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2023/05/31

佐々木喜善「聽耳草紙」 九六番 怪猫の話 (全九話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「怪猫」は本文でもルビがないが、響きの禍々しさから、「くわいびやう」と読んでおく。]

 

      九六番 怪猫の話 (其の一)

 

 或時、一人の男が旅からの歸りがけに、國境の峠に差しかゝると、谷合《たにあひ》の方で何者だか大變奇怪な聲で騷いで居た。はて不思議な聲だが何であらうと、木に登つて樣子を窺ふてゐると、多勢《おほぜい》の猫どもが寄り集まつて、何事かがやがやと言ひ合ひをして居るところであつた。其中の大猫がみなに向つて、まだ某殿(ダレソレドノ)のお頭領(カシラ)が見えぬが、何して居るべと云ふやうな事を喋言《しやべ》つた。木の上の男は、今猫の云つた某《だれそれ》は自分の家の名前なので、はてな不思議なこともあればあるものだなアと思つて、じつとして居ると、稍《やや》しばらく經つてから、其所ヘ一匹の年寄猫(トシヨリネコ)がやつて來た。すると多勢の猫どもが、みんな土下座をして、お頭樣々々々と言つて、其猫のまわりを取卷いて機嫌をとる。某は木の上からつらつら見ると、やつぱり其はまぎれも無い自分の家の飼猫《かひねこ》の年寄りの三毛猫(サンケ《ねこ》)であつた。

 老猫《としよりねこ》は、お前達はみな揃つたかと言ひつゝ、其頭數を檢べて見てから、あゝ皆揃つたやうだ。斯《か》う揃つたら、そろそろ仕事に取りかかるベアと言つた。木の上の男は何をするのだべえと思つて見て居ると、家の猫が先きに立つて、ぞろぞろと峠へ出て、皆別々に木の蔭や草の中などに入つて匿れて、其儘鳴りを沈めてじつとして居た。

 恰度《ちやうど》其所へ一人のお侍が通りかゝつた。すると猫どもが、それツと云つて其侍をぐるりと取り卷いて喰《く》つてかゝつた。ところが其侍は餘程の腕利《うでき》きであつたと見え、かへつて猫どもが慘々に斬殺《きりころ》されてしまつた。其れを見て年寄り猫はひどく怒つて、祕傳祕術を盡して侍と鬪つたが、どうしても侍にはかなはず、眉間《みけん》に太刀傷《たちきず》をうけて、其所を逃げ出してしまつた。

 侍は猫どもが皆逃げ去つたのを見てから、木の上に居る人、もはや安心だから下りなされと聲をかけた。男は木の上から降りて、最前からの樣子を殘らず委しく話した。そして彼《あ》の負傷《てきづ[やぶちゃん注:ママ。]》を負ふた年寄り猫は某の家の猫だと云つたし、某とは私の家の名前、又彼(ア)れはまぎれも無く私の家の飼猫である。どうも合點が行かないまス。私一人ではどうも怖(オツカ)なくて歸れないから、お侍樣も一緖に行つてクナさいと賴んだ。侍もともかくもと云つて、某を連れ去つて行つた。[やぶちゃん注:底本は読点だが、「ちくま文庫」版を採った。]見ると峠の上から里邊の方へ雪の上に赤い生血《なまち》が、ポタリポタリと滴(コボ)れてゐた。さうして其血の跟《あと》が男の家の門前まで來て、あとは絕えてゐた。いよいよこれは怪しいと、二人は言ひ合つて家の中へ入つた。

[やぶちゃん注:「跟」は音「コン」で、「くびす・きびす・かかと(踵)」、「従う。人のあとについていく」の意であるが、「ちくま文庫」版が、この漢字を使わずに『あと』と平仮名にしてあるのに従った。訓自体には「あと」というそれはないものの、意味から違和感は全くない。]

 侍と男が家の中へ入つて行くと、奧座敷の方で、何だかウンウンと呻《うな》つて苦しんで居る樣子である。あれは何だ、どうしたと訊くと、家族は、先刻(サツキ)祖母樣が外へ出て誤つて氷(スガ)で滑つて眉間を割つたと言ふ。男と侍とは顏を見合せて頷《うなづ》き合つた。さうして侍は俺が割傷(ワリキズ)に大層よく利く藥を持つて居るから、どれどれと云つて、祖母の寢室へ行つてやにわに刀を拔いて斬り付けた。祖母はキヤツト叫んで、飛び起きて侍に喰つてかゝつたが、何しろ深傷《ふかで》を負ふて居るから、二《に》の太刀で血みどろになつて死んでしまつた。

 家族の人達は其を見て、あれアあれア何たらこつた。祖母樣が殺されたと言つて騷ぎ𢌞るのを、男が騷ぐな騷ぐな、實は斯う云う譯で此のお侍樣を賴んで來たのだと云つた。暫時《しばらく》モヨウ(經《た》つ)と殺された祖母樣が大猫《おほねこ》になつた。

 やつぱり怪猫《くわいびやう》が、幾年か前にほんとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]の此の家の祖母樣を食つて、自分がさう化けて居たのだと云ふことが其時訣《わか》つた。家の人達は之れから先き、どんな災難があつたか知れないのに、ほんとうにお蔭樣であつたと言つて、お侍に厚く禮をした。

(此話は諸國にあるやうに、其怪猫が旅に出て居る自家の主人の歸還の日を知つて居て、峠に待ち伏せして居たとも、そして又其主人に退治されたとも語るが、此所には村の犬松爺樣が話した通りを記して置く。大正七年の秋の分。)

[やぶちゃん注:附記は頭の丸括弧のみが半角上へ抜き出ている以外は、全体が二字下げポイント落ちであるが、類話譚解説となっているので、引き上げて読み易く同ポイントとした。]

 

       (其の二)

 或所に狩人《かりうど》があつた。山立《やまだち》に行く朝、鐵砲の彈丸(タマ)をかぞへて居るのを、飼猫の三毛猫が爐傍《ろばた》に居て眠つたふりをしながらそれを見て居た。狩人は何の氣なしに其儘《そのまま》山へ行つた。

[やぶちゃん注:「山立」を「やまだち」と読むと、辞書では「山賊・山賊行為」或いは「 狩人・猟師・またぎ」としかないのだが、普通に「山猟・狩猟に行くこと」の意として私には違和感がない。]

 山へ行くと見た事も聞いた事もない恐しい怪物に出會《であは》した。それは大きな一目(ヒトツマナコ)の化物《ばけもの》であつた。そしていくら擊(ウ)つても擊つても平氣であつた。そのうちに持つて來ただけの彈丸《たま》が盡きてしまつた。すると其怪物は忽ちに大きな猫になつて其狩人に飛掛つて來た。そこで狩人は秘法の秘丸(カクシダマ)で難なく擊ち止めた。さうして其死んだ猫を檢べてみると、傍らに一個(ヒトツ)の唐銅(カラカネ)の釜の葢《ふた》が落ちてをつた。猫は其釜の葢を口にくわへて居て彈丸を防いだものと訣《わか》つた。

 然し其猫はどうも自分の家の飼猫によく似てゐたので念のために其釜の葢を持歸《もちかへ》つて見ると、案の定、家の釜の葢はなくなり、猫も居なくなつてゐた。

  (祖父のよく話したもの。私の古い記憶。)

 

       (其の三)

 遠野町の是川某と云ふ侍が、或時子供達を連れて櫓下《やぐらした》といふ所の芝居小屋へ江戶新下りだという狂言を觀《み》に行つた。家にはたつた一人侍の妻ばかりが留守をしながら縫物をして居た。すると今迄爐《ひぼと》の向側《むかふがは》で居眠りをして居た虎猫が、ソロソロと夫人の側へ寄つて來て、突然人聲《ひとごゑ》を出して、奧樣、只今旦那樣方が聽いて居る淨瑠璃《じやうるり》を語つて聽かせ申しやんすべかと言つて、絹でも引裂くやうな聲で長々と一段語り終つてから、奧樣シこのこと誰《たれ》にも話してはならないまツちや、と言つて恐ろしい眼《まなこ》をして睨みつけた。そのうちに皆が芝居から歸つて來たのでその夜はそれツきりで何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「櫓下」恐らくは旧鍋倉(遠野)城の南の虎口(こぐち)附近に櫓があったようにも推定されているから、グーグル・マップ・データ航空写真の、この麓附近であろうと推測する。今でも遠野市街地からは外れた場所だが、そもそも江戸時代まで旅役者たちは「河原乞食」と卑称され、村落共同体の辺縁の河原の橋の下に逗留するのが常であった。ここには、まさに来内川があり、現行、二基の橋も掛かっている。]

 或日、日頃懇意して居る成就院の和尙樣が來て、四方山《よもやま》の話をして居たが、爐傍に居眠りして居る虎猫を見て、あゝ此猫だな、先達《せんだつて》の月夜の晚に俺が書院に居ると、庭ヘ何所からか一匹の狐が來て手拭《てぬぐひ》をかぶつて頻《しき》りに踊りを踊つて居たが、獨言《ひとりごと》に、なんぼしても虎子《とらこ》どのが來ないば踊りにならねアと言つた。おかしなこともあればあるものだ。これからどうなる事かと見て居ると、この猫が手拭をかぶつて來て、暫時(シバラ)く二匹で踊つて居たが、どうも今夜は調子がはじまらないと言つて、踊りを止めて二匹で何所かへ行つたツけが、其猫はよく見るとこの猫だ。そんなことを話して和尙樣は歸つた。

[やぶちゃん注:「成就院」現存しないが、『遠野市編さん活動報告』第二十四号(二〇二二年五月発行・PDF)の鍋倉城調査の記事中に写真があり、「成就院跡」が示されてあった。グーグル・マップ・データ航空写真で、この中央附近にあったことが判った。]

 其夜侍の妻は先夜の猫の淨瑠璃のことを旦那樣に話した。其翌朝奧方がいつまでも起きなかつたので家の人達が不審に思つて寢室へ行つて見ると、奧方は咽喉笛《のどぶえ》を喰ひ破られて死んで居た。

 虎猫はそのまゝ行衞不明《ゆくへふめい》になつた。

 

       (其の四)

 遠野町の某家の人達、或夜芝居見物に出て家には老母一人が留守をして居た。夜もやがて大分更けて行き、今の時刻で云ふならば十一時過《すぎ》とも思はれる頃、老母の室《へや》に飼猫の三毛猫が入つて來て、お婆樣お退屈で御座ンすぺ。おれが今夜の芝居をして見せアンすぺ[やぶちゃん注:半濁音であるので注意。]かと言つて、芝居の所作《しよさ》から聲色《こはいろ》を使つて、奇怪な踊りを踊つて見せた。それが終ると猫は、お婆樣この事を決して他言し申さんなと言つて澄まして居た。

 間もなく家人が芝居から歸つて、老母に今夜の狂言の事を語つて聞かせる。それが猫の物語つたのと寸分違はなかつたので、老母は遂に飼猫の事を話すと、皆は大變驚き氣味惡がつて居た。

 或夜其家の主人が成就院を訪問して住持と碁をかこんでいた。外はいゝ月夜であつた。夜が更けると庭で何者かが立ち騷ぐ氣配がするので聽耳を澄まして居ると、住持は石を置きながら、ははア今夜も來て踊つて居るなアと獨言《ひとりごと》をした。何か踊つて居りますかと言つて、障子を細目に開けて庭前を見ると、月夜の下に一疋の狐と一疋の猫とが頻《しき》りに踊りを踊つて居るので奇怪に思つてよく見ると、それは正《まさ》しく自家の猫である。それから障子を締め、實は斯《か》く斯くと昨夜の事などを物語り、怪態(ケタイ)なる事もあるものだと話して家へ歸つた。ところが老母が何物にか咽喉笛《のどぶゑ》を嚙み切られて斃《たふ》れてゐた。其後猫の姿は二度と人目につかなかつた。

 

       (其の五)

 同町鶴田某の飼猫、暮れ方になると手拭《てぬぐひ》を持つて家を出て行くので、家人が變に思つて後(アト)をつけて行つて見ると、大慈寺《だいじじ》裏へ行つて狐と一緖になつて盛んに踊りを踊つてゐた。

[やぶちゃん注:「大慈寺」岩手県遠野市大工町(だいくちょう)に現存する。曹洞宗福聚山(ふくじゅさん)大慈寺。]

 

       (其の六)

 同町裏町に太郞と云ふ人があつた。一匹の三毛猫を飼つて居たが、この猫は巧みに人の口眞似をしたり、又手拭《てぬぐひ》をかぶつて踊《をどり》を踊つて見せた。或時棚の魚を盜んだので主人が撲《なぐ》つて傷をつけた。人が誰に打たれたと訊くと太郞方《たらうがた》と答へた。

 

       (其の七)

 昔、同町の或所に一匹の老猫があつた。此猫人間に化けて淨瑠璃(ジヨウルリ[やぶちゃん注:ママ。])を上手に語つた。或時例(イツモ)の樣に近所隣りの人達が大勢集まつて其語り物に聽き惚れて居ると、或旅人が疲れたので、墓場から棒片(ボウキレ)を拾つて、杖について其家の前を通りかゝつた。そして大勢の人々が猫の啼き聲に感心して居るのを見て不思議に思つて、其譯を訊くと、前のやうな事なので、自分も其淨瑠璃を聽かうと思ふが如何《どう》耳を傾けても矢張りたゞの猫の啼聲《なきごゑ》である。其所に居た人々が旅人の杖を借りてつくと成程普通の猫の啼聲であつた。

[やぶちゃん注:この「棒片(ボウキレ)」というのは、恐らくずっと古い時代の徳のあった人物(僧か)の卒塔婆の縦長の破片であったのではなかろうか。]

 

       (其の八)

 又同じ町の新田某と云ふ人の家の飼猫はよく物眞似をしたが、なかでも淨瑠璃語《じやうるりがた》りが上手であつた。師走の十四日の阿彌陀樣の緣日などには、其寺で打ち鳴らす鐘の眞似などまでして人々を驚かして居た。

 

       (其の九)

 昔の話であるが、同所の某家で一匹の猫を飼つて居た。同家の嫁女《よめぢよ》が或夜鐵漿《おはぐろ》をつけ終つて鏡を見てゐると、其猫が人語《じんご》を發して、あゝよくついたついたツと言つた。嫁は大變驚いて其由《よし》を夫《をつと》に告げた。そして尙重ねてあんな化猫を飼つて置けばどんな事が起るか分らないから早く殺した方がよいと頻りに言つた。夫も初めの中《うち》はそんな事があるもんかと言つて氣にもとめなかつたが、嫁が餘り氣味惡がるので、遂に之れを殺して裏の畠の傍(ホトリ)に埋《う》めた。

 翌年の春猫を埋めた邊(アタリ)から大層勢《いきおひ》のよい南瓜《かぼちや》が生へ[やぶちゃん注:ママ。]て茂り、素敵な大きい南瓜が實《みの》つた。町内でも珍しく大きなものであつたので、其家では喜んで取つて煮て食ふと、忽ちアテられて、家族が皆枕を並べて病《や》み苦しんだ。巫女《みこ》に裏[やぶちゃん注:「占」に同じ。]を引いて貰ふと、生物(イキモノ)を殺した事はないか、それが崇(タヽ)つて居ると云ふ。よつて其の南瓜の根を堀[やぶちゃん注:ママ。]つてみると、不思議にも猫の骸骨の口から蔓の根が生へ[やぶちゃん注:ママ。]出してゐた。

  (昭和三年の冬の頃。その三乃至九迄岩城と云ふ
   法華行者《ほつけぎやうじや》の人から聽いた
   話の八。)

[やぶちゃん注:この話の猫のニャアニャア声が、「あゝよくついたついたツ」「ニャアァ~ニョ~クッニィタ~ッ」と聴こえてしまうことは、いかにもありそうなことではある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 鷲石考(1) / 序文・「第一編 鷲石に就て」

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。

 本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。

 なお、「鷲石」は、「しうせき」(しゅうせき)で、その正体の最も有力な対象物は褐鉄鉱(リモナイト:limoniteで、ウィキの「褐鉄鉱」によれば、『吸着水や毛管水を含んだ針鉄鉱(ゲーサイト、α-FeOOH)、または鱗鉄鉱(レピドクロサイト、γ-FeOOH)の一方または両者の集合体であり、鉱物名としては褐鉄鉱は使用されていない』とあり、『天然の錆である』とあって、さらに『団塊状で内部に空洞のあるものを鳴石、壷石とい』うとある物が、以下で語られる「鷲石」である(空洞中には水を持っているものもある)。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「日本語と日本文化 壺齋閑話」の「鷲石考:南方熊楠の世界」に、『鷲石にまつわる伝承はとりあえずヨーロッパに広まっている。中国には鷲石そのものの伝承はないが、それと似たような話はある。禹余糧』(うよりょう:以下の本文にも出る。歴史的仮名遣は「うよりやう」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある』とある。引用元でも以下で解説が続く)『中国では、鷲石に相当する石は禹余糧と呼ばれている。むかし禹王が会稽の地で宴会を催した時、余った食料を江中に捨てたところが、それが化石となったので禹余糧と呼ばれるようになったというのである。小野蘭山によれば』、『この石は「はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色あり。その内空虚にして、細粉満てり」というから、ヨーロッパでいう鷲石と同じなわけだが、中国人はヨーロッパ人と異なり、これを鷲と結びつけることはしなかったのである。中国人には、鷲を性と結びつけるという発想がなかったためかもしれない』。『中国人も、この石の形が母胎に子を宿すに似ているところから、これを催生安産の霊物としたが、ヨーロッパ人とは異なり、これを昔の聖人が食い残した食物と結びつけたことから、長生して仙人になれる特効薬と考えるようにもなった。また、その成分の鉄が栄養源とて相当に働くことから、これに広い薬効を結びつけるようにもなった。鷲石をもっぱらセックスや繁殖と結びつけたヨーロッパ人とは、アナロジーの働く範囲が多少ずれていたわけであろう』と言及されておられる)『と呼ばれているものだ。日本では孕石というものがほぼこれらに対応している。そこで熊楠はこれらの伝承に潜んでいる共通点と相違点を摘出することに取り掛かるわけだ』。『ヨーロッパで鷲石と呼ばれているものは、扁平な形状の石のようなもので、内部に空洞があり、そこに小石が入っている。それが子を孕んだように見えることから、人間の出産と結び付けられるようになった。この石の正体は褐鉄鉱で、鷲が巣くうような洞窟によく見られる。そこから鷲と結びついて鷲石と呼ばれるようになり、その鷲石に、出産やそのほかの効用が結び付けられるようになったわけである』とある。「孕石」は以下の序文に出るが、「はらみし」と読み、やはり、石の中に空洞部分があって、小さな石を持っているように感じられるもので「子持ち石」とも言い、「鷲石」のように(以上の通り、壺齋散人氏は同一とされる)安産等のお守りとされた。本文でも南方熊楠が考察するように、ある形状・性質・様態に見える対象物が、異なったものであるが、やはりそうした似たものを有する全く別な対象物と強い親和性と共時性持つと考える民俗社会の感応性、所謂、フレーザーの言う「類感呪術」である。

 

     鷲 石 考   南 方 熊 楠

 

    鷲 石 考

       第一 鷲石に就て

       第二 禹餘糧等に就て

 是は一九二三年三月十日ロンドン發行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯十二卷一八九頁に出た質問に對し、七月二十一日、二十八日、八月四日、十一日、十八日、二十五日の同誌上に載《のせ》た熊楠の答文を、本書の爲に自ら復譯した者である。但し、大意をとる。又『性之硏究』拙文「孕石のこと」より取《とつ》た所もある。爰には便宜上、「鷲石に就て」・「禹餘糧等に就て」の二篇に分ち述《のべ》る。

[やぶちゃん注:以上と次の「第一編 鷲石に就て」の「質問」の本文部分と「應答」一ページまでは、底本では、本文行間が他に比して有意に広いが、再現しない。なお、ここに出る‘Notes and Queries’の当該年のそれは、「Internet archive」でも、画像化が行われていない(リンク先は英文‘Wikisource’の同誌の「Internet archive」にリンクしたリスト)ので、視認出来ない。

「孕石のこと」サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)のページ・ナンバー『(497)』に、「孕石のこと」(大正九(一九二〇)年十一月・十二月発行『性之研究』第二巻第二号及び三号発表)として読める(二部構成)。]

 

   第一編 鷲石に就て

 

    質 問  龍 動 キルフレッド・ジェー・チャムバース

 

 一六三三年附でリチャード・アンドリュースがニゥキャッスル女伯に出した狀は、史料手筆調査會第十三報に收め、出板された。其内に「予は、又、貴女へ、鷲石一つを送つた。是は、出產の節、腿《もも》に括《くく》り付《つく》ると、安產せしむ。」とある。此石の性質・効力に付《つき》て、一層、詳知したし。

[やぶちゃん注:「龍動」ロンドン。]

 

    應 答   日本紀伊田邊 南 方 熊 楠

 

 此答文は、主として、大正九年東京刊行『性之硏究』二號と三號に出した拙文「孕石の事」と、予の未刊稿「燕石考」より採り成した物である。

[やぶちゃん注:「孕石の事」については、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)(新字新仮名)の、ページ・ナンバー『(497)』の「孕石のこと」で読める。

「燕石考」(えんせきかう)は英文論文‘The Origin of the Swallow-Stone Myth’ (「燕石神話の起原」)であるが、平凡社「選集」の第六巻、及び、河出文庫の『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」で岩村忍氏の訳(二つは同一)で読める。この「燕石考」及び「燕石」(「竹取物語」の「燕の子安貝」を始めとして、比定対象物は複数ある)については、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)」の私の注で少しく引用に形で述べてあるので参照されたいが、その複数の比定物の内では、タカラガイ類(腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae)の他に、有力な一つが、「石燕(せきえん)」で、これは二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石で(腕足類の知られた現生種では、舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina が知られる)、石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国では、その粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。]

 

 此石を古希臘でエーチテースと云《いつ》た。その意譯で、獨語のアドレル・スタイン。露語のオーリヌイ・カーメン。佛語のピエール・デーグル。西語のピエドラ・デ・アギラ。皆な、英語のイーグル・ストーンと同じく、「鷲石」の義だ。獨語で、又、クラッペル・スタイン、露語でグレムチイ・カーメンといふは、ガラガラ鳴る故、「ガラガラ石」の意だ。

 西曆一世紀に成つたプリニウスの「博物志」卷十の三章に、鷲に六種ありと述べ、四章に、其内、四種は、巢を作るに、鷲石を用ゆ。此石は、藥効、多く、又、よく火を禦《ふせ》ぐ。其質、恰《あた》かも孕んだ樣で、之を、ふれば、中で、鳴る。丁度、子宮に胎兒を藏《をさ》むる如く、石中に小石あり。但し、鷲の巢より採《とつ》て直《すぐ》に使はねば、藥效なし、と記す。又、委細を三六卷三九章に述べて曰く、「鷲石は每《いつ》も、雌雄二個揃ふて、鷲巢《わしのす》にあり。是れ無ければ、鷲は蕃殖《はんしよく》せず。隨つて、鷲は、一產二子より、多からず。鷲石に四種あり。第一、アフリカ產は、柔かで小さく、其腹中《ふくちゆう》に、白く甘い粘土を藏む。その質、碎け易く、通常、女性の物と、みなさる。第二に、雄なる物は、アラビア產で、外見、沒食子《もつしよくし》色(暗褐)若くは帶赤色、其質、硬く、中にある石、亦、堅い。第三、キプルス島の產は、アフリカ產に似るが、其より大きく、扁たく、他の圓きに異なり、内には、好き色の砂と、小石が混在し、その小石は、指で摘《つま》めば、碎くる程、柔《やはら》かい。第四は、ギリシアのタフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ。川底より見出され、白く、圓く、内にカリムスてふ一石を藏む。鷲石、種々なれど、是程、外面の滑《なめら》かなは、ない。是等の鷲石、孰れも牲《にへ》に供えた[やぶちゃん注:ママ。]諸獸の皮に包み、妊婦や、懷胎中の牛畜に佩《おび》しめ、出產の際迄、除かねば、流產を防ぐ。もし出產前に取去《とりさ》れば、子宮、落脫す。又、出產迫れるに取去《とりさら》ずば、難產する。」と。

[やぶちゃん注:以上のプリニウスの「博物誌」の当該部は、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で確認した。熊楠は「卷十の三章」と言っているが、引く内容自体は「四」である。そこでは、その鷲石を『ある人はガキテスと呼ぶ』とある。「三六卷三九章」は『鷲石(アエティテス)』の項で、『タフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ』の部分は『タピウサ種として知られている第四種は、タピウサのレウカス島に産する。タピウサというのは、イタカからレウカスへ船で行くとき』、『右にある地区だ』とある。「タピウサ」は判らないが、「イタカ」は現在のギリシャの「イターキ島」、「レウカス」は「レフカダ島」であるから、グーグル・マップ・データのこの中央附近になるか。「川底」(訳本では『渓流』)とあるからには、レフカダ島の内陸部であろうか。]

 

 一九〇五年板、ハズリットの「諸信及俚傳」一卷に云く、鷲石は臨產の婦人に奇効ありと信ぜられた。レムニウス說に、左腕に、心臟より無名指へ動脈通ふ處あり、其邊え[やぶちゃん注:ママ。]此石を括り付置《つけおけ》ば、いかな孕みにくい女も、孕む。孕婦に左樣に佩びしむれば、胎兒を强くし、流產も、難產も、せず、又、自ら經驗して保證するは、產婦の腿に、之を當《あつ》れば、速かに安產す、と。ラプトン曰く、孕婦の左臂《ひぢ》又は左脇に鷲石を佩びしむれば、流產せず、且つ、夫婦、相《あひ》好愛《かうあい》せしむ。又、難產の際、之を腿に括り付《つけ》れば、忽ち、安產す。又、蛇の蛻皮《ぬけがら》を腰に卷付《まきつけ》ても、安產す、と。是は、東西に、例、多き、「似た物は、似た患《わづらひ》を救ふ。」といふ療法で、眞珠が魚の眼玉に似るから、眼病にきくの、キムラタケは陽物そつくり故、壯陽の功、著し、とか、虎や狼は、犬より强いから、その肉や骨は犬咬毒《いぬのかうどく》を治《いや》すとか、黃金の色が、似おる[やぶちゃん注:ママ。]から、黃疸に妙だ、等、信ずる如く、蛇が皮をぬぎ、穴をぬけるのが、赤子の產門を出《いづ》るに類し、鷲石の内部に小石を藏《ざう》せるが、子宮に胎兒を藏むるに似たよりの迷信だ。

[やぶちゃん注:『ハズリットの「諸信及俚傳」』イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著のFaiths and Folklore(「信仰と民俗学」)。

「レムニウス」オランダの医師で作家のレビヌス・レムニウス(Levinus Lemnius 一五〇五年~一五六八年)。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの左にある“ Ætites ”の項がそれ。「アエタイト」は熊楠が古ギリシャ語で「エーチテース」と音写したそれで、ギリシャ語由来の鉱物「鷲石」の意である。

「無名指」薬指の異名。

「ラプトン」“Lupton”。人物は不詳だが、前注の箇所の、すぐ後に出て来る。

「キムラタケ」まず言っておくと「キノコ」ではない。葉緑素を欠いた多年草で完全な寄生植物にして高山植物であるシソ目ハマウツボ科オニク(御肉)属オニク Boschniakia rossica の別名である。奇体な形状は当該ウィキを見られたいが、異名の『キムラタケは、「黄紫茸」「金精茸」と書いて「きむらたけ」と読み』、中国や本邦で『強壮剤として利用されたことによる』。『また、「をかさ蕈」「おかさたけ」ともいう』とあった。]

 

 一五六八年、ヴェネチア板、マッチオリの「藥物論」には、「鷲石をふれば、内部に音する事、孕めるが如く、其腹中に、一石、あり。之を產婦の左臂に佩ぶれば、流產を防ぐ。扨、愈よ、臨產となれば、臂から取去《とりさ》り、其腿に括り付ると、安產する。此石、又、盜人を露はす効、あり。パンに之をそつと入《いれ》て、食《くは》しむるに、盜人、嚙めども、嚥《の》み下す、能はず。又、鷲石と共に煮た物をも、嚥み能はず。その粉を、蜜蠟か、油に和し、用《もちふ》れば、癲癇《てんかん》を治す。」と出で、一八四五年、第五板、コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」六頁には、『鷲石を、孕婦の腿に付れば、安產すれど、其胸に置《おか》ば、出產を妨《さま》たぐ。ジオスコリデス說に、此石を燒《やい》た粉を、パンに混じ、嫌疑ある人々に食せば、少しでも其粉が入《はいつ》たパン片を、盜人は、嚥み能はず。今も、希臘人は、呪言を誦して、右樣のパンを盜人穿鑿に用ゆ。』と筆す。全く、鷲石の内に一石を藏すると、盜人が取つた物を懷中すると似るより、此石、よく、盜人をみ出《いだ》すと信じた者か、と迄は書《かい》た物の、なぜ癲癇にきくかは、一寸、解き難い。先《まづ》は、氣絕した患者が囘生《くわいせい》すると、鷲や人の子が產まれて世に出るとを、一視《いつし》して、言ひ出《だ》したで有《あら》う。

[やぶちゃん注:『マッチオリの「藥物論」』イタリアの医師・博物学者ピエトロ・アンドレア・グレゴリオ・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli 一五〇一年~一五七七年)。当該ウィキによれば、『医学に関する著作に加えて、プトレマイオスの』「ゲオグラフィア」『などのラテン語やギリシャ語の著作からイタリア語への翻訳をおこなった。特に、ディオスコリデスの本草書』「薬物誌」の『翻訳と解説が有名となった』一五四四『年にジャン・リュエルのラテン語訳を元に、図版なしで最初の翻訳・注釈本が出版され』、一五四八『年に』は『増補版の解毒剤に関する著作が加えられ』、一五五〇年と一五五一年にも『増補版が出版された』。一五五四『年には』「ディオスコリデスの著書への注解」( Commentarrii in sex libros Pedacii Dioscoridis )が『出版された。それまで広く流布されていたジャン・リュエルの注釈本とは一部の解説が異なり』五百八十三に及ぶ『木版画が添付された』とある。所持する『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」(一九一一年河出文庫刊)にある長谷川興蔵氏の注によれば、この「藥物論」というのは、『熊楠は恐らく内容に即して、『薬物論』としたのであろうが』、彼が従ったものは、同英文ウィキにある、一五六八年版の‘I discorsi di m. Pietro Andrea Matthioli sanese, medico cesareo, et del serenissimo principe Ferdinando archiduca d'Austria &c. nelli sei libri di Pedacio Discoride Anazarbeo della materia medicinale. Venezia’が、それであるとしておられるようで、“discorsi” は『談話』の意であるとされておられる。

『コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」』フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に初版を刊行した“ The Dictionnaire infernal ” (「地獄の辞典」)と思われる。]

 

 一八八五年第三板、バルフォールの「印度事彙」一に、プリニウスは鷲石が治療に効ある外に、難船等の災禍を禦ぐと說《とい》たとあるが、プリニウスの書にそんな事、一向みえず。暗記、又、引用の失だろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。扨、『アラビア人、之をハジャー・ウル・アカブと稱へ、タマリンド果の核《たね》に似たれど、中空で、鷲の巢の内に見出ださる。印度から鷲が持つてくると信ず。』と述た儘、何に用《もち》ゆと、かき居らぬが、必竟、歐人同樣、專ら、產婦に有効とするのだろう。そして又、アラビア人は鷲石は難船等の災難を予防すと信ずるので有《あら》う。

[やぶちゃん注:『バルフォールの「印度事彙」』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。ちょっと手間取ったが、「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India(一八八五年刊第一巻)の当該箇所はここの右ページの終りにある“EAGLE  STONES”の項であることが判った。

「タマリンド果」アフリカの熱帯原産で、インド・東南アジア・アメリカ州などの亜熱帯及び熱帯各地で栽培され、食用となるマメ目マメ科デタリウム亜科 Detarioideaeタマリンド属タマリンド Tamarindus indica の果実。]

 

 プリニウスの「博物志」三七卷五九章に、メヂアより來たるガッシナデてふ石は、其色、オロブス豆の如くで、花紋あり、此石を振《ふる》へば、子を孕みおると判る。三ケ月間、孕むとあるから、其丈《だ》けたてば、石が子を產むのだ。同卷六六章には、ペアニチスは、子を孕む石で、婦女の安產を助く。マケドニア產で、外見、水がこり固まつた樣だ、と載す。孰れも、構造、鷲石に似乍ら、鷲に係る話のない品らしい。

[やぶちゃん注:既出の訳書では、『メディア産のガッツシナデスはヤハズエンドウの色をしており、』(中略)『これは妊んでいて、それを振ると支給の中に石はいっていることを示すといわれるひとつの宝石である。「胎児」が発育するのに三カ月かかるという』とあった。この「ヤハズエンドウ」(矢筈豌豆)は、マメ目マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra で、我々が異名の「カラスノエンドウ」(烏野豌豆)で親しんでいるものと同じである。当該ウィキによれば、『原産地はオリエントから地中海にかけての地方であり、この地方での古代の麦作農耕の開始期にはエンドウなどと同様に栽培されて作物として利用された証拠が考古学的資料によって得られている。そのため、若芽や若い豆果を食用にすることができるし、熟した豆も炒って食用にできるが、その後栽培植物としての利用はほぼ断絶して今日では雑草とみなされている』とある。熊楠の「オロブス豆」のそれはギリシャ語由来の“orobus”で「苦いレンゲ」(マメ科マメ亜科ゲンゲ属 Astragalus )の意のようである。]

 

 鷲石の外にも、色々の物を、種々の鳥が用いて、繁殖の助けとする話、多い。其役目の異同に隨ひ、雜と分類して說かう。

 (一) 卵を破れざらしむる物 一八八〇年刊行『ネーチュール』二二卷に、チャテルが引た如く、『フィロの「避邪方」に云く、鷲は巢の内に、或石を匿しおき、其卵の破壞を防ぐ、丁度、燕がパースレイの頂芽を以て、子を護る如し。其石を、孕み女が頸に付れば、子は安々と產れる、と。又、エリアノスの「動物書」三卷二五章に云く、甲蟲が燕の卵を害しにかゝると、燕はパースレイの小枝の尖(さき)を投《なげ》て、以て、之を防ぐ。』と。

[やぶちゃん注:以上の Nature ’の当該部は「Internet archive」のこちらの右ページ下方から始まって次のページに及ぶ、「チャテル」(CHATEL)氏の記事 “The Stone in the Nest of the Swallow”であることが視認出来た。それを見るに「フィロ」は“Phile”なる人物で、その書「避邪方」は Remedies Against Sortileges ’(「諸魔法に対する処方類」)であり、「エリアノス」は“Ælianus”、その書名「動物書」は‘ Natura Animal ’であることが判った。則ち、「エリアノス」は「アイリアノス」で、熊楠は以下の「(二)」では「アイリアノス」と表記している。古代ローマの著述家クラウディオス・アイリアノス(ラテン文字転写:Claudius Aelianus 一七五年頃~二三五年頃)のこと。彼の「ゲスタ・ロマノルム」(ラテン文字転写:Gesta Rōmānōrum)は、中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集で、標題は「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるよう、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。以上の引用に出た芥川の影響については、「芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通」の「昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛」の中に言及があり、また、「芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》」の「《12―20》」にも記載があるので、見られたい。なお、以下、欧文文献の著者や書名、及び、神話・歴史上の神や人物は、注を始めると、異様に手間がかかり、ちっとも電子化が進まなくなるため、私がどうしても躓いたもの、是非ともオリジナルに語りたく感じたもの、そして、注しないと後が読めないもの以外は、ちょっと調べても判らない場合は、注することをあっさりやめることとする(既に先行して熊楠が引用して分かっている場合は例外的に記す)。私が判っているものも、原則、注しない。悪しからず。

「パースレイ」原文“parsley”で、これは、所謂、「パセリ」、セリ目セリ科オランダゼリ属又はオランダミツバ属オランダゼリ Petroselinum crispum のことである。]

 

 (二) 塞がれた巢を開通する物 オーブレイの說に、サー・ベンネット・ホスキンスの園丁が、試しに、啄木鳥の巢の入口の孔を、斜めに釘を打つて、遮《さへぎ》り、其巢のある木の下に淸淨な布を廣げおくと、數時間へぬ内に、鳥が、釘を除き、其時、用いた葉が、布の上に留まり有た。世に傳ふ、ヒメハナワラビは、斯《かか》る障碍物を除くの功あり、と(一九〇〇年板、ベンジャミン・テイロールの「ストリオロジー」、一五三頁)。猶太《ユダヤ》說に、ソロモン王、音を立《たて》ずに金石を掘り出ださんとて、鬼神の敎え[やぶちゃん注:ママ。]により、ガラス板で鴉(はしぶとがらす)(又、シギとも、鷲とも云)の巢を葢《おほ》ふと、鴉、還つて、其卵を護る能はず、飛去て、智石(シャミル)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を持來つて、ガラスを破つた。是は、鐵も力及ばぬ堅い物を、容易に切り開く力、あり。又、アイリアノスは、漆喰(しつくひ)で、ヤツガシラ鳥の巢をぬりこめおくと、忽ち、ポア草を持來り、漆喰にあて、之を破り開き、子に餌を與ふ、と言た。「ゲスタ・ロマノルム」には、駝鳥が、同じことをする、と見ゆ(ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章)。日本にも「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、水晶の如く、堅くて、玉の樣なる物なり。オランダ人、持來る。又、常に、ギヤマンを、オランダ人、無名指に、かねの環を掛けて、挾み持て、刀劍の代りに用るなり。石鐵の類、何にても堅き物を、このギヤマンにて磨る時は、微塵に碎けずということ、なし云々。全體、ギヤマンと云は、鳥の名なる由。此鳥、雛を生じたるをみて、オランダ人、其雛を取りて、鐵にて拵え[やぶちゃん注:ママ。]たる籠に入れ置く。時に、親鳥、雛の鐵籠にあるを見て、頓て、此玉を含み來り、鐵の籠を破り、雛を伴て飛去る。其落し置たる玉ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、鳥の名を呼で、ギヤマンということとぞ。此物、オランダ人も何國にある物と云事を知ず、と云り」と記す。

[やぶちゃん注:「ヒメハナワラビ」シダ植物の一種で、維管束植物門大葉植物亜門大葉シダ綱ハナヤスリ(花鑢)亜綱ハナヤスリ科ハナワラビ(姫花蕨)属ヒメハナワラビ Botrychium lunaria 。ユーラシア・北アメリカ・グリーンランドなどの極地附近に分布し、本邦では、北海道から本州中部以東の高山・亜高山に稀れに植生する。

『ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章』イングランド国教会の牧師にして、考古学者・民俗学者。聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)が一八六六年に刊行したCurious Myths of the Middle Ages(「中世の奇妙な神話譚」)。一八七七年版を「Internet archive」で「十六章」は、ここから

『「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、……」事前に私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』「譚海 卷之十一 ギヤマンの事」として、フライングして電子化しておいた。必要と思われる読みは、そちらで附してある。]

 

 (三) 卵を暖むる物 支那人は、鸛(こう)と鵲(かさゝぎ)が、礜石《よせき》で、卵を暖め孵《かへ》すといふ(「博物志」四。「本草綱目」十)。日本でも、「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ。支那人は、礜石の性、熱く、昔し、之を埋めた地は、乾いて、植物、生ぜず、と信じ、明朝《みんてう》に、南京の乞食、其少量を嚥《のん》で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)。だから、鳥がそれで卵を孵すと云《いつ》たのだ。人參が物を溫むるとの信念に就ては、「本草綱目」一二、「大英百科全書」十一板一二卷、其條。一八七二年板、ラインド「植物界史」五二九頁。一八八四年板、フレンド「花及花傳」二卷六二八頁をみよ。

[やぶちゃん注:「礜石」多数の死者が出たというのでお判りかと思うが、これは砒素を含んだ鉱物の一つで、猛毒。鼠殺しなどに使われた。

「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。以上の「鸛」のそれが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本の画像のここの、後ろから二行目で視認出来る。

『「本草綱目」十』「金石之四」の「礜石」の記載。「漢籍リポジトリ」の同巻[032-24a]以下を見られたい。「鸛」はそこに、三度、出る。その[032-26a]に続いて「特生礜石」が立項されてあり、その「集解」の中に。『𢎞景曰舊説鵲』(☜)『巢中者佳鵲常入水冷故取以壅卵令熱今不可得』とある。

『「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ』国立国会図書館デジタルコレクションの『新編信濃史料叢書』第二十一巻(一九七八年信濃史料刊行会編刊)同書第五巻の中に神鳥としての鶴の挿絵があり、そのキャプションに当該内容が記されてあるのを視認出来る。

『明朝に、南京の乞食、其少量を嚥で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)』前者では確認出来なかったが、「中國哲學書電子化計劃」の「五雜俎」の電子化の「第五卷 人部」に、「京師謂乞兒爲花子、不知何取義。嚴寒之夜、五坊有鋪居之、内積草秸、及禽獸茸毛、然每夜須納一錢於守者、不則凍死矣。其饑寒之極者、至窖乾糞土而處其中、或吞砒一銖、然至春月、糞砒毒發必死。計一年凍死、毒死不下數千。而丐之多如故也。」とあるのが(ガイド・ナンバー「54」)確認出来た。]

 

 (四) 一旦失なふた活力を囘復する物 「甲子夜話」一七に、お江戶靑山新長谷寺の屋上に鸛が巢を構へたのを、和尙の不在に、寺男が、其卵を盜み煮食はんとした。處へ、和尙、歸り、雌雄そろふて、庭に立《たち》て訴ふる體《てい》に、和尙、僕を糺して、仔細を知り、煮た卵をみるに、熟し居《をつ》た。「これを、還さば、心を慰むに足らん。」とて、巢に戾しやると、三、四日の間だ、一つの鸛、みえず、然るに、なにか、草を啣(ふく)んで歸り來り、其卵、遂に、孵つた。其草の實、地に落ちて生ぜしをみると、イカリソウ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]だつた、と記す。「本草綱目」の淫羊藿《いんやうかく》はイカリソウで、能く、精氣を益し、筋骨を堅くし、眞陽不足者宜ㇾ之、久服之使人好爲陰陽上ㇾ下子、嘗有淫羊、一日百遍合、蓋食此草故名。〔眞陽の足らざる者は、之れを宜(よ)しとす。久しく服(ぶく)すれば、人をして、好んで、陰陽を爲(な)し、子、有らしむ。嘗つて、淫羊有り、一日(いちじつ)に、百遍、合(がふ)す。蓋(けだ)し、此の草を食せるなれば、故に名づく。〕とある。又、夫絕陽無ㇾ子、女人絶隂無ㇾ子〔丈夫(じやうぶ)の絕陽にして、子、無きもの、女人(によにん)の絕陰にして、子、無きもの〕に、功、有りと。鸛、蓋し、是を以てするか、と靜山侯は言《いつ》た。男女を暖ためて、子、有《あら》しむるから、卵をも、暖め、雛に孵らしむると心得たのだ。今も件《くだん》の寺に、かの草と傳說を傳え[やぶちゃん注:ママ。]、先年、三村淸三郞氏が、其葉を、寺僧より買ひ、予に贈られた。歐州にも、和漢產と別だが、此屬の草、數種あり。其一つ、ボリガラ・アルピヌムを、英語でバレン・ヲールト、不生殖草といふ。和漢產と反對で、之を食へば、一件を遂行し能《あた》はなくなるといふより、名づけたと承はる。氷洲《アイスランド》人は、鴉の卵を煮熟しても、親鴉が、或る黑石もて、よく復活せしむと信じ、蘇格蘭《スコットランド》にも同說あり。今の希臘人、亦、鷲が伏せおる[やぶちゃん注:ママ。]卵を、取て煮た後、其巢に返しおけば、親鳥がジョルダン河へ飛び往き、一小石を齎し、歸つて巢に納めて、卵を孵す、と、いひ、其石を採つて、邪視を避け、種々の病を治す。之を「緩(ゆる)め石」と呼《よん》で、屢ば、鍍金《めつき》して珍藏す、と(ベーリング・グールド「中世志怪」一六章。一九〇一年八月と、一九〇四年八月、龍動《ロンドン》發行、『マン』)。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」のそれは、先行する南方熊楠の「鴻の巢」の注に必要であったため、既に「フライング単発 甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」として電子化注してあるので、そちらをまずは見られたい。

「淫羊藿」「イカリソウ」は、モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ(錨草)属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum 当該ウィキによれば、『和名』『「錨草」』で、『花の形が和船の錨に似ていることに由来する』。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『地方によって、カグラバナ、ヨメトリグサともよばれ』、『中国』での『植物名は淫羊藿(いんようかく)』とあり、『花言葉は、「あなたを離さない」である』とあった。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名である』。『淫羊霍とは』、五~六『月頃の開花期に』、『茎葉を刈り取って天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ、キバナイカリソウ、海外品のホザキノイカリソウ(ホザキイカリソウ)も同様に使われる』が、『本来の淫羊霍は中国原産の同属のホザキノイカリソウ E. sagittatum』『(常緑で花は淡黄色)で』、『名は』、『ヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』とある。

『「本草綱目」の淫羊藿』同書の「淫羊藿」であるが、「漢籍リポジトリ」の「卷十二下」の「草之一」[037-25b]以下であるが、見て戴くと判るのだが、熊楠は、例によって漢文原文をパッチワークしており、ソリッドにはこの引用部は存在しないので、注意が必要である。但し、同書の述べている内容を改変はしていない。

「三村淸三郞」市井の書誌学者三村竹清(ちくせい 明治九(一八七六)年~昭和二八(一九五三)年)の本名。号のそれは、彼が京橋八丁堀で竹問屋を営んでいたことによる。後に屋代弘賢や曲亭馬琴のそれを真似て、『新耽奇会』を作ち、珍しいものを持ち寄って集い、その図録「新耽奇漫録」を纏めている。

「ジョルダン河」中東のヨルダン川。]

 

 全體、「この鷲石とは何物か」と尋ぬるに、「大英百科全書」一一板一六卷にある通り、其純正品は、褐鐵鑛の團塊、中空で砂礫を蓄へ、ふれば、ガラガラと鳴る物だ。ポストクとリレイが、英譯本プリニウス「博物志」三六卷三九章の註に、鷲石は、粘土を混じた鐵石の圓塊《ゑんくわい》で、或は、中空、或は、内に、他の石、又、少しの水、又、或る礦物末を藏むるとあるのが、普通品で、不純の褐鐵鑛だ。日本にも、大有りだが、たゞ之を鷲と連ねた話は、ない。古來、本草家や玩石家が、漢名「太一餘糧」、和名「スヾイシ」、又、漢名「禹餘糧」、和名「イシナダンゴ」とした兩品が、尤も歐州の鷲石に恰當《かふたう》[やぶちゃん注:過不足なく一致・相当すること。]し、漢名「卵石黃」、和名「饅頭石」といふは、やゝ似て、非なる者らしい。歐州の鷲石に種々ある如く、支那でも「太一餘糧」と「禹餘糧」の區別、判然たらず。因て、漫《みだり》に此樣《かやう》な石を「太一禹餘糧」と呼《よん》だと、「本草綱目」にみえる。『性之硏究』第一卷第六號二三二頁に、「鷲石」を「孕石」と書き有《あつ》たに就ては、本話の最末に拙見を述よう。一八七四年、パリ板、スブランとチエールサンの、「支那藥材篇」にも、既に、予輩、浙江沿岸地方より得た「禹餘糧」てふ物は、西洋で「鷲石」と云《いは》るゝ「水酸化鐵」で、大きさ、鴨卵《かものたまご》ほどで、中空に、多く、小石粒あり、下痢を止むるに藥用さる、とある。

 斯《かか》る物を、鷲に引合《ひきあは》した古歐人の心が、知れぬ樣だが、全く解說なきに非ず。此田邊町の北、三哩《マイル》[やぶちゃん注:約四・八三キロメートル。]斗《ばか》り、岩屋山の頂《いただき》に近く、岩洞中に觀音像を安置し、參詣、斷《たえ》ず。洞の内外の岩壁、自然に棚を重ねた狀をなし、鷲が巢《すく》ふに恰好だ。此岩壁と岩棚に、無數の小石を含みあり。何れも楕圓で、較《や》や扁たく、空なる腹内に、黃土、滿つ。「饅頭石」と稱ふ。此饅頭石を包んだ岩が軟らかいから、風雨でさらされて、饅頭石、離れ出で、或は、洞底に、或は、棚上に、時々、落留まる。信心の輩、拾ひ歸つて記念とし、佛壇抔に納め、不信心の者は、硯滴(みづいれ)に作り、又、小兒の玩物とし、或は、中の黃土を𤲿《ゑ》の具に試みたが、うまく行ぬと、きく。此近處に、鷲をみること、全くなきに非ねば、鷲が、此岩棚に巢くひしことも、なしと限らず。果して鷲が巢つたなら、かの饅頭石が、多少、其巢内に見出された事も有《あら》う。扨、ボストック及びリレイ英譯、プリニウス十卷四章註に、鷲石、乃《すなは》ち、「含鐵《がんてつ》子持ち石」の片塊《へんくわい》が、たまには、鷲の巢の中より見出ださるゝは、有り得べきことだ、と言ひおり[やぶちゃん注:ママ。]、凡て、人間の判斷は、必しも、一々、正確嚴峻な論理を踏むを、またず、多くは、眼前の遭際《さうさい》に誘はれ、左右される。既に以て、ベーン先生の「論理書」にも、數日間、或る地に滯在中、晴天斗り、續いたら、其地は、年中、晴天のみである樣《やう》心得た人、多く、彼《かの》地は、いつも天氣のよい所など、よくいふ物、と說かれた。其と齊《ひと》しく、當初、此石を鷲石と名づけた地が、上述、田邊近所の岩屋山の如く、自然に、鈴石、多くある岩山に、鷲が巢くひ、其巢の内に、偶然、鈴石を見出だす事、一度ならず、阿漕《あこぎ》の浦のたび重なりて注意すると、其石中に、又、小石を藏せるを見て、石が子を孕んだ物と誤認し、延《ひい》て、鷲が、此石に、其卵を孵す力、あり、と知《しつ》て、巢に持ち込んだと、合點したゞろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「岩屋山の頂に近く、岩洞中に觀音像を安置」現在の和歌山県田辺市稲成町にある「岩屋観音」(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像の、これとか、これ、或いは、これや、これを見ると、熊楠が言っている崖面の特異な楕円状の穴群が確認出来る。なお、サイト「AND LOCAL」の『和歌山県・田辺市 絶景と厳かな境内「岩屋山 観音堂(観音寺)」へ行ってきた。』によれば、『ここは今から約』八百五十『年ほど前、那智山の滝で苦行された文覚上人がその後、牟婁地方をまわられた時、一夜の夢に霊感をおぼえて岩屋山に立ち寄られ、そして、大岩窟に念持仏の聖観世音像をおまつりしました』。『これが観音密寺の始まりと伝えられて』おり、『その後は、仏徳高い厄除け寺として、人々の信仰を集めてきましたが、昔、小栗判官兼次が、当山に参籠し』、『観音霊夢によるお護りをうけたと語り継がれていることなどによっても、古くから熊野信仰につながる霊場として広く世に知られていたことがうかがわれます』。『今もなお、『岩屋山』の名で親しまれ』、『健康長寿、交通安全、学芸成就を願ってお参りする人々が後を立ちません。特に、ひき岩群に設けられた新西国』三十三『番霊場を巡れば、その眺めは絶景かつ雄大であり、大自然の静けさと霊気ただよう寺院として感慨そぞろ深いものがあります。高山寺の末寺であり、天正年間』、『豊臣勢による熊野侵攻の際には、高山寺の尊像をここに移して災禍をまぬがれ、太平洋戦争末期にも、万一を考えて再度の避難地となった』とあった(最後に『(岩屋山説明書より)』引用とある)。]

 

 此樣《こん》な石に催生《さいせい》安產の奇効ありと信ずるには、必しも、その偶然、鷲巢内にあるを見るを須《ま》たず。そは、和漢共、斯る石を右樣の効ある物と信じ乍ら、鷲と何の關係ありと說かぬで、知れる。蓋し、支那人は、烏麥(からすむぎ)が、至つて生え易く、熟して落ち易きをみて、催生劑とした如く、饅頭石の内に、土や砂礫を藏め、宛然、母の體内に子ある如きをみて、是にも、催生安產の効ありと、したのだ。少しく類例を擧《あげ》んに、米國のズニ印甸《インジアン》の女は、產に臨んで、生(なま)で豆を嚥む。豆が、やすやすと喉を滑り下《おり》る樣に、子も安く產まるゝといふのだ。ニゥギネアのコイタ人は、山の芋の收穫を增す爲め、畑に、その種芋(たね《いも》)の形した石を栽《う》え[やぶちゃん注:ママ。]、バンクス島人は麪包果《バンのみ》を殖やさん迚、呆れる程、此果に酷似した珊瑚石を植《うう》る(「本草綱目」十。「重修植物名實圖考」一。一九一九年十一月『マン』八六項。一九一四年板、バーン「民俗學必携」二四頁。一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁)。

[やぶちゃん注:「烏麥(からすむぎ)」単子葉植物綱イネ科カラスムギ属 Avena の食用にされる四種、或いは、その代表種であるエンバク Avena sativa

「ズニ印甸」アメリカ・インディアンの一民族。ニューメキシコ州中部と、アリゾナ州との州境附近に住む。独自の言語を有し、その起源や初期の歴史は知られていない。トウモロコシ農耕を主な生業とし、銀細工・籠細工などに優れている。社会は 十三の母系氏族から成るが、主な役職には男性が就く。複雑な儀礼体系を有し、男性が神乃至は精霊に扮して、仮面や衣装を着ける「カチーナ踊り」も残されているが、殆んどが現代社会に同化されてしまった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「コイタ人」パプア・ニュー・ギニアの中部地方、ポート・モレスビー(グーグル・マップ・データ)一帯の乾燥して痩せた海岸地帯に住んでいる少数民族。元々は内陸部に住み、海岸地帯の部族と交易に携わっていた。白人と接触後、海岸地方に移住し、オーストロネシア語系の言語を話す「モツ族」と共存するようになった。そのため、現在では、彼等固有の言語を話す者は非常に限られ、若年層はトク・ピシンや、英語を好んで話す傾向にあり、村での生活も文化面もコイタ族特有のものは殆んど残っていない(当該ウィキに拠った)。

「山の芋」パプア・ニュー・ギニア周辺で知られる古い芋類は、タロイモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科 Araceaeのサトイモ類)・ヤムイモ(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea のヤマノイモ類)である。現在はそれに、タピオカの原料として知られる、キントラノオ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ  Manihot esculenta も挙げられるが、これは、後に南米から移入されたものであり、しかも、木本低木であり、狭義の日本人のイメージする「芋」類とは、ちょっとズレがある。

「バンクス島人」バンクス諸島(現在のバヌアツ共和国の北部にある群島)の先住民。

「麪包果」常緑高木でポリネシア原産のクワ科パンノキ属パンノキ Artocarpus altilis の実。当該ウィキによれば、『ほどよく熟した実を調理したとき』には、『焼きたての穀物のパン』『のような触感』があり、風味は『じゃがいもに似ている』とあった。

『一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の‘The Melanesians : studies in their anthropology and folklore ’ (「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読め、指示されたページは、ここと、ここ。前の部分には石の霊性が語られてあり、後の部分では、珊瑚石がパンの実に驚くほど似ているという記載がある。]

 

 そこで、鷲石を、石が子を孕んだ物、又、鷲が子を孵す爲め、巢へ持込だ、と解して、妊婦に佩びしめ[やぶちゃん注:底本では「ネしめ」であるが、意味不明なので、「選集」で訂した。]、試るに、利く場合も、有る。扨は、產婦に偉効ありと判斷し、評判高まるに付ては、催生安產と、殆んど、同功一體なる、卵を暖ためるの、卵の破壞を禦ぐの、煮拔かれたのを、再活せしむるのと、雜多の奇驗《きげん》も、此石に附會さるゝは、知れ切つた成行き。人間に取ても、此石のお蔭で、妻が安產すれば、新產婦は、一生の大厄を免れて、命、維《こ》れ、新た也。萬機《ばんき》改造して、特樣《とくやう》の妙趣、あな、にへやう[やぶちゃん注:「あな」は感動詞だが、参道の「穴」を掛け、「にへやう」は「煮えやう」か。]、まして、女などの企て及ばぬ備え[やぶちゃん注:ママ。]、多し。去《され》ば、後漢の安世高譯出「佛說明度五十校計經《ぶつせつめいどごじふかうけいきやう》」に云く、佛言。是人譬如婬泆女、上頭姪決自可、已妊身不ㇾ知胞胎兒在腹中日大、幾所婬泆、妬女爲復婬泆自可、至兒成就、十月當ㇾ生、兒當ㇾ轉未ㇾ轉、當ㇾ生未ㇾ生、其母腹痛、自慙自悔當ㇾ墮、痛時妬女啼聲聞第七天、「伊也土言布乃仁私多可羅土漸土宇美」、兒生巳後其母痛愈、便復念淫泆、「禰太布利で夫仁佐波流公事工み」、便不ㇾ念ㇾ慙不ㇾ念ㇾ痛、便婬泆如ㇾ故、「阿太々女氏吳奈土足遠佛津可美」、如ㇾ是苦不ㇾ可ㇾ言、妬女亦不ㇾ能自覺苦痛。「於是夫茂嬶阿殿比女波自米駝土薄加遠伊比」〔佛、言はく、「是の人は、譬へば、婬泆妬女(いんいつとぢよ)のごとし[やぶちゃん注:「婬泆」淫(みだ)らな男女関係。]。上頭(としわか)くして、淫泆を、自(みづか)ら可とす。すでに姙身(みごも)るも、胞胎兒(はうたいじ)の、腹の中に在つて、日に大(おほ)きになるを知らず、幾所(いくばく)の淫泆、妬女、復(ま)た、淫泆を爲(な)すを自ら可とす。兒(こ)の成就するに至れば、十月(とつき)にして當(まさ)に生むべし。兒、當に轉ずべくして、未(いま)だ轉ぜず、當に生まるべくして、未だ生まれず。其の母、腹痛して、自ら慙(は)ぢ、自ら悔(く)ゆ。墮(お)つるに當りて、痛む時、妬女の啼く聲は、第七天に聞こゆ。「いやと言ふのに、したからと、やつと、うみ。」。兒、生まれ已然(をは)りて後(のち)、其の母、痛み、癒(い)ゆれば、便(すなは)ち、復た、婬泆を念(おも)ふ。「ねたふりで、夫(をつと)に、さはる、公事(くじ)だくみ。」。便(すなは)ち、慚(はぢ)を念(おも)はず、痛みを念はず。便ち、復た淫泆なること、故(もと)のごとし。「あたためて、くれなと、足を、ぶつつかみ。」。是(か)くのごとき苦しみ、言ふぺからざるに、妬女は亦、自ら苦痛を覺(さと)る能はず。是(ここ)に於いて、夫(をつと)も 嬶(かかあ)殿、ひめはじめだ、と、ばかをいひ。」。〕妻が安產、夫は大悅、苦んで、泣き、產んで、苦を忘れ、世にトシゴを、引つ切りなくうむすら、少なからず。隨つて、孕んでは、鷲石を佩びて、安產、產んで後は、之を帶びて、夫妻相好愛す。是ほど結構な事なく、鷲石ほど、重寶な物、なし、と信ずるに及んだのだ。

 中世歐州で、普く讀まれた「動物譬喩譚(フィシヨログス)[やぶちゃん注:ルビでなく、本文。]」原本の第十九譬喩《ひゆ》は、ヴュチュールが、石の内に、又、石を放在する者を以て安產する話だ。ヴュチュールは、種屬、多般で、支那にも有《あつ》て、鵰《てう》と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭《とくとう》故、「博物新編」には「禿鷲《はげわし》」と譯した。鷲と近類だから、鷲石の話を、禿鷲が安產を得ん爲め用ゆる石に振替《ふりかへ》たのだ。プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女《はらみをんな》の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言《いつ》た。一六四八年、ボノニア板、アルドロヴァンジの「礦物集覽」四卷五八章に、大アルベルツスから引て述た、禿鷲體内に生ずるクヮンドリなる頑石《ぐわんせき》は、詳說を缺きおる[やぶちゃん注:ママ。]が、禿鷲の安產石で有《あら》う。

[やぶちゃん注:「動物譬喩譚(フィシヨログス)」フィシオロゴス(ラテン語転写:  Physiologus )は、中世ヨーロッパで、聖書と並んで広く読まれた教訓本。表題はギリシア語で「自然を知る者・博物学者」の意。ヨーロッパでは五世紀までに訳されたラテン語版が流布した。参照した当該ウィキによれば、『さまざまな動物、植物、鉱物の容姿、習性、伝承が語られ、これに関連して宗教上、道徳上の教訓が、旧約聖書や新約聖書からの引用によって表現されている。とくにラテン語版は、のちに中世ヨーロッパで広く読まれる動物寓意譚』「ベスティアリウム」『(Bestiarium)の原型になったと言われる』とある。

「ヴュチュール」「種屬、多般で、支那にも有て、鵰と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭」「禿鷲」「鷲と近類」熊楠は民俗史上のそれを言っているものの、ここでの謂いは鳥類学上からは、当時の時点でも、既にして誤りが多過ぎる。まず、「ヴュチュール」は英語“:vulture”で、腐肉を漁る猛禽類を広く指す俗称であって、特定の鳥の種名ではなく、ハゲワシ類やコンドル類を指す。その「ハゲワシ」であるが、これはタカ科 Accipitridaeの多系統の科を指す。分類学的になかなか決定がなされなかったが、現行では、タカ科のハゲワシ亜科 Aegypiinae及びヒゲワシ亜科 Gypaetinaeに属する種に「ハゲワシ」類は限定されている。しかし、では、中国語でそれを指すと熊楠の言っている「鵰」(現代仮名遣「ちょう」)は、実際には何を指すかと言えば、タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、オオワシ(タカ科オジロワシ属オオワ Haliaeetus pelagicus)・オジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)・ハクトウワシ(タカ科ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus)等のように、比較的大きめの種群を漠然と指す通俗通称なのである。而して、教義に日本で「鵰」は何に当てられるかというと、本邦にも棲息する大型であるタカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 、漢字表記で「角鷹」「熊鷹」「鵰」がそれなのである。中文ウィキの同種のページを見ると、「鷹鵰」が当てられていることからも、クマタカで納得されるのである。以上から、「クマタカ」は熊楠の言うような「コンドル」類及び訳語の「禿鷲」類とは「同類」ではないのである。コンドルはタカ目コンドル科コンドル属コンドル Vultur gryphus であって、以上の意味限定から、コンドルは絶対に「鵰」ではないし、ちょっと禿げてるからと言っても、現行の狭義の分類学上の狭義の二科の「ハゲワシ」類とも、当然のごとく、全然、同類ではないのである。因みに、ヨーロッパ南部からトルコ・中央アジア・チベット・中国東北部に分布し、本邦には迷鳥として北海道から沖縄まで各地で記録があるタカ科クロハゲワシ属クロハゲワシ Aegypius monachus は頭部に羽毛がなく、灰色の皮膚が露出している見た目で確かに正統に「禿げた鷲」であり、嘴も太く、鉤状になっていて先端部が黒いという、如何にもな、正統な「鵰」に属する種(で全長一~一・一〇メートル、翼開長二・五〇~二・九〇メートルで、本邦で記録されたタカ科の鳥の中で最大である)がおり、このクロハゲワシの旧和名は非常に困ったことに実は「ハゲワシ」だったという悩ましい過去の事実もあるのである。

『プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言た』前掲訳書でも『ハゲタカの羽』となっている。問題ない。広義の「ハゲタカ」に該当する現生種は二十三種おり、タカ科ハゲワシ亜科Aegypiinaeには、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに生息する十六種が含まれているからである。]

 

 爰で、鷲を性慾と蕃殖に關して有勢の物とした話が、諸方に少なからぬに付て述べ置《おか》う。先づ、古希臘の傳說に、トロイ王トロスの子ガニメデス、艷容無双で、大神ゼウス、之に執心の餘り、鷲をして、取て天上せしめ、之を酒つぎ役の寵童とし、神馬二匹を、其父に償ふたという事で、歐州の美術品に古來大鷲がこの少年を捉つて天上するところが多い。ローマで少年の美奴酒の酌を勤めるを、ガニメデス、それから轉じて、カタミツスと呼でより、英語で男色を賣る者をカタマイトといふ(スミス「希﨟羅馬傳記神話辭彙」二、及び「ヱブスター大字書」)。ツラキア生れの名娼ロドピスは、曾て動物訓話作者イソップと共に、サミア人ヤドモンの奴《ど》たり。後ち、サミア人ザンデスの奴となり、埃及の大港ナウクラチスで、藝妓商賣をした。一日《いちじつ》、此女、浴する間に、鷲がきて、其靴一つを摑み去り、埃及王が裁判しおる前に落した。王、其事の奇にして、其靴の美しきに迷ひ、持主を尋ねて息《やま》ず、遂に此女を探り當て、后とした。ロドピスは「頰赤」の義で、わが邦では、川柳にも「頰赤の匂比囊《にほひぶくろ》で防ぐ也」と有《あつ》て好評ならぬ[やぶちゃん注:「好評でならぬ」の意。]。北印度で韋紐《ヴイシユニユ》[やぶちゃん注:読みは「選集」のルビに拠った。]神は金鷲に乘ると信じ、翼ある美童像もて其鷲を表はす所が、希臘のガニメデスに似おる[やぶちゃん注:ママ。](一八四八年發行『ベンガル皇立亞細亞協會雜誌』一七卷五九八頁)。

