊)の「九、傳說」の序にある読みを部分採用した。

「綾織村」「ひなたGPS」の戦前図で確認出来る。現在の遠野市街の東方である。「町」とあるから、これは遠野としかとれないから、この「菊池某」の家は「愛宕山」=象坪山との位置関係から、「町」=市街地の遙か東北の山家であったと、とるしかない。遠野「町」の「菊池某」が「綾織村」で鷄を買って、この象坪山の近くにある「鍋ケ坂」を通るというのだから、そうとるしかないのである。]

 

        魚みやげ(其の七)

 これは遂《つひ》四五年前の話、私などの知合ひの柳田某と云ふ男、綾織村の親類の家の婚禮に招(ヨ)ばれて行き、少々醉つてオカイチョウ物の魚を持つて此所まで歸つて來ると、兼ねて懇意にしてゐる某女が迎へに來たと云つて路傍に立つて居た。某はえらく喜んで、女の云ふなりに魚荷などを持つて助(ス)けられて來たが、途中で何故か其女にはぐれて獨り家に歸つた。

 翌日女の家へ魚荷を取りに行つて話すと、女はそんな事などは知らぬと云ふ。怪しんで現楊へ行つて見ると、盛に食ひ散らされて入物《いれもの》の藁のツトばかりがあつたと云ふ。本人の話である。

[やぶちゃん注:「此所」は前の話を受けるわけで、やはり「鍋ケ坂」ということになる。]

 

        ランプ賣り(其の八)

 町の人がランプのホヤ荷を擔《かつ》いで綾織村の方へ行つたところ、鍋ヶ坂の藪中で狐が晝寢をして、クスンクスンよく眠つて居た。ホヤ賣りがひとつ驚かして遣らうと、テンビンボウでしたゝか打ちのめすと、狐はヂヤグエン、ヂヤグエンと啼き聲を立てた。遂には殺す氣になつてウント撲《ぶ》ち叩いて居ると、畠で働いて居た人達が不思議に思つてあゝこれこれお前さんは自分の商賣道具を何してそう打壞《ぶちこは》すと聲をかけた。それで初めて氣がついて呆れ果てたと云ふ。

(此ランプ賣りの話は全く同じ話が「江剌郡昔話」にもあり、また森口多里氏の話では水澤町付近にも、所人名までも明かに物語られてゐると謂ふ。これらの狐話などは既に立派な傳播成長性を帶びて完全に昔話になつてゐる好例である。)

[やぶちゃん注:附記は先のものと同じ処理をした。

『全く同じ話が「江剌郡昔話」にもあり』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本の当該部は、ここ。]

 

          (其の九)

 町の野田某と云ふ人、川魚釣りに出掛けたが鍋ケ坂の下で急に暗くなつた。勿論行く事も引く事も出來なくなる。このような[やぶちゃん注:ママ。]事が度々あつたので某はもう慣れきつて、ははアまたか、ソレいゝ加減にして明るくしてくれと云つて、魚を五六尾《び》藪へ向つて投げると、直ぐに元の晝間になつて步くことが出來たと謂ふ。近年の話である。

 

        湧  水(其の一〇)

 遠野ノ町の付近で昔から狐の偉えものは、八幡山のお初子《はつこ》、鳥長根(トリナガネ)の鳥子《とりこ》、鶯崎《うぐひすざき》のウノコ三疋であつた。これらは各々その技《わざ》に秀れたものであつたと謂ふ。

 昔からこの八幡山の狐に騙された話は多いが、昔の話は總て止《よ》す。近來の話ばかりを記して見やう[やぶちゃん注:ママ。]。土淵村の某と云ふ狩獵《かり》自慢の男、俺なんて狐に騙されて見たいもんだ。そんな者に出會《でくは》して見度いもんだと、町の居酒屋で朋輩どもに自慢話をしての歸りであつた。八幡樣の石の鳥居の前まで來ると、不思議にも道路の眞中から、水がピヨツピヨツと湧き上がつている。可笑しいやうな氣持ちになつて立ち止まつて見て居る中《うち》に、其湧水のほどばしり出ることが急になつて、アタリが湖水のやうに漫々たる水になつた。そして自分の首ツきりに水かさが增して正《まさ》に溺れさうになつて、助けてくれ助けてくれと叫んで居ると、先刻一緖に酒を飮んだ村の衆が其所へ通りかゝつて、何をして居ると云ふ。氣がついてみると溜池の中に入つて一生懸命に水をざぶざぶと搔き𢌞してゐた。

[やぶちゃん注:思うに、先に掲げた、国立国会図書館デジタルコレクションの「遠野町誌」(遠野郷土研究会編一九八四年国書刊行会刊)の「九、傳說」の序には、『遠野鄕は、太古湖水であつた』とあり、まさに『愛宕の鍋(なべあ)ケ坂に御器(ごき)洗場があり、古代住民は湖畔に下りて來て御器を洗つたところなども言い伝えられている』とあるのが、目が止まった。狐に騙されて幻想の湖水で溺れるというのは、肥溜に湯と騙されて浸かるというありがちな話ではあるのだが、この話では、まさに「アタリが湖水のやうに漫々たる水になつた」という箇所が、実は話の核に、太古に於いて遠野の市街地が大きな湖水であったことを伝える含みが、ここには隠されているようで、甚だ興味深かった。

「八幡山」ここ

「鳥長根(トリナガネ)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「鳥古屋」・「赤羽根」「飛鳥田」の地名が確認出来る(現在もある)が、この附近が候補になるか。

「鶯崎」岩手県遠野市鶯崎町(うぐいすざきちょう)。西麓に「稲荷下屋内運動場」という施設が現認出来る。]

 

        女 客(其の一一)

 附馬牛《つきもうし》村の某、家に婚禮か何かあつて其仕度の魚荷を馬につけて、此八幡山の麓路《ふもとみち》へさしかかつた。すると見知らぬ何でもキタガメ邊の女と思はれる若い美しい女と道連れになり、段々慣話(ナレバナシ)などを取交《とりかは》して步いて居るうちに、女はそんなら私を馬に乘せろと云ふ。某は良い氣持ちになつて女の腰を抱き上げて馬に乘せて曳いて來る。そして話の續きを繼ぐために振り返つて見ると、馬上に居る筈の女は居ず魚荷もなくなつていたと云ふ。これもお初子の仕業。

[やぶちゃん注:「附馬牛村」現在、岩手県遠野市附馬牛町がある。

「慣話」親しげな世間話、或いは、馴染みのような色っぽい話の意か。後者っぽい。

「キタガメ」当初は漫然と「北上」の訛りかと思っていたが、dostoev氏の『不思議空間「遠野」―「遠野物語」をwebせよ!―』の「安倍の血」によれば、遠野の古い呼称という。]

 

        飼   犬(其の一二)

 私の友人、男澤《をとこざは》君と云ふ人、遠野ノ町の中學校からの歸りに此山の麓まで來ると、向ふから自分の飼犬が走《は》せて來て頻りにジヤレつく。うるさいけれども其儘にして行くと、ドンと大きな松の樹ノ幹に額を打《ぶ》ツつけた。痛いツと叫んで驚いて見れば、犬と思つたのが狐になつて向うへ走せて行く。自分は何時の間にか山の中腹の松林に來て居たと云ふ。これも其お初子の藝當。

[やぶちゃん注:「遠野ノ町の中學校」旧制中学校「岩手縣立遠野中學校」(男子校)は明治三四(一九〇一)年に開校している。現在の岩手県立遠野高等学校。当時から現在の遠野市六日町(むいかまち)のここにある。なお、佐々木喜善は、この中学の出身ではない。彼は遠野町小学校高等科を明治三三(一九〇〇)年春に卒業しており、当時、まだ、同中学校は開校しておらず、同年九月に盛岡市大沢川原にあった私立江南義塾に学んでいる。ここは石川啄木の出身校として知られる。同校は盛岡市内で移転し、現在も私立江南義塾盛岡高等学校として現存する。

「此山」前話を受けるので、八幡山。前の地図の右手の盆地中央の独立峰。]

 

        紙  幣 (其の一三)

 これも私の友人、武田君と云ふ人、中學校の歸りに此所まで來ると、向ふから親父が來て、よい所で出會つた。俺は病家へ𢌞らなければならぬから、お前はちよつと町へ引返して牛肉を一斤[やぶちゃん注:六百グラム。]程買つて來ないかと云ふて、十圓札を一枚手渡された。同君は晚には牛肉にありつけると思つて喜んで町へ走せ戾つて、一日市《ひといち》の牛肉屋へいつて、肉を切らせ、さて手に汗ばむ程しつかり摑んで居た其の紙幣を出すと、何のこと其は一枚のたゞの朴ノ木《ほほのき》の葉であつた。これもお初子の手品であつた。

 (以上その五乃至《ないし》一二迄、何《いづ》れも

 松田龜太郞氏の談の一五目。昭和四年の春の頃。)

[やぶちゃん注:「一日市」遠野の通りの名称。現在の遠野市の「中央通り」に同名のバス停がある。

「朴ノ木」非常に大きなその葉が「朴葉味噌」や「朴葉寿司」に使われることで知られるモクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata 。]

 

       ハクラク(其の一四)

 或ハクラクが、マガキ、マンコと云ふ狐の居る野原道で、このハクラク樣を化(バカ)せるかと言つて、狐を馬鹿にすると、行つても行つても自分の家が無かつたので、自分の背負つている油揚《あぶらあげ》を下《おろ》して投げ出すと、直ぐ其所が自分の家であつた。

 なんだマガキ、マンコにはそれ位の智惠より無いかと言つて嘲笑《あざわら》ふと、再び前に大きな川が出てどうしても步けなくなつたが、なに此所にこんな川がある筈がない。渡り切つて見せる氣になつて、轉《ころ》び轉び、もがいて居ると、嬶《かかあ》が出て來て、何《な》して軒端《のきば》の藁ひン拔くべ、又狐に化(バカ)されたのか、ソナダス口きかなエだと言つた。見ると川中だとばかり思つて居たのは自分の家の軒端で、石だと思つて取りついてゐたのは藁であつた。

[やぶちゃん注:「ハクラク」「伯樂」。馬の目利き。

「ソナダス口きかなエだ」「そんな(化かされお前とは)口もきかねえぞ!」の意か。]

 

       放 し 馬(其の一五)

 或男、野原へ草刈に行くと、狐が居た。今日こそ狐の化(バ)けるのを見てやる氣になつて、狐のチヨロチヨロと步いて行く後(アト)をシタつて行つて見ると、エドコ(野原の湧水の所)の傍《かたはら》へ行つて、ヤツサに前足で面(ツラ)を洗つて居た。男は狐に氣付かれないやうに、藪蔭で息を殺して眺めて居ると、狐は段々に人間に化けて若い女になつた。そして細路《ほそみち》の方ヘ出て行くので、見落さないやうに後をつけて行くと、女は山の蔭を越えて大きな家へ入つて行つた。

 男はなんでも狐はこの家へ入つたと思つて、ソロツと大きな家の戶を開けて内を覗くと、ヒンと、言つて嫌ツと云ふほど張り飛ばされた。大きな家だと思つたのは放し馬で、戶だと思つて開けたのは馬の尻であつた。狐に裏をかかれたのだと言つて朋輩どもにとても笑はれた。

 (其の一三、一四は田中喜多美氏御報告の分一五目。)

[やぶちゃん注:「ヤツサに」「矢庭に」の意か。]

 

        鹽 ペ ン(其の一六)

 昔、村に爺樣があつた。町へ往く途中の野中を通りかゝると、路傍に狐が遊んで居た。よしきた一つあの狐を捕(ツカ)まへてけんべえと思つて、コソコソと近寄つていつて、ひよいと狐の尻尾をつかむべとすると尻尾はひよいと手の間《あひだ》から滑つていつた。またおさへべとすると、ぷるんと手から滑り拔けていつた。さうして捕まへやう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]捕まへやうと思つて、小半日《こはんにち》野中で同じ所をぐるぐると𢌞つて居た。

 其所へ隣の爺樣が町の歸りに通りかゝつて、ぜぜそんだ(お前)は何して居れアと言つた。すると爺樣は、默つて居ろ、默つて居ろ、俺は今狐の尻尾を捕まへるところだからと一生懸命にダイドウ𢌞りをして居た。鄰の爺樣はこれは只事ではないと思つたから、爺樣の背中を叩いて、これヤ目を醒ませツ、それア萱《かや》の尾花だツと言つた。それで爺樣もはじめて正氣に返つて、狐にだまされて居たと謂ふことが訣《わか》つた。

 爺樣は狐にだまされたと思ふと口惜しくて堪《たま》らず、次の市日《いちび》に町へ行つて鹽を一升買つて持つて來た。そして先の市日にばかされた野中へ來て、やくと(故意に)酒に醉つたふりして寢て居た。すると其所の狐はこの爺樣は俺にだまされる人だつけと思つて、ちよこちよこと藪の中から出て來て、爺樣の孫に化けて、爺樣々々今《いま》町から歸つて來たア、早かつたなしと言つて側へ寄つて來た。そして何か食物《くひもの》でも買つて來たでは無いかと、鼻をフンめかして爺樣のふところを嗅《か》いでみた。それでも爺樣は知らぬふりをして居ると、狐はいよいよ人を馬鹿にしてしまひには爺樣のふところに面(ツラ)を突つ込んだ。爺樣はこゝだと思つて、やにはに起き上つて狐を抱き捕(オサ)へて、買つて來た鹽を其口に押ツペしてやつた。狐は苦しがつて、ジヤグエン、ジヤグエンと鳴きながら山の方へ逃げて行つた。ええことしてけたと思つて爺樣は面白がつて家へ歸つた。

 爺樣がまた其次の市日に町へ行くべと思つて、その野中を通つた。するといつかの狐が萱藪《かややぶ》の蔭に匿れて居て斯《か》うチヨチヨクツた(ひやかした)。[やぶちゃん注:底本では句点は丸括弧内の最後にあるが、訂した。]

   あれア鹽(シヨ)ぺしア通るツ

   あれア鹽ぺしア通るツ

 爺樣はおかしかつた。

 (私の村の古い話、自分の記憶。)

[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では標題の「塩ペン」の「ン」の右にママ注記がある。同文庫の編者は「ペシ」の誤字と捉えているようであるが、以下でも「ペン」である。]

 

        鹽 ペ ン(其の一七)

 昔、遠野ノ町の多賀社の鳥居前に惡い狐がゐて、市日《いちび》歸りの人をバカしてならなかつた。或時何時もダマされる綾織の人が、片手に鹽をつかんで來たら、例の通り家に留守居して居た婆樣の姿になつて、[やぶちゃん注:底本では行末で読点がないが、「ちくま文庫」版で補った。]あんまり遲いから迎へに來たます。早く其魚を此方(コツチ)さよこしもせえ。俺ア持つて行くからと手を出した。そこで其手を取つて、有無を言はせず、婆樣の口に鹽をヘシ込んで突き放した。

 其の次に其所を通つたら、山の上で、

   鹽ヘシリ

   鹽ヘシリ

 とはやした。

 (菊池一雄氏御報告分の五。)

[やぶちゃん注:「多賀社」多賀神社。ここサイド・パネルの説明板に、『一説に横田城を鍋倉山に移した天正』二(一五七四)『年』『に阿曽沼広郷が城の鎮守として勧請したといわれ、正保』四(一六四七)『年』『と元禄』五(一六九二)『年』『に再建されました。 中世に多賀の里とよばれたこの付近は明治のころまで寂しい町はずれで、市日などで魚を買って帰る村人をだまして魚をとりあげる狐の話の舞台でした』とあった。]

 

        狐の忠臣藏(其の一八)

 大槌《おほつち》のトヤ坂に惡い狐が射て、通る人を化(バカ)してならなかつた。或人が今日こそ化されるものかと思つて、鹽引《しほびき》一本持つて力《りき》んで來た。狐どもは忠臣藏の芝居をやつて居た。一段目から十二段目が終るまで鹽引を抱いて見て居たが、いよいよ終つた時、それ見ろ俺からは取れるものかと嘲笑《あざわら》つて、家へ歸らうと步き出したら、一疋の狐が頭の上に乘つた。ハツと思つて頭の狐をおさえ[やぶちゃん注:ママ。]やう[やぶちゃん注:ママ。]と手をやつた拍子に鹽引を取られた。

 (菊池一雄氏の御報告の分の六。)

[やぶちゃん注:「大槌」岩手県上閉伊郡大槌町

「トヤ坂」不詳。

「鹽引」塩漬けにした魚。特に強塩の「塩鮭」を指すこともある。]

 

        狐 の 家(其の一九)

 或所に、俺はどんなことがあつても狐などには騙されるものではないと謂ふ男があつた。山へ行くと、路傍に一疋の狐がいて、俺達はどうしてもお前を騙すことが出來ないから、これからは友達にならないかと言つた。男はそんだら承知したと言ふと、其狐は直ぐさま美しい姉樣に化けて、これから私の棲家を見せますと言ふ。男はよしきたと言つて、其姉樣の後について行くと、大きな岩穴に入つて行つた。すると其所にひどく立派な家があつて、なにもかにも廣く結構なことだらけであつた。姉樣がまンずこつちさお出(デ)アンせと言ふから、座敷へ通ると、まづお茶を入れられ、また別な座敷では酒肴でえらい御馳走樣になつた。それから何しろ人間の人達はこんな所へは、さう度々來られるものでないから今夜ばかりは泊つて行けと言はれて、其氣になつて、腰を落着けて居ると、とにかく風呂に入つてがんせと言はれた。さうだ、泊るには風呂に入らなければならなかつたと思つて、そんだら直ぐ貰ふベエかと言ふと、さあさあ此方(コチラ)へと言つた。姉樣の後について風呂場へ行つて見ると、其又風呂場の立派なこと、我人(ワレビト)の奧座敷よりも增《まし》だつた。なみなみと一杯湯のある風呂に、肩まで浸《つか》つて、あゝいゝ氣持ちだ、あゝいゝ氣持ちだと言つて、ざぶざぶやつて居た。

 其所へ通りかゝつた人に、何だお前は何をして居ると、大きな聲で呶鳴《どな》られたので、はツと氣がついて見ると、自分は畑中の溜桶《ためをけ》に入つて、はつぱり肥料ぐるみになつて居た。

  (出所忘却。私の古い記憶。)

[やぶちゃん注:「はつぱり」「すっかり」の意か。]

 

        狐が騙された話(其の二〇)

 或所の爺樣が山へ柴刈りに行くと、山麓の細路から一疋の狐が出てきて、朴《ほほ》の葉などを拾つて頭の上に乘せたりなんかして居たが、やがてクルクルクルと三遍𢌞つてピヨンと跳上《けあが》ると、美しいアネサマ(娘)になつて、こちらへ出て來た。その樣子を初めから終りまですつかり見て居た爺樣は、ハハア狐と謂ふものはあゝして人を騙すもんだなアと思つた。そしていきなり木蔭から飛出《とびだ》して、ばツたりと狐の娘に往會(ユキア)つた。すると娘に化けた狐がエゴエゴと笑ひかけて、爺樣はどこさ行きシと言葉をかけた。爺樣はこれだ、狐に騙されると云ふ時こそ今だ。だけンど俺はハアなぼしても騙されないと思つて、にこにこ笑ひながら、姉樣こそそんな姿(ナリ)をして何所さ行くでや、俺だからよいやうなものゝ、少し尻尾《しつぽ》が隱れきらねえで居るでアねえかと言つた。(そんなことは勿論なかつたのであるが、)すると狐の娘は顏を赤くして、はア爺樣にそれがわ訣《わか》りンすかと訊いた。爺樣はわかるどころぢやない。この俺の化け振りが訣るか、何所に一つ缺點(キズ)があるか見つけて貰ひたい。お前より爺の方が餘程苦勞して居るでアと言ふと、娘はほんだら爺樣もやはりお稻荷樣しかと感心してしまつた。

 (出所忘却。)

 

只野真葛 むかしばなし (64) /「むかしばなし 四」~了

 

一、「さはばゞ」は、桑原をば樣の乳母なり。夫【谷田太郞左衞門なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、道樂ものにて、田地も質入(しちいれ)にして、たつきなき故、をば樣の里、谷田何とか申(まふし)たりし人、公儀使(こうぎつかひ)にて定詰(ぢやうずめ)中(うち)に上(のぼ)りしが、身をからくして、金をため、引込(きつこみ)し時は、もとの如く、とり戾してありし、と常に語(かたり)し。

 又々、夫、遣ひ果して、仕(し)まへ[やぶちゃん注:ママ。]、息子も、父に似たる者にて、又々、さわ、流浪せしを、おば樣こそ、めし遣はるべきに、桑原には「〆」にて、ばゞ、たくさん故、母樣、りちぎを、とりえに、一生、かいごろしに、召仕(めしつか)はれし。

 今少し、はやく、落命せば、心やすからんを、火事に逢(あひ)て、數年(すねん)、心掛(こころがけ)し死裝束(しにしやうぞく)を燒(やき)て、大力(だいりき)、おとし、め病《やみ》に成(なり)て、人の世話に成(なる)を氣の毒に思(おもひ)しあまり、みづから、首をくゝりて、死(しに)たりし。

 律義者ほど、不便(ふびん)なるものは、なし。

 妹は、「つな」とて、姊と違ひ、能(よく)、物縫(ものぬひ)し故、築地の時分、月壱步(いちぶ)の、やとい針師に來たりしが、姊の氣質もしりたる上、此かたのあつかいも、丁寧なるをも、しりて有(あり)しかば、事なく、引取(ひきとり)し。

 目醫師(めいし)の所へ駕(かご)にて被ㇾ遣しを、

「もつたいなし。」

とて、死たりし。

 なまなかなる事して、大きに御心(おこころ)づかひ、掛(かけ)しなり。

 「くさればゞ」の手引(てびき)に成(なる)中元(ちゆうげん)がなき故、是非なく、駕へのせられしなり。

[やぶちゃん注:「中元」下人の「中間」(ちゅうげん)のこと。]

2023/05/22

只野真葛 むかしばなし (63)

一、おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]が弟のさきばゝは、もと、長崎近くの國に生(うまれ)し人なり【肥前の島原の生。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。「殿樣、御國替のこと有て、出羽の山形とやらへ、引越(ひつこし)たり。」

と語(かたり)し。

「生國にては、殊の外、蜜蜂を、多く、家每に、少しは、かう事なり。」

とて、其かい樣(やう)の咄(はな)し、委しく仕(つかまつり)たりしが、よくも覺ねど、少し、かうには

 

Hatinosubako

[やぶちゃん注:養蜂箱の図。底本よりOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]

 

物干(ものほし)のこなどのやうな籠を造りて、紙にて、張り、下に、引出しをつけて、中比(なかごろ)に、穴を幾らも、あけて置(おけ)ば、其穴より、いでいりして、中に巢を造るなり。

 引出しは、折々、かへしのたまるを、掃除しする爲(ため)なり。

 渡世などに[やぶちゃん注:専業として。]かうには、長持の中比に、穴を明(あ)け、下に引出しを付(つけ)てかう、とぞ。

 不幸穢(ふかうゑ/ふかうのけがれ)の事、有(ある)時は、蜂、其家を去りて、外(そと)に集(あつま)り居(をる)とぞ。

 又、子のふへたる時、分(わか)る事、有。

[やぶちゃん注:分蜂(ぶんぽう)である。]

 左樣の時、おのづから家に群(むらが)り入(いる)を、其家の福として、俄(にわか)に、籠など、しつらひて、かう事なり。

「心あらき人には、おのづから、なれず、あわれみ助(たすく)る人に、なるゝ。」

と語し。

 取(とり)とめたく思(おもひ)ても、蜂の心に、あはねば、去り、寄(より)こず【物いひ・いさかい[やぶちゃん注:ママ。]・小言など、きらい[やぶちゃん注:ママ。]の蜂なり。すべて、さわがしきを、きらふなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 或夫婦の者、子も持(もた)ずして、年久しく有しが、ふと、蜂の來りしを、いたわりかひしに、すみつきて、年每に巢分(すわけ)を仕つゝ、ふへ[やぶちゃん注:ママ。]し程に、一生、外(ほか)の事を休(やすみ)て、渡世したりとぞ【渡世にかふ所にては、蜂にげたりとて、かはで、おかれぬ故、いづくまでも、蜂の行方(ゆく)へ、したひ行(ゆき)て、其おちつく所を、みて、かへり、笹の葉へ、蜜を付(つけ)たるを、もち行て、蜂のおる[やぶちゃん注:ママ。]所へ出せば、それに、一とび、うつるを、もちて、かへれば、のこりは、したがひて、付加(つきくは)へりくる、とぞ。蜂を籠へ入(いる)るにも、笹の葉へ、蜜をぬりたるに、つけて、みち引(びく)、とぞ。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 巢を分(わく)る時は、三、四十の蜂、穴より出(いで)て、壁などに付て、動かずして居(をり)、とぞ。其時、巢をつくる設(まう)け、すれば、それに入(いり)て、つくる。其家、心にあはねば、其時、とび去(さる)、とぞ。

 其家を、はなれず、巢を分るを、いはい[やぶちゃん注:ママ。]、悅(よろこぶ)、とぞ。

「蜜は、蜂のかへしなり。」

と、いふは、そら言なり。

 冬中の食を、はこび貯(ため)て、寒く成(なる)と巢ごもるを、來年、巢を造るほど、たねを殘して、其巢を、とりひしぎ、絞りて、蜜を取、あとのからは、釜に入て煮て、しやくし・へらなどの樣な物にて、探れば、結構なる、きらう[やぶちゃん注:「奇麗に」か。或いは「きらきらと」か。]、それに付(つく)、とぞ。

 それを、かき取て、又、入(いり)、又、入して、「らう」[やぶちゃん注:「蠟」。蜜蠟。]を取(とる)、とぞ。

 はじめ程、「らう」、多く付、後には、薄く成(なり)て、つかぬほどに成(なら)ば、捨(すつ)る。「かいこ」を、かふ、たぐひなり。

「人に、あだせず、大きにおこる時は、群がり、さして、怪我する事もあれど、めつたになき事なり。あつかひ樣を知りて居れば、腹たてぬ樣にする。」

と語(はなし)し。

 此咄し、おもしろくて、幾度も語(かたら)せて聞(きき)たりし。

 このばゞ、病人のあつかひ、上手にて、ありし。子共をも、やわらかに、能(よく)もりをせし人なり。

 虎の御門内、井上河内樣とか、其比(そのころ)は云(いひ)し小大名の家中、大塚伴之丞と云(いふ)、物書(ものかき)の妻、成し。

 子なくて、養子せしも、父と同じ名なりし。

「其よめに。」

とて、もらひし娘、

「人中(ひとなか)見習(みならひ)の爲。」

とて、數寄屋町へ上(あがり)て有しが、靜かなるを、めきゝに、もらひしを、「しづか」と云よりは、ふさぎたる方(かた)にて、何をするも、埒明(らちあか)ざりしが、夏のことにて、

「行水(ぎやうずい)の湯を汲(くむ)。」

とて、

「すべり、ころびて、其湯を、かけたり。」

と云(いふ)事にてありしが、其時は、はれもせざりしが、二日、三日すぎて、片顏、ゑりへかけて、はれ出し、目も、かため、細く、口もゆがむ樣(やう)に、段々、はれて有し。

 燒(やけ)どの藥など、付(つけ)しが、同じ事にて、色、付たり。

「手にも、其湯の、はねたる所。」

とて、日增(ひまし)に、わる赤く成し所、ばらばらと、見へたりし。

 十日ばかり立(たち)ても、皮も、うごかねば、あやしみ、

「やけどのてい、ならず。」

と、いひし。

 父樣、ワに被仰付しは、

「付藥(つけぐすり)にて、肌も見えねば、其藥、へらにて、痛まぬ樣に、はなし取(とる)。」

と被ㇾ仰し故、その如くせしに、强くかきても、

「痛まぬ。」

と云たりし。

 藥を、皆、とり仕舞(しまひ)てみるに、「どす色」なりし。

 父樣、其色の付たる所を、へらにて御なで被ㇾ成、

「此へらのさはるは、物を隔てるやうなるや。」

と御尋有しに、

「左樣なり。」

と、いひし。

 手を御なで被ㇾ成、

「手も色付たる所と、只の所とは、さはる物、ちがふか。」

と被ㇾ仰しに、

「左樣なり。」

と云し。

 それから、

「よし。」

とて、次へ[やぶちゃん注:次の間へ。]下げられ被ㇾ仰しは、

「是、『らい病』なり【物をへだてたる樣におぼゆるは、生(いき)ながら肉の死(しに)て、經(けい)のかよわぬ故なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。さきが、よめには成(なる)まじ。呼(よび)て、其事、いひ聞(きかせ)ん。」[やぶちゃん注:「さきが、よめには成まじ」「この先、嫁としておくことは、病気が病気なれば、嫁としてあり続けることは出来まい。」の意であろう。]

とて召(めし)て、其よしを被ㇾ仰て下(さが)られしが、音にのみ聞(きき)し『らい病』のやみ出しを近く見て、快(こころ)わるさ、いはんかたなく、知らで、手にふれなどしたる事、思いでゝも、其ほどは、心あしかりし。

 餘りいやさに、

「うつる物では、なきや。」

と伺(うかがひ)しかば、

「らい病が、うつゝて、たまるものか。」

とて、笑わせられし。

 其樣に、はれ出(だ)してから、氣輕に成(なり)て、物も、よく、食(くひ)などして有し。

 其やまひの、内にこもりて有(あり)しほどは、ふさぎたりしが、外ヘいでし故、心中、晴晴(はればれ)と成(なり)しと、見へたり。

 よそめには、

『さぞ、悲(かなし)からん。』

と思わるゝを、其身には、結句、ほこりてをるは、因果なる病(やまひ)なり。

[やぶちゃん注:「らい病」「癩病」。現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌( Mycobacterium leprae )の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項では、この病について、『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても「天刑病」と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシは、この病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で、底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。因みに、私の亡き母聖子テレジア(筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により二〇一一年三月十九日午前五時二十一分に天国に召された)は独身の頃、修道女になろうと決心していた。イタリア人神父の洗礼を受けて笠井テレジア聖子となった。彼女は生涯を長島のハンセン病患者への奉仕で生きることまで予定していたことを言い添えておく。さて。ハンセン病は永く、その皮膚病変のさまから、「生きながらにして地獄の業火に焼かれている罪深い病い」として、民俗社会に於いて強く忌避されていたのであった。そのために、本朝中世の十二世紀の起請文の罰文に、「白癩・黒癩」の文言が出現しているのである。これは神に誓って違うことはないという決まった文言の一つとして、もし、誓約に背いた場合には、「現世ニハ受白癩黑癩之病」と記したのである。かくも、差別されてきた疾患であることを我々はよく認識せねばならない。なお、工藤平助の「らい病が、うつゝて、たまるものか。」という台詞には、やはり、医師でありながら、「ハンセン病」を「業病(ごうびょう)」とする認識が、感じられるようにも私には思われる。

只野真葛 むかしばなし (62)

一、餘り、律儀過(すぎ)たるものには、禍(わざはひ)、おふ事、あるものなり。

 細川の御隱居上松院樣とか申上(まうしあげ)しに、前方(まへかた)、小枝殿お小性(こしやう)を勤られし後、皆、下(さが)りて有(あり)しに、同じく若年寄を勤られし人、下り早々、宿に、もめの事、有て、お町へ、ぜひ、一度は出られねばならぬ事ありしに、女共、供行(ともゆく)ことを、いやがりて、病氣を達したり。

[やぶちゃん注:「細川の御隱居上松院」「小枝殿」孰れも不詳。]

 困りてゐられし時、小枝、部屋おやも、若年寄なりしに、其しんめう、しごく律義者にて有しが、折ふし、

「お門を通りますから、一寸御きげん伺(うかがひ)に上(あが)りました。」

とて、來りしを、

「今、ケ樣ケ樣の事にて、出ねばならぬに、供がなくてこまるから、どうぞ一寸、供して行(ゆき)てくれ。」

と賴まれしに、

「それは。あやにくの事にて、さぞ、おこまり被ㇾ遊ん。」

とて、供して行たりしに、其旦那樣【上松院樣なり。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]は、紀州より、いらせられし故、御かくれ後、早々、高役をも勤(つとめ)し人の、お町へ出(いづ)る事を、

『氣の毒。』

に思召(おぼしめし)、紀州家より、御手入(おていれ)有(ある)につき、若年寄は、事なく相下(あひさ)げられ、其身がはりに、下女を、とゞめられて、直(ぢき)に牢入(らういり)と成(なり)しとぞ。

 是、いかなる不幸ならん。其もめは、やはり、先に出(いだ)し置(おき)し齋藤忠兵衞、若黨の「にせ養子」を殺したるもめにて有(あり)し。

[やぶちゃん注:「齋藤忠兵衞」「只野真葛 むかしばなし (49)」で既出。]

 小枝事、いろいろ世話に成(なり)し上、少しも知らぬ事にて、さやうの難儀に逢ふを、不便(ふびん)に、四郞左衞門樣、おぽしめし、色々、御骨折御世話被ㇾ成、漸々(やうやう)の事にて、出牢はしたれども、それより、病身に成てありしとぞ。

 日々、御尋(おたづね)に逢(あひ)ても、しらぬ事にて、大きに難義せしとぞ。

 牢の中に、老女、居て、それが牢主にて、

「何の事にて、牢入と成しや。」

などゝひて、御尋あらば、申上べき事など、をしへなどして、科(とが)の重らぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に、みち引(びく)事とぞ。

 牢入の女共、この人を敬ひて、肩もみ、足さすりなどする事とぞ。

「牢の中にも、掟、有て、夫々(《それ》ぞれ)の座なども定まり有て、おごそかなる事。」

と語(かたり)しとなん。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八四番 盲坊と狐

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題にはルビがない。「めくらばうときつね」と訓じておく。]

 

   八四番 盲坊と狐

 

 或所に廣い野原があつて其所にどうも惡い狐が棲んで居て、そこを通つて町へ行く人を騙して仕樣がなかつた。本當に惡い狐だ、誰か捕つて來る者はないかと云つても、行けば騙され騙されして、誰も行く者がなくなつた。そこで村の人達は寄合ひを初めて、あの野原の狐を卷狩りするべえ、よかんベアと云ふ事になり、村中總出で原中を駈け𢌞つても、狐に馬鹿にされるばかりで何の甲斐もなかつた。

 其所ヘ一人の座頭ノ坊樣が琵琶箱を背負(シヨ)つて通りかゝつた。そしてこれこれ村のお旦那樣達が斯《か》う多勢のやうだが、何をめされて居申《ゐまう》せやと訊いた。村の人達は、俺達はこの原の惡い狐を退治すべえと思つて、かうして多勢寄り集まつて居るんだが、狐が古(フル)シ奴だから、なかなか捕へることが叶わぬと云ふと、ボサマは其では俺が捕へてやり申すべえから、且那樣方は一旦村へ歸つて、大きな白布の袋の長さ二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]もある奴と、油搗げ鼠とをこしらへて持つて來申され。そして俺にはどうか酒肴を持つて來てウント御馳走してたんもれと言つた。村の人達は狐にはアクネハテて[やぶちゃん注:「持て余して呆れ果てて」の意か。]いたところであるから、ほだらボサマの云ふ通りにするから、是非惡狐《わるぎつね》を捕つてケもせやと言つて、ぞろぞろと村の方へ引き上げて行つて、夕方ボサマの注文通りの物を持つて來た。

 坊樣はその大袋の一番イリ(奧)のところに、鼠の油揚げを入れて、袋の入口には突張木(ツツパリギ)をかつて[やぶちゃん注:「引っ掛けて」か。]、口を開けておいて、その前で酒コを飮みながら、琵琶箱から琵琶を取り出して、ジヤン、ジヤランと搔き彈《だん》じながら、ジヨウロリコ[やぶちゃん注:「淨瑠璃」か。]を唄つて居た。中頃になると、その惡い狐をはじめ野中の多勢の狐どもが、ぞろぞろと寄つて來て、袋の中の鼠の油揚げの香《にほ》ひを嗅ぎながら、ボサマボサマ、お前は何をして居ると言つた。ボサマはあれア狐どもが來たなアと思つたから、俺は盲坊で誰方《どなた》だか分らないが誰方でもいゝから此の袋の中の御馳走を食べなされヤ。俺は斯うして酒コを飮んで居るからと云つて酒コを飮み飮み、いよいよ琵琶を掻き彈(ハダ)けて歌を唄つた。すると惡狐をはじめ多くの狐どもが、ほだら俺達ア踊るべえと言つて、ボサマの歌に連れて、

   グエンコ、グエンコ

   グエンコラヤア

 と言つて踊りを踊つたが、その實《じつ》踊を踊る振りをして足音をごまかして、袋の中の油揚げ鼠を喰(タ)べに、ぞろぞろと袋の中へみんな入つて行つた。ボサマは耳イ澄まして其を聽いて居たが、狐どもが皆袋の中に入つた時、袋の口をギリツと結び締めた。さうしてやつぱり大聲を張り上げて、斯う歌ひながら、ウント琵琶を搔き彈《はだ》けた。

   村の衆達(シユダチ)な申し

   早く大きな槌《つち》ウ

   持つて來もせアじア

   野中のウ惡狐(ワルギツネ)どもア

   みんな袋さへし込んだア

 すると村の人達は、それアと云つて大きな槌を持つて走《は》せて來て、そしてボサマの琵琶の音に合はせて、斯う云ふアンバイに其狐どもを、みんな槌で撲《ぶ》ちのめして殺した。

   ジヤンコ、ジヤンコツ(ボサマの琵琶の音)

   あツグエゲラグエンのグワエン(狐の啼き聲)

   そうらツ、ジエンコ、ジエンコ

   やらツどツちり、ぐわツチリ(槌の音)

   あツグエゲラグワエンのグワエン

   それアまた、ジエンコ、ジエンコ

   よウしきたツ、どツちり、ぐわツチリツ

   あツグエンゲラグエンのグワエン

 (村の内川谷三と云ふ者の話。この話は結末のボサマ
 の彈く琵琶の調子と狐の啼き聲と村の衆の槌の音とが
 交錯して、殺さんとテンポが急調になるところに興味
 のある話。大正九年冬の蒐集の分。)

[やぶちゃん注:金成陽一著「賢治ラビリンス」(二〇二〇年彩流社刊)によれば、宮澤賢治の数少ない生前発表童話の一つである「オツベルと象」(詩人尾形亀之助主催の雑誌『月曜』創刊号(大正一五(一九二六)年一月発行)初出)の最終章「第五日曜」で、議長の象が『オツベルをやつつけやう』(所持する筑摩書房校本版から引用)と高く叫ぶシークエンス以下、コーダ部分のオノマトペイアとの類似性の指摘があることを附記しておられる(同書は所持しないが、「グーグルブックス」のこちらを参看した)。「オツベルと象」は現代仮名遣であるが、「青空文庫」の当該作の最後のそれを見られたい。]

2023/05/21

譚海 卷之五 日州霧島が嶽つゝじ花の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○日向國に「霧島がたけ」といふ在(あり)、滿山、みな、躑躅(つつじ)にて、花のころ、錦を張(はり)たるがごとし。「朝鮮征伐」の時、藤堂家(とうだうけ)の先祖、此山のつゝじを持歸(もちかへり)て、染井(そめゐ)の屋敷に植られしより、その花の名を、やがて、「霧島」といふ事になりたり、今、江戶に、所々にある「きりしま」も、藤堂家より、わかち植(うゑ)たるが、ひろごりたるものと、いへり。「霧島」は漢名「映山紅(えいさんこう)」といふものとぞ。

[やぶちゃん注:「霧島がたけ」霧島山(グーグル・マップ・データ航空写真)。最高峰を「韓国岳(からくにだけ)」と呼ぶ。

「藤堂家」津藩を治め、江戸では、現在の「染井通り」(グーグル・マップ・データ)の南側に津藩藤堂家の下屋敷や抱屋敷(通称「染井屋敷」)が広がっていた。因みに、「『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回」を見られたい。「こゝろ」の「先生」が卒論を書いた後に「私」と散歩をし、二人して、植木屋に入り込んで、議論をする重要なシークエンスがあるが、あそこは、高い確率で、染井なのだ。そして、この「染井通り」と「染井霊園」を突き抜けた先にある、日蓮宗慈眼寺(じげんじ)には――芥川龍之介が眠っているのである。