 南印度のトダ人、傳ふらく、老媼ムラッチの頭に、鷲が留まり、其より、此婆、孕み、男兒を擧たのが、コノドルス族の先祖、と。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」に高名な、猴王ハヌマンの緣起に、アヨジャー王ダシャラタ、子なきを憂ひ、牲《にへ》を供えて[やぶちゃん注:ママ。]禱《いの》るに、牲火中《にへのくわちゆう》に、神、顯はれ、天食パノヤス[やぶちゃん注:神の食物の名か。]を授けて、其三妃に頒たしむ。其時、一妃の分を、鷲が掠め去《さつ》て、アンジャニ女《ぢよ》の手に落す。此女、亦、子なきを悲しみ、苦行中だつた。今、天食を得て、甚だ、喜び、之を食ふと、忽ち、孕んで、ハヌマンを生《うん》だ、とある。

[やぶちゃん注:『南印度の「トダ」人』インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。]

 

 所謂、金鷹は佛經の金翅鳥《こんじちやう》で、佛說に、昔し、ビナレ城に、タムバ、治世の時、釋尊の前身、金翅鳥王に生まれ、年、若し。一日、少年に化《くわ》してビナレに往《ゆ》き、王と博戲《ばくち》するを、宮女蘿等、其美貌に見とれ、王后に語る。他日、化《ばけ》少年、又、往《い》つて、王と博戲する時、后、盛裝して入《はいつ》て見る。少年、亦、王后の麗容に驚き、忽ち、象牙の英語[やぶちゃん注:ivory。洒落。]で相惚《あいぼ》れときた。鳥王、乃《すなは》ち、暴風を起し、天地晦冥、宮人、愕き、走り出るに乘じ、后を摑んで、自分が住む龍島につれ行て、之と淫樂し續く。王、其樂人サツガをして、遍く海陸に后を搜さしむ。サツガ、海商の船に乘つて、金島に渡る。船中の徒然を慰むる爲め、商人どもサツガに奏樂を勸めると、易い御用なれど、予が海上で奏樂したら、魚、驚いて、船を破るべし、といふ。一向、信ぜずに、强いられ、止《やむ》を得ず、絃を鳴《なら》すに、魚類、大騷ぎし、其内の大怪魚一つ、飛揚《とびあが》つて、船に落ち、二つに破り了《をは》る。鳥王は、后を盜んで、飽く迄、之と淫樂し乍ら、知らぬ顏して、每度、ビナレ王と博戲にゆく。此時も、丁度、其方《そつち》へ行《いつ》た留守中で、后は技癢《ぎやう》[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくて、うずうずすること。]の至りに堪《たへ》ずと有《あつ》て、所詮、女房にやもちやなさるまい抔と、うなりつゝ海濱に出步く内、本夫に仕へた樂工が、船板を便りに此島え[やぶちゃん注:ママ。]流れ寄《よつ》た處へ、行合《ゆきあ》ひ、事情を聞き、猴《さる》にかき付《つか》れたんぢやないが、逢《あひ》たかつたと、抱伴《だきつ》れて宮中に歸り、十分、保養し、本復《ほんぷく》せしめ、美裝・美食に手を盡して、之と淫樂し、「斯《かか》りける處え[やぶちゃん注:ママ。]亭主歸りけり」の警句を忘れず、注意して匿しおき、鳥王、出で行けば、又、引出《ひきだ》して、サツガと歡樂した。斯《かく》て一月半の後、ビナレの海商、薪水《しんすい》を求めて、島に上りしに、便船して、王宮に戾り、鳥王、來つて、タムバ王と遊ぶを見、絃を皷《なら》して、「王后、鳥王に盜まれ、海島にあり、自分、其島へ漂著して、飽く迄、王后と歡會した。」事を謠ふた。金翅鳥王、之を聞《きい》て、后の好淫、厭足なきに呆れ、怒り去《さつ》て、后を伴れ來て、タムバ王に返し、再びビナレえ[やぶちゃん注:ママ。]來なんだ、とある。唐譯の、此譚は、これと、大分、差《ちが》ふ。商船、難破して、商主、死し、其妻、一板を便り、海洲に漂著して、金翅鳥王の妻となり、其子を生む譚、あり。又、梵授王が、妙容女を妃とし、其貞操を全うせしめん爲め、金翅鳥王に命じて、晝は、之を、海島に置き、一切、人間に見られざらしめ、夜は、之を、王宮に伴《つれ》來たらしめ、天に在ては願わくは比翼の鳥と契りし内、速疾《そくしつ》てふ名の樂工が、サツガ同然の難に逢《おふ》て、其島に上り、王妃に通じ、共に、鳥王を欺き、王宮え[やぶちゃん注:ママ。]つれ歸り、姦通の事、露はれて、阿房拂ひになり、賊難に遇《おう》て、妃は、賊魁の妻になり、情夫、速疾を殺し、種々《いろいろ》と、淫婦に、ありたけの醜行《しうぎやう》を重ねた後ち、野干《やかん》の謀《はかりごと》に遵《したが》ひ、恆河《ごうが》に浴して、改心、易操[やぶちゃん注:意味不明。]したと稱し、再び、王に迎へられて、大夫人と成《なつ》た次第を述べある。其から、本邦の羽衣傳說に似た希臘の神話、有《あつ》て、女神アフロジテが、川に浴するを、其甥ヘルメス神が垣間見《かいまみ》、鷲をして其衣を攘《かす》め去《さら》しめ、「望みを叶へたら、返しやる。」とて、之に通じたといふ。セストス市の少女、鷲を育つると、每度、鳥類を捉へ來たり、返禮した。少女、死して、屍を燒く火中に、鷲が投身して、殉死し、市民、碑を建て、之を旌表《せいひやう》[やぶちゃん注:人の善行を褒めて、世に広く示すこと。]したと有《あつ》て、何にしろ、鷲は、美童や婦女ずきとされた物だ(一九〇六年板、リヴァース「トダ人篇」、一九六頁。一九一四年、孟買《ボンベイ》板、エントホヴェン「グジャラット民俗記」、五四頁。カウエル「佛本生譚」、三卷三六〇語。「根本說一切有部毘奈耶雜事」、二九。一八七二年板、グベルナチスの「動物志怪」、二卷一九七頁。プリニウス「博物志」、十卷六章)。

[やぶちゃん注:『リヴァース「トダ人篇」、一九六頁』イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌‘The Todas’ 。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で原本が読め、ここが当該部。]

 

 鷲と子孫繁殖を連ねた信念は古羅馬に在《あつ》た。アウグスツス帝がリヴィア・ズルシルラを娶つた直後、鷲が白牝鷄を后の前垂れに落し、其牝鷄が月桂枝を銜《ふく》み居《をつ》た。卜《うらな》ふと大吉兆と知れ、其枝を植ると大森林となり、牝鷄を畜ふと大繁殖した。因て其所を牝鷄莊と號した。ネロ帝の末年、其鷄、皆な、死に、月桂林は萎み亡《う》せたので、「帝統、絕ゆべし。」と知《しつ》た想《さう》な。鷲に摑み去れた幼兒が名人となり、或は著姓の祖と成た例、日本に少なからず。奈良大佛の創立者良辯僧正、攝州高槻の鷲巢見氏の祖等だ。印度にも大王の后となつた太陽姬(スリア・バイ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は、貧な牛乳搾り女の娘で、一歲の時、老夫婦の鷲に捉去《とりさ》られ、其巢で養はれたといふ。(グベルナチス、二卷、一九六頁。「元亨釋書」本傳。「翁草」三。一八六八年板、フレール「デッカン舊日譚」六章)。

[やぶちゃん注:「グベルナチス、二卷、一九六頁。」この部分は「選集」では『グベルナチス、一巻一九六頁。』となっているので、「Internet archive」で調べたところ、第二巻で正しいことが判明した。ここである。そこには確かに、「アウグストゥス家の繁栄の瑞兆として、嘴に月桂樹の枝をくわえた白い雌の鷲鳥、リヴィア・ドルシッラの膝の上に落ち、その枝が植えられ、鬱蒼とした月桂樹の森林と成った。牝鶏は非常に多くの子孫を産んだことから、この出来事が起こった別荘は「雌鶏別荘」(“Villa of the Hen”)と呼ばれるようになった。」とあって、「ネロの生涯の最期の年、鶏は、総てが死に、月桂樹もまた、総て枯れた。」とあるから、間違いない。この平凡社に「選集」は、総てが、原本に当たって厳密に検証されて校訂されているわけではない(今まで何度も煮え湯を飲まされて、延々、徒労の探索をさせられたりした経験がある。専門家が校訂編集している訳ではないと覚悟された方がよく、例えば、総ての漢文部は、全部が本文(白文・訓点附漢文)なしで訓読されてあるものの、この訓読、正直な感想を言うと、漢文の苦手な日本文学の大学生でも、こうは決して読まないと、呆れるおかしな部分が、多々、見られるのである)ので、注意が必要である。]

 

 一九〇九年板、ボムパスの「サンタル・パルガナス民談」、九六章は、雌雄の禿鷲が人の双生兒を養ひ、二兒、步み得る程に成《なつ》て、高い木の上から、地に下《おろ》し、『「カーラゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、アサンの下に殘されて、夫婦の鷲に育てられつる」巡禮に御報謝を。』と、唄を敎えた[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。蓋し、其母、カーラ果を集めに行《いつ》て、林中で双生兒を生《うん》だが、折角、取つた果物を、持還《もちかへ》らずば、明日が過《すご》されず、子と果物と兩持ちすべき力も、なし。「儘よ。食ひさえ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。多発する。]すれば、子は、又、出來る。運さえよくば、引還《ひきかへ》し來るまで、活きおれ。」と言《いつ》て、アサンの葉を二兒に被せおき、果物を負ひ歸つた間だに、禿鷲夫婦が取去《とりさつ》て育て上《あげ》たのだ。扨、二兒がひよろつき乍ら、件の唄を張上《はりあ》げ、村に入《はいつ》て乞食すると、ちつとの物になるを、巢に持歸《もちかへ》つて、生活した。禿鷲、かねて、二兒に敎えて、其親の住《すむ》村え[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、往《ゆか》ざらしめた。一日、二兒、乞食に出で、「なんと、鷲が『往くな』と云た方え、往《いつ》てみようでないか。」と、相談、決して、彼《かの》村へ往き、唄ひ𢌞り、生みの兩親の家え、くるを、見れば、小さい巡禮、「ドレドレ、御報謝進上。」と、盆に、しらけの志《こころざし》、イヨーと、懸け聲迄は書いてゐないが、其母親が、お弓もどきに出て聞くと、唄は根つから吾が事なり、彌《いよい》よ、尋ねて、吾子と知れ、大悅びで、夫と共に、二兒を大籃《おほかご》にふせおいた體《てい》、恰《あたか》も、安珍を道成寺の鐘下に匿した如し。禿鷲は執念深いからどうせ只はおくまい、ドウモ安珍ならぬと案じたのだ[やぶちゃん注:「安心」に引っ掛けた洒落。]。果して、禿鷲、此家え、舞ひ來たり、屋根を穿つて、飛び入り、籃を覆《くつが》へして、二兒を捉へた。父母も、「やらじ。」と二兒を執《とら》へ、エイ聲《ごゑ》出して引合《ひきあ》ふたので、二兒の體が、二つに割れ、父母は、泣く泣く、手に留《とどま》つた半分の屍骸を、火葬した。禿鷹も、片割れの死骸を持歸《もちかへ》つたが、自分が育てた者を、食ふに忍びず、火葬の積りで、巢に火を掛《かけ》ると、燒けおる[やぶちゃん注:ママ。]屍骸から、汁が迸《ほとば》しり、其口に入《はい》た。それが無上に旨《うま》かつたので、燒いてしまふは惜《をし》い物と、殘つた屍骸を引出して食《くつ》たのが、この鳥、人屍《じんし》を食《くら》ふ濫觴だ、といふ次第を說《とい》た者である。誰も知る如く、パーシー人は、必ず、其屍を、此鳥の腹に、葬る。

[やぶちゃん注:書名の中の「サンタル・パルガナス」は“Santal Parganas”で、インド東北部の地方名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「アサン」インド・ミャンマー・タイを原産とし、熱帯アジア大陸部に植生する高木落葉樹であるフトモモ目シクンシ(使君子)科Combretaceaeモモタマナ(桃玉菜)属クチナシミロバランTerminalia alata  個人サイト「タイの植物 チェンマイより」の同種のページによれば樹高は二十~三十メートルに達し、葉は単葉で、ほぼ対生し、長さ十~十五センチメートルの楕円形を成す。本種の実は翼果で、五つの翼を有する。但し、『大きく』、『あまり遠くへは飛ばないで、樹下に落下していることが多い』とあり、「その他の名称」の項に『ヒンディ-語・ベンガル語Asan』、『英名AsanBurma laurel』とあって、この「アサン」は現地での正統な名であることが確認出来る。また、『仏典の植物 タイ語HPには本樹はバ―リ語名アッチュナと』あるとされ、『そして「仏典の植物」(満久)には』『本樹は梵語名アサナ漢訳仏典名-阿娑那(あさな)と』、『記載されている』ともあった。

「お弓」母と娘の関係から浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の母「お弓」(娘は「おつる」)のことだろう。

「パーシー人」ヒンディー語で、「パールシー」「パールスィー」と音写される、インドに住むゾロアスター教の信者を指す語。]

 

 歐・亞共に、獸畜が、人の子を育て上げた譚、多し。アタランタが牝鹿に、シグルドが牝熊に、ロムルスとレムスの双兒が牝狼に乳せられ、后稷《こうしよく》が牛・羊に養はれ、楚の若穀於擇《じやくこくおせん》が牝虎に育てられた抔だ(コックスの「民俗學入門」、二七五頁。スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」。「琅邪代醉編」七)。こんな例、今もなきに非ざれば、鷲や禿鷲が食ふ積りで捕へ去《さつ》た人の兒を、子細有《あつ》て食はず、其内、慈念を生じて、養ふ處を、人が見付け、救ふて、己れの子とするは、丸で無い事でないと惟《おも》ふ(一八八〇年板、ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下。大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節[やぶちゃん注:後の資料は「選集」のものを参考にして追補してある。])。此一事は、「鷲が、人間繁殖に關し、力あり。」と信念の唯一の源因たらぬ迄も、大《おほい》に之を强めたは爭ふべ可らず。

[やぶちゃん注:「アタランタ」ギリシア神話に登場する女性の英雄で、俊足の美貌の女狩人として知られるアタランテー(ラテン文字転写:Atalanta)であろうが、当該ウィキによれば、彼女は牝熊に乳を与えられている。そこに、また、『アタランテーは』『カリュドーンの王子』『メレアグロスと関係を持っていた。彼女は後にパルテノパイオスを産み』、『パルテニオン山に捨てた。このとき』、『テゲアー王アレオスの娘アウゲーもヘーラクレースの子を捨てており、牧人たちは』二『人の赤子を拾って養育し、前者をアタランテーが処女を装ってパルテニオン山に赤子を捨てたことからパルテノパイオスと名づけ、後者の子を牝鹿』(☜)『が養っていたことにちなんでテーレポスと名づけた』という話と熊楠は混同したものかも知れない。

「シグルド」不詳。ゲルマン神話に登場する戦士ジークフリート(ドイツ語: Siegfried)は古ノルド語では「シグルズ」(Sigurðr)であるが、彼のことか。しかし、彼が熊に乳を受けたという記述は、ネット上には見つからない。

「后稷」当該ウィキによれば、『伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は棄、号は稷。不窋の父。后稷はもともと棄』『(捨てられし者)という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。后稷の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという』。「史記」の「周本紀」に『よれば』、伝説の聖王『帝嚳』(こく)『の元妃(正妃)であった姜嫄』(きょうげん)『が、野に出て』、『巨人の足跡を踏んで妊娠し』、一『年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが』、『牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたが』、『たまたま山林に人出が多かったため』、『捨てられず、氷の上に捨てたが』、『飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。棄と名づけられた』。「山海経」の「大荒西経」に『よると、帝夋』(しゅん)『(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる』。『棄は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷』『の官をつとめ、邰』(たい)の地に『封ぜられて、后稷と号した』。「魏志」の「東夷伝」の「夫餘」には、『「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。その』後、『子を生んだ。王は、その子を溷』(こん)『(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水』(しえんすい)『までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで』、『橋をつくり、東明は渡ることができた。そこで魚鼈』(ぎょべつ)は、『ばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘』(紀元前一世紀から紀元後五世紀に満州北部(中国の東北部)に存在した国。「扶餘」とも書く。住民はツングース系の狩猟農耕民族で、一世紀から三世紀半ば頃までが全盛期で,東満州・北朝鮮一帯に発展したが、後、高句麗や鮮卑(せんぴ)に圧迫されて衰え、四九四年、勿吉(もつきつ)に滅ぼされた)『の地に都を置き、王となった」とある』。一方、「史記」巻四の「周本紀」には、『「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐』(ふ)『まんと欲す。之を踐むや、身』、『動き、孕める者の如し。居ること』、『期にして』、『子を生む。不祥なりと以為』(おも)い、『を隘巷』(あいこう:裏通り)『に棄つ。馬牛過る者』、『皆な』、『辟』(さ)『けて』、『踐まず。徙』(うつ)『して』、『之を林中に置く。適會』(たまたま)、『山林』、『人』、『多し。之を遷』(うつ)『して』、『渠中の冰上』(溝の中の氷が張ったその上)に『棄つ。飛鳥、其の翼を以て』、『之を覆薦』(ふくせん:覆って敷いてやること)『す。姜原』(きょうげん)『以て』、『神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め』、『之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」と』あって、『牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余』(「夫餘」と同じ)『と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した』「六度集経」にも『あることを指摘し、「此種の伝説の播敷」(はふ:広める)『も頗る広き者なることを知るべし」とする』とある。熊楠は「牛・羊に養はれ」たとするが、以上を読むに――鳥に養われた――とするのが、適切である。

「若穀於擇」「じゃくこくおたく」(現代仮名遣)と読んでおく。「擇」の字は不審だが、これは、春秋時代の楚の公族で宰相(令尹(れいいん))であった闘穀於菟(とう こくおと/とう こうおと 生没年不詳)のことである。ウィキの「闘穀於菟」によれば、は『姓は羋』(び)、『氏は闘、諱は穀於菟』(「穀」は「乳」の、「於菟」は「虎」の意)、『字は子文。楚の君主の若敖』(じゃくごう)『の子の闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相といわれる。以下、子文の名で記す』。『闘伯比が鄖子』(うんし)『の娘と密通して、子文が生まれた。娘は子文を雲夢沢』(うんむたく:注に『現在の洞庭湖の北に広がっていた沼沢地の名前。現在は上流からの堆積物により埋没し、江漢平原となっている』とある)『の中に捨てたが、狩りに出た鄖子が虎に育てられた』(☜)『子文を見つけ、娘が育てることを許したとされる』。『紀元前』六六四『年、令尹に抜擢されると、私財を投じて楚の財政を救った。成王は、貧乏で食いつなげなくなった子文のために何度か俸禄を増やそうとしたが、そのたびに子文が下野し、取り消すと戻ってきたので、遂には諦めたという。代わりに、子文が登朝するたびに』、『肉の干物一束と朝飯一籠が贈られ、この習慣は』、『のちに楚の令尹に受け継がれていくようになった』。『弟の闘子良の子の闘椒(子越)が生まれた際に』は、『「必ずこの子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、声は山犬や狼のようである。きっと我々、若敖氏に害をなすだろう」と言ったが、子良は聞き入れなかった』。『臨終の際には一族を集めて「子越が政治を執るようになったら、楚を離れて難を逃れるようにせよ」と遺言し、「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」と泣きながら、若敖氏の滅亡を予言した』。『子文の死後、子越は予言された』通り、『名君荘王に叛いて』、『若敖氏を滅亡させた。しかし、荘王は「あの子文の家系が途絶えたとあっては、私は人に善行を勧めることができなくなる」と言って、国外にいて』、『乱に加担しなかった一族の闘克黄に跡を継がせた』とある。

『コックスの「民俗學入門」、二七五頁』イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ

『スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。

「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の官吏張鼎思(ちょうていし)の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

『ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下』アイルランドの地質学者ヴァレンチン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)が一八八〇年にロンドンで刊行した ‘Jungle life in India’。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。狼に育てられた少年の話から入っている。

『大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節』「青空文庫」の南方熊楠「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」(新字新仮名)の「(四)史話」が読み易いであろう。正規表現では、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻 『十二支考 Ⅰ』(渋沢敬三編一九五一年乾元社刊)のここから当該部を視認出来る。]

2023/05/30

譚海 卷之十一 ギヤマンの事 /(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鷲石考(1)』に必要となったので、フライングして電子化する。] 

 

○ギヤマンと云もの、水晶の如く堅くて、玉(ぎよく)のやうなる物也。おらんだ人、持來(もちきた)る。

 又、常に、ギヤマンを、おらんだ人、無名指[やぶちゃん注:薬指の異名。]に、かねのわをかけて、はさみ持(もち)て、刀劍の代りに用(もちふ)る也。

 石鐵(せき・てつ)の類(たぐひ)、何にても、堅き物を、此ギヤマンにて磨(す)る時は、微塵に、くだけずといふ事、なし。

「人をも、害す。」

と、いへり。

 又、物をうつし取(とる)に、ことごとく、あざやかに、うつりて、みゆる也。

 壁にわづか成(なる)穴あれば、穴にギヤマンをあてゝみる時は、鄰の事、殘らず、うつりて、みゆる也。

 全體、ギヤマンと云(いふ)は鳥の名なる、よし。

 此鳥、雛を生(しやう)じたるをみて、おらんだ人、其ひなを、とりて、鐵にて拵へたる籠(かご)に入置(いれおく)時に、親鳥、ひなの鐵籠に有(ある)をみて、頓(やが)て、此玉を含(ふくみ)來りて、鐵の籠を破り、雛をつれて飛去(とびさ)る。

 其(その)落(おと)し置(おき)たる玉ゆゑ、鳥の名を呼(よん)で、ギヤマンと云(いふ)事、とぞ。

「此もの、おらんだ人も、何國(いづこ)にある物と云(いふ)事を、しらず。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「ギヤマン」江戸時代のダイヤモンド(金剛石)の呼称。オランダ語 diamant の訛りとも、ポルトガル語 diamão の訛りともされる。本来は、ダイヤモンドそのものをいう語であったが、水晶などの宝石類や、ダイヤモンドで加工されたカット・グラスを含め、広くガラス製品一般の呼称ともなったが、実は、既に早く室町末期に、オランダ人によって製法が伝えられていた酒杯・瓶・鉢などのガラス製の器具「ビードロ」と混同され、板状のガラス板を除いたガラス製品を総称して「ぎやまん」「ビードロ」と呼ぶようになって、両者の厳密な区別はなくなった。なお、「ビードロ」はポルトガル語の vidro の訛りとされる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鳥の名」不詳。]

「近代百物語」 巻五の二「猫人に化して馬に乘る」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、本篇には挿絵はない。]

 

  (ねこ)人に化(け)して馬(むま)に乘る

 

 奧州、「しのぶもじずりの石」の事は、みな人の、よく知る所なり。

[やぶちゃん注:この石については、私の「諸國里人談卷之二 文字摺石」、及び、の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』を参照されたい。]

 其ほとりに、玉笹立左衞門(たまざゝりう《ゑもん》)といへる鄕士(かうし[やぶちゃん注:ママ。)あり。

 武勇、たくましく、其へんにて、人にしられたるもの也。

 ひとつの名馬をもちて、はなはだ、愛育す。

 ある日、朝、とく、馬飼(むまかい[やぶちゃん注:ママ。)、おきて、見るに、其馬、くひ[やぶちゃん注:ママ。「くび」(首)。]を、櫪(むまふね)にたれて、汗、ながれ、あへぐ事、遠路(ゑんろ)を馳(はせ)たるときのごとし。

[やぶちゃん注:「櫪(むまふね)」「馬槽」とも書く。馬の飼料を入れる「かいばおけ・まぐさ入れ」のこと。]

 馬飼、おどろき、

「誰(たれ)か、馬を盗みて、夜(よる)、出《いで》たるや。」

と、うたがひて、翌朝(よくてう)、馬を見るに、又、汗して、あへぐ事、きのふのごとし。

 あやしく思ひて、夜、其ほとりにふして、ひそかに是れを伺(うかゝ)ふに、内に飼(かい[やぶちゃん注:ママ。])をきける「黑ねこ」、厩(むまや)の内に來り、ほヘ[やぶちゃん注:ママ。「吠え」。以下同じ。]、おどりて、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、わかき男のかたちに化(け)し、衣冠、みな、くろし。

 馬に、くら、をき[やぶちゃん注:ママ。]、乘りて、出《いづ》る。

 門、はなはだ、高し。

 鞭をもつて、馬にあつれば、おどつて、門を、はねこへ[やぶちゃん注:ママ。]て、去る。

 あかつきにおよんで、かへり、すなはち、馬より下(を[やぶちゃん注:ママ。])り、鞍を、とき、又、ほへおどつて、もとの猫となり、常のごとし。

 馬飼、人にも語らず、おどろき、あやしみて、又、あくる夜も伺ひ、馬に乘り出《いづ》るあとにしたがひ、追ふて行く。

 雪、少し、ふりて、足あとを、したひゆくに、ひとつの古き墓のまへにして、馬の足跡、なし。いづくへ行きたるやらん、見へず。せん方なく、其夜は、かへりぬ。

 又、あけの夜は、宵より、件《くだん》の墓所(はか《しよ》》にいたり、辻堂の天井にかくれて伺ふに、夜半(やはん)ばかりになりて、黑衣(こくゑ[やぶちゃん注:ママ。])の裝束(しやうぞく)して、馬に乘り、來《きた》る。

 馬より下《お》り、馬を、辻堂のはしらにつなぎ、墓の石塔を、のけて、穴の中に、入る。

 又、中に、數人(す《にん》)ありて、わらひ語る聲、聞へたり。

 暫くして、穴より、出《いで》て、かへる。

 數人、おくりて、出《いづ》る其中に、年老たるものとおぼしくて、

「立左衞門が一家の『名(な)の帳(ちやう)』は、いづくに置きたる。」

と、とふ。

 黑ねこ、こたへて、

「既に、香(かう)の物桶(《もの》をけ)の下に、納め置きたり。憂(うれふ)る事、なし。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「香の物桶」漬物桶。]

「かならず、つゝしみ、もらす事、なかれ。もれなば、我等、みな、殺されん。次に、此ころ[やぶちゃん注:「此の頃(ごろ)」。]、出生(しゆつしやう)せしおさな子[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、名をつけたらば、『帳』に、はやく、しるすべし。これを、わする事、なかれ。」

と、いふて、わかれける。

 あかつきにおよんで、馬飼は、家にかへり、此よしを、ひそかに、主人に告(つげ)たり。

 立左衞門、おどろき、「黑ねこ」の、ゆだんしてありたるを、見すまし、しばりて、

「しか」

と、はしらに、くゝりつけ、香の物桶のほとりを、さがせば、はたして穴の中に、一軸の書(しよ)、あり。

 具(つぶさ)に、家内男女《かないなんによ》の名を、のせたり。

 おさな子、生れて、わづか一月《ひとつき》なり。いまだ、名をつけざるをもつて、のせず。

 やがて、猫を引出《ひきいだ》し、棒を以て、打殺(うちころ)し、家中の侍(さむらい[やぶちゃん注:ママ。])、數十人(す《じふにん》)をつれて、墓所(はか《しよ》)にいたり、墓をあばき、こぼちければ、數十の「ねこ」、むらがり出《いづ》るを、ことごとく、ころしつくして、かへりけるに、其のち、なんの怪異もなかりしと也。

[やぶちゃん注:この妖猫が隠していた怪しい帳面は、恐らく、この玉笹家に古くから巣食うてきた妖猫らが、当家の人間の寿命を自在に操作し、それに代わって化けるための呪的なそれででもあったものであろう。]

2023/05/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 九五番 猫の嫁子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      九五番 猫の嫁子

 

 或所に一人の百姓があつた。正直者であつたが貧乏暮しなので嫁のくれてもなく、四十を越してもまで獨(ヒトリ)で居た。ところが其隣は近鄕きつての長者どんであつたが話にならぬ程の極道者で、たつた一疋居る牝猫さへも、これは餘計な口のあるものだと言つて、首筋をつまんで戶外(トガイ[やぶちゃん注:ママ。])へ投げ棄てた。

 貧乏な百姓が寢て居ると、夜半に頻りに猫の啼聲《なきごゑ》がするから、なんたらこの夜半に不憫だと思つて、寒いのを耐え[やぶちゃん注:ママ。]て起きて、猫を内へ入れてやつた。そしてどうしてお前はこんな寒い夜に外で啼いて居《を》れや。またお前の檀那どんに酷(ヒド)い遣《や》つたのか、どらどらそれだら俺の所に居ろと言つて、なけなしの食物《くひもの》などを自分と同じやうに猫にも分けてやつて、愛(メゴ)がつて居た。

 或夜百姓が退屈(タイクツ)まぎれに、お前が人間であつたらよかつたになア。俺が畠さ出て働いて居るうちに、お前は家に留守居して居て麥粉《むぎこ》でも挽《ひ》いて置いてけでもしたら、なんぼか生計向(クラシムキ)が樂になるべえに、お前は畜生のことだからそれも出來ないでア、とそんなことを言ひながら、其夜もいつものやうに猫をふところに入れて抱いて寢た。

 百姓は翌朝もまだ星のある中《うち》から起きて、山畑へ行つて働き、夕方遲く家へ戾つて來た。すると誰だか灯(アカシ)もつけない家の中で、ごろごろと挽臼《ひきうす》を挽いて居るものがあつた。不審に思つて入つて見ると、それは猫であつた。百姓は魂消《たまげ》て、猫々《ねこねこ》俺が昨夜あんなことを言つたもんだから、お前は挽臼を挽いて居てくれたかと言つて、其夜は小麥團子《こむぎだんご》をこしらへて猫と二人で食つた。それからは何日(イツ)も百姓の留守の間には猫が挽臼を挽いて居た。おかげで百姓は大變助かつた。

 或晚、爐《ひぼと》にあたつて居ると、猫は、私は此儘畜生の姿をして居ては思ふやうに御恩返しが出來ないから、これからお伊勢詣《いせまうで》をして人間になりたい。どうか暇《いとま》をケテがんせと言つた。百姓もこれはただの猫では無いと思ふから、猫の言ふまゝに話をきいてやつた。そして猫のおかげ[やぶちゃん注:底本は「おかけ」。「ちくま文庫」版で訂した。]で少し蓄《た》めた小錢(コゼニコ)を猫の首に結着《むすびつ》けて旅に出した。猫は途中惡い犬にも狐にも出會はず、首尾能《しゆびよ》く伊勢詣をして家に歸つた。歸りには神樣の功德で人間の姿になつて歸つた。そして百姓と夫婦になつて、人間以上に働いたものだから、末には隣の長者どんよりも一倍の長者となつた。

 (村の大洞丑松爺の話の三。大正九年冬の採集分。)

[やぶちゃん注:「お伊勢詣」江戸時代のそれは、実際に犬や豚が伊勢参りをしている。それぞれの宿駅の町役人が、次の宿に向けた正式な依頼状を、その体に結び付けて、伊勢神宮に参詣を完遂している事実が、複数の事実資料として残っているのである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九四番 虎猫と和尙

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   九四番 虎猫と和尙

 

 或所の山寺にひどく齡《とし》をとつた和尙樣があつた。九十にもなるこつたと謂ふ話で、餘り齡を取つたものだから勞れ切つて、今では夜晝うとうと眠(ネブ)かけばかりして居た。さういふ譯だから山寺に捨てられた樣になつて、世間でも案じ出す人がなかつた。たゞ一疋のこれも猫仲間では餘程の老齡(トシヨリ)な瘦《やせ》きれた虎猫ばかりが和尙樣の相手になつて、和尙樣と同じ樣にいつも爐傍《ろばた》で眠(ネブ)かけばかりして居た。

 或日その虎猫が、和尙樣に向つて、和尙樣々々々お前樣も大分齡をとつたものだから、世間では相手にしなくなつたが此俺は隨分永々と和尙樣のお世話になつて居るから、何とかその恩返しをしたいと思ふが、何もよいことが無くてはづみが無いと言つた。

 和尙樣は猫が物を言ひ出したから、少し驚いたが、すぐ心を落着けて、何さ虎や、俺とお前は何も考へないで此所に斯《か》うして居ればよいのだでヤと言つた。すると虎猫は、うんにや和尙樣さうでアない。俺は此頃よいことを聞込《ききこ》んだから和尙樣さ敎(オセ)べと思つて居た。この寺も今一遍(ヒトカヘリ)繁昌させて和尙樣にも行先きを安樂にさせたいと思つて居る。それで近い中《うち》に所の長者どんの一人娘が死ぬから、その葬式の時に俺が娘の棺箱《くわんばこ》を中空《ちゆうくう》へ釣上《つりあ》げて中合(チウアヒ)に懸けて下(オロ)さずに居るから其時に和尙樣が來て御經を讀め。そして其經文の中で、南無トラヤヤと謂ふ聲をかけた時に、俺がその棺箱を下(シタ)へおろすからと謂ふのであつた。

 さうして居るうちに眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に、長者どんの一人娘が病氣になつて死んだ。可愛い娘が死んだのだから長者どんでは、所のありとあらゆる宗派のお寺の和尙樣達を呼んで葬禮(トムライ[やぶちゃん注:ママ。])をした。ところがたつた一人《ひとり》山寺の眠《ねぶ》かけ和尙樣ばかりは誰《たれ》も忘れて居て招かなかつた。とにかくさうした所では見たこともないような立派な葬式が野邊に送られた。

 その葬禮の行列が野邊へ行つて、やがて蘭塔場[やぶちゃん注:卵塔場に同じ。墓場。]𢌞《らんたうばめぐ》りをしはじめると、どうした事かひどく綺麗に飾り立てた棺箱がしづしづと天へ釣上つて、高い高い中合《ちゆうあひ》に懸つてしまつた。人々は驚いて、たゞあれヤあれヤと言ふばかりであつた。それを見てまた多數(アマタ)の僧侶達は、いつせいにお經を誦んだり珠數を搔揉(カイ《も》)んだりしたが、何の甲斐もなかつた。しまひには一人一人自分等の宗派の祕傳をつくして、空を仰いで叫んで見たが、お日樣が眩しいばかりで一向利目(キキメ)はなかつた。

 長者どんは、おういおういと聲を立てゝ泣き悲しんだ。そして和尙達の腑甲斐《ふがひ》無いことの惡口を言つた。村の人達も長者どんと一緖になつて和尙樣達を惡く言つた。そこで長者どんは、誰《だれ》でも何でもよいから、あの棺箱を下(オロ)してくれた者には、一生の年貢米も上げるし、またお寺も普請してやるし、又望みによつては門も鐘搗堂《かねつきだう》も、何でもかんでも寄進してやると言つた。それを聞いて和尙樣達は尙更一生懸命になつて空を仰いで叫んで見たが、やつぱり何の驗《しるし》もあらばこそ。

 長者どんはおいおい泣いて、彼方《あちら》へ走《は》せたり此方《こちら》に走せたり、あゝあゝ誰にもあの棺を下すことができないのか、念のためにこの近所近邊のお寺の和尙達をみんな殘らず呼んで來てケろと叫んだが村の人達は近所近邊の和尙坊主どもは皆此所に來て居ると言つた。長者どんは、ほだら後《あと》には誰《たれ》も殘つて居ないかと訊くと、誰《だれ》だか人込みの中から、ここさ來ないで殘つて居るのが彼《あ》の山寺の眠(ネブ)かけ和尙樣たつた一人だけだが、連れて來たつて役には立つまいと言つた。僧侶達も口を揃へて、吾々でさへ出來ないものだもの、彼の眠かけ和尙が來たつて、かへつて邪魔になるばかりだと言つた。長者どんは否々《いやいや》さうでない。とにかく彼の和尙樣を早く招(ヨ)んで來うと言つて、人を急がせて迎へにやつた。

 山寺の眠かけ和尙樣は破れた法衣を着て、杖をついて步くべ風もなく[やぶちゃん注:足も耄碌して、歩くというより、摺り足でのろのろと来たことを言うのであろう。]靜かに來た。そして草の上に座つて空を仰ぎながら靜かに御經を誦(ヨ)んだ。そしていい加減なところで、虎猫が敎へた南無トラヤヤトラヤヤと謂ふ文句を誦込(ヨミコ)んだ。さうすると今迄何(ナゾ)にしても動かなかつた娘の棺箱が天からしづしづと下りて來て地上(ヂベタ)に据[やぶちゃん注:ママ。]《すわ》つた。人々は皆《みな》聲を上げて和尙樣を褒めた。そして皆は和尙樣の足下《そつか》にひれ伏して拜んだ。他の僧侶達は面目《めんぼく》なくて、こそこそと遁げて自分の寺へ歸つて行つた。

 斯う謂ふ譯で、その御葬禮は眠《ねぶ》かけ和尙樣だけで引導した。長者どんは淚を流してありがたがつて朱塗《しゆぬり》の駕籠《かご》を仕立てゝ和尙樣をば山寺へ送り還《かへ》した。

 それから眠かけ和尙樣の山寺は俄《にはか》に立派に建直《たてなほ》された。今迄無かつた山門が出來たり、鐘搗堂が建てられたりした。そして和尙樣は世の中から生佛樣《いきぼとけさま》とあがめられて、每日々々參詣人がぞろぞろと絕間《たえま》なく續いて、たちまち門前が町となつた。

 

畔田翠山「水族志」 タマガシラ (タマガシラ)

(二八)

タマガシラ【紀州若山】 一名エビスダヒ【泉州小島浦】アカバナ【筑前福間浦】チダヒ【尾州常滑】マムダヒ【土佐浦戶】イチ【勢州慥柄浦】レンコ【紀州田邊】シマダイ

形狀棘鬣ニ似テ細ク厚シ鱗麁ク眼赤色瞳黑色下唇ノ裏白ク腹白色

遍身淡紅色ニ乄背ヨリ腹上ニ至リ紅色ナル橫斑條ヲナス脇翅腹下

翅俱ニ紅黃色腰下鰭及尾紅黃色背鬣上ハ黄色ニ乄淡紫紅斑アリ下

ハ淡赤色尾岐ヲナス味輕シ

○やぶちゃんの書き下し文

たまがしら【紀州若山。】 一名、「えびすだひ」【泉州小島浦。】・「あかばな」【筑前福間浦。】・「ちだひ」【尾州常滑。】・「まむだひ」【土佐浦戶。】・「いち」【勢州慥柄浦。】・「れんこ」【紀州田邊。】・「しまだい」

形狀、棘鬣(まだひ)に似て、細く、厚し。鱗、麁(あら)く、眼、赤色。瞳、黑色。下唇の裏、白く、腹、白色。遍身(へんしん)、淡紅色にして、背より腹上に至り、紅色なる橫斑(わうはん)、條をなす。脇翅(わきびれ)・腹下翅(はらしたびれ)、俱に紅黃色。腰下鰭(こししたびれ)及び尾、紅黃色。背鬣(せびれ)、上は黄色にして、淡紫紅、斑(まだら)あり、下は淡赤色。尾、岐をなす。味、輕し。

[やぶちゃん注:底本はここ。これは、ズバり、

スズキ目スズキ亜科イトヨリダイ科タマガシラ(玉頭)属タマガシラ Parascolopsis inermis

である。国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「タマガシラ」の項の「方言」で本書を挙げてある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタマガシラのページをリンクさせておくが、その「方言」には以上で畔田が挙げている異名は載らない。]

「近代百物語」 巻五の一「巡るむくひの車の轍」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻五

   巡るむくひの車(くるま)の轍(わだち)

 不義・不忠・不孝・大慾のひまびま、嫁そしり・あくび・入湯(にうたう[やぶちゃん注:ママ。「にふたう」が正しい。])・せんそく[やぶちゃん注:「洗足」か。]のついでに、ねんぶつ・だいもくなどを、となふれば、極(ごく)重罪も、せうめつして、ごくらくといふ所へ、すぐどをりし、黃金の(わうごん)蓮(はちす)のうてなに、

「のらり」

と、座を、くみ、百味(《ひやく》み)のおんじき[やぶちゃん注:「飮食」。]とて、甘美(うまき)ものを、取りくらひ、暑きときは、凉風(りやうふう)きたり、さむきときは、暖氣(だんき)いたり、異香(いきやう)くんじて、花、ふりくだる、よい所へ、ゆかふとは、おもひもよらぬ事ぞかし。

 十人が十人ながら、ねんぶつ・だいもくを楯にして、𢙣(あく)の上(うは)ぬりする事、多し。「我がため人をなきになしては」との古哥(こか)の心も、かへりみず、人を𢙣所に、いざなひ、ばくちを、すゝむ。とりわけて、色(しき)よくの罪ほど、おそろしきものは、なし。

[やぶちゃん注:私は和歌嫌いで、この古歌を知らない。識者の御教授を乞う。]

 今はむかし、備中の國に、山城屋(やましろ《や》)善左衞門といふ人、あり。家、冨みさかへて、何《なに》うとからぬ身のうへなりしが、苦(く)は、色かへる、まつかぜの音(おと)にて、此家の内室(ないしつ)、よめ入りして、三年めに初產(うひざん)せしが、𢙣血(おけつ)の所爲(わざ)にやありけん、腰、いたみて、起居(たちい[やぶちゃん注:ママ。])もならねば、善左衞門、氣のどくがり、国中(こくちう)の医(い)は、いふにおよはず、近国までも、聞合《ききあは》せ、名ある医者は、ひとりも殘さず、金銀のあるにまかせて、くすりをもちひ、あるひ[やぶちゃん注:ママ。]は灸治、有馬の入湯、ねりやく・さんやく・くすり食(ぐひ)、あまさず、もらさず、六年ばかり、あるとあらゆる養生すれども、そのしるし、さらに、なし。

 かくては、家内も、おさまらざれば、としかましき[やぶちゃん注:この頭の「と」は「か」の崩しの彫りを誤ったものではなかろうか。]女をかゝへ、妾(てかけ)はんぶんは、世帶(せたい)のまかなひ、「いま」と名づけて、万事の出しいれ、内義がはりを、つとめしに、生れつきたる利口(りこう)もの、ちから、ありたけ、氣をつけて、旦那のこしも、お内義どうぜん、打ちぬくほどの上手(じやうず)もの。

 出人りの人々・ほうばいも、

「いま、ならでは。」

と、うやまふにぞ、いよいよ、募(つの)る强(がう)よくしん、病氣ながらに、お内義の、生きてゐらるが、ひとつ、氣がゝり。

『なき命(いのち)なら、とてもの事、片時(へんし)も、はやふ[やぶちゃん注:ママ。副詞「早(はや)う」。]、すぎゆかなば、あとは、我が手に入るものと、まどろむうちの、ゆめごとに、死(しん)だと見ては、おきての[やぶちゃん注:「起きての」。]、びつくり、むねのほむらは蛍火(ほたるび)の、おのれと焦(こが)す、ねつの、さしひき、病(やまひ)となれば、いまは、おどろき、我が命ありての望み、死しては、何のねがひのあらん。いざや、心をとりなをし[やぶちゃん注:ママ。]、仕(し)やうの手だてもあるべし。』

と、いろいろと、案じつゞけ、まくらによりて、ふしたりしが、

「むつく」

と。おきて、

『あら、うれしや。我が大ぐわんも成就せり。御息所(みやすどころ)の「うわなりうち」も、神のちからに、きどくを、あらはす。われ、また、神にふかくいのらば、いかでか、しるしの、なからんや。』

と、内義の姿を、繪にうつし、我がやすみ所に、かくしおき、朝朝(あさあさ)、けわひのたびごとに、まづ、さかさまに、壁に、つりさげ、何かは知らず、口にとなへ、釘、おつ取りて、喉に、うち、

「大ぐわん成就、なさしめ給へ。」

と、强氣不敵(がうき《ふ》てき)の、女のねんりき、百日ばかり、いのりしに、内義のうんめい、つきたるにや、しだひしだひ[やぶちゃん注:ママ。]に、おとろへて、終(つい[やぶちゃん注:ママ。])に、むなしくなりける所に、ふしぎや、七日にあたれる夜より、「いま」がふしたる一間のうちに、内義のすがた、

 

Kasya1

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

ゆうれいといふ物

世に有(ある)べき理(り)なし

皆(みな)我(わが)こゝろより

むかつて見る也

一ゑい眼(まなこ)にさへ[やぶちゃん注:「ゑい」不詳。「影」(えい)か。]

ぎれず空(くう)

花(げ)乱(みだれ)つい

    すと

     いふ

喩(たとへ)これ

 しるべ

   し

   *

「空花」は、煩悩にとらわれた人が、本来、実在しないものを、あるかのように思ってそれにとらわれること。病み霞んだ目で、虚空を見ると、花があるように見えることに喩えたもの。「ついす」「墜す」か。

   *

《窓から覗く「いま」の下壁の彼女の台詞。》

たしかに

 そのお人

    しや[やぶちゃん注:ママ。「じや」(ぢや)だろう。]

     が

《本妻の怨霊の頭部の背後に、その霊の台詞。》

はら立[やぶちゃん注:「たつ」。]

   や

   はら立や[やぶちゃん注:ここは底本では踊り字「〱」。]

   *

但し、本文での怨霊の登場は「いま」の寝る一間の内部であるから、齟齬はする。]

 

 

「すつく」

と、あらはれ、しうねき顏色(がんしよく)、そばに立ちより、

「おのれに覺えのある事なれば、くはしくいふには、およばねども、神にいのりつ、佛をたのみ、あた、どふよくな、むごたらしい。ころそふ[やぶちゃん注:ママ。]とまで、たくみしな。おもひしらせん、おもひしれ。」

と、手あしに、

「ふつ」

と、くひつけば、まぬがれんにも、にげんにも、五體、すくみて、うごかばこそ、上を下へと騷動し、

「ゆるしてたべ、たすけてたべ、いたや、いたや、」

と、泣きさけぶ。

 家内の人々、おどろきて、

「夢ばし見つるか、正氣を、つけよ。」

と、ゆりおこせば、やうやうと、目をひらき、手あしをさすり、

「さては。夢にて、ありけるか。」

と、かたられもせぬ夢のさま、

「此ほどのつかれにて、かわつた[やぶちゃん注:ママ。]夢に、おそはれまし。皆樣までを。」

と、笑ひに、まぎらし、

サア、行(い)て、おやすみあそばせ。」

と、また、引きかづく、ふとんのうち、何とやらん、心にかゝり、すこしも、卧(ふさ)でありけるが、また、翌(あけ)の夜も、おなじ夢、つゞくほどに、廿日《はつか》あまり、毎夜のせめに、手あしを見れば、痣(あざ)のごとく、「眞(ま)あを」になりて、歯がた、あらはれ、血ばしりける。

「かくては、いのちも、あやうし。」

と、いとまをねがひ、宿にかへり、難儀のあまり、せんかたなく、旦那寺(だんなてら)の和尚をまねき、はづかしながら、なみだをながし、始終のおもむき、さんげを、すれば、和尚は、くはしく聞《きき》とゞけ、

「よくも、あらはに、かたられたり。ともに惡趣に墮(だ)せん事、かゞみにかけて、見るごとし。いざ、とぶらひて、まよひをはらし、くげんをすくはゞ、成仏得脱(じやうぶつとくだつ)、うたがひ、なし。」

と、「普門品(ふもんぼん)」の千部を、しやきやうし、香花(かうげ)をそなへて、法事をなせば、障碍(しやうげ)、たちまち、しりぞきけるにや、病者のがんしよく、すゝしく[やぶちゃん注:ママ。]なりて、ゆめ見る事も、なかりしが、四、五日すぎて、初夜[やぶちゃん注:午後八時頃。]のころ、表に、

「わつ」

と、さけぶ聲、母は、あはてゝはしりゆき、くすりをあたへ、だきおこせば、しばらくありて、よみがへり、

 

Kasya2

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

生(いき)ながら火(ひの)

      車(くるま)に

乘(のせ)られ

たると

いふ事

  世に

噺(はな)しに

  

こそ

 聞(きく)事

  なれ

とかく

 善(よき)を

  なし

   𢙣(あく)を

     すべからず

《火の車に乗せられた「いま」の右足の先に彼女の台詞。》

あつや

  あつや[やぶちゃん注:ここは底本では踊り字「〱」。]

《左下方の「いま」の母の右下の母の悲しい驚きの台詞。》

のふむすめ

是はなに

   事

    ぞ

   *

「のふ」は「喃(のう)」で感動詞。人に呼びかける際に発するそれ。]

 

「たゞ今、しばらく、まどろむうち、うつゝともなく、ゆめともなく、車のおとの、聞ゆるにぞ、

『あら、ふしぎや。』

と見る所に、火の車を、とゞろかし、牛頭・馬頭の鬼、大おん、あげ、

『なんぢが罪(つみ)、廣大(くわうだい)なれば、迎ひの為(ため)の此車、はやく、來たれ。』

と、つかみ、のせ、虛空に追つたて、ゆきけるが、俄(にはか)に、はげしき風、ふきおこり、猛火(みやうくは)、さかんに、もへあがり、骨もくだくる其《その》くるしさ、

『わつ。』

と、さけぶ、と、おもひしが、お世話で、ふたゝび、よみがへれど、火の車にまで、のせられて、ぢごくに、おつる、我が身の上。かくまで、おもき罪科(つみとが)も、身よりいだせる事なれば、たれをうらみん、やうも、なし。さきだゝせます父母(ちゝはゝ)を、あとに殘して、なげきをかけ、これまた、一つの、とがぞかし。娘のせめを見るにつけ、かならず、惡事し給ふな。」

と、いふうちに、面色(めんしよく)かはり、はや、「だんまつま」の四苦八苦、虛空をつかみ、眼(まなこ)を、いからし、

「うん」

と、ばかりに、息、たへたり。

 かゝるむくひを、ありありと、まさに見たりし其人の、ことばのごとく、かきしるす。

  

佐々木喜善「聽耳草紙」 九三番 古屋の漏

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。

 なお、底本では本篇の標題の通し番号が「九四番」となっているが、これは、「九三番」の誤りであるので、訂した。標題は本文のルビを参考にすれば、「ふるやのもり」である。]

 

   九三番 古屋の漏 (其の一)

 

 或る山里に一軒の百姓家があつた。其家では大變によい靑馬《あをうま》を一匹持つて居た。その靑馬を盜む氣になつて一人の馬喰(ばくらう)が宵のうちから厩桁(うまやげた)の上に忍び込んで匿(かく)れて居たし、又山の狼もその馬を取つて食ひたいと思つて厩の隅に忍び込んで匿れて居た。そして其家の爺婆の寢沈《ねしづ》まるのを待つて居た。

[やぶちゃん注:「靑馬」小学館「日本国語大辞典」によれば、『①青毛の馬。毛の色が黒く、青みを帯びた馬』とし、「日本書紀」を引用例とし、次いで、『②白馬。また、葦毛の馬。』(「葦毛」は馬の毛色の名で、栗毛(黄褐色)・青毛・鹿毛(かげ:明るい赤褐色から暗い赤褐色まで多様だが、長毛と四肢の下部は黒色を呈する)の毛色に、年齢につれて白い毛がまじってくるもの。とあり、これは、『③「あおうま(白馬)の節会(せちえ)」の略』或いは、その『節会に引き出され』る白『馬』を掲げ、そこでは、「万葉集」を引く。これについては、十『世紀中頃より漢字文献において「青馬」から「白馬」へと文字表記が統一される理由については、本居宣長、伴信友は馬自体が白馬に換えられたからであるというが、室町時代の』「江次第鈔」二の「正月」に『「七日節会〈略〉今貢二葦毛馬一也」とあり、後世においても』、『葦毛馬が使用されていたことが分かる。したがって毛色自体の変化というよりも、平安初期の』「田氏家集」下の「感喜勅賜白馬因上呈諸侍中」にも『「驄毛」』(そうげ:毛の色が黒く、青みを帯びた馬。)『の馬を「白馬」というように、灰色系統の色名範囲が』、『青から白に移行したことと、平安末期の』「年中行事秘抄」正月七日」に所引する『「十節」などに見える白馬に対する神聖視などから』見て、『意識的に「白馬」の文字表記を選択したものと考えられる』とある。なお、「おしらさま」と女性に纏わる民話の挿絵などでは、白馬が描かれることが圧倒的に多いようだが、これは「おしらさま」が馬の神である以前に蚕(かいこ)の神であることと関係すると私は思う。といって、白馬が有意に通常の農家に飼われていたというのは、ちょっと考え難いように思われ、私は頭の黒い「青毛」或いは「葦毛」を想起する。無論、老成したその色の馬で、白いものが混じっているものでも構わないけれども。]

 此家の爺婆は每夜孫を抱寢しながら昔(ムカシ)噺を語つてきかせて居た。其晚も厩の壁隣りの寢所(ネツトコ)では先刻から爺婆の昔噺が始まつて居た。すると孫が怖(オツカナ)い話を聽かせろとせがみながら、この世の中で何が一番怖(オツカ)なかべと訊いた。爺樣はさればさこの世の中には怖ない物もたくさんあるけれども、其中でも人間では泥棒だべなと言つてきかせた。それを厩桁の上の馬喰が聽いてははアすると俺が人間の中では一番怖ない者だなと思つて笑つて居た。するとまた孫が獸《けもの》ではと訊くと、さうさな獸と言つても數多いが、其中でも一番怖いものはまず狼だべなと爺樣は言つた。それを厩隅《うまやすまこ》[やぶちゃん注:後の「其の三」の読みを採用した。]の狼が聽いて、ははアするとこの俺は獸の中では一番怖ないもんだなと思つて笑つて居た。するとまた孫はそれよりもそれよりもつともつと怖ない物は何だべと言ふと、爺婆は口を揃へて、其は雨漏(アマモリ)さと言つた。さあそれを聽いた厩桁の上の馬喰と厩隅の狼とは一緖に、あれそんだら俺より怖ない物が居るのか、其雨漏[やぶちゃん注:ここ以降は「アマモリ」と表記する方が自然で効果的である。]と謂ふもんはどんた[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版もママであるから、遠野方言か。]ものだべと思つてがくがくと顫《ふる》へて居た。そして怖ないと思つて、しつくもつく(逡巡)して居る拍子に馬喰は厩桁を踏外して厩隅にどツと落ちた。落ちることもよいが其所に蹲《うづ》くつてわだ顫つて居た[やぶちゃん注:総てママ。同前。]狼の背の上に落ちた。そしてあれアこれだな雨漏と云ふ化物はと思つた。厩隅の狼はまた狼で、氣無しな[やぶちゃん注:油断しているさま、無防備なさまであろう。]所へいきなり背中の上へ馬喰に落ちて來られたので、魂消《たまげ》て、あれアこれこそ雨漏だと思つてやにわに厩から逃げ出した。そして雨漏を體《からだ》から振落《ふりおと》さうと身悶《みもだ》えをした。背上(セノヘ)の馬喰は馬喰で、今これに振落《ふりおと》されたらことだ、[やぶちゃん注:底本には読点なし。「ちくま版」で補った。]生命《いのち》がなくなる。これが死ぬか俺が死ぬかと思つて一生懸命に狼の首玉に縋《すが》りついた。さうすればするほど狼は大變《たいへん》がつて死物狂《しにものぐるひ》になつて駈け出した。そして野を越え山を越えずつとずつと遠くの方へ駈《か》けて行つた。そのうちに夜が明けた。

[やぶちゃん注:この時点で盗人の馬喰は自分が乗っているのが、「一番怖(オツカ)な」いアマモリという化け物と認識していることは、以下の段で明らかであるが、そういった意味でも。「あまもり」を漢字表記してしまうのは、読む民話としては、やはり、上手くないことは明白である。]

 夜が明けてアタリが明るくなつて見ると、奧山の奧果(オツパ)[やぶちゃん注:奥山のそのどん詰まりの深山の果て。]であつた。馬喰は雨漏と云ふ物はどんな物かと思つて見ると、それは狼に似た化物《ばけもの》であつた。何してもこれは大變なことになつたと思つて居るうちに、大木《たいぼく》の枝が垂下《たれさが》つてゐる所の下をそれが駈け通《とほ》つた。この時だと思つて其枝に手なぐり着いて木の上に這ひ上つた。それとも知らずに狼は夢中になつて何所《どこ》までも何所までも盲滅法《めくらめつぽふ》に駈けて行つた。

 狼はやつと自分の穴まで逃げて來た。そして心を落着けて見ると背中の上の雨漏はいつの間にか居なくなつて居た。そこで漸《や》つと元氣づいて其所邊(ソコラ)の獸仲間の所へ行つた。まづ第一番に虎の所へ行つて、ざいざいもらい殿はいたか、俺は今ひどい目に遭つて來た。この世の中には何よりも怖ない雨漏と謂ふものがゐる。俺はそれに背中に乘られて、昨夜から今まで駈け通しに逃げてやつと命だけは助《たすか》つて穴まで戾つて來た。とても彼奴《きやつ》の居るうちは俺は安心して此山に棲んで居られない。仇討《かたきうち》をしたいからなぞにかして力を貸してくれないかと言つた。虎はそれを聽いて、お前がそんなに狼狽《あわて》て居る程怖しい物では本統[やぶちゃん注:ママ。]に怖かない化物だべ。だが俺が行つたら最後取つて喰ひ殺して見せると言つて、巢から出て雨漏の居る所を探し步いてゐた。その途中で山猿が木の上に居て、虎どん狼どん何所さ行くと聲をかけた。虎と狼は、今俺達は雨漏といふ此の世の中で一番怖かない化物を退治に行く所だが、お前は木の枝の上にばかり居るから、そんな者を見かけなかつたかと訊いた。すると猿は大笑ひをして、さう言へば狼どんが今朝方《けさがた》背中に乘せて來た者なら、ほら其所の大木の枝の上に坐つて居る。あれが此の世の中で一番怖かない化物だべか、あんな者なら俺一人ででも生捕《いけど》つて見せべかと言つた。猿はあれは人間だと謂ふ事をよく知つて居た。虎と狼とは猿にさう言われて、むこふの大木の枝の上を見るとほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に人間に似た雨漏が居て此方《こちら》を見て居た。そこで驚いて虎と狼とは一緖にうわううと吠へた[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「ざいざい」「あらあら」の意か。

「もらい」以前に本文で『モラヒ(朋輩)』と既出している。]

 狼の背からやつとのがれて木に這上《はひあが》り、怖かなくてへこめつて居た馬喰は、今また目の前に狼ばかりか虎までが一緖にやつて來て、自分を見上げて、うわううと唸《うな》るので、これは大變だと思つてその大木の空洞穴(ウドアナ)へ入つて匿れた。すると其所へ猿と虎と狼とが來て、此所に匿れた、この空洞穴の中さ入つて匿れた、此中の雨漏を退治した者が明日《あした》から獸の中の一番の大將になるこつたと約束した[やぶちゃん注:この言上げは虎であろう。]。そして氣早《きばや》の猿はあれは人間だつけと謂ふことを覺えて居るものだから、第一番に自分の尻尾《しつぽ》を穴の中に突込《つつこ》んで、これや雨漏や居たか、居たかと言つて搔き𢌞した。馬喰も斯《か》うなつては命懸けだから猿の尻尾をおさへてうんと踏張《ふんば》つた。猿はこれはことだと思つて、穴の外でこれもうんと踏張つた。ところがあんまり力《りき》んだものだから尻尾が臀(ケツ)からぼツきりと引拔(ヒンヌ)けた。猿はそのはづみを食《く》つて前にサラツイテ(轉倒して)土で顏を摺りむいた。それであの獸は今でも尻尾が無く、顏はあんなに眞赤に赤だくれになつて齒をむき出すのだと謂ふことさ。

 その態(ザマ)を見て狼はこんどは俺が代つて遣つて見ると言つて、穴の中に陰莖を突き込んでがらがら搔き𢌞した。中に居た馬喰はまたかと思つて、それを引摑(ヒツツカ)んでぐつと力を入れて引張《ひつぱ》つた。狼は魂消《たまげ》てこれは大變だと思つて逃げ出さうとして力《りき》むと、陰莖がぶちりと根元から引拔けてしまつた。そしておうおうと痛がつて泣き叫んだ。だから今でも狼の鳴聲はあんなに高いのだと謂ふことさ。

 虎はそれを見て、俺はア迚《とて》も叶はぬから止めた、そしてこんな强い怖ない雨漏に居られては俺は日本が厭(ヤン)たから唐(カラ)さ往《ゆ》くと言つて、海へ入つて韓《から》の國へ渡つて行つた。だから虎はそれから日本に居なくなつたとさ。

 狼と猿も虎の言ふ事はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]だ、俺達も唐さ往きたいと謂つて海に入つたが、傷に潮水《しほみづ》がしみて痛くて堪《たま》らなかつたので、また陸へ引返した。雨漏は怖ないけれども仕方がないから日本に居ることになつたとさ。

 (大正九年の冬《ふゆ》村《むら》の原樂タケヨ殿の話。
  自分の古い記憶。)

[やぶちゃん注:「原樂」この姓はネットで姓名・苗字サイトでも登録されていないし、「原楽 姓 土淵 遠野」で調べても、かかってこないので、読み不詳。「はららく」と一応、読んでおく。]

 

       (其の二)

 昔、野原の中に一軒家があつた。其家には爺樣と婆樣と娘と三人だけで住んで居た。或大雨の降る夜、山の虎(トラ)が何か喰ふものは無いかと、のそりのそり其一軒家へ來た。

 其時爺樣が、それそれ古屋の漏《もり》が來た。そらまた來たと言つた。それは家が古い爲に雨が漏つて來たと言つたのであつた。娘が古屋の漏はそんなに怖(オツカ)ないものかと訊ねると、古屋の漏が一番怖ないと答へた。そんだらオイノ(狼)よりも怖ないか、オイノよりも怖ない。それでは山の虎よりも怖ないか、虎よりも怖ないと問答した。

 それを聽いた虎は、それでは古屋のモリと云ふ物は、俺よりも强い物だなア、これは日本に斯うしては居《ゐ》られないと云つてカラヘ渡つた。

 (栗橋村地方の昔噺、大正十四年二月下旬菊池一雄氏
  御報告の七。)

[やぶちゃん注:「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった村。現在の釜石市栗林町・橋野町(南東に接して栗林町がある)に相当する(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧村域の大部分は山間部である。]

 

       (其の三)

 爺樣と婆樣があつた。夜寢て居ると、厩のスマコ(隅)へ唐土(トウド)の虎がやつて來て、

   アナくぐツてチヨコチヨコ

   立ちどまつてソワカ

 と唄ひながらスカマ(蹲踞)ツてゐた[やぶちゃん注:「うずくまっていた・しゃがんでいた」。]。家の中では寢物語に、爺樣が、世の中で一番おツかねアものは何だベアと尋ねた。世の中で一番おツかねアものは唐土の虎だべやと婆樣が答へた。すると爺樣が、いやいやフルヤ(古家)のモルヤ(漏家)が一番おツかねアと婆樣に言つてきかせた。それを聞いた唐土の虎は、ハテ俺よりも怖ないものが居るのかと驚いて、厩から馬を曳き出して、それに乘つて逃げ出した。やがて夜明方になつて、あたりが白くなつたので、馬は初めて自分の背に乘つてゐるのが唐土の虎だといふことに氣がついて、跳ねあがつた。そこで虎は落馬して、そのまゝ川を一跨(マタ)ぎに跳越《とびこ》して、山に入つて隱れてしまつた。それだから唐土の虎よりも古家の雨漏りの方が怖(オツカナ)いのだと謂ふ。

 (遠野鄕地方の話。松田龜太郞氏の御報告の分。
  大正十一年冬の頃一六。大正十一年冬の頃。)

[やぶちゃん注:附記の最後のダブりらしきものは、ママ。「ちくま文庫」版では最後のそれは除去されてある。]

2023/05/28

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 再び毘沙門に就て

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)、及び、「青空文庫」の「十二支考 鼠に関する民俗と信念」の一部を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。なお、本篇は平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)には所収しない。冒頭「凡例」によれば、本篇の『大部分が本選集第二巻の「鼠に関する民俗と信念」に収録されているために割愛した』とある。所持するそれも参考にした。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読で附した。

 なお、先行する「毘沙門に就いて」(「就いて」はママ)は既にこちらで電子化しておいたので、まず、そちらを読まれたい。

 また、本篇はダラダラと長い。内容は、それぞれの部分で面白いのだが、だいたいからして、熊楠御得意の十倍返しの喧嘩腰で始まり、これ見よがしの嫌味を言い、かなりの生理的不快感が感じられる箇所も、複数、ある(但し、これは、別に、本文に書かれている通り、自信作であった本論考との連関が非常に強い、所謂「十二支考」の一つである「鼠に關する民俗と信念」が、雑誌に不掲載となったことへの憤りも影響しているのだが)。さらに、送り仮名表記の不全が異様に多く、読みを添えるだけでも、一々、正しいかどうかを調べねばならない始末である。されば、注は、必要最小限で、あさあさと附すこととする。悪しからず。ソリッドに本篇が電子化されるのも、恐らくは初めてであると思うので、後人の方に詳細注は譲ることとする。

 

     再び毘沙門に就て  (大正十五年九月『集古』丙寅第四號)

       附たり大黑天と歡喜天と關係ある事
       並びに大黑天の槌と鼠の事

 