「霧島」「躑躅」被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 当該ウィキによれば、『鹿児島県下の霧島山の山中に自生するツツジの中から江戸時代初期に選抜されたもので、関東の土壌が生育に適していたこともあって江戸を中心に爆発的に流行した。 日本最古の園芸書』で園芸家水野元勝の著になる「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年刊)や、種樹家伊藤伊兵衛三之丞の書いた「錦繡枕」(きんしゅうまくら:元録五(一六九二)年刊)『などに多数の品種が記載されている。その後』、『全国に広がり、各地に古木が残存する。また、日本のみならず欧米でも、江戸時代末期から明治時代に輸出されたものが今日でも重要な造園用樹として盛んに利用されている』。『また、宮崎県えびの市にあった大河平小学校の庭に植えられているもの(通称:大河平つつじ』『)は、真紅に染まっており、ほかの場所に植え替えてもこの赤さにはならないとの伝説』『もある』とある。]

譚海 卷之五 越中國立山の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○越中の建山[やぶちゃん注:ママ。]は、六月、登山する也。甚(はなはだ)嶮岨(けんそ)にて、所々、道、絕(たえ)て、のぼりかたき所は、絕壁に鐵(てつ)のくさりを懸(かけ)てあり、夫(それ)に取(とり)つきて、のぼる也。絕頂は、わずかに十間四方[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほどあり、みな、白き巖(いはほ)、そばたちて、犬牙(けんが)の如く、足のふむ所なしと、いへり、歸路は、かけぬけの道路在‘あり)て、平地にくだる、といふ。

譚海 卷之五 江戶町人丸屋某滅亡の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○丸屋某と云もの、江戶草創以來、大傳馬町(おほでんまちやう)三丁目に住居し、豪富にて、上方商賣も手廣くせしゆゑ、能(よ)く人にしられたるものなり。されば、「沖に見ゆるは丸屋がふねか 丸に『や』の字の帆がみゆる」と、うたひたる程の事なり。寶永年中、常憲院公方樣、丸屋門前、通御(つうぎよ)ありし折節を伺(うかが)ひ、丸屋妻(つま)、家に在(あり)て、伽羅(きやら)を、たきたり。此香(かう)、世にまれなる木也、それを所持せしを自贊(じさん)にて焚(たき)たるを、聞(きき)とがめ在(あり)て、段々、御糺(おんただし)に及び、驕奢(けうしや)の次第、御とがめにて、則(すなはち)、丸屋、流罪に仰付(おほせつけ)られ、家内、缺所(けつしよ)せられたり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大傳馬町」東京都中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ)。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年までだが、以下の「常憲院公方樣」は徳川綱吉の諡号であるから、綱吉の亡くなる宝永六年一月十日(一七〇九年二月十九日)よりも以前ということになる。

「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。

「缺所」「闕所」とも書く。死罪・遠島・追放などの附加刑で、田畑・家屋敷・家財などを没収すること。]

譚海 卷之五 疱瘡守札の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○「小川與惣右衞門 船にて約束の事」と書(かき)、ではいりの門、又は、戶ある口々に張付置(はりつけおく)ときは、「その家の小兒、疱瘡、輕くする。」と、いへり。是は、前年、疱瘡神、關東へ下向ありしときに、桑名の船中にて、風に、あひ、すでに、船、くつかヘらんとせしを、與惣右衞門といふ船頭、守護して、救ひたりしかば、疱瘡神、よろこびて、「此謝禮には、その方の名、かきてあらん家の小兒は、必ず、疱瘡、かろくさすべき。」と約束ありしゆゑ、かく書付(かきつく)る事と、いへり。

[やぶちゃん注:「疱瘡」は撲滅された天然痘のこと。底本の竹内利美氏の注に、多くの『疫病の流行は、かつては疫神』(やくしん・やくじん・えきしん)『の遊行』(ゆぎょう)『によると信ぜられていたので、その鎮送』(ちんそう)『の呪術や祭事がいろいろおこなわれた。「疫神を救った船頭の名を書いて張る」という素朴なマジナイもその一つだが、意外に同類の話がひろく流布した。「はだか武兵衛」といったものも他にある』とあった。ウィキに「はだか武兵」(はだかぶひょう)があり、『江戸時代後期の中山道の駕籠かき。疫病の人々を救ったという中津川の伝説的な人物。武兵衛ともいう』。『中山道鵜沼宿の出身であるという』。『中津川宿の茶屋坂というところに住んでいたが』、『年中、ふんどし一枚の裸で過ごしていたとされる』。『ある夜、木曽街道の須原宿の神社で疫病神と同宿して、兄弟分の縁を結び、武兵が来れば疫病神が逃げていくという約束をしたという』。『以来、疫病の者のところへ武兵が来ると病が治り、これが評判になったとされる』。『ある時』、『中山道の大湫』(おおくて)『宿で、江戸に向かう長州候の姫が医者も見放すような重い熱病を発したため、武兵を呼んだところ』、『嘘のように全快し、一層』、『評判を高めたという』。『現在も、中津川市字上金往還上地内の旭が丘公園の中に、はだか武兵の祠が祀られて』おり、『武兵の祠の前に置かれた舟形の石は、叩くと金属のようなチンチンという音がすることから「ちんちん石」と呼ばれ、自分の年の数だけ石を叩くと』、『病気にならないといわれている』とあった。]

譚海 卷之五 京北野平野明神の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○京都北野平野明神の社は、天明より二十年ほど以前までは、昔のまゝにて殘りてあり。殊に大社にして、そのかみの結構まで、おもひやられて、かうがうしきやうすなり。いつ、修覆せられたる事もなくて、段々、破壞に及び、とる手もなきさま也。俗說には、平家の盛(さかん)なるとき、建立ありし故、かく再興せらるる事もなく、打捨(うちすて)ある事と、いへり。社頭に年經(ふり)たる杉あり、大木にて、二本、たてり、神主、餘り、社頭のあれたる事をなげき、杉を賣拂(うりはら)ひて、其金子にて、社頭再興せんと、おもひ立(たち)、みくじをとり伺(うかが)ひたれば、神慮にもかなひたるゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、上へも訟(うつた)へ事、ゆりて[やぶちゃん注:許されて。]、あたひの事も、とゝのひ、「あす、きらん。」とて用意しける。其夜、雷、おびたゞしく、はためきしが、やがて、此杉に落かゝりて、二本ながら、微塵にくだけうせぬれば、再興の事も、やみて、今は、さばかりの大社、かきはらひ、平地にいさゝかなる宮を、其跡に、つくり、祭りて、あり。神慮にかなひたるやうに、みくじにはありしかども、まことに、うけび、たまはざりしにやと、いへり。

[やぶちゃん注:これは、現在の京都市北区平野宮本町にある平野神社のことであろうが、当該ウィキを見る限り、江戸時代に、こんなに荒廃していた様子は窺われない。公式サイトを見ても、そうである。この文章、不審。]

譚海 卷之五 朝士某家藏朝鮮人さし物の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○又、朝士何がしの藏に、朝鮮人の「さし物」を傳へたり。その先祖、「朝鮮征伐」の時、彼(かの)國より、うばひきたる也、とぞ。享保年中、上覽にも入(いり)しもの也。五尺四方ほどの木綿(もめん)に、血を付(つけ)て、幟(のぼり)とせしもの也。殊の外、黑み、けがれて、幟の垂(たれ)、見えわかぬほどなれば、狩野梅春に仰付(おほせつけ)られ、別に、うつさせ、それをそへて返し、賜りたるを、ひとつに、納め置(おき)て、あり。其(その)別幅(べつふく)の寫したるを見しに、人をさかしまに釣(つり)て、左右より、鎗にて、突殺(つきころ)す所の畫(ゑ)なり、甚(はなはだ)氣味わるき繪やうなるよし。もとの幟の黑みたるは、泥中へ投(なげ)たるやうにも見得(みえ)、又、血などに、まみれたるやうにも見ゆると、いへり。朝鮮の勇士を討取(うちとつ)たるとき、其さし物をうはひて[やぶちゃん注:ママ。]歸朝せし事也と、いへり。

 

譚海 卷之五 朝士平岩七之助殿家藏舊記の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○平岩七之助殿と聞えし子孫、本所に住居(すまひ)也。其家に、七之助殿、年々の日記、自筆にて、しるしたるものを傳へたり、東照宮、御在世の時の日記にて、殊にめづらしきもの也。七之助殿、御側(おそば)にて、常に右筆(いうひつ)の役を勤られしゆゑ、筆まめにて、かく、日記も殘されけるにや、と、いへり。その日記は、半紙をはじめ、種々の紙をとぢあつめてかきたるもの也。反古(ほご)のうらなどに書(かか)れたるもあり、とぞ。又、七之助殿、陣中、帶せられし刀、有(あり)、長さ二尺餘(あまり)有(あり)て、みじかきものなれども、甚(はなはだ)大(おほい)なる刀にして、尋常の人の、もたるゝ物に、あらず、平岩氏、さのみ强力(がうりき)の聞えある人にもあらざりしが、希代のものなり。古人は、すべて、かやうなる物、多く帶(たい)せし事、有、人をきるべき爲(ため)のみにもあらず、たゝきふすほどの事なるべしと、いへり。

[やぶちゃん注:「平岩七之助」戦国時代から江戸初期の家康の幼い折りからの近臣(家康と同年齢)平岩親吉(ちかよし 天文一一(一五四二)年~慶長一六(一六一二)年)のこと。詳しくは、当該ウィキを読まれたいが、そこには、『親吉には嗣子がなかったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長』五(一六〇〇)『年』『に早世した。ただし』、「徳川幕府家譜」では『親吉の養子になったのは、異母兄の松平松千代とある。如何に親吉が功臣としても、同母弟が後に御三家筆頭となる家系の兄を養子とするとは考えにくく、庶子の第二子である松千代の方が適当といえる』。『自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたといわれる。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、平岩氏の所領を継がせようとした』が、『その子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、大名家平岩氏は慶長』十六年の『親吉の死をもって断絶した(ただし、』「犬山藩史」では、『甥の平岩吉範が後を継いで元和』三(一六一七)『年』『まで支配したとされる)』。『親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり』、『弓削衆と呼ばれた。また、江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等で』、『その系統は続いている』とある。さて、では、本所に、当時、存命していた、『平岩直筆の日記を持つ平岩七之助殿と聞えし子孫』とは、一体、どの系統の子孫なのか? ちょっと、というか、かなり、怪しい感じがする。]

譚海 卷之五 諸國寺社什物寶劔の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、諸國寺社に納(をさめ)ある什物を御取(おとり)よせ、上覽ありしに、刀劍の數(かず)は、おほく僞物にて、正眞のものは、わづかに、かぞふる程ありしとぞ。常陸鹿島神宮に、「ふつのみたまの賓劍」といふもの、あり。「世に名高きものなれば、上覽あるべし。」と仰出されけるに、「此御劍は、往古より、巖石の下に納在(をさめあり)て、終(つひ)に拜見せしもの、なき。」よし、神主、言上しければ、「さもあれ、まづ委敷(くはしく)糺すべき。」由にて、上使、參り向ひ、せんさくありしに、件(くだん)の巖石を、引(ひき)のけたれば、石槨(せきかく)の中に寶劍とおぼしきもの、袋に納めて、堅く封じ、「開(ひらく)ベからざる」よし、書付ありしかば、上使、歸りて、言上せしに、「左樣ならば、上覽に及ばず。但(ただし)、其御劍の形、いかやうなるものにや、袋の上より、探りて、委敷申上(まをしあぐ)べし。」と有(あり)。「さぐりて見たるに、誠に寶劍のやうに思はれ、殊に、太く、大(おほ)ふりなるものに覺えし。」とぞ。其次第、言上に及び、上覽なくて、止(やみ)ぬるとぞ。

[やぶちゃん注:「ふつのみたまの賓劍」底本の竹内利美氏の注に、『ここでは鹿島神宮の宝剣の名であるが、本来フツノミタマ(布都御魂)は奈良県石上』(いそのかみ)『神社の祭神で、神武天皇熊野入り折、天神の与えた霊剣の名である』とある。「鹿島神宮」公式サイトの「武甕槌大神と韴霊剣」(たけみがづちのおおかみとふつのみたまのつるぎ)を参照されたいが、ここに書かれた同剣は鹿島神宮の宝物として現存し、国宝に指定されている。全長二・七メートルを『超える長大な神剣「直刀」』で、『この直刀の製作年代はおよそ』千三百『と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣』であるとあり、写真も載る。而して、『これは、神話の上では』、『この韴霊剣が武甕槌大神の手に戻ることなく、神武天皇の手を経て石上神宮に祀られたことから、現在では「二代目の韴霊剣」と解釈され、現在も「神の剣」として鹿島神宮に大切に保存されて』ある由が記されてある。]

「近代百物語」 巻三の一「野馬にふまれぬ仕合吉」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻三

   野馬(のむま)にふまれぬ仕合(しあはせ)(きち)

 攝刕難波は、我が日のもとの大湊(《おほ》みなと)、あきなひの道(みち)、數(かず)を盡し、

「金銀、脚下(あしもと)にころめく。」

とは、此所ぞ、いふならん。

 咋日まで、尻からげに、草鞋(わらんづ)[やぶちゃん注:「わらぢ」に同じ。]をしめ、人の供につきし身も、けふは、たちまち、引きかへて、置頭巾(おきづきん)に黑紬(《くろ》つむぎ)、笊籬(いかき)に、盆の蓋(おほ)ひして、豆腐を買ひにゆかれし人も、「奧樣」といふ名のつくは、實(げに)、此土地の事ぞかし。

[やぶちゃん注:「置頭巾」近世、袱紗(ふくさ)のような布を畳んで、深く被らないで、頭に載せるようにした頭巾のこと。

「笊籬」竹で編んだ籠。笊。]

 今はむかし、八けん屋のかたほとりに、松屋万吉といふ人、あり。

[やぶちゃん注:「八けん屋」「八軒家船着き場」のこと。現在の大阪市中央区天満橋京町(てんまばしきょうまち)にあった。「大阪市」公式サイトのこちらによれば、『天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに』八『軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると』、『外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和』二〇(一九四五)『年ごろまであった』とある。そこには『永田屋昆布本店前』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)とあるのは碑で、碑の写真はこれ(同前のサイド・パネル画像)。]

 生得(しやうとく)、あきなひのみちに、かしこく、日夜、東西にはしりて、いとまなき身なれども、月雪花(つきゆきはな)に、心をたのしめ、ふだん、なをざりなふ[やぶちゃん注:ママ。]かたらふ人に、長岡玄安といふ医者ありしが、頃は、やよひの半(なか)そら[やぶちゃん注:三月半ばのいい空模様の意であろう。]なれば、名花、四方よも)に咲(さき)みだれ、万吉も、心うかれ、

『さそふ水も。』

と、おもふおりふし[やぶちゃん注:ママ。]、玄安、案内(あない)し、入り來たり、

「㙒中《のなか》のくはんおん、櫻、色、こく、今をさかりと、聞へしまゝ、いざ、ゝせ給へ。」[やぶちゃん注:「㙒中《のなか》のくはんおん」近場では、天王寺区に高野山真言宗高津山観音寺があるが、周辺に観音を祀るところは、近くに別に二寺を認め、また、ここには「大坂三十三所観音めぐり石碑」もある。]

と、すゝめしかば、

「よくこそ、しらせ給ふものかな。我が胸中をしれる人は、先生なり。」

と出で行きしが、東にあたりて、葛城山、二上山の花ぐもり、かすかに見ゆるも、又なき風情(ふぜい)、野邊は、なたねに黃金(わうごん)をしき、堤(つゝみ)は、杉菜(すぎな)、げんげの色どり、にしきをはれるに、異ならず。

「空に、鳥の音(ね)聞ゆるも、宿(やど)では、ならぬ事ぞ。」

とて、はるかに見やるおり[やぶちゃん注:ママ。]こそあれ、一つの雲雀(ひばり)、そらより、おとし、ため池にとゞまりしに、目をつけ、見れば、あたりの草むら、風もふかぬに、左右に、わかる。

「あら、心得ず。」

と、氣をつくれば、かしらは、女、身は、きつね、二人は、目と目を見あはせて、またゝきもせず、ながめしに、池の藻くずを敢りあげて、うちかづくぞ、と見へけるが、いと艷(うる)はしき女に化(け)し、黑漆(こくしつ)の歯、笑(ゑめ)るに、あらはれ、嬋娟(せんけん)の鬢(びん)、春風(しゆんふう)になびく毛の、はへた事、知つた身さへ、心ときめく顏かたち、しらぬ人の、つまゝるは、もつともぞかし。

[やぶちゃん注:「嬋娟」容姿があでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。

「はえた」美しく「映えた」。但し、妖狐が「生えた」「毛」で変じる属性も秘かに掛けているように思われる。だからこそ、以下、直後に「毛」から「眉」毛「に唾して」と続くのである。]

『むりならず。』[やぶちゃん注:「化けるのを見た以上、これは、無理をせずに、無視して行かねばなるまいぞ。」という意であろう。]

と、眉に唾して、ゆきすぐれば、彼の女、あとより、よびかけ、

「わたくしは、河内(かはち)のもの、道ふみまよひ、さぶらふまゝ、たよりよからん所まで、道しるべして、たまはれ。」

と、なみだとゝもに、たのむにぞ、二人は、傍(そば)に立ちよりて、

「さきほどよりの水あそび、いかさま、おかしき事ども。」

と、

「どつ」

と、わらへば、とびのきて、女は、

「はつ」

と、おどろくけしき、

「あら、恥づかしや。」

と、顏、うち赤め、にげんとするを、二人は、引きとめ、

「かくあらはれしうへからは、しばらく、姿を、かへ給ふな。我(われ)、幼少の時よりも、はなしには聞きつれども、目前(もくぜん)、かゝるわざを、見ず。とてもの事に、ねがはくは、一つの不思議を、見せ給へ。」

と、ひとへに望めば、氣のどく顏、

「しからば、あとより、見へがくれに、我がゆくかたへ、來たり給へ。」

と、さきにすゝめば、二人も、ともに、したがひ、あゆむ。

 

Onanakitune1

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])狐

つると

云(い)ふつら

るゝといふ

いづれはつる

     にも

      勢

       ゟ[やぶちゃん注:「より」。]

つら

 るゝ

   にもせよ

 狐(きつね)の緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])は

《左端下に続く。左から右へ。》

        こそ

       からに

のがれず皆(みな)こゝろ

    *

以上は、一寸、難しい。私の推定読みで、書き直すと(〔 〕は私の現代語の補助)、

    *

「『女狐(をんなぎつね)〔を〕釣る。』と云ふ。(女狐は)『釣らるる。』〔釣られてしまった〕といふ。いづれは、『釣る』にも〔とは言うのであるが〕、〔女狐が〕勢(いきお)ひより『釣らるる。』〔と言った〕にもせよ、狐の緣は、〔決して〕のがれず、皆、(人は油断した、その)こゝろからにこそ(結局は化かされることになるのである)。』

という意か。「釣る」には、万吉と玄安が、女狐の後に「連れ」て歩くことに掛けていよう。判読の誤りがあれば、御教授下さると、嬉しい。

    *

《右側に万吉。持っているのは左の医者玄安の医薬箱であろう。玄安の台詞。》

ちつとおつれ

      に

  なりましたい

《女狐の、左側三分割の台詞。》

さい

  わい

   な

 ことで

      ござり

            ます

   *]

 

 むかふより、二十歲(はたち)あまりの、当世男(とうせいおとこ[やぶちゃん注:ママ。])、半合羽(はんかつは[やぶちゃん注:ママ。])の旅がへり、堤のへりに、腰、うちかけ、

「姉さま、どちへ。」

と、問ひかくれば、女は、しり目にかヘり見て、

「何、おしやんす。」

と、いふた顏、男、見るより、

「ぞつ」

として、

「どちへ、ゆかんす、送ろかへ。」

と、そろそろ、手など、引《ひき》あひて、南をさして、あゆみゆく。

[やぶちゃん注:「ぞつ」としたのは、言わずもがな、そのあまりの美しさ故である。]

 おりふし番家(ばんや)のありければ、おとこ、女の袖を、ひかへ、

「少(ちと)、やすまん。」

と、むりむたい、番家のうちへ、引きいれる。

[やぶちゃん注:「番家」番屋と同じで、主に消防と自警の役割をしていた自身番の詰所のことであろう。昼日中とはいえ、詰めている者がいないというのは?]

 女は、

「あれあれ、人がひな。」

といふ聲ばかり、かすかに聞へ、戶を引立《ひきた》て、入《いり》ければ、玄安は退屈して、あたりの家に、まくらをかり、夢路をたどる高鼾(たかいびき)、万吉は、しごくの見物、番小家の樞(くるゝ)の穴より、目も、はなさず、のぞく最中、たれかは、しらず、うしろより、

「コレ、あぶない。」

といふ聲に、びつくり、おどろき、よくよく見れば、野馬(のむま)の尻(しり)のあなに、目を、あて、番家とおもひ、のぞきたり。

[やぶちゃん注:「人がひ」「人買ひ」であろう。女衒(ぜげん)。

「樞の穴」扉の端の上下にある突出部を穴に入れて扉が回転するようになっている「くるる戸」にある隙間・穴。]

 

Onanakitune2

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

狐(きつね)の人を化(ばか)すも

のちは白(しら)ばけ

にて

わかばい

 なる者を

  はめるは人(ひと)の

      心を

見ぬき

  たる

      せん

        さく也

   *

「わかばい」は「若輩」で、万吉と玄安を指す。「せんさく」は「詮索」(実は女狐は既にして二人の心を先に読んでいたのである)か。

《右の医薬箱を持つ呆けた目の医者玄安の台詞。》

扨[やぶちゃん注:「さて」。]こまち[やぶちゃん注:狐の化けたそれを「小町」と呼んだか。]

   どふなる[やぶちゃん注:ママ。「どうなる」か。]

《馬の尻の穴を覗く万吉の台詞。》

あのおんな[やぶちゃん注:ママ。]

     を

   むまい[やぶちゃん注:ママ。「美味い」。]

     し

     をる

   *]

 

 ふしんのあまり、大聲、あげ、玄安を、よび出せば、牛部(うしべ)やより、目をすりすり、よろめき、出でたる、泥まみれ、たがひに、顏を見合せて、あきれて、ことばも、なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:「牛部(うしべ)や」「牛部屋」。農家の牛小屋。玄安もすっかり騙されていたという落ちである。

 本書の中では、初めて、挿絵と本文の共同作業が見事に成功している。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八三番 狐と獅子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     八三番 狐と獅子

 

 或時、日本の狐が唐(カラ)に渡つて住んで居つた事があつた。或日山の獸だの野原の獸だのが大勢寄合ひをして、各々(メイメイ)に自慢話をおツ初めた。大勢の獸どもががやがやと話すのを、獅子が聽いてうるさそうな顏つきをして、誰がなんて言つたつて世界中で俺にかなう者はあるまい。俺が一聲唸れば十里四方が大地震で、それや人間の家の鍋だの釜が殘らず引繰(ヒツク)り返つてしまうんだぞ、おフフン、と言ふと、威張屋の虎が、でも親方、俺の千里の藪の一走りツてのの眞似はできなかんべえと言つた。

 それを聽いて目本から行つて居た狐が、ははア斯《か》う言つては何だけれど、いくら獅子親方だつて虎兄貴だつて俺の手業(テワザ)にや及ぶまいと言ふと、虎は怒つて、そんだら俺と千里の藪を走《は》せ較(クラ)べしてみろと言ふ。よかんベアと言つて虎と狐とは走せ較べをした。いつの間にか狐は虎の背中に飛び乘つて居たもんだで、千里の藪の果てに着く間際に、ブンと背中からブツ飛んで狐が三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかり前に出たので、虎の負けになつた。そこで狐は大威張りでみんなの所へ戾つて來た。

 獅子はその態《さま》を見てひどく怒つて、この小獸め、俺樣の唸り聲でも聽いて頭(カラコベ)でも打(ブ)ツ割れツと言つて、ウワワワワアと唸つたけれども、其時には逸速《いちはや》く狐は土の中の穴に入つて居たので、平氣で、親方お前は噂に聽くとはテンカ(天)とウンカ(小蟲)ぐれえ違つて居る。俺アいゝ心持ちでうとうとして睡氣(ネム《け》)さして聽いて居たと言ふと、獅子はカンカンに怒つて此下者これでも聽いてくたばれ(死ね)ツと言つて、ワオアツと總體の力を打ツ込めて吠えると、勢いが餘つてスポンと首が拔けて吹ツ飛んだ。

 狐は笑ひながら其の獅子の首を背負(セオ)つて日本に歸つて來た。唐に居ては後の祟り(タタリ)が怖(オツカナ)かつたからである。其時の獅子の首は今でも祭禮の時にかぶつて步くあれである。

  (和賀郡黑澤尻町邊の話。村田幸之助氏の御報告の
   分の一。)

[やぶちゃん注:本話の前半は「戦国策」の「楚策」のそれで知られる「虎の威を借る狐」を借りた話譚であろう。後半は、獅子舞いの被り物の伝来由来譚として面白い。無論、中国には獅子のモデルであるライオンはいないのだが、それがまた、本邦の岩手に伝承されているというのが、フォークロアの異界と通底していて、やはり、面白いではないか。

「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS戦前の地図を確認されたい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 諸君の所謂山男 / 「南方雜記」パート~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇を以って「南方雜記」パート部分は終わっている。]

 

     諸君の所謂山男 (書信一節)(大正六年二月『鄕土硏究』第四卷第十一號)

 

 (前略)序《ついで》に申上《まうしあぐ》るは、小生、山人(やまひと)の衣服か何かの事、書きしとき、「衣服を要するやうな山男(やまをとこ)は眞の山男に非じ」と書きしこと有之《これあり》、其眞の山男の意味を問はれたることありしも(『鄕土硏究』第二卷第六號三四七頁[やぶちゃん注:これは「選集」に割注して、久米長目(柳田國男のペン・ネームの一つ)の「山人の市に通ふこと」を指すとある。リンク先で電子化注済みである。])、場合無くて答へずに過申《すごしまう》せし。增賀《ぞうが》上人は、若き時蝴蝶の舞をやらかしたかりしも、一生、其暇なかりしとて、末期《まつご》に其態《わざ》を一寸演じて快く死なれた由。小生『鄕土硏究』の休刊に先だち、この狀を機會として、その「山男」の意味を答へ申上《まうしあげ》置く。『鄕土硏究』に、貴下や佐々木君が、山男、山男と、もてはやすを讀むに、小生らが山男と聞き馴れ居《を》る、卽ち、眞の山男でも何でも無く、ただ特殊の事情より、已むを得ず、山に住み、至つて時勢おくれの暮しをなし、世間に遠ざかり居る男(又は女)と云ふ程の事なり。それならば、小生なども每度山男なりしことあり。又、ぢき隣家に住む川島友吉と云ふ畫人などは、常に單衣《ひとへ》を著《き》、若くは、裸體で、和紀の深山に晝夜起居せしゆゑ、是も山男なり。仙臺邊に、藝妓がいきなり放題に良《やや》久しく山中に獨棲せしことも新聞で讀めり。

[やぶちゃん注:「增賀上人」(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)は平安中期の天台宗僧。比叡山の良源に師事。天台学に精通して密教修法に長じたが、名利を避けんがために数々の奇行を演じたことでも知られる。大和多武峰(とうのみね)に遁世して修行に勤しんだ。「名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし彼の裸は」殊に有名で、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉』に注してある。参照されたい。また、「今昔物語集」の巻第十二の「多武峰增賀聖人語第三十三」(多武(たむ)の峰(みね)の增賀聖人(ぞうがしやうにん)の語(こと)第三十三)が「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、電子化されたものが読め、そこの終りの方に、熊楠が紹介した胡蝶の舞いのエピソードも出るので、見られたい。

「川島友吉」(明治一三(一八八〇)年〜昭和一五(一九四〇)年)は日本画家。号は草堂。田辺生まれ。絵は独習。酒豪で奇行が多く、短気であったことから、「破裂」の別号もあった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に双方の知人の紹介で出逢い、以後、熊楠の身辺近くにあって、菌類の写生の手伝いもしたらしい。大正九(一九二〇)年の高野山植物調査にも同行している。日高の宿屋で客死した(以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年刊講談社現代新書)の記載に拠った)。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)+(追加発表「附記」分)」の「補遺」にも登場している。]

 そんなものが山男・山女ならば、當國(紀伊)の日高郡山路(さんぢ)村から熊野十津川(とつがは)には山男が數百人もある也。曾て恩借して寫し置きたる「甲子夜話」にも、山中で山男に遭ひ大《おほい》に怖れたるが、よくよく聞き正すと、久しき間、山中に孤居して松烟《しようえん》を燒き居《をつ》た男が、業《ぎやう》を終へて他へ移る所に遇うたのだつたと云ふつまらぬ話あり。今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮(ほんぐう)まで川舟で下るに、川端(かはゞた)に裸居又は襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑ひ居る者、睨み居る者など、必ず、二、三人は、ありたり。之に話しかけても、言語も通ぜず、何やら、わからず、眞に地仙かと思ふばかり也。扠《さて》よくよく聞くと、山居久しくして、氣が狂ひし者の、每々、かゝる行ひありと云ふ(アラビアなどの沙漠高燥の地にも、每々、かかる精神病者が獨居獨行する者ありと聞く)。乃《すなは》ち、狂人なり。又、九十餘歲にして、子孫、皆、死に果て、赤顏・白髮、冬中《ふゆぢゆう》、單衣を著《き》、「論語」の文ぢや無いが、簣(あじか)を擔《にな》うて、川を渡りながら、歌い行く者、あり。小生の舟が玉置川(たまきがは)の宿に著くと、其老人は、近道を取り、無茶苦茶に川を渡りあるく故、早く宿に著き、魚を賣りたる金で、一盃、飮み居る。仔細を聞くと、此者、死を求めて、死に得ず、やけ屎(くそ)になり、大和の八木(やぎ)と云ふ處より、一週に一度、南牟婁郡の海濱に出で、網引(あみびき)して、落とせし鰯等をひろひ、件《くだん》のあじかに入れ荷《にな》ひ、むちやくちやに近道をとりて、直ちに、川を渡り、走りありき、賣りながら、八木へ歸るなり、と云ふ。話して見るに、何にも知らぬ、ほんの愚夫《ぐふ》なり。こんな者も、山中で遇はゞ、仙人とか、神仙とか、云ふ人も、ありなん。山男も、此仙人と同例で、世間と離るゝの極み、精神が狹くなり、一向、世事に構はず、里を離れて住む者を「山男」と云ふなら、脫檻囚《だつかんしう》や半狂人の「山男」は、今日も、多々、あるべし。

[やぶちゃん注:「日高郡山路(さんぢ)村」現在の田辺市龍神村のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。ここいらは、南方熊楠のフィールド・ワークの御用達の深山幽谷である。

「熊野十津川(とつがは)」この附近

『「甲子夜話」にも、……と云ふつまらぬ話あり』巻数も判らず、熊楠自身が「つまらぬ話」と言っているので、探さず、フライング電子化もしない。

「松烟」松材などを不完全燃焼させて作るカーボン・ブラック(炭素の微粉末)。煤(すす)の純度は低いが、安価なことが特色。靴墨や印刷インク等に用いる。

「北山」和歌山県東牟婁郡北山村。中央下方に「熊野本宮大社」を配した。

「あじか」「簣」「もつこ(もっこ)」とも読む。土砂を運ぶための籠。竹などで編まれた籠や笊(ざる)。

「玉置川」奈良県十津川村玉置川

「大和の八木(やぎ)」奈良県橿原市八木町(やぎちょう)か。橿原市の市役所所在地で、「畝傍駅」のある、完全な市街地である。

「南牟婁郡の海濱」ここ。]

 小生らが、從來、「山男」(紀州でヤマオジと謂ふ。ニタとも謂ふ)として聞傳《ききつた》ふるは、そんな人間を云ふに非ず。丸裸に、松脂(まつやに)を塗り、鬚・毛、一面に生じ、言語も通ぜず、生食《なましよく》を事とする、言はば、猴類《さるるゐ》にして、二手二足あるもので、よく、人の心中を察し、『生捉(いけど)らん。』、『殺さん。』と思うときは、忽ち察して去る(故にサトリとも謂ふ)と云ふもので、學術的に申さば、原始人類とも云ふべきもの也。此原始人類とも云ふべきもの、日本に限らず、諸國に其存在說、多きも、多くは、大なる猴類を訛傳《くわでん》したらしく、日本にも、遠き昔は、有つたかも知れず、今日は決して無きことゝ考ふ(但し、今も當郡の三川村・豐原村の奧山などには、此物ありて、椎蕈《しひたけ》を盜み食らふに、必ず、傘のみ、食《くら》ひ、莖を棄てあるなど申す)。「山男」が、人と吼合《ほえあ》ひして吼え負けし者、命を取らるなど申し、近野村には、「うん八」と云ふ男が、自分吼える番に當《あた》り、鐵砲を「山男」の耳邊で打ちしに、「汝は、大分、聲が大きい。」と言うて、消え失せしなど、云ふ。其鐵砲は、神社に藏しありしが、今は例の合祀で、どうなつたか、知れず。「山男」と、この邊で謂ひ、古來、支那の山𤢖《さんさう》・木客《もつかく》などに當てしは、右樣の(假定)動物、「本草綱目」の怪類にあるべきものに限る。

[やぶちゃん注:「三川村」現在の和歌山県田辺市合川に「三川(みかわ)郵便局」が現認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図で「三川村」を確認出来る

「豐原村」現在は、この地名は残っていないようである。当該ウィキの山岳名から見ると、「ひなたGPS」のこの附近と推定されるが、名は見当たらなかった。三川村のさらに東北の深山である。

「山𤢖・木客」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「木客(もつかく)」と「山𤢖(やまわろ)」を参照されたい。二つ続けて出る。]

 貴下や佐々木君の、「山男」の家庭とか、「山男」の衣服とか、「山男」の何々と言はるゝは、此邊で謂ふ「山男」にもあらねば、怪類の山𤢖・木客にも非ず、たゞ人間の男が深山に棲む也。前にも申す如く、深山に久しく棲む人間は、精神が吾々より見れば、多少、變り居る。從つて、擧動も、深山に慣れぬ者には、いぶかしき事、多し。併しながら、其は、やはり、尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とか言ふべきもの也。之を眞の「山男」乃《すなは》ち山𤢖・木客と混ずるは間違つて居ると申せし也。山民を見たくば、今日も、西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)、日高郡の三ッ又(みつまた)、東牟婁郡の平治川(へいじがは)などへ往けば、見らるゝ。三ッ又の者は、小生方へも、來る。まことに變な人間にて、人の家に入れば、臺所まで、ずつと通り、別段、挨拶もせず、橫柄に用事を言ひ、去る。こんな者を「山男」と悅ぶは、山地に往復したこと無き人のことで、自ら其地に至り、其家に遊ばゞ、言語應對が緩慢なるのみ、人情に、少しも、かわり無きことが、わかる。但し、三ッ又如きは、一村(大字)の者、三人と顏を見合わすこと、なし、という程の寒村にてある也。然れども、それ相應に理屈も言へば、計略もあり、山に住む男故、「山男」と言はゞ、それ迄なれど、かかる者を、「山男」、「山男」、と言いては、例の馬琴(ばきん)などが、江戶市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛《あて》て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡《よろこ》んだ如く、吾輩、每度、自分で山中に起臥した者などに取つては、笑止と云ふを禁じえず候。

[やぶちゃん注:「貴下」これによって、柳田國男宛書簡がもとであることが判明する。

「佐々木君」佐々木喜善のことであろう。

「西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)」現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)兵生(ひょうぜい)。熊楠御用達の奥深い山間の採集地として、お馴染み。

「日高郡の三ッ又(みつまた)」兵生のさらに北の奥山で、現在の龍神村三ツ又。同前。

「東牟婁郡の平治川(へいじがは)」「ひなたGPS」で示す。現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)平治川

『例の馬琴(ばきん)などが、江戸市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡んだ』私は昨年末、瀧澤馬琴著作堂の編著になる「兎園小說」の完全電子化注を一年半足らずで完遂しているが、最もありそうなそこには、調べたが、以上の二話は載らない(記憶もないので、確実である)。他の馬琴の随筆で所持するものや、国立国会図書館デジタルコレクションの検索システムでも探したが、かかってこない。熊楠自身、『馬琴などが』と言っているから、馬琴の著作ではないにしても、どちらか一方はあってよさそうなものだがな、とは思う。どこかで誰かの随筆で見つけたら、追記する。]

 小生、八年前、「三番」と云ふ所より、山を、二、三里踰《こ》えて、長野と云ふ所へ下《くだ》るに、暑氣の時故、丸裸になり、鐵槌(かなづち)一つと、蟲捕る網とを、左右に持ち、山頂より、まつしぐらに走り下る。跡へ、文吉と云ふ「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」に、頭に創を受けし、屈竟の木引《こび》き男、襦袢裸にて、小生の大なる採集ブリキ罐二箇を天秤棒(てんびんばう)で荷い、大聲、擧げて、追いかけ下る。熊野川と云ふ小字(こあざ)の婦女、二十人ばかり、田植しありしが、異樣の物、天より降《くだ》り來れりとて、泣き叫び、散亂す。小兒など、道に倒れ、起き上がること能はず。小生ら二人、かの人々、遁ぐるを見るに、畫卷《ゑまき》のごとくなる故、大《おほい》に興がり、何の事とも、氣づかず、益々、走り下る(其處《そのところ》、危險にて、岩石、常に崩れ下る故、足を止むれば、自分等(ら)、大怪我する也)。下まで降り著きて、田植中の樣子に氣付き、始めて、それと、我身を顧み、其の異態にあきれたり。それより、いつそのこと、其儘、長野村を通り、田邊近く迄も、其のまゝ來《きた》るに、村の人々、「狂人、二人、揃うて、來たれり。」と騷ぐ。これらは、人居近き處ゆゑ、是で、事、すみたれど、山中で、臆病な者に遇つたなら、必ず、「雷神に、遇つた。」とか、「山男に、逢うた。」とか言ふことゝ存候。現に、「山中で、雷神に逢うた。」など言ひ、「山男を、見た。」など言ふを聞くに、「パツチを、穿ち居りし。」とか、「ハンケチを、提《たづさ》へたり。」とか、胡論(うろん)[やぶちゃん注:ママ。普通は「胡亂」。]なこと、多し。小生自身も、「山男」如きものが、除夜の夕、一升德利に酒を入れ、深山の溪川《たにがは》を飛び越え走るを、見しことあり。實は、深山に籠り仕事する、炭燒きなり。その輩、里へ斬髮《ざんぱつ》に出るを見るに、丸で、狼《おほかみ》如き人相なり。先《まづ》は、右、申し上げ候云々。

[やぶちゃん注:「三番」不詳。山師らの用いるピークの符牒のような気がする。

「長野」現在も「長野」があるが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、もっと北の強力な山間地が含まれることが判る。なお、この戦前図と国土地理院図を見るに、前の「三番」と似ているものに、この長野と、「奇絶峡」という如何にもな名の溪谷を挟んで、西に「三星山」があるのが判る。これは「三番」の一候補としてもよいのではないか? とは思う。

「文吉」西野文吉。詳細事績不詳だが、南方熊楠の助手であった。

「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」「日露戦争」中の陸戦の一戦。サイト「日露戦争特別展Ⅱ」の「沙河会戦」を見られたい。明治三七(一九〇四)年十月八日から同月十八日までで、沙河(「しゃか」とも読む)周辺で発生した(リンク先に地図有り。奉天からやや南西位置)。『遼陽を占領・確保した日本軍にたいして、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させます。両軍は』以上の期間に『かけて、沙河付近で戦闘を展開し、双方に大きな人的損害がでました。以後北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、翌年明治』三十八年の『春まで対峙します』とあり、下方により詳細な解説があり、『沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12800人で、戦死者4099人・戦傷者16398人の損害をうけました。一方のロシア軍は、参加兵力221600人で、戦死者5084人・戦傷者3394人・行方不明者5868人の損害を出しています。日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げています』とあった。