 丙寅三號五葉裏に、黑井君は『南方熊楠氏は「毘沙門の名號に就て」と題して曰く、『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた』云々と書かれたが、此事件を信じて居るから申したので有《あら》うが、小生の立場からは些《いささか》の價値がないのである云々、其《それ》のみならず、佛の時代と毘沙門の時代が異《ちが》つて居る』と申された。然し、熊楠は價値の有無に拘らず、只々此話の出處を識者に問《とう》たのである。抑《そもそ》も、國土の紀年史さえ[やぶちゃん注:ママ。]無《なか》つた印度に、夜叉が神王に轉生した時代が知れ居るだろうか[やぶちゃん注:ママ。]。

 丙寅二號の拙文は、先づ、クベラ、又、クビラが毘沙門だ、とは「佛敎大辭彙」に出《いで》ある、と述《のべ》た。黑井君はクビラといふ發音は梵語にみえぬと言《いは》れたが、梵語程、發音の多樣な者なく、其が又、北印度、中央アジア、和漢と移るに伴《ともなつ》て、色々、移り異《かは》つた故、一切の梵語にクビラなる發音の有無は餘程、精査を要する。「佛敎大辭彙」は、熊楠如き大空の一塵程、梵語をカジリかいた「ゑせ者」よりは、恒河沙《ごうがしや》數倍えらい「學者」が集まり、大枚の黃白《くわうはく》[やぶちゃん注:金銀。金銭。]を掛《かけ》て出した者、それに「倶肥羅」を「クビラ」と訓じ、『毘沙門の異名』とし有《あれ》ば、クビラといふ梵語も有《あつ》たとしてよい。拉丁《ラテン》語に、羅馬共和時代、帝國時代、帝國衰亡時代、それから羅馬帝國滅後の「いかさま語」さへ、盛んに硏究され襲用されおる[やぶちゃん注:ママ。]如く、梵語にも種々の時代と、其行はれた國土の異なるにつれ、變遷・轉訛も有たので、どれも是も、梵語に相違ない。

 次に、予は帝釋が毘沙門をクベラと呼《よん》で佛の供養を佐《たす》けしめたてふ「經律異相」の文を引《ひい》て、クベラは實名、毘沙門は通稱のごとくみえる、と云《いつ》た。佛經に、此類の事、少なからず。帝釋如きも呼び捨て、又、至《いたつ》て親しみ呼ぶには憍尸迦《きやうしか》と名ざされおる。帝釋は通稱、憍尸迦は氏名らしい。今は、こんな事は、知れ渡りおるだろうが[やぶちゃん注:総てママ。]、明治廿六年、予、大英博物館の宗敎部長、故サー・ヲラストン・フランクスより列品の名札付けを賴まれた時、從前、佛敎諸尊の名號を、尊稱・通稱・實名・氏名、何の別ちもなく、手當り次第につけあるは、丁度、無差別に、耶蘇・基督・救世主・ナザレスの大工の忰《せが》れ、と手當り次第、呼ぶ樣で、不都合なれば、尊稱と通稱に限り、名札に書くがよいと進言して、それに決した。少し後に、土宜法龍師、見えられ、此事を聞《きい》て、誠に至當な事といはれた。佛敎を奉ずる者が、釋尊を瞿曇具壽《くどんぐじゆ》、道敎の信徒が、老子を李耳、抔、いはば、眞《まこと》の其徒でないと自白するに等し(「阿毘達磨大毘婆沙論」一八一)。諸敎の諸尊に、それぞれ[やぶちゃん注:底本は後半は踊り字「〱」であるが、濁音化した。]名號が多いが、其名號が、みな、ゴッチャクタに異名といふべきに非ず、種々の用途に隨つて、各別の名號が使はれたといふ事の例示迄に、クベラも毘沙門も同一の神の名號乍ら、使用の場合、意味が差《ちが》ふといふ事を述たのである。

 次に『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた云々』の文句は、丙寅第二號の拙文に明記しある通り、アイテル博士の「梵漢辭彙」一九三頁から引たので、此書(一八八八年龍動《ロンドン》出板)、本名「支那佛敎學必携」、予、在英の頃、佛敎の事を調ぶる[やぶちゃん注:底本は「調ふる」だが、訂した。]者が、皆な、持《もつ》た者で、アイテルは、身、支那に居り、色々、穿鑿したから、支那へ往《ゆか》ねば聞き得ぬ珍說を、多く、書き入れある。黑井君は、熊楠が『此事件を信じて居るから申したので有う』と言《いは》れた。成る程、熊楠は、攝・河・泉、三國の太守同樣、「毘沙門の申し子」といふ事で、小兒の時、小學敎場でさえ[やぶちゃん注:ママ。]毘沙門の呪《じゆ》を誦《ず》した位い[やぶちゃん注:ママ。]之を信仰したが、四十過《すぎ》て、一切經を通覽せしも、件《くだん》の「梵漢辭彙」に載せた話を、見ず。因《よつ》て丙寅二號五葉裏の上段十三、四行で、『此話は何の經に出で居《を》るか、識者の高敎をまつ』と、明らかに自分の無智無識を告白した。

 アイテルが述た通り、毘沙門にも色々あり、古梵敎のクヴェラ、現時ヒンズー敎のクヴェラ、佛敎四王天に在《あつ》て、「夜叉衆」を領する富神「毘沙門」で、スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物乍ら、世態《せいたい》が變るに隨つて、形も、姿も、食物も、動作も、生活も、全く異なる如く、古梵敎のクヴェラと、佛敎の毘沙門と、同じからず。佛敎の毘沙門は、「一切の夜叉の王」たるに、印度《ヒンズー》敎のは、ラヴァナに寶車を奪はるゝ程、弱い者なれば、是れ亦、同じからず。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」にも、佛經と齊《ひと》しく、之を「黃金と財富の神」としあるに、日本で、信貴山《しぎさん》が大繁昌するに反し、今の印度でクヴェラの像や、𤲿《ゑ》を求めても、得ぬ程、薩張《さつぱ》り、もてない位い[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]、是亦、違ふ。原來、佛敎、廣博で、インド諸敎の說を取り入れたれば、其の諸尊に關する傳說、亦、「委陀《ヴェーダ》」や『プラナ』に限らず。印度に、古く、梵敎の外に、異類・異族の敎、多かりしは、諺《ことわざ》になりある程。それに印度邊陲《へんすい》[やぶちゃん注:「辺境」に同じ。]の諸國から、トルキスタンや支那を經て、日本へ入る迄に、無數雜多の土地の傳說を攝取し居る可《べけ》れば、「委陀」や「プラナ」位い、調べた所ろが、現存佛敎の諸說を解くに、足《たら》ず。

[やぶちゃん注:「スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物」「スクモ」「螬」であるが、これは狭義には「甲虫類の地面の下に潜む幼虫」を指すが、ここは、セミのそうした土中に幼虫を指している。「ニシドチ」「復蜟」で、一つは、「大辞泉」には、『チョウやガのさなぎ。特に、アゲハチョウやスズメガのさなぎ。指でつまんで「西はどっち、東はどっち」と言うと、それに答えるように腰から上を振るといわれる。入道虫。西向け』とあるが、小学館「日本国語大辞典」には『セミの幼虫』や『根切り虫の蛹(さなぎ)をいう』とあった。]

 付《つい》ては、アイテルが述た『此神、前世、夜叉なりしが云々」の話が、支那の經藏にない以上は、西藏《チベット》・蒙古・カシュミル・ネパル・セイロン・緬甸《ビルマ》・暹羅《シャム》や、トルキスタン邊にそんな話がある事か、と識者の高敎をまつ次第である。アイテル博士に聞合《ききあは》せば、判つた筈だが、熊楠、右の話に初めて氣付《きづい》た時、聞合せに、手懸りなく、其後、彼《かの》人、物故したと聞《きい》て、其儘、打過《うちすぎ》て居りました。熊楠は、右の話を信ずる處《どころ》か、出處さえ[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]も、知《しら》ぬ者なれば、信じてよいか惡いかをさえ判じえず。誰か、アイテル博士に代つて、此話の出處を敎え[やぶちゃん注:ママ。]られん事を切望する。

 又、乙丑第二號第二葉裏上段に、黑井君は『聖天(乃《すなは》ち歡喜天)には、鼠も付《つい》て居る。右手の斧は、小槌《こづち》と代えて見て、左手の大根を以て、大黑天の二又大根《ふたまただいこん》と思へば、玆《ここ》で始めて。大黑天の化身の樣《やう》に思はる。けれども、何の緣《ゆかり》もないから、混合してはならぬ』と述られ、扨、其下段には、大黑天を『シヴアの息子ガネサ(歡喜天)の變名ではあるまいかと言はるるならば、理由もつくが、孰れにしても、硏究の餘地がある』と說《とか》れた。硏究の餘地が有るなら、何の緣もないと斷ずべからず。この文が發表されたは、大正十四年三月だつた。

 其一年餘前に、予は、大正十三年の子歲《ねどし》をあて込《こん》で、明《あく》る新年號の『太陽』に例年の順で、鼠の話を出すべく、十二年の十一月に、早く、其初分を草し、博文館へ送つた處ろ、九月震災の餘響で『太陽』も體裁を改むる事となり、永々《ながなが》、予を引立《ひきたて》て吳《くれ》た淺田江村君も退社し、予の原稿も、サランパン、一先づ、返却となって、予は、面《づら》を汚した泥鼠のチユウのねも出ず。其後、中村古峽君の望みで、十二禽の話の板權を賣渡《うりわた》したが、鼠の話は未完故、其儘、手許に殘し居り、其れには、歡喜天と大黑天と何の綠もない所《どころ》でなく關係大有りてふ說を述べある。此拙文は自分のみかは、誰が讀《よん》でも三嘆するから、歡喜・大黑二天のことを論ずる人の法螺《ほら》の種にもと、チト長文乍ら、其部分を全寫・解放と出かける。但し、大正十二年、後《あと》の年月を記した處だけは、只今、書加《かきくは》へる所に係る。

 大黑天の事は石橋臥波《いしばしぐわは》君の「寶船と七福神」てふ小册に詳述されたから、今成るべく鼠に關する事どもと、かの小册に見えぬ事斗《ばか》り述よう。皆人の知る通り、此神が始めて著はれたのは、唐の義淨法師の「南海寄歸内法傳」による。義淨は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸亨《かんこう》二年[やぶちゃん注:底本は「咸享」であるが、誤りなので訂した。六七一年。]、卅七歲で印度に往き、在留廿五年で歸つた時、奉佛、兼、大婬で、高名な則天武后、親《みづ》から、上東門外に迎へた程の傑僧で、「寄歸内法傳」は、法師が、彼《かの》地で目擊した所を記した、法螺《ほら》ぬきの眞實譚だ。石橋君の著は、其大黑樣の所を抄した迄で、誤字も、多少、あれば、今は、本書から引《ひこ》う。云く、又、西方諸大寺、皆な、食厨《くり》の柱側、或は、大庫の門前に、木を彫《ほり》て、二、三尺の形を表はし、神王[やぶちゃん注:底本は「神主」であるが、誤植と断じて訂した。]となす。其狀《かたち》、坐して、金囊を把《と》り、却つて小牀《せうしやう》に踞《きよ》し、一脚、地に垂《た》る。每《つね》に油を以て拭ひ、黑色、形を爲し、莫訶歌羅(マハーカーラ。「大神王」の義)といふ。卽ち、大黑神也。古代相承して云く、是れ、大天(印度《ヒンズー》敎の「シワ大神」)の部屬で、性、三寶を愛し、五衆を護持し、損耗、無からしめ、求《もとむ》る者、情に、稱《かな》ふ。但《ただ》、食時に至り、厨屋《くりや》每《ごと》に香火を薦《すす》むれば、有《あら》ゆる飮食《おんじき》、隨つて、前に列す、と。乃《すなは》ち、大黑神は、今も、印度で大陽相を以て表はし、盛んに崇拜するシワの眷屬乍ら、佛法を敬し、僧衆を護り、祈れば好《すい》た物を授ける。臺所で、香火を供へて願へば、忽ち、飮食を下さると云《いふ》のだ。扨、この邊から、義淨は、唯《ただ》聞いたままを記すといふ斷《ことわ》り書きをして、曾て釋尊大涅槃處へ建《たて》た大寺は、いつも、百餘人の僧を食《くは》せ居《をつ》た處ろ、不意に、五百人、押掛《おしかけ》たので、大《おほい》に困つた。所ろが、寺男の老母が、「こんな事は、いつも、ある。心配するな。」と云た儘、多く、香火を燃《もや》し、盛んに祭食を陳列して、大黑神に向ひ、佛涅槃の靈跡を拜みに、多勢の僧が參つた。「何卒、十分に飮食させて不足のないように。」と祈り、扨、一同を坐せしめ、寺の常食を與ふると、食物が、殖《ふえ》て、皆々、食ひ足《たり》たので、揃ふて、大黑天神の力を稱讃した、とある。大分、怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家は、孰れも信心厚く、行儀も良《よか》つたから、事に慣《なれ》た老婆の言を信じ切《きつ》て、百人前の食物が、五、六倍にふゑた[やぶちゃん注:ママ。]と思ひ定め、食《くひ》て不足を感じ無《なか》つた者だろう[やぶちゃん注:ママ。]。寺の住職の妻を、「大黑」といふも、專ら、臺所を司つて、大黑神同樣、僧共《ども》に、腹を減《へら》させないからで、頃日《けいじつ》。『大每』紙へ出た、大正老人の「史家の茶話」に、「梅花無盡藏」三上を引《ひい》て、足利義尙將軍の時、既に、僧の妻を「大黑」と呼《よん》だと證した。云く、長享《ちやうきやう》二年[やぶちゃん注:一四八八年。]十一月二十八日、宿房の大黑を招き、晨盤《しんばん》を侑《すす》む。其體《てい》、蠻《ばん》の如し、戲れに詩を作《つくり》て云く、宿房大黑侑晨炊、合掃若耶溪女眉、好在忘心無一點、服唯繒布語蠻夷〔宿房の大黑 晨炊(しんすい)を侑(すす)む 合(まさ)に若耶溪(じやくやけい)の女(ぢよ)の眉(まゆ)を掃(は)くべきに 好在忘心(かうざいばうしん) 一點も無し 服は唯(ただ) 繒布(そうふ)して 語(ことば)は蠻夷(ばんい)なり〕[やぶちゃん注:「繒布」彩った絹織の布。あやぎぬ。]。意味はよく判らないが、當時、はや、夷子《えびす》・大黑を對稱した丈《だけ》は判る。高田與淸《ともきよ》は、「松屋筆記」七五に、大黑の槌袋に關し。「無盡藏」卷四を引《ひき》乍ら、卷三の、僧の妻を、「大黑」といふ事は、氣付《きづか》なんだ者か。

 永祿二年[やぶちゃん注:一五五九年。]、公家藤原某作てふ「塵塚《ちりづか》物語」卷三に、卜部兼倶《うらべかねとも》、說として、大黑と云は、元と、大國主命也。大己貴《おほなむち》と連族《むらぢぞく》にて、昔、天下を經營し玉ふ神也。大己貴と同じく、天下を運《めぐ》り玉ふ時、彼《かの》大國主、袋の樣なる物を、身に隨へて、其中へ、旅產《りよさん》を入《いれ》て、廻國せらるるに、其入物《いれもの》の中の糧《かて》を用ひ盡しぬれば、又、自然に滿《みて》り。其に依《より》て後世に福神《ふくじん》と云《いひ》て尊《たつと》むは、此謂れ也と云々、然して、其後ち、弘法大師、彼《かの》「大國」の文字を、改めて、「大黑」と書《かき》玉ひけると也、と記す。かく、「大黑天」は、「大國主命」を佛化したといふ說は、足利氏の代、既に在《あつ》たので、「古事記」に、大國主の兄弟八十神、各《おのお》の、稻羽《いなば》の八上《やかみ》姬を婚せんと、出立《いでた》つに、大國主に、袋を負《おは》せ、從者《すざ》として往《いつ》た話、あり。本居宣長、其賤役《せんえき》たるをいひ、事《こと》功《こう》の人に、後《おく》るゝ者を、今も「袋持ち」といふと述た。海外にも、マオリ人は、脊に食物を負うを、「賤民」とす(一八七二年伯林《ベルリン》板、ワイツとゲルランドの「未開民人類學」、六卷、三四五頁)。大國主も糧袋《かてぶくろ》を負《おふ》たとみえ、大黑神も、飮食不盡の金嚢を持《もつ》た所が似居《にを》るから、大國主の袋をも、「不盡の袋」と見て[やぶちゃん注:ここ以下は、底本の画像の順が入れ替わってしまっている。アドレス末「206に「三八八」及び「三八九」があり、次の「207に「三八六」及び「三八七」頁がある(というか、「208」には正しい画像が再度出る)。注意されたい。]、二神を合一したのだ。

 次は槌だ。「譚海」一二に、日光山には、「走り大黑」といふあり、信受の者、懈怠《けたい》の心、有《あれ》ば、走り失《うせ》て、其家に座《ましま》さず。殊に靈驗ある事、多し。是は、往古、中禪寺に、大《だい》なる鼠、出《いで》て、諸經を喰ひ敗《やぶ》り、害をなせし事ありしに、其鼠を追《おひ》たりしかば、下野《しもつけ》の足緖《あしを》まで逃《にげ》たり。鼠の足に、緖《を》を付《つけ》て、捕へて、死《しし》たるにより、其所《そこ》を「足緖」と云《いふ》とぞ、「足緖」は「足尾」也。扨、死たる鼠の骸《むくろ》に、墨を塗《ぬり》て、押す時は、其儘《そのまま》、「大黑天の像」に成《なり》たり。其より、日光山に、此鼠の死たる骸を重寶《ちやうはう》して、納め置き、今に「走り大黑」とて、押出《おしいだ》す。御影《みえい》は是也、と記《しる》す。一昨年、某大臣、孟子が、所謂、『大王、色を好んで、百姓と共にせん。』との仁心より賴まれた「惚藥《ほれぐすり》」の原料を採りに、中禪寺湖へ往《いつ》た時、「篤《とく》と、此大黑を拜まう。」と心掛けて滯在して、米屋旅館に、岩田梅とて、芳紀二十三歲の、丸ボチャ クルクル猫眼《ねこめ》の仲居頭《なかゐがしら》あり。嬋娟《せんけん》たる花の顏《かん》ばせ、耳の穴をくじりて、一笑すれば、天井から、鼠が落ち、鬢《びん》のほつれを搔き立てて、枕のとがを憾《うら》めば、二階から、人が落ちる。南方先生、其の何やらのふちから溢《あふ》るるばかりの大愛敬《だいあいきやう》に、鼠色の涎《よだれ》を垂《たら》して、生處《せいしよ》を尋ねると、足尾の的尾《まとを》の料理屋の娘と云《いふ》から、「十分、素養もあるだらう、どうか一緖に、『走り大黑』、身は桑門《さうもん》となる迄も、生身《なまみ》の大黑天と崇め奉らん。」と、企《くはだ》つる内、唐《からつ》けつに成《なつ》て下山し、トウトウ[やぶちゃん注:ママ。]「走り大黑」を拜まなんだ。全く、惚藥取りが、惚藥に中毒したのだ。其節、『集古』會員上松蓊《うへまつしげる》君も同行したから、彼女の尤物《いうぶつ》たる事は、同君が保證する。彼《あの》邊へ往《いつ》たら、尋ねやつて吳《くれ》玉へ。

[やぶちゃん注:「譚海」の当該分は所持する「日本庶民生活史料集成」版で校合した。実は「足緖」の部分は、本文は、ひらがなで、なお且つ、「あしほ」となっている。しかし、これは明らかに現在の栃木県日光市足尾町(あしおまち:グーグル・マップ・データ)のことだから、「あしを」が正しいので、そちらを採った。因みに、「譚海」では、冒頭に『大黑天は梵語にアカキヤラ天と稱す、マカキヤラは眞黑成事也。……』で始まる大黒天の考証があるが、熊楠には都合が悪かったからか、カットしている。なお、以上の引用の末尾は、『彼山の祕事にて不可思議也。』で終わっている。

「嬋娟」あでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。

「的尾」不詳。地名ではなく、屋号か。]

 件《くだん》の「譚海」の文に據れば、鼠が神に成《なつ》て大黑天と現じた樣だが、「滑稽雜談」二一には、大黑天神は厨家《くりや》豐穰の神なるが故に、世人《せじん》、鼠の來つて、家厨《くり》の飮食倉庫の器用を損ずるを、此神に祈る時、十月の亥《ゐ》の日を例として、子(ね)の月なる十一月の、子(ね)の日を(祭りに)用ゆるなるべし、と記す。「梅津長者物語」には、鼠三郞、「野らねの藤太」等《ら》の賊が、長者の宅を襲ふと、大黑、眞先に打つて出で、「打出の小槌」で、賊魁を打ち殺す事、あり。是ぢや、大黑は、時に鼠や賊を制止・誅戮《ちゆうりく》し、其槌は殺伐《さつばつ》の具と成つて居《を》る。

[やぶちゃん注:「鼠三郞」国立国会図書館デジタルコレクションで活字本の「梅津長者物語」を見たが、これ、「えひす」()「三郞」の誤記か誤植ではなかろうか。]

 槌は、いかにも、大黑の附き物で、繁昌を此神に祈つて、「鼠屋」、又、「槌屋」と家號したのが、ある。京で名高い柄糸(つかいと)を賣る「鼠屋」に紛はしく、「栗鼠(りす)屋」と名のる店が出た話あり(寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]板、「子孫大黑柱」四)。伊勢の「御笥《おたんす》作り」内人《うちんど》土屋氏は、昔し、「槌屋」と稱へ、豪富なりしを、惡(にく)み、數十人、圍み、壞《やぶ》りに掛《かか》り、反《かへ》つて、敗北した時、守武の狂歌に、「宇治武者は千人ありとも、炮烙《ほうろく》の槌一つには叶はざりけり」、「蛆蟲」を「宇治武者」に云《いひ》なしたので、當時、「焙烙千枚、槌一つに叶はぬ。」てふ諺が有たらしい(「石崎文雅鄕談」[やぶちゃん注:「鄕」は底本「卿」だが誤植と見て、訂した。])。それから娼屋には、殊に、「槌屋」の家號、多く、例せば、寶永七年板「御入部伽羅女《ごにふぶきやらをんな》」四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衞方に及んで、「したるい目付き掃部《かんべ》さま、これが『槌屋』の大黑也。」と、此娼を、家の大黑柱に、比べおる[やぶちゃん注:ママ。]。四壁庵の「忘れ殘り」上卷に、吉原江戶町三丁目、佐野槌屋の抱かかえ遊女「黛(まゆずみ)」」、美貌無双、孝心、篤《あつ》く、父母の年忌に、廓中・其外、出入《でいり》の者まで、行平鍋《ゆきひらなべ》を、一つヅヽ、施したり。「わがかづく多くの鍋を施して、萬治《ばんぢ》この方《かた》にる者ぞなき」と、ほめある。是等よりも、ずつと、著はれたは、安永二年、菅專助《すがせんすけ》作「傾城戀飛脚《けいせいこひのたより》」で、全國に知れ渡り、「忠兵衞は上方者で二分《にぶ》殘し」と吟ぜられた「龜屋」の亭主を、しくじらせた、北の新地「槌屋」の抱え、「梅川《うめがは》」ぢや。

[やぶちゃん注:「行平鍋」単に「行平」とも呼ぶ土鍋の一種。厚手の陶器製で、蓋・持ち手・注ぎ口がついている。加熱が緩やかで、保温性に富み。粥・重湯(おもゆ)を炊くのに適する。塩を焼く器から起こった名と伝えられ、在原行平が、須磨で、塩焼の海女と親しんだ故事に因むとされる。]

 槌は、只今、藁を打《うつ》たり、土を碎いたり、辨慶が七つ道具に備はつたり位は芝居で見るが、專用の武器とはみえず。

 だが、昔し、景行天皇、ツバキの槌を猛卒《まうそつ》に持たせ、誅殺し玉ふ(「日本紀」七)、此木は、今も、犬殺しが用ひ、身に、極めて痛く、當る。「史記」には、槌を以て朱亥《しゆがい》が晉鄙《しんひ》を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事、あり。北歐の雷神トール、百戰百勝するに、三《みつ》の兵寶《へいはう》あり。先づ、山を擊たば、火が出る大槌、名はムジョルニル、此神、之を以て、山と霜の大鬼を殺し、無數の鬼屬を誅した。次は、身に卷けば、神勇、二倍する帶で、第三には、大槌を執る時の手袋だ(マレーの「北歐考古編」、ボーンス文庫本、四一七頁)。吾邦でも、時代の變るに伴ふて、兵器に興廢あり。砲術、盛んならぬ世には、槍を貴《とうと》び、幾人、槍付けたら、鼈甲《べつかう》柄の槍を許すとか、本多平八の「蜻蜒《とんぼ》切り」抔、名器も多く出で、「昭代記」に、加藤忠廣、封を奪はれた時、「淸正」傳來の槍を折《をり》て武威の竭《つき》たるを示したと記す。槍より先は。刀劍で、「劍の卷」抔、名刀の威德を述べ、是さえ[やぶちゃん注:ママ。]有《あれ》ば、天下治まる樣に言ひ居り、又、弓矢を武威の表徵の如く唱へた。支那でも兵器の神威を說《とい》た者で、越王、「泰阿」《たいあ》の劍」を揮えば[やぶちゃん注:ママ。]、敵の三軍、破れて、流血千里、「湛盧《たんろ》の劍」は、吳王の無道を惡《にく》んで、去《さつ》て楚に往《いつ》たといひ、漢高祖が白蛇を斬った劍は、晉の時、自《おのづか》ら、庫の屋を穿《うが》つて、火災を遁《のが》れ、飛去《とびさつ》た由で、漢より晉迄、此劍を、皇帝の象徵と尊んだらしい。柬埔寨《カンボジア》でも傳來の金劍を盜まば、王となり、是れなくば、太子も王たるを得ず(「淵鑑類函」二二三。「眞臘風土記」。)。漢土で、將軍出征に斧鉞《ふえつ》を賜ふ、とあるは、三代の時、以前、之を以て、人を斬《きつ》たからで、「詩經」に武王鉞(マサカリ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を執《とれ》ば、其軍に抗する者、なし、とある。上古の人が遺した石製の斧や槌は、雷斧《らいふ》・雷槌《らいつい》など、歐・亞、通稱して、神が用いた武器と心得、神の表徵とした。博物館で、數《しばし》ば見る通り、斧とも槌とも判らぬ「間(あい)の子」的の物も多い。王充の「論衡」に、漢代に、雷神を𤲿《ゑが》くに、「槌で連鼓を擊つ」とした、と有《あれ》ば、其頃、既に「雷槌」てふ名は有たのだ。古希臘羅馬共に、斯《かか》る石器を神物とし、今日、西阿《にしアフリカ》に於る如く、石斧に誓ふた言《ことば》を、羅馬人は、決して違《たが》へず、契約に背《そむ》く者、有《あら》ば、祝官、石斧を牲豕《せいし》[やぶちゃん注:生贄の豚。]に投付《なげつけ》て、「此の如くに、ジュピテル大神が、違約者を、雷で、打て。」と唱えへ、北歐では誓約するに、雷神トールの大槌ムジョルニルの名を援《ひい》た。是れ、今日、競賣の約束固めに、槌で案《つくえ》を打つ譯である(一九一一年板、ブリンケンベルグの「雷の兵器」、六一頁)。刀・鎗・弓矢の盛行くした世に、刀・鎗を神威ありと見た如く、石器時代には、斧や槌が、武威を示す絕頂の物だった遺風で、神威を、斧や槌で表はす事となり、厨神《くりやがみ》「大黑」も、中々、武備も怠り居らぬといふ標《しる》しに、槌を持《もた》せたのが、後には、財寶を打ち出す槌と斗《ばか》り心得らるるに及んだと見える。「佛像圖彙」に見る通り、觀音廿八部衆の滿善車王《まんぜんしやわう》も、槌を持ち、辨財天、亦、槌を持つらしい。「大方等大集經」二二には、過去九十一劫毘婆尸佛の時、曠野菩薩、誓願して、鬼身を受《うけ》て、惡鬼を治《ぢ》す、金剛槌の咒《じゆ》の力を以て、一切惡鬼をして、四姓に惡を爲《な》す能《あた》はざらしむ。「一切如來大秘密王微妙大曼挈羅經《いつさいによらいだいひみつわうみめうまんだらきやう》」一には、一切惡及び驚怖障難を除くに、普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徵とした程、見るべし。佛敎外には、エトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。。本邦にも、善相公と同臥した侍童の頭を、疫鬼に、槌で打れて、病出《やみだ》し、染殿后を犯した鬼が赤褌《あかふんどし》に槌をさし居《をつ》たといひ、支那の區純ちう人は、槌で鼠を打《うつ》たといふ(一八六九年板、トザーの「土耳其《トルコ》高地探究記」、二卷三三〇頁。「政治要略」七〇。「今昔物語」二〇の七。「搜神記」下)。何れも、槌が、本《も》と、凶器たり、今も凶器たり得るを證する。〔(增)(大正十五年九月八日記)蒙昧の民が、いかに、斧を重寳な物とし、之をもつ者を羨やんだかは、一八七六年板、ギルの、「南太平洋之神誌及歌謠」二七三頁註を、みて、知るべし。〕

 石橋君は、『「大黑天に鼠」は、本と、クベラ神像と混《こん》じたので、クベラの像は金囊其他の寶で飾つた頭巾を戴だき、玉座に踞し、傍らに、金囊から、財寶をまく侍者、あり。後には、侍者の代りに鼠・鼬と成《なつ》た。日本の大黑が、嚢を負ひ、鼠を隨へるは、是に因ると云《いふ》た人、あり。』と言《いは》れた。クベラ、乃《すなは》ち、毘沙門で、印度《ヒンズー》敎の說に、梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て、梵天王に歸し、梵天王、其《その》賞《しやう》に、不死を與へ、福神とした。「羅摩衍《ラーマヤーナ》」に、數《しばし》ば、クベラを、「金と冨の神」と稱へたが、後世、印度で、一向、持囃《もてはや》されず、其𤲿も、像も、見及ばぬ(一九一三年板、ヰルキンスの「印度鬼神誌」四〇一頁)。之に反し、印度以北では大持《おほも》てで、「福神毘沙門」と敬仰さる。印・佛二敎共に、之を北方の守護神とし、支那では、古く、子《ね》は、北方、其獸は鼠としたるに融合して、印度以北の國で、始めて、鼠をクベラ、乃《すなは》ち、毘沙門の使ひ物としたのだ。日本でも、叡山の鼠、禿倉《ほこら》の本地、毘沙門といひ(「耀天記」)、橫尾明神は、本地、毘沙門で、盜《ぬすみ》を顯《あら》はす爲に祝奉るといふ(「醍醐腮雜事記」)抔、其痕跡を留むる。山岡俊明等、此印度以北の支那學說と、印度本土の經說の混淆地で作られた大乘諸經に見ゆれば迚《とて》、支那の十二支は印度より傳ふ抔言ふも、印度に、本と、五行の、十二支の、という事も、鼠を北方の獸とする事も、毘沙門の使とする事も、ない(『人類學雜誌』、第三四卷第八號、拙文「四神と十二獸に就て」參看[やぶちゃん注:私のPDF一括版『「南方隨筆」底本四神と十二獸について(オリジナル詳細注附)』を参照。])。去《され》ば、石橋君が聞及《ききおよ》んだクベラ像は、印度の物でなくて、多少、支那文化が及び居《をつ》た中央アジア邊の物だろう[やぶちゃん注:ママ。]。中央亞細亞に、多少、鼠を毘沙門の神獸とした證據なきに非ず。十二年前「猫一疋から大冨となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ國(今のコーテン[やぶちゃん注:「崑崙」のことか。])王は毘沙門天の後胤といふ。昔し、匈奴、此國に寇《こう》した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から、甲冑から弓絃《ゆづる》まで、紐や絲《いと》を、悉く、鼠群が嚙斷《かみたつ》たので、匈奴軍、詮術《せんすべ》を知らず、大敗した、王、鼠の恩を感じ、鼠を祭り、多く、福利を獲《え》、若《も》し、祭らないと、災變に遭ふ、と、出づ。似た事は「東鑑」に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し、甲斐源氏を伐《うた》んと、富士北麓に宿つた。其兵の弓絃を、鼠に嚙盡《かみつく》されて、敗軍した、と、あり。ヘロドトスの「史書」にも、埃及王が、クサタナ王同然、鼠の加勢で、敵に勝った話を出す。「宋高僧傳」一には、天寶中[やぶちゃん注:盛唐の玄宗の治世後半に使用された元号。七四二年~七五六年。]、西蕃・大石・康の三國の兵が。西凉府を圍み、玄宗、不空をして、祈らしめると、毘沙門の王子、兵を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、府を救ひ、敵營中に、金色の鼠、入《いり》て、弓絃を、皆、斷《たつ》たから、大勝し、其より、城樓、每《るね》に天王像を置《おか》しめたと記す。「天主閣」の始めとか。右の諸文で、唐の時、既に、鼠を毘沙門の使者としたと知る。

 今日、印度では、鼠を、ガネサ(歡喜天)の乘り物とす。大黑は、シワ大神の部屬と云《いふ》たが、ガネサは、シワの長男だ。シワの妻、烏摩后《うまかう》、子、なきを、憂へ、千人の梵士を供養して、韋紐《ヴィシュヌ》に禱《いの》り、美妙の男兒を生み、諸神、來賀した。中に、土星、有りて、土のみ、眺めて、更に、其兒《こ》を見ず。烏摩后、其故を問ふに、「某《それが》し、韋紐を專念して、妻が、いかに、彼《か》の一儀を勤むるも顧みず、『川霧に宇治の橋姬朝な朝な、浮きてや空に物思ふ頃』外《ほか》にいいのが有《ある》んだろう[やぶちゃん注:ママ。]と、九月一日の東京乎《か》として大燒《おほやけ》に燒けた妻が、某《それがし》を詛《のろ》ふて、『別嬪・醜婦を問《とは》ず、一切の物を、吾夫が眺めたら最後、忽ち、破れろ。』と、詛ふた。因て、新產の御子《おこ》に見參《けんざん》せぬ。」と、聞きも畢《をは》らず、后は、子自慢の餘り、「初產祝《うひざんいは》ひにきて、其子を見ないは、一儀に懸りながら、キツスをしない如しと怨む。「そんなら、必ず、後悔、あるな。」と、念を押した上、一目、眺むると、新產のガネサの頸、矢庭に切れて、飛失《とびうせ》た。吾邦にも、男の持戒をいやに疑ふて禍《わざはひ》を招いた例、あり。永祿十二年[やぶちゃん注:一五六九年。]十月、武田信玄、三增山《みませやま》の備え[やぶちゃん注:ママ。]を、小田原勢が擊《うつ》て、大敗した時、北條美濃守氏輝の身、危ふきに臨み、心中に、飯綱權現《いひづなごんげん》を賴み、「此命、助け玉はば、十年間、婦女を遠ざけます。」と誓ふた。處え[やぶちゃん注:ママ。]、師岡某、やつえ來り、馬を讓り、禦《ふせ》ぎ戰ふ間に、氏輝は免《のが》れた。歸宅後、夫人が、いかに思ひの色をみせても、構ひ付けず、此夫人は幾歲だつたか書《かい》てゐないが、其時、氏輝の同母兄氏政が卅三だから、氏輝は卅歲斗《ばか》り、隨つて、夫人も廿七、八、縮れ髮たつぷりの、年增盛りだつたでせう。婦女之身三種大過、何等爲、所謂婦女戶門寬大、兩乳汁流是名三種云々〔婦女の身、三種、大過《たいくわ》、何等(なんら)、三と爲す、所謂(いはゆる)、婦女の戶門、寬大なる、兩乳(りやうち)、汁(しる)流るる、之れ、「三種」と名づく云々。〕(「正法念處經」四五)、去《され》ば、「都傳摸年增東夷邊伐廣夷樣」〔「都傳摸(とても)年增(としま)東(と)夷邊伐(いへば)廣夷(ひろい)樣(やう)」其《その》廣夷《ひろい》野《の》に飽き果て、散播都天門《さはつても》吳弩《くれぬ》と、嘆《かこ》ちて、自害した。氏輝は、遺書を見て、不便《ふびん》がり、一生、女と交わらなんだ、と、あるが、後年、秀吉の命で、自裁した時、愛童《あいどう》山角定吉《やまかくさだきち》十六歲、今、打ち落した氏輝の首を、懷《いだ》いて走つた志を、家康、感じて、罰せず、麾下《きか》に列した、と有る(「野史」一二六)は、自分の家から火を出し乍ら、大睾丸の老爺を負《おひ》て逃《にげ》たので、褒美された樣な咄し。蓋し、氏輝は、女は遠ざけたが、「若衆遠《わかしうとほ》[やぶちゃん注:若衆道。]を春留《はどめ》する波は構はぬ庚《かのえ》さる」、小姓を愛し通したのだ。扨、烏摩后、首なき子の骸《むくろ》を抱《いだき》て泣出《なきだ》し、諸神、倣《なら》ふて、亦、泣く時、ブシュパブハドラ[やぶちゃん注:「金翅鳥」(こんじちょう)。ガルーダ。]、河へ飛《とび》ゆき、睡《ねむる》象の頭《かしら》を切《きつ》て、持來《もちきた》り、ガネサの軀《からだ》に繼《つい》でより、此神、今に、象頭だ。是れ、本邦慾張り連が子孫七代いかに落《おち》ぶれても頓着せず、「吾一代、儲けさせ玉へ。」と祈つて、油餅を配り廻り、之を食つた奴の身代、皆な、自分方へ飛んでくるように願ふ、歡喜天、又、聖天、是也。今も、印度人、此神を奉ずる事、盛んで、學問や事始めや、「障碍《しやうげ》よけ」の神とし、婚式にも祀《まつ》る。障碍神《しやうげじん》毘那怛迦《びなたか》も。象鼻あり。象、よく道を塞ぎ、又、道を開く故、障碍除・障碍神ともに、象に形どつたのだ。日本でも、聖天に、「緣祖」、又、「夫婦和合」を祈り、二股大根を供ふ(一八九六年板、クルックの『北印度俗敎及民俗』、一卷、一一一頁。アイテル「梵漢語彙」、二〇二頁。「增補江戸咄」五)。其名を、商家の帳簿に題し、家を立《たつ》る時、祀り、油を、像に、かけ、餅や大根を供ふる抔、よく「大黑祭」に似る。又、乳脂で煠《あげ》た餠を奉るは、本邦の聖天供《しやうてんぐ》の油煠げ餅に酷似す。其像形、象首・一牙で、四手に、瓢《ひさご》と、餅と、斧と、數珠をもち、大腹、黃衣で、鼠にのる(ジャクソンの「グジャラット民俗記」、一九一四年、ボンベイ板、七一頁)。佛典にも、宋の法賢譯「頻那夜迦天《びなやかてん》成就儀軌經」に、此神の像を、種々に造り、種々の法で祭り、種々の願《ねがひ》を掛くる次第を、說きある。聚落《しゆうらく》、人を、みな、戰はせ、人の酒を、腐らせ、美しい童女をして、別人に嫁《とつ》ぐを、好まざらしめ、夢中に、童女と通じ、市中の人を、悉く、裸で、躍らせ、女をして、裸で、水を負《おふ》て躍らせ、貨財を求め、後家に惚《ほれ》られ、商店を、はやらなくし、夫婦を睦くし、自分の身を、人に見せず、一切、人民を、狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に俱移等《ぐいと》來《こ》させ、帝釋天に打ち勝ち、人を馬鹿にして、其妻女・男女を取り、人家を燒き、大水を起し、其他、種々雜多の惡事・濫行を、歡喜天のお蔭で、成就する方《はう》を述べある。ダガ、餘り、大きな聲で數え立てると、叱られるから、やめる。

 斧と槌が、本《も》と、同器だつた事は上に述《のべ》た。晉の區純《おうじゆん》は、鼠が門を出かかると、木偶《でく》が、槌で打ち殺す機關《からくり》を作つた(「類函」四三二)。北歐のトール神の槌は、專ら、抛《なげう》つて、鬼を殺した。其如く、大黑の槌は、ガネサの斧の變作《へんさく》で、厨《くりや》を荒らす鼠を、平《たひら》ぐるが、本意とみえる。又、現今、韋紐《ヴィシュヌ》宗徒の追善用の厨器《ちゆうき》に、ガネサを𤲿く等より、大黑が、全然、ガネサの變形でない迄も、其形相《ぎやうさう》は、多く、ガネサより因襲したと惟《おも》はる。唐の不空が、詔を奉じて譯した「金剛恐怖集會方廣軌儀觀自在菩薩三世最勝心明王經」といふ、法成寺《ほふじやうじ》から、ツリを取る程、長い題目の佛典に、摩訶迦羅天《まかからてん》は大黑天也、象皮を披《ひら》き、橫に一槍《いつさう》を把《とる》云々。石橋君が、其著八六頁に「一切經音義」より、文、「諸尊圖像鈔」より、圖を、出したのをみるに、日本化しない大黑天の本像は、八臂《はつぴ》で、前の二手に、一劍を橫たへた狀《かたち》が、現今、印度のガネサが一牙を、口吻《こうふん》に橫たへたるに似、後ろの二手で、肩上《かたうへ》に一枚の白象皮《はくざうがは》を張り、而して𤲿にはないが、文には、足下に一《ひとり》の地神女《ぢしんぢよ》あり、双手で、其足を受く、とある。象皮を張《はつ》たは、大黑、もと、象頭のガネサより轉成せしを示す。ボンベイの俗傳に、ガネサ、其乘る所の鼠の背より、落ち、月、之を笑ふて、罰せられた、という事あり(クルック、一卷一三頁)。大黑像も、ガネサより因襲して、鼠に乘り、若《もし》くは、踏み居つたが、梵徒は、鼠を忌む故(一九一五年、孟買《ボンベイ》板、ジャクソンの「コンカン民俗記」八四頁)、追ひ追ひ、鼠を廢し、女神を代用したと見える。

 明治廿四、五年の間、予、西印度諸島にあり、落魄《らくはく》して、象藝師につき、廻つた。其時、象が些細《ささい》な蟹や、鼠を見て、太《いた》く不安を感ずるを睹《み》た。其後ち、「五雜俎」に、象は鼠を畏《おそ》る、と、あるを、讀《よん》だ。又、「閑窓自語」を見るに、『享保十四年[やぶちゃん注:一七二九年。]、廣南國[やぶちゃん注:現在のベトナムの中・南部に存在した阮(グエン)氏の王朝。]より、象を渡しし術を聞きしに、此獸《けもの》、極めて、鼠をいむ故に、舟の内に、程《ほど》を測り、箱の如き物を拵へ、鼠をいれ、上に、網を、はりおくに、象、之をみて、鼠を外へ出《いだ》さじと、四足にて、彼《かの》箱の上を、ふたぐ。之に、心を入るる故に、數日《すじつ》、船中に立つ、とぞ。然らざれば、此獸、水をも、えたる故に、忽ち、海を渡りて、還るとなむ。』と、有《あり》。此事、「和漢書の外《ほか》、亦、有《あり》や。」と、疑問を、大正十三年、龍動《ロンドン》發行『ノーツ・エンド・キーリス』一四六卷三八〇頁に出したを、答えが出ず。彼是する内、自分で見出《みいだし》たから、十四年七月の同誌へ出し、英書に、此事、記しあるを、英人に敎え[やぶちゃん注:ママ。]やつた。乃《すなは》ち、一九〇五年龍動出板、ハズリットの「諸信及俚傳」一の二〇七頁に『觀察に基づいた信念に、象は、野猪の呻《うめ》き聲のみならず、トカゲ等の、小さい物に逢《あつ》ても、自《みづか》ら防ぐ事、六《むつ》かしと感じ、駭《おどろ》く、と、いう事、あり。歐州へ將來する象を見るに、藁の中に潛むハツカ鼠をみて、狼狽するが、常なり。」と載《の》す。かく、象が、甚《いた》く、鼠を嫌ふ故、大黑が鼠を制伏した體《てい》を表《あらは》して、神威を揭げた事、今日、印度で、象頭神ガネサが、鼠にのる處を𤲿き、昔、希臘のアヴロ神が、クリノスより獻じた年供《ねんぐ》を盜んだ鼠を、射殺《いころ》したので、其神官が、鼠に乘る體《てい》を𤲿いたと、同意と、考ふ、と書き了《をは》つて、グベルナチス伯の「動物譚原」二の六八頁を見るに、ガネサは。足で、鼠を踏み潰すとある故、益《ますま》す自見の當れるを知つた。古羅馬の地獄王后ブロセルビナの面帽は、多くの鼠を、散らし縫つた(一八四五年、巴里板、コラン・ド・ブランシーの「妖怪辭彙」三九三頁)。鼠は、冬蟄《ふゆごもり》し、此女神も、冬は地府に歸るを、表はしたのだ。其から推して、大黑、足下の女神は、「鼠の精」と知《しれ》る。去《され》ば、增長・廣目二天が、惡鬼・毒龍をふみ、小栗判官《をぐりはんぐわん》、和藤内《わとうない》が悍馬《かんば》・猛虎に跨《また》がる如く、ガネサに模し作られた大黑天は、初め、鼠を踏み、次に、乘る所を、像に作られたが、厨神として、臺所荒しの鼠を制伏するの義は、上述、中禪寺の「走り大黑」位い[やぶちゃん注:ママ。]に痕跡を留め、後には、專ら、之を愛し使ふ樣《やう》思はるるに及んだのだ。「淇園一筆《きえんいつぴつ》」に、大内《おほうち》で、甲子祭《きのえねまつり》の夜、紫宸殿の大黑柱に、供物を祭り、箏《こと》一張で、四辻殿《よつつじどの》、「林歌《りんが》」の曲[やぶちゃん注:雅楽の曲名。]を奏す。是れ、本より、大極殿の樂也。此曲を舞ふ時、舞人《まひびと》、甲《かぶと》に鼠の形をつけ、上の裝束も、色糸で、幾つも鼠を縫付《ぬひつく》る、とある。是も、大黑に緣ある甲子の祭りに、其の使ひ物の鼠を、愛し翫《もてあそぶ》樣《やう》だが、本《もと》は、鼠が、大黑柱を始め、建築諸部を損ぜぬ樣、鼠を捉ふる「まね」して、之を厭勝《えんしやう》したので有《あら》う。

[やぶちゃん注:以下の附記一段は、底本では、全体が一字下げである。]

 以上、大正十三年正月、『太陽』え[やぶちゃん注:ママ。]出すべく、綴つた鼠の話の内、本題に關する所を寫し取り、其後、知《ち》、及んだ事を、少しく、書加《かきくは》へたもので、歡喜天と大黑天の間に、相纏《あひまと》はつた著しい關係あるを、證するに、十分と思ふ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 九二番 狼石

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      九二番 狼 石

 

 南部と秋田の國境に、たつた二十軒ばかりの淋しい村がある。此村から秋田の方へ越えて行く峠の上に、狼の形をした石が六個並んでゐる。正月の十七日の夜には此石の狼どもが悲しさうな聲を張り上げて啼くといふ話が村には昔から言ひ傳へられてゐた。

[やぶちゃん注:この峠について、考証してみた。まず、非常に参考になったのは、「国土交通省 東北地方整備局 秋田河川国道事務所」公式サイト内にあると思われる雑誌記事らしきページ画像の「歴史の道をゆく 来満街道――③」PDF)で、ここに出る「来満(らいまん)峠越え」と「不老倉(ふろうぐら)峠越え」が目に止まった。着目したのその後者の記載で、ここには嘗て銅山があり、『不老倉鉱山は四角岳の北側に位置し、天和(てんな)元年』(一六八一)『に発見されたいわれる。もとの名は狼倉(オイヌ倉)だったが、延享(えんきょう)四年』(一七四七)『に南部藩の直営になって不老倉と改称。当地では古来、オオカミをオイヌ(御犬)・オエヌと呼んで山神の使いとして尊び、オイヌに老いぬ=不老を重ねて、鉱山の繁栄を願ったものらしい』。『しかしその隆盛は短く、南部藩は寛政』六『年』(一七九四)、『産出量減少かや、雪崩による施設の崩壊を理由に休山届けを出している』。ここより北方向にある『来満峠越えの道は、この間の不老倉銅山の銅を野辺地に送るとともに、鉱山集落と三戸側を結ぶ生活道路として開かれたと考えられている。この道が本格的に整備されたのは明治に入り』、『同鉱山再建されてからだった。明治』一一(一八七八)『年、古河鉱業が採鉱を始めて発展』し、『大正の最盛期には、人口』五~六『千人ほどになり、多くの長屋が立ち並び、小学校』二『校、鉱山事務所、役所、郵便局、娯楽施設などがあった』とある。現在のグーグル・マップ・データ航空写真では(中央附近)、孰れも全く俤はない。現代の地図では峠名も出ないが、「ひなたGPS」の戦前の地図で両峠を確認出来る。しかし、既にして人家や施設の記号は孰れにも見られない。

 或寒い日であつた。朝からチラチラと雪が降つてゐて、夕方になるとそれが大吹雪(オホブキ)に變つた。此時どこからさまようて來たのか、みすぼらしい姿をした旅の巡禮の母娘の者が重い足を引きずりながら村に入つて來た。そして家々の門口(カドグチ)に立つて、一夜の宿を乞ふたが、何《ど》の家でも何の家でも泊めてくれなかつた。

 そのうちに吹雪はますます强くなるので、母娘の者は泣きながら一軒々々と寄つて步いて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]村端《むらはづ》れの二十軒目の家の戶口に立つた。其家の女房は親切に、俺ア家では旦那(ダナドノ)が八ケ間敷《やかまし》くて泊められないけれど、これから十町[やぶちゃん注:約一・〇九一メートル。]程行くと龍雲寺と云ふお寺があるから其所へ行つて賴んでみてがんセ、泊めてくれますべえからと敎へてくれた。そこで母娘が其寺へ行つて賴むと、住職が出て來て俺の所ではお前達のような人を泊める所はないが、ただ本堂の軒下でもよかつたら遠慮なく泊まつて行くがいゝと言つた。

 旅の母娘は吹雪の吹き込む本堂の軒下に抱き合つてゐたが、和尙はその姿を見て、可愛想な奴等だ。今夜の中《うち》に狼に喰はれてしまうだんべえがと言つてゐた。

 其夜は大變な大吹雪になつた。眞夜中頃になると山の方から狼どもの叫び聲が、吹雪の合間合間から聞えて來た。その叫び聲がだんだんと寺の方へ近づいて來た。母娘の者はあまりの恐ろしさに堅く抱き合つて顫《ふる》へてゐた。庫裡の方では狼の吠える物凄い聲を聽きながら、あゝ遂々《たうとう》狼がやつて來たなア。いよいよ彼《あ》の母娘の者がとつて喰はれてしまう[やぶちゃん注:ママ。]だらうと和尙は言つて居たが、寺の内へは入れやう[やぶちゃん注:ママ。]ともしなかつた。

 夜が明けた。和尙は早く起きて、本堂の軒下へ行つて見ると、案の定其所には母娘の姿は見えないでたゞ隅の方に古い笠が一個置かれてあつた。それでてつきり巡禮の母娘は昨夜の狼どもに喰はれたものと思つて居た。

 それから一月ばかり經つた或日、和尙は隣村に用事があつて行つて、夜遲く山路を歸つて來ると、背後(ウシロ)の方から狼の鳴き聲が聞えて來た。あれアと思つて怖しさに夢中になつて走り出すと、何時《いつ》の間にか和尙が駈けて來る路傍に六疋の大狼《おほおおかみ》が待ち伏せをしてゐて、和尙を喰ひ殺してしまつた。それからは村人が其所を通る時はいつも、狼が出て來て吠え立てるので、村中は一層難儀をした。

 或時村一番の力持と云はれてゐる熊平と云ふマタギが、よし俺が狼を退治すると言つて、鐵砲を持つて狼の穴の近くの木に登つて、穴から狼の出て來るのを待ち構へてゐた。すると狼どもは穴から飛び出して來て、木の上の熊平を目がけて頻りに吠え立てるので、熊平はやたらに鐵砲をブツたが一つもあたらなかつた。さうして居るうちに熊平の持つて居る彈丸《たま》が盡きてしまつて、手を空(カラ)にして居ると、狼どもは其の木に六疋で飛びついて、木をグラグラと搖すぶつて熊平をホロキ落さうとした。

 其時穴の中から美しい娘が駈出《かけだ》して來て、狼どもの側へ寄つて來て、あの人も鐵砲を打たなくなつたから、お前達も早(ハヤ)く穴さ入れと言つた。すると狼どもはまるで猫か犬かのように慣々《なれなれ》しく娘について穴へ入つて行つた。熊平は何しろ驚いて木から跳ね下りると一目散に村をさして逃げ戾つた。

 其後のこと、或月の冴えた夜に不意に六疋の狼が村を襲ふて來た。村の人々は驚いて鐵砲だの弓矢だのを持ち出して、それを防いだが、なかなか狼どもの勢力が强くて、どうにも出來なかつた。ところがいつか熊平マタギを助けた娘が其所へ駈けて來て、荒れ狂ふ狼どもを取り鎭めやう[やぶちゃん注:ママ。]とした。其時村方から射放《いはな》した一本の矢が飛んで來て娘の胸に刺さつた。娘は悲しそうな聲で叫んでそこにバツタリと斃《たふ》れてしまつた。

 この態(サマ)を見た狼どもは、忽ち猛惡になつて村人を五六人喰ひ殺した。倒れた娘は深傷に苦しみながらも、聲を張り上げて、これこれ村の人達を殺してはいけない。此村にはいつか私達に親切だつたオガさんが居るからと言つたまゝ息を引き取つてしまつた。

 六疋の狼どもはそれを聽いて悲しさうに啼きながら、娘の屍を何處へか運んで行つてしまつた。こんなことがあつてから、村の人達は自分達が不親切であつたことを後悔し、そして、

   惡い事をすれば――狼が來るぞ…

 と言つて、旅人などにも親切を盡す樣になつた。

 或時村の人が峠を通ると、六疋の狼が悲しさうな聲をあげて鳴いて居るのを見たことがあつた。狼どもは亡き娘を慕ひ悲しんでゐるらしかつた。そして六疋並んで日夜おうおうと啼いて居たが遂に其儘石になつてしまつた。

  (大正九年五月一日。千葉亞夫氏の御報告の中から、
  其後此の六ツの狼石の話のある陸中の山里の所在を
  尋ねたが訣《わか》らなかつた。然しいつか分るこ
  とであらうと思つて居る。)

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 九一番 狼と泣兒

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      九一番 狼と泣兒

 

 或る雨の降る夜、山の狼が腹がへつて、大きな聲で、おう、おうと啼きながら山から下りて來た。其時百姓家の子供が泣き出したので、母親はお前がそんなに泣けば、あの狼

にやつてしまうぞと言つた。[やぶちゃん注:底本では見ての通り、二箇所の不具合がある。一つは第二文の頭が「其時」ではなく、「時」となっている点で、「ちくま文庫」版の『その時』を参考に、かく、した。また段落末は「言つ」で断たれてしまっており(右ページ最終行末)、左ページ行頭は以下の次の段落になってしまっている。これも「ちくま文庫」版で訂した。]

 狼は恰度《ちやうど》其時、其家の壁の外を通つたので、これはよい事を聞いた、それぢあの子供を食へると思つて喜んだ。

 すると内の子供の泣き聲がばつたりと止んだ。母親があゝあゝこんなによい子を誰が狼などに遣るものかと言つた。狼は落膽して行つてしまつた。

(この話と九〇番は紫波郡昔話を騙む時に集《あつま》つた資料を、餘りに無内容だと思つてはぶいておいた物である。ところが今考へると、斯《か》う謂ふ物こそ昔話の原型を爲すものではあるまいかと思つたから採錄して見た。

昔話の發生と謂ふものは一面に於いて斯うした斷片的な單純なものから先づ成立《なりた》つて段々と幾つも寄り集り永年かゝつて一つの話になつたものであつたかと想像したのである。さう謂ふ觀方《みかた》からはこれらは尊《たつと》い種子であらう。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、全体がポイント落ちで二字下げであるが、総て本文と同ポイントで引き上げた。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 九〇番 爺と婆の振舞

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

      九〇番 爺と婆の振舞

 

 昔アあつたとさ、或所に爺(ヂ)と婆(バ)とあつたと、爺は町に魚買ひに行つたジシ、婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た。其所へ爺樣が魚をたくさん買つて來て、晚(バン)けは娘だの孫どもをみんなみんな呼んでお振舞ひをすべえナと言つた。そして晚景になつたから、娘だの孫だのが大勢來た、爺那《ぢな》婆那《ばな》、喜んでニガエガと笑つたとさ…

  (中野市太郞氏、當時尋常小學校生徒。)

[やぶちゃん注:語りが小学生だからと言って、これを微笑ましい「爺と婆の」「振舞」ひととることは私には出来ない。そも、「婆(バ)は家(ウチ)に居て、庖丁をもつて何か切る音をトントンさせて居た」という「何か」とは、何か? 実は本当の「爺(ヂ)と婆(バ)」は殺されており、「切る」対象は本当の「爺と婆の」遺体であり、妖怪の変じた似非の奇体な「爺と婆の振舞」ひに来た「娘だの孫だの」を見て、「爺那婆那、喜んでニガエガと笑つたと」いうホラーとしてこそ感じられる。幼少年期というのは、道徳や善悪に捉われない故に真正のスプラッター・ホラーを容易に創造し得る逢魔が時の闇を持っている。これは幼年期の私自身とその行為と記憶がまさにそうだったから、間違いない。たまたま見つけたイネガル氏のブログ「芸の不思議、人の不思議」の「松谷みよ子『現代の民話』」の紹介記事に、この話が同書に採られており、それについてのイネガル氏の感想も載っている。私のような凄惨なダークまで踏み込んではおられるわけではないが、この話について、『確かに心温まる良い話だ、と感じると同時に、衝撃を受けた。今までに知っているどの笑話のパターンにも収まらないからだ』。『もう一度じっくり読み直してみたら、この話にはオチが無いことに気づいた。つまり、これはそもそも笑話ではないのである。聞き手を笑わせる話を笑話と呼ぶのであれば、ここで笑っているのは登場人物である爺と婆であって、話の聞き手ではないのだ。ふう。危うくだまされるところだった』と記されておられる。例えば、かの白石加代子氏が、この話を朗読されたら、と考えれば、皆さんも納得ゆかれるであろう。なお、次の「九一番 狼と泣兒」の附記に、本篇への言及があるので、参照されたい。因みに、そちらのワン・シーンには――狼が、家の中で泣いている子どもを『食へる』思う――という叙述が出る。]

2023/05/27

尾形亀之助 靑狐の夢 / 初出正規表現版(思潮社版全集の本篇は不全であったことが発覚した)

 

[やぶちゃん注:初出である国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌『あおきつね』(郷土趣味会発行・昭和二(一九二七)年一月一日印行)初出形。扉の表記で、「あお」はママ。但し、その前ページの目次には「靑狐」と漢字表記する。ここで視認出来る)の『二の卷』の当該部を視認した。踊字「〱」、及び、「え」の字の「江」の崩し字は正字ひらがなで示した。

 さて、私は二〇〇八年一月に思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を底本として本詩篇を電子化しているのだが、驚くべきことに、それと比べると、そちらは、大きな脱落があることが判った。具体的には、「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。」とあるのが、全集版では「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくる。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。」とあって、ゴッソりなくなっているのだ! 他にも、全集では、「企」が「企て」、「尾に包まるのだつた。」が「尾に包まるれるのだつた。」となっており、これは、頗るおかしい。問題だ。私は全集の編者である秋元氏の編集には、以前から、ある不審を抱いていたが、後の二箇所は確信犯で秋元氏が書き変えたものである気がしている。しかし、前の有意な脱落は、それ以前に呆れかえった。龜之助よ、遅まきながら、正規表現版を公開するよ……。

 

   靑 狐 の 夢

 

        尾 形 龜 之 助

 

 ぼんやりとした月が出て、動物薗の中はひつそり靜寂につゝまれてゐた。

 しかし、彼は秋晴れの美しい空に三日月の銀箔を見、そよ風に眼をほそくして自動車に乘るところであつた。彼は水色の軍服を着た靑年士官になつてゐるので、心もち反身になつて小脇に細いステツキを抱へ煙草に火をつけてゐた。

 そして、彼の瀟洒な散步は事もなく捗どつて、自動車が門を走り出ると彼はほつとした。ほつとして狐にかへつてゐるのであつた。

 又、或るときは街のペーブメントを步いてゐて、あまり小さすぎる靴をはいてゐるのに氣がついて姿をかくさなければならなかつた。

 

 彼は靑年士官になり紳士にもなつて、幾度となく催した企が何時も煙のやうにふき消された。動物園の晝の雜踏に、彼は首をたれ眼をつむつてゐた。靑い空が眼にしみた。さみしかつた。

 あるとき彼の檻の前に立つてラツパを吹きならす子供があつた。そのとき彼は頭にふる草鞋を載せる藝當を思ひ出して苦しい笑ひを浮べた。人間になりたい希望はもはや見はてぬ夢となつて、彼の親も死ぬまでその希望をすてなかつた。彼もその禁斷の血をひいてゐるのであつた。

 日暮れになつて、今までどよめいてゐた園内がひつそりすると、彼はぽつねんとした。そしてつむつてゐた眼をあけた。夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。彼はペタペタと冷めたい水を嘗めると脊筋まで冷めたくしみるので藁床に入つて尾に包まるのだつた。眠らうとしても眠れない。あわれな記憶が浮ぶ。呼ぶ。惡血が彼の尾を二倍も大きくするだらう。彼はふらふらと立ちあがる。

 「女に化けやう――」

 そして、彼は喰ひ殘りの雞の骨を頭に載せる。

 

[やぶちゃん注:「あわれな」はママ。]

南方熊楠 毘沙門の名號に就いて

[やぶちゃん注:本篇は最後の編者附記によれば、大正一五(一九二六)年三月発行の『集古』(丙寅第二号)に収録された論考である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第六巻 (文集Ⅱ・渋沢敬三編昭和二七(一九五二)年乾元社刊)の当該論考を視認した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。漢文部は後に推定訓を添えて訓読を示した。

 これは、私の、現在、作業中である『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 再び毘沙門に就て』に先行する論考である(だから「再び」)ため、以下に電子化した。現行の諸本では、後者が単独で活字化されているものが多く、「再び」の標題が、どの論考を指すのか判然としない憾みを持たれる方が多いであろうと考え、先行して示した。ここでは私の掟破りの仕儀は行わず、底本通り忠実に字を起こしてある。その代わり、注は附さない。

 なお、最後のクレジットは最終行下一字上げインデントであるが、改行した。]

 

     毘沙門の名號に就いて

 

 クベラ、又クビラが毘沙門天の異名なる由は、佛敎大辭彙卷一俱肥羅天の條既に述べある。熊楠謂く、此二名が一神を指すを立證するに最もよき文句は、梁朝に敕撰された經律異相卷四一に羅閱城人民請佛經から引た者だ。佛が鷄頭婆羅門の供養を許した時、釋提桓因(帝釋)語毗沙門天王、拘鞞羅(クベラ)汝此婆羅門辨ゼヨ第三食、答〔釋提桓因(帝釋)、毘沙門天王に語りて曰はく、「拘羅(クベラ)よ、汝、此の婆羅門を佐(たす)け、第三食を辨(べん)ぜよ。」と。答へて曰はく、「受敎(じゆきやう)す。」と。〕とある。クベラは實名、毗沙門は通稱の如くみえる。アイテルの梵漢辭彙一九三頁には、此神、前世夜叉なりしが佛に歸依して沙門たりし功德により北方の神王に生まれかわつた。其沙門と成た時、他の沙門共驚て伊沙門〔伊(かれ)は是(こ)れ沙門〕と叫んだ、それ故毘沙門(ヴアイスラマナ、是男も沙門かの義)の稱へを得たとあるが、これは何の經に出た事か識者の高敎をまつ。伊沙門は音義兩譯らしい。金毗羅(蛟神)は、大灌頂神咒經卷七などをみると毘沙門とは別神らしい。印度で古來鰐を拜する其鰐神だろう[やぶちゃん注:ママ。]。吾邦に金毘羅を航海の神とするも此因緣か。佛弟子に金毗羅比丘あり、獨處專念を稱せられた(增一阿含經三)。是も鰐を奉じた氏子だらう。

  (大正一五、三、集古、丙寅ノ二) 

畔田翠山「水族志」 ハタジロ (マハタ)

 

(二七)

ハタジロ【紀州海士郡雜賀浦アクノ一種ハタジロト同名也】 一名シマイヲ【讃州高松領津田浦備中玉島】コリ

イヲ【備前岡山】タムリ【紀州田邊】マクチイヲ【筑前姪ノ濱】ダンダラ【筑前福間浦】シマヽス【尾州智多郡小野浦】ハタビラ【勢州土師】ハマヽス【紀州奥熊野矢口浦】アカマス【勢州阿曾浦】マス【紀州熊野九鬼浦勢州慥柄浦】シマダヒ【讃州八島】ナベヤキ【尾州常滑】