「熊野川と云ふ小字(こあざ)」不詳。この附近で、この名というのは、不審である。熊野を名に持つ地名は、複数あるが、言わずもがな、ずっとここよりも遙か東である。ただ、この長野地区は東北から「熊野街道」の「中辺路」道が下っている(「ひなたGPS」参照)から、驚いた田植えの婦女が、街道の名を言ったのを熊楠が聞き違えたか、或いは、この近くに「馬我野(ばかの)」「上馬我野」の小字を認める(同前地図参照)ので、これが訛って、そう聞えた可能性もあるやも知れぬ。

「パツチを、穿ち居りし」これは、「バッチ」で、現行、一般には、絹で作られている「股引」を指す。であれば、この「穿ち」はおかしくないか? これでは「うがち」とした読めない。これ、「穿き」の誤記と私は思う。活字の「ち」は反転し、「き」の活字と錯覚するからである。

 なお、最後に言っておくと、以上が掲載された『郷土研究』は、編集者柳田國男の個人的都合によって、一ヶ月後の大正六(一九一七)年三月、一方的に休刊されてしまうのである。また、実際には、この一年前の大正五年十二月の龍燈伝説と耳塚の論争の中で、南方と柳の関係は修復不能な破局を迎えてはいたが、謂わば、この熊楠の「お前らの言っている「山男」は「山男」に非ず!」というのは、インキ臭く世間体を第一とする柳田國男に対する、「鼬の最後っ屁」ならぬ、「熊楠の柳田への脳天ゲロ吐き」の痛快な一発であったと言えるように私は思う。実際、これ以降、南方熊楠は、その死に至るまで、柳田國男とはほぼ絶縁状態となるのである。

〔(增)(大正十五年九月記) 一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」一卷一二七頁に、ボルネオのバラム崎で燕窠洞《えんくわどう》を觀た紀事あり。此所の番人は、奇貌の老翁で、土人が遠征中、遠い山中で擒《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]た者だ。言語、一向、土人(カヤン人)に通ぜず。されど、今は、少々、カヤン語を解し、予がボルネオで見た内、尤も淸楚たる家に住ませもらひおれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、甚だ滿足し居る樣子に見えた、とあり。一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」[やぶちゃん注:ルビは「選集」に拠った。]二の五〇四頁以下には、タヒチ島に、戰爭を怖れて失心し、山中に屛居する稀代な人間の記載、あり。尤も、眞の「山男」とも云《いふ》べきは、一八九一年牛津《オクスフォード》板[やぶちゃん注:読みは同前。]、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下に出たもので、髮・爪、長く、全身、毛を被り、栽培を知らず、洞に住《すん》で、蛇やトカゲを食ひ、礫と罟《あみ》と槍を以て、人を捕へ、食ふ、といふ。又、「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)に、いたく似たのは、南阿バストランドのトコロシで、これは、猴《さる》が、尾、なくて、人の手足あるようなもので、全身、黑く、黑毛、多く、日光と衣類を忌み、寒暑を頓著せず。人を病《やま》しめ、殺す抔、一切の惡事をなすそうだ[やぶちゃん注:ママ。](一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁。)。

[やぶちゃん注:『一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」』不詳。

「ボルネオのバラム崎」ここか。

「燕窠洞」中華料理の高級食材として知られる「燕の巣」が採れる洞窟であろう。アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族アナツバメ属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga などの数種の巣がそれに使われるが、なお、ウィキの「燕の巣」によれば、『アナツバメ類は』『東南アジア沿岸に生息』し、彼らは『極端に空中生活に適応したグループであり、繁殖期を除いて』、『ほとんど地表に降りることはない。睡眠も飛翔しながらとると言われるほどである。巣材も地表から集めるのではなく、空気中に漂っている鳥の羽毛などの塵埃を集め、これを唾液腺からの分泌物で固めて皿状の巣を作る。なかでもアナツバメ類の一部は、空中から採集した巣材をほとんど使わず、ほぼ全体が唾液腺の分泌物でできた巣を作る。海藻と唾液を混ぜて作った巣という俗説は正しくなく、海藻は基本的には含まれない』とあった。

「カヤン人」ダヤク族。ボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民のうち、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称異名の一つ。当該ウィキを参照されたい。

『一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」』不詳。

『一八九一年牛津《オクスフォード》板、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の「The Melanesians : studies in their anthropology and folklore 」(「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読める

『「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)』私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖」を参照されたい。

「南阿バストランドのトコロシ」「バストランド」はアフリカ南部、レソト王国の独立以前の名称。「トコロシ」は不詳。

『一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁』ミニー・マーティン(Minnie Martin)になる ‘Basutoland: Its Legends and Customs’。「Internet archive」で調べたところ、当該原本はあったが、当該頁画像が欠落してなかった。]

2023/05/20

「近代百物語」 巻二の三「箱根山幽靈酒屋」 /巻二~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

      三 箱根山幽靈酒屋(はこねやまゆうれいさかや)

 

Yuureisakaya1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

世(よ)に下戸(げこ)と

化物(ばけもの)は

なし

  と

 いふ

  醉(ゑひ)て

   心(こゝろ)の乱(みだ)れ

くるふぞ

  ばけ物の

    骨頂(こちてう[やぶちゃん注:ママ。]

   なるべし

《右の童子の台詞。》

さけのよい[やぶちゃん注:ママ。]

  さけのよい[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

《酔っ払いの台詞。》

そのさけ

 外へは

 やらぬ

 やらぬ

   *

後のものも、またしても本文内容とは一致を見ない戯画である。]

 

 瓢齋(ひようさい[やぶちゃん注:ママ。])といふ隱士あり。

 ふと、おもひたち、

「みちのくの名所、見ん。」

とて、都より、東海道に、かゝりくだりしに、「はこね」の山中にて、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、日、くれたり。

 みちを、ふみまどひて、人のかよはぬ所へ出でたり。

 されども、酒店(さかみせ)、あり。

『まづ、ひとつ、酒をのみて、道をも、たづね行くべし。』

と、おもひ、店に入りて、

「酒を、のむべし。」

と、いへば、一人の女《をんな》、うちへ入り、しばらくして、もち出でて、あたふ。

 其色(いろ)、はなはだ、紅(あか)くして、味はひ、甘美なり。

 すでに、酒を、皆、のみて、

「今、一《ひと》てうし、もち來るべし。」

と、いふに、女、泣いて、いはく、

「又、酒を、もとめ給ふまじ。われ、世にありしとき、はなはだ、おごりて、日々に酒をのみ、世のついへを知らざりし。此ゆへに、死して、今、此むくひを、うく。酒を買ふ人あれば、我が身のうちの血を、しぼりて、これを、うる。其くるしさを、あわれみ[やぶちゃん注:ママ。]たまへ。」

と、いふに、瓢齋、おどろきおそれて、はしり出して、やうやう、本みちに出でたれば、まだ、日は、たかし。

 人に、此事をかたるに、其所を知るもの、なかりし、となり。

 

Yuureisakaya2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

酒(さけ)を吞(のみ)て

 能(よき)ほど

  有べし

米(こめ)は

 人を

 養(やしの)ふ物

  なるを

 無益に(むゑき[やぶちゃん注:ママ。])に

  ついやす[やぶちゃん注:ママ。]

       

 天のとがめ

 あるへし

《上の男の台詞。左手の傍ら。》

たるとは

 つらいぞ

《下の男二人のどちらかの台詞。右下方。》]

なむさん

ばけ

 たり

《樽の化け物の口の前の台詞。》

酒を

くらは

 さふ[やぶちゃん注:ママ。]

《左下の盃の化け物の台詞。》

おほい

 おほい

   *]

 

二之巻終

「近代百物語」 巻二の二「貪慾心が菩提のはじまり」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

      二 貪慾心が菩提のはじまり

 

 橫死するもの、皆、慾より出でずといふ事、なし。

 おのれが罪、おのれを責む。世をも、人をも、うらむまじ。

 善惡ともに、身よりつくり、天、これを賞罰す。

 其よくを、つゝしむ時は、橫難(わうなん)の災(さい)は、まぬがるべし。

 

Sumou

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

欲(よく)といふ化物(ばけもの)こそ

世におそ

ろしき物(もの)

なれ是(これ)の

變(へん)じえさま

さまのさつくり

こと變化(へんげ)をなす

        こと

 すさまし

    あれ

《持ち上げられた刀豆銀の台詞。》

これは

かな

 はぬ

《持ち上げている小判の台詞。左足の脇。》

これわい

    な

《一本足の行司の足下。》

 すまふ

   *

またしても、この幅は本文に付随している感じではない。]

 

 今はむかし、伏見の里七瀨川(なゝせがは)のかたほとりに、大津屋六兵衞とて、菜(な)・大こんなど、うりありき、あるひは、飛きやく、又は、煤(すゝ)はき、葬送のちやうちん持ち、あると、あらゆる、かせぎなりしが、女房は、「おまつ」とて、あたりとなりの買物づかひ、芝居の供に、やとはれなどして、貧しくゝらす夫婦ありしが、しだひに、身上(しんしやう)あつくなりて、家屋しきなど、買ひもとめ、金銀、よほど、取りさばき、家質(かじち)など、かし、商買、手ひろく、不自由なる事なき身となりしが、六兵衞、五十一歲なれども、一子(し)もなくて、これを歎けども、そのかひもなく、すぎ行きける。

[やぶちゃん注:「伏見の里七瀨川」現在の京都府京都市伏見区竹田七瀬川町(たけだななせがわちょう:グーグル・マップ・データ)。]

 そもそも、此六兵衞夫婦が、貧窮の身の、今のごとく繁榮せし事、「おまつ」が强慾無道より、取りあつめたる金銀なり。

 まづ、六兵衞妻、まづしきとき、近所にやとひて、よろづの物を買ひにやれば、その代物(しろもの)の高(たか)に應じて、二、三錢より、あるひは、十錢、それそれに、かすめ取り、縫物にやとはるれば、中綿・糸など、ぬすみ取り、往來するにも氣をつけて、しらぬ人の家へ立ちより、

「たゞ今、道にて、犬におどされ、これまで、にげて參りました。かへりにも、また、かみ付きましよ。御無《ごむ》しんな事なれども、割木(わり《き》)、一本、下さりませ。おどしのために、いたしたい。」[やぶちゃん注:「御無しんな事なれども」「無しん」は「無心」。「そうした御意志は、一向、おありにならないことではありましょうが」の意。]

と、人の心のつかぬ盜み、我が家よりは、尻(しり)きれ草履(ざうり)、みちにて、餘所(よそ)の中場(《うち》にわ[やぶちゃん注:ママ。])ながめ、鹽目(しほめ)のよき草履あれば、何くはぬ顏つきにて、

「此あたりへ、あとの月《つき》、宿(やど)がへして參られました『玉や五兵衞』と申す人は、此お長屋には、御ざりませぬか。」

と、いふうちに、そつと、はきかへ、又は、つかひに、やとはれゆくにも、心やすき出入りの家へ、五、六けんも立《たち》よりて、

「寺參りに出ましたが、近所の子たちへ、土產にせんと、まんぢう買ひによりましたれば、わたくしとした事が、いつの間にやら、はな紙、おとし、手に持ちても、かへられませず。其はな紙、二、三枚、おくれなされ。」[やぶちゃん注:「はな紙」ここは「財布」のこと。数枚の鐚銭(びたせん)を所望しているのである。]

と、手を出だせば、誰(たれ)ともに、氣のつかぬ所へ、付けこむ事なれば、

「それは、御なんぎ。お心やすきことや。」

とて、四、五枚、やれば、

「これは、これは、わりない御無しん申しまし、おかたじけなふ、ござります。」

と、門(かど)ぐちへ出て、胸算用(むなざん《よう》)、五軒で、たしかに十、一、二錢。

 油を、たのめば、一升で、一合ばかり、我がものに。

[やぶちゃん注:「わりない」「理無い」。道理に合わない、理屈が通らぬ。「無しん」同じ「無心」であるが、ここは「人に金品をねだること」を指す。]

 客ある家より、たのみにくれば、

『これは、せんぎならぬとき。』

と、一升で、二合も、かすめ、その外、醬油・茶にいたるまで、無事《ぶじ》じや、とをさぬ、大慾しん。

[やぶちゃん注:「せんぎならぬとき」「詮議ならぬ時」。客に即座に出すものであるから、いちいち、その量を調べたりする暇はないから、誤魔化すに絶好の機会だ、という意。]

 なかんづく、誰(たれ)にか、習ひし、「おろし藥」の方(はう)をおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]、くすりを合せて、賣り、ひろめ、高値(かうじき)に、代銀、うけとり、古今無双のどんよくより、つくりあげたり、今の身上《しんしやう》。

[やぶちゃん注:「おろし藥」堕胎薬。]

 ある夜、六兵衞夫婦のもの、いつものごとく臥(ふ)したりしに、牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼、來たり、

「六兵衞妻、たしかに聞け。閣魔王の仰せあり。これへ、出でよ。」

と、よばゝれば、

「何事やらん。」

と出でけるに、鐵(くろがね)の盤(はん)をすへ、

「いそぎ、これへ、あがれよ。」

と、手を取りて、引きあぐれば、何心なく、乘りうつれば、手とり、足とり、引きたをし[やぶちゃん注:ママ。]、上より、きびしく、盤をのせ、

「なんぢが罪科(つみとが)、いふにおよばず。おもひしれ。」

と、いふまゝに、くろがねの棒をもち、

「エイ。」

と、いふて、締めければ、骨は、みぢんに、おしくだけ、脂(あぶら)は、ながれて、瀧のごとく、

「あらくるし、たへがたや、」

と、もだへ、さけぶありさまを、六兵衞、見るに、痛はしく、

「何とぞ、これを助けん。」

と、走りよれば、あしもとより、俄(にわか)に、火焰(くはゑん)、もへあがり、只、くるしみの聲のみ聞へて、姿も見へねば、せんかたなく、むねも張りさく、其かなしさに、夢はやぶれて、側(そば)にふしたる「おまつ」を見れば、手あしを、ひろげて、くるしき息《いき》ざし、六兵衞、急に、だきおこし、

「夢はし見つるか、氣を、つけよ。」

と、水など、用ひて、正氣にかへれど、夫《をつと》へ恥ぢて、かたらねば、夫も遠慮し、たづねもせず。

[やぶちゃん注:「夢はし」の「し」は強意の副助詞。]

 とやかくとする中《うち》に、夜《よ》は、ほのぼのと、あけわたり、夫は家業に取りかゝれば、「おまつ」も世事(せじ)に取りまぎれ、夢もわすれて、其日も、くれ、いつものごとく、ふしけるに、また、前の夜にかはらぬ夢、それよりは、うちつゞき、十日ばかりも每夜(まいや)のせめに、心身(しんしん)つかれ、おとろへしかば、醫藥(いやく)をつくせど、しるしも、なし。

 

Daibutu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

地(ぢ)ごく極乐(こくらく)

    遠(とを[やぶちゃん注:ママ。])きに

 あらず

  見る事

 恐(おそ)れ

   ずんば

 後(のちの)

  悔(くやみ)

 近

  かるへ

  し

《殿の手前(下方)。》

大きな

 もの

  じや

《堂の階段を上っている参詣人の台詞。左から右へ。》

      ふ[やぶちゃん注:ママ。]

    はいら

ごくろさん

   *

最後の三行は自信なし。まあ、意味は通るが。なお、右手の「もちや」に「大佛」とあり、大仏殿の形状から、奈良の東大寺らしい。]

 

 「おまつ」は、一ねん發起して、なみだをながし、夫にむかひ、

「今般(このたび)のびやう氣のしな、醫術・祈禱のちからによつて、ほんふくすべき事には、あらず。みな、これ、我が身の惡事のつもり。死するいのちは、おし[やぶちゃん注:ママ。]からねど、ながく、地獄におち入りて、苦患(くげん)をうけん、おそろしさよ。すぎしころより、うちつゞき、かやうかやうの夢のせめ、身におぼへある事なれば、かなはぬ事とはおもへども、今より、こゝろを、ひるがへし、佛道にこゝろざし、諸こくの靈佛靈社をめぐり、罪(つみ)をも、たすかり申したし。今日《けふ》より、わが身に、いとまを、たべ。」

と、ふししづみ、なげきければ、六兵衞も、なみだながら、

「これまでは、其方が、はぢなん事を、おしはかり、しらぬがほして居《ゐ》たりしが、われも、かはらぬゆめの告げ。これも、ひとへに、『夫婦のもの、佛所にみちびきたまはん。』との、彌陀、方便(《はう》べん)の慈悲なれば、われも、ともに。」

と、もとゞり、おしきり、家財、のこらず、家僕(けらい)につかはし、すぐに旅路におもむきて、四國・西(さい)こく・諸こくの靈場靈佛とだに、聞きおよべば、あるひは、護摩堂を、こんりうし、永代燈明(えいたいとうみやう)、きしんして、その外、貧寺(ひんじ)の破そんを修造(しゆぞう[やぶちゃん注:ママ。])し、まづしきものには、金銀をあたへ、心のまゝに善事(ぜんじ)をなして、「おまつ」は信州善光寺のふもとに死すれば、六兵衞も、また、その所に、いほりを、もとめ、一生、ねんぶつ、おこたりなく唱へて、うき世をすごしけるとぞ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八二番 狐の報恩

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「わかみづ」と読む。]

 

   八二番 狐の報恩

 

 或所に爺と婆があつたが、家が貧乏で、爺が每日山へ行つて柴刈りをして、それを町に持つて行つて、賣つて、其日其日の生計(クラシ)を立てゝ居た。或日爺がいつものやうに山へ行くと、村の童衆(ワラシ)どア三人で一匹の狐を捕へて半殺しにして責檻《せつかん》してゐた。爺はそれを見て哀れに思つて、ぢエぢエ童衆だちどやえ、何して居れヤ、生物(イキモン)をそんなひどい目に遭はせるもんでねえ。それよりも俺に賣らねえかと言つて、一人に百文宛《づつ》錢を與へた。すると童衆どア喜んで、ほんだらこの狐ア爺樣さケツからと言つて、狐の首に結び著けた繩ごと爺に渡した。爺はあゝめんこ共(ド)だと言つて其狐を曳いて山の方へ連れて行つた。そしてお前は何處の山の狐だか知らないが、これから晝日中(ヒルヒナカ)などに村屋《むらや》近くに出はるな。二度とあんな童衆どアに捕へられないやうに氣をつけろやエ。ほんだら、ささ早く自分の穴さ歸れ々々と言つて聽かせて、そろツと小柴立ちの中へ放してやつた。

[やぶちゃん注:「ぢエぢエ」単なる呼びかけ。「五四番 蛇の聟」の「其の二」の私の「ヂエヂエ」の注を参照されたい。]

 其次ぎの日、爺が山へ行くと、昨日の狐が出て來て、爺樣々々おら昨日は爺樣のおかげで危い生命(イノチ)を助けられて何ともありがたかつたまツちやそれで何とかしておらア爺樣さ御恩返しをしたいから、爺樣に望み事があれば、何でも言つてケ申(モ)せと言つた。爺はそれを聽いて、ホホウお前は昨日の狐であつたのか、何も俺はお前からお恩返しをして貰ふべと思つて、お前を助けたのではない。ただお前がモゾかつた[やぶちゃん注:「可哀そうだった」。]から、其で助けたのだから、御恩返しも何もいらない。畜生の身でありながらお前がさう言つてくれるので、はア澤山だ。それよりもこんな所へ出て居《ゐ》て、又村の童衆ドなどに見つけられては事だから、早く穴さ歸れと言ふと、狐は淚を流して爺に摺《す》り寄り、爺樣々々それでは斯《か》うしてゲ、丁度此下村のお寺では、釜が無くて困つて居るから、俺が釜に化けます。爺樣は少々重かべけれど、其釜を持つて行つて和尙樣さ賣つて金を儲けてケ申《も》さい。よいか爺樣と言つて、狐は尻尾を卷いて、くるくるツと體を三遍𢌞《まは》すと、直きに立派な唐銅(カラカネ)の釜になつた。爺が緣《ふち》を叩いて見れば、ゴオンといい金鳴《かねな》りがする。かうなつて見れば、爺も其の儘山に棄てて置く譯にも行かぬから、寺へ擔《かつ》いで持つて行つた。そして此釜は昔の人達(先祖)が買つて置いた物だども、賣りたいと云ふと、寺の和尙樣は一目見て慾しくなり、少し高いども、之れで負けとけと言つて、金を三兩出して買つた。爺は今まで見たことのない大金をふところに入れて喜んで家に歸つた。

 和尙は氣に入つた釜を買つて喜んで、小僧々々この釜によく砂をかけて磨いて置けやい。明日は竈造(カマヅク)りを賴んで來て、竃造りをすべえと言つた。小僧は釜を背戶《せど》の川戶(カド)へ轉がして行つて、砂をかけてごしごし磨くと、釜が聲を出して、小僧痛いぞ、小僧痛いぞと言ふ。小僧は魂消《たまげ》て庫裡《くり》へ駈け込んで和尙樣し和尙樣しあの釜が物を言ひンすと言ふと、和尙は本統[やぶちゃん注:ママ。]のことゝは思はぬから、何《なに》それは釜の鳴音《なるおと》が、お前サあう聽へたべたら、よい釜と謂ふもんは鳴音までが違ふもんだ。ええからほんだら庫裡さ轉がして來て置けと言つた。小僧は怪しみながら和尙の言ふ通りに、また川端(カバタ)から轉がして來て庫裡に置くと、其夜の中《うち》に釜は何處へどうなつたか消え失せてしまつた。和尙はどうもあの釜はあんまりよい釜だつたから、夜間(ヨマ)のうちに盜人に盜まれたと、後々までも口惜しがつて居た。

 爺はそんなことは夢にも知らないから、其次の日も山へ行くと、昨日の狐がまた來て居て、爺樣お早ヤがんす。昨日はあれからお寺で小僧に砂をかけられて、ごしごし磨かれて隨分えらい目に遭つた。今日は俺が爺樣の娘になるから、爺樣はこれから町さ行つて、櫛《くし》笄《かうがい》それから帶だの手拭《てぬぐひ》だの前振りコ足袋《たび》と、斯う買つて來てケてがんせ。さうしたら俺が美しい娘になるから、爺樣は町の女郞屋に連れて行つて、うんと高く賣りつけてゲ。さあさあ、早く々々と言はれて、爺はその足で町へ行つて、狐の言ふ通りな品物をユエて(求めて)また山に歸つて來た。狐は待つて居て、爺樣早かつたます、俺ア皆氣に入つた物ばかりで面白い。それではこれから姉樣になるから見てクナさいと言つて、くるくるツと三遍𢌞つて、綺麗な姉樣になつた。爺はそれを連れて、町の遊女屋へ行つて、これが俺ア娘だから買つてケながんすかと訊くと、旦那は欲しがつて、金を百兩出して爺に渡した。爺はその金袋を持つて家に歸つた。

[やぶちゃん注:「前振りコ」少年や女性が、髪の毛の額の上の部分を、別に束ねたもの。額髪(ぬかがみ・ひたいがみ)。向髪(むこうがみ)のことか。]

 女郞屋ではまた其娘が大層流行(ハヤ)つて、旦那はうんと金儲けをした。翌年の節句の日に、娘は旦那の處へ行つて、私は此所へ來てから、一度も里へ歸つたことがないから、歸つて兩親に逢つて來たいます。一目の暇《いとま》を貰いたがんすと言ふと、旦那もほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にさうだと思つて、手土產などをどつさり持たせて娘を里へ歸した。ところが娘は其れつきり女郞屋へは歸つて來なかつた。旦那の方でも、あの娘では買つた金の幾層倍も儲けて居たから、女郞しようばいを厭(ヤ)んたくなつたら仕方がないと言つて尋ね人も出さなかつた。

 爺樣がまた或日山へ行つて居ると、又狐が出て來て、爺樣々々久しぶりだつたな。達者で居たますか、俺も町の女郞屋さ行つて體を疲れさせたからしばらく休んで居た。それで體加減もあらかたよくなつたから、もう一度爺樣さ恩顧《おんこ》送りたい。こんどは俺ア馬になるから何處でも遠土《ゑんど》の長者殿の所さ曳いて行つて賣つてゲ。併しこんどこそは俺も一生一度の爺樣サのつとめだから、わるくすると爺樣とはこれツきり遭はれないかも知れないから、さうしたら今日の日を俺の命日として、時々思ひ出して回向《ゑかう》しておくれヤンせ。さあそれでは馬になるからと言ふ。爺樣はやめろやめろ、もうお前には重重の世話になつて、昔とは變つて今日ではこの爺も何不自由のない生計向(クラシムキ)となつて居る。この上はアお前から何もして貰ひたくないと言つて居る隙《すき》に、もう狐は立派な靑馬になつて居た。爺樣も斯うなつては何とも仕方がないから、其馬を連れて遠土の長者殿へ行つて、百兩に賣つた。爺はまた其の金を持つて家に歸つた。

 靑馬になつた狐は、丁度其折テンマが告(ツ)がつて、大きな葛籠《つづら》を兩脇につけられて、其上に貴人を乘せて、長い々々峠路を越えて行つた。さうすると何と云つても根が小獸だから直ぐに精をきつて汗ばかり流して步けなくなつた。多勢《おほぜい》の男達はそれを見て、慣れない馬は、これこの通りだと言つてえらく責め責檻をした。狐はそのまゝ倒れたので、此馬は分らない分らないと言つて澤邊《さはべ》に棄て置いて、別の馬に貴人も荷物も移しつけて山越えをして行つた。狐の馬はみんなが其所を立ち去つた後で何處へ行つたものか二度と姿を現はさなかつた。

 爺は狐のお蔭で近鄕きつての福德長者樣となつた。それから狐の遺言《ゆいごん》を忘れないで、屋敷の内に立派な御堂を建てゝ祭つた。そしていつも月の十九日には爺婆して、御堂に行つて狐の後生《ごしやう》を祈つた。

  (村の古屋敷米藏爺樣から聽いた話の一。
   大正十一年十二月某日。)

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八一番 若水

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「わかみづ」と読む。]

 

      八一番 若  水

 

 昔或所に大層貧乏な男があつた。家は貧乏ではあつたが慈悲心が深くて、村の人達からも惡くは言はれなかつた。名前は若松と云ふ男だつた。

 若松は或年の年越の日、木を伐つたりなんかして貯(タ)めた僅かばかりの錢を持つて、年取仕度《としとりじたく》に町へ行つた。其途中の野原で子供等が狐を捕へて、ひどく責め折檻をして居るのを見て、性來慈悲の深い人なので、持合《もちあ》はせの錢を皆出して、兄達(アンコダチ)々々、この錢をやツから其狐を俺に賣つてくれと言つて、狐の生命乞《いのちご》ひをして抱いて行つて、子供等が見て居ない所で放して遣つた。そして錢が無くなつて、米も魚も買ふ事ができなくなつたから其の儘家へ還つた。

 元朝《がんたん》になつても食ふものが無かつたので、いろいろ考へたが良い考へも浮ばなかつた。米櫃をひつくり返して底を叩いて見ると、其所にやつと米粒が三粒ばかりこぼれ落ちた。若松はこれでも粥に煮てお正月樣に上げべと思つて、桶で水を汲んで來て大鍋をかけて炊いた。すると飯が大鍋いつぱひ[やぶちゃん注:ママ。]になつた。

 若松は正月中每朝每朝早くに起きて水を汲んで來ては大鍋に入れて、米の御飯炊いてめでたいお正月を過した。

 今でも其由來で家每《いへごと》で若水を汲むのだと謂ふのである。

  (栗橋《くりはし》村の口碑。この若松と云ふ名前
  が緣喜《えんぎ》がよいと云つて今でも方々に同名
  の男がある。菊池一雄氏の御報告の分の四。)

[やぶちゃん注:「若水」小学館「日本大百科全書」から引く。『元日早朝に初めてくむ水。初水』(はつみず)『ともいう。平安時代、宮中では、あらかじめ封じておいた生気(せいき)のある井戸から、主水司(もいとりのつかさ)が』、『立春早朝に若水をくみ、女房の手によって天皇の朝餉(あさげ)に奉った。その後、朝儀が廃れ、元旦』『早朝にくむ風が定着した。現行民間の若水は、年神祭』(としがみさい)『の祭主である年男が』、『未明に起き、「若水迎え」などと称して新調した柄杓(ひしゃく)と手桶(ておけ)を持って井戸や泉・川に行ってくんでくるもの。年神に供えたり、口をすすいだり、沸かして福茶などといって家族一同で飲んだり、雑煮(ぞうに)の支度に用いたりする。西日本にはくむのを主婦の役目にしている所があるが、何か隠された理由があると思われる。くむ作法としては、「福くむ、徳くむ、幸いくむ」「こがねの水くみます」などのめでたい唱え言をしたり、餅』『や洗い米を供えるなどが一般的であるが、秋田県などのように、丸餅を半分だけ井戸に入れ』、『残りを若水に入れて持ち帰ったり、九州南部のように、歯固(はがた)めの餅を若水桶に落として』、『表裏の返り方で年占いをするなど、所によって特色ある作法が守られている。愛知県北設楽(きたしたら)郡の一部には、このとき』、『井戸から小石を二つ拾ってきて、一年中』、『水甕(みずがめ)の底や茶釜』『に入れておく所があった。これら若水には、年中の邪気を払い幸いを招く力が認められていたが、同時に、古代の変若水(おちみず)の信仰のように』、『人を若返らせる力も期待されているのであろう。近年、水道の普及に伴い、若水をくむ風は各地で絶えようとしている』とある。

「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった旧村名。現在の釜石市栗林町橋野町に相当する(グーグル・マップ・データ)。釜石の北西の山間部である。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 柳の祝言

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は、引用が、あまりにもごちゃごちゃしているので、個人的にそこで改行し、読み易くした。漢文部は後に〔 〕で推定訓読を附した。

 なお、「選集」では、標題後の参照指示の内容を『桜井秀「柳の祝言」参照』と明示してある。この人物は風俗史家の桜井秀(しげる 明治一八(一八八五)年~昭和一七(一九四二)年)のことと思われる。当該ウィキによれば、『東京都出身。国学院卒』で、明治三九(一九〇六)『年、関保之助・宮本勢助らと、風俗史の研究会を結成』した。昭和三(一九二八)年、『「平安朝女装ノ史的研究」で』、『京都帝国大学文学博士』を授与され、『東京帝国大学史料編纂所員、宮内省図書寮御用掛など』を務め、『日本女子大学でも教えた』とあり、さらに『「俗信」という単語を初めて使用した研究者の』一『人と見られ』ているとあった。

 標題は「やなぎのしうげん」(やなぎのしゅうげん)。先に種明かしをしておくと、これは、正月の「詞始め」の目出度い慶事を指す。

 また、本文には崩し字型の約物が出る。これは、活字で示せないので、底本の画像を高解像度でダウン・ロードし、トリミングして示した。]

 

     柳 の 祝 言 (大正四年十月『鄕土硏究』第三卷第八號)

               (『鄕土硏究』二卷五號二八三頁參照)

 

 明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]六月大阪發行『有名無名』第二號に、選者不詳の寫本「歌俳百人集」を引いて、天保初《はじめ》頃[やぶちゃん注:天保は元年が一八三〇年で、天保十五年まで。]、二世歌川豐國名弘(なびろ)めの時、柳橋「大のし」の樓上で、其書の著者が、櫻川慈悲成《さくらがはじひなり》に手跡を乞ふとて扇子を出すと、

「靑柳に蝙蝠《かはほり》の飛びかうさまを畫《か》きて自賛に『靑柳は※1(まいらせそろ)に似たる哉 さればそのこと目出度※2』。」

[やぶちゃん注: 以下、底本画像から。

※1

Mawirasesoro

※2

Sahurahukoto

「※1」はルビごと採った。「※2」はルビはないが、「候͡と」(さふらふこと(事))の約物であろうか。

『柳橋「大のし」』両国柳橋の南の袂(たもと)にあった知られた料理茶屋。サイト「ジャパン・サーチ」のこちらで、歌川広重の「江戸高名會亭盡」(えどこうめいくわいていづくし)の「兩國柳橋 大のし」のまさに、その二階家が描かれ、しかもそこでは書画会が行われている最中である。

「櫻川慈悲成」(宝暦一二(一七六二)年~天保四(一八三三)年か天保一〇(一八三九)年か)は戯作者・落語家。本名は八尾大助。]

 此歌の意、年頃、解し難く思うて居つたが、嘉永三年[やぶちゃん注:一八五〇年。]の頃、本所瓦町(ほんじよかわらちやう)住居《ぢゆうきよ》、誠翁《せいをう》なる者の話に、

「禁中にて、每年、正月元日の詔(みことの)り始めに、皇后の言《いはく》、

『ゆの木の下の御事《おんこと》は。』

とのたまふ時、帝の、

『されば、其事、目出度候。』

と御挨拶遊ばす事、恒例なり、と云ふ。其故由(ゆゑよし)は知らねども、之を『詔《みことのり》の始め』と云ふ。又、洛中・洛外ともに、貴賤の人々、元旦の「詞始め」に夫婦共《とも》、淸服を著《ちやく》し、妻女、先づ、

『柳の下の御事は。』

と云ふ時、亭主、

『されば。その事、目出度候。』

と言終《いひをは》りて、屠蘇を飮み、雜煮を祝ひぬれば、其年、災《わざはひ》を遁《のが》ると言習《いひなら》はされ、禁中にては、「柚(ゆ)の木の下」、地下(ぢげ)にては「柳の下」と言習はす、との話にて、慈悲成の狂歌を發明したり。江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

と出づ。

[やぶちゃん注:「柚(ゆ)」双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos 当該ウィキによれば、中国の『中央および西域、揚子江上流の原産であると言われ』、『中国から日本へは平安時代初期には伝わったとみられ』、『各地に広まって栽培されている』。一方で、『日本の歴史書に』は『飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載がある』ともあった。]

 安政・萬延の交《かう》[やぶちゃん注:安政七年三月十八日(一八六〇年四月八日)に万延に改元された。]、紀藩江戶詰醫員故德田諄輔(じゆんすけ)氏(退役陸軍大佐正稔(せいねん)氏養父で、正稔氏は故本居豐頴(《もとをり》とよかい)博士の實弟)、將軍家茂《いへもち》公の病痾の事で、苫(とも)が島へ三年屛居せられた時、予の亡母、從ひ居りしに、每元旦、誰かが、

「柳の下の御事は。」

と、言ふと、

「されば、そのこと、目出度候。」

と主人が答へたと、每度、語られた。代々、江戶に住んだ人が、かかる祝儀を行ふを、和歌山生れで、大阪に數年居《をつ》た母が、珍しいことと思うて、特に話の種としたのだから、江戶でも、武家には、多少、行はれた事で、「歌俳百人集」に、

『江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

とは穿鑿の不足だらう。

[やぶちゃん注:「將軍家茂公の病痾」第十四代徳川家茂(元和歌山藩主。安政五(一八五八)年十月二十五日将軍就任)は第二次長州征伐のために、慶応元(一八六五)年三度目の上洛をし、大坂城に滞在(同年十月一日に朝廷に将軍職の辞表を提出し、江戸東帰を発表したが、同七日には正式に撤回している)していたが、翌慶応二年六月七日、長幕開戦となり、七月二十日、大坂城で脚気衝心のために亡くなっている(享年二十一(満二十歳))。

「苫(とも)が島」和歌山県和歌山市加太に属する友ヶ島群島の友ヶ島の別名らしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「屛居」藩主時代の担当医として、自ら引責蟄居したものか。]

 件《くだん》の二句の意は、詳《つまびら》かならぬが、何に致せ、木の種子が、芽を發せんとするを、「目出度(めでたい)」の意に取成《とりな》した者らしい。紀州日高郡由良(ゆら)村邊では、柚(ゆ)を、家近く樹(うふ)る[やぶちゃん注:ママ。]を忌み、その木で「すりこぎ」を作れば、ばけるといふ(一卷十二號七五四頁。これは榊(さかき)を人家に樹るを忌むと同格で、凡人には高過ぎた神異(しんゐ)の木と尊《たっつと》み憚《はばか》つての事で無かろうか。

[やぶちゃん注:「紀州日高郡由良(ゆら)村」現在の日高郡由良町(ゆらちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

〔(增)(大正十五年九月記) 「塵添壒囊抄《じんてんあいなうせう》」二、「東山往來《ひがしやまわうらい》」第廿四、並びに云く、『橘・柚等の九種の香果、始めて日本に入《はいつ》た時、天子も使者も共になく成《なつ》たから不言《ふげん》とす。』と。しかし、「江談抄《がうだんせう》」一に、内裏紫宸殿南庭云々、件橘樹地者、昔遷都以前橘本大夫宅也、枝條不改及天德之末〔『内裏、紫宸殿の南庭』云々、『件(くだん)の橘(たちばな)の樹(き)の地は、昔、遷都以前は橘本大夫《たいふ》の宅なり。枝條《えだ》、改まらず、天德の末に及べり。』〕。「拾芥抄」中末には、『此事、「天曆御記」に見ゆ。』とあり、以て、橘・柚等、外來の珍果は、尊貴の特占物で、凡民の栽え[やぶちゃん注:ママ。]食ふを忌《いん》だ者と知るべし。〕

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。「日本古典籍ビューア」のここ(第二巻の「四十九」「柑類不可植在家事」(柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])在家(さいけ)植(う)ゑべからざる事)で当該部が視認出来る。

「東山往來」平安末期、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書である「往来物」の古い一つ。

「橘」ミカン属タチバナ Citrus tachibana 。異名に「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」がある。当該ウィキによれば、『日本に古くから野生していた日本固有の』柑橘で、『本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ( C. nipponokoreana )があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(萩市に自生しているものは絶滅危惧IA類に指定され、国の天然記念物となっている)』。『静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の自生地が存在する』。二〇二一『年、タチバナは沖縄原産のタニブター( C. ryukyuensis )とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏、黄金柑などの日本産柑橘のルーツであることが』、『沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった』。以下は「文化」の項。『日本では固有の』柑橘『類で、実より花や常緑の葉が注目された』。松『などと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた』。記紀には、『垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では』「非時香菓」を『「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘』、『左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に』「古事記」に『登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない』。『奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を下賜し』、『橘氏が生まれた』。「古今和歌集」の夏の部の「詠み人知らず」の『「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以後、橘は懐旧の情、特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることにな』った、ともある。

「九種の香果」元禄一〇(一六九七)年に刊行された、板行物としては本邦最古の農業専門書である宮崎安貞著「農業全書」の「卷之八」(所持する岩波文庫版による)の「柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])には、『蜜橘(みかん)の類色々多し。柑(くねんぼ)、柚(ゆづ)、橙(だいだい)、包橘(かうじ)、枸櫞(ぶしゆかん)、金橘(きんかん)、此外、夏蜜橘、じやがたら、じやんぼ、すい柑子(かうじ)此等の類九種、漢土より取り來る事、日本紀に見えたり。』とある。「じやがたら」は「ジャガタラ蜜柑」で、朱欒(ザボン)の異名。「じやんぼ」「すい柑子」は不詳。また、「夏蜜橘」は信頼出来る論文を参看したところ、現在のナツミカンではないそうである。

「江談抄」平安後期の説話集で公卿で文人・学者であった大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の晩年の談話を、信西(藤原通憲)の実父である実兼(さねかね)が筆録したもの(一部に実兼以外の筆録も混じっている)。匡房の談話は有職故実・漢詩文・楽器などに関する知識、廷臣・詩人たちの逸話など、多岐に亙る。教授された知識の忘備を目的としているため、表現は簡略でしばしば不完全であり、体系を持たない。しかし、正統な学問や歴史の外縁にある秘事異伝をも積極的に取り上げており、院政期知識人の関心の向け方や、説話が口語りされる実態を窺うことが出来る。平安・鎌倉時代の古写本は、問答体をとどめて原本の姿を伝えるが、一部分しか伝存していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。訓読は所持する岩波「新日本古典文学大系」を参考にした。なお、その脚注では、ここに出る「橘本大夫」(「古事談」では『橘大夫』である)は『不詳』としつつ、「帝王編年記」の天徳四(九六〇)年三月二十日の条に、『小一条左大臣記云、橘本主秦保国也』とある。なお、本文も注も「橘本大夫」にはルビが振られていないので、安易に「たちばなほんたいふ」と読むことは控えた。