形狀「チヌ」ニ似テ扁ク細鱗アリ口眼「アク」ニ似タリ尾ニ岐ナシ眼黃褐

色瞳藍色全身淡褐身半白色ニ乄頭褐色喉下色淺シ頭ヨリ尾上ニ至

ルマテ褐色ノ橫斑條ヲナシ尾上黑色ノ大斑一ツアリ尾淡褐色黃ヲ

帶鰭本褐色末淡褐色上鬣端微黑色脇翅本淡褐色端淡赤色腹下翅藍

色腰下鰭藍色也本朝食鑑ニ旗代魚漁家所謂魚紋黑白相疊如旗之黑

白分染細鱗長鰭尾無岐色以黑爲上白者味劣略雖似藻魚而形扁首端

鬣亦細脆肉美白味淡而佳ト云此也此魚「アク」ニ似テ短扁キヿ「チヌ」ノ

如シ其三寸許者尾及脇翅淡紅色喉下ニ黑斑アリ餘ハ大者ニ同

○やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)の著になる本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」は所持する訳本(東洋文庫版)及び、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの板本(元禄一〇(一九六七)年刊)の当該部を視認して、訓読の参考にした。]

はたじろ【紀州海士(あま)郡雜賀(さいか)浦。「あく」の一種。「はたじろ」と同名なり。】 一名、「しまいを」【讃州高松領、津田浦。備中、玉島。】・「こりいを」【備前岡山。】・「たむり」【紀州田邊。】・「まくちいを」【筑前姪の濱。】・「だんだら」【筑前福間浦。】・「しまゝす」【尾州智多郡小野浦。】・「はたびら」【勢州土師(はぜ)。】・「はまゝす」【紀州奥熊野、矢口浦。】・「あかます」【勢州阿曾浦。】・「ます」【紀州熊野、九鬼浦。勢州慥柄(たしから)浦。】・「しまだひ」【讃州八島。】・「なべやき」【尾州常滑。】。

形狀、「ちぬ」に似て、扁(ひらた)く、細き鱗(うろこ)あり。口・眼、「あく」に似たり。尾に、岐(き)、なし。眼、黃褐色。瞳、藍色。全身、淡褐。身、半(なか)ばは白色にして、頭、褐色。喉下、色、淺し。頭より尾の上に至るまで、褐色の橫斑、條をなし、尾の上、黑色の大斑、一つあり。尾、淡褐色、黃を帶ぶ。鰭(ひれ)の本(もと)、褐色、末(すゑ)は淡褐色。上鬣(うはびれ)の端(はし)、微黑色。脇翅(わきびれ)の本、淡褐色。端、淡赤色。腹の下翅(したびれ)、藍色。腰下の鰭、藍色なり。「本朝食鑑」に、『旗代魚(はたしろうを) 漁家、所謂(いはゆる)、「魚紋(ぎよもん)は、黑と白とを相ひ疊み、之れ、黑と白と分け染めたる旗のごとし。」と。細き鱗、長き鰭、尾に岐、無く、色、黑きを以つて、上(じやう)と爲(な)す。白き者は、味、劣れり。略(ほぼ)、藻魚(もうを)に似ると雖も、形は扁く、首の端鬣(はしひれ)も亦、細く、脆(ぜい)なり。肉、美白、味、淡くして佳(か)なり。』と云ふは、此れなり。此魚、「あく」に似て、短く扁きこと、「ちぬ」のごとし。其の三寸許りの者、尾及び脇翅(わきびれ)、淡紅色。喉の下に黑斑あり。餘(よ)は大者(おほもの)に同じ。

[やぶちゃん注:後に示すが、多くの異名の一致と、美しい白身が美味である点から、これは、

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

と比定して間違いないという確信を持った。それは、

①「本草食鑑」の「旗代魚」の異名がマハタのものであること。

及び、

②本冒頭に配された「ハタジロ」の名が、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマハタのページの地方名の項に「ハタジロ」とあり、採取地を『三重県志摩市和具』とし、「ハタジロマス」もあり、これも同じ和具町の採取であったこと。

さらに、

③国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「マハタ」の項でも、「方言」欄で冒頭に『マス(白崎・盬屋・田邊・周參見・和深・太地・二木島)』(「マス」の太字は底本では傍点「﹅」)を掲げていること。

による。

「紀州海士郡雜賀浦」和歌山県和歌山市雑賀崎(さいかざき:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。和歌山市街の西南端。南東直近に歌枕として知られる「和歌の浦」がある。但し、正確には、紀ノ川の河口から雑賀崎に至る砂浜海岸で和歌浦に連なる景勝地であった旧「雜賀の浦」は、現在は埋め立てられて、和歌山南港となってしまっている。

「讃州高松領、津田浦」現在の香川県さぬき市津田町津田であろう。

「備中、玉島」岡山県倉敷市の旧玉島町。ここも江戸時代からの干拓で変容してしまったので、「ひなたGPS」の戦前の地図を示す。

「筑前姪の濱」福岡県福岡市西区姪の浜

「筑前福間浦」福岡県福津市西福間附近の海浜。

「尾州智多郡小野浦」愛知県知多郡美浜町(みはまちょう)小野浦

「勢州土師」三重県鈴鹿市土師町(はぜちょう)。

「紀州奥熊野、矢口浦」三重県北牟婁郡紀北町(きほくちょう)矢口浦(やぐちうら)。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町阿曽浦

「紀州熊野、九鬼浦」三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)。

「勢州慥柄浦」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦(たしからうら)。

「ちぬ」クロダイの異名。

「あく」複数の種の異名であるが、ここは同じハタ類のハタ亜科アカハタ属キジハタ Epinephelus akaara ととっておく「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキジハタのページに、「方言」として「アク」を『和歌山県和歌浦』(出典は前掲の宇井氏の「紀州魚譜」)として載せる。]

畔田翠山「水族志」 クチビダヒ (フエフキダイ・ハマフエフキ)

 

(二六)

クチビダヒ 龍尖

續修臺灣府志曰龍尖口尖而身豐味甘而脆美出澎多湖多多曬作乾按ニ

龍尖ハ「クチビダヒ」也日用襍字母ニ龍鮎「クチビダヒ」ト云「クチビ」ハ口

中赤色ニ乄火ノ如キヲ云大和本草曰「クチビダヒ」口尖色淡黑味與タ

ヒ相似較少按「クチビ」ハ形狀棘鬣ニ似テ嘴細長ニ乄尖リ口中赤背淡

紫褐色ニ乄如鱗褐斑アリ斑白色靑ヲ帶淡褐色ノ斑鱗ノ本ゴトニア

リ頰鱗ナリ淡褐色上唇上薄ク出扁ニ乄尖レリ下唇ノ下白唇淡紅色

ヲ帶背淡鬣褐色ニ乄刺ニ紅色アリ脇翅淡紅褐色腹下翅刺淡白ニ

乄翅ノ本淡黃末微紅色腰下鬣本淡褐色末黃色尾岐アリテ本黃褐色

末淡褐色㋑ロク井【紀州若山田邊】一名メイチ【熊野新宮】タルミ【勢州慥柄】タバメ【泉州堺】コロダヒ【防州岩國】クチビダヒノ五六寸ノ者也形狀「クチビ」ニ同乄小也全身

縱條アリテ條淡紅色或ハ條淡黃色腹靑白色背ヨリ淡黑色ノ斑八

九條ノ淡紅ノ條ヲ除テ腹上ニ至ル頭黃斑色ノ背鬣淡紅色ニ乄淡黑

斑アリ尾紅色ニ乄深赤色ノ斑橫ニアルト淡紅黃色ニ乄黑斑橫ニア

ルトアリ脇翅斑紅或ハ黃ヲ帶腹下ノ翅黃色或ハ黑斑アリ腰下鬣淡

黃色ニ乄赤斑アルト黑斑アルトアリ

○やぶちゃんの書き下し文

[やぶちゃん注:冒頭の引用には衍字と思われるものがある。中文サイトのこちらと校合し、以下の訓読文では、そこに『龍尖(口尖而身豐,味甘而脆美。出澎湖,多曬作乾)』とあるのに従った。]

くちびだひ 「龍尖」

「續修臺灣府志」に曰はく、『龍尖(りうせん)、口、尖(とが)りて、身、豐か。味、甘くして脆く、美(よ)し。澎湖(ほうこ)に多く出づ。多く曬(さら)して、乾(ひもの)に作る。』と。按ずるに、龍尖は「くちびだひ」なり。「日用襍字母」に「龍鮎(りゆうねん)」は「くちびだひ」と云ひ、「くちび」は、口の中、赤色にして火のごときを云ふ。」と。「大和本草」に曰はく、『「クチビダヒ」 口、尖り、色、淡黑。味、「たひ」と相ひ似て、較(やや)、少(をと)る。』と。按ずるに、「クチビ」は、形狀、棘鬣(たひ)に似て、嘴(はし)、細長にして、尖り、口中、赤く、背、淡紫褐色にして、鱗のごとく、褐(かついろ)の斑(まだら)あり。斑は白色に靑を帶べる淡褐色の斑、鱗の本(もと)ごとにあり。頰(ほほ)、鱗(うろこ)なり。淡褐色。上唇(うはくちびる)の上、薄く出(い)で、扁(たひら)にして、尖れり。下唇の下、白く、唇、淡紅色を帶ぶ。背、淡く、鬣(ひれ)、褐色にして、刺(とげ)に紅色あり。脇翅(わきびれ)、淡紅褐色。腹下翅(はらしたびれ)の刺、淡白にして翅(ひれ)の本(もと)は淡黃、末は微紅色。腰下鬣(こししたびれ)、本は淡褐色、末は黃色、尾、岐(また)ありて、本は黃褐色、末は淡褐色。

㋑「ろくゐ」【紀州、若山・田邊。】 一名、「めいち」【熊野、新宮。】・「たるみ」【勢州、慥柄(たしから)。】・「たばめ」【泉州、堺。】・「ころだひ」【防州、岩國。】。「くちびだひ」の、五、六寸の者なり。形狀、「くちび」に同(おな)じくして、小なり。全身、縱條ありて、條、淡紅色、或いは、條、淡黃色。腹、靑白色。背より淡黑色の斑(まだら)、八、九條の淡紅の條を除(よ)けて腹の上に至る。頭、黃斑色。背鬣(せびれ)、淡紅色にして、淡黑の斑ある。尾、紅色にして深赤色の斑の、橫にあると、淡紅黃色にして黑き斑(まだら)の橫にあると、あり。脇翅(わきびれ)の斑、紅或いは黃を帶ぶ。腹下の翅(ひれ)、黃色、或いは、黑斑あり。腰下鬣(こししたびれ)、淡黃色にして、赤斑あると、黑斑あると、あり。

[やぶちゃん注:今回の底本はここ「大和本草」の引用は、「大和本草諸品圖下 クチミ鯛・ナキリ・オフセ・クサビ (フエフキダイ・ギンポ・オオセ・キュウセン)」の最初に出る「クチミ鯛」である(一部、表記が異なるが、問題はない)。そこで私はその「クチミ鯛」について、「大和本草附錄巻之二 魚類 クチミ鯛 (フエフキダイ)」で考証した通り、スズキ目スズキ亜目フエフキダイ科フエフキダイ亜科フエフキダイ属フエフキダイ Lethrinus haematopterus でよい、としてある。国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」(三版・昭和七(一九三二)年刊)の「フエフキダイ」の項でも、「クチビ」「クチビダイ」を『紀州各地』の方言として冒頭に掲げている。但し、次のページに載る「ハマフエフキ」フエフキダイ属ハマフエフキ Lethrinus erythracanthus (縫蔵氏の種小名はシノニムを調べたが、見当たらない。不審)の項で『體形色等フエフキダイに酷似する』とされ、「方言」の欄には『フエフキダイと混同してゐる』とあるので、同種もここに入れておくべきであろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイと、ハマフエフキのページもリンクさせておく。自然界では、確かに、これ、一緒くたにしそうだな。

「龍尖」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のフエフキダイ属アマクチビ Lethrinus erythracanthus のページを見ると、「外国名」の項にズバリ、「龍尖」とあり、しかも、その採取地を『台湾(澎湖)』(ここ:グーグル・マップ・データ。以下、同じ)とするので、フエフキダイの近縁種であるが、遙かに派手なことが判る。

「慥柄」現在の三重県度会(わたらい)郡南伊勢町(みなみいせちょう)慥柄浦(たしからうら)。]

只野真葛 むかしばなし (67) 有名人河村瑞賢登場

一、むかし、江戶に川村瑞軒といひし人は、鳶の者なりしが、ふと、金、少々、まうけて、

『上方へ行き、かせがん。』

と思ひ立(たち)、大津の宿(しゆく)まで行(ゆき)しに、人の相(さう)を見る人と、とまり合(あひ)て有(あり)しが、瑞軒が相を見て、

「好き相なり。高名なる相なり。さりながら、上方にては、名を揚難(あげがた)し。やはり、江戶にて、工夫、有べし。」

と云(いひ)し、となり。

 さすがの人故、是を聞(きき)て

『實(げ)に、さも、あらむ。』

と思ひ直して、又、江戶へ歸りしが、行來(ゆきき)に、貯金、つかへはたし、一錢なしにて、高輪(たかなは)に、手を組(くみ)て、浪の、よりくるを見てゐたりしが、其とき、所々の「堀さらへ」有(あり)て、人足、多く出(いで)たり。七月末にて、盆棚(ぼんだな)を流したるが、浪によせられて、ひしと、岸に有しを見て、ふと思付(おもひつき)、其(その)つゝみし中(なか)より、瓜と茄子を取出(とりいだ)して、「鹽(しほ)おし」にして、人足共の中へ、持行(もちゆき)、うりしに、

「加減、よし。」

とて、忽(たちまち)、うれしより、錢、取(とり)て、よき瓜・茄子を買(かひ)ては、つけつけして、大きに儲けしが「もとで」の取付(とりつき)なり【此「堀ざらへ」、錢を「かます」に入れて、人足どもに、升にて、はかり、あたへし、とて、昔の人の富貴(ふうき)のたとへに、いゝしを、おぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]たりし。されど、今のよふ[やぶちゃん注:ママ。]に「煮うり物」など、たいて[やぶちゃん注:ママ。「絕えて」の訛りか。或いは「たいてい」(「大抵」)の脱字か。]なき世ゆへ、漬物さヘ、めづらしかりしなり。今は、「まこも」にて牛馬をつくれど、昔は皆、正(まこと)の瓜・茄子を牛馬にせしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 だんだん、仕出(しだ)して、日用頭(にちようがしら)になり、御城御普請の足代《あしじろ》をうけ合(あひ)しに、外々(ほかほか)の入札より、かくべつ、下直(げぢき)にせし故、瑞軒方へ、おちしに、

「いかゞして、かく別に、やすく、受合(うけあひ)し。」

と、人々、ふしぎに思ひしに、其時までは、足代には、材木ばかりにて、「かすがい」にてとめる事なりし故、材木・かすがいの入用、はこび人足の手間などに、費(つひへ)ありしを、瑞軒、工夫にて、ちからに成(なる)ほどばかり、柱を用ひ、あとは、竹と繩にて、せし故、もとの入用(いりよう)・はこび手間など、かゝらず、大まうけせしとぞ。

 是より、竹・繩にてかける事と成切(なりきつ)たり。かすがいの時は、ぬけて、怪我する事も有(あり)し、となり。

 是より、

『材木屋。』

と、おもひ付(つき)て、りつぱに普請せしに、倉には、一本も、材木、仕入(しいれ)なきに、引移(ひきうつ)るといなや、風上(かざかみ)より、火、出(いで)たり。

 其内に、工夫して、我家へ、火をつけて、通し駕(かご)にて、木曾へ、にげ行(ゆき)しとなり。

 木曾に至りて、

「我は、江戶の材木屋なり。山の材木、殘らず、かいうけたし。江戶、大火に付(つき)、急(いそぎ)、仕入(しいれ)に來りし。」

と云しが、其名も聞(きき)しらぬ事故、手付金なくては、少し、人氣(にんき)、のらざりし時、あとより、四ツばかりの子の、泣(なき)てきたりしを、懷中より、金三兩、いだして、小刀にて、くり穴を明(あけ)て、「がらがら」にして、だましたるていを見て、大金持と見とり、皆、得心したりし故、山中の材木、みな、瑞軒が、札(ふだ)付けたりしに、果して、四、五日、過(すぎ)て、追々、材木、仕入に來りしに、先達(せんだつ)て、よき材木は、皆、瑞軒が札付(つけ)し故、其方より、かいうけることに成(なり)、手ばたき一ツにて、千兩、まうけしとぞ。

 しかし、是より、「〆買」といふ事を心付(こころづき)、火事の度(たび)に、物の直(ぢき)を揚(あげ)るといふ工夫も出(いだ)しなり。

 才は、あれども、下人より、仕出す人は、いづくまでも、下人の心なり。わるいことの先立(さきだち)せし人なり。若《もし》、下へ富貴のくだる折の、いたりしにや【大平つゞけば、上の人心、ゆたかにて、智に、うとく、下の者は、たからを得る事を工夫するかたちなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 此火事の便(べん)に、一度に大材木屋と成(なり)て、公儀の御用に、材木さし上(あぐ)る事ありし時、二千本の木の御用被仰付し時、御うけ申上(まふしあげ)、扨(さて)、二千本、御見分の時、

「千本、はこびて、木口(こぐち)を御覽に入(いれ)、跡の千本は、やはり、始(はじめ)の木の後(うしろ)の木口を、其座(そのざ)にて、つみかへて、御覽に入(いれ)、二千本、御見分の分(ぶん)にすめば、はこび手間、かゝらぬ。」

と工夫して、見分有(ある)役人方(がた)へ、色々、まひないしてすみしが、其内、壱人(ひとり)、朱子學者、有(あり)て、

『さやうの事、少もいはれぬ人、有しを、我方(わがはう)ヘ引込(ひきこむ)たく。』

おもひ、俄(にはか)に、學文して、書の名ばかりおぼゑ[やぶちゃん注:ママ。]、さて、

「御用被仰付有難き。」

という[やぶちゃん注:ママ。]禮に行(ゆき)、書物の噺(はなし)、少々すると、其比(そのころ)、まれなる唐本(たうほん)に、其人の見たがる物ありしを聞(きき)だし置(おき)、

「我、持居候間、御覽に入(いる)べし。」

とて、歸り、急に尋(たづね)て、其書を、かいとり、かしてやりし、となり。

 大きに悅(よろこび)、早々、かへしたりしに、内の者に「まいない[やぶちゃん注:ママ。]」して、其書一册、紛失仕(し)たる由に、いひたて、隨分、旦那の氣の毒がる樣(やう)にいはせしに、多(おほい)に、「まじない」[やぶちゃん注:「賄賂(まひなひ)」に「咒(まじな)い」を洒落て効かせたものであろう。]きゝて、家中をさがしなどして、さわぎしが、元より「こしらい[やぶちゃん注:ママ。]事」なれば、いづくにかあらん、旦那は、氣の毒の山をつかね、瑞軒へ面目(めんぼく)なくてゐる時、かの見分なり。二千の數を千にてすまはせる事ならずと、おもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、さきの氣の毒さに、無言にて居(をり)たりし、とぞ。

 是にて、又、倍、まうけたり。

 是より後は、書を讀(よむ)人を、よしとや、思ひけん、白石先生、とし若(わか)の時分、

「聟(むこ)に仕度(したし)。」

と、いひし事は、「折たく柴」にある如くなり。

 娘の聟には、書物よむ人を、したり、とぞ。

 はじめは何といひしや、「瑞軒」は隱居名なるべし。

 後は、

「佛學をして、座禪する。」

とて、こもり居(をり)しが、湧(わき)て出る工夫は、やめられず、三日の内に、「淀のきりぬき」と云(いふ)事を考(かんがへ)だし、夜が明(あく)ると、はき物、はきながら、片手に尻をからげ上(あげ)て、

「淀のきりぬき。」

と、よばわりながら、かけ出して、公儀へ、願(ねがひ)をあげたり、とぞ。

 今も用(もちひ)るは、此人の工夫なり。

[やぶちゃん注:「川村瑞軒」これは無論、江戸初期の豪商・政商として全国各地の航路開拓・治水工事を指揮し、晩年には武士身分(旗本)を得た、かの河村瑞賢(元和四(一六一八)年或いは元和三年~元禄一二(一六九九)年)である。当該ウィキによれば、『伊勢国度会郡東宮村(とうぐうむら』:『現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農に生まれ』たが、『先祖は村上源氏で、北畠氏の家来筋であると自称していた』という。十三『歳の時』、『江戸に出』、『九十九里浜東端の飯岡で江戸幕府(桑名藩)の土木工事(椿海の干拓/新川の開削工事など)に携わり』、『徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようにな』って、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日にかけて発生した「明暦の大火」の『際には』、『木曽』・『福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た』とあった。当地鎌倉の建長寺に墓がある。なお、真葛は、そのやり口のあざとさに、かなり批判的な語り口を以って記しているのが、興味深い。

「淀のきりぬき」瑞賢が幕命を受けて行った事業のうち、現在も高い評価が与えられている「東廻り・西廻り海運」の刷新と並ぶ、「淀川河川の大規模な改修工事」を指す。]

只野真葛 むかしばなし (66)

 

一、菊田喜太夫といへる人は、すぐれて小祿なりしが、始(はじめ)、壱人身(ひとりみ)にて有(あり)し時、おもへらく、

『味よき物をこのむほど、費(ついへ)なる事、なし。心のかぎり、儉約を、せばや。』

とて、汁・香の物なく、味噌少々そへて、食せしに、

『さすが、膳𢌞り、さびしゝ。』

と思ひて、木にて、魚の形をこしらい[やぶちゃん注:ママ。]、竹ぐしにさして、みそを、ぬりて、燒置(やきおき)、味噌ばかり、くひて、又、付(つけ)ては、燒々(やきやき)して、二、三年、くひしほどに、金持と成(なり)て、いろいろ、かうも有しとぞ。

 後に妻子も持(もち)たれど、

「我等如くなる身代にて、味よき物、くうべからず。」

と諫(いさめ)て、家内にも、魚類を、くはせざりし、とぞ。

 金のくり合たのまれて、せし程に、鯛の、おほくとれたる時、さるかたより、鯛一枚、進物(しんもつ)にせし、とぞ。喜太夫は、るすなりし。家内、悅び、

「いざや。鯛を、くわん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて歸りを待てゐしに、喜太夫、かへりしかば、其由を云(いひ)て、魚をみせしに、

「たとへ、もらいたりとても、かやうの物は、くわぬぞ、よき。」

とて、頭と尾を持(もつ)て隣へ、垣ごしに、なげやりし、とぞ。

 家内は、あきれ顏見合(みあひ)てをるに、しばし有(あり)て、隣の人、外にいでゝ、魚を見付(みつけ)、大きに驚き、

「どうして、爰(ここ)に、鯛が來たぞ。犬のくわへてきたにしては、齒あとも無(なし)。」

とて、

引返し、引返し、みて、

「鯛を拾ふは、目出たい事なり。いざ、いわゝん[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、人を集め、酒をかい[やぶちゃん注:ママ。]などして、にぎはふ躰(てい)なり。

 是を聞(きき)て、喜太夫、家内にしめすやう、

「あれ、あのばか共を見よ。『鯛一枚、ひろいし。』とて、酒を買、酢・せうゆを、つゐやし[やぶちゃん注:ママ。]、人、集め、飯《いひ》をも、費すべし。味よき物、くう[やぶちゃん注:ママ。]、無益なる事、是にて、しるべし。」

と云(いひ)しとぞ。

 かゝる心の人も有けり。

[やぶちゃん注:この話、既に全文を電子化注した「奥州ばなし」の「丸山 / (菊田喜大夫)」に、ほぼ同文が載っている。]

「近代百物語」 巻四の三「山の神は蟹が好物」 / 巻四~了

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、本篇には挿絵はない。]

 

    山の神は蟹が好物

 泉刕、貝塚といへる所は、海辺(《かい》へん)にして、漁獵の家、多し。

[やぶちゃん注:「貝塚」現在の大阪府貝塚市(グーグル・マップ・データ)の海辺部。]

 長介といへるもの、

「蟹を、とらん。」

とて籪(やな)をつくりて置《おき》、朝ごとに、かに、かゝるを、取《とり》て、產業(すぎわひ[やぶちゃん注:ママ。])とす。

[やぶちゃん注:「籪(やな)」この漢字は音「タン・ダン」で、水中に竹などを柵状に組み、入り込んだ魚や蟹などが出られないようにした仕掛けを言う漢語。]

 ある朝、ゆきて見れば、材木の切株、二尺ばかりあるが、やなにかゝりて、やなは、やふれて[やぶちゃん注:ママ。]あり。

 材木は、岡へ、ほりあげ置《おき》、やなを、つくろひて、かへり、あくる朝、ゆきて見るに、また、きのふの材木、ありて、やな、やぶれたり。

 又、つくろひて、次の朝、見るに、はじめのごとし。

 長介、あまり、ふしぎにおもひ、

『此材木、なにさま、ばけ物にてやあらん、火にくべて見ん。』

と、おもひ、蟹のかごに入《いれ》、持(もち)かへり、家ちかくなりて、籠(かご)の中、

「はたはた」

とする音し、材木、へんじて、生物《いきもの》となる。

 猿の身《み》、人の面(かほ)、手、ひとつ、足、ひとつ、あり。

 たちまち、言(ことば)を発して、

「我、靑山《せいざん》の神也。無性(《む》しやうに[やぶちゃん注:「に」まで送っている。])、蟹をこのめり。水中に入り、『やな』をそんずる罪(つみ)あり。これを、ゆるして、我を出《いだ》さば、後日(ご《にち》)、ふかく、恩を報ずべし。」

といふ。

 長介いはく、

「なんぢ、『山の神』にもあれ、我がやなを損ず。ゆるしがたし。」

といふ。

 彼(かの)もの、いろいろと、わび言すれども、聞き入れず。

「しからば、なんぢが名は、何(なに)といふ。」

と尋ねるに、長介、こたへず、家、いよいよ、ちかくなりて、彼(かの)もの、しきりにわび言(こと)すれども、聞かず。

 又、名を、とへども、こたへず。

「われは、いかんとも、すべきやう、なし。死なんのみ。」

といふ。

 長介、家にかへり、炭火(すみび)をもつて、これをやくに、何の子細も、なし。

 按ずるに、これを「山魈(さんさう[やぶちゃん注:ママ。])」といふ。人の名を知れば、よく、これに、あだを、なす。好みて、蟹をくろふ[やぶちゃん注:ママ。]、と、いへり。

[やぶちゃん注:「山魈」(歴史的仮名遣は「さんせう」が正しい)は中国神話に登場する子どもの形をした一本足(手は二本ある)の鬼怪(すだま)で、よく人を騙すとされる。私の寺島良安著「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「さんせい 山精」(図有り)を参照されたいが、そこでも蟹を好物とすることが記されてある。当該ウィキもリンクさせておく。なお、現代中国語では、アフリカ中央東岸に棲息する派手な顔の♂の色彩で知られる霊長目オナガザル科マンドリル属マンドリル Mandrillus sphinx にこの漢名を当てている。]

四之巻終  

「近代百物語」 巻四の二「怨のほむらは尻の火熖」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 標題の「火焰」の「くわゑん」(歴史的仮名遣は「くわえん」でよい)はママ。]

 

   (うらみ)のほむらは尻(しり)の火熖(くはゑん)

 

 今はむかし、山城の國、宇治のかたほとり、鹿飛(しゝとび)といふ所に、㚑嶽(れいがく)といふ僧あり。

[やぶちゃん注:「鹿飛(しゝとび)」琵琶湖から南流した瀬田川が西へ折れ曲がる、現在の滋賀県大津市石山南郷町に瀬田川の奇岩の景勝地の一つである鹿跳渓谷(グーグル・マップ・データ航空写真)のこと。「鹿飛の瀧」と呼ぶが、これは、滝があるのではなく、両岸が迫って、川幅が狭まり、水の流れも急に激しくなることから、その水勢が激しいことによる呼称である。より詳しくは、「譚海 卷之三 鹿飛口干揚り(雨乞の事)」の本文及び私の注を参照されたい。]

 うき世をはなれし山居(さんきよ)の身、生死(しやうじ)むじやうを、くはんねんし、善𢙣不二(ぜんあくふに)を、さとりあきらめ、餓(うゆ)れば、一飯に、はらを、ふくらし、渴(かつ)すれは[やぶちゃん注:ママ。]、一はいの水に、咽(のど)をうるほし、おきふしに、人を、はゞからず、

「あら、心やすや。」

と、佛(ほとけ)をはいし、ころもを脫(ぬぎ)すて、丸きあたまを、撫(なで)まはし、春の夜のゆめばかりなる短夜(みじかよ)の目(ま)たゞくあいだに、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時頃。]もすぎたり。

「さらば、一ぷく、たのしみて、ねぶりは眼の勝手しだひ。」

と、たばこ、引きよせ、煙筒(きせる)に、かゝれば、ふしぎや、表(おもて)に、人おとして、編戶(あみど)によりて、なげきの聲、

「ほとほと」

と、叩くにぞ、

「あら心得ず、此庵(いほ)に、ひるさへ、人のまれなるに、夜陰におよび、來るべき人しなければ、火をうちけし、松ふく風の、ひゞきならん。」

と、枕によれば、しきりにたゝひて[やぶちゃん注:ママ。]

「我は、遠國(ゑんこく)のものなるが、此所に、ゆきまよへり。道の案内(あない)を、なしてたべ。」

と、しみじみと、たのむにぞ、㚑嶽、おどろき、

「こは、そも、いかなる人なるぞ。山影(さんゑい)、門(もん)に入りて、おせども、出でず、月光、地にしいて、拂へども、また生ず。」

 

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[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

狸(たぬき)のばける

    は

 多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])く

  小童(《こ》わらんべ)

    也

是(これ)みな

 己(おの)

  己が[やぶちゃん注:「己」は底本では踊り字「〱」。]

  爲[やぶちゃん注:「なし」と訓じておく。]たる

     所

 なるへ[やぶちゃん注:ママ。]

    し

《中央やや下。霊嶽の台詞。》

 

   いつまて[やぶちゃん注:ママ。]

       もとまら

           れよ

《左下の女の台詞。》

おありがたふ[やぶちゃん注:ママ。]

 こざります[やぶちゃん注:ママ。]

   *]

 

と、古きことゞも、おもひいだし、柴の編戶を、おしひらき、月かげに、よくよく見れば、三五[やぶちゃん注:十五歲。]にたらぬ美少人(びせうじん)、なみだに、そでも、しほたれて、泣きしづみたるかんばせは、芙蓉(ふよう)にあめをそゝぐがごとく、賤(いや)しからざる詞(ことは[やぶちゃん注:ママ。])のはしはし、㚑嶽、見るに、痛はしく、

「そも、御身は、いづくの人、いかなる事にて、此所へ、夜中に、まよひ來たれるぞ。」

と、情(なさけ)のことばに、少人(せうしん[やぶちゃん注:ママ。])は、世に、うれしげなる顏をあげ、

「我が身は、備後のものなるが、人あきびと[やぶちゃん注:人買い。女衒(ぜげん)。]に、かどはされ、難波(なには)の浦に、つれ來たり、また、奧刕に賣りわたされ、ちかきに、東(あづま)にくだるのよし。陸奧(みちのく)のはてにゆき、『どふ[やぶちゃん注:ママ。]したうき目に、あふべきか。』と、あまりの事のおそろしさに、人目のひまを、うかゞひて、忍びいでゝ、忍(しの)はさふらへども、方角とても、しらざれば、今、此所に來たりしぞや。父が名は花垣(《はな》がき)十内、わたくしが名は、絹太郞、あはれみ給へ、御僧。」

と、たもとを、顏に、おしあつる。

 㚑嶽は、始終を聞き、いたはしさ、いやまさり、

「まづまづ、これへ。」

と、庵に、ともなひ、

「しばらく、こゝに滯留し、たよりをもとめ、古鄕(こきやう)へおくり、ふたゝび、親父へ、たいめんさせん。心やすく、おもはれよ。」

と、いとねんごろに、いひなぐさむれば、絹太郞は手をあはせ、

「さてさて、おもはぬ御苦労かけ、御懇情(こんぜい)なる御ことば、何をもつてか、此御おん、報ずべきやう、さらに、なし。しかれども、武士の子が、人あきびとに勾引(かどは)かされ、國にかへりて、朋輩(ほうばい)はじめ、町人までに指(ゆび)さゝれ、何《なに》めんぼくに古鄕にゆかん。とてもの事の御慈悲に、御弟子となして給はれ。」

と、おもひ入りたる顏色(がんしよく)に、㚑嶽、歡㐂(くわんき)、あさからず。

「しからば、近日《きんじつ》、おもひたち、愚僧、なんぢが古國(ここく)にゆき、十内殿へも、たいめんし、くはしくかたり安堵させん。まつ[やぶちゃん注:ママ。「まづ」。]、それまでは、扈從(こしやう)につかはん。此ほどの、つかれも、あらん。ゆるりと、休足(きうそく)すべし。」

と、おくそこもなき[やぶちゃん注:底意も何もない正直な。]出家かた氣《ぎ》、絹太郞は、發明(はつめい)もの、二、三日、くらせしが、一ッを聞きては、三ッをさとり、庵主(あんしゆ)の心に、さきだつ、とん智、㚑嶽、はなはだ、これを愛し、「神童」と異名して、五、六日も、つとめしが、ある夜、㚑嶽、酒など飮みて、四つ[やぶちゃん注:午後十時頃。]すぐるころ、ふしたりけるに、絹太郞も、傍(そい[やぶちゃん注:ママ。])ぶしせしに、いかゞはしけん、絹太郞、

「きやつ。」

と、一聲、大ひに喚(さけ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]、庵主の夜着(《よ》ぎ)より、かけ出づる。

 すがたを見れば、コハ、いかに、幾年(いく《とせ》)ふるともしれぬ狸の、面(かほ)を、しかめ、齒を、むき出し、床(とこ)ばしらに、いだきつき、尻(しり)を、ねぶり、かしらを、ふり、庵主を、にらみ、とびかゝり、あたまのはちを、かきむしり、窓を引きさき、うせければ、庵主は、あんに相違して、月夜に釜をぬかれしこゝち、頭(かしら)の疵(きず)より、ながるゝ血に、眼(まなこ)くらめば、たもとより、揉(もみ)たる紙を、取出《とりいだ》し、おしぬぐへども、こらへばこそ、なを[やぶちゃん注:ママ。]も、したゞる血に、あきれ、身ふしも、痿(な)へて、くにやくにやと、はらが立つやら、おかしい[やぶちゃん注:ママ。]やら、相手、なければ、うらみも、いはれず。

 

Kinutarou

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

恩(おん)を

 恩と

思わぬ[やぶちゃん注:ママ。]

  も

また

 ちくせう

   成べし

好事(こうじ[やぶちゃん注:ママ。]

  も

なきには

 尓(しか)す

《中央の霊嶽の台詞。》

これは

 々に[やぶちゃん注:判読不能。「々」として「これは」を繰り返し、「に」は続いて「にげる」と苦しく読んでおいた。]

 げる

しや[やぶちゃん注:「じや」か。]

《逃げる狸の下方にキャプション。》

事を

 好むべ

  から

   ず

   *]

 

「南無あみだぶつ。」

と囘向(ゑかう)して、橫に、ころりと、夜着(よ《き[やぶちゃん注:ママ。]》)、うちかつぎ、あたまをかゝへ、ふしたりしが、夜《よ》あけてみれば、座敷も、床(とこ)も、血に染(そみ)しを、ぬぐひさり、二、三日も、すぎたりしに、夜更(《よ》ふけ)、庵主も、よくよく、ねいり、正躰(《しやう》だい[やぶちゃん注:ママ。])なきを、うかゞひて、夜着を、

「そつ」

と、引《ひき》あげて、毛のはへた手を、

「ぐい」

と入れ、尻(しり)と睾丸(きん[やぶちゃん注:二字へのルビ。])とを、大ひに、搔裂(かきさく)。

 㚑嶽は、

『夜盜(よとう)。』

と心得、おきなをれども、尻のいたみ、山葵(わさび)おろしに座するがごとく、人音《ひとおと》とても、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ねば、頭巾(づきん)を、疵に、おしあてゝ、こたへて[やぶちゃん注:「こらへて」か。]見れども、いたみは、つよく、呻(うめ)きながらに、夜を、あかし、外科(《げ》くわ)をまねき、てりやうぢに、あづかり、疵も、大かた、癒(いへ[やぶちゃん注:ママ。])、かゝれば、また、おもはずも、ねいりばな、いづくよりか取り來たりし松の木のもへさしの、三寸ばかりの火になりしを、尻に、

「ぬつ」

と、さしつくる。

「わつ。」と、とびのきなでさすれ

ど、かきさかれしより、火傷(やけど)の大きず、十倍の、そのいたみ、坊主、なきに泣きあかし、

「此のち、こゝに長居(《なが》い[やぶちゃん注:ママ。])せば、いかなるせめに、あはんもしれず、いのちありての山住《やまずみ》ぞ。」

と、杖にすがりて、よろめきながら、鹿飛(しゝ《とび》)を、出でされり。

此僧、たぬきを、いためもせず、「絹太郞」といひしときも、ことのほかの、ちやうあいなりしが、たぬきは、僧をうらみしは、とかく過去の「がういん」にや。

 おりおり[やぶちゃん注:ママ。]、尻にあだせし事、みな人、ふしんしける、とぞ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八九番 狸の話(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「貉」は「狢」とも書き、「三三番 カンジキツクリ」の本文の最初の注で附してあるのでそちらを見られたい。ここでは中間のシーンから狸であると断じておく。]

 

       八九番 狸 の 話

 

        狸の旦那(其の一)

 

 宮古在山中《やまなか》の家が五軒ばかりの村家での話。そのうちの或家で婚禮があつたが、大屋の旦那樣が宮古町へ行つて未だ歸らぬので、式を擧げることが出來ない。さうしてゐるうちに夜は段々更けて行くので人達は大變氣を揉んで居た。さう斯《か》うして居る所へ表で犬がけたたましく吠えたと思ふと、待ちに待つて居た旦那樣が雨戶を蹴破るやうにして、眼色を變へて入つて來た。そしてやアやア遲れて申譯が無かつた。さアさア大急ぎで式を擧げた擧げたと言ふかと思ふと、膳に向つて御馳走を氣狂者《きぐるひもん》のやうな素振りで食ひ散《ちら》した。振舞《ふるまひ》の人達は彼《あ》の旦那樣はこんな人では無かつたが、きつと今夜は酒に醉つて居るこつたと思つて見て居たが、大屋の旦那樣だから誰一人何とも言はなかつた。

 婚禮の式が濟んでから、其家の人達は大屋の旦那樣し今夜はゆつくりお泊りあつてお吳れやんせと言ふと、且那樣はいやいや明日は山林の賣買があつて朝早く宮古サ行かなければならぬから、俺はこれで御免をかうむると言つて急に立ち上つて、あわくたと玄關から出て行つた。すると又犬どもが猛烈に吠えかかつた。旦那樣はキヤツと叫んで床下に逃げ込んだ。

 見送りに出た人達やみんなは、これや本統[やぶちゃん注:ママ。]の旦那樣ぢや無い。道理で先刻《さつき》からの樣子が變つて居つた。それやツと言つて、はツく、はツくと犬どもを床下へ追込《おひこ》んでケシ掛けた。又其所に寄集《よりあつま》つて居た人達も總出で床板を剝がし乍ら犬を集めて來てかからせた。床下では暫時《しばらく》犬と何かが嚙合《かみあ》ふけはいがして居たが、やがてずるずると犬に引張り出されたのはひどく大きな古狸であつた。

 其所へ眞實の大屋の旦那樣が、宮古町で山林の賣買があつて、斯《こ》んなに遲れて申譯が無かつたと言つてやつと來た。數年前のことであると言つて大正十年[やぶちゃん注:一九二一年。]十一月二十日に宮古在の人から聽いた話である。

 

     狸 の 女(其の二)

 宮古在の山中に爺樣が一人、若者共が二人、都合三人で鐵道の枕木取りに上《のぼ》つて小屋がけをして泊つて居た。ある夜一人の妙齡(トシゴロ)の女が小屋へ來て、わたしヤ岩泉《いはいづみ》さ行くのでござんしたが、路を迷うてここさ來やんしたから、どうぞ一晚泊めてくなンせと言つた。爺樣は何俺ところには錄な[やぶちゃん注:ママ。「陸な」。「碌な」は当て字。]食物《くひもの》もねえでがんすし、亦《また》夜お着せ申す物もねえでがんすから、泊め申すのも如何《いかが》なもんで御座《ごぜ》えますが、それとて今から何處さ行けとも申されますめえからハイ宜《よろし》うげます、きたなくも宜かつたら小屋の中さ入つてお泊りんせと言つた。女はわたしや食物も何も入《い》[やぶちゃん注:当て字或いは誤記・誤植。]らなござんすケ、それではどうぞハアお泊めなすツておくれやんせと言つて小屋の中に入つた。そしてあゝほんとに寒いと言つて焚火に差覗《さしのぞ》いてあたつた。若者どもは快(ヨ)い心持ちになつてヒボト[やぶちゃん注:「爐」。]の側にごろりと寢ころんで、お互に朋輩の眠るのを待つて居た。たゞ爺樣だけはハテ不思議なことだ。この夜中にこんな物優しい姿をした姉樣が、こんな山中に迷い來るとは、どうも受取れぬ節がある。それにいくら何でも岩泉へ行くのにここへ來る筈がない。是は油斷の出來ぬ事だと内心用心をし乍ら、橫になつて寢たふりをして窃《ひそ》かに女の樣子を見て居た。

 それとも知らぬ女は、あゝ寒いあゝ寒いと言ひながら、ますますヒボトヘ摺寄《すりよ》つて行く振りをしながら傍の若者の體にちよいちよいと觸れた。そして赤い腰卷を出したり白い脛(ハギ)を出したり、それから無心らしく段々と陰部を出して若者どもの氣を惹いた。けれども若者どもは橫合に居つたからよく見えなかつたが、爺樣は差向ひであるから、その一伍一什《いちごいちじふ》[やぶちゃん注:一から十まで。残る隈なく総て。]をよく見て居て、これはまた如何にも可笑しい格好のもんだなアと思つて居た。それも初めはただ局部がちらほらと見えて居ただけだが、火の温(ヌク)もりに遭《あ》つてホウと口を開いてあくびをした。爺樣はコレダと思つた。

 爺樣は靜かに起き上つて、姉樣寒《さむ》かんべからこれでも被(キ)て寢(ヤス)んでがんせと言つて、空俵《からだはら》を取つて立ち上りそれを女の顏からかぶせると、いきなり力任《ちからまか》せに押しつけて、ヒボトから燃木尻《もえぎじり》[やぶちゃん注:爐中の薪(たきぎ)の燃え残り。]をとつてガンガンと撲《ぶ》つた。今迄眠つたふりして居た若者どもは驚いて、これもむツくり起上《おきあが》り、何だ爺樣ツ何すれやツと言つた。爺樣はこれは畜生だから早く撲殺《ぶちころ》せと言つて、なほガンガン打叩(ブツ《たた》)いた。女は空俵の中で初めのうちは、あれツお爺さん何しやんすと言つて居たが、しまひには苦しがつて獸《けもの》の啼聲《なきごゑ》を出した。そこで若者どもも初めて、人間でないと謂ふことが分つたので、爺樣と一緖に木や鉈《なた》で叩き伏せた。それは二匹の狸が首乘りに重なり合つて人間に化けて居たのであつた。これは大正七年の冬にあつた話である。

 

2023/05/26

ブログ1,960,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十年十二月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和三〇(一九五五)年十一月二十八日附・二十九日附・三十日附に連載されたとある。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、つい先ほど、1,960,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年五月二十六日 藪野直史】]

 

   昭和三十年十二月

 

「小説というものはさしみみたいに、なまなましいところがなくては、読み応えがない。どこかに、本物のはこびがないと、干からびてしまう」

 室生犀星の「失はれた詩集」(中央公論)はこういう書出しから始まっている。この作品は過去の肉親をめぐる諸人物を、回顧的に描いたものであるが、その限りにおいて一応の本物のはこびがあると言えるだろう。

[やぶちゃん注:『室生犀星の「失はれた詩集」』彼の新潮社版全集の目録を見ても、この作品は見当たらない。但し、この年の十月三十日附の日記には、『中央公論に原稿手交、「失はれた詩集」四十枚。』とあった。]

 この作品の優劣は別として、私はこの作家の近業にある興味を持っている。

 つまりこの作家は老齢にもかかわらず、生活者としては東洋的趣味人におちているらしいのにもかかわらず、文章の上ではいっこうに枯淡の趣きにいたらず、妙な感覚性を保ちつづけている点にだ。

 

 私はこの作家の中年の作品は、感覚というよりも言葉で、言葉や文字の効果だけで現実をとらえようとしているところがあって、文学としてはにせものであると今でも思うのだが、いつの間にかそのにせもの性というか擬体というか、そんなものが身体に貼りつき、骨身にからんで、近ごろでは擬体が本体になってきて、ぬきさしならぬものになっているようである。こういう文体をのぞけば、室生犀星という作家が存在し得ないような具合にまでなっている。

 作品の優劣とは関係なく、これは珍重すべきことだろう。

[やぶちゃん注:以上、強く同感する。]

 

 丹羽文雄「彷徨」(群像)は百八十枚の力作であるが、ここに本物のはこびがあるかと言えば、疑問である。にせもののはこびではないが、本物ではなく、そこからちょっとずれた感じがするのだ。私は丹羽文雄の作品を読むたびにそれを感じる。つまりこの作家の作品は、現実に照応した場所で書かれていない。ある枠の中で強引に書かれている。もちろん小説には小説としての枠はあるはずだが、それと別の意味の枠がこの作家にはある。

 この「彷徨」の前半は、前作「業苦」に類似しているが、後半はその主人公に二度も自殺を試みさせるところまで追いつめている。「業苦」で納得できなかったところを、更にこの作で追求したものとも言えるだろうが、そういうやり方を実験だと言えるかどうか。読者の側からすれば、どうもむだだという印象をのぞきがたい。碁にたとえて言うと、一所懸命に考えた揚句、せっせとだめを詰めているという感じがする。小説としての感動がない。それはこの作家の文章のせいかも知れない。正直に言うと、私にはこの作家の文章はひどく読みづらい。

 読者に不親切な文章だと思う。もっとも室生犀星のように、これが丹羽文雄の生理にまでなっているとすれば、いたしかたないことではあるが。

 

 その文体でもって効果を損じている作品の一つに、杉森久英の「山間」(新日本文学)がある。これは猿に変身した主人公を中心として、猿の生態を描いたものである。もちろんある種の寓話として書かれているのだが、こんなふつうの写実的な文体で、言いたいことを完全に言い、読者を納得させるのは、なみたいていのことでない。この作品がなみたいていの域にとどまり、寓意の浅さをのぞかせているのは、作者が文体の選択をあやまったからである。ごまかすと言うと語弊があるが、そこをうまくやるためには、もし私にやらせるなら、小島信夫や安部公房のようなやり方を採用するだろう。かえすがえすも杉森久英は文体をあやまった。

 その小島と安部であるが、それぞれ「声」と「ごろつき」を文学界に発表している。こういう型の作品は、読後ぐんと胸にこたえる時は、本物のはこびがあるんだなと了承するが、そうでない場合は作者が韜晦(とうかい)しているのではないか、という感じを私におこさせる。

 この二作の中「ごろつき」の方は私はよく判らなかった。これは独立した短編でなく、長編の一部じゃないのか。

 

 今月の雑誌では、たくさんの長編が完結し、また来年にかけてつづきつつある。こんなに長編が多いことは、未曽有のことだろう。

 雑誌に長編がすくなく短編ばかりの時期には、長編要望の声があちこちからあがるのであるが、こう長編だらけになると、醇乎たる好短編を要望する声がすこしずつあがりかけているようである。[やぶちゃん注:「醇乎」「じゅんこ」。全くまじりけのないさま。]

 しかし書いている当人たちは、当然のことだが、そういう声に耳をかす必要はなかろう。

 

 「新潮」の十二月号は恒例によって同人雑誌推薦小説特集で、十編の短編がずらりと並んでいる。同誌の「新潮雑壇」でその応募作品の興味ある分類をしているが、それによると応募総数は百二十六編で、その中からの十編だから、競争率は約十二倍になる。通読した限りではこの十編は、率直に言うと、そういう激しい競争に耐え残った作品としては、ひよわ過ぎるという感じがした。

 もっともそれは枚数のせいもあるだろう。二三十枚の短編ではどうしても布置がととのった作品がえらばれ勝ちであって、布置をととのえるためには、どうしても枚数に応じたこぢんまりした材料をえらび、それを手ぎわよくまとめた方が勝ちになるだろう。

 二三十枚からはみ出るような意欲を持った作家は、長編をえらぶだろうし、長編となれば「新潮」掲載の資格をうしなうのである。そういう意味でこれらの作品は、全同人雑誌の代表ではなく、その中のこぢんまり派の代表である。

 

 この十編の中で一番私にこたえたのは「落ちた男」(別所晨三)であるが、これは題材が大いに影響している。私には病的な高所恐怖症があって、そのせいで私はこの作品を読んでいて怖かった。高所恐怖がない人が読むと、大した小説ではないと言うかも知れない。でもこの作品は、私にそういう気持を誘発する程度に、高さというものが描けていると思う。[やぶちゃん注:調べたところ、この小説は南アルプスの知られた難所である屏風岩に挑む登山家を描いたものである。]

 最後にザイルにぶら下った男を墜落させずに、ああいう形で結んだところも、なかなか味があった。お話としては、岩登頂と女を混えた人間関係を、かんたんにからませただけのことであるが。

「桔梗軒」(藤田美代子)はちょっとおとぎ話のような抒情的な小説で、いかにも女らしくそつがない。野心というものはないが、ひとりでたのしんで書いている。

 野心と言えば、人々は同人雑誌を読む度に、とかく野心作を求めたがる。野心作が見当らないと、近ごろの同人雑誌は覇気がないと叱ったりする。

 なぜかと言うと、同人雑誌は文学修業の場、文壇に出るための予備校といった前提があるのであって、そこでそういう意味の野心が要求されるのだろう。

 しかしそういう関係は、現今ではすこし薄弱になってきているのではないか。戦前は同人雑誌で認められて作家になるというのが正道であったけれども、戦後はその正道は一応御破算になった。戦後出た作家の中で、戦前の正道を踏んで出たのより、そうでない方がずっと多いようである。

 それは雑誌ジャーナリズムの変化、文壇内部の変化、師弟関係の崩壊などの原因が上げられるだろうが、根本的には小説そのものの変化が上げられるかも知れない。

 

 すなわち金を出し合って同人雑誌をつくり、そこでお互いに技をみがき合うというやり方が、小説つくりのためにはふさわしくなくなっていると言えるだろう。これは私の断定でなく憶測である。そういう意味で同人雑誌の性格は変るべきであり、また現に変りつつある徴候もある。

 予備校的存在でなく、それ自身で独立した同人雑誌。そんなものがもっと出てもいいだろう。それじゃあ意味がないと開き直られてはそれまでの話だが。

 

「新潮」の同人雑誌推薦小説の筆者たちは、若くない人もいるだろうが、大体において若いと判定して、その若さ、若い生活やその感情が、充分に表現出来ているとは思えなかった。「十五歳の周囲」(三浦哲郎)にしても、「わかい指」(桑山裕)にしても、「鞦韆」(谷口栄)にしても、読めば一応判ったようでいて、どこかかゆいところに手が届かぬような感じがする。若さというものは自らでは描きがたいものだろう。[やぶちゃん注:調べたところ、作品「鞦韆」は「ブランコ」の読みが与えられてある。]

 むしろ中年の立場から、若さの判りがたさを描いた藤枝静男の「瘦我慢の説」(近代文学)の方が、ずっと面白く、かつ共感を覚えた。この作品はとりたてて問題を提出しているわけではないが、行文に妙な魅力がある。作者と題材の間に、一種のゆとりがあるからだろう。

 

 そういうゆとりのない作品に島尾敏雄「のがれ行くこころ」(知性)がある。この作品の後尾に埴谷雄高の理解と愛情にあふれた解説文があり、それにつけ加える何ものも私は持たないが、いくたの危惧を感じさせはするものの、このぎりぎりの場で書かれたこれはやはり、すぐれた作品である。

 しかし埴谷雄高の言の如く「艱難汝を玉にす、とは必ずしも限らない」のであるから、私も島尾敏雄のために切に生活を打開し、ゆとりを取戻すことを祈る。

 

 井上靖の「初代権兵衛」(文芸春秋)はたいへん面白い小説で、山根という主人公が宗近という男の紹介で、百五十円の古茶碗を買う。それを宗近にあずけて山根は帰京するのだが、その茶碗が初代権兵衛作というわけで、だんだん値段がせり上り、ついに百万円になる。そういう茶碗を中心にして、山根や宗近の心理の動きが自在に描かれている。私は貧乏性であるから、早く売ればいいのにとはらはらしながら読んだ。

 案の定最後にはすごい鑑識眼を具えた青年があらわれて、初代権兵衛はたちまち馬脚をあらわして元の百五十円に下落してしまい、私をがっかりさせた。

 まことに練達の手腕で、この作者は茶碗だの何だのと鉱物を媒介にして、人間という動物を踊らせるのに妙を得ていると思った。

 松本清張の「任務」(文学界)は軍隊小説で、軍隊の非人間性を題材としているが、それほど力んだところもなく、くねくねと描き成功している。

「任務」という題名は、最後の部分で死体を担架にのせてはこぶ時、「はじめて私に任務らしい感情が充実しました」から取ったもので、作者はそこに全部の重点を置きたかったのであろうが、そこは成功しているかどうか。

 同じく最後の一言を書きたかったために書いた作品に手塚英孝の「薬」(新日本文学)がある。留置場の中で、道路工夫で治安維持法で逮捕され、病気で弱り果てている金青年に、同房者の沖仲仕の親分がたずねる。「お前さんの言う革命が、もし起ったとしたら、お前さんはその時一体なんになるんだ?」金青年は苦しい呼吸の中から答える。「おれか、そしたら、おれまた、道路工夫やるさ」

 

 最後の一言を書きたかった小説は、古来からいくつでもあるが、それらにくらべてこの作品は、最後の持って行き方、盛り上げ方がうまく行ってないと思う。その一言が読者の全身を震撼させるというところまで行っていない。おれならこういう具合に書くんだがなあ、とこの作品は私をむずむずさせる。

 その他、芝木好子の「夜光の女」(文芸)、村上兵衛「雪の記憶」(近代文学)などにも触れようと思ったが、紙数が尽きた。

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 自畫像・奥附 / 「天馬の脚」~完遂

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持する「ウェッジ文庫」(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 原本の読み(ルビ)は( )で示したが、本書は殆んどルビがなく、若い読者の中には読みや意味で途惑う向きもあろうとも思われることから、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。傍点「﹅」は太字とした。

 これを以って二〇二二年四月一日に開始した、本随筆集「天馬の脚」の全電子化注を終了する。]

 

     畫像

 

 室生犀星論

 

    一 自己批評

 

 自選歌や自選句の類は大抵の場合作者は惡句を集纂するものではない。又自己解剖も多少の感傷を交へた肖像畫たることは、凡ゆる自畫像の病癖と云つてよい程である。感傷以外自畫像の筆觸の中に脈打つものは、慘酷な表現意識でどれだけ遣《や》つけたかといふことであらう。我我素人の眼を以てすればどれだけ彼らは、醜く異體の分らぬ自畫像を描いてゐるかも知れぬといふ事である。

 自己批評の前には、實に澎湃たる感傷主義が何時も橫はつてゐる。假りに一個の室生犀星は彼自身に取つては、世界の室生犀星であることに何の渝《かは》りはない。併乍ら世界の谷崎潤一郞は彼自身も亦さうであらうが、世界自身に取つての谷崎潤一郞であつた。これらの眞理は自己批評の前で猶且眞理の輝きを放つてゐながら、そのことで彼自身を絕望にすることは滅多にない。谷崎潤一郞が世界的であれば室生犀星も亦世界的でなければならぬ。

 凡ゆる自己批評は莊嚴な道具立の中では必ず失敗してゐる。寧ろ醜い自畫像の如き畫面に於てのみ成功するものかも知れぬ。自選歌が作者に不相意な作品を剽竊《へうせつ》してまでも、その歌集を世に問ふことは稀有の事であらう。

 

    二 文學的半生

 

 彼自身屢屢その文學的半生といふものに眼を通して見て、曾て幸福を感じたことがない。若し彼の生ひ立と彼の作家たり得たこととを結び併せ、假りに出世や成就の意味を爲すものがあらば、彼には直ちに俗流的輕蔑を感じる丈である。彼と彼の今日の慘酷な醜い賣文的生涯は、啻《ただ》に恐怖を形造る許りではなく、無限の生活苦を前方に疊み乍ら脅してゐる。

 彼は彼を幸福者の一人者であるやうに數へ上げる者があらば、まだ何事も彼を解《わか》つてゐるものではない。彼は趣味を解し築庭を解し又凡ゆる靜かさを解《かい》しようとする人である。だが波が何故に慘めな原稿を書き續けながら喘《あへ》いでゐるかといふことは、人は何も知らないことである。人の知ることは趣味を解する彼だけである。そして恐るべき原稿地獄の中に悶《もだ》えてゐる彼は、日夜に經驗する眩暈《げんうん/めまひ》のやうな疲勞の狀態から殆ど解放されることが無い。その昏迷の中から彼はやつと一導の明りを睨《にら》んでゐるだけである。彼はその一導の道では端然と廢馬のやうに坐つてゐた。そして彼は凡ゆる靜かな彼自身を置くことや又眺めることに苦心してゐる。慘《さん》たる原稿のうめき聲は彼を幸福者にする人の耳には聽えやう筈がない、……彼はそれらの賣文的地獄の中で漸《や》つと靜かになれる處でのみ、竊《ひそ》かに呼吸《いき》づいて其地獄を手を以て抑制してゐる。それ故彼が表面にある平明を虜《とりこ》にした杜撰な非心理的批評家の徒には、彼の本來のものが解らう筈がない。

 彼は凡ゆる理解に對して曾て完全な滿足をしたことがなく、又それを望む程の野暮さをも持つてゐない。唯微《わづ》かながら彼の心に觸れる程度の理解や批評に對しては、(さういふ批評さへ稀である。)力ない笑ひを漏らすことは每日のやうである。

 彼は奈何なる雜文をも粗雜に書き抛《なげう》つたことは稀れである。無力は遂にこれを宥《ゆる》さないと一般である。彼は文學的嘆息を人の前ですらしたことが無い。彼は唯何ごともなきが如く心に煩ひなきものの如く、淡淡として其〆切を恐るる者の、醜い守錢奴のやうに原稿の中で懊惱《あうなう》して暮してゐた。恐らく死のごときものすら彼の本來を解くに何の意味すら値しないであらう。そして曾て彼を目《もく》して幸福者だといふものがあらば、彼はそれを叩き返してしまふ前に例の抵抗しがたい力ない笑ひを漏らすことであらう。彼の笑ひの中に刺し透すもののあることすら、彼は人から指摘されたことの無いことを知つてゐる。

 

    三 彼の作品

 

 彼はどういふ作品の中にも彼らしい良心の姿を顯してゐる。その作の内の一箇所を抉《ゑぐ》つてゐる安心をもつてゐる。彼とても到底その作のあらゆる隅隅にまで心を籠めることはできても、弛《ゆる》みのないことは斷言できないやうである。さういふ時の彼はその一《ひと》ところに苦しみ喘いでゐる。そこに彼は彼の良心を刻み込んでゐると云つてよい。彼は拙《つたな》いものであつても良心をもつて書かれたものに曾て惡意をもつた例がないからである。

 彼は彼だけのもつ人氣を何時《いつ》も感じてゐる。併しその乏しい人氣の中に絕望や悲觀を算《かぞ》へ上げる程の幼稚はとうに卒業してゐる。唯乏しい人氣《にんき》の間に立つ物靜かさは生活苦を伴うて訪れては來るが、その爲に彼の精神的な荒筋を搔き𢌞すことは稀れである。彼の生活苦は茫茫たる山嶽に彼を趁《お》ひ立てては試練するが、彼を卑屈や墮落に陷し入れることは毛頭無い。彼の經驗によれば凡ゆる物靜かな人氣の間に立つほど、また人氣の靜まつた時ほどその作者の鎬《しのぎ》を削る底の勉强をしてゐるときがない。それらの「時」を逸するものがあるとしたら、彼は作家であるために勉强を忘失してゐるところの、又止む無き抹殺の田舍に追はるべき輩《やから》であらう。

 併乍ら彼の風流めいた小說は彼と雖も辟易してゐる。風流意識の橫溢程《ほど》作を濁すことの甚しいことはない。彼は不知不識の中に彼の望んでゐる靜かさに入ひれる[やぶちゃん注:ママ。]ならばいいが、その爲に騷騷しい風流意識を搔き立てることは、惡疾の如き恐怖を感じさせてゐる。又凡ゆる詩的意識の混淆された小說の如きも、自分は詩人であるがその爲にも嫌厭《けんえん》してゐる。小說はそれ自身既に小說であり、同時に又詩的精神すらそれ自身でなければならぬ。それらを意識に計算した小說があり得たとしたら遂に自分は身慄《みぶる》ひするくらゐ厭《きら》ひもし恐れもするであらう。

 自分は常に湧くが如き人氣を輕蔑してゐる。同時に人氣のない寂漠の作者をも輕蔑してゐる。この間に立つて我我を氣丈夫にさせるものは、例の山嶽的氣魄を持ち合《あは》すものだけであらう。寂漠を食ひ荒してゐる鷲は下をも上をも見あげてゐるが、彼は到底氣魄以外には斷じて行動しない。彼は賣文地獄の中で生肉を食ひ荒し寂寞をも喫《す》うてゐる。彼、室生犀星の時たまに見る高慢や粗野な所以は、この意味の外では見られぬ。

 

    四 生活苦

 

 彼はその前途に恐怖以上の脅威を感じてゐる。彼をして正直に言はすれば、彼は凡ゆる「文」を通じて食はねばならぬ。これ程恐ろしいことはない。彼は到底「明日」や「あなた」委《まか》せやに安じて居られぬ。彼の前途を彼の病みがちな視力を以て眺めるとしても、幾萬枚かの白紙の城砦《じやうさい》が聳立《しようりつ》してゐる。彼はそれらを永い日も短い夜も書き續けねばならぬのだ。これ程の輕蔑以上の輕蔑が何處に有り得よう。彼の目はかすんで見えぬやうになるであらう。しかも猶書きつづける「彼」であらう。

彼は凡ゆる輕蔑の中に力無き笑ひをもつて立つより外はない。……

 彼は奈何なる雜文をも營營として書いてゐる。これは直ちに彼の生活苦が誘惑する慘忍な現世への彼の宿命であるとしか思へない。百田宗治《ももたそうぢ》の言葉を籍《か》りれば室生犀星は既に厭世をすら生活する男だといふが、此言葉の中に若干の樂觀的な見方が含まれて無いでもない。本來は厭世的な行方《ゆきかた》ではあるが、その厭世の中から彼自身繊《ほそ》い絹糸のごときものを手繰《たぐ》り寄せてゐる。金錢の爲に原稿を書くといふことは最早卑しいことではなからう。それらの詩錢に寄る彼らは慘めな仕事への、微かな慰めを求めねばならぬ。彼等は本來の藝術を叩き上げねばならないとしたら、金錢を得るための原稿を書くに不名譽を感じない。佐藤春夫は彼よりも遙かに人氣を抱擁してゐることは、直ちに彼の詩的氣魄や詩に就て彼を卑屈にするものではなく、佐藤は佐藤だけの人氣の中に存在するだけであり、そのため彼の微光に影響のあるものではない。

 

    五 冷笑的風流

 

 彼を一介の風流人としてのみ論《あげつら》ふことの既に彼を理解するものでないことは述ベた。何よりも東洋的な彼は又何よりも西洋風なものを好いてゐる。西洋風なものの中に何よりも東洋的なもののあることは否めない。我我はそれらを文學にばかりでなく壯大なミケランゼエロにも感じてゐる。

 彼を風流人として數へあげることは、彼の行詰りを冷笑するものとしか思へない。東洋の風流は既に二百年の昔に滅亡した。芭蕉がその最初であり最後の一風流人だと言つてよい。然乍ら我我の風流人的な氣魄が特質の中に目覺めてゐるとしたら、それは在來の風流と事變《ことかは》つた西洋流の敎養や思想の洗禮があるものと云つた方が適當であらう。曾て一個の社會主義者だつた芭蕉のことは述べたが、近代の混亂された諸思想の中をも潜り拔けねばならぬ風流的現象も、生優《なまやさ》しいさびやしをりを餌食にしてゐるものではなく、鷲の生肉《なまにく》を食ひ荒らすことと何の渝《かは》りがないのである。彼は彼を一人の風流人的な符牒を張られる前に、先づその張り手の人相から熟視したいものである。

 

    六 詩と小說

 

 彼も亦新感覺派だつた名譽を記憶してゐる者である。のみならずその新感覺派は彼に遂に不名譽な名前の下に沒落した。沒落したのではなく今も猶彼の文章の中に連綿として續いてゐる。何人もその文章の初期的情熱の中には何時も此新感覺派の潑刺《はつらつ》たる勇氣を持つてゐるものである。

 彼も亦新進の氣勢《きせい》の下に腕の續く程度で、書き續けた男だつた。何等の後悔なしに彼は殆ど野性的にさへ諸作品を公にした。後世に問ふ作品を書かうといふ氣持よりも、殆どその時代に滅亡する潔《いさぎよ》さを標準としてゐた。標準としたよりも寧ろ彼は「彼のうたかたの世」の厭世的な氣持の上で、何時《いつ》亡びてもよい覺悟と性根とを持合してゐた。併し歲月の辛辣な剌戟と抱負とは、滅びてもよいが亡びるまでの重厚を彼に加へた。彼とともに彼の作品の亡びることはいいが、亡びて後にも遣つてもゐない幅と奧行とを考へさせた。

 詩人である彼は當然詩作品が後世に遺《のこ》ることは信じてゐる。又彼の詩よりも一層微妙な發句が燦然《さんぜん》として或光芒を彼の背後に曳くことも信じて疑はない。併乍ら多くの小說作品の遺るか否やといふことを考へると、何時も後悔と口惜しさと憂苦《いうく》とを感じさせた。彼の内の或物は殘るだらう、然し或物は殘らないであらうといふ疑惑と不安とは、彼の詩や發句を信賴する程度の平安と信仰とを與へなかつた。これは卑屈な謙遜ばかりではなく、彼を根本的に悲觀させる最大のものだつた。彼は彼自身を建て直すべきであることは勿論、最《も》う揮《ふる》ひ立つべきものだつた。彼はそれらび氣持の下にどれだけ又新しい努力をしたことか分らない。その努力と精進の頂《いただき》に立つところの彼は矢張り詩や發句の殘る意味をもその小說作品の上に信じなければならなかつた。然しそれは到底苦痛に近かつた。

 あらゆる作品を通じていい加減に書いたもの程、動機に深い考へを入れなかつたもの程彼を後悔させるものはなかつた。不幸にも彼はその折折心をこめて書いたものも、今は單なる後悔を誣《し》ひるものばかり彼の身邊に押寄せてゐる。

[やぶちゃん注:「誣ひる」事実を曲げて言う。作り事を語る。「强(し)ひる」と同語源。]

 詩は彼の小說に相應《あひあ》はぬ心の風俗や溜息を盛るに便利だつたし、小說は又人生の荒涼を模素するに役立つことは實際だつたが、本來はその孰れをも手離し兼ねるのだつた。詩は詩のいとしさを小說は小說の親密を持合《もちあは》し囁《ささや》き合《あひ》してゐた故、彼はその一つを捨て一つを樹《た》てることが出來なかつた。小說を書くために詩情や幽思《いうし》[やぶちゃん注:静かにものを思うこと。]を荒唐《くわうたう》にする惧《おそ》れはあつても、詩を捨てることが出來なかつた。かれらは孰れも姉妹のごとく相離《あひはな》れられないものだつた。彼は小說家であり詩人であり同時に俳人であり得てもよかつた。併しそのためにより小說家でありより詩人である必要はなかつた。

 

    七 再び人氣について

 

 改造社の文學全集は何故か豐島與志雄や加能作次郞や宮地嘉六の諸先輩と同樣、その作品の編入を美事に超越した。自分の諸作品の特色や存在は決して全集にある諸君に劣るものではない。寧ろその傾向と特質の相違は或意味に於て逸早《いちはや》く全集に編入し、此存在を記錄すべき必然性のあるものであつた。

 ひとり改造社の手落ばかりでなく明治大正文學の一旗幟《いちきし》を等閑《なほざり》に附したと云つても過言ではなからう。これは自分ばかりの考へではなく、何人《なんぴと》の考への中にも比較的靜かに首肯《うなづ》れるべきより多き可能性のある事實であらう。

 加能作次郞の如きはその溫籍《うんしや/おんしや》の文章結構や文章世界編輯當時に於ては、可成りに高い諸作品を公表してゐる。宮地嘉六の如きもその最近の作品にはずば拔けて佳《よ》いものがある。豐島與志雄も亦新思潮派の一將たることは何人も知るところである。これらの諸先輩の作品を編入すること無きとき、これらの事實をも他の編入された諸君子は氣附かれなかつたであらうか。諸君子は相語り合ひ又己をのみでなく極めて地味な作家のために一容言を試みなかつたであらうか。改造社の全集は改造社のものであり得ても亦同時に全文壇の全集でなければならぬ。斯ういふ時、遠く社會から隔れてゐる諸作家は各自に相伴《あひともな》ふ心を持つことは、文壇人として當然のことであらう。又武士は相互ひと云ふことを知らなかつたのであらうか。改造社も亦再考の上これらの特色ある作家の作品をも、その全集に再編の上《うへ》後代の史傳的編者の憂《うれひ》を除くことに努めねばならぬ。

[やぶちゃん注:「溫籍」心が広く、包容力があって、優しいこと。]

 我我の心がけることは人氣すくなき作者の作をも絕えず注意せねばならぬことである。これは一個の室生犀星ばかりでなく、凡ゆる場合に眼を放してはならぬことである。編輯者はあらゆる慘忍なる編輯者であり、同時にあらゆる目をこまかく作者の上に注がねばならぬ情熱の編輯者でなければならぬ。

 

    八 彼の二つの面

 

 彼の作品は人生に卽したものと、又別樣《べつやう》の風色的《ふうしよくてき》なものとの二面がある。彼は所謂熾烈な熱情的な作者ではない。彼らしい靜かさに映るもののみを克明に描くことに據《よ》つて彼は滿足してゐる。彼は藝術的な露骨な勇躍を試みることの危險を恐れてゐる者ではなく、何よりも彼以外の物に親しみを有《も》つことを好まないからである。彼に親しみのない人生は遂に彼に取つて氣の進まない人生である。まだ彼は作品によつて救ひを人生に求めたことは曾て一度もない。「彼は柔かに物語る」以外「說明しよう」氣はないのである。

 彼は時折風色ある人生を物語るときは失敗してゐない。人生を人生としてそのまま生《なま》に取扱《とりあつか》ふ時は失敗してゐる。彼の焦繰《もど》かしさもここにある。低迷してゐる彼はいつも人生の作者として物足りなさを常に感じてゐる。

 彼は彼の色附《いろつき》の人生を振り捨てようとしながら、それに敢然たることを得ないでゐる。その作品は靑年諸君に取つてなくてならぬものではなく、どうでもよい作品のやうである。併しこのどうでもよい作品すら彼には無くてはならぬ作品である。かういふ氣持を感じながら猶己れを持《じ》すことを捨てない。

 竹林の中の聖人のやうにそんなに人生を諦めてゐる譯ではないが、彼の心底はエゴに固まり膠《にかは》づいてゐる故、滅多に感じないだけである。彼は彼だけの人生をもちながらそれ以外用なき人生へは這入《はい》つて行かない。彼が時代遲れの輩の如く社會主義なぞに興味をもたないのも、エゴが固まり過ぎた故であらう。或は詭辯《きべん》を弄するならば彼の靜かさを索《たづ》ねてゐる暮しも、所詮此《この》止み難きエゴの發作より外にはなからう。彼は孤獨と寂漠の罪に問はれて其昔の人のごとく或者の處刑《しよけい》を受けるとしたら、とうの昔に受刑されてゐる「箸にも棒にも」かからぬ我儘者であつたであらう。孤獨は或意味で社會主義者よりも油斷のならない恐るべき代物かも知れぬ。

 

    九 彼の將來

 

 特に大した將來の光輝もなく一凡化としての彼は彼の成就することに據り、目立たぬ程度で其存在を續けて行くであらう。彼は現在の彼より餘程しつかり者になるだらう。彼は人目に解らぬ進步や勉强をするだらう。彼は彼の氣持の中でのみ幾度か變貌もし又改められた「新鮮」をも發見するであらう。

 彼の發句や彼の「人物」は恐らく漸次に極めて鈍重に出來上つて行くであらう。大槪の場合負目を取らぬ男になるだらう。彼は自身でも驚く位老實の烈しさを感じるであらう。

 彼の小說は益益面白くなくなるであらう。併し彼の仕事は粗雜な危期を通り越してゐる爲、讀者は彼へのみの「安心」の情を施して讀むやうになるであらう。彼は貧乏するやうになるであらう。貧乏は彼を壯年期の中で再び烈しく舞はしめ鬪はしめるであらう。彼は鳥渡《ちよつと》位《ぐらゐ》その目付が變るかも知れぬやうになるであらう。

 所詮一凡化の作者としての彼はそれ以外を出ないに決つてゐる。彼は疊の上で天命を俟《ま》つの凡夫に違ひない。頓死するやうなことがあるかも知れぬ。人知れず死ぬやうになるかも知れぬ。ともあれ彼は彼だけの一俊峯《いちしゆんぽう》たる自負の下《した/もと》に、その意味では何人《なんぴと》の背後にも立つことは無いであらう。

 さういふ自信は彼をして可成りな自尊心を高めるであらう。彼は彼の稟性氣魄の世界でのみ傍若無人の頂《いただき》にかじりついて、人生の風雪の中を往《ゆ》くだらう。あらゆる輕蔑に酬《むく》ゆるにも最早彼の後方への唾《つば》は、砂礫のやうなものに變化してゆくであらう。何事も彼は決して油斷することなき「彼」への勉强を怠らぬやうになるであらう。老ゆると同時に若くなり烈しくなるであらう。行け! そして靑年期の末期にもう一度揮《ふる》ひ立つことを忘るるなかれ。而して誰でも氣の附くその末期的《まつごてき》勇躍の下に行け!

 

[やぶちゃん注:個人的には、本書の中で厭な印象を全体に感ずる章である。犀星は、高い確率で、本章を芥川龍之介の禍々しい憂鬱なる遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私のサイト版一括)を意識的に真似していると思う。〈健康な芥川龍之介〉が自身で「芥川龍之介論」をやらかしたら、こんな代物になる気がするのである。

 以下、奥附。字配やポイントの違いは一部を除いて再現しなかった。配置・罫線等は、底本の当該部の画像を見られたい。上部から下部、左奥の順で電子化した。]

 

昭和四年二月 八 日 印刷

昭和四年二月二十一日 發行

 

  版   權

  所   有

 

                 (新榮社製本)

[やぶちゃん注:以上は全体の二重罫線外下方右側に記されてある。]

 

   天  馬  の  脚

    定 價 金 貳 圓 五 拾 錢

 

著 者   室  生  犀  星

 

發行者   山  本     美

 東京市芝區愛宕下町四丁目六番地

 

印刷者   椎  名     昇

 東 京 市 芝 區 田 村 町 十 五 番 地

 

[やぶちゃん注:以下の一行は全体の二重罫線外下方に右から左に記されてある。]

二葉印刷合資會社印刷

 

發兌 東京市芝區愛宕下町    改  造  社

   四丁目六番地

              振替 東京 八四〇二番

              { 一 一 二 一 番

       電話芝(43){ 一 一 二 二 番

              { 一 一 二 三 番

              { 一 一 二 三 番

[やぶちゃん注:「電話芝(43)」は実際には四つの電話番号の中央位置で、「{」三つは実際には大きな一つ。]

「近代百物語」 巻四の一「勇氣をくじく鬼面の火鉢」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻四

  勇氣をくじく鬼面の火鉢

 國家、まさにおこらんとするときは、かならず、禎祥(ていしやう)あり。國家、まさにほろびんとするときは、かならず妖孽(ようけつ[やぶちゃん注:ママ。])ありと。いかさま、前表(ぜんひやう)は、興廃ともにある事ぞかし。

[やぶちゃん注:「妖孽」歴史的仮名遣は「えうけつ」或いは「えうげつ」が正しい。怪しい災い。災厄を齎す前兆。不吉な事件の前触れ。夭逆(ようげき)。]

 今はむかし、武田信玄公の御内(みうち)に大井田忠藏(おゝいだちうぞう[やぶちゃん注:ママ。])とて、万事に心よからぬ士あり。

[やぶちゃん注:「大井田忠藏」不詳。]

 生得(しやうとく)、どんよく・無礼にして、大酒(たいしゆ)をこのんで、邪婬を犯し、朋友とまじはるにも、物ごと、とかく、むつかしく、かりそめの事にも、理屈をつけ、邪智强慢(じやちかうまん[やぶちゃん注:ママ。])にいひなせば、參會も、うとく、五度が三度、三度が一度になりゆきて、のちには、途中にてのたいめんにも、默礼のみにぞ、なりにける。

 しかれども、生れつきの事なれば、おのれが、あしきといふ事を、しらず。

 召しつかひの男女にも、いさゝか、慈愛の心、なく、相應の給金にて、めしかゝへたるものなれば、

「我が心のまゝ也。」

とて、朝より晚まで、役儀を、いひつけ、片時(へんし)も休めず、せめつかひ、茶・たばこなども、數(かず)をきわめ、これに、たがへば、打擲(てうちやく[やぶちゃん注:ママ。「ちやうちやく」が正しい。以下でも同じ。])し、なさけといふ事、つゆ、しらず、人の難儀を、かへりみぬ傍若無人(ばうじやくぶじん)のふるまひなりしが、ある夜、家僕、急に來たり、

「たゞ今、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、玄関にて、あしおとの聞へしゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下、総て同じ。]、『何ものやらん。』と、うかゞひ見れば、からかねの鬼面の火鉢、おのれと、座中を步行(あるき)しゆへ、『あら、心得ず。』と引《ひき》とむれば、ふりはなちて、往來《わうらい》いたし、今に、しづまるやうすも、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。いづれも怪しき事に存じ、此段、さつそく申上《まうしあげ》る。」

と、色(いろ)を變じて、告(つげ)ければ、忠藏は、これを聞《きき》、すこしも、おどろくけしきなく、

「火鉢には、三足(《さん》ぞく)ありて、人間よりは、一足、多し。よく動くは、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり。」

と、事もなげにいひおゝせば、たちまち、火鉢、ちつとも、動かず、わざはひもなく、しづまりける。

 

Tukumogami1

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

化(はけ[やぶちゃん注:ママ。]

 物(もの)

  の

噺(はなし)

 も

古(ふる)き

 事

  な

   がら

道(どう)道[やぶちゃん注:二字目は底本では踊り字「〲」。]

 ゆく

   の[やぶちゃん注:感動詞「のう。」の縮約か。]

化[やぶちゃん注:読みは「か」か。]して

いろいろ[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]

  に

はたら

  く

   こそ

一興(いつけう[やぶちゃん注:ママ。]

  なれ

《忠蔵の刀の柄の上の彼の火鉢妖怪の面(つら)を罵倒する台詞。》

につくき

 しかみ

  づら

    め

《下方の家来(火鉢妖怪に刀の後部を握られている)の足元にある彼の恐懼の台詞。》

やれな

  さけ

 なや

《火鉢妖怪の上の妖怪の台詞。》

よふ火

   が

おこり

 まし

  たに

  まづ

  まづ[やぶちゃん注:これは底本では踊り字「〱」。

   *

驚く家来の左足の煙草盆も、左上の外の縁に近くにある石製の手水鉢も、孰れも妖怪となっているのが判る。]

 

Tukumogami2

 

[やぶちゃん注:同じく富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

壷(つぼ)の物云(ものいゝ)

   しに

 つぼは

   口(くち)あれは[やぶちゃん注:ママ。]

いふ

 はづ

   と

けし

 たる

   に

止(やみ)

 し

  と

 なり[やぶちゃん注:忠蔵が、一向、平然とかく言っているために、「化(け)したるに」驚きもせぬ故、彼奴(きゃつ)らは化かしようがないことから「止みしと」言う結果となったの意。]

《「さとう」壺の妖怪の上の妖怪の台詞。》

とつこい[やぶちゃん注:「どっこい」。]

 やら

  ぬ

  ぞ

《扇子を開いた忠蔵の右手の彼の台詞。》

おもし

 ろしおもしろし[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]

《左下ののけぞった家来の前にある、彼の大型の茶壺妖怪への懇請の台詞。》

ゆるし

 たまへ

《右下の非常に小さな茶壺(茶筅を持っている)妖怪の左手ある、その妖怪の台詞。》

つぼつぼ[やぶちゃん注:後半は底本では踊り字「〱」。]にて

 まはろふか[やぶちゃん注:ママ。]

   *

最後の台詞は、主人が「壺には口があるから、喋るのは、理の当然じゃ。面白い! 面白い!」と、一向に驚かないので、小茶壺は、やけになって、「壺という壺ども、皆で、歩き回ってやろうかのう!」と言っているのであろう。]

 

 其のち、忠藏、昼ねの最中、家僕(けらい)來りて、急に、おこし、

「たゞ今、納戶に、たれとはしらず、はなしの聲の聞へしゆへ、行(ゆき)て見れども、人もなく、聲をしたひて、尋ぬるに、つねに御前(ごぜん)へさし上げる茶壷のうちより、聲を發す。これ、たゞ事に、あらずと存じ、うちくだきしが、ふしぎやな、おなじく、ならべし砂糖の壷、

『何咎(なにとが)ありて、我が友を、かくのごとくに、くだきしぞ。』

と、大おんあげて、罵(のゝし)りし。其聲、蝉(せみ)の鳴くがごとし。此むね、言上(ごんじやう)つかまつる。」

と、息、つぎあへず、訴ふれば、忠藏は、打ちわらひ、

「さてさて、おろかのものどもかな。二つの壷とも、口あれば、聲の出るは、しぜんの道理、あしなきものが、ありくにこそ、口なきものが言語こそ、不審ともいふべけれ、めづらしからぬ事ども。」

と、いひはなせば、壷の聲、ふたゝび出す事も、なし。

 家僕(けらい)ども、よりあつまり、

「『理《ことわり》の當然。』にて、奇怪をしりぞく、いかさま、古今(ここん)の英勇(えいゆう)。」

と、みなみな、これを感ぜしが、或る日、忠藏、出仕のとき、家僕一人、ひそかに來り、

「御出仕のうち、御座敷を掃除にまいり、朋輩ども、ふ圖(と)、天井を見あぐれば、七足にて、あゆみし、足がた、十五、六も見へけるゆへ、天井に、あしがたのつくべき道理あらざれば、此段、お耳に、入れ申す。」

と、くはしく、かたれば、忠藏、いなづき、良(やゝ)ひさしく、かんがへしが、とかく工夫(くふう)におちざれば、家僕を、まねき、小聲になり、

「かやうの事は、すておくべし。かならず、他所(たしよ)へ、さた、すべからず。」

と、吃(きつ)と、いひつけ、かへせしが、其のち、日を經(へ)て、忠藏妻(さい)、「とゝのへ物」の用事につき、婢(こしもと)を使(つかひ)とし、さふらい[やぶちゃん注:ママ。]どもへ、いひやりしに、おりふし、忠藏、外(そと)より、かへり、これを見るより、

「不義。」

と心得(《こころ》ゑ[やぶちゃん注:ママ。])、せんぎもとげず、男女(なんによ)を、よび出し、卽座に手うちにせし所に、士(さふらひ)のせんぎもなく、無罪の男女を誅(ちう)せし事、信玄公の御耳(《お》みゝ)に達し、

「平日(へいじつ)の不行跡(《ふ》かうせき)、武(ぶ)のみちに、そむきし重科(ぢうくは[やぶちゃん注:ママ。正しくは「ぢゆうくわ」。])、閉門。」

仰せ付けさせられ、

「追(おつ)て罪科(ざいくわ)あるべし。」

とて、一門中(《いち》へもんぢう)へ、あづけられ、きびしく、番をつとめしに、あるとき、忠藏、手水(てうづ)にゆきしが、家僕(けらい)をよびて、

「此首(くび)は、何ものよ。首なれば、誰(たれ)か、手うちに、せられしぞ。」

と尋ねらるれば、家僕は、おどろき、よくよく見れども、首も、なし。

 返答に、あぐみはて、さしうつぶきてゐる所に、忠藏は、大ひに[やぶちゃん注:ママ。]いかり、

「主人に對して、返答せぬは、心中に、一もつ、あらん。」

と、取りて、引きよせ、打擲(てうちやく)しけるを、番の一門、

「なにごとやらん。」

と、走り出て、やうすを聞き、ひとへに、

『狂氣。』

と、おもへども、まづ、相應のあいさつして、いよいよ、番に、氣をつけしが、翌朝、忠藏、膳にむかひ、飯(いひ)わんの蓋(おゝひ)をとり、飛びのきて、興ざめ顏、

「何ゆへに、此膳へ、かく、生首(なまくび)は、のせたるぞ。昨日(きのふ)の首も、おのれら兩人(りやうにん)、うらみをむくはんため、なるか。おのれら、ごときの手に及ぶそれがしと、おもひしか。」

と、手討にしたる男女の名を、よび、

イデ、物見せん。」

と、かけまはり、虛空(こくう)を、にらみ、虛空を、つかみ、昼夜(ちうや)、死したる男女を、しかり、いどみ、あらそふありさまなりしが、此ほどのつかれにや、しばしがあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、まどろみしが、

「むつく」

と、起(おき)て、目を見ひらき、

エヽ、口おしや[やぶちゃん注:ママ。]、『おのれらに、かく、手ごめには、なるまじ。』と、おもひつるに。」

と、齒がみを、なし、みづから、柱に、頭を、うちわり、眼(まなこ)、ぬけ出《いで》、死したりければ、さつそく、此よし、申し上《あぐ》るに、信玄公、きこしめし、

「武道をわすれし、匹夫(ふつふ)の死かばね、㙒(の)に捨つべし。」

と仰せ出だされ、數代(すだい)の家は、沒収(もつしゆ)せられぬ。無道不仁(むだうふじん)を行へば、かくのごときの、あやしき死も、尤(もつとも)、あるべきことぞかし。

[やぶちゃん注:。大井田忠蔵は代々の信玄の家臣であったようだから、火鉢・煙草盆(セット)・手水・茶壺・砂糖壺も年代物と考えれば、民俗学的には典型的な付喪神(つくもがみ)譚である。ただ、展開は残酷・凄惨で、下男下女の複数が御手打ちになり、最後には忠蔵も誅されて野晒しとなり、冒頭の凶兆を示唆したのが付喪神であったというシメとなっている。但し、忠蔵は、生まれつき、病的な他虐性を持つ粘着質の異常性格であり、後半部の手打ちにした男女の亡霊も彼にしか見えないという点では、重度の被害妄想と幻視と断定してよく、かなり進行した精神疾患(強迫神経症或いは統合失調症又は脳梅毒)の一症例として見ることも可能である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八八番 貉の話(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「貉」は「狢」とも書き、「むじな」で、既に「三三番 カンジキツクリ」の本文の最初の注で附してあるのでそちらを見られたい。ここでは第一話については、その中間のシーンから狸であると考えてよいと思われる。]

 

        八八番 貉  の  話

 

         貉の頓智(其の一)

 

 或時、貉が畠へ來て惡戲《いたずら》をして氣無し[やぶちゃん注:無防備。]で居るところを百姓が捕へた。百姓は相憎《あひにく》と繩を持つて居なかつたので、家に居る子供を呼んで、やいやい貉を捕(ツカ)まへたから早く繩を持つて來うと叫んだ。童《わらし》はあわてゝ、父それそれ早くと言つて、其所にあつた竹切を持つて走せて行つた。父はそれを見てインヤ其れア竹切ぢや無いかと言ふと、それぢや父此れかツと言つて今度は小柴を持つて行つた。否々《いやいや》それでアねえ繩だ繩だと叫ぶと、それだらこれかと言つて、笊《ざる》を持つて行つた。そこで父は呆れ果てて、もどかしがつて分んねえ、そんだらお前がこの貉をおさえて居ろと言つて、貉を子供におさへさせて置いて、自分で繩を取りに家の方へ走つて行つた。

[やぶちゃん注:「竹切」以下の並列する対象物を見るに、竹を切るための小型の鋸(のこ)のような「たけぎり」ではなく、「たけぎれ」「たけきれ」で「竹の切れ端」である。]

 其間《そのあひだ》、子供は貉をじつと押へつけて居たが、貉が仰向《あふむけ》になつて大きな睾丸《きんたま》を丸出しにして、おかしな格好をした。だから子供が笑ふと、貉は兄々《アンニヤアンニヤ》何が可笑しいと訊いた。童は何が可笑しいつてお前の睾丸が見えないかと言ふと、ほだらお前の父の睾丸はどれ程くらゐの大きさだ、貉の半分もなかんべと言つた。子供は父親の睾丸を輕蔑されたのでムキになつて、なんだとお前の物などよりアずつと大きいやと言ふと、ほだらどれくらいだえと又訊いた。童は片手を放して指で小さな輪をこしらへて、これ位あると言つた。貉は鼻を顰《しか》めて笑つて、なんだとつたそれツくれえか、それじゃ貉のケエツペよりもトペアコ(小さい)だらと言ふと、童は、なんだとこんなに大きいんだと言つて、貉から兩手を放して空中に大きな輪を作つて見せた。その間に貉は山へ逃げて行つた。

 (私の稚《をさな》い記憶の一つ。奧州の兒童は誰
  でもこの樣な素朴な話を聽いて育つのである。) 

 

        貉の惡戯(其の二) 

 二升石と云ふ所に兄弟の子供等があつた。學校からサガルと牛にやる草刈りをした。或日この二人がいつもの通りに、鎌をもつて刈場の方へ行くと、いつも通る細道の眞中に大きなフルダ(蝦蟇《がま》)が死んで腐瀾(クサ)さつて[やぶちゃん注:漢字はママ。「腐爛」の誤記か誤植。「ちくま版」は『くさって』と全ひらがな。]、屍《しかばね》一杯にウヨウヨと蛆蟲《うじむし》が湧きムレて、臭くて臭くて、アゲたくなり[やぶちゃん注:嘔吐したくなり。]、手で鼻を掩ふて其所を急いで駈け拔けて通つて行つた。

 此道は二人が朝いつも通る路であるが、今まであんな物を見たことがなかつた。何所からあんなヤンタモノ[やぶちゃん注:厭な物(者)。]が出やがつたべえと語りながら、草を刈つて、シヨツて歸りしなに、また臭いかと怖(オツカ)な怖なで其所を通つて見ると、先刻《さつき》まであんなに蛆蟲がウヨウヨして臭かつたものが影も形もなかつた。

 ハテ不思議だと話し合つて、家へ歸つて父に話したら、それア貉にバカされたんだと言つた。

 (岩泉地方の話。野崎君子さんの御報告分の六。)

[やぶちゃん注:「二升石」「岩泉地方」岩手県下閉伊郡岩泉町(いわいずみちょう)二升石(にしょういし:グーグル・マップ・データ航空写真)]

2023/05/25

「近代百物語」 巻三の三「狐嫁入出生男女」 / 巻三~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注である。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 なお、本話には相当する挿絵はない。]

 

   狐嫁入出生男女(きつねのよめいりしゆつしやうのなんによ)

 

 百濟玄之介(くだらげん《のすけ》)といふ人、京都に、すこし、しるべありて、

『仕官をも、なさん。』

と、おもひ、越前より、都におもむく。

 まだ、冬のはじめなれど、越路(こしぢ)は寒(ひゆる)により、道より、俄(にはか)に、雪、ふり出し、次㐧に、大雪になり、山中、步行もなりかたきに、道のかたわらに、小(ちいさ[やぶちゃん注:ママ。])きわらふきの家、一軒、あり。

 けふり、立ちのぼり、あたゝかに見へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、立ちよりて見るに、年老たる嫗(うは[やぶちゃん注:ママ。])と、十六、七の女、木をきり、くべて、いろりにあたり居《ゐ》たり。

 女の髮は、みだれ、衣服は、あかつきたれども、花のまなしり、うるわしく、雪のはだへ、細やかに、立ちふるまひ、やさしく、山中に、かゝる人のある事、此世の人ともおもわれず、神仙のすまゐかと、あやしまれける。

 翁夫婦、玄之介が來たると見て、

「あまりの大雪なるに、先づ、火にあたり給へ。」

といへば、よろこんで、いろりのはたに座し、ぬれたる衣服を、あふりける[やぶちゃん注:「焙(あぶ)りける」。]。

 日もすでに、暮ちかくなりて、雪は、次㐧に、はげしく、かぜさへそひて、行くべきやうに思はれねば、一夜のやどりを求めける。

 翁夫婦のいわく、

「いやしき片山かげのすまゐなれば、まろふどを、もてなすべきやうも、なけれども、くるしからずは、とまりて、旅のつかれを休め給へ。」

といふに、嬉しく、足そゝぎなどして、昼のつかれを休めぬ。

 しばらくありて、嫗、酒盃をもち來りて、

「一つ、のみ、寒を、ふせぎ給へ。」

と、いふにぞ、悅びて、

「こよひのやどりをめぐみ給ふ上、いろいろの御心づかひは、嬉しく候ふなり。」

とて、さいつ、さゝれつ、盃(さかつき)、數(かず)かさなりけるに、昼見し娘、化粧(けわひ)し、衣服をあらため出でて、又、酒をすゝむ。

 みやびやかにして、うつくしき事、はじめ見たるには、近まさりして、覚ゆ。

『心を引きみん。』

と、一首、かくは詠じける。

 〽雪つみて峯の木ずへ[やぶちゃん注:ママ。]も心あらばこなたになびけ夜半の盃

娘、かへし。[やぶちゃん注:底本では改行がなくここに返し歌が記されるが、送った。]

 〽くれ竹の一よのふしはなびくともまつの千とせの色をこそまて

 此歌に、いよいよ、めでゝ、翁夫婦に、

「妻にせん。」

事を乞ひ望めば、

「いやしき山家そだちの娘、何とて、貴客の妻になるべき。」

と辭すれども、强(しい)て望みぬれば、翁夫婦も諾(たく[やぶちゃん注:ママ。])して、頓(やか[やぶちゃん注:ママ。])て、かたばかりの夫婦の盃、取りかわし[やぶちゃん注:ママ。]、其夜は階老のちぎりを、むすびて、ふしぬ。

 あくる日、雪も晴れしかば、娘をともなひ、都に登り、しるべの方にたよりて、仕官をなせども、おもわしき事もなくて、纔(わづか)の扶持方(ふち《がた》)なれども、先づ、ありつきぬ。

 万事、たらぬがちなるを、妻、「おり・ぬい[やぶちゃん注:孰れもママ。]」のわざに器用なる上、心を盡して、家をとゝのふるにより、朋友のまじわり・衣服・調度にいたるまで、欠(かく)る事、なし。

 夫婦の情、ますます、あつくして、一男一女を產(うむ)。

 三年も、たちしかど、出世する事もなければ、

「一先《ひとまづ》、故鄕へ歸るべし。」

と、官をやめて、夫婦、幼子をともなひて、もとの道にぞ、出でたちけり。

「前の翁の所にいたりて、孫を見せば、よろこび給はん。」

と、かたりもてゆきしに、其所にいたり見れば、草のいほりはありながら、翁も、うばも、あとかた、なし。

「これは。いかになり行きぬらん。」

と、事とふべき隣家(となり《や》)もなき深山(しんさん[やぶちゃん注:ママ。])の岩根、こけ、ふかくとざす、ましは[やぶちゃん注:意味不明。「ましら」の誤記ならば、「野猿」のことだが。]のすみかに入りて、玄之介も、妻も、おもひあまれるなみた[やぶちゃん注:ママ。]は、ひめも、そ[やぶちゃん注:強意を含んだ指示語ととっておく。]、とゞまらず。

 壁にそひたる、ふるき衣を、

「これや、かたみ。」

と、引きあぐれば、其下に、きつねの皮あり。

 ちり、つもりて、久しく埋れたるがごとくなるを、妻、これを見て、大きにわらふて、「此物、なを、ありといふ事を、しらざりき。」

と、やがて、これを着るに、たちまち、へんじて、きつねとなり、

「こんこん。」

と、ほへて[やぶちゃん注:ママ。]、門に出でて、はしりける。

玄之介は、おどろき、かなしさも、戀しさも、さめはて、二人の子どもを、たづさへ、道を尋ねて、かへり行きける。

 此二人の子ども、成人して、才能、秀(ひい)で、學者となり、女は、良人(りやうじん)のつまとなりて、さかへける、と也。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八七番 兎と熊

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      八七番 兎 と 熊

 

 昔はあつたとさ。或所に熊と兎がありましたとさ。此所いらだと大森山のやうな所へ、二人で薪取りに行くことになりましたとさ。そこで二人はケラを着て二十を腰にさし、先づ山へ行つたと。熊は鈍八(ドンパチ)で、兎は賢(サカ)しいから、未だ山へ行き着かないうちから、ナギダ、ナギダと言つてゐたとさ(小屋を建てて遊ぶことになつて茅(カヤ)を背負ひに行くと多くは語つている。又紺屋《こうや》を始めると言つて染物屋遊びの心算《つもり》で茅を脊負に行くとも云うふ)。

[やぶちゃん注:「大森山」最後の附記は雫石地方とあるが、雫石町の南南東の現在の岩手県紫波郡紫波町土舘天間沢の大森山か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「ナギダ」「難儀だ」か。]

 山へ行つてガチリツガチリツと木を切り始めたとさ。熊は强いから澤山取つたが、兎は僅か取つただけだつたとさ。取つた薪も熊は澤山(ウント)脊負ひ、兎は極少(ベアコ)脊負つて、家さ歸ることになつたと。所が兎は賢(サカ)しいから後に立つて、あゝナギダ、あ句ナギダと言つて步かなかつたと。兎どな兎どな、なんたら弱いものでござるな。俺さカツツイで步いてとらなデヤと言つたが、兎がどうしてもカツツイで步けないので、熊はどれどれそら程ナギダら、俺さ半分よこしてトラナヂヤと言つて、兎の背負つた薪の半分を取つて、步き出したとさ。又少し來ると、兎はあゝナギダ、あゝナギダと言つて步かなくなつたとさ。兎どな兎どなナントしたこつてざるナ、其れ程ナギダら俺サ皆よこしてございと言つて今度は皆背負つて出掛《でかね》た。

 それでも又少し行くと、兎はあゝナギダ、あゝナギダと言つて步かなくなつた。そら程ナギダら俺サ負(オ)ぶさつてございと言つて熊は兎まで背負つて步いて行つた。

 兎が熊の背中で、カチリ、カチリと火打石で火を切ると、熊は、兎どな兎どな背中の方で音がするが何でござるナと問ふと、兎は熊殿あれはカチリ山のカチ鳥の聲サと、何でもないふりして答へた。

 次に兎が火をボウボウと吹くと、熊は、兎どな兎どなあのボウボウといふ音はなんでござるナと訊いた。すると、兎はあれはボウボウ山のボウボウ鳥コさと答へて置いて、熊の背中から跳ね降りて、逃げてしまつた。

 熊は背中に火がついてだんだん熱くなつて來たので、始めて兎に計《はか》られた事に氣がついた。

 そして大火傷をしてウンウン呻りながら山を越して往くと、兎が藤蔓を切つてゐた。熊が兎どな兎どな、先程はよくも俺を騙して火傷(ヤケ)にしたなと云ふと、兎は全く知らないと云ふ顏付きで、前山の兎は前山の兎、藤山の兎は藤山の兎、俺が何知るベサと言つた。熊は如何にも成程と思ひ、時に兎どの藤を切つて何する心算《ツモリ》かナと問ふと、今日はお天氣もよし、一つ日向(ヒナタ)で遊ぶ考へで蔓を取つてゐるのさと答へた。すると熊はそれは面白さうだ、俺も加(カ)せてとらなでアと言つて二人で遊ぶ事にした。

 其所で二人で藤の蔓を取つて、何して遊ぶべと熊が問ふと、兎は山の頂上から手足をひんまるツて傾斜面(ヒラ)を橫にタンコロビするととても面白いと言つた。熊は成程と合點して、早速熊から始める事になつた。

 二人は山の頂上へ行き、まず[やぶちゃん注:ママ。]兎が熊の手足を結付《むすびつ》け、そらとても面白いから轉んで見とらなでアと言つた。熊は成程と思じょ轉び出すと、彼方《あちら》の樹の根へ突當《つきあた》り、此方《こちら》の藪の中に落ち込み、面白いどころか死ぬ思ひをして谷底へ轉げ落ちた。手足を結びつけられてゐるので容易に起き上ることも出來ず、漸《やうや》くの思ひで起き出して見ると、兎は逃げて何所にも居なかつた。

 熊がウンウン呻りながら山を越して行くと、兎が日向で、タデミソを作つておつた。兎どな兎どな、先程は其方(ソツチ)にだまされて死ぬ思ひをした。これこんなに體に傷がついてゐる。何うして吳れるなと言ふと、兎は何も知らないといふ顏をして、藤山の兎は藤山の兎、タデ山の兎はタデ山の兎で、俺が何知るベサと答えた。熊は成程と合點して、それも其筈《そのはず》と思ひ、時にタデ山の兎殿、其方(ソツチ)の今拵へて居るものはそれは何でござるナと訊いた。タデ山の兎は、是はタデ味噌といつて、燒傷(ヤケド)や打傷《うちきず》や皮の破れたところさ塗ると、すぐ治る妙藥でナ、今是を拵へて街へ賣りに出掛ける所でござると言ふと、熊は欲しくてたまらなくなつて、兎殿兎殿俺も此通り燒傷や突傷《つききず》で惱んでゐるが、少し讓つてたもれでアと無心に及んだ。兎はそれでは少し分けてやるべいと言つて、熊の背中の方へ𢌞りタデ味噌を其の傷へ塗りつけてやつた。

 すると鹽氣がだんだん傷へ沁み込んで痛くて耐《たま》らなくなつて來たが、兎はもう逃げて居なかつた。熊は口惜《くちをし》ながらも泣き泣き川べりさ下《お》りて體を洗ひ、タデ味噌を流した。漸く洗ひ流してウンウン呻りながら山を越えて行くと、又兎が一人で樹を伐つたり板を挽《ひ》いたりして忙しく働いてゐた。熊は漸く其所へ辿り着き、兎どな兎どな先程はひどい目に合つた、お蔭で身體《からだ》がこんなに腫れ上つた。どうしてくれると言ふと、タデ山の兎はタデ山の兎、杉山の兎は杉山の兎、俺が何知るベアサと言つた。

 熊も、杉山の此兎と、タデ山の先程の兎とは別なのかも知れない、この兎のいふのも道理だと考へ、時に兎どな杉板を挽いて何に使ふ氣かナと訊いた。杉山の兎は此の板で船を矧《は》ぐのさ、そして川の中さ乘り出してウンと魚を捕(トル)ベアと答へた。すると熊は成程其は面白さうだ、兎どの兎どの、此俺も加《か》せてたもれでアと言つて二人で船を矧いだ。

 二人は相談して兎は白いから白い杉板で船を矧ぎ、熊は黑いから黑い土船を造ることにした。

 熊のは黑い土船で、兎のは白い板船で、漸く二肢を拵へ上げ、各各(テンデ)に川の中へ乘り出した。熊の黑船は土で拵へた船であつたから、ともすると缺けて崩れる。其所ヘ兎は自分の白い板船をワザと突當《つきあ》てるので、段々熊の船は沈みかけて來た。熊は段々に困感して、兎どな兎どな助けてたもれでアと叫んでゐた。兎はよしよし助けに行くよと言つて居る間に、土船は段々に崩れて、熊はザンブリ水の中へ墜ちた。兎は助けるフリをして竿を突出《つきだ》し、それ熊殿上《くまとのうへ》とらなでア、それ熊殿上とらなでアと言つて、竿で深い淵へ突んのめしてやつて遂々《たうとう》殺してしまつた。

 それから兎は、其所へ熊を引づり上げて近所の家へ行つて、鍋を借りて來て熊汁を煮て食べることにした。[やぶちゃん注:底本は句点なく繋がっている。「ちくま文庫」版で句点を挿入した。]其所の家では大人は働きに畠さ行き、子供ばかりが宿居《やどゐ》をして居た。

 兎は子供等と共に其家で熊汁を食べ、骨と頭ばかり殘して置き、この童共(ワラサド)このワラサド、トドだのアツパだの來たらナ、この鍵(カギ)をガン叩いてぐるりと𢌞(マワ)り、この頭の骨をガリツ嚙(カヂ)れと言へ。俺は後《うしろ》の林で寢てゐるから默つてゐるんだぞと言つて出て行つた。すると親達が間もなく畠から戾つて來たので、子供等は兎の言い置いた通りを親達へ告げた。親達は、鍵をガンと叩いてグルリと𢌞り熊の頭の骨をガリツとかじり、ガンと叩いてグルリと𢌞つてガリツとかじりするうちに齒が皆な缺けたので、ひどく怒つて、あの兎の畜生に騙されて齒無しになつた、このワラサド兎は何所に居ると問ひ詰めた。兎はだまつて居ろといつたが、後の林で寢ていると告げると、其所にある釜マツカを持つて走り出し、子供の敎へた所へ行つて見ると、兎が寢てゐるので、マツカで突《き》のめし、このクサレ兎のお蔭で齒を一本もなく缺いてしまつた。憎い畜生だ。殺してしまふから枕元から刀を持つて來いと子供達に叫んだ。子供等は枕を持つて來いと聞き違へて、急いで枕を持つて行くと、此馬鹿ワラシ、枕ではない枕元の刀と言つたけアな、分らないならサイバンの上から庖丁を持つて來いと言つた。すると今度は子供はサイバンと聞いたからサイバンを持つて走つて行つた。なんて馬鹿なワラシだべ、そんだら此のマツカで兎を逃さないやうに押さへて居れと言ひつけて、自分で出刄庖丁を取りに走つて行つた。

[やぶちゃん注:「釜マツカ」不詳。大釜を焚くための太い薪か。

「サイバン」「菜板」で俎板のことか。]

 兎は其間に、一策を案じ、ワラサドワラサド、汝(ウナ)アツパのキンタマどのくらいあると尋ねた。子供は此位だと言つて片手で示すと、兎はそれでは分らない兩手でやつて見ろといふので子供は兩手を出し、この位大きいと云ふと、その兩手のゆるんだ隙をねらつて逃げ出した。そこへ恰度親が歸つて來たので、持つてゐた庖丁を兎目がけて投げ付けた。すると恰度兎の尾に當つて尾が切れたのでその時から、兎に尾が無くなつたといふ話。ドツトハラヒ。

 (岩手郡雫石地方の話。田中喜多美氏の御報告の分の
  一六。)

[やぶちゃん注:「かちやま山」の東北に伝わる熊ヴァージョンで、兎の尾が短く切られたようになっている由来譚あるが、熊の側に悪因が示されず。いかにも後味の悪い話で私は甚だ嫌いだ。私の民話の兎の印象は総じてよくない。英語でも「兎のように」は「性的な」の好色であることの別称である。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

     海 老 上 﨟   (大正十四年九月『集古』乙丑第四號)

 

 岩瀨醒齋の「骨董集」下に、雛遊びの事共を多く述《のべ》た中に、海老上﨟《えびじやうらふ》の一條あり。『今、童《わらは》の戲《たはぶ》れに、鰕(えび)の目《め》を頭《かしら》とし、紙の衣裳をきせ、雛《ひいな》に造りて、「海老上﨟」とて玩《もてあ》そぶ。是れ、寬文の頃、早くありし業《わざ》にや。寬文十二年の「俳諧三ツ物」に『裏白やえび上﨟の下がさね 正長』」と載す。予、幼時、そんな物有《あつ》たやう想へど、定かに記憶せず。諸友へ聞合《ききあは》したが、皆、知らぬとの返事のみ。唯だ、平沼大三郞君のみ明答された。云く、

 

C1

 

[やぶちゃん注:底本よりキャプションも含めてトリミング補正した。キャプションは、右から左に『第一圖』として、『品川で作つた海老上﨟』とある。]

 

『小生、母に問《とひ》し處ろ、薄々乍ら、そんな物を玩んだ覺えありといえど、委しく記憶せず、幸ひに、近頃、外祖母が近所に來り住める故、拙妹が往《いつ》た序でに問合さしめしに、判然致し候。右の玩品は海老上﨟と稱へ、伊勢海老の目を引き拔くと蠶豆《そらまめ》の形をなし居り、上の黑き所が恰《あたか》もお龜の髮の形也。之に紙を切《きつ》て作つた衣裳をきせ、玩びし由。母の幼時迄、此風有《あり》しも、其後、追々絕《たえ》し事と存じ候。母は四十九歲、幼時、品川に住み、祖母も幼時より同處におり候。』と有て畧圖第一圖を添《そへ》て示されたので、古い事を、長命の人から聞き得たを、悅びの餘り、「腰かゞむ迄傅(かし)づくや海老上﨟」。

[やぶちゃん注:『岩瀨醒齋の「骨董集」』「岩瀨醒齋」は知られた浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の別号(本名とされる一つが「醒(さむる)」)。「骨董集」は文化一二(一八一五)年刊の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』第八十四の塚本哲三等編(大正四(一九一五)年有朋堂書店刊)のこちらで当該箇所を視認出来る。以上の本文はそれと校合し、おかしな箇所は訂した(例えば、底本では「鰕の目を顏とし」とあるのを、そちらに従い、「頭」とした)。

「寬文」一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。

「寬文十二年」一六七二年。

「俳諧三ツ物」連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を「三つ物」と称し、早くから、この三句だけを詠むことが行われてきたが、近世以降、歳旦の祝いとして各派で詠まれた。而して、その各派の、この「三つ物」を一つに集成したものが、「俳諧三ッ物」という同書名で何度も刊行されている。同名の異書が多く、調べるのが面倒であることが幾つかの資料から判明したので、調べない。悪しからず。

「正長」芭蕉の師であった北村季吟系の、上方の俳人のようである。後の熊楠の言いから

「平沼大三郞」小畔(こあぜ)四郎・上松蓊(しげる)とともに南方熊楠門下の「粘菌学の三羽烏」と称せられた人物で、熊楠の粘菌採集や生活面で協力した。]

 右の平沼君の答書を本山豊治《もとやまとよぢ》氏の『日本土俗資料』拾輯(今年四月刊)に出し、『此他にも例ありや』と問《とふ》たが、其方《そつち》からは更に答へを得ず。之に反し、御膝元の紀州よりは、多少の知らせに接した。例せば、東牟婁郡大島の「蛸」となん呼ばれた賣女《ばいた》は、先頃の大火まで、上巳《じやうし》[やぶちゃん注:三月三日。]每《ごと》に、平沼君報告通りの紙雛《かみびな》の頭《かしら》を、鰕の目で作つた。其邊《そのあたり》の海底で鮪網《まぐろあみ》をひくと、四百匁[やぶちゃん注:一・五キログラム。]位い[やぶちゃん注:ママ。]の大鰕を得、其目の大《おほい》さ、小指程有て、隨分、大きな雛人形の頭が出來る、と話された人、有り。同郡請川(うけがは)村では、年始の飾り、海老を貯はへて、上巳の日、女兒ある家へ菱切り餠に、桃の花一枝と、其鰕の足數本を添え[やぶちゃん注:ママ。]贈る。其日に限らず、小兒が鰕の目を頭として紙雛を作り、遊ぶ事あり、と聞く。津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白《うらじろ》を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治《いや》し、「濕《しつ》追出し藥《ぐすり》」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え、請川村如き海遠い僻地では、上巳の祝儀用のみならず、雜多の禁厭《まじなひ》醫療の爲に、飾り海老を貯へ置《おい》た事と察する。

[やぶちゃん注:「本山豊治」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は号の本山桂川(けいせん)の名で知られる民俗・民芸研究家。長崎市生まれ。早稲田大学政治経済科(明治四五(一九一二)年)卒。『日本民俗図誌』全二十巻や「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、「金石文化研究所」を主宰し、「史蹟と名碑」・「芭蕉名碑」などの著書がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「東牟婁郡大島」和歌山県東牟婁郡串本町の「紀伊大島」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「先頃の大火」調べたが、不詳。

「同郡請川(うけがは)村」現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)の南部和歌山県田辺市本宮町請川。熊楠の言うように、山間部である。

『津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治し、「濕追出し藥」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え』ブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で二〇一五年から電子化注を行っているが(現在の巻之五がつまらぬため、やや停滞中)、フライングするまでのものでもなく、最終巻「卷の十五」「諸病妙薬聞書」のリストの二箇所。以下に示す(三一書房『日本庶民生活史料集成』第八巻(一九六九年刊底本))。なお、同巻は病状毎の対治療のソリッド記載となっており、二条は離れている。

   *

○齒の痛みには

 正月のうらじろ【齒朶の事】を貯置き、きざみて切れに包み、ふくみ居れば治す。

   *

○しつをひ[やぶちゃん注:ママ。]出し藥

 正月かざりえびをせんじ、煮汁を飮べし。

   *

この「濕」とは漢方で言う「湿邪」。梅雨時などの湿度の高い時期に、余分な水分や老廃物が溜まることで引き起こされる心身の不調を指す。]

 

C2

 

[やぶちゃん注:画像は同前。キャプションは『第二圖』で指示線と記号(甲・乙・丙・丁及びイ・ロ・ハ・ニ・ホ)が附されてある。]

 

C3

 

[やぶちゃん注:同前で、『第三圖』。]

 

 田邊町の風流紳士佐山千世氏に問ふと、其幼時、上巳に限らず、鰕の目さへ、手に入《いら》ば、其れで人形を作り、翫《もてあそ》んだとて、特に、伊勢鰕二疋を携へ來り、眼前、之を製し、觀《み》せられた。凡そ伊勢鰕の目は第二圖(甲)で見る如く、蠶豆形で、「ニ」なる眼莖上《がんけいじやう》に附く。目の前部「ハ」は、球狀で、淡黃褐色、半透明故、内部の瞳とも云ふべき黑塊《こくくわい》が、映りだみて、見える。後部は、大分、扁《ひら》たく、その上面口《じやうめんぐち》は、眞紅で、前方に、偏《へん》して白き細條《さいじやう》一《ひとつ》あり。下面「イ」は眞白《しんぱく》で、其後瑞に、近く、やや歪んだ紅の短線「ホ」[やぶちゃん注:「乙」図。]あり。兩面共、滑らかに光り、墨附き良ければ、濃い墨で、黑く眼鼻を𤲿《ゑが》くと、件《くだん》の紅短線《こうたんせん》が、口に紅さした如く見え、宛然、「お多福」の面の如し。此故にや、かやうのことを知らぬなりに、今日も、田邊で、伊勢鰕の目を「お多福」と稱《とな》ふ。扨《さて》、頭は平沼氏が𤲿ける如くに黑からず、茶色の髮の歐米女人《によにん》が斬髮した體《てい》に見え、額の髮際が、兩方、不整等《ふせいとう》に上へ凸入《とつにふ》し居り、較《や》や、猴《さる》の前額《ぜんがく》を見る樣である。此目を引き拔くと、深い穴、有《あり》て、眼球の中空な内部に通じ、其穴は、廣いから、松葉や爪楊枝に合はず、帚《はうき》に作つた竹の細枝の一節を頂にして、其穴に差し込むと、節が、目の前端、乃《すなは》ち、「お多福」の頭頂に屆いて、しつかり食ひ留め、搖るがしめず。此鰕の尾は、五枚より成る。その眞中の一枚(「丁」)は、他の四枚と異《かは》り、左右整等で、先《まづ》は、力士の化粧廻しの樣だ。中が空虛で、小兒等《ら》、ホウズキの樣に吹き膨らす。今、二疋の鰕より、眞中の尾片《びへん》、二枚を採り、其胴に著き居《をつ》た端を、相《あひ》接近せしめて、帚竹《はうきだけ》の小枝で、眞中を串刺しにし、扨、上に突き出た枝の端に、鰕の目をさしこむと、第三圖通りの人形が出來る。扨、一手《いつて》で尾片を持ち、他の一手で竹枝を廻《まは》すと、第二圖の「乙」なる白色の「お多福」、「丙」なる赤色の「お多福」の二顏《にがん》が、此方彼方《こつちあつち》と、向き替るを、小兒の遊びとした、との事。念の爲め、斷わり置くは、紅面《こうめん》の方には、「お多福」の口に當たる紅短線が無いから、墨で口を𤲿くを要するが、白面《はくめん》の方には、それが自然に在《あつ》てやゝ歪みおる[やぶちゃん注:ママ。]ので、含笑《ふくみわらひ》する體《てい》に見える。又、此に類した「樟《くす》の葉のサムライ」と云《いふ》は、樟の實が、秋、熟した時、其葉、二枚を、上下とし、黑い實を頭として、其莖で、上下の葉を刺し合せたので、松葉を、大・小、刀《かたな》にさゝせた、と話された(第四圖)。

[やぶちゃん注:「佐山千世」佐山伝右衛門。詳しい事績や名前の読み方は判らないが、「風流紳士」とあるが、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションで資料検索をしたところ、この『官報』資料で(左ページ上から三段目の五・六項目)、佐山千世の名で、大正一四(一九二五)年三月時点では、『田邊銀行』取締役であったことが確認出来た。

「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 。]

 

C4

 

[やぶちゃん注:同前で、『第四圖』『田邊で作つた樟の葉さむらい』とある。]

 

 上に出した「腰かゞむ迄かしづくや海老上﨟」の句を傳聞して、

「季節がない故、句に成《なつ》て居《を》らない。」

と、二、三子、木葉天狗《こつぱてんぐ》が、やり込《こん》で來た。南方先生、長大息《ちやうだいそく》して、歎じて言《いは》く、

「だから、馬琴の歲時記ぐらいを、玉條と滿足する輩《やから》に附《つけ》る藥は、無しだ。汝ら、知《しら》ずや、京傳が引《ひい》た正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年に成た言水《ごんすい》の「俳諧江戶辨慶」に『海老上﨟龍のみやこや屠蘇の酌 如船』とあるを、遠《とほ》から御存知だが、貴樣等《ら》は、知《しら》ぬに極まり居る。正長が「裏白や」といひ、如船が「屠蘇の酌」と言《いつ》たので、海老上﨟は、飾り海老同樣、年始の物と判る。去《され》ばこそ、平沼さんのお祖母さんが、新年祝ひに、『腰かがむ』云々とやらかしたのだ。」

と聞いて、吃驚《びつくり》、木葉どもは、散りてんけり。其後も左思右考するに、どうも近來の名吟としか惟《おも》はれぬ。但し、飾り海老は目出度い物故、保存して禁厭醫療に用ひ、其目で、新年とか、上巳の外にも、雛人形を拵へ玩ぶ所、有たは、上述の如し。是は、雛遊びが、上巳に限らなんだ古風が殘つたので有る。「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」。これは何時頃の書で、此句は何の意味か、大方の敎示を冀《こひねが》ふ。

[やぶちゃん注:「季節がない」確かに、こいつら、救いようのない似非文人の木っ端どもである。かの芭蕉は「季の詞(ことば)とならざるものは無い」と明言している。しかも、歳旦句とは歳旦に詠むものだからこそ、そこに「季」は自動的に定まっているのである。字背にその雰囲気と年始の情景が髣髴すると同時にそれは、「新年」の「季」の特別な「晴れ」の句なのである(というより、私は中学時代に『層雲』に入った元自由律俳句で、今、定型を作ることがあっても、季語を絶対に意識しない無季語志向である)。一昨日来やがれ! 化け烏天狗ども!

「馬琴の歲時記」曲亭馬琴編の「俳諧歳時記」は近世歳時記の決定版という評価がなされているもので、発行書肆を異とした四種が刊行されているが、孰れも享和三(一八〇三)年上梓されている。岩波文庫で所持するが、そもそも馬琴は、俳才もなく、というより、彼は確信犯で発句を完全に馬鹿にしており、私は彼が「俳諧歳時記」を書くこと自体が、鼻白むどころか、馬琴の鼻を捩じり曲げてやりたい、ゲロを吐きたいほどであることを告白しておく。守銭奴バキンめガ!

「正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年」「延寶八年」は一六八〇年。徳川家綱が死去し、綱吉が将軍となった年。「後ち、八年」とあるからには、この正長の三ッ物の一句が載る「俳諧三ツ物」は、寛政十三年(二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に延宝に改元)に板行されたものということになる。「三ッ物」本では、これはかなり早い時期の刊行本の一つと考えてよい。

『言水の「俳諧江戶辨慶」』江戸初期の松尾芭蕉と同時代の俳人である池西言水(ごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は、ウィキの「池西言水」によれば、奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』、延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に第一撰集である「江戸新道」を編集、その後、「江戸蛇之鮓」、ここに出る第三撰集「俳諧江戶辨慶」(推定で延宝八(一六八〇)年刊)、「東日記」などを輯し、『岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある人物である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、同書の活字本の当該部(部立「元日」。右ページ下段中央)が視認出来る。

『「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ(右ページの頭書「蜜柑の猿」の条)を視認されたい。しかし、この熊楠先生も判らぬ「前句付廣海原」なる俳書は不詳である。]

 其から、「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、公の寵、衰へたるを歎きて、小さい衣服雛衣を、二つ、縫ひ、下前《したまへ》に、一首宛《づつ》歌を書《かき》て女神に進《まゐ》らせた記事を引《ひき》て、今の女童《めわらは》が「粟島サン」をさきに童部《わらはべ》の仕業《しわざ》に古いことが多いと述《のべ》たは、今日、西說受賣《せいせつうけうり》の民俗學者に、萬々《ばんばん》勝つた創見だ。扨、粟島に鎭座する少彥名命《すくなびこなのみこと》は、高皇產靈尊《たかみむすひのみこと》の指間《しかん》から、漏れ落ちたほど、小さかつたから、雛を奉るも由あり、と說《とい》た。「粟島祭《あはしままつ》り」は上巳の日で(今年より四月三日)、加太《かだ》の「鰕祭り」とて、伊勢鰕斗《ばか》りの料理で、加太浦、擧《こぞ》つて大飮した。此浦で、獨創でも無からうが、鰕の目も、此日、夥しく手に入《はい》る故、廢物利用で、鰕の目の雛人形を、澤山、此神に奉つたと察する。俗にいふ「人形廻し」、又、「夷廻《えびすまは》し」は、專ら、西の宮の夷《えびす》三郞左衞門の尉《じやう》は云々と、漁利の神をほめて、人形を廻し、錢を貰ひ、旅するを、漁村の人々が歡迎する。夷の顏を二つ、前後に合せて廻す事、佐山氏が示された海老人形に、全く似て居《を》る。かやうの「人形廻し」より「操《あやつ》り」、「操り」より「人形芝居」と進化した次第は、喜多村信節《のぶよ》の「畫證錄」や「嬉遊笑覽」を參考せば、判る。近年迄、紀州海草郡淸水てふ漁村では、每度、醵金《きよきん》して、人形芝居を傭《やと》ひ、興行せしめ、其都度、偶人《くぐつ》、一つ、失せた。之を盜めば、漁利多し、と信じたからだ。根本は「夷廻し」と呼んだのが、其から進化した人形芝居を呼ぶ事と成たと見える。

[やぶちゃん注:『「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、……』先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』のこちらで当該箇所を総て視認出来る。

「粟島祭りは上巳の日で(今年より四月三日)」和歌山県和歌山市加太にある淡嶋神社(現行の正式表記は「嶋」である)の例祭であるが、公式サイトの「年中行事」を見ると、「春の大祭」の項に、現在は四月三日としつつ、『以前は』三『月』三『日に行われていた』と注意書きがある。その前の「雛祭(雛流し)」は、三月三日の行事で、かなり力を入れて書かれてある。サイト「きごさい歳時記」の「粟島祭(あわしままつり/あはしままつり) 仲春」の記載では、『婦人の病の平癒を願って、櫛・乳型・雛人形が奉納された。全国から奉納されるおびただしい数の雛人形を舟に積み、海に向かって雛舟が流される。近年、関西では有名な行事となった』とあり、ウィキの「淡嶋神社」の「婦人病祈願」の項に、『淡島神は婦人病にかかったため』、『淡島に流されたという伝承から、婦人病を始めとして安産・子授けなど』、『女性のあらゆる下の病を快癒してくれる神社とされている。かつては祈願のため』、『男根形や自身の髪の毛などが奉納されていたが、現在はそれらに代わって』、『自身の穿いていた下着を奉納する女性が多い。境内奧の末社には絵馬などと共に多数の女性用下着が奉納されている』とあった。則ち、この春の大祭こそが、本来の女性を守る主祭であったのではないかと思われる。しかし、その奉納品の内容が内容だけに、三月三日の、近代以降、女子の晴れやかな「雛祭り」となった同日の、旧主祭事の執行を避け、四月に移されたのではないかとも私には思われる。さればこそ、この熊楠の、わざわざの注意書は、やはり移動した本来の大祭の方を言っているものと考えてよい。

「紀州海草郡淸水」「ひなたGIS」で旧「海草郡」相当の海浜をテツテ的に調べたが、ない。そもそも旧「海草郡」には「淸水」という村自体が、ない。而して、たった一つ、熊楠の表記誤記であるとすれば、現在の和歌山県海南市冷水(しみず)の可能性が極めて高い。ここは旧「海草郡」内で、海浜であるからである。「ひなたGIS」で戦前と現在の地図で示す。

「𤲿證錄」喜多村の考証随筆。]

 「窻《まど》のすさび」追加に、『惠比須の像迚《とて》、繪にも書き、木にも刻みぬるは、廣田の神主の像也。」と有て、神功皇后、筑紫より歸途に、西宮廣田の神社、荒れ果《はて》て、神主、釣を業《なりはひ》として、漸《やうや》く、神に仕へ、鯛を釣《つり》て獻じた。由緖を聽取《ききとり》て、所願を問《とは》れしに、神社再興を願ふて、造立された。其神主の名が「夷《えびす》三郞」、本社再興の功で、末社と崇められた。後世、堺の商人、此宮を信じ、月詣りして、富有《ふいう》と成たが、月詣り、叶はなく成たから、其宅に、神影を寫し、朝夕、拜みたい、と望むに、神に寫すべき形、無ければ、彼《か》の夷三郞が、鯛を釣《つり》て獻上に持ち行く體《てい》を繪《ゑが》き與へたのが、世に廣まつた、と出づ。「南水浸遊」に、『傀儡師《くぐつし》、昔しは、西宮並びに淡路島よりも出《いだ》し、夷の鯛を釣り玉ふ仕形《しかた》をして、春の初めに出來る故、「夷廻し」・「夷かき」とも云《いへ》り。』。「東海道名所記」六に、『又、淨瑠璃は、其頃、京の次郞兵衞とかや云ふ者、後に淡路丞を受領せし西の宮の「夷かき」を語らひ、四條河原にして、鎌田政淸が事を語りて、人形を操り、その後、「がうの姬」、「阿彌陀の胸割り」抔いふ事を語りける。』。「夷廻し」が操り人形の初めだつたのだ。「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、生存中、夷三郞殿の神慮に叶ふた道君房てふ人の像を作り、舞《まは》しありきしとか、西の宮なる百太夫の神像は古き雛の形ち抔、記す。其から推すと、佐山氏が示された、「お多福」面が廻る「鰕の目人形」は、專ら、元旦・上巳に依り祝はるゝ「海老上﨟」と異《かは》り、本《も》と、雛人形を廻して、船舶の無難と、漁利多き樣、祈つたを、眞似た兒戲《じぎ》だつたが、後には、鰕の目を頭として、エビスと、エビの、音便、旁(かたが)た、「夷廻し」の眞似事と成たで有《あら》う。紙雛を「船玉神《ふなだまがみ》」と齋《いつ》ぎ、船每《ごと》に、祕し納めおく事は、「松屋筆記」に見え、今日も熊野で一汎にする。

[やぶちゃん注:「窻のすさび」丹波篠山藩家老にして儒者であった松崎白圭(はくけい 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:伊藤東涯に学び、荻生徂徠門下の太宰春台らと親交があった。名は堯臣(ぎょうしん)。別号に観瀾)の考証随筆。「窓のすさみ」の方が一般的呼称である。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』(昭和二(一九二七)年刊)のここで当該部を視認出来る。

「西宮廣田の神社」現在の兵庫県西宮市大社町にある広田神社。私は神功皇后の実在を疑っているので、同神社の「御由緒」のページをリンクするに留める。

「南水浸遊」作家・浮世絵師の浜松歌国(颯々亭南水:安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)が書いた随筆。

「鎌田政淸」(保安四(一一二三)年~永暦元(一一六〇)年)は平安後期の武士。遠江国出身か。源義朝の家人で乳母子。「保元の乱」(一一五六年)では、京の白河殿で源為朝と戦い、その頰を射るなどの活躍を見せたが、「平治の乱」(一一五九年)では、一時、藤原信頼が政権を掌握すると、兵衛尉に任ぜられ、「政家」と改名した。しかし、結局、平清盛に敗れ、義朝とともにに東国へ落ちる途中、尾張国知多郡野間の鎌田の舅である長田忠致(ただむね)を頼ったが、裏切られ、義朝とともに殺された(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「がうの姬」不詳。しかし、これ、源義経と最期をともにした正室郷御前(さとごぜん 仁安三(一一六八)年~文治五年四月三十日(一一八九年六月十五日)をモデルとした古浄瑠璃ではなかろうか。故郷である河越では、京へ嫁いだ姫である事から「京姬(きやうひめ)」と呼ばれ、また、延享四(一七四七)年の浄瑠璃「義経千本桜」での義経の正妻は、平時忠の養女で川越太郎の実の娘「卿(きやう)の君」であり、音が似ている。

「阿彌陀の胸割り」古浄瑠璃の本地物(ほんじもの)。六段。六字南無右衛門作とされ、慶長一九(一六一四)年上演の記録がある。他人の難病を治すために娘が自分の生き肝を捧げようとすると、阿弥陀が身代わりになって、その胸から血を流すという粗筋。

『「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、……』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本で概ねの当該部が視認出来る。ここを見ると、熊楠の、この前後の部分全体が、これが種本じゃないか、とバレまくりだ。熊楠は、時に人が寄せて纏めたものを、あたかも自分が、それらの原本を照覧して書いているかのように記すことが、まま、ある。他の研究家のいい加減な謂いを激烈に指弾する割に、自分には、結構、甘いのである。

「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。]