「天德の末に及べり」天徳は五年までであるが、天徳四年九月二十三日の夜、平安京遷都以来、初めて内裏が全焼している。しかしこの謂い方は、この橘の木は、辛うじて燃えずに余命を保ったこと(少なくとも一年間は)を意味しているようにも採れなくもない。ウィキの「右近橘」によれば、「天暦御記」に『よれば、もとは秦河勝の宅にあったのを、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間』()『まであったという』とあった。

「拾芥抄」本邦で中世に編纂された類書(百科事典)。全三巻。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「天曆御記」「村上天皇御記」「村上天皇宸記」とも呼ぶ。村上天皇の日記。元は三十巻あったと推定されるが、現在は散逸し、わずかに「延喜天暦御記抄」の中に一部分が伝わり、また天暦三(九四九)年)より康保四(九六七)年の間の逸文があるのみ。「宇多天皇御記」「醍醐天皇御記」とともに、本書も政務・儀式の先例を知る上で尊重され、「西宮記」・「北山抄」などの儀式書や、「小右記」などの日記にしばしば引用されている。これらの逸文を収集して『続々群書類従』・『列聖全集』・『増補史料大成』などに収めてある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 他方は知らず、西牟婁郡で、玄猪(ゐのこ)に「穀(こく)の神」を祭るに、必ず、柚(ゆ)を供(そな)ふ。故老の言に、

「柚(ゆ)の核(さね)は、皆、揃うて[やぶちゃん注:ママ。]發達し、大小、不同無し。因《よつ》て、『穀も此通り、一齊《いつせい》に實(みの)れ。』と祝ふ意ぢや。」

と。

 去《さる》冬、之を聞いた時、丁度、米國植物興產局植物生理學主任スヰングル氏から柚の種子(たね)を送つて欲《ほし》いと賴まれたので、夥しく柚實を採つて剖(さ)いて見ると、大小の差異は、無論、有つたが、諸他の同屬の種子程、甚《はなはだ》しく無かつた。兎に角、昔時《せきじ》、何か柚を目出度《めでたい》物としたので、

「柚の木の下の御事は。」

と詔り初めある由、言傳《いひつた》へたので有らう。柳が、民間信仰と、厚き關係あることは、櫻井君が書かるゝ由(さう)だから、今故(ことさ)らに說かずとして、一寸述ぶるは、「戰國策」に、夫楊、橫樹之則生、倒樹之則生、折而樹之又生〔夫(そ)れ、楊は、橫に之れを樹うれば、則ち、生(しやう)じ、倒(さかしま)に之れを樹うれば、則ち、生じ、折つて之れを樹うるも、又、生ず。〕と有る通り、楊柳の諸種は至つて芽を出し易い者故、柳を目出度いとしたのだらう。或は柚も芽を出し易いものかとも思へど、自宅に多く有りながら、未だ實驗せぬから何とも言へ無い。「易」の「大過卦」に枯楊生ㇾ稊、老夫得其女妻。〔枯楊、稊(ひこばへ)を生じ、老夫、其の女妻(ぢよさい)を得(う)。〕「大戴禮《だいたいれい》」に、『正月、柳稊、「稊」は「葉を發する」也。』と。匡房《まさふさ》の歌に、

「世々をへて絕えじとぞ思ふ春ごとに糸よりかくる靑柳の杜もり《》」

柳は、古く、正月に花ありとされたもので、李時珍が曰《いふ》た如く、春初、早く、つぼみある物、殊に幕府の事を「柳營」と稱する等より、正月の祝詞に用ひられたで有らう。「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》たと見えるが、誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ。歐州では、一汎に、柳を葬喪の木とし、悲しみの象徵とする(フォーカード「植物俚傳」五八六頁)。)

[やぶちゃん注:「戰國策」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(三行目以降)で、「易經」のそれも同じサイトのこの影印本(二行目)で校合した。

「スヰングル氏」アメリカの農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照されたい。

「大戴禮」中国の経書(けいしょ)。八十五編。そのうち、三十九編が現存。前漢の戴徳撰。漢代以前の諸儒学者の礼説を集成したもの。「大戴記」とも呼ぶ。

「匡房」大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は公卿で漢学者。治暦(じりゃく)三(一〇六七)年に東宮学士となり、後三条・白河・堀河天皇の学問上の師を務めた。のち参議・権中納言・大蔵卿などを歴任。正二位。著作に「江家次第」・「本朝神仙伝」などがある。

「李時珍が曰た如く」「木」部で「楊」「柳」のつく項目を縦覧したが、どの項を指しているのか、判らなかった。発見したら、追記する。

『「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》た』

「誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ」熊楠先生! 九十七年後の私が歌は見つけました!「藻塩草」(室町時代の連歌用語辞書。二十巻。宗碩(そうせき)著。永正一〇(一五一三)年頃成立)の「九」に「春薄」として載っています! 国立国会図書館デジタルコレクションの写本のここの右丁の一行目です! ただ、作者名は載っていません。歌もちょっと判読出来ません。

   *

□つ□の露にみたる春すゝき

□に(或いは「か」か)秋の風をみつくる

   *

『フォーカード「植物俚傳」五八六頁)』リチャード・フォルカード(Richard Folkard)の一八八四年刊の‘ Plant lore, legends, and lyrics ’ (「植物の伝承・伝説・歌詞」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、また、「Project Gutenberg」のこちらで、一括版で電子化されてもある(右にページ・ナンバー有り)。]

2023/05/19

大手拓次訳 「墓鬼」 シャルル・ボードレール / 岩波文庫原子朗編「大手拓次詩集」からのチョイス~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。

 これを以って底本からのチョイスを完遂した。]

 

 墓 鬼 シャルル・ボードレール

 

するどい刃物の突きのやうに

いたましい わたしの胸へはひつてきたお前、

惡魔のむれのやうに 恐恐(こはごは)しく

また おろかしく みえをつくつて

 

ふみにしられた わたしの心を

そのみの臥床(ふしど)と領土とにしようとやつてきたお前、

――罪の囚人(しうと)を鎖につなぐやうに

いつこくな遊(あそ)び人(にん)を うんぷてんぷの賭事(かけごと)に

 

だらけた醉(ゑ)ひどれを 酒德利(とつくり)に

蛆蟲(うじむし)を腐つた肉にたからせるやうに

わたしの縛(しば)りつけられた人非人(ひとでなし)、

――呪はれよ 詛(のろ)はれよ お前こそ!

 

わたしは 自由をとりもどさうと

手ばやの劍(けん)にたのみをかけた

また わたしの怯儒(よわみ)を救はうと

不義の毒藥にも 談(はな)しをかけた。

 

ああ! 毒藥もその劍も

憎憎(にくにく)と さげすむやうに わたしに言つた。

お前は 詛はれた奴隷(どれい)の身から

浮ばせてやるの ねうちもない、

 

弱蟲め!――その血みどろの國土(さかひ)から

やつと お前を解きはなしてやつたとて

またも お前の接吻で生きかへすだらう、

お前の墓鬼(はかおに)の その埋められた亡骸(なきがらを!』

 

[やぶちゃん注:「刃」「劍」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

 この原詩は詩集「悪の華」(‘ Les fleurs du mal ’)の冒頭のパートである‘ Spleen et Idéal ’(「憂鬱と理想」)の第三十一篇の‘ Le Vampire ’(ル・ヴァンピール:「吸血鬼」)である。所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『雜誌『兩世界評論』一八五五年六月一日號に發表。この時の表題は『ベアトリース』だつた。』とあり、例の『ジャンヌ・デュヴァル詩篇』であるとある。

 原詩を私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

                LE VAMPIRE

 

Toi qui, comme un coup de couteau,

Dans mon cœur plaintif es entrée,

Toi qui, forte comme un troupeau

De démons, vins, folle et parée,

 

De mon esprit humilié

Faire ton lit et ton domaine ;

― Infâme à qui je suis lié

Comme le forçat à la chaîne.

 

Comme au jeu le joueur têtu,

Comme à la bouteille l’ivrogne,

Comme aux vermines la charogne,

― Maudite, maudite sois-tu !

 

J’ai prié le glaive rapide

De conquérir ma liberté,

Et j'ai dit au poison perfide

De secourir ma lâcheté.

 

Hélas !  le poison et le glaive

M’ont pris en dédain et m’ont dit :

« Tu n'es pas digne qu’on t’enlève

A ton esclavage maudit,

 

Imbécile ! ― de son empire

Si nos efforts te délivraient,

Tes baisers ressusciteraient

Le cadavre de ton vampire ! »

 

   *

 最後に。

 私が底本の原子朗氏の「解説」中、激しく感動した末尾部分を引用して、終わりとする。

   《引用開始》

 以上で解説をおわるが、結びのことばとしていっておきたいことがある。口語自由詩を完成させたのは萩原朔太郎であるといった受け売りの意見を、平気で書いている本も世上には少なくない。朔太郎に先だち、朔太郎にも直接影響を与えた拓次のいち早い口語象徽詩の完成度の高さは、日本の象徴詩史の中においてばかりか、一般詩史の記述の中でも、あるいは近代日本語表現の歴史の記述の中でも、あるいはまたフランス文学受容史の中でも、ほとんど無視されるか、軽視されている。大手拓次は、少なくとも、そうしたマンネリズムのきらいのある詩史や文学史に一石も二石も投じる詩人であることを、何よりも彼の詩自身が物語っていよう。編者が解説中で必要以上に詩の成立年代にこだわったのも、彼の詩を時代にスライドさせて他の詩人を比較して読んでもらいたい、しかも時代をこえている彼の詩の特質を見てもらいたい、という意図からであった。

   《引用終了》]

「近代百物語」 巻二の一「矢つぼを遁れし狐の妖怪」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

近代百物語巻二

 

       一 矢つぼを遁れし狐の妖怪

 今はむかし、足利尊氏の幕下に、栗塚八郞景綱とて、大膽無敵の士(さむらひ)ありしが、一とせ、新田・楠木とたゝかふて、尊氏、大に、はいぼくし、西國におちられしとき、此栗塚も、したがひけるが、備後の沖にて、天氣、かはり、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])の大雨、しやぢくをながし、鞘(とも)うらに、船、こぎよせ、しばらく、晴(はれ)をまちし所に、其夜に、あめは、やみたれども、風、逆(さか)ひて、出ふねもなく、五、七日も滯留せしが、たゞさへ、旅はうきものなるに、落人(おちうど)の身は、いやましに、古鄕(こきやう)のかたの、なつかしく、終日(ひねもす)、酒宴に日をおくる。

 景綱の祕藏の家僕に、和田伴内(わだばんない)といふものあり、大兵(だいひやう)の强弓(つよゆみ)ひき、翔鳥(かけとり)などを射させて、百(もゝ)に百矢をはづさぬ達人、

「もろこしの養由(やうゆう)にも、おとるまじ。」

とぞ、讃美せり。

[やぶちゃん注:「栗塚八郞景綱」不詳。

「和田伴内」不詳。

「鞘(とも)うら」現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾である「鞆の浦(とものうら)」。ここ(グーグル・マップ・データ)。尊氏は、この時の敗北から反撃に転じ、建武三(一三三六)年、「多々良浜の戦い」で勝利し、京に上る途中、この地で光厳上皇より「新田義貞追討」の院宣を受けている。]

 ある日、景綱伴内に、いひけるは、

「汝、明日、陸(くが)にあがり、何なりとも、射て、歸れ。此ほどの、つれづれを、なぐさまん。」

と、ありければ、

「かしこまり候。」

とて、翌朝未明に、弓と矢、引きさげ、家僕(けらい)もつれず、たゞ一人、蔀山(しとみやま)にわけ入りて、

『鹿なりと、鳥なりと一矢(や)。』

と思ひ、あたりに、まなこを、くばれども、雀一羽も、手に入らず。

[やぶちゃん注:「蔀山」現在の広島県福山市西深津町に蔀山稲生神社(伝・足利義昭居館跡)があり、その後背部に蔵王山を始めとする丘陵地があるので、その辺りであろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ても、地名としての以上の山麓の平地の地名として「蔀山」はあるが、山としての蔀山は見当たらない。]

 なを[やぶちゃん注:ママ。]、山ふかく入る所に、三十ばかりと見へつる女の、その長(たけ)尺[やぶちゃん注:二・四二メートル。]ばかりなりしが、伴内を見て、あゆみより、

「汝、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝに來たれる。はやく、かへりて、主人へ告げよ。此山に殺生せば、景綱に、さいなん、あらん。」

と、いひすて、ゆくを、伴内、引きとめ、

「何奴(なにやつ)なれば、存(ぞん)ぐはい、千(せん)ばん。誰(たれ)にたのまれ、かく、いふぞ。につくき奴。」

と、ぬき討ちに切るぞとおもひ[やぶちゃん注:ママ。]ば、たちまち、うせて、はるか、むかふの岩かどに、

「すつく」

と立ちて、あざ笑ふ。

 伴内も、たまりかね、

「目に物見せん。」

といふまゝに、持ちたる弓と矢、うちつがひ、能引(よつ《ぴ》)いて、

「ひやう」

ど、射ければ、其の矢を、つかんで、投げかへす。

 伴内が額(ひたい[やぶちゃん注:ママ。])のまん中、一文字にさす矢なれば、身をしづめて、矢つぼをはづれ、又、

「射とめん。」

と、

「吃(きつ)」

と見れば、ふしぎや、霧、ふり、闇夜(あんや)のごとし。

 さすがの伴内、ぜんごを忘(ぼう)し、こゝよ、かしこと、さまよひて、やうやうと、道を求め、いそぎかへりて、景綱に、

「かく。」

と告ぐれば、ひざ、立てなをし[やぶちゃん注:ママ。]

「おもしろし。我、此ほどの旅路の鬱氣(うつき)、山狩りして、散ぜん。」

と、宵より、手勢に觸(ふれ)きかせ、まだ、夜のうちに、手くばりして、千々《ちぢ》に得物の鎗・長刀(なぎなた)、景綱、いさんで、大音(《だい》おん)、あげ、

「狐、たぬきは、いふにおよばす[やぶちゃん注:ママ。]。眼にだに、さへぎらば、鼠も、むしも、ふみころせ。」

と、一度に

「どつ」

と山に入り、十町ばかりあゆみしが、鳥のこゑ、かすかに聞へ、松ふく風のおとのみにて、兎一疋いでばこそ、景綱、無興(ぶけう)し、

「くち借し。」

と、いよいよ、ふかくわけ入るところに、狐一疋、狩り出だし、矢ころになれば、景綱、いかつて、

「おのれ、きのふの返禮に、此の雁股(かりまた)を、いたゞけ。」

と、きつて、はなてば、射ぞんじて、狐は、はるかににげてゆく。

 

Kitunenoyoukai1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

諸〻(もろもろ)の

けだもの

  中(なか)に

きつね

 など

  あやし

    きを

     なすの

多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])き

   物なし

 中にも

    官職(くわんしよく)あり

れいげん[やぶちゃん注:「靈驗」。]を

  あらはすも

《右下方に続く》

なきに

 あら

   す[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]

《景綱らしき人物の右足の部分に彼の台詞》

ゆるしは

  せぬぞ

《左中段の二人の下人の後に》

まつげを

 こするな

   *

一般には、狐に騙されないようにする咒(まじな)い眉毛に唾して、眉手をくっ付けて数えられないようにすると、騙されない、というのが普通だから、半可通の下人の一人が睫毛をこすっているので、同僚が、その誤りを正したものか。]

 

 景綱、こらへず、あし場も見ず、追(お)つめ、追つめ、射けれども、一と矢もあたらず。他矢(あだ《や》)となれば、景綱、いかりのがんしよくにて、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]も、おふて行く。

 近習の士、これを見て、あとにつゞひて走りしが、また、矢ごろにもなりしかば、景綱、すかさず、

「ひやう」

と射る。

 鳴彈(つるおと)ともに、何かはしらず、石火矢(いしびや)を、はなつがごとく、山谷(さんこく)、一度に鳴動して、雲・きり、おほひて、目さすも、しれず。

 

Kitunenoyoukai2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

狐(きつね)は

 陰(いん)に

   して

化(ばけ)ること多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])く

 女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])に

  して

 男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])を

 たぶら

  かす

 となり

《中段少し下左。下男の台詞であろう。》

おそろ

  しい

 じや

   *]

 

 しばらくありて、晴れ間をみれば、きのふの女、あらはれ出で、

「なんぢ、逆賊尊氏に屬(ぞく)して、皇都を犯したてまつり、楠木・新田に追つ立てられ、此の所に、おち來たり、我が山に入り、殺生す。其罪、はなはだ、輕からず。はやく、善心に立ちかへり、官軍に降參して、粉骨をつくすべし。背(そむ)かば、たちまち、身を滅(ほろぼ)し、家名を、ながく、斷絕せん。其のしるし、これ、見よ。」

と、いふかとおもへば、雲、きり、おほひ、ぜんご・左右も見へばこそ、

「あら、心得ず。」

と、柄(つか)に手をかけ、ためらふうち、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、雲、霧、

「さつ」

と、晴るれば、景綱がたのみし「士(さむらひ)四天王」といわれ[やぶちゃん注:ママ。]し勇者(ゆうしや)、伴内を、さきとして、鷺坂(さぎさか)一平、志賀久四郞、安藤彥七、四人のもの、みぢんにくだけて、死しければ、景綱、これに、おそれをなし、

「いざ。まづ、皆々、しりぞくべし。」

と、殘る士卒(しそつ)を引きつれて、晚(くれ)におよびて、船に、かへれり。

 げにも、前表(ぜんひやう)のことばにたがはず、「湊川のたゝかひ」に、景綱は、步(ふ)に、くび、とられ、男子、二人、ありけるが、景綱がうたれし日、二人ともに、血を吐きて、卽座の急死に、あと絕へしと、まことに無双(ぶそう[やぶちゃん注:ママ。])の怪なりと、今につたへし物かたり。

[やぶちゃん注:「鷺坂一平」「志賀久四郞」「安藤彥七」全員不詳。

「步(ふ)」身分の低い徒立(かちだち)の無名の歩兵。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七九番 獺と狐(全三話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   八〇番 獺と狐 (其の一)

 

 或時、獺と狐とが路で行會《ゆきあ》つた。狐が先に聲をかけて、ざいざい獺モラヒどの、よい所で行會つた。實はこれからお前の所さ話しに行くところだつたと言つた。正直な獺は、さうか何か用でもあつたかと云ふと、狐は、何別段の用事でも無いが、これから冬の夜長にもなることだから、互に呼ばれ合ひツこをすべえと思つてさと云ふ。獺も同意した。そこで狐が、それでは獺どのが先だぜと云つた。初めの晚は獺の番前であつたので、獺は寒中川の中に入つていろいろな雜魚《ざこ》を捕つて、狐のために多くの御馳走をこしらへた。狐は招(ヨ)ばれて來て御馳走を鱈腹(タラフク)詰め込んで喜んで歸つた。

[やぶちゃん注:「ざいざい」「あらあら」の意か。]

 次の晚は狐の番であつた。獺は彼奴《きやつ》のはきつと山の物で、兎汁でも食はせるかなアと思つて行くと、狐の家ではさつぱり何の氣振《けぶ》りもない。獺は怪(オカ)しく思つて、ざいざい狐モラヒ、俺はハア來たぜと云つて入つて行つた。すると狐は一向返事もしないで、一生懸命に上の方ばかり見て默つて居る。獺が何《なじよ》したと訊くと、狐はやつと口をきいて、獺モライ獺モライ、申譯《まをしわけ》がないが實ア俺アところさ今夜、空守役(ソラマモリヤク)を告《つ》がつて、それで俺ア斯《か》うして、上の方ばかり見て居ねばならないから、今夜のところは許して還つてケモサイと云つた。獺はさう云はれて、狐のところに今迄聞いたこともない、妙な役割が告がつたものだと思つて家へ還つた。