 斯く、鰕の目の雛に紙を着せると、鰕の尾を衣裳に擬《ぎ》する、二樣、有り。之を作る理由も、多少、異なる樣だが、要は、雛遊びは、昔し、三月三日に限らず、鰕の目が、女の顏に似るから、其れで雛人形を作り、玩び、正月に作ったのを「海老上﨟」と稱へたが、後には、何時作つても、かく呼《よん》だと見える。

 

C5

 

[やぶちゃん注:同前で、キャプションは、『第五圖』『英國の海老上﨟』。]

 

 支那で「鰕杯《かはい》」とて、鰕の殼で盃《さかづき》を作り、其鬚を、簪の柄《え》にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆれど、其眼を玩具にすることを、聞かぬ。歐州に至ては、海老上﨟は有たが、日本のと大《おほい》に差《ちが》ふ。彼方《あちら》の鰕(ロブスター)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。以下の二箇所も同じ。]の胃は頭の内に在《あつ》て、其胃中に、人や獸の臼齒《きうし》の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體《てい》にみえるから、英國で「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」又は、「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」と名《なづ》けた。今は知《しつ》た人、少ないから、去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』に、「海老上﨟」なる語を載《のせ》た書、二種を擧《あげ》て、「何事か。」と問ふた人が有た。ベンスリー氏、答へに、「牛津(オクスフォード)英語大辭典」[やぶちゃん注:読みは「選集」に従った。]に、一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」に、「レヂー・イン・ゼ・ロブスター」なる語有るを、最も古い例としあれど、實は、其より、五十年古く、ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」に、『彼《あの》男が、一番、多く祈って、日夜、燒香するのは、『海老上﨟』だ。」とあり、舊敎徒が、基督の母マリアを「吾人《われら》の上﨟(アワー・レジー)」と呼ぶ故、此鰕の三つの臼齒の正中の奴を、「聖母」と見立てたらし、と有た。然るに、質問者が引《ひい》たは、一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」で、是が、一番、古い。熊楠は、十八世紀の末、ヘルブストが出した「海老上﨟の圖」を、一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」で見出《みいだ》し、古い記文丈《だけ》では、實形が分らない、須《すべか》らく、此圖第五圖を見よと告げ遣《やつ》たが、沒書と成た。英國に、近來、斯樣の穿鑿、大《おほい》に衰へ、日本人に先を超《こさ》れたを、不快での事らしく、大戰爭以來、彼《かの》國人の氣宇《きう》[やぶちゃん注:度量。]、頓《とみ》に狹く成た例は、外にも多々ある。日本人は銳意精勵して、西洋人に西洋の事を指數《さしず》してやらにや成《なら》ぬ。是は、怠らず、又、氣長くやらねば、遂げられぬ。

  花 待 つ と 腰 を 掛 け た か 海 老 上 﨟

[やぶちゃん注:『支那で「鰕杯」とて、鰕の殼で盃を作り、其鬚を、簪の柄にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆ』「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の四百四十四巻の「鱗介部」の「蝦一」の[449-26b]の影印本を見られたい。そこに(句読点・記号は私が附した)、

   *

「嶺表錄異」曰、『海蝦、皮殻、嫩、紅色。腦殻、與前脚有鉗者、色、如朱。土人、多製為盃、謂之「蝦杯」。亦有以其鬚為簮杖者。

   *

「簮」とあるのは、「簪」で大型の海老の触角をそれにするのは、腑に落ちる。因みに、エビ類の、ここで上﨟の首になるところの眼と眼柄であるが、彼らの視力は、それほど良くなく、感覚器としては、直ぐ直近にある触角の方が感覚器として遙かに有能性を持つ。従って、襲われるなどして、例えば、片方を眼柄ごと、欠損した場合、彼らは、そこに触角を再生させる。伏木高校時代の「生物Ⅱ」(私は全くの好みから「Ⅱ」を受講した)で、高橋先生より教えられ、参考書の図も見たが、後年、二十代の頃、行きつけの寿司屋の奈良兄さんが、三本触角の伊勢海老を見つけて呉れ、感動した。無論、すっかり私の腹中へと消えて行った。

「日本のと大に差ふ。彼方の鰕(ロブスター)の胃は頭の内に在て」誤り。ロブスター(英語:Lobster)は、狭義には十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ(ネフロプス)科Nephropidaeロブスター属 Homarus に属するが、彼らに限らず、エビ類の内臓(心臓・胃・肝臓)は総て、我々が「頭」と呼んでいる頭甲の頭腹部内にある。

「其胃中に、人や獸の臼齒の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體にみえる」これはザリガニ類に見られる「胃石」のことであろう。ザリガニの胃の中にある胃石の古称。胃石は石灰質で、食物を砕く働きをするものであるが(なお、熊楠は三個と言っているが、半球二個が合わさった一対。熊楠の謂いは、その合したものを中央襞部分が損壊されて三分割となったものを言っているものと思われる)、本邦の蘭方書では、「蜊蛄石(ざりがにいし)」又は「オクリカンキリ」(ラテン語:oculi cancri。但し、元来は「カニの眼」の意である)と呼称され、世界的にも眼病や肺病などの民間療法の薬として使われていた。この胃石は吸収しやすい形の非結晶ACCAmorphous Calcium Carbonate)でカルシウムを含むほか、様々な栄養素や免疫成分が凝縮されており、実際に薬効があった。サイト「ザリガニ.COM」内の「驚異のパワー! ザリガニの胃石オクリカンキリ」(画像有り)を見られたい。

「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」“lady in the chair”。

「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」“lady in the lobster”。

「去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』」残念ながら、「Internet archive」では、この年の‘Notes and queries’ ( v.146 1924 Jan-Jun.)は視認出来ない。

『一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」』「ガリヴァー旅行記」(‘Gulliver's Travels’)で知られるアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)の‘The Battle of the Books’(「書物戦争」。一六九七年 執筆で一七〇四年出版)。

『ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」』不詳。

「アワー・レジー」“Our lady”。

『一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」』不詳。

「ヘルブスト」ドイツの動物学者クルト・ヘルプスト(Curt Herbst 一八六六年~一九四六年)か。ハイデルベルク大学教授で、一八九二年に海水にリチウムを加えて、その中でウニ卵に発生を行わせると、植物極側の部分が著しく発達するのを発見し、外界からの作用によって発生に変化の生じることを示し、実験発生学に重要な資料を提供、また、海水からその成分の一つであるカルシウムを取除いて、その中にウニの胚を浸すと、胚が個々の細胞にまで分解することを見出した。この方法で胚を分解することは,発生学の実験技術として今日も広く行われている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」』イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:『チャレンジャー』号の探検航海で得られた甲殻類の研究で知られ、また牧師でありながら、進化論を擁護(自らダーウィンの弟子と称して憚らなかった)したことでも有名である。当該ウィキによれば、『進化論に関してダーウィンに反対する記事を分析する多くの論文を書いた。彼の行動は、宗教的な説教を行うことを禁じられることになった』とあった)の‘A History of Crustacea: Recent Malacostraca’ (甲殻類の歴史:現生軟甲綱)。]

追 記 本文中、粟島の神を女として、女童が、紙雛等を奉る由を、「骨董集」より引たが、土佐少掾正本「對面曾我」三に、『さても、ひいなの始りは、淡島の御神、住吉の明神に名殘を惜《をし》み、み形ちを、紙にて作り、御側《おそば》にならべおき給ひしより、をうなの、これを、翫ぶは、男を慕ふ習ひとや。」。作り物乍ら、そんな俗傳が有たのだ。淡島の神、もと、住吉の神に嫁《か》せしが、三熱の病ひ有《あり》て逐《お》ひ出されたといふ話、「滑稽雜談」卷五に出づ。

[やぶちゃん注:「對面曾我」歌舞伎狂言「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)の古浄瑠璃か。

「三熱」本来は仏語。竜・蛇などが受けるという三つの苦悩で、熱風・熱砂に身を焼かれること、悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること、彼らの天敵である金翅鳥(こんじちょう)に食われること。「三患」とも言う。淡島神の由来は複数あるが、海に関わるものが有意にあり、龍神との親和性が認められるので、神仏習合期の説として納得出来る。

『「滑稽雜談」卷五に出づ』同書は俳諧歳時記。四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。写本二十四巻。四季の時令・行事・名物等を月の順に配列して二千二百八十六項目を収録。説明は、類書中、最も詳密で、広く和漢の書を典拠とし、著者の見聞を加えて考証している。著者は京都円山正阿弥の住職で,宮川松堅(しょうけん)の門下(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部が視認出来る。]

2023/05/24

佐々木喜善「聽耳草紙」 八六番 兎の仇討

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。長い。「仇討」は私は「かたきうち」と訓じておく。]

 

      八六番 兎 の 仇 討

 

 爺樣と婆樣があつた。爺樣が畑へ行つて豆の種を下《おろ》しながら、

   一粒蒔けば千粒ウ

   二粒蒔けば二千粒ウ

 と唄つて蒔いてゐると、狸が出て來て木の切株に腰をかけてそれを見て居ながら、

   一粒蒔けア一粒よ

   二粒蒔けア二粒さ

   北風吹いて元(モト)消(ケ)ベア

 とひやかした。爺樣はゴセを燒いて[やぶちゃん注:怒って。]、この野郞と追(ボ)ウと、狸はサツサと山さ逃げて行つた。その次ぎの日も狸が來て爺樣の豆蒔きをひやかして、追はれればサツサと山さ逃げて行く。そこで三日目には爺樣は狸がいつも來て腰かける木の切株に黐(モチ)を塗つておいて、知らん顏をして、いつもの通り、

   ハア一粒蒔けば千粒ウ

   二粒蒔いたら二千粒ウ

 と唄ひながら種子《たね》を蒔いてゐた。するとまた狸が出て來て、その木の切株に腰をかけて、うそうそ笑ひをしながら、[やぶちゃん注:「うそうそ笑ひ」「間の抜けた笑い」の意であろう。]

   ハア一粒蒔けば一粒よ

   二粒蒔いたら二粒さ

   北風ア吹いて元なしだア

 とひやかし初めた。それでも爺樣は取合はないで、

   三粒蒔けば三千粒ウ

   五粒蒔いたら五萬だツ

 と叫んで、繩を持つて押走《おつぱし》つて行つた。狸は素早く逃げようとしたが、黐がくツついて放れないで立つことが出來なかつた。それを爺樣は繩でぐるぐる卷きにして家へ下げて來た。そして土間(ニワ)の戶ノ口さ吊しておいて町へ用たしに行つた。

 婆樣はホラマエ(入口の土間)で粉を臼でスツトン、カツトンと搗いて居た。すると吊されてゐた狸が悲(カナ)しさうな聲を出して、婆樣々々、おれも搗いてすけるから、この繩を解いてケてがんせ[やぶちゃん注:底本は「がせん」。「ちくま文庫」版で訂した。]と賴んだ。爺樣にクラレル(叱られる)から厭(ヤ)んたんすと婆樣が言つても、いいから搗いてすけツから解いてケてがんせとせがんだ。あんまりうるさく賴むので、婆樣もとうとう我(ガ)を折つて繩をといてやつた。そして狸と二人で粉を搗いた。すると狸が婆樣々々俺が搗くから、婆樣は手合(テアワ[やぶちゃん注:ママ。])しをしてがんせと言つた。婆樣もだいぶ搗き疲れたものだから、そんだらと言つて、手合しをすると、狸は婆樣々々もツと臼の中を搔𢌞(カンマ)し申《まう》さい。まツと[やぶちゃん注:「もっと」の意であろう。]臼の中を搔𢌞し申さいと言つて、臼の中に婆樣の頭が屈(コゴ)み入つた時、狸はドエラ(いきなり)と杵《きね》を婆樣の頭の上に落して、婆樣を搗き殺してしまつた。そして婆樣の皮を剝いでかぶつて婆樣に化けて、婆樣をば細々《さいさい》に[やぶちゃん注:細(こま)かに。]切つてお汁にして食つて居た。

 爺樣が町から歸つて、婆樣今來たぢエ、狸はまだ生きて居《を》るかと訊くと、婆樣に化けた狸は、爺樣が歸らねエうちに杵で搗殺《つきころ》してお汁(ツケ)に煮て置いたから、早く入つて食(ア)がンもさいと言つて、すすめた。爺樣はそれを狸汁だと思つて食ひながら、何だか味が怪(オカ)しいので小頸《こくび》を傾(カタ)げ傾(カタ)げした。狸は爺樣々々あれア味(アナゴ)のええ狸だベアと言つて、爺樣が食ひ上げたところを見すまして、バエラ婆樣の皮を脫いで狸になつて、裏口から逃げて行きながら囃《はや》し立てた。

   婆々食つた爺々やい

   奧齒さ婆アンゴをはさんでろツ

[やぶちゃん注:「婆アンゴ」意味不明。「婆」を搗き込んだ「あんこ」(餡ころ餅(あんころもち))、或いは「団子」(ダンゴ)の意か。ただ、通常の「かちかち山」では、当該ウィキを見られたいが、この部分の狸の罵りは、一般に「婆汁、食べた! 婆汁、食べた! 流しの下の、骨を見ろ!」であるから、「アンゴ」はもしかすると、「顎(あご)」で、「奥歯に、婆の顎の骨を、挟んでるがいい!」という意かも知れないとも思った。]

 爺樣は始めて、婆樣が狸に殺されたのを知つておいおいと泣いて居た。そこへ兎が、爺樣なにして泣いて居ると言つて來た。誰だと思つたら兎どんだか、兎どん兎どんよく聽いてケ申(モ)せ、婆樣が狸に殺されたから俺はかうして泣いて居ると言ふと、兎は爺樣にひどく同情して、爺樣々々そんだら團子《だんご》をこしらへてケもされ、俺が行つて婆樣の仇《かたき》を取つて來てケるからと言つた。爺樣もさう言はれてやつと元氣がついて、そんだら賴むと言つて、團子をこしらへて兎に婆樣の仇討ちを賴んだ。

 兎は萱山《かややま》へ行つてやくと(故意(ワザ)と、或は冗談に)萱を苅る眞似をして居ると、そこヘ狸が來て、兎もらひ[やぶちゃん注:「朋輩」の意。親称。]が何してると聲をかけた。誰(ダン)だと思つたら狸もらひか、何所《どこ》サ行くと訊くと、なアに何所さも行かねアが、この下の爺の家の婆樣を食つて腹くちエから、斯《か》うしてぶらぶらと遊んで步いて居る。兎もらひが萱苅りだら俺もすけるからと言つて、萱苅りをしてすけた。そして夕方萱を負(シヨ)つて家へ歸る途中で、狸もらひ狸もらひ、そつちは足が早いから先へ立てと言つて、狸を前に立てゝ置いて、兎はカツチラ、カツチラと火打石を打つた。すると狸がその音を聽きとがめて、兎もらひあの音は何(ナン)だと訊いた。なアに此所の山にはカチカチ鳥コがいるから、あゝ鳴いて居るべたらと兎が答へると、狸はハアと言つて步いて居た。そのうちに兎は狸の負つた萱に火をつけて、プウプウと火を吹いた。するとまた狸がその音を聽きとがめて、兎もらひあの音は何(ナン)だと訊くと、なアに此所はプウプウ鳥がいる所だから、それであゝ鳴いているべたらと言ふと、ハアと言つて狸は步いて居た。さうしてゐるうちに狸の負つた萱に火が點(ツ)いてボガボガと燃え上つた。あツ熱ツ熱ツ、兎もらひ早く火を消してケろと言つて狸は飛び跳ね飛び跳ね步いた。その時には兎はいツちに(疾《とつ》くに)其所に居なくなつて居た。

 次ぎの日、兎が樺皮山《かばかはやま》へ行つて居ると、狸が來た。そして兎もらひ兎もらひ、汝(ソツチ)ア昨日萱山《かややま》で俺をひでエ目に遭はせたなア。俺アこれアこんなに背中を燒傷(ヤイ)たがと言つて恨《うら》んだ。すると兎は、狸もらひ狸もらひ、そんなことを言ふもんぢやねエ。それは萱山の兎だべたら、俺ア樺皮山の兎だもの、そんなことは知らない。それよりも[やぶちゃん注:底本は「そよりも」。「ちくま文庫」版を採った。]狸もらひは何所《どこ》を燒いた、どれ俺に見せろと言ふと、狸は痛がつて背中から尻の方までの燒傷《やけど》を見せると、これくれエの傷なんでもねアぢや。俺が直してやるから待つて居ろと言つて、樺皮を剝いで、狸の尻にしつかりと縫着《ぬひつ》けてやつた。そして斯うして置けば直ぐなほるからと言つた。狸は喜んでほんとに治るかと思つて居るうちに糞が出たくなつて、出たくなつて、サアことで、あつちの木の株へ行つてこすり、こつちの石角《いしかど》に來てこすつても、なかなか樺皮は脫(ト)れず、そのうちにモグしてしまつたりして[やぶちゃん注:「もぐす」は「漏らす」の岩手の方言。「糞を」である。]、靑くなつて、篠竹山《しのだけやま》へ來て空吹(ソラフ)いて居た(上の方を見ていた)。

 其所へ兎が來て、ざいざい[やぶちゃん注:「あらあら」の意か。]狸もらい[やぶちゃん注:ママ。]でアねアか、そこで何して居ると訊いた。何して居べさ、俺アお前に樺皮を尻さ縫着けられて、こんなに困つて居るでアと言ふと、ぢえツ、汝(ソツチ)はなに言ふ、それは樺皮山の兎だべだら、俺ア篠竹山の兎だ。そんなことア少しも知らねえ。ただその樺皮は篠竹で打つて打つて破らねエとお前が困《こま》ンベから、俺がその皮を取つてケると言うと狸も困つて居る矢先きだから、ほんにさうしてケろと賴んだ。そこで兎は篠竹を十本ばかり束ねて、それで狸の尻を、スツケタモツケタ、カンモゲタツと言ひながら、うんとうんと撲《ぶ》つた。すると狸の尻の樺皮も脫(ト)れたが火傷した肉も打《ぶ》ツ切れて、あゝ痛いツ、あゝ痛いツと言つて泣いた。それを見て兎は、はアこれ位でえンだと言つて、痛がつて轉び𢌞つて居る狸を其所に置き放しにして何所へか行つてしまつた。

(その次の日に兎は楢ノ木山《ならのきやま》へ行つて、木を伐つて居た。そこへ狸が來て、兎は楢ノ木船《ならのきぶね》を、狸は土船《つちぶね》を作り、共に漁に行き、例の楢ノ木船がツかり、土船あごつくりと言つて、船を叩いて、狸は水中に落ちて溺死をし、兎は首尾能《よ》く、婆樣の仇を討つたと謂ふ筋は、一般のカチカチ山の話と同じであるから畧す。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、ご覧の通り、本文と同ポイントで、字下げもない。]

「近代百物語」 巻三の二「磨ぬいた鏡屋が引導」

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

   (とぎ)ぬいた鏡(かゞみ)屋が引導(いんだう)

 「女に、五障(しやう)の罪、あり。」

と、いふも、みな、「愚痴」より、おこる事ぞかし。

[やぶちゃん注:「女に、五障の罪、あり」ウィキの「五障」によれば、釈迦の『入滅後、かなり後代になって、一部の仏教宗派に取り入れられた』女性差別の『考え』方『で、女性が持つとされた五つの障害』、『「女人五障」ともいう。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない、という説である』が、『釈迦の言葉ではなく、仏教本来の思想ではない。ヒンドゥー教の影響から出てきた考え方とされる』とある。所謂、どんなに優れた仏徳を以ってしても、女性は、一度、男性に生まれ変わらなければ、極楽往生は出来ないとする「変生男子」(へんじょうなんし)説と同類である。]

 今はむかし、上總の國、八尾(やお[やぶちゃん注:ママ。])村といふ所に、「たんばや吉助」と[やぶちゃん注:ルビがない。「きちすけ」と訓じておく。]て、「割(きざみ)たばこ」を賣りて、世をおくり、家業、すこしもおこたりなく、朝、とく、出でて、近へんを、賣りまはり、朝飯(あさはん)、しまへば、割たばこ・油・もとゆひ紙・墨・筆など、一荷にして、昼食(ちうじき)を藤藍(こり)[やぶちゃん注:藤蔓で編んだ行李(こうり)。]に入れ、町々近鄕、賣りありく。

 女房「おせん」は、夫の留守、「みせあきなひ」と、たばこの葉どり、吉助は、晚に及び、宿にかへりて、洗足(せんそく)し、夕飯を、くふやいなや、又、切ばん[やぶちゃん注:刻み煙草を作るための作業台であろう。]に、おしなをり[やぶちゃん注:ママ。]、夜半のころ、箱に入れ置き、いかなる風雨(ふうう)・雪の日も、すこしも、あしを、やすめばこそ、元日ばかり、年中のたのしみに、しけるにぞ。

 衣類・諸道具、相應に、夫婦のあいだ、むつまじく、世を、おもしろく、わたりける。

 或とき、夫婦、酒宴に、たがひに、ほろゑひ、世間ばなし。

 吉助、おせんにいひけるは、

「其ほうと、斯(かく)夫婦になり、十年あまりをおくる中(うち)に、男子、一人、ありけれども、驚風(きやうふう)にて、むなしくなる。其のち、九年に、およべども、今に出生(しゆつしやう)あらざれば、もはや、此のち、子は、あるまじ。人の生死は、はかられず、我ら、さきだつ事あらば、そなたの、㐧(おとゝ)平七を、養子として、これにたより、一生を、おくるべし。」[やぶちゃん注:「驚風」漢方で小児の「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇の一つの型や、髄膜炎の類いとされる。]

と、いと、ねんごろにかたりしかば、おせんも、

「莞爾(につこ)」

と、打ちわらひ、

「つねづね、無病の御身なれば、なんぞ、さきだち給ふべき。我が身は、平日(つね)に肝積(かんしやく)あれば、いつぞは不慮に死に申さん。さあるときには、一つのねがひ、お叶へなされ下されかし。心がゝりは、これぞ。」[やぶちゃん注:「肝積」「続百物語怪談集成」では『癇癪』とある。肝臓にいる虫が悪さををして、ヒステリーを起こすと考えられた症状を指す。]

とて、しみじみと、たのみければ、吉助も、ともに笑ひ、

「ねがひとは、いかなる望み、身に應じたる事ならば、心のごとく、おこなふべし。去りながら、養生して、ずいぶん、無病になり給へ。さるほどに、望みとは、何等(なんら)の事ぞ。」

と尋づぬれば、おせん、よろこぶ色、見へて、傍(そば)に、さしより、小聲になり、

「我が身のねがひの、しなじなを申すも、なかなか、恥かしけれど、申さぬも、また、まよひなれば、つゝまず、あかし申すなり。いかなる過去の宿業(しゆくがう[やぶちゃん注:ママ。])にや、生得(しやうとく)として、悋氣(りんき)ふかく、死して、其まゝ引わけられ、野邊のけふりとなりなん事、此とし月の、なげきぞかし。何とぞ、七日、此家(や)にとゞめ、衣裳をも、あらためて、紅粉(べに)・白粉(おしろい)を粧(よそを[やぶちゃん注:ママ。])はせ、『おせんよ、妻よ、』と、いふて、たべ。」[やぶちゃん注:「悋氣」嫉妬心。]

と、なみだと惧(とも)に、たのみければ、吉助も、なみだぐみ、

「何事かとおもひしに、はなはだ、やすき望み事。しかし、さやうの心の出づるも、ひとへに積(しやく)のわざなるべし。とかく、心の養生、しや。」

と、いひなぐさめて、臥しけるが、其としの秋もたち、十月の中旬より、おせん、顏色、平日(つね)にかはり、次㐧(しだい)次㐧に、大病の、霜月すへには、必死の躰(てい)、たのみすくなく見へけるが、ある夜、夫を、ちかく、まねき、

「我が身、今般の、びやう氣の、おもむき、快氣は、なかなか、おもひもよらず、死も、はや、ちかしと覚ゆれば、かねて申しかはせしごとく、おたのみ申す。」

と、さゝやけば、吉助は、

「痛はし、痛はし、心、やすかれ。望みのとをり[やぶちゃん注:ママ。]、とりおこなひ申すべし。臨終を、正ねんに。」

と、いひ聞かすれば、うれしげに、咲面(ゑがほ)を、此世のおきみやげ、無常の風にさそはれゆけば、吉助、なみだ、せきあへず。

 いざ、葬らんと、おもへども、末期(まつご)までも、くれぐれと、賴みおきたる事なれば、新(あらた)なる衣裳を、きせかへ、紅粉・おしろいにて、面(かほ)を粧ひ、生(いけ)るがごとく、壁によせかけ、香花(かうげ)をそなへおきけるが、二日目の初夜どき[やぶちゃん注:戌の刻。現在の午後八時頃。宵の口。]より、誰(たが)いふとなく、亡者(もうじや)の居間(いま[やぶちゃん注:ママ。])より、

「吉助殿、そこにか、」

と、おせんが聲して、よびかくる。

 吉助、

「たれじや。」

と、行きけるが、人音とても、あらざれば、

「これは。不審。」

と、あたりを見れば、亡者にも、別條なく、肌(はだへ)は、ひへて、ありながら、顏色すこしもかはらねば、吉助も、身の毛だち、

「ぞつ」

とは、すれど、みせへ出で、たばこ切らんとする所に、また、

「吉助殿、そこにか、」

と、一度こそあれ、二度こそあれ、三度におよべば、そこ氣味あしく、後々(のちのち)は、

「吉助殿、そこにか、」

といふ每(ごと)に、

「いかにも。爰に。」

と、こたふるばかり。

 傍(そば)へは、ゆかねど、夜昼(よるひる)のわかち、なければ、心氣も、つかれ、

『かくては、また、我が一命(めい)、亡者のために、うしなふべし、兎(と)はいへ、七日にたらざるに、葬送などをするならば、かく、おそろしき心から、たちまち、鬼(おに)とも、虵(じや)ともなり、我を、引きさき、くらはんは、鏡にかけて、見るごとく、何(なに)とぞして、此難を遁(のが)れん。』

とは、おもへども、すべき手だてもなき所に、五日目の晝まへに、「鏡とぎ」の、とをり[やぶちゃん注:ママ。]しを、

「これ、さいわひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、よび入れて、「おせん」がかゞみ、二、三めん、

「磨ぎ給はれ。」

と、取り出だし、賃銀も相應に、やくそく、きわめ、茶・たばこ、出(いだ)し、

「扨(さて)、わたくしは、此たばこ、うら町へ、もちゆくあいだ、しばしのうち、鏡屋殿、留守を、おたのみ申すべし。且つ、また、女房、二、三日、大ねつにて、奧の間に、うちふし居(い[やぶちゃん注:ママ。])申し、時々に、『吉助殿、そこにか、』と、たづねる事の候べし。其時は、御世話ながら、『爰(こゝ)に。』と、おこたへ下さるベし。」

と、たのみおきて、吉助は、矢を射るごとく、出でさりけり。

 

Kagamitoginodan

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

女のたま

しひに

鏡(かゞみ)は

たとへし

 物なり

また常(つね)

 常[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

手(て)なれ

 し物ななれ

一念(ねん)を

  も

 是に

  当るべく   おぼゆ

《「鏡磨ぎ」の台詞。まず、下方中央。》

はてせわし

 なひ[やぶちゃん注:ママ。]

  まひり

   ます

  まひります[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

《「鏡磨ぎ」の台詞。中央左。彼の右手脇。》

五十か八十する

     する[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

 さていそかしい

   *

柱に角形の的型の店看板のようなものがあり、そこの「新田」とある。しかし、吉助の屋号は「たんばや」で不審。商標か。また、最後の「鏡磨ぎ」の「五十か……」以下の台詞は「続百物語怪談集成」にはない。この部分、他のキャプションに比して、墨色が薄く、書き方が如何にも素人による無理なせせこましい書き方(踊り字「〱」と判じた箇所)なので、或いは、小泉八雲の蔵本になる前の、旧蔵者の家人が落書した可能性がある。]

 

 鏡屋は、わき目もふらず、一心ふらんに、磨ぎける所に、おくより、女の聲として、

「吉助殿、そこにか、」

と、尋(たづ)ぬれば、鏡屋も、おなじく、こたふ。

 それより、たんたん[やぶちゃん注:ママ。]、せわしくなれば、「かゞみとぎ」も、はらを、たて、

「最ぜんより、爰に。」

と、いふに、

「あた、やかましい。」

と呵(しか)るにぞ、女、いかりの聲を出し、

「ねたましの我が夫や、はや、其ごとく、あき給ふか。『生きかはり、死にかはり、万劫までも、はなれじ。』と、心にこめし、かひもなく、いとしさ、かへりて、恨みのもとひ、ともに、冥途に、いざなひ、ゆかん。」

と、よろめき出づれば、かゞみ屋、おどろき、

「何ものやらん。」

と見かへれば、コハいかに、色、あをざめ、眼眥(まなじり)さがりに、みだれ髮、くちびるの色、くれなゐに、

「遁(のが)さじもの。」

と、齒がみを、なし、一もんじに、とびかゝれば、

「命あつての、かゞみとぎ。」

 

Doujyoujiinsupaia

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

昔(むかし)こそ

 道成寺(とうせうじ[やぶちゃん注:ママ。]

    の

   事

世(よ)に人(ひと)の

 知(し)れる

    所也

 

      女の一念(いちねん)

       こそ

     おそろ

    しき

     物

      なれ

《鏡磨ぎの台詞。中段上。》

のふおそろ

 しやおそろしや[やぶちゃん注:後半は踊り字「〱」。]

《女の亡者の台詞。最下段。》

いづく

 まて[やぶちゃん注:ママ。]

  も

   ゆるし

     は

    せぬ

   *

本図を見る以前から、本文の後半の修羅は謡曲「道成寺」のインスパイアであることは明らかであった。]

 

と、其まゝおもてへ、はしり出で、ふだん、信ずる光みやう眞言、くりかけ、くりかけ、あしに、まかせて、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]、にげ行きて、ふりかへれば、はじめにまさる、其いきほひ、むかふには、大河(だいが)あり、おりふし、雪どけ水、かさ、まさりて、のがれんやうは、なけれども、

「もしも、天のたすけも、あらん。」

と、彼(かの)谷川(たにかは)に、

「ざんぶ」

と、飛びこみ、むかひのきしに、這(はい[やぶちゃん注:ママ。])あがれば、女も、川のなかばまで、追(おつ)かけしが、大おん、あげ、

「『なんぢを、生けては、おくまじ。』と、あとをしたふて、來たりしが、唱ふる『しんごん』の功力(くりき)にて、おもはず、今、成佛せり。これまでなり。」

と、いひ捨て、惡ねん、されば、死かばねは、水にしたがひ、ながれゆく。

 所の人々、あつまりて、

「前代未聞の珍事。」

とて、死かばねを、ひきあげさせ、しよほう[やぶちゃん注:ママ。]に、手わけし、吉助を、たづねまわれ[やぶちゃん注:ママ。]ど、ゆきがたしれず。

 すぐに、他國へ、ゆきたりけん、見し人とても、あらざれば、村中(むらぢう)として、葬送し、跡、ねんごろに吊(とふら)ひし。

[やぶちゃん注:吉助失踪というのは、私には拍子抜けの憾みがあった。]

2023/05/23

只野真葛 むかしばなし (65) /「むかしばなし 五」~始動

[やぶちゃん注:只野眞葛の「むかしばなし 五」の電子化注に入る。彼女については、私の「只野眞葛 いそづたひ」のブログ版、或いは、同縦書ルビ附PDF版の私の冒頭注、及びウィキの「只野真葛」を参照されたい(長男早逝の脱落以外はよく書けている)。

 本書は所持する現在の最新の校合テクスト(但し、新字体)である一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の東北大学附属図書館医科分館蔵底本ものを用いたが、恣意的に漢字を概ね正字化し、読み易さを考え、句読点や記号を補い、適宜、段落・改行を成形した。また、殆ど読みがないので、底本の読みは《 》示し、甚だ難読或いは誤読し易しと判断した部分は、私が( )で読みを添えた踊り字「〱」は正字化した。【 】は原本の傍注・頭注・割注である(その違いはそこで示した)。ストイックに注を附した(纏めて段落の後に附したものの後は一行空けた)。標題などはないので、通し番号でソリッドな部分と判断した箇所で切って分割して示す。なお、疑問の箇所は、所持する底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の中山栄子氏校訂(正字版)と校合した(正字正仮名のこちらを底本としなかったのは、本篇には漢字の使用が少ないこと、大形本であるため、OCR読み込みに少し面倒であったからに過ぎない。また、個人サイト「伝承之蔵」で画像化されている「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)の「昔ばなし」(正字正仮名。底本明記がないが、底本と同一(以下に示した)と鈴木氏は推定されておられる)も参考にした。

 底本解説によれば、底本の親本は文化九(一八一二)年序で、文政二(一八一九)年筆写になる六巻三冊本の佐々城直知編「朴庵叢書」所収で東北大学附属図書館医科分館所蔵のものが使用されている。なお、標題は冒頭で「昔ばなし」と出るが、底本の総表題に従った。

 同じ鈴木氏の解説に従うと、本篇の執筆は真葛(本名あや子)が『仙台へ移ってから』(寛政九(一七九七)年あや子三十五歳の時に仙台藩上級家臣只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称、只野伊賀)と再婚することとなったが、その頃、行義の江戸定詰が終わっていた)『十四年後の文化八年辛未』(かのとひつじ)『(一八一一)、四十九歳の冬から書き始められ、翌年春』に『完成した』とされ、『当時』は、仙台藩江戸詰の医師であった父平助も、父が工藤家の将来を託した弟源四郎も亡くなっており、『工藤家は母方桑原』(くわはら)『家のいとこが養子になって相続していた』。当初の『執筆の動機は、母の思い出を妹のために書き残すためであった』『が、しだいに父の実家長井家や養家工藤家の先祖のこと、また工藤家と桑原家の紛争や、その原因として〆(しめ)という』『母方の』『叔父の乳母の怨念が書かれるようにな』り、『そして自分自身の江戸での思い出や聞き書き、さらに巻五・六で奥州での聞き書きも加わり、膨大な内容になっていく。そのうち』の『奥州での聞き書きは、後年『奥州ばなし』に発展する。なお、どうしたわけか系譜と相違し、母方祖父が孤児であったという話を書いている』とある。ここに出る実録怪奇談集「奥州ばなし」はこの前に本カテゴリ「只野真葛」で既に電子化注を終えている。]

 

昔ばなし 五

 

 貞山樣と申せし殿樣、京にて、よき「うづら」有(あり)しを、鳥屋(とりや)によらせられて、

「いかほど成(なる)。」

と、とわせ[やぶちゃん注:ママ。]られしに、鳥屋の男、

『是ぞ、高直(かうぢき)に申(まうす)べき時。』

とや思ひつらん、

「百兩なり。」

と、莫大の直(ぢき)、申上(まふしあげ)たりしを、聞(きか)せられて、

  立(たち)よりて

    きけばうづらの

   音(ね)はたかし

     さてもよくには

        ふけるものかな

と被ㇾ仰しを、きゝて、おほきに恥ぢまどひて、あたひ、なしに、奉りしとぞ。

[やぶちゃん注:和歌は二字下げベタだが、分ち書きとした。以下も同じ。

「貞山樣」かの仙台藩初代藩主伊達政宗の諡(おくりな)。]

一、此御家に富塚半兵衞といふ人、有り。親は歌人にて、おほく、よみたりしを、子なる半兵衞は、常には、よまねど、花の折(をり)、月見の夜など、題を賜われば、かたわならず、よみて出(いだ)せしを、人每(ひとごと)に、

「親の多くよみたるを見いでゝ、出すならん。」

と云(いひ)あへりし、とぞ。

 ある秋十五日、例の如く、よみて奉(たてまつり)しを、そこなる人の中よりいふ、

「そなたのいださるゝ歌は、今、考たるには、あらじ。親のよみ置(おき)しふる哥なるべし。」

と、いひしを、取あへず、其人の袖をひかへて、

  かゝる時

     おもゑぞいづる

    大江山

   ゆくのゝ道の

       とほきむかしを

といひし故によめる哥なる事、人々の、うたがひ、晴しとぞ。

[やぶちゃん注:歌の第三句目「ゆくに」の右に「いイニ」と振ってある。意味不詳。表は「幾(い)く野の道」の「意に」の意か。「日本庶民生活史料集成」にはないが、「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)版には、ある。]

 此人、一代、「をどけもの」にて、打向ひば[やぶちゃん注:ママ。]、おのづから、人の笑(わらひ)をふくませし、となり。しかつべらしく、云い[やぶちゃん注:ママ。]だせし顏付、いかばかりか、おかしからまし。

 極(きはめ)て貧なりしが、

「居屋舖(ゐやしき)の、圍(かこみ)、あれたり。」

とて、事を司どる役人より、度々、

「つくろへ。」

と、いはれし事ありしに、其いひいるゝ人も、したしく來かよふ中(なか)なりしが、御用むき故、しばしば、ことはりしなり。

 或時、其人の、きたりて、酒などのみし時、

  我宿の

    くものすがきも

   あらがきも

     貧のふるまひ

         かねてしるしも

と、かきて、出(いだ)せし、とぞ。

[やぶちゃん注:「富塚半兵衞」確かに伊達仙台藩にこの名の家臣がいる。但し、歴代名乗っているので、どの人物かは、私には判らない。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八五番 狐の話(全二十話)

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。長い。]

 

      八五番 狐 の 話

 

       隱れ頭巾(其の一)

 

 或所に、俺はなんぼうしても狐などに騙されるもんではないと、いつもかつも自慢して居る爺樣があった。或日山へ行くと、小藪の蔭(カゲゴ)に一疋の狐が居て、なんだか手拭のやうな物を頭に被つて前を見たり背後(ウシロ)を撫でたりして居た。爺樣はあれアあの狐が何して居ると思って見て居ると、ひらりとひどく美しい姉樣になつて、路傍へちよちよこと出て來た。そして爺樣な爺樣な何處さ行きますと聲かけた。爺樣はなあにお前は狐だげが、今俺が見て居たがやいと心の中で可笑しくて、あゝ俺は山さ木伐《きこ》りに來たが、お前こそ何所さ行けや、そしてお前は何所の姉樣だか、一向今迄見かけたことのない人だと言つた。狐はおらは此山のトカイ(裏)の村屋《むらや》から來たもの、これから町さ行くますと言つた。爺樣は愈々可笑しくて、それでは早く町さ行つて來もせ、あゝだども可笑しいぞ、なんだべその尻尾がと、故意(ワザ)と言つた。すると狐は直ぐ降參して、あら爺樣に遭つてはとても叶はない。實はおらは狐だがよく爺樣はそれを見破つたなもすと言つた。そこで爺樣は日頃の自慢をし出して、何ヤ俺ア狐などに騙される爺樣でアないでアと言つた。狐はそれにひどく感心したふりして、そんだらはア爺樣に隱頭巾(カクレヅキン)と謂ふ物をケルから、おらと友達になつてケテがんせ、其代り爺樣の握飯をおらにケテがんせと言つた。爺樣はそれはどんな物(モン)だと言ふと、狐はこんな物シと言つて、古い手拭のやうな汚《きたな》い巾《きん》を頭に被つて見せて、爺樣しおれが見えながすぺと訊《き》いた。爺樣はよく見たが、さう言はれると本當に狐の姿が見えなくなつて居た。爺樣は成程これはよい物だと思つて、そんだらそれと言つて、持つて居た握飯を狐に遣り、狐からは其隱頭巾を貰つた。そしてこれはよいことをしたと思つて、喜んで家に歸つた。

 其翌日、爺樣は町へ行つて、頭からその隱頭巾をかぶつて、そろりそろりと步いて行つた。そしてそろツと小店《こみせ》へ近寄つて行つて、窃(ソツ)とベヂエモノ(菓子類のこと)に手を差伸《さしの》べて一摑み盜んだ。すると町の人達はひどく怒つて、これやどこの盜人爺々(ヂンゴ)だ。そんな汚い女の古腰卷《ふるこしまき》などをかぶりやがツて來て、いけ泥棒をこきやがつて居ると言つて、皆寄つて來て、慘々《さんざん》に棒や何かで撲(ナグ)りつけた。爺樣はひどい目にあつた。其上眞裸體(マツパダカ)にされて、血だらけになつて、おウいおウいと泣きながら家へ歸つたとさア、ドントハラヒ。

  (隱風呂敷《かくれふろしき》と言ふ物だと語つた
  とも謂ふ。)

 

     駈 け 馬(其の二)

 昔、遠野から氣仙《けせん》へ越えて行く赤羽根峠《あかばねとうげ》に、惡い狐が居て、往來の人でこれに化《ばか》されぬと謂ふ者はなかつた。それで道中の者がひどく難儀をした。それを聞いた遠野の侍、それは事なことだ。畜生獸《ちくしやうけだもの》の分際として、生きた人間を馬鹿にするぢことが惡(ワ)り。一つ俺が行つて其狐を退治してケると言つて、大刀《おおがたな》を腰にさして辨當の握飯を背負つて出かけて行つた。

[やぶちゃん注:「赤羽根峠」岩手県遠野市上郷町(かみごうちょう)平倉(ひらくら)と岩手県気仙郡住田町(すみたちょう)上有住(かみありす)の間にある峠。当該ウィキによれば、『赤羽根トンネルが開通するまでは、国道』三百四十『号が峠を通っていた』。『旧道は急勾配・急カーブ・幅員狭小であることから、大型車の通行規制は無いが』、『非常に困難である。特に住田町側は』、『町道に格下げ後』、『整備が行き届いておらず、路肩崩落が数箇所発生し』、『事実上』、『大型車は通行不能である。また、冬季間は積雪のため』、『全面通行不能である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。]

 件《くだん》の赤羽根峠にさしかゝつて、何か今出るか、今出るかと思つて、刀の柄に手をかけ、眼玉を武士らしく四方に配つて、悠々と落着いて步いて行つたが、ぴちりと風の音もせず。草葉一つも動かなかつた。さうして何事もなく遂々《たうとう》峠の頂上まで登つて行つた。侍思へらく、ははア狐だなんて、どんなに惡智惠があつてもエツチエ(よくよく)なもんだぢエなア。俺の威勢に怖れて今日は出ないんだなア。やつぱり畜生獸などに化される手合ひは商人百姓の輩《やから》なんだと、可笑しくて堪らぬから、手頃の石に腰をかけて、あははツ、あはははツと笑つた。さうして負(シヨ)つて來た握飯を下《おろ》して食ふべえと思つて、風呂敷をひろげて居た。すると峠の下の氣仙口《けせんぐち》の村屋の方で、何だか人の叫聲《さけびごゑ》が聞える。何事だと思つて握飯を食ふのを止めて眺めて見ると、一疋の馬が駈け出して、それを二三の人々が追(ボツ)かけて來た。それが段々と峠の方に上つて來た。

 侍はあれは百姓どもが難儀をすることだ。一つ俺が馬止めの法でもかけて、馬を止めて遣りたいと思つた。さう思つて居るうちに、その荒駒《あらごま》が目の前に駈け込んで來た。あまりにその態《なり》が荒らく、自分に押ツかぶさるやうに來るので、侍は思はずあツと言つて石から飛び上つて草原の中に逃げこんだ。

 そのはずみに手に持つて居た辨當の握飯が落ちてころころと道路へ轉げていつた。すると其荒駒がいきなり其握飯に喰らひつくと、急に小さくなつて握飯を喰《くは》へたまゝ向ふの方へ駈けて行つた。やつぱり狐であつた。そのお侍もまた化されてしまつた。

 (遠野で友人俵田浩氏から聽いた話。)

 

        羽澤のお菊(其の三)

 

 此狐は菊の花を咲かせて見せてバカスので有名であつた。それで誰言ふとなく羽澤(ハザ)のお菊といつた。

[やぶちゃん注:以上の末尾、底本は行末で句点なし。補った。

「羽澤(ハザ)」岩手県胆沢(いさわ)郡金ケ崎町(かねがさきちょう)西根北羽沢(にしねきたはざわ)附近と思われる。後の「其の五」の附記を参照されたい。]

 或時、勘太郞と云ふひどい慾深爺《よくぶかぢん》が、町へ行くべと思つて羽澤を通ると、狐が三四疋、日向ぼツこをして遊んでゐた。勘太爺はそれを見て、ざいざい[やぶちゃん注:「あらあら」の意か。]狐どもは遊んでゐたなア、どうも貴樣達はよく人を騙して食物《くひもの》などを取るフウだが、何か殘つてをれば、此爺にも御馳走しろと言つた。狐の所もただでは通らないつもりであつた。すると狐どもは、爺樣々々、恰度《ちやうど》ええところだつた、昨夜人を騙して取つた油揚《あぶらあげ》があるから、これを食(アガ)らえンと言つて、二三枚出して御馳走した。

 爺樣は狐の油揚を食つて、フヽン狐なんてあまいもんだ。畜生、獸《けもの》などに騙される奴などは人間でもよツぽどコケな奴だべと思つて町へ行き、そんなことをみんなに話して自慢した。そして家で使ふ油揚豆腐蒟蒻《こんにやく》などを買つて、夕方、またぞろ羽澤の野を通りかゝつた。すると何とも言はれない美しい菊の花が野原一面にズラリと咲き亂れてゐた。勘太爺は是はなんたら美しいこツたべと思つて小立《こだ》ちして[やぶちゃん注:ちょっと立ち止まって。]暫時(シバラク)見惚《みと/みほ》れて居たが、イヤイヤこれは只見て居ても藝が無《ね》え、採つて持つて行つて食つた方が利巧だと考へついて、荷物をそこに下《おろ》して置いて、一生懸命に菊を取りはじめた。なにしろあんまり花が一面なので、取つても取つてもどうしても取りきれないから、これは一旦家へ歸つて嫁子《よめ・ご》みんなを連れて來て採るべ、こんなええものを人にただ取られるのはネツカラ藝が無え、さア人に採られないうちに家の者をみな連れて來(ク)べと思つて、まづ取つた菊は負(シヨ)つて、がさがさと家へ走《は》せて行つた。そして、ぜぜ[やぶちゃん注:「ぢえぢえ」と同じで、「さあさあ!」という呼びかけであろう。]羽澤野の菊の花取りにみんな步(ア)べ。コレヤ俺アこんなに取つて來たと言つて背中を見せると、婆樣は怒つて、何ぬかしているンや爺(ヂン)つやん、汝(ニシ)が負《しよ》つて居る物は、みなカンナガラでアねンしかヤと言つた。爺樣はウンネこれア菊の花だと言つた。婆樣はなアに汝(ニシ)アお菊に騙されて來アした。一體全體その面(ツラ)つきつたらありエンと言つて爺樣の胸倉《むなぐら》をとつてこづき𢌞した。爺樣もさう言はれるとやつと羽澤野《はざの》に置いて來た食物《くひもの》の荷物のことが案(アン)じ出されて、コレアしまつたと思つた。それでも氣が變だつたので、婆樣は土間から木炭塊(スミコゴリ)と鹽(シホ)とを持つて來て。

   キジンカヘレ

   キジンカヘレ

 と三遍唱へて、それを振りまいて狐を追つた。すると狐はヂヤグエン、ヂンヤグエンと啼いて逃げた。

[やぶちゃん注:「カンナガラ」「鉋殻」。鉋屑(かんなくず)。鉋をかけたときに出る木屑。遠野にもある岩手に伝わる知られた「しし踊り」の頭部に印象的につける「髪(ザイ)」(鬣(たてがみ))を「かんながら」と呼ぶ。

「キジン」「鬼神」か。]

 

        死 人 の 番(其の四)

 或時、三太郞と謂ふ道化者(ドウケモン)が町へ行く途中で、狐が二三疋日向ぼつこして居るのを見た。これは一つ魂消《たまげ》らしてやるべと思つて、コソコソ行つて不意に、ダアツと叫ぶと、狐どもはほんとに魂消て一丈ばかり飛び上つた。そして後を見々《みいみい》、尾の先端を太くして山の方に逃げて行つた。三太は大喜びで、サテサテ狐は千日前の事も悟ると聞いて居たがカラボガだ。今々《きんきん》のことも悟れない、矢張《やつぱ》り畜生だなアと笑つて其所を立ち去つた。そして町へ行つても其事をうんと吹聽《ふいちやう》して自分も笑ひ人も笑はせた。そしてその夕方魚《さかな》を買つて家路についた。

 ところが急に日が暮れて、あたりが眞暗になつたので、一足《ひとあし》も步かれなかつたが、向ふを見ると幸ひ燈のアカリコがあるから、其所へ訪ねて行つて宿をとつて泊めて貰つた。其家には一人の白髮だらけの婆樣が居たが、サテサテお客樣、おれは一寸隣家(トナリ)まで參つて來るからお留守をお賴み申すと言つて出て行つた。三太は何だかイケないと思つて、早く婆樣が歸つて來ればよいなアと思つて待つて居てもなかなか歸つて來なかつた。そのうちに爐《ひぼと》にくべる焚木《たきぎ》も無くなつたので、段々と火も消えさうになつた。薪《まき》でもないかなアと思つてそこらを探すと、今迄氣がつかなかつたが、向ふの隅の方に薄白いものが見えた。なんだべと思つてよく見るとそれは死人《しびと》であつた。ウンウン唸りながらむくむくと動き出して來たので、三太はあれアと叫びながら外へ逃げ出した。すると其死人は口を開いて腕を押しひろげて何か言ひながら、何處までも何處までも追(ボツ)かけて來た。三太はこれはことだやアと狼狽(アワ)てて其所にある大きな木に這ひ上《あが》つたが、其死人はそれを見つけないで木の下をウンウン唸りながら向ふの方へ走《は》せて行つた。三太はマズよかつたなア、それにつけても早く夜が明ければええがと思つて居ると、東が白んで段々夜が明けた。夜が明けたので見ると、其木は柿の木で、柿がうんとなつてゐた。上枝《うはえだ》を見るとひどく大きな柿がなつてゐるので、あれを一つ取つて食つて見ベエと上の方へ登つて行くと、枝がポキンと折れて眞倒《まつさか》さまに落ちた。運惡く下が川であつたので、水の中にドブンと沈んだ。然《しか》し別段怪我もなく、まアよかつたと思つたが、なんだか冷たいので氣がつくと、今朝(ケサ)狐を驚《おどろ》かした所で其所らぢうを這ひずり𢌞つて居た。町で買つた魚などは疾《と》うに影も形も無くなつて居た。

 

       幽  靈(其の五)

 前の三太郞父樣(トツチヤ)の妹のオヨシといふのが一里ばかり離れた在鄕(ザイゴ)へ嫁に行つて居た。不幸なことにはお產の肥立ちが惡くて永くブラブラして居たが、遂々《たうとう》死んでしまつた。

 さう謂ふ知らせが來たので、三太郞は取るものも取らずに妹の緣家へ駈け付けた。さうして葬式も濟ませて、夕方ダンパラといふ所の松原まで來た。其時はもうあたりは人肌も分らぬやうに暗くなつた。すると不圖《ふと》後(ウシロ)の方で女の泣き聲がして居るのを聽いた。ハテナと思つて聽耳《ききみみ》を立てると、その泣聲は隨分遠くの方で幽《かす》かではあるが、それにアセてははツきりと小譯(コワアケ)が分つた。そしてだんだん近づいて來たところがそれは如何《どう》しても先刻土の中に埋めた妹の聲なので、大層魂消てしまつた。何時(イツ)してこんなことアあるんもんではねえ。これは化物(バケモン)だと思つたから、三太は後《あと》も見ないで家の方へ駈け出した。するとその死んだ妹の聲がウシロクド(後頭部)にくツついたやうに何處までも何處までも後から追ひついて來た。それでもどうやらかうやら家まで駈けつけた。

[やぶちゃん注:「アセては」不詳。ただ、前後から見ると、「合(あ)せては」で、「遠く幽か」な「それ」と照らし「合」わせてみるに、妙に「はツきりと」それが人の「泣」き「聲」であることが「小譯」(理解すること)として判った、という意であろうという気はする。]

 家の人達は驚いて、お前は何《な》してそんな靑面(アヲツラ)してアワテテ歸つて來たかと訊いた。三太郞が、何言ふ、あれアあの女の泣聲がお前らには聽えないてかと言ふと、この人は酒に醉ツたくれて居ると言つて誰《たれ》も相手にしなかつた。そしてともかくも風呂に入《はい》れと言はれて臺所續きの風呂に入つたがまだ先刻《さつき》の泣聲が屋敷内(ヤシキウチ)の彼方此方(アツチコツチ)から聞えてゐた。ヤンタ[やぶちゃん注:「厭な」の意。]ことだと思つて居ると、直ぐ壁一重《かべひとへ》の外へ來て、兄々(アンニヤ《アンニヤ》)と言つて泣く樣《やう》であつた。またアレダと言つてひよツと壁の方を見ると、やつと小指が通るほどの小穴から、細い細い靑白い手がアンニヤ、アンニヤと泣くたびに、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと突き出て、遂々《たうとう》三太の首筋に絡《から》み着いた。三太はキヤツと叫んで風呂から飛び上つて布團をかぶつて寢た。それでも怖(オツカナ)くて巫子《みこ》を賴んで來て呪《まじな》つて貰つた。

(これも前話同樣金ケ崎の話である。ダンパラ(壇原)は村端《はづ》れの松林で、昔から此所には狐の巢があつた。その狐は子守女に化けるのが得意で、人が夕方此所を通ると、ネンネコヤ、ネンネコヤと謂ふ子守唄をよく聞かされた。又それより外のことは語れなかつたとも言ふ。それでこの狐のことを此邊ではダンバラ・ネンネコと名づけて居た。今でも居ると見えてよく人が化《ばか》されたと謂ふことを聞く。)

(以上その二、三、四は金ケ崎町、千葉丈助氏よりの御報告に據つた。大正十二年十月二十三日受。)

[やぶちゃん注:以上の附記は、ポイント落ちで、概ね本文より二字下げほどであるが、長いので、ポイントを下げず、上に引き上げた。

「ダンパラ(壇原)」岩手県胆沢郡金ケ崎町西根(にしねだんぱら)。漢字が現在とは異なるが、読みは同じ半濁音「ぱら」である。

 

     白 い 雀(其の六)

 遠野ノ町端れ愛宕山《あたごやま》の下に鍋ケ坂《なべあがさか》と云ふ所がある。此所に昔からよくない狐が居た。町の菊池某と云ふ者、綾織《あやをり》村へ鷄《にはとり》買ひに行つて、五六羽求めて俵に入れて背負つて來た。そして此坂を通りかゝると、往來の眞中《まんなか》に見たこともない白い雀がパサパサと飛び下《お》りてじつとしてゐた。元より鳥好きの男であるから其《その》動かないのをいゝことにして、その珍しい雀を捕(ツカ)まへやう[やぶちゃん注:ママ。]と手を伸べると[やぶちゃん注:底本は「伸べれと」。「ちくま文庫」版で訂した。]、ツルリと指の間をくぐつて三步ほども步くまた止まつてう躇(ウヅク)まる。そんな風なので邪魔になる鷄荷《とりに》をば路傍に下《おろ》して置いて、雀にかゝわつて居るうちに、ブルンと雀は飛び立つて姿を消した。はツと氣がついた時には既に鷄荷などは疾《と》うに無くなつてゐた。

[やぶちゃん注:「愛宕山」象坪山(国土地理院図)の異名。「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 八九~九二 山中の怪人」の「八九」の私の「愛宕山」の注を参照されたい。

「鍋ケ坂《なべあがさか》」この読みは国立国会図書館デジタルコレクションの「遠野町誌」(遠野郷土研究会編一九八四年国書刊行会刊)の「九、傳說」の序にある読みを部分採用した。

「綾織村」「ひなたGPS」の戦前図で確認出来る。現在の遠野市街の東方である。「町」とあるから、これは遠野としかとれないから、この「菊池某」の家は「愛宕山」=象坪山との位置関係から、「町」=市街地の遙か東北の山家であったと、とるしかない。遠野「町」の「菊池某」が「綾織村」で鷄を買って、この象坪山の近くにある「鍋ケ坂」を通るというのだから、そうとるしかないのである。]

 

        魚みやげ(其の七)

 これは遂《つひ》四五年前の話、私などの知合ひの柳田某と云ふ男、綾織村の親類の家の婚禮に招(ヨ)ばれて行き、少々醉つてオカイチョウ物の魚を持つて此所まで歸つて來ると、兼ねて懇意にしてゐる某女が迎へに來たと云つて路傍に立つて居た。某はえらく喜んで、女の云ふなりに魚荷などを持つて助(ス)けられて來たが、途中で何故か其女にはぐれて獨り家に歸つた。

 翌日女の家へ魚荷を取りに行つて話すと、女はそんな事などは知らぬと云ふ。怪しんで現楊へ行つて見ると、盛に食ひ散らされて入物《いれもの》の藁のツトばかりがあつたと云ふ。本人の話である。

[やぶちゃん注:「此所」は前の話を受けるわけで、やはり「鍋ケ坂」ということになる。]

 

        ランプ賣り(其の八)

 町の人がランプのホヤ荷を擔《かつ》いで綾織村の方へ行つたところ、鍋ヶ坂の藪中で狐が晝寢をして、クスンクスンよく眠つて居た。ホヤ賣りがひとつ驚かして遣らうと、テンビンボウでしたゝか打ちのめすと、狐はヂヤグエン、ヂヤグエンと啼き聲を立てた。遂には殺す氣になつてウント撲《ぶ》ち叩いて居ると、畠で働いて居た人達が不思議に思つてあゝこれこれお前さんは自分の商賣道具を何してそう打壞《ぶちこは》すと聲をかけた。それで初めて氣がついて呆れ果てたと云ふ。

(此ランプ賣りの話は全く同じ話が「江剌郡昔話」にもあり、また森口多里氏の話では水澤町付近にも、所人名までも明かに物語られてゐると謂ふ。これらの狐話などは既に立派な傳播成長性を帶びて完全に昔話になつてゐる好例である。)

[やぶちゃん注:附記は先のものと同じ処理をした。

『全く同じ話が「江剌郡昔話」にもあり』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの原本の当該部は、ここ。]

 

          (其の九)

 町の野田某と云ふ人、川魚釣りに出掛けたが鍋ケ坂の下で急に暗くなつた。勿論行く事も引く事も出來なくなる。このような[やぶちゃん注:ママ。]事が度々あつたので某はもう慣れきつて、ははアまたか、ソレいゝ加減にして明るくしてくれと云つて、魚を五六尾《び》藪へ向つて投げると、直ぐに元の晝間になつて步くことが出來たと謂ふ。近年の話である。

 

        湧  水(其の一〇)

 遠野ノ町の付近で昔から狐の偉えものは、八幡山のお初子《はつこ》、鳥長根(トリナガネ)の鳥子《とりこ》、鶯崎《うぐひすざき》のウノコ三疋であつた。これらは各々その技《わざ》に秀れたものであつたと謂ふ。

 昔からこの八幡山の狐に騙された話は多いが、昔の話は總て止《よ》す。近來の話ばかりを記して見やう[やぶちゃん注:ママ。]。土淵村の某と云ふ狩獵《かり》自慢の男、俺なんて狐に騙されて見たいもんだ。そんな者に出會《でくは》して見度いもんだと、町の居酒屋で朋輩どもに自慢話をしての歸りであつた。八幡樣の石の鳥居の前まで來ると、不思議にも道路の眞中から、水がピヨツピヨツと湧き上がつている。可笑しいやうな氣持ちになつて立ち止まつて見て居る中《うち》に、其湧水のほどばしり出ることが急になつて、アタリが湖水のやうに漫々たる水になつた。そして自分の首ツきりに水かさが增して正《まさ》に溺れさうになつて、助けてくれ助けてくれと叫んで居ると、先刻一緖に酒を飮んだ村の衆が其所へ通りかゝつて、何をして居ると云ふ。氣がついてみると溜池の中に入つて一生懸命に水をざぶざぶと搔き𢌞してゐた。

[やぶちゃん注:思うに、先に掲げた、国立国会図書館デジタルコレクションの「遠野町誌」(遠野郷土研究会編一九八四年国書刊行会刊)の「九、傳說」の序には、『遠野鄕は、太古湖水であつた』とあり、まさに『愛宕の鍋(なべあ)ケ坂に御器(ごき)洗場があり、古代住民は湖畔に下りて來て御器を洗つたところなども言い伝えられている』とあるのが、目が止まった。狐に騙されて幻想の湖水で溺れるというのは、肥溜に湯と騙されて浸かるというありがちな話ではあるのだが、この話では、まさに「アタリが湖水のやうに漫々たる水になつた」という箇所が、実は話の核に、太古に於いて遠野の市街地が大きな湖水であったことを伝える含みが、ここには隠されているようで、甚だ興味深かった。

「八幡山」ここ

「鳥長根(トリナガネ)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「鳥古屋」・「赤羽根」「飛鳥田」の地名が確認出来る(現在もある)が、この附近が候補になるか。

「鶯崎」岩手県遠野市鶯崎町(うぐいすざきちょう)。西麓に「稲荷下屋内運動場」という施設が現認出来る。]

 

        女 客(其の一一)

 附馬牛《つきもうし》村の某、家に婚禮か何かあつて其仕度の魚荷を馬につけて、此八幡山の麓路《ふもとみち》へさしかかつた。すると見知らぬ何でもキタガメ邊の女と思はれる若い美しい女と道連れになり、段々慣話(ナレバナシ)などを取交《とりかは》して步いて居るうちに、女はそんなら私を馬に乘せろと云ふ。某は良い氣持ちになつて女の腰を抱き上げて馬に乘せて曳いて來る。そして話の續きを繼ぐために振り返つて見ると、馬上に居る筈の女は居ず魚荷もなくなつていたと云ふ。これもお初子の仕業。

[やぶちゃん注:「附馬牛村」現在、岩手県遠野市附馬牛町がある。

「慣話」親しげな世間話、或いは、馴染みのような色っぽい話の意か。後者っぽい。

「キタガメ」当初は漫然と「北上」の訛りかと思っていたが、dostoev氏の『不思議空間「遠野」―「遠野物語」をwebせよ!―』の「安倍の血」によれば、遠野の古い呼称という。]

 

        飼   犬(其の一二)

 私の友人、男澤《をとこざは》君と云ふ人、遠野ノ町の中學校からの歸りに此山の麓まで來ると、向ふから自分の飼犬が走《は》せて來て頻りにジヤレつく。うるさいけれども其儘にして行くと、ドンと大きな松の樹ノ幹に額を打《ぶ》ツつけた。痛いツと叫んで驚いて見れば、犬と思つたのが狐になつて向うへ走せて行く。自分は何時の間にか山の中腹の松林に來て居たと云ふ。これも其お初子の藝當。

[やぶちゃん注:「遠野ノ町の中學校」旧制中学校「岩手縣立遠野中學校」(男子校)は明治三四(一九〇一)年に開校している。現在の岩手県立遠野高等学校。当時から現在の遠野市六日町(むいかまち)のここにある。なお、佐々木喜善は、この中学の出身ではない。彼は遠野町小学校高等科を明治三三(一九〇〇)年春に卒業しており、当時、まだ、同中学校は開校しておらず、同年九月に盛岡市大沢川原にあった私立江南義塾に学んでいる。ここは石川啄木の出身校として知られる。同校は盛岡市内で移転し、現在も私立江南義塾盛岡高等学校として現存する。

「此山」前話を受けるので、八幡山。前の地図の右手の盆地中央の独立峰。]

 

        紙  幣 (其の一三)

 これも私の友人、武田君と云ふ人、中學校の歸りに此所まで來ると、向ふから親父が來て、よい所で出會つた。俺は病家へ𢌞らなければならぬから、お前はちよつと町へ引返して牛肉を一斤[やぶちゃん注:六百グラム。]程買つて來ないかと云ふて、十圓札を一枚手渡された。同君は晚には牛肉にありつけると思つて喜んで町へ走せ戾つて、一日市《ひといち》の牛肉屋へいつて、肉を切らせ、さて手に汗ばむ程しつかり摑んで居た其の紙幣を出すと、何のこと其は一枚のたゞの朴ノ木《ほほのき》の葉であつた。これもお初子の手品であつた。

 (以上その五乃至《ないし》一二迄、何《いづ》れも

 松田龜太郞氏の談の一五目。昭和四年の春の頃。)

[やぶちゃん注:「一日市」遠野の通りの名称。現在の遠野市の「中央通り」に同名のバス停がある。

「朴ノ木」非常に大きなその葉が「朴葉味噌」や「朴葉寿司」に使われることで知られるモクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ節ホオノキ Magnolia obovata 。]

 

       ハクラク(其の一四)

 或ハクラクが、マガキ、マンコと云ふ狐の居る野原道で、このハクラク樣を化(バカ)せるかと言つて、狐を馬鹿にすると、行つても行つても自分の家が無かつたので、自分の背負つている油揚《あぶらあげ》を下《おろ》して投げ出すと、直ぐ其所が自分の家であつた。

 なんだマガキ、マンコにはそれ位の智惠より無いかと言つて嘲笑《あざわら》ふと、再び前に大きな川が出てどうしても步けなくなつたが、なに此所にこんな川がある筈がない。渡り切つて見せる氣になつて、轉《ころ》び轉び、もがいて居ると、嬶《かかあ》が出て來て、何《な》して軒端《のきば》の藁ひン拔くべ、又狐に化(バカ)されたのか、ソナダス口きかなエだと言つた。見ると川中だとばかり思つて居たのは自分の家の軒端で、石だと思つて取りついてゐたのは藁であつた。

[やぶちゃん注:「ハクラク」「伯樂」。馬の目利き。

「ソナダス口きかなエだ」「そんな(化かされお前とは)口もきかねえぞ!」の意か。]

 

       放 し 馬(其の一五)

 或男、野原へ草刈に行くと、狐が居た。今日こそ狐の化(バ)けるのを見てやる氣になつて、狐のチヨロチヨロと步いて行く後(アト)をシタつて行つて見ると、エドコ(野原の湧水の所)の傍《かたはら》へ行つて、ヤツサに前足で面(ツラ)を洗つて居た。男は狐に氣付かれないやうに、藪蔭で息を殺して眺めて居ると、狐は段々に人間に化けて若い女になつた。そして細路《ほそみち》の方ヘ出て行くので、見落さないやうに後をつけて行くと、女は山の蔭を越えて大きな家へ入つて行つた。

 男はなんでも狐はこの家へ入つたと思つて、ソロツと大きな家の戶を開けて内を覗くと、ヒンと、言つて嫌ツと云ふほど張り飛ばされた。大きな家だと思つたのは放し馬で、戶だと思つて開けたのは馬の尻であつた。狐に裏をかかれたのだと言つて朋輩どもにとても笑はれた。

 (其の一三、一四は田中喜多美氏御報告の分一五目。)

[やぶちゃん注:「ヤツサに」「矢庭に」の意か。]

 

        鹽 ペ ン(其の一六)

 昔、村に爺樣があつた。町へ往く途中の野中を通りかゝると、路傍に狐が遊んで居た。よしきた一つあの狐を捕(ツカ)まへてけんべえと思つて、コソコソと近寄つていつて、ひよいと狐の尻尾をつかむべとすると尻尾はひよいと手の間《あひだ》から滑つていつた。またおさへべとすると、ぷるんと手から滑り拔けていつた。さうして捕まへやう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]捕まへやうと思つて、小半日《こはんにち》野中で同じ所をぐるぐると𢌞つて居た。

 其所へ隣の爺樣が町の歸りに通りかゝつて、ぜぜそんだ(お前)は何して居れアと言つた。すると爺樣は、默つて居ろ、默つて居ろ、俺は今狐の尻尾を捕まへるところだからと一生懸命にダイドウ𢌞りをして居た。鄰の爺樣はこれは只事ではないと思つたから、爺樣の背中を叩いて、これヤ目を醒ませツ、それア萱《かや》の尾花だツと言つた。それで爺樣もはじめて正氣に返つて、狐にだまされて居たと謂ふことが訣《わか》つた。

 爺樣は狐にだまされたと思ふと口惜しくて堪《たま》らず、次の市日《いちび》に町へ行つて鹽を一升買つて持つて來た。そして先の市日にばかされた野中へ來て、やくと(故意に)酒に醉つたふりして寢て居た。すると其所の狐はこの爺樣は俺にだまされる人だつけと思つて、ちよこちよこと藪の中から出て來て、爺樣の孫に化けて、爺樣々々今《いま》町から歸つて來たア、早かつたなしと言つて側へ寄つて來た。そして何か食物《くひもの》でも買つて來たでは無いかと、鼻をフンめかして爺樣のふところを嗅《か》いでみた。それでも爺樣は知らぬふりをして居ると、狐はいよいよ人を馬鹿にしてしまひには爺樣のふところに面(ツラ)を突つ込んだ。爺樣はこゝだと思つて、やにはに起き上つて狐を抱き捕(オサ)へて、買つて來た鹽を其口に押ツペしてやつた。狐は苦しがつて、ジヤグエン、ジヤグエンと鳴きながら山の方へ逃げて行つた。ええことしてけたと思つて爺樣は面白がつて家へ歸つた。

 爺樣がまた其次の市日に町へ行くべと思つて、その野中を通つた。するといつかの狐が萱藪《かややぶ》の蔭に匿れて居て斯《か》うチヨチヨクツた(ひやかした)。[やぶちゃん注:底本では句点は丸括弧内の最後にあるが、訂した。]

   あれア鹽(シヨ)ぺしア通るツ

   あれア鹽ぺしア通るツ

 爺樣はおかしかつた。

 (私の村の古い話、自分の記憶。)

[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では標題の「塩ペン」の「ン」の右にママ注記がある。同文庫の編者は「ペシ」の誤字と捉えているようであるが、以下でも「ペン」である。]

 

        鹽 ペ ン(其の一七)

 昔、遠野ノ町の多賀社の鳥居前に惡い狐がゐて、市日《いちび》歸りの人をバカしてならなかつた。或時何時もダマされる綾織の人が、片手に鹽をつかんで來たら、例の通り家に留守居して居た婆樣の姿になつて、[やぶちゃん注:底本では行末で読点がないが、「ちくま文庫」版で補った。]あんまり遲いから迎へに來たます。早く其魚を此方(コツチ)さよこしもせえ。俺ア持つて行くからと手を出した。そこで其手を取つて、有無を言はせず、婆樣の口に鹽をヘシ込んで突き放した。

 其の次に其所を通つたら、山の上で、

   鹽ヘシリ

   鹽ヘシリ

 とはやした。

 (菊池一雄氏御報告分の五。)

[やぶちゃん注:「多賀社」多賀神社。ここサイド・パネルの説明板に、『一説に横田城を鍋倉山に移した天正』二(一五七四)『年』『に阿曽沼広郷が城の鎮守として勧請したといわれ、正保』四(一六四七)『年』『と元禄』五(一六九二)『年』『に再建されました。 中世に多賀の里とよばれたこの付近は明治のころまで寂しい町はずれで、市日などで魚を買って帰る村人をだまして魚をとりあげる狐の話の舞台でした』とあった。]

 

        狐の忠臣藏(其の一八)

 大槌《おほつち》のトヤ坂に惡い狐が射て、通る人を化(バカ)してならなかつた。或人が今日こそ化されるものかと思つて、鹽引《しほびき》一本持つて力《りき》んで來た。狐どもは忠臣藏の芝居をやつて居た。一段目から十二段目が終るまで鹽引を抱いて見て居たが、いよいよ終つた時、それ見ろ俺からは取れるものかと嘲笑《あざわら》つて、家へ歸らうと步き出したら、一疋の狐が頭の上に乘つた。ハツと思つて頭の狐をおさえ[やぶちゃん注:ママ。]やう[やぶちゃん注:ママ。]と手をやつた拍子に鹽引を取られた。

 (菊池一雄氏の御報告の分の六。)

[やぶちゃん注:「大槌」岩手県上閉伊郡大槌町

「トヤ坂」不詳。

「鹽引」塩漬けにした魚。特に強塩の「塩鮭」を指すこともある。]

 

        狐 の 家(其の一九)

 或所に、俺はどんなことがあつても狐などには騙されるものではないと謂ふ男があつた。山へ行くと、路傍に一疋の狐がいて、俺達はどうしてもお前を騙すことが出來ないから、これからは友達にならないかと言つた。男はそんだら承知したと言ふと、其狐は直ぐさま美しい姉樣に化けて、これから私の棲家を見せますと言ふ。男はよしきたと言つて、其姉樣の後について行くと、大きな岩穴に入つて行つた。すると其所にひどく立派な家があつて、なにもかにも廣く結構なことだらけであつた。姉樣がまンずこつちさお出(デ)アンせと言ふから、座敷へ通ると、まづお茶を入れられ、また別な座敷では酒肴でえらい御馳走樣になつた。それから何しろ人間の人達はこんな所へは、さう度々來られるものでないから今夜ばかりは泊つて行けと言はれて、其氣になつて、腰を落着けて居ると、とにかく風呂に入つてがんせと言はれた。さうだ、泊るには風呂に入らなければならなかつたと思つて、そんだら直ぐ貰ふベエかと言ふと、さあさあ此方(コチラ)へと言つた。姉樣の後について風呂場へ行つて見ると、其又風呂場の立派なこと、我人(ワレビト)の奧座敷よりも增《まし》だつた。なみなみと一杯湯のある風呂に、肩まで浸《つか》つて、あゝいゝ氣持ちだ、あゝいゝ氣持ちだと言つて、ざぶざぶやつて居た。

 其所へ通りかゝつた人に、何だお前は何をして居ると、大きな聲で呶鳴《どな》られたので、はツと氣がついて見ると、自分は畑中の溜桶《ためをけ》に入つて、はつぱり肥料ぐるみになつて居た。

  (出所忘却。私の古い記憶。)

[やぶちゃん注:「はつぱり」「すっかり」の意か。]

 

        狐が騙された話(其の二〇)

 或所の爺樣が山へ柴刈りに行くと、山麓の細路から一疋の狐が出てきて、朴《ほほ》の葉などを拾つて頭の上に乘せたりなんかして居たが、やがてクルクルクルと三遍𢌞つてピヨンと跳上《けあが》ると、美しいアネサマ(娘)になつて、こちらへ出て來た。その樣子を初めから終りまですつかり見て居た爺樣は、ハハア狐と謂ふものはあゝして人を騙すもんだなアと思つた。そしていきなり木蔭から飛出《とびだ》して、ばツたりと狐の娘に往會(ユキア)つた。すると娘に化けた狐がエゴエゴと笑ひかけて、爺樣はどこさ行きシと言葉をかけた。爺樣はこれだ、狐に騙されると云ふ時こそ今だ。だけンど俺はハアなぼしても騙されないと思つて、にこにこ笑ひながら、姉樣こそそんな姿(ナリ)をして何所さ行くでや、俺だからよいやうなものゝ、少し尻尾《しつぽ》が隱れきらねえで居るでアねえかと言つた。(そんなことは勿論なかつたのであるが、)すると狐の娘は顏を赤くして、はア爺樣にそれがわ訣《わか》りンすかと訊いた。爺樣はわかるどころぢやない。この俺の化け振りが訣るか、何所に一つ缺點(キズ)があるか見つけて貰ひたい。お前より爺の方が餘程苦勞して居るでアと言ふと、娘はほんだら爺樣もやはりお稻荷樣しかと感心してしまつた。

 (出所忘却。)

 

只野真葛 むかしばなし (64) /「むかしばなし 四」~了

 

一、「さはばゞ」は、桑原をば樣の乳母なり。夫【谷田太郞左衞門なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、道樂ものにて、田地も質入(しちいれ)にして、たつきなき故、をば樣の里、谷田何とか申(まふし)たりし人、公儀使(こうぎつかひ)にて定詰(ぢやうずめ)中(うち)に上(のぼ)りしが、身をからくして、金をため、引込(きつこみ)し時は、もとの如く、とり戾してありし、と常に語(かたり)し。

 又々、夫、遣ひ果して、仕(し)まへ[やぶちゃん注:ママ。]、息子も、父に似たる者にて、又々、さわ、流浪せしを、おば樣こそ、めし遣はるべきに、桑原には「〆」にて、ばゞ、たくさん故、母樣、りちぎを、とりえに、一生、かいごろしに、召仕(めしつか)はれし。

 今少し、はやく、落命せば、心やすからんを、火事に逢(あひ)て、數年(すねん)、心掛(こころがけ)し死裝束(しにしやうぞく)を燒(やき)て、大力(だいりき)、おとし、め病《やみ》に成(なり)て、人の世話に成(なる)を氣の毒に思(おもひ)しあまり、みづから、首をくゝりて、死(しに)たりし。

 律義者ほど、不便(ふびん)なるものは、なし。

 妹は、「つな」とて、姊と違ひ、能(よく)、物縫(ものぬひ)し故、築地の時分、月壱步(いちぶ)の、やとい針師に來たりしが、姊の氣質もしりたる上、此かたのあつかいも、丁寧なるをも、しりて有(あり)しかば、事なく、引取(ひきとり)し。

 目醫師(めいし)の所へ駕(かご)にて被ㇾ遣しを、

「もつたいなし。」

とて、死たりし。

 なまなかなる事して、大きに御心(おこころ)づかひ、掛(かけ)しなり。

 「くさればゞ」の手引(てびき)に成(なる)中元(ちゆうげん)がなき故、是非なく、駕へのせられしなり。

[やぶちゃん注:「中元」下人の「中間」(ちゅうげん)のこと。]

2023/05/22

只野真葛 むかしばなし (63)

一、おしづ[やぶちゃん注:真葛のすぐ下の妹。]が弟のさきばゝは、もと、長崎近くの國に生(うまれ)し人なり【肥前の島原の生。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。「殿樣、御國替のこと有て、出羽の山形とやらへ、引越(ひつこし)たり。」

と語(かたり)し。

「生國にては、殊の外、蜜蜂を、多く、家每に、少しは、かう事なり。」

とて、其かい樣(やう)の咄(はな)し、委しく仕(つかまつり)たりしが、よくも覺ねど、少し、かうには

 

Hatinosubako

[やぶちゃん注:養蜂箱の図。底本よりOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]

 

物干(ものほし)のこなどのやうな籠を造りて、紙にて、張り、下に、引出しをつけて、中比(なかごろ)に、穴を幾らも、あけて置(おけ)ば、其穴より、いでいりして、中に巢を造るなり。

 引出しは、折々、かへしのたまるを、掃除しする爲(ため)なり。

 渡世などに[やぶちゃん注:専業として。]かうには、長持の中比に、穴を明(あ)け、下に引出しを付(つけ)てかう、とぞ。

 不幸穢(ふかうゑ/ふかうのけがれ)の事、有(ある)時は、蜂、其家を去りて、外(そと)に集(あつま)り居(をる)とぞ。

 又、子のふへたる時、分(わか)る事、有。

[やぶちゃん注:分蜂(ぶんぽう)である。]

 左樣の時、おのづから家に群(むらが)り入(いる)を、其家の福として、俄(にわか)に、籠など、しつらひて、かう事なり。

「心あらき人には、おのづから、なれず、あわれみ助(たすく)る人に、なるゝ。」

と語し。

 取(とり)とめたく思(おもひ)ても、蜂の心に、あはねば、去り、寄(より)こず【物いひ・いさかい[やぶちゃん注:ママ。]・小言など、きらい[やぶちゃん注:ママ。]の蜂なり。すべて、さわがしきを、きらふなるべし。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 或夫婦の者、子も持(もた)ずして、年久しく有しが、ふと、蜂の來りしを、いたわりかひしに、すみつきて、年每に巢分(すわけ)を仕つゝ、ふへ[やぶちゃん注:ママ。]し程に、一生、外(ほか)の事を休(やすみ)て、渡世したりとぞ【渡世にかふ所にては、蜂にげたりとて、かはで、おかれぬ故、いづくまでも、蜂の行方(ゆく)へ、したひ行(ゆき)て、其おちつく所を、みて、かへり、笹の葉へ、蜜を付(つけ)たるを、もち行て、蜂のおる[やぶちゃん注:ママ。]所へ出せば、それに、一とび、うつるを、もちて、かへれば、のこりは、したがひて、付加(つきくは)へりくる、とぞ。蜂を籠へ入(いる)るにも、笹の葉へ、蜜をぬりたるに、つけて、みち引(びく)、とぞ。】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

 巢を分(わく)る時は、三、四十の蜂、穴より出(いで)て、壁などに付て、動かずして居(をり)、とぞ。其時、巢をつくる設(まう)け、すれば、それに入(いり)て、つくる。其家、心にあはねば、其時、とび去(さる)、とぞ。

 其家を、はなれず、巢を分るを、いはい[やぶちゃん注:ママ。]、悅(よろこぶ)、とぞ。

「蜜は、蜂のかへしなり。」

と、いふは、そら言なり。

 冬中の食を、はこび貯(ため)て、寒く成(なる)と巢ごもるを、來年、巢を造るほど、たねを殘して、其巢を、とりひしぎ、絞りて、蜜を取、あとのからは、釜に入て煮て、しやくし・へらなどの樣な物にて、探れば、結構なる、きらう[やぶちゃん注:「奇麗に」か。或いは「きらきらと」か。]、それに付(つく)、とぞ。

 それを、かき取て、又、入(いり)、又、入して、「らう」[やぶちゃん注:「蠟」。蜜蠟。]を取(とる)、とぞ。

 はじめ程、「らう」、多く付、後には、薄く成(なり)て、つかぬほどに成(なら)ば、捨(すつ)る。「かいこ」を、かふ、たぐひなり。

「人に、あだせず、大きにおこる時は、群がり、さして、怪我する事もあれど、めつたになき事なり。あつかひ樣を知りて居れば、腹たてぬ樣にする。」

と語(はなし)し。

 此咄し、おもしろくて、幾度も語(かたら)せて聞(きき)たりし。

 このばゞ、病人のあつかひ、上手にて、ありし。子共をも、やわらかに、能(よく)もりをせし人なり。

 虎の御門内、井上河内樣とか、其比(そのころ)は云(いひ)し小大名の家中、大塚伴之丞と云(いふ)、物書(ものかき)の妻、成し。

 子なくて、養子せしも、父と同じ名なりし。

「其よめに。」

とて、もらひし娘、

「人中(ひとなか)見習(みならひ)の爲。」

とて、數寄屋町へ上(あがり)て有しが、靜かなるを、めきゝに、もらひしを、「しづか」と云よりは、ふさぎたる方(かた)にて、何をするも、埒明(らちあか)ざりしが、夏のことにて、

「行水(ぎやうずい)の湯を汲(くむ)。」

とて、

「すべり、ころびて、其湯を、かけたり。」

と云(いふ)事にてありしが、其時は、はれもせざりしが、二日、三日すぎて、片顏、ゑりへかけて、はれ出し、目も、かため、細く、口もゆがむ樣(やう)に、段々、はれて有し。

 燒(やけ)どの藥など、付(つけ)しが、同じ事にて、色、付たり。

「手にも、其湯の、はねたる所。」

とて、日增(ひまし)に、わる赤く成し所、ばらばらと、見へたりし。

 十日ばかり立(たち)ても、皮も、うごかねば、あやしみ、

「やけどのてい、ならず。」

と、いひし。

 父樣、ワに被仰付しは、

「付藥(つけぐすり)にて、肌も見えねば、其藥、へらにて、痛まぬ樣に、はなし取(とる)。」

と被ㇾ仰し故、その如くせしに、强くかきても、

「痛まぬ。」

と云たりし。

 藥を、皆、とり仕舞(しまひ)てみるに、「どす色」なりし。

 父樣、其色の付たる所を、へらにて御なで被ㇾ成、

「此へらのさはるは、物を隔てるやうなるや。」

と御尋有しに、

「左樣なり。」

と、いひし。

 手を御なで被ㇾ成、

「手も色付たる所と、只の所とは、さはる物、ちがふか。」

と被ㇾ仰しに、

「左樣なり。」

と云し。

 それから、

「よし。」

とて、次へ[やぶちゃん注:次の間へ。]下げられ被ㇾ仰しは、

「是、『らい病』なり【物をへだてたる樣におぼゆるは、生(いき)ながら肉の死(しに)て、經(けい)のかよわぬ故なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。さきが、よめには成(なる)まじ。呼(よび)て、其事、いひ聞(きかせ)ん。」[やぶちゃん注:「さきが、よめには成まじ」「この先、嫁としておくことは、病気が病気なれば、嫁としてあり続けることは出来まい。」の意であろう。]

とて召(めし)て、其よしを被ㇾ仰て下(さが)られしが、音にのみ聞(きき)し『らい病』のやみ出しを近く見て、快(こころ)わるさ、いはんかたなく、知らで、手にふれなどしたる事、思いでゝも、其ほどは、心あしかりし。

 餘りいやさに、

「うつる物では、なきや。」

と伺(うかがひ)しかば、

「らい病が、うつゝて、たまるものか。」

とて、笑わせられし。

 其樣に、はれ出(だ)してから、氣輕に成(なり)て、物も、よく、食(くひ)などして有し。

 其やまひの、内にこもりて有(あり)しほどは、ふさぎたりしが、外ヘいでし故、心中、晴晴(はればれ)と成(なり)しと、見へたり。

 よそめには、

『さぞ、悲(かなし)からん。』

と思わるゝを、其身には、結句、ほこりてをるは、因果なる病(やまひ)なり。

[やぶちゃん注:「らい病」「癩病」。現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌( Mycobacterium leprae )の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項では、この病について、『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても「天刑病」と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシは、この病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で、底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。因みに、私の亡き母聖子テレジア(筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により二〇一一年三月十九日午前五時二十一分に天国に召された)は独身の頃、修道女になろうと決心していた。イタリア人神父の洗礼を受けて笠井テレジア聖子となった。彼女は生涯を長島のハンセン病患者への奉仕で生きることまで予定していたことを言い添えておく。さて。ハンセン病は永く、その皮膚病変のさまから、「生きながらにして地獄の業火に焼かれている罪深い病い」として、民俗社会に於いて強く忌避されていたのであった。そのために、本朝中世の十二世紀の起請文の罰文に、「白癩・黒癩」の文言が出現しているのである。これは神に誓って違うことはないという決まった文言の一つとして、もし、誓約に背いた場合には、「現世ニハ受白癩黑癩之病」と記したのである。かくも、差別されてきた疾患であることを我々はよく認識せねばならない。なお、工藤平助の「らい病が、うつゝて、たまるものか。」という台詞には、やはり、医師でありながら、「ハンセン病」を「業病(ごうびょう)」とする認識が、感じられるようにも私には思われる。

只野真葛 むかしばなし (62)

一、餘り、律儀過(すぎ)たるものには、禍(わざはひ)、おふ事、あるものなり。

 細川の御隱居上松院樣とか申上(まうしあげ)しに、前方(まへかた)、小枝殿お小性(こしやう)を勤られし後、皆、下(さが)りて有(あり)しに、同じく若年寄を勤られし人、下り早々、宿に、もめの事、有て、お町へ、ぜひ、一度は出られねばならぬ事ありしに、女共、供行(ともゆく)ことを、いやがりて、病氣を達したり。

[やぶちゃん注:「細川の御隱居上松院」「小枝殿」孰れも不詳。]

 困りてゐられし時、小枝、部屋おやも、若年寄なりしに、其しんめう、しごく律義者にて有しが、折ふし、

「お門を通りますから、一寸御きげん伺(うかがひ)に上(あが)りました。」

とて、來りしを、

「今、ケ樣ケ樣の事にて、出ねばならぬに、供がなくてこまるから、どうぞ一寸、供して行(ゆき)てくれ。」

と賴まれしに、

「それは。あやにくの事にて、さぞ、おこまり被ㇾ遊ん。」

とて、供して行たりしに、其旦那樣【上松院樣なり。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]は、紀州より、いらせられし故、御かくれ後、早々、高役をも勤(つとめ)し人の、お町へ出(いづ)る事を、

『氣の毒。』

に思召(おぼしめし)、紀州家より、御手入(おていれ)有(ある)につき、若年寄は、事なく相下(あひさ)げられ、其身がはりに、下女を、とゞめられて、直(ぢき)に牢入(らういり)と成(なり)しとぞ。

 是、いかなる不幸ならん。其もめは、やはり、先に出(いだ)し置(おき)し齋藤忠兵衞、若黨の「にせ養子」を殺したるもめにて有(あり)し。

[やぶちゃん注:「齋藤忠兵衞」「只野真葛 むかしばなし (49)」で既出。]

 小枝事、いろいろ世話に成(なり)し上、少しも知らぬ事にて、さやうの難儀に逢ふを、不便(ふびん)に、四郞左衞門樣、おぽしめし、色々、御骨折御世話被ㇾ成、漸々(やうやう)の事にて、出牢はしたれども、それより、病身に成てありしとぞ。

 日々、御尋(おたづね)に逢(あひ)ても、しらぬ事にて、大きに難義せしとぞ。

 牢の中に、老女、居て、それが牢主にて、

「何の事にて、牢入と成しや。」

などゝひて、御尋あらば、申上べき事など、をしへなどして、科(とが)の重らぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に、みち引(びく)事とぞ。

 牢入の女共、この人を敬ひて、肩もみ、足さすりなどする事とぞ。

「牢の中にも、掟、有て、夫々(《それ》ぞれ)の座なども定まり有て、おごそかなる事。」

と語(かたり)しとなん。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八四番 盲坊と狐

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題にはルビがない。「めくらばうときつね」と訓じておく。]

 

   八四番 盲坊と狐

 

 或所に廣い野原があつて其所にどうも惡い狐が棲んで居て、そこを通つて町へ行く人を騙して仕樣がなかつた。本當に惡い狐だ、誰か捕つて來る者はないかと云つても、行けば騙され騙されして、誰も行く者がなくなつた。そこで村の人達は寄合ひを初めて、あの野原の狐を卷狩りするべえ、よかんベアと云ふ事になり、村中總出で原中を駈け𢌞つても、狐に馬鹿にされるばかりで何の甲斐もなかつた。

 其所ヘ一人の座頭ノ坊樣が琵琶箱を背負(シヨ)つて通りかゝつた。そしてこれこれ村のお旦那樣達が斯《か》う多勢のやうだが、何をめされて居申《ゐまう》せやと訊いた。村の人達は、俺達はこの原の惡い狐を退治すべえと思つて、かうして多勢寄り集まつて居るんだが、狐が古(フル)シ奴だから、なかなか捕へることが叶わぬと云ふと、ボサマは其では俺が捕へてやり申すべえから、且那樣方は一旦村へ歸つて、大きな白布の袋の長さ二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]もある奴と、油搗げ鼠とをこしらへて持つて來申され。そして俺にはどうか酒肴を持つて來てウント御馳走してたんもれと言つた。村の人達は狐にはアクネハテて[やぶちゃん注:「持て余して呆れ果てて」の意か。]いたところであるから、ほだらボサマの云ふ通りにするから、是非惡狐《わるぎつね》を捕つてケもせやと言つて、ぞろぞろと村の方へ引き上げて行つて、夕方ボサマの注文通りの物を持つて來た。

 坊樣はその大袋の一番イリ(奧)のところに、鼠の油揚げを入れて、袋の入口には突張木(ツツパリギ)をかつて[やぶちゃん注:「引っ掛けて」か。]、口を開けておいて、その前で酒コを飮みながら、琵琶箱から琵琶を取り出して、ジヤン、ジヤランと搔き彈《だん》じながら、ジヨウロリコ[やぶちゃん注:「淨瑠璃」か。]を唄つて居た。中頃になると、その惡い狐をはじめ野中の多勢の狐どもが、ぞろぞろと寄つて來て、袋の中の鼠の油揚げの香《にほ》ひを嗅ぎながら、ボサマボサマ、お前は何をして居ると言つた。ボサマはあれア狐どもが來たなアと思つたから、俺は盲坊で誰方《どなた》だか分らないが誰方でもいゝから此の袋の中の御馳走を食べなされヤ。俺は斯うして酒コを飮んで居るからと云つて酒コを飮み飮み、いよいよ琵琶を掻き彈(ハダ)けて歌を唄つた。すると惡狐をはじめ多くの狐どもが、ほだら俺達ア踊るべえと言つて、ボサマの歌に連れて、

   グエンコ、グエンコ

   グエンコラヤア

 と言つて踊りを踊つたが、その實《じつ》踊を踊る振りをして足音をごまかして、袋の中の油揚げ鼠を喰(タ)べに、ぞろぞろと袋の中へみんな入つて行つた。ボサマは耳イ澄まして其を聽いて居たが、狐どもが皆袋の中に入つた時、袋の口をギリツと結び締めた。さうしてやつぱり大聲を張り上げて、斯う歌ひながら、ウント琵琶を搔き彈《はだ》けた。

   村の衆達(シユダチ)な申し

   早く大きな槌《つち》ウ

   持つて來もせアじア

   野中のウ惡狐(ワルギツネ)どもア

   みんな袋さへし込んだア

 すると村の人達は、それアと云つて大きな槌を持つて走《は》せて來て、そしてボサマの琵琶の音に合はせて、斯う云ふアンバイに其狐どもを、みんな槌で撲《ぶ》ちのめして殺した。

   ジヤンコ、ジヤンコツ(ボサマの琵琶の音)

   あツグエゲラグエンのグワエン(狐の啼き聲)

   そうらツ、ジエンコ、ジエンコ

   やらツどツちり、ぐわツチリ(槌の音)

   あツグエゲラグワエンのグワエン

   それアまた、ジエンコ、ジエンコ

   よウしきたツ、どツちり、ぐわツチリツ

   あツグエンゲラグエンのグワエン

 (村の内川谷三と云ふ者の話。この話は結末のボサマ
 の彈く琵琶の調子と狐の啼き聲と村の衆の槌の音とが
 交錯して、殺さんとテンポが急調になるところに興味
 のある話。大正九年冬の蒐集の分。)

[やぶちゃん注:金成陽一著「賢治ラビリンス」(二〇二〇年彩流社刊)によれば、宮澤賢治の数少ない生前発表童話の一つである「オツベルと象」(詩人尾形亀之助主催の雑誌『月曜』創刊号(大正一五(一九二六)年一月発行)初出)の最終章「第五日曜」で、議長の象が『オツベルをやつつけやう』(所持する筑摩書房校本版から引用)と高く叫ぶシークエンス以下、コーダ部分のオノマトペイアとの類似性の指摘があることを附記しておられる(同書は所持しないが、「グーグルブックス」のこちらを参看した)。「オツベルと象」は現代仮名遣であるが、「青空文庫」の当該作の最後のそれを見られたい。]

2023/05/21

譚海 卷之五 日州霧島が嶽つゝじ花の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○日向國に「霧島がたけ」といふ在(あり)、滿山、みな、躑躅(つつじ)にて、花のころ、錦を張(はり)たるがごとし。「朝鮮征伐」の時、藤堂家(とうだうけ)の先祖、此山のつゝじを持歸(もちかへり)て、染井(そめゐ)の屋敷に植られしより、その花の名を、やがて、「霧島」といふ事になりたり、今、江戶に、所々にある「きりしま」も、藤堂家より、わかち植(うゑ)たるが、ひろごりたるものと、いへり。「霧島」は漢名「映山紅(えいさんこう)」といふものとぞ。

[やぶちゃん注:「霧島がたけ」霧島山(グーグル・マップ・データ航空写真)。最高峰を「韓国岳(からくにだけ)」と呼ぶ。

「藤堂家」津藩を治め、江戸では、現在の「染井通り」(グーグル・マップ・データ)の南側に津藩藤堂家の下屋敷や抱屋敷(通称「染井屋敷」)が広がっていた。因みに、「『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回」を見られたい。「こゝろ」の「先生」が卒論を書いた後に「私」と散歩をし、二人して、植木屋に入り込んで、議論をする重要なシークエンスがあるが、あそこは、高い確率で、染井なのだ。そして、この「染井通り」と「染井霊園」を突き抜けた先にある、日蓮宗慈眼寺(じげんじ)には――芥川龍之介が眠っているのである。

「霧島」「躑躅」被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 当該ウィキによれば、『鹿児島県下の霧島山の山中に自生するツツジの中から江戸時代初期に選抜されたもので、関東の土壌が生育に適していたこともあって江戸を中心に爆発的に流行した。 日本最古の園芸書』で園芸家水野元勝の著になる「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年刊)や、種樹家伊藤伊兵衛三之丞の書いた「錦繡枕」(きんしゅうまくら:元録五(一六九二)年刊)『などに多数の品種が記載されている。その後』、『全国に広がり、各地に古木が残存する。また、日本のみならず欧米でも、江戸時代末期から明治時代に輸出されたものが今日でも重要な造園用樹として盛んに利用されている』。『また、宮崎県えびの市にあった大河平小学校の庭に植えられているもの(通称:大河平つつじ』『)は、真紅に染まっており、ほかの場所に植え替えてもこの赤さにはならないとの伝説』『もある』とある。]

譚海 卷之五 越中國立山の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○越中の建山[やぶちゃん注:ママ。]は、六月、登山する也。甚(はなはだ)嶮岨(けんそ)にて、所々、道、絕(たえ)て、のぼりかたき所は、絕壁に鐵(てつ)のくさりを懸(かけ)てあり、夫(それ)に取(とり)つきて、のぼる也。絕頂は、わずかに十間四方[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ほどあり、みな、白き巖(いはほ)、そばたちて、犬牙(けんが)の如く、足のふむ所なしと、いへり、歸路は、かけぬけの道路在‘あり)て、平地にくだる、といふ。

譚海 卷之五 江戶町人丸屋某滅亡の事

 

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○丸屋某と云もの、江戶草創以來、大傳馬町(おほでんまちやう)三丁目に住居し、豪富にて、上方商賣も手廣くせしゆゑ、能(よ)く人にしられたるものなり。されば、「沖に見ゆるは丸屋がふねか 丸に『や』の字の帆がみゆる」と、うたひたる程の事なり。寶永年中、常憲院公方樣、丸屋門前、通御(つうぎよ)ありし折節を伺(うかが)ひ、丸屋妻(つま)、家に在(あり)て、伽羅(きやら)を、たきたり。此香(かう)、世にまれなる木也、それを所持せしを自贊(じさん)にて焚(たき)たるを、聞(きき)とがめ在(あり)て、段々、御糺(おんただし)に及び、驕奢(けうしや)の次第、御とがめにて、則(すなはち)、丸屋、流罪に仰付(おほせつけ)られ、家内、缺所(けつしよ)せられたり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大傳馬町」東京都中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ)。

「寶永年中」一七〇四年から一七一一年までだが、以下の「常憲院公方樣」は徳川綱吉の諡号であるから、綱吉の亡くなる宝永六年一月十日(一七〇九年二月十九日)よりも以前ということになる。

「伽羅」香木の一種。沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重される。伽羅はサンスクリット語で「黒」の意の漢音写。一説には香気の優れたものは黒色であるということから、この名がつけられたともいう。但し、特定種を原木するものではなく、また沈香の内の優良なものを「伽羅」と呼ぶこともある。詳しくはウィキの「沈香」を見られるのがよかろう。

「缺所」「闕所」とも書く。死罪・遠島・追放などの附加刑で、田畑・家屋敷・家財などを没収すること。]

譚海 卷之五 疱瘡守札の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○「小川與惣右衞門 船にて約束の事」と書(かき)、ではいりの門、又は、戶ある口々に張付置(はりつけおく)ときは、「その家の小兒、疱瘡、輕くする。」と、いへり。是は、前年、疱瘡神、關東へ下向ありしときに、桑名の船中にて、風に、あひ、すでに、船、くつかヘらんとせしを、與惣右衞門といふ船頭、守護して、救ひたりしかば、疱瘡神、よろこびて、「此謝禮には、その方の名、かきてあらん家の小兒は、必ず、疱瘡、かろくさすべき。」と約束ありしゆゑ、かく書付(かきつく)る事と、いへり。

[やぶちゃん注:「疱瘡」は撲滅された天然痘のこと。底本の竹内利美氏の注に、多くの『疫病の流行は、かつては疫神』(やくしん・やくじん・えきしん)『の遊行』(ゆぎょう)『によると信ぜられていたので、その鎮送』(ちんそう)『の呪術や祭事がいろいろおこなわれた。「疫神を救った船頭の名を書いて張る」という素朴なマジナイもその一つだが、意外に同類の話がひろく流布した。「はだか武兵衛」といったものも他にある』とあった。ウィキに「はだか武兵」(はだかぶひょう)があり、『江戸時代後期の中山道の駕籠かき。疫病の人々を救ったという中津川の伝説的な人物。武兵衛ともいう』。『中山道鵜沼宿の出身であるという』。『中津川宿の茶屋坂というところに住んでいたが』、『年中、ふんどし一枚の裸で過ごしていたとされる』。『ある夜、木曽街道の須原宿の神社で疫病神と同宿して、兄弟分の縁を結び、武兵が来れば疫病神が逃げていくという約束をしたという』。『以来、疫病の者のところへ武兵が来ると病が治り、これが評判になったとされる』。『ある時』、『中山道の大湫』(おおくて)『宿で、江戸に向かう長州候の姫が医者も見放すような重い熱病を発したため、武兵を呼んだところ』、『嘘のように全快し、一層』、『評判を高めたという』。『現在も、中津川市字上金往還上地内の旭が丘公園の中に、はだか武兵の祠が祀られて』おり、『武兵の祠の前に置かれた舟形の石は、叩くと金属のようなチンチンという音がすることから「ちんちん石」と呼ばれ、自分の年の数だけ石を叩くと』、『病気にならないといわれている』とあった。]

譚海 卷之五 京北野平野明神の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○京都北野平野明神の社は、天明より二十年ほど以前までは、昔のまゝにて殘りてあり。殊に大社にして、そのかみの結構まで、おもひやられて、かうがうしきやうすなり。いつ、修覆せられたる事もなくて、段々、破壞に及び、とる手もなきさま也。俗說には、平家の盛(さかん)なるとき、建立ありし故、かく再興せらるる事もなく、打捨(うちすて)ある事と、いへり。社頭に年經(ふり)たる杉あり、大木にて、二本、たてり、神主、餘り、社頭のあれたる事をなげき、杉を賣拂(うりはら)ひて、其金子にて、社頭再興せんと、おもひ立(たち)、みくじをとり伺(うかが)ひたれば、神慮にもかなひたるゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、上へも訟(うつた)へ事、ゆりて[やぶちゃん注:許されて。]、あたひの事も、とゝのひ、「あす、きらん。」とて用意しける。其夜、雷、おびたゞしく、はためきしが、やがて、此杉に落かゝりて、二本ながら、微塵にくだけうせぬれば、再興の事も、やみて、今は、さばかりの大社、かきはらひ、平地にいさゝかなる宮を、其跡に、つくり、祭りて、あり。神慮にかなひたるやうに、みくじにはありしかども、まことに、うけび、たまはざりしにやと、いへり。

[やぶちゃん注:これは、現在の京都市北区平野宮本町にある平野神社のことであろうが、当該ウィキを見る限り、江戸時代に、こんなに荒廃していた様子は窺われない。公式サイトを見ても、そうである。この文章、不審。]

譚海 卷之五 朝士某家藏朝鮮人さし物の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○又、朝士何がしの藏に、朝鮮人の「さし物」を傳へたり。その先祖、「朝鮮征伐」の時、彼(かの)國より、うばひきたる也、とぞ。享保年中、上覽にも入(いり)しもの也。五尺四方ほどの木綿(もめん)に、血を付(つけ)て、幟(のぼり)とせしもの也。殊の外、黑み、けがれて、幟の垂(たれ)、見えわかぬほどなれば、狩野梅春に仰付(おほせつけ)られ、別に、うつさせ、それをそへて返し、賜りたるを、ひとつに、納め置(おき)て、あり。其(その)別幅(べつふく)の寫したるを見しに、人をさかしまに釣(つり)て、左右より、鎗にて、突殺(つきころ)す所の畫(ゑ)なり、甚(はなはだ)氣味わるき繪やうなるよし。もとの幟の黑みたるは、泥中へ投(なげ)たるやうにも見得(みえ)、又、血などに、まみれたるやうにも見ゆると、いへり。朝鮮の勇士を討取(うちとつ)たるとき、其さし物をうはひて[やぶちゃん注:ママ。]歸朝せし事也と、いへり。

 

譚海 卷之五 朝士平岩七之助殿家藏舊記の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○平岩七之助殿と聞えし子孫、本所に住居(すまひ)也。其家に、七之助殿、年々の日記、自筆にて、しるしたるものを傳へたり、東照宮、御在世の時の日記にて、殊にめづらしきもの也。七之助殿、御側(おそば)にて、常に右筆(いうひつ)の役を勤られしゆゑ、筆まめにて、かく、日記も殘されけるにや、と、いへり。その日記は、半紙をはじめ、種々の紙をとぢあつめてかきたるもの也。反古(ほご)のうらなどに書(かか)れたるもあり、とぞ。又、七之助殿、陣中、帶せられし刀、有(あり)、長さ二尺餘(あまり)有(あり)て、みじかきものなれども、甚(はなはだ)大(おほい)なる刀にして、尋常の人の、もたるゝ物に、あらず、平岩氏、さのみ强力(がうりき)の聞えある人にもあらざりしが、希代のものなり。古人は、すべて、かやうなる物、多く帶(たい)せし事、有、人をきるべき爲(ため)のみにもあらず、たゝきふすほどの事なるべしと、いへり。

[やぶちゃん注:「平岩七之助」戦国時代から江戸初期の家康の幼い折りからの近臣(家康と同年齢)平岩親吉(ちかよし 天文一一(一五四二)年~慶長一六(一六一二)年)のこと。詳しくは、当該ウィキを読まれたいが、そこには、『親吉には嗣子がなかったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長』五(一六〇〇)『年』『に早世した。ただし』、「徳川幕府家譜」では『親吉の養子になったのは、異母兄の松平松千代とある。如何に親吉が功臣としても、同母弟が後に御三家筆頭となる家系の兄を養子とするとは考えにくく、庶子の第二子である松千代の方が適当といえる』。『自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたといわれる。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、平岩氏の所領を継がせようとした』が、『その子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、大名家平岩氏は慶長』十六年の『親吉の死をもって断絶した(ただし、』「犬山藩史」では、『甥の平岩吉範が後を継いで元和』三(一六一七)『年』『まで支配したとされる)』。『親吉の一族衆の平岩氏庶家は尾張藩士となり』、『弓削衆と呼ばれた。また、江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等で』、『その系統は続いている』とある。さて、では、本所に、当時、存命していた、『平岩直筆の日記を持つ平岩七之助殿と聞えし子孫』とは、一体、どの系統の子孫なのか? ちょっと、というか、かなり、怪しい感じがする。]

譚海 卷之五 諸國寺社什物寶劔の事

[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]

○有德院公方樣[やぶちゃん注:徳川吉宗。]、諸國寺社に納(をさめ)ある什物を御取(おとり)よせ、上覽ありしに、刀劍の數(かず)は、おほく僞物にて、正眞のものは、わづかに、かぞふる程ありしとぞ。常陸鹿島神宮に、「ふつのみたまの賓劍」といふもの、あり。「世に名高きものなれば、上覽あるべし。」と仰出されけるに、「此御劍は、往古より、巖石の下に納在(をさめあり)て、終(つひ)に拜見せしもの、なき。」よし、神主、言上しければ、「さもあれ、まづ委敷(くはしく)糺すべき。」由にて、上使、參り向ひ、せんさくありしに、件(くだん)の巖石を、引(ひき)のけたれば、石槨(せきかく)の中に寶劍とおぼしきもの、袋に納めて、堅く封じ、「開(ひらく)ベからざる」よし、書付ありしかば、上使、歸りて、言上せしに、「左樣ならば、上覽に及ばず。但(ただし)、其御劍の形、いかやうなるものにや、袋の上より、探りて、委敷申上(まをしあぐ)べし。」と有(あり)。「さぐりて見たるに、誠に寶劍のやうに思はれ、殊に、太く、大(おほ)ふりなるものに覺えし。」とぞ。其次第、言上に及び、上覽なくて、止(やみ)ぬるとぞ。

[やぶちゃん注:「ふつのみたまの賓劍」底本の竹内利美氏の注に、『ここでは鹿島神宮の宝剣の名であるが、本来フツノミタマ(布都御魂)は奈良県石上』(いそのかみ)『神社の祭神で、神武天皇熊野入り折、天神の与えた霊剣の名である』とある。「鹿島神宮」公式サイトの「武甕槌大神と韴霊剣」(たけみがづちのおおかみとふつのみたまのつるぎ)を参照されたいが、ここに書かれた同剣は鹿島神宮の宝物として現存し、国宝に指定されている。全長二・七メートルを『超える長大な神剣「直刀」』で、『この直刀の製作年代はおよそ』千三百『と推定され、伝世品としては我が国の最古最大の剣』であるとあり、写真も載る。而して、『これは、神話の上では』、『この韴霊剣が武甕槌大神の手に戻ることなく、神武天皇の手を経て石上神宮に祀られたことから、現在では「二代目の韴霊剣」と解釈され、現在も「神の剣」として鹿島神宮に大切に保存されて』ある由が記されてある。]

「近代百物語」 巻三の一「野馬にふまれぬ仕合吉」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。]

 

近代百物語巻三

   野馬(のむま)にふまれぬ仕合(しあはせ)(きち)

 攝刕難波は、我が日のもとの大湊(《おほ》みなと)、あきなひの道(みち)、數(かず)を盡し、

「金銀、脚下(あしもと)にころめく。」

とは、此所ぞ、いふならん。

 咋日まで、尻からげに、草鞋(わらんづ)[やぶちゃん注:「わらぢ」に同じ。]をしめ、人の供につきし身も、けふは、たちまち、引きかへて、置頭巾(おきづきん)に黑紬(《くろ》つむぎ)、笊籬(いかき)に、盆の蓋(おほ)ひして、豆腐を買ひにゆかれし人も、「奧樣」といふ名のつくは、實(げに)、此土地の事ぞかし。

[やぶちゃん注:「置頭巾」近世、袱紗(ふくさ)のような布を畳んで、深く被らないで、頭に載せるようにした頭巾のこと。

「笊籬」竹で編んだ籠。笊。]

 今はむかし、八けん屋のかたほとりに、松屋万吉といふ人、あり。

[やぶちゃん注:「八けん屋」「八軒家船着き場」のこと。現在の大阪市中央区天満橋京町(てんまばしきょうまち)にあった。「大阪市」公式サイトのこちらによれば、『天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに』八『軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると』、『外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和』二〇(一九四五)『年ごろまであった』とある。そこには『永田屋昆布本店前』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)とあるのは碑で、碑の写真はこれ(同前のサイド・パネル画像)。]

 生得(しやうとく)、あきなひのみちに、かしこく、日夜、東西にはしりて、いとまなき身なれども、月雪花(つきゆきはな)に、心をたのしめ、ふだん、なをざりなふ[やぶちゃん注:ママ。]かたらふ人に、長岡玄安といふ医者ありしが、頃は、やよひの半(なか)そら[やぶちゃん注:三月半ばのいい空模様の意であろう。]なれば、名花、四方よも)に咲(さき)みだれ、万吉も、心うかれ、

『さそふ水も。』

と、おもふおりふし[やぶちゃん注:ママ。]、玄安、案内(あない)し、入り來たり、

「㙒中《のなか》のくはんおん、櫻、色、こく、今をさかりと、聞へしまゝ、いざ、ゝせ給へ。」[やぶちゃん注:「㙒中《のなか》のくはんおん」近場では、天王寺区に高野山真言宗高津山観音寺があるが、周辺に観音を祀るところは、近くに別に二寺を認め、また、ここには「大坂三十三所観音めぐり石碑」もある。]

と、すゝめしかば、

「よくこそ、しらせ給ふものかな。我が胸中をしれる人は、先生なり。」

と出で行きしが、東にあたりて、葛城山、二上山の花ぐもり、かすかに見ゆるも、又なき風情(ふぜい)、野邊は、なたねに黃金(わうごん)をしき、堤(つゝみ)は、杉菜(すぎな)、げんげの色どり、にしきをはれるに、異ならず。

「空に、鳥の音(ね)聞ゆるも、宿(やど)では、ならぬ事ぞ。」

とて、はるかに見やるおり[やぶちゃん注:ママ。]こそあれ、一つの雲雀(ひばり)、そらより、おとし、ため池にとゞまりしに、目をつけ、見れば、あたりの草むら、風もふかぬに、左右に、わかる。

「あら、心得ず。」

と、氣をつくれば、かしらは、女、身は、きつね、二人は、目と目を見あはせて、またゝきもせず、ながめしに、池の藻くずを敢りあげて、うちかづくぞ、と見へけるが、いと艷(うる)はしき女に化(け)し、黑漆(こくしつ)の歯、笑(ゑめ)るに、あらはれ、嬋娟(せんけん)の鬢(びん)、春風(しゆんふう)になびく毛の、はへた事、知つた身さへ、心ときめく顏かたち、しらぬ人の、つまゝるは、もつともぞかし。

[やぶちゃん注:「嬋娟」容姿があでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。

「はえた」美しく「映えた」。但し、妖狐が「生えた」「毛」で変じる属性も秘かに掛けているように思われる。だからこそ、以下、直後に「毛」から「眉」毛「に唾して」と続くのである。]

『むりならず。』[やぶちゃん注:「化けるのを見た以上、これは、無理をせずに、無視して行かねばなるまいぞ。」という意であろう。]

と、眉に唾して、ゆきすぐれば、彼の女、あとより、よびかけ、

「わたくしは、河内(かはち)のもの、道ふみまよひ、さぶらふまゝ、たよりよからん所まで、道しるべして、たまはれ。」

と、なみだとゝもに、たのむにぞ、二人は、傍(そば)に立ちよりて、

「さきほどよりの水あそび、いかさま、おかしき事ども。」

と、

「どつ」

と、わらへば、とびのきて、女は、

「はつ」

と、おどろくけしき、

「あら、恥づかしや。」

と、顏、うち赤め、にげんとするを、二人は、引きとめ、

「かくあらはれしうへからは、しばらく、姿を、かへ給ふな。我(われ)、幼少の時よりも、はなしには聞きつれども、目前(もくぜん)、かゝるわざを、見ず。とてもの事に、ねがはくは、一つの不思議を、見せ給へ。」

と、ひとへに望めば、氣のどく顏、

「しからば、あとより、見へがくれに、我がゆくかたへ、來たり給へ。」

と、さきにすゝめば、二人も、ともに、したがひ、あゆむ。

 

Onanakitune1

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])狐

つると

云(い)ふつら

るゝといふ

いづれはつる

     にも

      勢

       ゟ[やぶちゃん注:「より」。]

つら

 るゝ

   にもせよ

 狐(きつね)の緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])は

《左端下に続く。左から右へ。》

        こそ

       からに

のがれず皆(みな)こゝろ

    *

以上は、一寸、難しい。私の推定読みで、書き直すと(〔 〕は私の現代語の補助)、

    *

「『女狐(をんなぎつね)〔を〕釣る。』と云ふ。(女狐は)『釣らるる。』〔釣られてしまった〕といふ。いづれは、『釣る』にも〔とは言うのであるが〕、〔女狐が〕勢(いきお)ひより『釣らるる。』〔と言った〕にもせよ、狐の緣は、〔決して〕のがれず、皆、(人は油断した、その)こゝろからにこそ(結局は化かされることになるのである)。』

という意か。「釣る」には、万吉と玄安が、女狐の後に「連れ」て歩くことに掛けていよう。判読の誤りがあれば、御教授下さると、嬉しい。

    *

《右側に万吉。持っているのは左の医者玄安の医薬箱であろう。玄安の台詞。》

ちつとおつれ

      に

  なりましたい

《女狐の、左側三分割の台詞。》

さい

  わい

   な

 ことで

      ござり

            ます

   *]

 

 むかふより、二十歲(はたち)あまりの、当世男(とうせいおとこ[やぶちゃん注:ママ。])、半合羽(はんかつは[やぶちゃん注:ママ。])の旅がへり、堤のへりに、腰、うちかけ、

「姉さま、どちへ。」

と、問ひかくれば、女は、しり目にかヘり見て、

「何、おしやんす。」

と、いふた顏、男、見るより、

「ぞつ」

として、

「どちへ、ゆかんす、送ろかへ。」

と、そろそろ、手など、引《ひき》あひて、南をさして、あゆみゆく。

[やぶちゃん注:「ぞつ」としたのは、言わずもがな、そのあまりの美しさ故である。]

 おりふし番家(ばんや)のありければ、おとこ、女の袖を、ひかへ、

「少(ちと)、やすまん。」

と、むりむたい、番家のうちへ、引きいれる。

[やぶちゃん注:「番家」番屋と同じで、主に消防と自警の役割をしていた自身番の詰所のことであろう。昼日中とはいえ、詰めている者がいないというのは?]

 女は、

「あれあれ、人がひな。」

といふ聲ばかり、かすかに聞へ、戶を引立《ひきた》て、入《いり》ければ、玄安は退屈して、あたりの家に、まくらをかり、夢路をたどる高鼾(たかいびき)、万吉は、しごくの見物、番小家の樞(くるゝ)の穴より、目も、はなさず、のぞく最中、たれかは、しらず、うしろより、

「コレ、あぶない。」

といふ聲に、びつくり、おどろき、よくよく見れば、野馬(のむま)の尻(しり)のあなに、目を、あて、番家とおもひ、のぞきたり。

[やぶちゃん注:「人がひ」「人買ひ」であろう。女衒(ぜげん)。

「樞の穴」扉の端の上下にある突出部を穴に入れて扉が回転するようになっている「くるる戸」にある隙間・穴。]

 

Onanakitune2

 

[やぶちゃん注:富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫」からトリミングした。キャプションは、

   *

狐(きつね)の人を化(ばか)すも

のちは白(しら)ばけ

にて

わかばい

 なる者を

  はめるは人(ひと)の

      心を

見ぬき

  たる

      せん

        さく也

   *

「わかばい」は「若輩」で、万吉と玄安を指す。「せんさく」は「詮索」(実は女狐は既にして二人の心を先に読んでいたのである)か。

《右の医薬箱を持つ呆けた目の医者玄安の台詞。》

扨[やぶちゃん注:「さて」。]こまち[やぶちゃん注:狐の化けたそれを「小町」と呼んだか。]

   どふなる[やぶちゃん注:ママ。「どうなる」か。]

《馬の尻の穴を覗く万吉の台詞。》

あのおんな[やぶちゃん注:ママ。]

     を

   むまい[やぶちゃん注:ママ。「美味い」。]

     し

     をる

   *]

 

 ふしんのあまり、大聲、あげ、玄安を、よび出せば、牛部(うしべ)やより、目をすりすり、よろめき、出でたる、泥まみれ、たがひに、顏を見合せて、あきれて、ことばも、なかりしとぞ。

[やぶちゃん注:「牛部(うしべ)や」「牛部屋」。農家の牛小屋。玄安もすっかり騙されていたという落ちである。

 本書の中では、初めて、挿絵と本文の共同作業が見事に成功している。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 八三番 狐と獅子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

     八三番 狐と獅子

 

 或時、日本の狐が唐(カラ)に渡つて住んで居つた事があつた。或日山の獸だの野原の獸だのが大勢寄合ひをして、各々(メイメイ)に自慢話をおツ初めた。大勢の獸どもががやがやと話すのを、獅子が聽いてうるさそうな顏つきをして、誰がなんて言つたつて世界中で俺にかなう者はあるまい。俺が一聲唸れば十里四方が大地震で、それや人間の家の鍋だの釜が殘らず引繰(ヒツク)り返つてしまうんだぞ、おフフン、と言ふと、威張屋の虎が、でも親方、俺の千里の藪の一走りツてのの眞似はできなかんべえと言つた。

 それを聽いて目本から行つて居た狐が、ははア斯《か》う言つては何だけれど、いくら獅子親方だつて虎兄貴だつて俺の手業(テワザ)にや及ぶまいと言ふと、虎は怒つて、そんだら俺と千里の藪を走《は》せ較(クラ)べしてみろと言ふ。よかんベアと言つて虎と狐とは走せ較べをした。いつの間にか狐は虎の背中に飛び乘つて居たもんだで、千里の藪の果てに着く間際に、ブンと背中からブツ飛んで狐が三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ばかり前に出たので、虎の負けになつた。そこで狐は大威張りでみんなの所へ戾つて來た。

 獅子はその態《さま》を見てひどく怒つて、この小獸め、俺樣の唸り聲でも聽いて頭(カラコベ)でも打(ブ)ツ割れツと言つて、ウワワワワアと唸つたけれども、其時には逸速《いちはや》く狐は土の中の穴に入つて居たので、平氣で、親方お前は噂に聽くとはテンカ(天)とウンカ(小蟲)ぐれえ違つて居る。俺アいゝ心持ちでうとうとして睡氣(ネム《け》)さして聽いて居たと言ふと、獅子はカンカンに怒つて此下者これでも聽いてくたばれ(死ね)ツと言つて、ワオアツと總體の力を打ツ込めて吠えると、勢いが餘つてスポンと首が拔けて吹ツ飛んだ。

 狐は笑ひながら其の獅子の首を背負(セオ)つて日本に歸つて來た。唐に居ては後の祟り(タタリ)が怖(オツカナ)かつたからである。其時の獅子の首は今でも祭禮の時にかぶつて步くあれである。

  (和賀郡黑澤尻町邊の話。村田幸之助氏の御報告の
   分の一。)

[やぶちゃん注:本話の前半は「戦国策」の「楚策」のそれで知られる「虎の威を借る狐」を借りた話譚であろう。後半は、獅子舞いの被り物の伝来由来譚として面白い。無論、中国には獅子のモデルであるライオンはいないのだが、それがまた、本邦の岩手に伝承されているというのが、フォークロアの異界と通底していて、やはり、面白いではないか。

「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS戦前の地図を確認されたい。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 諸君の所謂山男 / 「南方雜記」パート~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇を以って「南方雜記」パート部分は終わっている。]

 

     諸君の所謂山男 (書信一節)(大正六年二月『鄕土硏究』第四卷第十一號)

 

 (前略)序《ついで》に申上《まうしあぐ》るは、小生、山人(やまひと)の衣服か何かの事、書きしとき、「衣服を要するやうな山男(やまをとこ)は眞の山男に非じ」と書きしこと有之《これあり》、其眞の山男の意味を問はれたることありしも(『鄕土硏究』第二卷第六號三四七頁[やぶちゃん注:これは「選集」に割注して、久米長目(柳田國男のペン・ネームの一つ)の「山人の市に通ふこと」を指すとある。リンク先で電子化注済みである。])、場合無くて答へずに過申《すごしまう》せし。增賀《ぞうが》上人は、若き時蝴蝶の舞をやらかしたかりしも、一生、其暇なかりしとて、末期《まつご》に其態《わざ》を一寸演じて快く死なれた由。小生『鄕土硏究』の休刊に先だち、この狀を機會として、その「山男」の意味を答へ申上《まうしあげ》置く。『鄕土硏究』に、貴下や佐々木君が、山男、山男と、もてはやすを讀むに、小生らが山男と聞き馴れ居《を》る、卽ち、眞の山男でも何でも無く、ただ特殊の事情より、已むを得ず、山に住み、至つて時勢おくれの暮しをなし、世間に遠ざかり居る男(又は女)と云ふ程の事なり。それならば、小生なども每度山男なりしことあり。又、ぢき隣家に住む川島友吉と云ふ畫人などは、常に單衣《ひとへ》を著《き》、若くは、裸體で、和紀の深山に晝夜起居せしゆゑ、是も山男なり。仙臺邊に、藝妓がいきなり放題に良《やや》久しく山中に獨棲せしことも新聞で讀めり。

[やぶちゃん注:「增賀上人」(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)は平安中期の天台宗僧。比叡山の良源に師事。天台学に精通して密教修法に長じたが、名利を避けんがために数々の奇行を演じたことでも知られる。大和多武峰(とうのみね)に遁世して修行に勤しんだ。「名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし彼の裸は」殊に有名で、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉』に注してある。参照されたい。また、「今昔物語集」の巻第十二の「多武峰增賀聖人語第三十三」(多武(たむ)の峰(みね)の增賀聖人(ぞうがしやうにん)の語(こと)第三十三)が「やたがらすナビ」のこちらで新字であるが、電子化されたものが読め、そこの終りの方に、熊楠が紹介した胡蝶の舞いのエピソードも出るので、見られたい。

「川島友吉」(明治一三(一八八〇)年〜昭和一五(一九四〇)年)は日本画家。号は草堂。田辺生まれ。絵は独習。酒豪で奇行が多く、短気であったことから、「破裂」の別号もあった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に双方の知人の紹介で出逢い、以後、熊楠の身辺近くにあって、菌類の写生の手伝いもしたらしい。大正九(一九二〇)年の高野山植物調査にも同行している。日高の宿屋で客死した(以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年刊講談社現代新書)の記載に拠った)。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)+(追加発表「附記」分)」の「補遺」にも登場している。]

 そんなものが山男・山女ならば、當國(紀伊)の日高郡山路(さんぢ)村から熊野十津川(とつがは)には山男が數百人もある也。曾て恩借して寫し置きたる「甲子夜話」にも、山中で山男に遭ひ大《おほい》に怖れたるが、よくよく聞き正すと、久しき間、山中に孤居して松烟《しようえん》を燒き居《をつ》た男が、業《ぎやう》を終へて他へ移る所に遇うたのだつたと云ふつまらぬ話あり。今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮(ほんぐう)まで川舟で下るに、川端(かはゞた)に裸居又は襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑ひ居る者、睨み居る者など、必ず、二、三人は、ありたり。之に話しかけても、言語も通ぜず、何やら、わからず、眞に地仙かと思ふばかり也。扠《さて》よくよく聞くと、山居久しくして、氣が狂ひし者の、每々、かゝる行ひありと云ふ(アラビアなどの沙漠高燥の地にも、每々、かかる精神病者が獨居獨行する者ありと聞く)。乃《すなは》ち、狂人なり。又、九十餘歲にして、子孫、皆、死に果て、赤顏・白髮、冬中《ふゆぢゆう》、單衣を著《き》、「論語」の文ぢや無いが、簣(あじか)を擔《にな》うて、川を渡りながら、歌い行く者、あり。小生の舟が玉置川(たまきがは)の宿に著くと、其老人は、近道を取り、無茶苦茶に川を渡りあるく故、早く宿に著き、魚を賣りたる金で、一盃、飮み居る。仔細を聞くと、此者、死を求めて、死に得ず、やけ屎(くそ)になり、大和の八木(やぎ)と云ふ處より、一週に一度、南牟婁郡の海濱に出で、網引(あみびき)して、落とせし鰯等をひろひ、件《くだん》のあじかに入れ荷《にな》ひ、むちやくちやに近道をとりて、直ちに、川を渡り、走りありき、賣りながら、八木へ歸るなり、と云ふ。話して見るに、何にも知らぬ、ほんの愚夫《ぐふ》なり。こんな者も、山中で遇はゞ、仙人とか、神仙とか、云ふ人も、ありなん。山男も、此仙人と同例で、世間と離るゝの極み、精神が狹くなり、一向、世事に構はず、里を離れて住む者を「山男」と云ふなら、脫檻囚《だつかんしう》や半狂人の「山男」は、今日も、多々、あるべし。

[やぶちゃん注:「日高郡山路(さんぢ)村」現在の田辺市龍神村のこの附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。ここいらは、南方熊楠のフィールド・ワークの御用達の深山幽谷である。

「熊野十津川(とつがは)」この附近

『「甲子夜話」にも、……と云ふつまらぬ話あり』巻数も判らず、熊楠自身が「つまらぬ話」と言っているので、探さず、フライング電子化もしない。

「松烟」松材などを不完全燃焼させて作るカーボン・ブラック(炭素の微粉末)。煤(すす)の純度は低いが、安価なことが特色。靴墨や印刷インク等に用いる。

「北山」和歌山県東牟婁郡北山村。中央下方に「熊野本宮大社」を配した。

「あじか」「簣」「もつこ(もっこ)」とも読む。土砂を運ぶための籠。竹などで編まれた籠や笊(ざる)。

「玉置川」奈良県十津川村玉置川

「大和の八木(やぎ)」奈良県橿原市八木町(やぎちょう)か。橿原市の市役所所在地で、「畝傍駅」のある、完全な市街地である。

「南牟婁郡の海濱」ここ。]

 小生らが、從來、「山男」(紀州でヤマオジと謂ふ。ニタとも謂ふ)として聞傳《ききつた》ふるは、そんな人間を云ふに非ず。丸裸に、松脂(まつやに)を塗り、鬚・毛、一面に生じ、言語も通ぜず、生食《なましよく》を事とする、言はば、猴類《さるるゐ》にして、二手二足あるもので、よく、人の心中を察し、『生捉(いけど)らん。』、『殺さん。』と思うときは、忽ち察して去る(故にサトリとも謂ふ)と云ふもので、學術的に申さば、原始人類とも云ふべきもの也。此原始人類とも云ふべきもの、日本に限らず、諸國に其存在說、多きも、多くは、大なる猴類を訛傳《くわでん》したらしく、日本にも、遠き昔は、有つたかも知れず、今日は決して無きことゝ考ふ(但し、今も當郡の三川村・豐原村の奧山などには、此物ありて、椎蕈《しひたけ》を盜み食らふに、必ず、傘のみ、食《くら》ひ、莖を棄てあるなど申す)。「山男」が、人と吼合《ほえあ》ひして吼え負けし者、命を取らるなど申し、近野村には、「うん八」と云ふ男が、自分吼える番に當《あた》り、鐵砲を「山男」の耳邊で打ちしに、「汝は、大分、聲が大きい。」と言うて、消え失せしなど、云ふ。其鐵砲は、神社に藏しありしが、今は例の合祀で、どうなつたか、知れず。「山男」と、この邊で謂ひ、古來、支那の山𤢖《さんさう》・木客《もつかく》などに當てしは、右樣の(假定)動物、「本草綱目」の怪類にあるべきものに限る。

[やぶちゃん注:「三川村」現在の和歌山県田辺市合川に「三川(みかわ)郵便局」が現認出来る。「ひなたGIS」の戦前の地図で「三川村」を確認出来る

「豐原村」現在は、この地名は残っていないようである。当該ウィキの山岳名から見ると、「ひなたGIS」のこの附近と推定されるが、名は見当たらなかった。三川村のさらに東北の深山である。

「山𤢖・木客」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「木客(もつかく)」と「山𤢖(やまわろ)」を参照されたい。二つ続けて出る。]