 其次の晚、また獺は狐の家へ出かけた。ざいざい狐モライ、今夜も來たゼと云ふと、狐はやはり昨夜のやうに默つて今度は下の方ばかり見詰めて居た。獺が何したと訊くと、狐は顏も上げないで、獺モライ、今夜も運惡く地守役(ヂマブリ)が告(ツ)がつてナ、俺は斯うして居る。ザザ本當に申譯が無いども、今夜も歸つてケモサイと云つた。そこでいくら正直の獺もこれはしたりと氣がついたが、其儘何知らぬ振りして家に歸つた[やぶちゃん注:底本は「云つた」であるが、「ちくま文庫」版を参考にして訂した。]。

 ところが其次の晚、狐がひよつくり獺の所へやつて來た。獺モライどの居たか、實は今夜ソチを招(ヨ)びたいと思つたけれども、仕度がして無いのだ。これから魚捕りにでも行くべえと思ふが、あれは如何《どう》すれば捕れるものか、俺に敎《をしへ》てケ申せやと云ふ。獺は脇面(ソツポ)向いて、フン其れ位のことオ狐モライがまだ知らなかつたのか、そんなことア何も譯が無いさ。スパレル晚、長者どんの川戶(カド)[やぶちゃん注:川岸。]さ行つて、ヲツペ(尾)を川の水に浸して居れば、チヨロチヨロと魚が一匹づつ來て、ヲツペさ縋《から》み著く、さう云ふ魚をうんとヲツペさ縋み著かせておいて、いゝ加減の時を見計《みはから》つて、ソロツとヲツペを引上げて家さ持つて來るんだと云ふと、狐はフヽン其れだけなら知つて居たやいと言つて、錄《ろく》すツぽう聞く風もせず、プツと置屁《おきへ》して、笑つてどんどん走《は》せて行つた。

 けれども心の中では、獺の奴ア馬鹿者だなア、何でもかんでも祕傳ツコをぶちまけるウ、さう思つて可笑しくて、小鼻解《こばなと》きを顰《しか》めて笑ひながら長者どんの川戶へ行つて尾を水に浸して居《を》つた。するとザイ(薄氷)がカラカラ、カラツと流れて來ては、ぴたツと尾にくツつく。カラツカラと流れて來ては、ぴたツと尾にくツつく。狐はははアこれはみんな魚だなア、果報者々々々と喜んで、時々尻尾を水から引き上げては、その分量を計つて見たりして居た。そして段々重くなつたが慾を張つて、もう少し、もう少しと思つて、ぢつと我慢をして居た。

 そのうちに夜が明けた。川面《かはも》の一面に氷が張り切つた。狐の尻尾も氷と一緖に張りくわつてしまつた。狐は考へた。これは事だア、あの早起きの犬の奴か、人間に見付けられたら事が起る。今の中《うち》に魚をさげて家さ歸つた方がよい。そこで尻尾を持上げやうとしたが、一分《いちぶ》も氷から拔け上らばこそ、あれアと思つて、ひどく狼狽(アハ)てゝ居た。其所へ長者どんの嫁子樣《あねこさま》が朝水《あさみづ》を汲みに、手桶を擔《かつ》いで來た。そして狐が川戶に居るのを見て、擔ぎ棒で叩き殺した。

 (私の稚《をさな》い時の記憶、奧州の子供等はこんな
  種類の話を一番最初に聽かせられた。)

 

     (其の二)

 

 昔々或所に狐と獺と朋輩になつて居た。或時狐が獺の家へ招(ヨ)ばれて澤山魚を御馳走になつた。其時狐が言ふには、お前はいつも魚を澤山取つて居るが、それは一體どうして取るもんだか、俺にも敎へてくれないかと言つた。獺はいつも猾《ずる》い狐のことだから、日頃の思ひを知らしてくれべと思つて、狐モラヒ、魚取る事など一向難《むつかし》くないもんだ。寒中甚(ヒド)くシバレる夜明《よあけ》に魚の居さうな深い淵のやうな所に行つて尻尾を水に浸して居ると、いろいろな魚が來てつくから、いゝ加減ついた頃を見計らつて窃《そ》つと[やぶちゃん注:底本は「窃つて」。「ちくま文庫」版で訂した。]引き上げて家へ持つて還ればそれでよいのさと言つた。

 狐は獺の話を半分ぐらい聽くと、あゝもうえええ、分つた分つたと言つて歸り、其足で村でも一番雜魚の居さうな深い淵へ行つて、獺が云つた通りに尻尾を水に浸して座り、向ふ山を眺めてチヤジヤまつて(躇《うずくま》つて[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版で「躇」は「躊躇(ちゅうちょ)する」のそれだが、この漢字は「踏む」、「ためらう・たちもとおる・ぐずぐずする」(「躊躇」はその意)、「越える・飛び越える・渉(わた)る」の意しかなく、「踞(うずくま)る」の意はないから、佐々木の誤用であろう。])居た。そして時々尻尾を引き上げて見ると、川上の方からザエ(薄氷)が、カラカラと流れて來てはピツタリと尻尾にくつつく。すると狐はさうら一匹ツ、またカラカラと流れて來て、ピタリとくつつくと、さうらまた二匹と言つて居た。さうして居るうちに段々と多くの氷がしつかりくつついたので、狐はこれは大漁だと思つて嬉しく、一ツ歌をうたうベア、

   はア鱒アついたか、ヤンサア

   鮭がついたか、ヤンサア

 と繰り返し繰り返しながら歌ひながら、上下に體をあふつて居た。

 其朝、近所の家の嫁子《あねこ》が早く起き出て、川へ水汲みに行くと、狐の野郞が歌をうたひながらウナヅイ(體を上下)て居るので、あら狐の野郞が馬鹿眞似をして居るアと言つて、あたり近所の人達を起して、棍棒や斧などを持つて來させると、狐は驚いて一生懸命に逃げ出さうと尻尾を引き拔いたところが、尻尾の皮が引(ヒ)ン剝(ム)げて、結局ひどい目に遭つて命(イヌチ)からがら山へ逃歸《にげかへ》つたと。ドツトハラヒ。

 (江刺郡米里村の話、昭和五年六月二十七日佐々木
  伊藏氏談の三。)

 

     (其の三)

 

 昔はあつた。非常にシバレる晚であつた。恰度《ちやうど》雫石だと俺の家のやうな所で、向ふの方から雪道をシヨンシヨンと狐がやつて來た。すると此方(コツチ)の方から獺が大きな鮭を取つてズルズル曳きずつて來るのと、ばつたり出逢つた。ジヤ獺どナ獺どナ、ソナタ良くいつでも鮭だの鱒だの捕つて來るは、ナヂヨにして捕つて來るがナ。なアに雜作(ザウサ)なエごつた、まづ今夜のやうな、うんとシバレる時、づらツと見て步けば、家の前にじようや(玆《ここ》では屹度《きつと》の意)ぽつンと川戶さ穴が空(ア)いてゐるものだ、其處さ行つて、

   鮭ア釣《つ》ゲ

   鱒ア釣ゲ

 と言つて居ると、大きな鮭だの鱒が必ず釣ぐもんだ。まずやつて見とらなでヤ。時に獺どナ、その鮭まづ御馳走したもれでヤ、よがべ、よがべと言つて、二匹は、鮭を喰つてしまつて、それから狐は獺に敎へられた鮭釣りの傳授に、喜んで、まづ斯《か》う行つて見ると、如何にも獺の言ふた通り、氷(スガ)を取り除《の》けた川戶があつたので、早速尾を入れて、

   鮭ア釣ゲ

   鱒ア釣ゲ

と唄つてゐると、あまりシバレるので、ザエが流れて來て、狐の尾にぱたりぱたりと當るので、ひよツと尾を上げて見ると、何も釣いて居ない。又暫くすると、パタパタと障《さは》るので、今度こそ鮭が釣いたに相違ないと思つて、尾を上げて見るとやつぱり[やぶちゃん注:底本は「やつぽり」。「ちくま文庫」版で、一応、訂した。]何も着いて居ない。斯うして繰り返して居るうちに、段々尾が重くなつたので、何でも今度は大きな鮭は釣いて居るやうだと思つて喜んで居た。

 それが一ぴきや二ひきぢやない、餘程の魚が釣れてゐるやうだと思つて居ると、東の空が段々白くなつて、夜が明けさうになつた。すると近所の家々では、ガラガラと戶を繰つて朝起きをする模樣なので、これではならないと思つて、尾を引いて見ると重いので、ウンと力を入れて引ツ張つても尾が拔けない。そのうちに近所の家の嫁(アネコ)が桶を擔いで水汲みに來た。狐は一生懸命になつて引ツ張つても尾が拔けて來ないので、今は泣き出しさうになつて、

   鮭もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

   鱒もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

   鮭も鱒もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

 と叫び出すと、水桶の擔ぎ棒でもつて、このクサレ狐ア、ひとの家の川戶さ來てケズガつたと言つて、ガキン、ガキンと打喰わ(ブツクラ)されて殺されてしまつたとサ。ドツトハラヒツ。

 (七九番同斷の一三。)

[やぶちゃん注:「センドコサのグエン、グエン、グエン」意味不明。]

大手拓次訳 「ギタンジヤリ」 ラビンドラナート・タゴール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 

 ギタンジヤリ ラビンドラナート・タゴール

 

彼はわたしの側にきて坐つた、

けれど私は眼が覺めなかつた。

なんといふ惱ましい眠りだ、

おお、みじめな私よ!

 

彼は夜がふけるとやつて來た。

彼はその手に竪琴(たてごと)を携へてゐて、

私の夢はその琴の調に共鳴りをした。

 

噫(ああ)、どうして、私の夜夜はこのやうにして皆失はれたのか?

噫、どうして私は、その呼吸を私の眠りに觸れしめた彼の姿を、何時かまた見失ふのか?

 

[やぶちゃん注:『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「螢」が採られてある。所持する「タゴール著作集」の「第一巻 詩集Ⅰ」(一九八一年第三文明社刊)で確認したところ、「ギタンジャリ」の「26」である。]

2023/05/18

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「河童忌」 / 下島勳著「芥川龍之介の回想」よりの抜粋電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和・一四・七』とクレジットのみがあり、初出は不明。後に、この下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の本文末に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。一部のみ注をした。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 本編は底本の最終本文で、この後に刊行当時、郷里伊那で病床にあった勳氏の代わりに、勳氏の甥で養子となった英文学者・翻訳家であった下島連(むらじ)氏(一九八六年没)が書かれた「あとがき」があるが、筆者は著作権存続中であり、また、特に電子化しなければならない芥川龍之介関連の記載もないので、リンクに留める。而して、本書の抜粋電子化注は、これを以って終わる。]

 

河 童 忌

 

 七月二十四日は芥川龍之介君の十三回忌だ。昨夜から曇つてゐるのだつたが、午前八時ごろからぼつりぽつりと降つて來た。芥川氏の靈前にと思つて自作トマトの風呂敷包みを提げて早めに新宿まで出ると中々の降りとなつた。會は田端の自笑軒ときまつてゐて午後六時からだから、まづ北原大輔君を訪ねて見ると、久し振りなので大歡迎、ご馳走になりながら陶談、畫談などに思はず時間も忘れ、たうとう四時半ごろになつてしまつた。

 雨は上つたが曇天のいやがうへに蒸し暑い。北原氏のところを辭して芥川家へ行き、佛敎前へトマトを供へ線香を上げて奥さんと話してゐると小島政二郞君夫婦が見え、次いで佐佐木茂索夫婦が來る。同時に香瀧さんが見える。少し後れて自笑粁へ出かけるともう二十人ばかり座に就いてゐた。

 芥川忌は初めのうちは大分盛んだつたが、年が立つに隨つて段々出席者の數も減じ、こゝ、五六年は三十人前後になつてしまつた。併し實をいへばこの三十人は切つても切れない因綠の人たちばかりで、ほんとに芥川忌らしいなりかしい聲や顏ばかりになつてしまつた(尤も芥川賞の人たちが殖えてくる)。

 出席者は大槪おなじみの筈だつたが、谷口喜作君の隣りに座を占めてゐる、日に燒けたやうな黑い顏をした瘦せてひねこびた爺さんがお辭儀をするから、返禮はしたものの誰であるか思ひ出せなかつた。久米正雄君の呼びかけで小澤碧童君といふことが訣《わか》り大笑ひしたのだつた。同君は初めのうちは出席したのだが、その後全く出たことがないので、逢ふ機會がなかつたので見違へたのだつた。

 座の右隣が永見德太郞君で、故人の長崎での話などした。私は震災當時彼の束京の第二號が、三味線を抱へて澄江堂へ避難して來て玄關で逢つた話をしたら、頭を叩いて笑つてた。

 左隣は宇野浩二君で、君と初めて澄江堂で逢つたときは若い美男だつたが、よく禿げてまたよく瘦せたものだといつて笑つた。そのとき芥川君の紹介に、これは宇野で中々「ヒステリー」の硏究家だ、といつたことを覺えてゐるかと、いふとよく知つてゐるといつてすましてゐた。

 字野君は、知人に「エンボリー」に罹つて長く寢てゐる男があるが、「エンボリー」とは何のことかというふから、その說明をした。

 

    芥川君の十三回忌

   紫陽花の雨むしあつき佛間かな

(昭和・一四・七) 

[やぶちゃん注:「自笑軒」田端の芥川龍之介の自宅近くにあった会席料理屋「天然自笑軒」。芥川龍之介は文との結婚披露宴をここで行っている。

「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「香瀧さん」不詳だが、思うに、これは龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生の上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)のことではなかろうか。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。龍之介の「學校友だち」では巻頭に、『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある人物である。

「エンボリー」embolism(英語)の略。塞栓症。血栓が血管に詰まった状態。特に下肢に生じた血栓が肺に移動して発症する肺塞栓症が知られ、外に脳梗塞や心筋梗塞なども同じ状態で起こる。私の昔の教え子の女性も、若くしてこれで亡くなった。]

「近代百物語」 巻一の三「なべ釜勢そろヘ」 / 巻一~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに適切と判断した箇所に挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。]

 

   なべ釜(かま)(せい)そろヘ

 たちばなの逸勢(はやなり)は、本朝三筆のひとりにして、家、冨(とみ)さかへける。

 

Nabekama1

 

[やぶちゃん注:以下、二枚とも、底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

世に釜(かま)のなる時(とき)

 木(き)をさしくべて

  まじない[やぶちゃん注:ママ。]

     となふる

 故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])有事也

《中段、左。》

ちよつと

 木を

  さし

   くべ

  さつ

   しやれ

《下段、中央。》

ふしぎ

なかま

  の

なり

 やう

 じや

《猫の絵の左下方。》

にやん

 とも

かてんの

  ゆ

  か

  ぬ

    *]

 

Nabekama2

 

[やぶちゃん注:同前で、底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

むかし咄(はなし)に

 なべ釜のばけて

  あるき

    たる圖(づ)

 是(これ)を

  写(うつ)して

  繪書(ゑが)き

たる

 なり

《中段、右。》

今宵はよい

   月の

《下段、右端。》

なむさん足が

     たゝぬ

        は

《下段、左。》

なべかま

 ばけて

 お

 どる

 しづ

  かに

 しづかに《これは画像では踊り字「〱」。》

   *

なお、底本でのこの挿絵位置は、無関係の第一話の中に投げ込んである。]

 

 されども、むほんの企(くはだて)、しきりなりしに、ある日、膳部をとゝのへ、飯(はん)を、かしぐ所に、なべ釜、十あまり、ならべて、煮る物、ようやく熟せんとするに、かまどのうちより、つき上るごとくにして、かまどをはなるゝ事、一尺ばかり、なべ、三つ、其下に、ならびて、釜をのせ、釜、三つを、九つのなべ、いたゞき、其外の小なべ、小釜を、つれて、かまどのうへより、地に、おり、行列して、門を、いず[やぶちゃん注:ママ。]

 家内(かない)、隣家(りんか)、おどろきて、これを見るに、みぞを、こへて、門(かど)へ出る。

 其中に、足、をれたる、なべ、みぞをこゆる事、あたはず。

 子供ありて、

「能(よく)、なべ釜、あるく。」

と、いへども、

「足おれたるなべを、捨てゝ打くや。」

と、わらふ。

 釜を、のせたるなべ、釜を、地におろしをき、ふたつのなべ、足おれなべを、おふて、溝、こへてゆき、四条の川原に出でて、しづまる。

 にはかに、そのへん、まつ黑になり、

「ぐわらぐわら」

と、物のくだけるおとして、其なべかま、みな、粉(こ)のごとく、くだけ、黑きほこりとなりて、日、くれに、いたりて、しづまりぬ。

 其のち、むほん、あらはれ、逸勢は、流刑せられぬ。

 なべかまのあやしみをなすは、よからぬ事にや。

一 之 巻 終 

[やぶちゃん注:最後の巻末の記は最終行末に一字上げインデントだが、改行した。

 本話の怪異は、見た目は「付喪神」(つくもがみ)の変形譚と言える。普通のそれは、長い年月を経た道具や無生物などに何らかの霊魂が宿ったもので、人を誑(たぶた)かすとされた古形の妖怪変化であるが、この逸勢の厨の釜・鍋が、皆、古物だったとも思われず、また、純粋に付喪神だけで怪談話に作ったものは、私の知る限りでは、それほど成功したものはなく、また、本篇の挿絵の如く、どうしてもホラーというよりは、ちょいと滑稽にしてユーモラスな属性が纏わりついていて拭えないのが難点と言える。ここは、それにヒントを得て、凶兆の兆しと転じたものであるが、著名な橘逸勢を主人公に配したことも、上手く効果を出しているとも感じられず、「だから、なに?」と、つっこみたくなる内容である。それとも、この「釜」「鍋」や「足の折れた鍋が溝を越えられない」というシークエンスに、何らかの逸勢絡みの洒落が隠してあるものか? 私にはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「たちばなの逸勢」橘逸勢(?~承和九(八四二)年)は平安初期の官人で書家。延暦二三 (八〇四)年、遣唐使に従って、空海・最澄らと入唐、唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年、但馬権守となったが、「承和の変」(橘と伴健岑(とものこわみね)らが、謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥の道康親王が皇太子となった)で捕えられ、本姓を除かれて「非人逸勢」と呼ばれ、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。後に嘉祥三(八五〇)年になって罪を許されている。空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称された書道の名人で、隷書を最も得意とし、嘗つての平安京大内裏の諸門の額の多くは、彼の筆に成ったものとされる(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。]

「近代百物語」 巻一の二「いふにかひなき蘇生の悅び」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに適切と判断した箇所に挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。]

 

   いふにかひなき蘇生の悅び

 

 世に、狐・たぬき・犬・描など、「人に託(つ)く」と、いひふらし。

 其所以を問へば、『科(とが)なきに殺生し、打たゝきなどするときは、かれらがたましゐ、皮膚に、わけ入り、人をして、病(やま)しむ。』と、醫書にも邪崇(じやそう)の論方(ろんはう)あれば、全く虛言とも、いひがたし。

 今はむかし、ひたちの國、桜田村とかやいふ所に、六兵衞といふ農民、男子(なんし)一人ありけるが、六之介と名をつけ、夫婦の中のひとり子なれば、蝶よ花よと愛せしが、いかなる過去のいんぐわにや、生れつき、病身にて、兩親(ふたおや)の心づかひ、常に、くすりのたゆるひまなく、食物(しよくもつ)、よろづ、氣をつくれど、其かい、さらに、あらしは、おろか、風がはやれば、人よりさきに、やむ身よりは、見る目とて、六兵衞もやまひのたね。はたけへゆけど、我子の身のうへ、わする事もなかりしが、六之介、十二のとし、きさらぎのころよりも、時疫(じゑき[やぶちゃん注:ママ。])、諸こくに、はやりければ、はや、六兵衞がむねにこたへ、

「わづらはぬ、そのさきに。」

と、灸をすへさせ、くすりをもちひ、ころばぬさきの杖の養生、なさけなや。

「此村の、たれと、誰(たれ)とが、時疫にあたり、きのふより、大ねつ。」

と聞くと、ひとしく、六之介、三番目とは、さがらぬ弱(よわ)もの、

「どふやら、頭痛がするやうな。」

と、いふが、序(しよ)びらき[やぶちゃん注:「序