 貴下や佐々木君の、「山男」の家庭とか、「山男」の衣服とか、「山男」の何々と言はるゝは、此邊で謂ふ「山男」にもあらねば、怪類の山𤢖・木客にも非ず、たゞ人間の男が深山に棲む也。前にも申す如く、深山に久しく棲む人間は、精神が吾々より見れば、多少、變り居る。從つて、擧動も、深山に慣れぬ者には、いぶかしき事、多し。併しながら、其は、やはり、尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とか言ふべきもの也。之を眞の「山男」乃《すなは》ち山𤢖・木客と混ずるは間違つて居ると申せし也。山民を見たくば、今日も、西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)、日高郡の三ッ又(みつまた)、東牟婁郡の平治川(へいじがは)などへ往けば、見らるゝ。三ッ又の者は、小生方へも、來る。まことに變な人間にて、人の家に入れば、臺所まで、ずつと通り、別段、挨拶もせず、橫柄に用事を言ひ、去る。こんな者を「山男」と悅ぶは、山地に往復したこと無き人のことで、自ら其地に至り、其家に遊ばゞ、言語應對が緩慢なるのみ、人情に、少しも、かわり無きことが、わかる。但し、三ッ又如きは、一村(大字)の者、三人と顏を見合わすこと、なし、という程の寒村にてある也。然れども、それ相應に理屈も言へば、計略もあり、山に住む男故、「山男」と言はゞ、それ迄なれど、かかる者を、「山男」、「山男」、と言いては、例の馬琴(ばきん)などが、江戶市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛《あて》て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡《よろこ》んだ如く、吾輩、每度、自分で山中に起臥した者などに取つては、笑止と云ふを禁じえず候。

[やぶちゃん注:「貴下」これによって、柳田國男宛書簡がもとであることが判明する。

「佐々木君」佐々木喜善のことであろう。

「西牟婁郡の兵生(ひやうぜ)」現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)兵生(ひょうぜい)。熊楠御用達の奥深い山間の採集地として、お馴染み。

「日高郡の三ッ又(みつまた)」兵生のさらに北の奥山で、現在の龍神村三ツ又。同前。

「東牟婁郡の平治川(へいじがは)」「ひなたGIS」で示す。現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)平治川

『例の馬琴(ばきん)などが、江戸市中に起こりし何でも無き事を、江戶で珍しさの餘りに、色々と漢土の事物に宛て、女の聲する髮結い少年を「人妖」とか、雷聲の少し變わつたのを「天鼓」とか云うて、怡んだ』私は昨年末、瀧澤馬琴著作堂の編著になる「兎園小說」の完全電子化注を一年半足らずで完遂しているが、最もありそうなそこには、調べたが、以上の二話は載らない(記憶もないので、確実である)。他の馬琴の随筆で所持するものや、国立国会図書館デジタルコレクションの検索システムでも探したが、かかってこない。熊楠自身、『馬琴などが』と言っているから、馬琴の著作ではないにしても、どちらか一方はあってよさそうなものだがな、とは思う。どこかで誰かの随筆で見つけたら、追記する。]

 小生、八年前、「三番」と云ふ所より、山を、二、三里踰《こ》えて、長野と云ふ所へ下《くだ》るに、暑氣の時故、丸裸になり、鐵槌(かなづち)一つと、蟲捕る網とを、左右に持ち、山頂より、まつしぐらに走り下る。跡へ、文吉と云ふ「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」に、頭に創を受けし、屈竟の木引《こび》き男、襦袢裸にて、小生の大なる採集ブリキ罐二箇を天秤棒(てんびんばう)で荷い、大聲、擧げて、追いかけ下る。熊野川と云ふ小字(こあざ)の婦女、二十人ばかり、田植しありしが、異樣の物、天より降《くだ》り來れりとて、泣き叫び、散亂す。小兒など、道に倒れ、起き上がること能はず。小生ら二人、かの人々、遁ぐるを見るに、畫卷《ゑまき》のごとくなる故、大《おほい》に興がり、何の事とも、氣づかず、益々、走り下る(其處《そのところ》、危險にて、岩石、常に崩れ下る故、足を止むれば、自分等(ら)、大怪我する也)。下まで降り著きて、田植中の樣子に氣付き、始めて、それと、我身を顧み、其の異態にあきれたり。それより、いつそのこと、其儘、長野村を通り、田邊近く迄も、其のまゝ來《きた》るに、村の人々、「狂人、二人、揃うて、來たれり。」と騷ぐ。これらは、人居近き處ゆゑ、是で、事、すみたれど、山中で、臆病な者に遇つたなら、必ず、「雷神に、遇つた。」とか、「山男に、逢うた。」とか言ふことゝ存候。現に、「山中で、雷神に逢うた。」など言ひ、「山男を、見た。」など言ふを聞くに、「パツチを、穿ち居りし。」とか、「ハンケチを、提《たづさ》へたり。」とか、胡論(うろん)[やぶちゃん注:ママ。普通は「胡亂」。]なこと、多し。小生自身も、「山男」如きものが、除夜の夕、一升德利に酒を入れ、深山の溪川《たにがは》を飛び越え走るを、見しことあり。實は、深山に籠り仕事する、炭燒きなり。その輩、里へ斬髮《ざんぱつ》に出るを見るに、丸で、狼《おほかみ》如き人相なり。先《まづ》は、右、申し上げ候云々。

[やぶちゃん注:「三番」不詳。山師らの用いるピークの符牒のような気がする。

「長野」現在も「長野」があるが、「ひなたGIS」で戦前の地図を見ると、もっと北の強力な山間地が含まれることが判る。なお、この戦前図と国土地理院図を見るに、前の「三番」と似ているものに、この長野と、「奇絶峡」という如何にもな名の溪谷を挟んで、西に「三星山」があるのが判る。これは「三番」の一候補としてもよいのではないか? とは思う。

「文吉」西野文吉。詳細事績不詳だが、南方熊楠の助手であった。

「沙河(しやが)の戰《たたかひ》」「日露戦争」中の陸戦の一戦。サイト「日露戦争特別展Ⅱ」の「沙河会戦」を見られたい。明治三七(一九〇四)年十月八日から同月十八日までで、沙河(「しゃか」とも読む)周辺で発生した(リンク先に地図有り。奉天からやや南西位置)。『遼陽を占領・確保した日本軍にたいして、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させます。両軍は』以上の期間に『かけて、沙河付近で戦闘を展開し、双方に大きな人的損害がでました。以後北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、翌年明治』三十八年の『春まで対峙します』とあり、下方により詳細な解説があり、『沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12800人で、戦死者4099人・戦傷者16398人の損害をうけました。一方のロシア軍は、参加兵力221600人で、戦死者5084人・戦傷者3394人・行方不明者5868人の損害を出しています。日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げています』とあった。

「熊野川と云ふ小字(こあざ)」不詳。この附近で、この名というのは、不審である。熊野を名に持つ地名は、複数あるが、言わずもがな、ずっとここよりも遙か東である。ただ、この長野地区は東北から「熊野街道」の「中辺路」道が下っている(「ひなたGIS」参照)から、驚いた田植えの婦女が、街道の名を言ったのを熊楠が聞き違えたか、或いは、この近くに「馬我野(ばかの)」「上馬我野」の小字を認める(同前地図参照)ので、これが訛って、そう聞えた可能性もあるやも知れぬ。

「パツチを、穿ち居りし」これは、「バッチ」で、現行、一般には、絹で作られている「股引」を指す。であれば、この「穿ち」はおかしくないか? これでは「うがち」とした読めない。これ、「穿き」の誤記と私は思う。活字の「ち」は反転し、「き」の活字と錯覚するからである。

 なお、最後に言っておくと、以上が掲載された『郷土研究』は、編集者柳田國男の個人的都合によって、一ヶ月後の大正六(一九一七)年三月、一方的に休刊されてしまうのである。また、実際には、この一年前の大正五年十二月の龍燈伝説と耳塚の論争の中で、南方と柳の関係は修復不能な破局を迎えてはいたが、謂わば、この熊楠の「お前らの言っている「山男」は「山男」に非ず!」というのは、インキ臭く世間体を第一とする柳田國男に対する、「鼬の最後っ屁」ならぬ、「熊楠の柳田への脳天ゲロ吐き」の痛快な一発であったと言えるように私は思う。実際、これ以降、南方熊楠は、その死に至るまで、柳田國男とはほぼ絶縁状態となるのである。

〔(增)(大正十五年九月記) 一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」一卷一二七頁に、ボルネオのバラム崎で燕窠洞《えんくわどう》を觀た紀事あり。此所の番人は、奇貌の老翁で、土人が遠征中、遠い山中で擒《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]た者だ。言語、一向、土人(カヤン人)に通ぜず。されど、今は、少々、カヤン語を解し、予がボルネオで見た内、尤も淸楚たる家に住ませもらひおれ[やぶちゃん注:ママ。]ば、甚だ滿足し居る樣子に見えた、とあり。一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」[やぶちゃん注:ルビは「選集」に拠った。]二の五〇四頁以下には、タヒチ島に、戰爭を怖れて失心し、山中に屛居する稀代な人間の記載、あり。尤も、眞の「山男」とも云《いふ》べきは、一八九一年牛津《オクスフォード》板[やぶちゃん注:読みは同前。]、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下に出たもので、髮・爪、長く、全身、毛を被り、栽培を知らず、洞に住《すん》で、蛇やトカゲを食ひ、礫と罟《あみ》と槍を以て、人を捕へ、食ふ、といふ。又、「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)に、いたく似たのは、南阿バストランドのトコロシで、これは、猴《さる》が、尾、なくて、人の手足あるようなもので、全身、黑く、黑毛、多く、日光と衣類を忌み、寒暑を頓著せず。人を病《やま》しめ、殺す抔、一切の惡事をなすそうだ[やぶちゃん注:ママ。](一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁。)。

[やぶちゃん注:『一八五八年板、センドジヨンの「東洋林中生活」』不詳。

「ボルネオのバラム崎」ここか。

「燕窠洞」中華料理の高級食材として知られる「燕の巣」が採れる洞窟であろう。アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族アナツバメ属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga などの数種の巣がそれに使われるが、なお、ウィキの「燕の巣」によれば、『アナツバメ類は』『東南アジア沿岸に生息』し、彼らは『極端に空中生活に適応したグループであり、繁殖期を除いて』、『ほとんど地表に降りることはない。睡眠も飛翔しながらとると言われるほどである。巣材も地表から集めるのではなく、空気中に漂っている鳥の羽毛などの塵埃を集め、これを唾液腺からの分泌物で固めて皿状の巣を作る。なかでもアナツバメ類の一部は、空中から採集した巣材をほとんど使わず、ほぼ全体が唾液腺の分泌物でできた巣を作る。海藻と唾液を混ぜて作った巣という俗説は正しくなく、海藻は基本的には含まれない』とあった。

「カヤン人」ダヤク族。ボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民のうち、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称異名の一つ。当該ウィキを参照されたい。

『一八二九年板、ユリスの「多島海洲《ポリネシア》探究記」』不詳。

『一八九一年牛津《オクスフォード》板、コドリングトンの「ゼ・メラネシアンス」三五四頁已下』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の「The Melanesians : studies in their anthropology and folklore 」(「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読める

『「和漢三才圖會」四十の、九州深山の山童(やまわろ)』私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山𤢖」を参照されたい。

「南阿バストランドのトコロシ」「バストランド」はアフリカ南部、レソト王国の独立以前の名称。「トコロシ」は不詳。

『一九〇三年板、マーチン「バストランド口碑風習記」、一〇四頁』ミニー・マーティン(Minnie Martin)になる ‘Basutoland: Its Legends and Customs’。「Internet archive」で調べたところ、当該原本はあったが、当該頁画像が欠落してなかった。]

2023/05/20

「近代百物語」 巻二の三「箱根山幽靈酒屋」 /巻二~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

      三 箱根山幽靈酒屋(はこねやまゆうれいさかや)

 

Yuureisakaya1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

世(よ)に下戸(げこ)と

化物(ばけもの)は

なし

  と

 いふ

  醉(ゑひ)て

   心(こゝろ)の乱(みだ)れ

くるふぞ

  ばけ物の

    骨頂(こちてう[やぶちゃん注:ママ。]

   なるべし

《右の童子の台詞。》

さけのよい[やぶちゃん注:ママ。]

  さけのよい[やぶちゃん注:底本では踊り字「〱」。]

《酔っ払いの台詞。》

そのさけ

 外へは

 やらぬ

 やらぬ

   *

後のものも、またしても本文内容とは一致を見ない戯画である。]

 

 瓢齋(ひようさい[やぶちゃん注:ママ。])といふ隱士あり。

 ふと、おもひたち、

「みちのくの名所、見ん。」

とて、都より、東海道に、かゝりくだりしに、「はこね」の山中にて、おもわず[やぶちゃん注:ママ。]、日、くれたり。

 みちを、ふみまどひて、人のかよはぬ所へ出でたり。

 されども、酒店(さかみせ)、あり。

『まづ、ひとつ、酒をのみて、道をも、たづね行くべし。』

と、おもひ、店に入りて、

「酒を、のむべし。」

と、いへば、一人の女《をんな》、うちへ入り、しばらくして、もち出でて、あたふ。

 其色(いろ)、はなはだ、紅(あか)くして、味はひ、甘美なり。

 すでに、酒を、皆、のみて、

「今、一《ひと》てうし、もち來るべし。」

と、いふに、女、泣いて、いはく、

「又、酒を、もとめ給ふまじ。われ、世にありしとき、はなはだ、おごりて、日々に酒をのみ、世のついへを知らざりし。此ゆへに、死して、今、此むくひを、うく。酒を買ふ人あれば、我が身のうちの血を、しぼりて、これを、うる。其くるしさを、あわれみ[やぶちゃん注:ママ。]たまへ。」

と、いふに、瓢齋、おどろきおそれて、はしり出して、やうやう、本みちに出でたれば、まだ、日は、たかし。

 人に、此事をかたるに、其所を知るもの、なかりし、となり。

 

Yuureisakaya2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

酒(さけ)を吞(のみ)て

 能(よき)ほど

  有べし

米(こめ)は

 人を

 養(やしの)ふ物

  なるを

 無益に(むゑき[やぶちゃん注:ママ。])に

  ついやす[やぶちゃん注:ママ。]

       

 天のとがめ

 あるへし

《上の男の台詞。左手の傍ら。》

たるとは

 つらいぞ

《下の男二人のどちらかの台詞。右下方。》]

なむさん

ばけ

 たり

《樽の化け物の口の前の台詞。》

酒を

くらは

 さふ[やぶちゃん注:ママ。]

《左下の盃の化け物の台詞。》

おほい

 おほい

   *]

 

二之巻終

「近代百物語」 巻二の二「貪慾心が菩提のはじまり」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

      二 貪慾心が菩提のはじまり

 

 橫死するもの、皆、慾より出でずといふ事、なし。

 おのれが罪、おのれを責む。世をも、人をも、うらむまじ。

 善惡ともに、身よりつくり、天、これを賞罰す。

 其よくを、つゝしむ時は、橫難(わうなん)の災(さい)は、まぬがるべし。

 

Sumou

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

欲(よく)といふ化物(ばけもの)こそ

世におそ

ろしき物(もの)

なれ是(これ)の

變(へん)じえさま

さまのさつくり

こと變化(へんげ)をなす

        こと

 すさまし

    あれ

《持ち上げられた刀豆銀の台詞。》

これは

かな

 はぬ

《持ち上げている小判の台詞。左足の脇。》

これわい

    な

《一本足の行司の足下。》

 すまふ

   *

またしても、この幅は本文に付随している感じではない。]

 

 今はむかし、伏見の里七瀨川(なゝせがは)のかたほとりに、大津屋六兵衞とて、菜(な)・大こんなど、うりありき、あるひは、飛きやく、又は、煤(すゝ)はき、葬送のちやうちん持ち、あると、あらゆる、かせぎなりしが、女房は、「おまつ」とて、あたりとなりの買物づかひ、芝居の供に、やとはれなどして、貧しくゝらす夫婦ありしが、しだひに、身上(しんしやう)あつくなりて、家屋しきなど、買ひもとめ、金銀、よほど、取りさばき、家質(かじち)など、かし、商買、手ひろく、不自由なる事なき身となりしが、六兵衞、五十一歲なれども、一子(し)もなくて、これを歎けども、そのかひもなく、すぎ行きける。

[やぶちゃん注:「伏見の里七瀨川」現在の京都府京都市伏見区竹田七瀬川町(たけだななせがわちょう:グーグル・マップ・データ)。]

 そもそも、此六兵衞夫婦が、貧窮の身の、今のごとく繁榮せし事、「おまつ」が强慾無道より、取りあつめたる金銀なり。

 まづ、六兵衞妻、まづしきとき、近所にやとひて、よろづの物を買ひにやれば、その代物(しろもの)の高(たか)に應じて、二、三錢より、あるひは、十錢、それそれに、かすめ取り、縫物にやとはるれば、中綿・糸など、ぬすみ取り、往來するにも氣をつけて、しらぬ人の家へ立ちより、

「たゞ今、道にて、犬におどされ、これまで、にげて參りました。かへりにも、また、かみ付きましよ。御無《ごむ》しんな事なれども、割木(わり《き》)、一本、下さりませ。おどしのために、いたしたい。」[やぶちゃん注:「御無しんな事なれども」「無しん」は「無心」。「そうした御意志は、一向、おありにならないことではありましょうが」の意。]

と、人の心のつかぬ盜み、我が家よりは、尻(しり)きれ草履(ざうり)、みちにて、餘所(よそ)の中場(《うち》にわ[やぶちゃん注:ママ。])ながめ、鹽目(しほめ)のよき草履あれば、何くはぬ顏つきにて、

「此あたりへ、あとの月《つき》、宿(やど)がへして參られました『玉や五兵衞』と申す人は、此お長屋には、御ざりませぬか。」

と、いふうちに、そつと、はきかへ、又は、つかひに、やとはれゆくにも、心やすき出入りの家へ、五、六けんも立《たち》よりて、

「寺參りに出ましたが、近所の子たちへ、土產にせんと、まんぢう買ひによりましたれば、わたくしとした事が、いつの間にやら、はな紙、おとし、手に持ちても、かへられませず。其はな紙、二、三枚、おくれなされ。」[やぶちゃん注:「はな紙」ここは「財布」のこと。数枚の鐚銭(びたせん)を所望しているのである。]

と、手を出だせば、誰(たれ)ともに、氣のつかぬ所へ、付けこむ事なれば、

「それは、御なんぎ。お心やすきことや。」

とて、四、五枚、やれば、

「これは、これは、わりない御無しん申しまし、おかたじけなふ、ござります。」

と、門(かど)ぐちへ出て、胸算用(むなざん《よう》)、五軒で、たしかに十、一、二錢。

 油を、たのめば、一升で、一合ばかり、我がものに。

[やぶちゃん注:「わりない」「理無い」。道理に合わない、理屈が通らぬ。「無しん」同じ「無心」であるが、ここは「人に金品をねだること」を指す。]

 客ある家より、たのみにくれば、

『これは、せんぎならぬとき。』

と、一升で、二合も、かすめ、その外、醬油・茶にいたるまで、無事《ぶじ》じや、とをさぬ、大慾しん。

[やぶちゃん注:「せんぎならぬとき」「詮議ならぬ時」。客に即座に出すものであるから、いちいち、その量を調べたりする暇はないから、誤魔化すに絶好の機会だ、という意。]

 なかんづく、誰(たれ)にか、習ひし、「おろし藥」の方(はう)をおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]、くすりを合せて、賣り、ひろめ、高値(かうじき)に、代銀、うけとり、古今無双のどんよくより、つくりあげたり、今の身上《しんしやう》。

[やぶちゃん注:「おろし藥」堕胎薬。]

 ある夜、六兵衞夫婦のもの、いつものごとく臥(ふ)したりしに、牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼、來たり、

「六兵衞妻、たしかに聞け。閣魔王の仰せあり。これへ、出でよ。」

と、よばゝれば、

「何事やらん。」

と出でけるに、鐵(くろがね)の盤(はん)をすへ、

「いそぎ、これへ、あがれよ。」

と、手を取りて、引きあぐれば、何心なく、乘りうつれば、手とり、足とり、引きたをし[やぶちゃん注:ママ。]、上より、きびしく、盤をのせ、

「なんぢが罪科(つみとが)、いふにおよばず。おもひしれ。」

と、いふまゝに、くろがねの棒をもち、

「エイ。」

と、いふて、締めければ、骨は、みぢんに、おしくだけ、脂(あぶら)は、ながれて、瀧のごとく、

「あらくるし、たへがたや、」

と、もだへ、さけぶありさまを、六兵衞、見るに、痛はしく、

「何とぞ、これを助けん。」

と、走りよれば、あしもとより、俄(にわか)に、火焰(くはゑん)、もへあがり、只、くるしみの聲のみ聞へて、姿も見へねば、せんかたなく、むねも張りさく、其かなしさに、夢はやぶれて、側(そば)にふしたる「おまつ」を見れば、手あしを、ひろげて、くるしき息《いき》ざし、六兵衞、急に、だきおこし、

「夢はし見つるか、氣を、つけよ。」

と、水など、用ひて、正氣にかへれど、夫《をつと》へ恥ぢて、かたらねば、夫も遠慮し、たづねもせず。

[やぶちゃん注:「夢はし」の「し」は強意の副助詞。]

 とやかくとする中《うち》に、夜《よ》は、ほのぼのと、あけわたり、夫は家業に取りかゝれば、「おまつ」も世事(せじ)に取りまぎれ、夢もわすれて、其日も、くれ、いつものごとく、ふしけるに、また、前の夜にかはらぬ夢、それよりは、うちつゞき、十日ばかりも每夜(まいや)のせめに、心身(しんしん)つかれ、おとろへしかば、醫藥(いやく)をつくせど、しるしも、なし。

 

Daibutu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

地(ぢ)ごく極乐(こくらく)

    遠(とを[やぶちゃん注:ママ。])きに

 あらず

  見る事

 恐(おそ)れ

   ずんば

 後(のちの)

  悔(くやみ)

 近

  かるへ

  し

《殿の手前(下方)。》

大きな

 もの

  じや

《堂の階段を上っている参詣人の台詞。左から右へ。》

      ふ[やぶちゃん注:ママ。]

    はいら

ごくろさん

   *

最後の三行は自信なし。まあ、意味は通るが。なお、右手の「もちや」に「大佛」とあり、大仏殿の形状から、奈良の東大寺らしい。]

 

 「おまつ」は、一ねん發起して、なみだをながし、夫にむかひ、

「今般(このたび)のびやう氣のしな、醫術・祈禱のちからによつて、ほんふくすべき事には、あらず。みな、これ、我が身の惡事のつもり。死するいのちは、おし[やぶちゃん注:ママ。]からねど、ながく、地獄におち入りて、苦患(くげん)をうけん、おそろしさよ。すぎしころより、うちつゞき、かやうかやうの夢のせめ、身におぼへある事なれば、かなはぬ事とはおもへども、今より、こゝろを、ひるがへし、佛道にこゝろざし、諸こくの靈佛靈社をめぐり、罪(つみ)をも、たすかり申したし。今日《けふ》より、わが身に、いとまを、たべ。」

と、ふししづみ、なげきければ、六兵衞も、なみだながら、

「これまでは、其方が、はぢなん事を、おしはかり、しらぬがほして居《ゐ》たりしが、われも、かはらぬゆめの告げ。これも、ひとへに、『夫婦のもの、佛所にみちびきたまはん。』との、彌陀、方便(《はう》べん)の慈悲なれば、われも、ともに。」

と、もとゞり、おしきり、家財、のこらず、家僕(けらい)につかはし、すぐに旅路におもむきて、四國・西(さい)こく・諸こくの靈場靈佛とだに、聞きおよべば、あるひは、護摩堂を、こんりうし、永代燈明(えいたいとうみやう)、きしんして、その外、貧寺(ひんじ)の破そんを修造(しゆぞう[やぶちゃん注:ママ。])し、まづしきものには、金銀をあたへ、心のまゝに善事(ぜんじ)をなして、「おまつ」は信州善光寺のふもとに死すれば、六兵衞も、また、その所に、いほりを、もとめ、一生、ねんぶつ、おこたりなく唱へて、うき世をすごしけるとぞ。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八二番 狐の報恩

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「わかみづ」と読む。]

 

   八二番 狐の報恩

 

 或所に爺と婆があつたが、家が貧乏で、爺が每日山へ行つて柴刈りをして、それを町に持つて行つて、賣つて、其日其日の生計(クラシ)を立てゝ居た。或日爺がいつものやうに山へ行くと、村の童衆(ワラシ)どア三人で一匹の狐を捕へて半殺しにして責檻《せつかん》してゐた。爺はそれを見て哀れに思つて、ぢエぢエ童衆だちどやえ、何して居れヤ、生物(イキモン)をそんなひどい目に遭はせるもんでねえ。それよりも俺に賣らねえかと言つて、一人に百文宛《づつ》錢を與へた。すると童衆どア喜んで、ほんだらこの狐ア爺樣さケツからと言つて、狐の首に結び著けた繩ごと爺に渡した。爺はあゝめんこ共(ド)だと言つて其狐を曳いて山の方へ連れて行つた。そしてお前は何處の山の狐だか知らないが、これから晝日中(ヒルヒナカ)などに村屋《むらや》近くに出はるな。二度とあんな童衆どアに捕へられないやうに氣をつけろやエ。ほんだら、ささ早く自分の穴さ歸れ々々と言つて聽かせて、そろツと小柴立ちの中へ放してやつた。

[やぶちゃん注:「ぢエぢエ」単なる呼びかけ。「五四番 蛇の聟」の「其の二」の私の「ヂエヂエ」の注を参照されたい。]

 其次ぎの日、爺が山へ行くと、昨日の狐が出て來て、爺樣々々おら昨日は爺樣のおかげで危い生命(イノチ)を助けられて何ともありがたかつたまツちやそれで何とかしておらア爺樣さ御恩返しをしたいから、爺樣に望み事があれば、何でも言つてケ申(モ)せと言つた。爺はそれを聽いて、ホホウお前は昨日の狐であつたのか、何も俺はお前からお恩返しをして貰ふべと思つて、お前を助けたのではない。ただお前がモゾかつた[やぶちゃん注:「可哀そうだった」。]から、其で助けたのだから、御恩返しも何もいらない。畜生の身でありながらお前がさう言つてくれるので、はア澤山だ。それよりもこんな所へ出て居《ゐ》て、又村の童衆ドなどに見つけられては事だから、早く穴さ歸れと言ふと、狐は淚を流して爺に摺《す》り寄り、爺樣々々それでは斯《か》うしてゲ、丁度此下村のお寺では、釜が無くて困つて居るから、俺が釜に化けます。爺樣は少々重かべけれど、其釜を持つて行つて和尙樣さ賣つて金を儲けてケ申《も》さい。よいか爺樣と言つて、狐は尻尾を卷いて、くるくるツと體を三遍𢌞《まは》すと、直きに立派な唐銅(カラカネ)の釜になつた。爺が緣《ふち》を叩いて見れば、ゴオンといい金鳴《かねな》りがする。かうなつて見れば、爺も其の儘山に棄てて置く譯にも行かぬから、寺へ擔《かつ》いで持つて行つた。そして此釜は昔の人達(先祖)が買つて置いた物だども、賣りたいと云ふと、寺の和尙樣は一目見て慾しくなり、少し高いども、之れで負けとけと言つて、金を三兩出して買つた。爺は今まで見たことのない大金をふところに入れて喜んで家に歸つた。

 和尙は氣に入つた釜を買つて喜んで、小僧々々この釜によく砂をかけて磨いて置けやい。明日は竈造(カマヅク)りを賴んで來て、竃造りをすべえと言つた。小僧は釜を背戶《せど》の川戶(カド)へ轉がして行つて、砂をかけてごしごし磨くと、釜が聲を出して、小僧痛いぞ、小僧痛いぞと言ふ。小僧は魂消《たまげ》て庫裡《くり》へ駈け込んで和尙樣し和尙樣しあの釜が物を言ひンすと言ふと、和尙は本統[やぶちゃん注:ママ。]のことゝは思はぬから、何《なに》それは釜の鳴音《なるおと》が、お前サあう聽へたべたら、よい釜と謂ふもんは鳴音までが違ふもんだ。ええからほんだら庫裡さ轉がして來て置けと言つた。小僧は怪しみながら和尙の言ふ通りに、また川端(カバタ)から轉がして來て庫裡に置くと、其夜の中《うち》に釜は何處へどうなつたか消え失せてしまつた。和尙はどうもあの釜はあんまりよい釜だつたから、夜間(ヨマ)のうちに盜人に盜まれたと、後々までも口惜しがつて居た。

 爺はそんなことは夢にも知らないから、其次の日も山へ行くと、昨日の狐がまた來て居て、爺樣お早ヤがんす。昨日はあれからお寺で小僧に砂をかけられて、ごしごし磨かれて隨分えらい目に遭つた。今日は俺が爺樣の娘になるから、爺樣はこれから町さ行つて、櫛《くし》笄《かうがい》それから帶だの手拭《てぬぐひ》だの前振りコ足袋《たび》と、斯う買つて來てケてがんせ。さうしたら俺が美しい娘になるから、爺樣は町の女郞屋に連れて行つて、うんと高く賣りつけてゲ。さあさあ、早く々々と言はれて、爺はその足で町へ行つて、狐の言ふ通りな品物をユエて(求めて)また山に歸つて來た。狐は待つて居て、爺樣早かつたます、俺ア皆氣に入つた物ばかりで面白い。それではこれから姉樣になるから見てクナさいと言つて、くるくるツと三遍𢌞つて、綺麗な姉樣になつた。爺はそれを連れて、町の遊女屋へ行つて、これが俺ア娘だから買つてケながんすかと訊くと、旦那は欲しがつて、金を百兩出して爺に渡した。爺はその金袋を持つて家に歸つた。

[やぶちゃん注:「前振りコ」少年や女性が、髪の毛の額の上の部分を、別に束ねたもの。額髪(ぬかがみ・ひたいがみ)。向髪(むこうがみ)のことか。]

 女郞屋ではまた其娘が大層流行(ハヤ)つて、旦那はうんと金儲けをした。翌年の節句の日に、娘は旦那の處へ行つて、私は此所へ來てから、一度も里へ歸つたことがないから、歸つて兩親に逢つて來たいます。一目の暇《いとま》を貰いたがんすと言ふと、旦那もほんとう[やぶちゃん注:ママ。]にさうだと思つて、手土產などをどつさり持たせて娘を里へ歸した。ところが娘は其れつきり女郞屋へは歸つて來なかつた。旦那の方でも、あの娘では買つた金の幾層倍も儲けて居たから、女郞しようばいを厭(ヤ)んたくなつたら仕方がないと言つて尋ね人も出さなかつた。

 爺樣がまた或日山へ行つて居ると、又狐が出て來て、爺樣々々久しぶりだつたな。達者で居たますか、俺も町の女郞屋さ行つて體を疲れさせたからしばらく休んで居た。それで體加減もあらかたよくなつたから、もう一度爺樣さ恩顧《おんこ》送りたい。こんどは俺ア馬になるから何處でも遠土《ゑんど》の長者殿の所さ曳いて行つて賣つてゲ。併しこんどこそは俺も一生一度の爺樣サのつとめだから、わるくすると爺樣とはこれツきり遭はれないかも知れないから、さうしたら今日の日を俺の命日として、時々思ひ出して回向《ゑかう》しておくれヤンせ。さあそれでは馬になるからと言ふ。爺樣はやめろやめろ、もうお前には重重の世話になつて、昔とは變つて今日ではこの爺も何不自由のない生計向(クラシムキ)となつて居る。この上はアお前から何もして貰ひたくないと言つて居る隙《すき》に、もう狐は立派な靑馬になつて居た。爺樣も斯うなつては何とも仕方がないから、其馬を連れて遠土の長者殿へ行つて、百兩に賣つた。爺はまた其の金を持つて家に歸つた。

 靑馬になつた狐は、丁度其折テンマが告(ツ)がつて、大きな葛籠《つづら》を兩脇につけられて、其上に貴人を乘せて、長い々々峠路を越えて行つた。さうすると何と云つても根が小獸だから直ぐに精をきつて汗ばかり流して步けなくなつた。多勢《おほぜい》の男達はそれを見て、慣れない馬は、これこの通りだと言つてえらく責め責檻をした。狐はそのまゝ倒れたので、此馬は分らない分らないと言つて澤邊《さはべ》に棄て置いて、別の馬に貴人も荷物も移しつけて山越えをして行つた。狐の馬はみんなが其所を立ち去つた後で何處へ行つたものか二度と姿を現はさなかつた。

 爺は狐のお蔭で近鄕きつての福德長者樣となつた。それから狐の遺言《ゆいごん》を忘れないで、屋敷の内に立派な御堂を建てゝ祭つた。そしていつも月の十九日には爺婆して、御堂に行つて狐の後生《ごしやう》を祈つた。

  (村の古屋敷米藏爺樣から聽いた話の一。
   大正十一年十二月某日。)

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 八一番 若水

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「わかみづ」と読む。]

 

      八一番 若  水

 

 昔或所に大層貧乏な男があつた。家は貧乏ではあつたが慈悲心が深くて、村の人達からも惡くは言はれなかつた。名前は若松と云ふ男だつた。

 若松は或年の年越の日、木を伐つたりなんかして貯(タ)めた僅かばかりの錢を持つて、年取仕度《としとりじたく》に町へ行つた。其途中の野原で子供等が狐を捕へて、ひどく責め折檻をして居るのを見て、性來慈悲の深い人なので、持合《もちあ》はせの錢を皆出して、兄達(アンコダチ)々々、この錢をやツから其狐を俺に賣つてくれと言つて、狐の生命乞《いのちご》ひをして抱いて行つて、子供等が見て居ない所で放して遣つた。そして錢が無くなつて、米も魚も買ふ事ができなくなつたから其の儘家へ還つた。

 元朝《がんたん》になつても食ふものが無かつたので、いろいろ考へたが良い考へも浮ばなかつた。米櫃をひつくり返して底を叩いて見ると、其所にやつと米粒が三粒ばかりこぼれ落ちた。若松はこれでも粥に煮てお正月樣に上げべと思つて、桶で水を汲んで來て大鍋をかけて炊いた。すると飯が大鍋いつぱひ[やぶちゃん注:ママ。]になつた。

 若松は正月中每朝每朝早くに起きて水を汲んで來ては大鍋に入れて、米の御飯炊いてめでたいお正月を過した。

 今でも其由來で家每《いへごと》で若水を汲むのだと謂ふのである。

  (栗橋《くりはし》村の口碑。この若松と云ふ名前
  が緣喜《えんぎ》がよいと云つて今でも方々に同名
  の男がある。菊池一雄氏の御報告の分の四。)

[やぶちゃん注:「若水」小学館「日本大百科全書」から引く。『元日早朝に初めてくむ水。初水』(はつみず)『ともいう。平安時代、宮中では、あらかじめ封じておいた生気(せいき)のある井戸から、主水司(もいとりのつかさ)が』、『立春早朝に若水をくみ、女房の手によって天皇の朝餉(あさげ)に奉った。その後、朝儀が廃れ、元旦』『早朝にくむ風が定着した。現行民間の若水は、年神祭』(としがみさい)『の祭主である年男が』、『未明に起き、「若水迎え」などと称して新調した柄杓(ひしゃく)と手桶(ておけ)を持って井戸や泉・川に行ってくんでくるもの。年神に供えたり、口をすすいだり、沸かして福茶などといって家族一同で飲んだり、雑煮(ぞうに)の支度に用いたりする。西日本にはくむのを主婦の役目にしている所があるが、何か隠された理由があると思われる。くむ作法としては、「福くむ、徳くむ、幸いくむ」「こがねの水くみます」などのめでたい唱え言をしたり、餅』『や洗い米を供えるなどが一般的であるが、秋田県などのように、丸餅を半分だけ井戸に入れ』、『残りを若水に入れて持ち帰ったり、九州南部のように、歯固(はがた)めの餅を若水桶に落として』、『表裏の返り方で年占いをするなど、所によって特色ある作法が守られている。愛知県北設楽(きたしたら)郡の一部には、このとき』、『井戸から小石を二つ拾ってきて、一年中』、『水甕(みずがめ)の底や茶釜』『に入れておく所があった。これら若水には、年中の邪気を払い幸いを招く力が認められていたが、同時に、古代の変若水(おちみず)の信仰のように』、『人を若返らせる力も期待されているのであろう。近年、水道の普及に伴い、若水をくむ風は各地で絶えようとしている』とある。

「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった旧村名。現在の釜石市栗林町橋野町に相当する(グーグル・マップ・データ)。釜石の北西の山間部である。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 柳の祝言

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は、引用が、あまりにもごちゃごちゃしているので、個人的にそこで改行し、読み易くした。漢文部は後に〔 〕で推定訓読を附した。

 なお、「選集」では、標題後の参照指示の内容を『桜井秀「柳の祝言」参照』と明示してある。この人物は風俗史家の桜井秀(しげる 明治一八(一八八五)年~昭和一七(一九四二)年)のことと思われる。当該ウィキによれば、『東京都出身。国学院卒』で、明治三九(一九〇六)『年、関保之助・宮本勢助らと、風俗史の研究会を結成』した。昭和三(一九二八)年、『「平安朝女装ノ史的研究」で』、『京都帝国大学文学博士』を授与され、『東京帝国大学史料編纂所員、宮内省図書寮御用掛など』を務め、『日本女子大学でも教えた』とあり、さらに『「俗信」という単語を初めて使用した研究者の』一『人と見られ』ているとあった。

 標題は「やなぎのしうげん」(やなぎのしゅうげん)。先に種明かしをしておくと、これは、正月の「詞始め」の目出度い慶事を指す。

 また、本文には崩し字型の約物が出る。これは、活字で示せないので、底本の画像を高解像度でダウン・ロードし、トリミングして示した。]

 

     柳 の 祝 言 (大正四年十月『鄕土硏究』第三卷第八號)

               (『鄕土硏究』二卷五號二八三頁參照)

 

 明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]六月大阪發行『有名無名』第二號に、選者不詳の寫本「歌俳百人集」を引いて、天保初《はじめ》頃[やぶちゃん注:天保は元年が一八三〇年で、天保十五年まで。]、二世歌川豐國名弘(なびろ)めの時、柳橋「大のし」の樓上で、其書の著者が、櫻川慈悲成《さくらがはじひなり》に手跡を乞ふとて扇子を出すと、

「靑柳に蝙蝠《かはほり》の飛びかうさまを畫《か》きて自賛に『靑柳は※1(まいらせそろ)に似たる哉 さればそのこと目出度※2』。」

[やぶちゃん注: 以下、底本画像から。

※1

Mawirasesoro

※2

Sahurahukoto

「※1」はルビごと採った。「※2」はルビはないが、「候͡と」(さふらふこと(事))の約物であろうか。

『柳橋「大のし」』両国柳橋の南の袂(たもと)にあった知られた料理茶屋。サイト「ジャパン・サーチ」のこちらで、歌川広重の「江戸高名會亭盡」(えどこうめいくわいていづくし)の「兩國柳橋 大のし」のまさに、その二階家が描かれ、しかもそこでは書画会が行われている最中である。

「櫻川慈悲成」(宝暦一二(一七六二)年~天保四(一八三三)年か天保一〇(一八三九)年か)は戯作者・落語家。本名は八尾大助。]

 此歌の意、年頃、解し難く思うて居つたが、嘉永三年[やぶちゃん注:一八五〇年。]の頃、本所瓦町(ほんじよかわらちやう)住居《ぢゆうきよ》、誠翁《せいをう》なる者の話に、

「禁中にて、每年、正月元日の詔(みことの)り始めに、皇后の言《いはく》、

『ゆの木の下の御事《おんこと》は。』

とのたまふ時、帝の、

『されば、其事、目出度候。』

と御挨拶遊ばす事、恒例なり、と云ふ。其故由(ゆゑよし)は知らねども、之を『詔《みことのり》の始め』と云ふ。又、洛中・洛外ともに、貴賤の人々、元旦の「詞始め」に夫婦共《とも》、淸服を著《ちやく》し、妻女、先づ、

『柳の下の御事は。』

と云ふ時、亭主、

『されば。その事、目出度候。』

と言終《いひをは》りて、屠蘇を飮み、雜煮を祝ひぬれば、其年、災《わざはひ》を遁《のが》ると言習《いひなら》はされ、禁中にては、「柚(ゆ)の木の下」、地下(ぢげ)にては「柳の下」と言習はす、との話にて、慈悲成の狂歌を發明したり。江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

と出づ。

[やぶちゃん注:「柚(ゆ)」双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos 当該ウィキによれば、中国の『中央および西域、揚子江上流の原産であると言われ』、『中国から日本へは平安時代初期には伝わったとみられ』、『各地に広まって栽培されている』。一方で、『日本の歴史書に』は『飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載がある』ともあった。]

 安政・萬延の交《かう》[やぶちゃん注:安政七年三月十八日(一八六〇年四月八日)に万延に改元された。]、紀藩江戶詰醫員故德田諄輔(じゆんすけ)氏(退役陸軍大佐正稔(せいねん)氏養父で、正稔氏は故本居豐頴(《もとをり》とよかい)博士の實弟)、將軍家茂《いへもち》公の病痾の事で、苫(とも)が島へ三年屛居せられた時、予の亡母、從ひ居りしに、每元旦、誰かが、

「柳の下の御事は。」

と、言ふと、

「されば、そのこと、目出度候。」

と主人が答へたと、每度、語られた。代々、江戶に住んだ人が、かかる祝儀を行ふを、和歌山生れで、大阪に數年居《をつ》た母が、珍しいことと思うて、特に話の種としたのだから、江戶でも、武家には、多少、行はれた事で、「歌俳百人集」に、

『江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

とは穿鑿の不足だらう。

[やぶちゃん注:「將軍家茂公の病痾」第十四代徳川家茂(元和歌山藩主。安政五(一八五八)年十月二十五日将軍就任)は第二次長州征伐のために、慶応元(一八六五)年三度目の上洛をし、大坂城に滞在(同年十月一日に朝廷に将軍職の辞表を提出し、江戸東帰を発表したが、同七日には正式に撤回している)していたが、翌慶応二年六月七日、長幕開戦となり、七月二十日、大坂城で脚気衝心のために亡くなっている(享年二十一(満二十歳))。

「苫(とも)が島」和歌山県和歌山市加太に属する友ヶ島群島の友ヶ島の別名らしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「屛居」藩主時代の担当医として、自ら引責蟄居したものか。]

 件《くだん》の二句の意は、詳《つまびら》かならぬが、何に致せ、木の種子が、芽を發せんとするを、「目出度(めでたい)」の意に取成《とりな》した者らしい。紀州日高郡由良(ゆら)村邊では、柚(ゆ)を、家近く樹(うふ)る[やぶちゃん注:ママ。]を忌み、その木で「すりこぎ」を作れば、ばけるといふ(一卷十二號七五四頁。これは榊(さかき)を人家に樹るを忌むと同格で、凡人には高過ぎた神異(しんゐ)の木と尊《たっつと》み憚《はばか》つての事で無かろうか。

[やぶちゃん注:「紀州日高郡由良(ゆら)村」現在の日高郡由良町(ゆらちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

〔(增)(大正十五年九月記) 「塵添壒囊抄《じんてんあいなうせう》」二、「東山往來《ひがしやまわうらい》」第廿四、並びに云く、『橘・柚等の九種の香果、始めて日本に入《はいつ》た時、天子も使者も共になく成《なつ》たから不言《ふげん》とす。』と。しかし、「江談抄《がうだんせう》」一に、内裏紫宸殿南庭云々、件橘樹地者、昔遷都以前橘本大夫宅也、枝條不改及天德之末〔『内裏、紫宸殿の南庭』云々、『件(くだん)の橘(たちばな)の樹(き)の地は、昔、遷都以前は橘本大夫《たいふ》の宅なり。枝條《えだ》、改まらず、天德の末に及べり。』〕。「拾芥抄」中末には、『此事、「天曆御記」に見ゆ。』とあり、以て、橘・柚等、外來の珍果は、尊貴の特占物で、凡民の栽え[やぶちゃん注:ママ。]食ふを忌《いん》だ者と知るべし。〕

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。「日本古典籍ビューア」のここ(第二巻の「四十九」「柑類不可植在家事」(柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])在家(さいけ)植(う)ゑべからざる事)で当該部が視認出来る。

「東山往來」平安末期、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書である「往来物」の古い一つ。

「橘」ミカン属タチバナ Citrus tachibana 。異名に「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」がある。当該ウィキによれば、『日本に古くから野生していた日本固有の』柑橘で、『本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ( C. nipponokoreana )があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(萩市に自生しているものは絶滅危惧IA類に指定され、国の天然記念物となっている)』。『静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の自生地が存在する』。二〇二一『年、タチバナは沖縄原産のタニブター( C. ryukyuensis )とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏、黄金柑などの日本産柑橘のルーツであることが』、『沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった』。以下は「文化」の項。『日本では固有の』柑橘『類で、実より花や常緑の葉が注目された』。松『などと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた』。記紀には、『垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では』「非時香菓」を『「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘』、『左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に』「古事記」に『登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない』。『奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を下賜し』、『橘氏が生まれた』。「古今和歌集」の夏の部の「詠み人知らず」の『「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以後、橘は懐旧の情、特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることにな』った、ともある。

「九種の香果」元禄一〇(一六九七)年に刊行された、板行物としては本邦最古の農業専門書である宮崎安貞著「農業全書」の「卷之八」(所持する岩波文庫版による)の「柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])には、『蜜橘(みかん)の類色々多し。柑(くねんぼ)、柚(ゆづ)、橙(だいだい)、包橘(かうじ)、枸櫞(ぶしゆかん)、金橘(きんかん)、此外、夏蜜橘、じやがたら、じやんぼ、すい柑子(かうじ)此等の類九種、漢土より取り來る事、日本紀に見えたり。』とある。「じやがたら」は「ジャガタラ蜜柑」で、朱欒(ザボン)の異名。「じやんぼ」「すい柑子」は不詳。また、「夏蜜橘」は信頼出来る論文を参看したところ、現在のナツミカンではないそうである。

「江談抄」平安後期の説話集で公卿で文人・学者であった大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の晩年の談話を、信西(藤原通憲)の実父である実兼(さねかね)が筆録したもの(一部に実兼以外の筆録も混じっている)。匡房の談話は有職故実・漢詩文・楽器などに関する知識、廷臣・詩人たちの逸話など、多岐に亙る。教授された知識の忘備を目的としているため、表現は簡略でしばしば不完全であり、体系を持たない。しかし、正統な学問や歴史の外縁にある秘事異伝をも積極的に取り上げており、院政期知識人の関心の向け方や、説話が口語りされる実態を窺うことが出来る。平安・鎌倉時代の古写本は、問答体をとどめて原本の姿を伝えるが、一部分しか伝存していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。訓読は所持する岩波「新日本古典文学大系」を参考にした。なお、その脚注では、ここに出る「橘本大夫」(「古事談」では『橘大夫』である)は『不詳』としつつ、「帝王編年記」の天徳四(九六〇)年三月二十日の条に、『小一条左大臣記云、橘本主秦保国也』とある。なお、本文も注も「橘本大夫」にはルビが振られていないので、安易に「たちばなほんたいふ」と読むことは控えた。

「天德の末に及べり」天徳は五年までであるが、天徳四年九月二十三日の夜、平安京遷都以来、初めて内裏が全焼している。しかしこの謂い方は、この橘の木は、辛うじて燃えずに余命を保ったこと(少なくとも一年間は)を意味しているようにも採れなくもない。ウィキの「右近橘」によれば、「天暦御記」に『よれば、もとは秦河勝の宅にあったのを、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間』()『まであったという』とあった。

「拾芥抄」本邦で中世に編纂された類書(百科事典)。全三巻。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「天曆御記」「村上天皇御記」「村上天皇宸記」とも呼ぶ。村上天皇の日記。元は三十巻あったと推定されるが、現在は散逸し、わずかに「延喜天暦御記抄」の中に一部分が伝わり、また天暦三(九四九)年)より康保四(九六七)年の間の逸文があるのみ。「宇多天皇御記」「醍醐天皇御記」とともに、本書も政務・儀式の先例を知る上で尊重され、「西宮記」・「北山抄」などの儀式書や、「小右記」などの日記にしばしば引用されている。これらの逸文を収集して『続々群書類従』・『列聖全集』・『増補史料大成』などに収めてある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 他方は知らず、西牟婁郡で、玄猪(ゐのこ)に「穀(こく)の神」を祭るに、必ず、柚(ゆ)を供(そな)ふ。故老の言に、

「柚(ゆ)の核(さね)は、皆、揃うて[やぶちゃん注:ママ。]發達し、大小、不同無し。因《よつ》て、『穀も此通り、一齊《いつせい》に實(みの)れ。』と祝ふ意ぢや。」

と。

 去《さる》冬、之を聞いた時、丁度、米國植物興產局植物生理學主任スヰングル氏から柚の種子(たね)を送つて欲《ほし》いと賴まれたので、夥しく柚實を採つて剖(さ)いて見ると、大小の差異は、無論、有つたが、諸他の同屬の種子程、甚《はなはだ》しく無かつた。兎に角、昔時《せきじ》、何か柚を目出度《めでたい》物としたので、

「柚の木の下の御事は。」

と詔り初めある由、言傳《いひつた》へたので有らう。柳が、民間信仰と、厚き關係あることは、櫻井君が書かるゝ由(さう)だから、今故(ことさ)らに說かずとして、一寸述ぶるは、「戰國策」に、夫楊、橫樹之則生、倒樹之則生、折而樹之又生〔夫(そ)れ、楊は、橫に之れを樹うれば、則ち、生(しやう)じ、倒(さかしま)に之れを樹うれば、則ち、生じ、折つて之れを樹うるも、又、生ず。〕と有る通り、楊柳の諸種は至つて芽を出し易い者故、柳を目出度いとしたのだらう。或は柚も芽を出し易いものかとも思へど、自宅に多く有りながら、未だ實驗せぬから何とも言へ無い。「易」の「大過卦」に枯楊生ㇾ稊、老夫得其女妻。〔枯楊、稊(ひこばへ)を生じ、老夫、其の女妻(ぢよさい)を得(う)。〕「大戴禮《だいたいれい》」に、『正月、柳稊、「稊」は「葉を發する」也。』と。匡房《まさふさ》の歌に、

「世々をへて絕えじとぞ思ふ春ごとに糸よりかくる靑柳の杜もり《》」

柳は、古く、正月に花ありとされたもので、李時珍が曰《いふ》た如く、春初、早く、つぼみある物、殊に幕府の事を「柳營」と稱する等より、正月の祝詞に用ひられたで有らう。「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》たと見えるが、誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ。歐州では、一汎に、柳を葬喪の木とし、悲しみの象徵とする(フォーカード「植物俚傳」五八六頁)。)

[やぶちゃん注:「戰國策」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(三行目以降)で、「易經」のそれも同じサイトのこの影印本(二行目)で校合した。

「スヰングル氏」アメリカの農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照されたい。

「大戴禮」中国の経書(けいしょ)。八十五編。そのうち、三十九編が現存。前漢の戴徳撰。漢代以前の諸儒学者の礼説を集成したもの。「大戴記」とも呼ぶ。

「匡房」大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は公卿で漢学者。治暦(じりゃく)三(一〇六七)年に東宮学士となり、後三条・白河・堀河天皇の学問上の師を務めた。のち参議・権中納言・大蔵卿などを歴任。正二位。著作に「江家次第」・「本朝神仙伝」などがある。

「李時珍が曰た如く」「木」部で「楊」「柳」のつく項目を縦覧したが、どの項を指しているのか、判らなかった。発見したら、追記する。

『「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》た』

「誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ」熊楠先生! 九十七年後の私が歌は見つけました!「藻塩草」(室町時代の連歌用語辞書。二十巻。宗碩(そうせき)著。永正一〇(一五一三)年頃成立)の「九」に「春薄」として載っています! 国立国会図書館デジタルコレクションの写本のここの右丁の一行目です! ただ、作者名は載っていません。歌もちょっと判読出来ません。

   *

□つ□の露にみたる春すゝき

□に(或いは「か」か)秋の風をみつくる

   *

『フォーカード「植物俚傳」五八六頁)』リチャード・フォルカード(Richard Folkard)の一八八四年刊の‘ Plant lore, legends, and lyrics ’ (「植物の伝承・伝説・歌詞」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、また、「Project Gutenberg」のこちらで、一括版で電子化されてもある(右にページ・ナンバー有り)。]

2023/05/19

大手拓次訳 「墓鬼」 シャルル・ボードレール / 岩波文庫原子朗編「大手拓次詩集」からのチョイス~完遂

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。

 これを以って底本からのチョイスを完遂した。]

 

 墓 鬼 シャルル・ボードレール

 

するどい刃物の突きのやうに

いたましい わたしの胸へはひつてきたお前、

惡魔のむれのやうに 恐恐(こはごは)しく

また おろかしく みえをつくつて

 

ふみにしられた わたしの心を

そのみの臥床(ふしど)と領土とにしようとやつてきたお前、

――罪の囚人(しうと)を鎖につなぐやうに

いつこくな遊(あそ)び人(にん)を うんぷてんぷの賭事(かけごと)に

 

だらけた醉(ゑ)ひどれを 酒德利(とつくり)に

蛆蟲(うじむし)を腐つた肉にたからせるやうに

わたしの縛(しば)りつけられた人非人(ひとでなし)、

――呪はれよ 詛(のろ)はれよ お前こそ!

 

わたしは 自由をとりもどさうと

手ばやの劍(けん)にたのみをかけた

また わたしの怯儒(よわみ)を救はうと

不義の毒藥にも 談(はな)しをかけた。

 

ああ! 毒藥もその劍も

憎憎(にくにく)と さげすむやうに わたしに言つた。

お前は 詛はれた奴隷(どれい)の身から

浮ばせてやるの ねうちもない、

 

弱蟲め!――その血みどろの國土(さかひ)から

やつと お前を解きはなしてやつたとて

またも お前の接吻で生きかへすだらう、

お前の墓鬼(はかおに)の その埋められた亡骸(なきがらを!』

 

[やぶちゃん注:「刃」「劍」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

 この原詩は詩集「悪の華」(‘ Les fleurs du mal ’)の冒頭のパートである‘ Spleen et Idéal ’(「憂鬱と理想」)の第三十一篇の‘ Le Vampire ’(ル・ヴァンピール:「吸血鬼」)である。所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『雜誌『兩世界評論』一八五五年六月一日號に發表。この時の表題は『ベアトリース』だつた。』とあり、例の『ジャンヌ・デュヴァル詩篇』であるとある。

 原詩を私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

                LE VAMPIRE

 

Toi qui, comme un coup de couteau,

Dans mon cœur plaintif es entrée,

Toi qui, forte comme un troupeau

De démons, vins, folle et parée,

 

De mon esprit humilié

Faire ton lit et ton domaine ;

― Infâme à qui je suis lié

Comme le forçat à la chaîne.

 

Comme au jeu le joueur têtu,

Comme à la bouteille l’ivrogne,

Comme aux vermines la charogne,

― Maudite, maudite sois-tu !

 

J’ai prié le glaive rapide

De conquérir ma liberté,

Et j'ai dit au poison perfide

De secourir ma lâcheté.

 

Hélas !  le poison et le glaive

M’ont pris en dédain et m’ont dit :

« Tu n'es pas digne qu’on t’enlève

A ton esclavage maudit,

 

Imbécile ! ― de son empire

Si nos efforts te délivraient,

Tes baisers ressusciteraient

Le cadavre de ton vampire ! »

 

   *

 最後に。

 私が底本の原子朗氏の「解説」中、激しく感動した末尾部分を引用して、終わりとする。

   《引用開始》

 以上で解説をおわるが、結びのことばとしていっておきたいことがある。口語自由詩を完成させたのは萩原朔太郎であるといった受け売りの意見を、平気で書いている本も世上には少なくない。朔太郎に先だち、朔太郎にも直接影響を与えた拓次のいち早い口語象徽詩の完成度の高さは、日本の象徴詩史の中においてばかりか、一般詩史の記述の中でも、あるいは近代日本語表現の歴史の記述の中でも、あるいはまたフランス文学受容史の中でも、ほとんど無視されるか、軽視されている。大手拓次は、少なくとも、そうしたマンネリズムのきらいのある詩史や文学史に一石も二石も投じる詩人であることを、何よりも彼の詩自身が物語っていよう。編者が解説中で必要以上に詩の成立年代にこだわったのも、彼の詩を時代にスライドさせて他の詩人を比較して読んでもらいたい、しかも時代をこえている彼の詩の特質を見てもらいたい、という意図からであった。

   《引用終了》]

「近代百物語」 巻二の一「矢つぼを遁れし狐の妖怪」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたいが、この第二巻は以上の通り、欠損しているため、「続百物語怪談集成」の本文を参考に、手入れは初回通り、漢字を概ね正字化し(第一巻の表記は敢えて参考にしなかった。例えば、「鼡」とか「礼」などを指す)、自由に句読点・記号を追加・改変して、段落も成形した。また、そちらにある五幅の挿絵をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 

近代百物語巻二

 

       一 矢つぼを遁れし狐の妖怪

 今はむかし、足利尊氏の幕下に、栗塚八郞景綱とて、大膽無敵の士(さむらひ)ありしが、一とせ、新田・楠木とたゝかふて、尊氏、大に、はいぼくし、西國におちられしとき、此栗塚も、したがひけるが、備後の沖にて、天氣、かはり、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])の大雨、しやぢくをながし、鞘(とも)うらに、船、こぎよせ、しばらく、晴(はれ)をまちし所に、其夜に、あめは、やみたれども、風、逆(さか)ひて、出ふねもなく、五、七日も滯留せしが、たゞさへ、旅はうきものなるに、落人(おちうど)の身は、いやましに、古鄕(こきやう)のかたの、なつかしく、終日(ひねもす)、酒宴に日をおくる。

 景綱の祕藏の家僕に、和田伴内(わだばんない)といふものあり、大兵(だいひやう)の强弓(つよゆみ)ひき、翔鳥(かけとり)などを射させて、百(もゝ)に百矢をはづさぬ達人、

「もろこしの養由(やうゆう)にも、おとるまじ。」

とぞ、讃美せり。

[やぶちゃん注:「栗塚八郞景綱」不詳。

「和田伴内」不詳。

「鞘(とも)うら」現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾である「鞆の浦(とものうら)」。ここ(グーグル・マップ・データ)。尊氏は、この時の敗北から反撃に転じ、建武三(一三三六)年、「多々良浜の戦い」で勝利し、京に上る途中、この地で光厳上皇より「新田義貞追討」の院宣を受けている。]

 ある日、景綱伴内に、いひけるは、

「汝、明日、陸(くが)にあがり、何なりとも、射て、歸れ。此ほどの、つれづれを、なぐさまん。」

と、ありければ、

「かしこまり候。」

とて、翌朝未明に、弓と矢、引きさげ、家僕(けらい)もつれず、たゞ一人、蔀山(しとみやま)にわけ入りて、

『鹿なりと、鳥なりと一矢(や)。』

と思ひ、あたりに、まなこを、くばれども、雀一羽も、手に入らず。

[やぶちゃん注:「蔀山」現在の広島県福山市西深津町に蔀山稲生神社(伝・足利義昭居館跡)があり、その後背部に蔵王山を始めとする丘陵地があるので、その辺りであろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ても、地名としての以上の山麓の平地の地名として「蔀山」はあるが、山としての蔀山は見当たらない。]

 なを[やぶちゃん注:ママ。]、山ふかく入る所に、三十ばかりと見へつる女の、その長(たけ)尺[やぶちゃん注:二・四二メートル。]ばかりなりしが、伴内を見て、あゆみより、

「汝、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝに來たれる。はやく、かへりて、主人へ告げよ。此山に殺生せば、景綱に、さいなん、あらん。」

と、いひすて、ゆくを、伴内、引きとめ、

「何奴(なにやつ)なれば、存(ぞん)ぐはい、千(せん)ばん。誰(たれ)にたのまれ、かく、いふぞ。につくき奴。」

と、ぬき討ちに切るぞとおもひ[やぶちゃん注:ママ。]ば、たちまち、うせて、はるか、むかふの岩かどに、

「すつく」

と立ちて、あざ笑ふ。

 伴内も、たまりかね、

「目に物見せん。」

といふまゝに、持ちたる弓と矢、うちつがひ、能引(よつ《ぴ》)いて、

「ひやう」

ど、射ければ、其の矢を、つかんで、投げかへす。

 伴内が額(ひたい[やぶちゃん注:ママ。])のまん中、一文字にさす矢なれば、身をしづめて、矢つぼをはづれ、又、

「射とめん。」

と、

「吃(きつ)」

と見れば、ふしぎや、霧、ふり、闇夜(あんや)のごとし。

 さすがの伴内、ぜんごを忘(ぼう)し、こゝよ、かしこと、さまよひて、やうやうと、道を求め、いそぎかへりて、景綱に、

「かく。」

と告ぐれば、ひざ、立てなをし[やぶちゃん注:ママ。]

「おもしろし。我、此ほどの旅路の鬱氣(うつき)、山狩りして、散ぜん。」

と、宵より、手勢に觸(ふれ)きかせ、まだ、夜のうちに、手くばりして、千々《ちぢ》に得物の鎗・長刀(なぎなた)、景綱、いさんで、大音(《だい》おん)、あげ、

「狐、たぬきは、いふにおよばす[やぶちゃん注:ママ。]。眼にだに、さへぎらば、鼠も、むしも、ふみころせ。」

と、一度に

「どつ」

と山に入り、十町ばかりあゆみしが、鳥のこゑ、かすかに聞へ、松ふく風のおとのみにて、兎一疋いでばこそ、景綱、無興(ぶけう)し、

「くち借し。」

と、いよいよ、ふかくわけ入るところに、狐一疋、狩り出だし、矢ころになれば、景綱、いかつて、

「おのれ、きのふの返禮に、此の雁股(かりまた)を、いたゞけ。」

と、きつて、はなてば、射ぞんじて、狐は、はるかににげてゆく。

 

Kitunenoyoukai1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

諸〻(もろもろ)の

けだもの

  中(なか)に

きつね

 など

  あやし

    きを

     なすの

多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])き

   物なし

 中にも

    官職(くわんしよく)あり

れいげん[やぶちゃん注:「靈驗」。]を

  あらはすも

《右下方に続く》

なきに

 あら

   す[やぶちゃん注:ママ。「ず」。]

《景綱らしき人物の右足の部分に彼の台詞》

ゆるしは

  せぬぞ

《左中段の二人の下人の後に》

まつげを

 こするな

   *

一般には、狐に騙されないようにする咒(まじな)い眉毛に唾して、眉手をくっ付けて数えられないようにすると、騙されない、というのが普通だから、半可通の下人の一人が睫毛をこすっているので、同僚が、その誤りを正したものか。]

 

 景綱、こらへず、あし場も見ず、追(お)つめ、追つめ、射けれども、一と矢もあたらず。他矢(あだ《や》)となれば、景綱、いかりのがんしよくにて、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]も、おふて行く。

 近習の士、これを見て、あとにつゞひて走りしが、また、矢ごろにもなりしかば、景綱、すかさず、

「ひやう」

と射る。

 鳴彈(つるおと)ともに、何かはしらず、石火矢(いしびや)を、はなつがごとく、山谷(さんこく)、一度に鳴動して、雲・きり、おほひて、目さすも、しれず。

 

Kitunenoyoukai2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

   *

狐(きつね)は

 陰(いん)に

   して

化(ばけ)ること多(おゝ[やぶちゃん注:ママ。])く

 女(おんな[やぶちゃん注:ママ。])に

  して

 男(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])を

 たぶら

  かす

 となり

《中段少し下左。下男の台詞であろう。》

おそろ

  しい

 じや

   *]

 

 しばらくありて、晴れ間をみれば、きのふの女、あらはれ出で、

「なんぢ、逆賊尊氏に屬(ぞく)して、皇都を犯したてまつり、楠木・新田に追つ立てられ、此の所に、おち來たり、我が山に入り、殺生す。其罪、はなはだ、輕からず。はやく、善心に立ちかへり、官軍に降參して、粉骨をつくすべし。背(そむ)かば、たちまち、身を滅(ほろぼ)し、家名を、ながく、斷絕せん。其のしるし、これ、見よ。」

と、いふかとおもへば、雲、きり、おほひ、ぜんご・左右も見へばこそ、

「あら、心得ず。」

と、柄(つか)に手をかけ、ためらふうち、俄(にわか[やぶちゃん注:ママ。])に、雲、霧、

「さつ」

と、晴るれば、景綱がたのみし「士(さむらひ)四天王」といわれ[やぶちゃん注:ママ。]し勇者(ゆうしや)、伴内を、さきとして、鷺坂(さぎさか)一平、志賀久四郞、安藤彥七、四人のもの、みぢんにくだけて、死しければ、景綱、これに、おそれをなし、

「いざ。まづ、皆々、しりぞくべし。」

と、殘る士卒(しそつ)を引きつれて、晚(くれ)におよびて、船に、かへれり。

 げにも、前表(ぜんひやう)のことばにたがはず、「湊川のたゝかひ」に、景綱は、步(ふ)に、くび、とられ、男子、二人、ありけるが、景綱がうたれし日、二人ともに、血を吐きて、卽座の急死に、あと絕へしと、まことに無双(ぶそう[やぶちゃん注:ママ。])の怪なりと、今につたへし物かたり。

[やぶちゃん注:「鷺坂一平」「志賀久四郞」「安藤彥七」全員不詳。

「步(ふ)」身分の低い徒立(かちだち)の無名の歩兵。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七九番 獺と狐(全三話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   八〇番 獺と狐 (其の一)

 

 或時、獺と狐とが路で行會《ゆきあ》つた。狐が先に聲をかけて、ざいざい獺モラヒどの、よい所で行會つた。實はこれからお前の所さ話しに行くところだつたと言つた。正直な獺は、さうか何か用でもあつたかと云ふと、狐は、何別段の用事でも無いが、これから冬の夜長にもなることだから、互に呼ばれ合ひツこをすべえと思つてさと云ふ。獺も同意した。そこで狐が、それでは獺どのが先だぜと云つた。初めの晚は獺の番前であつたので、獺は寒中川の中に入つていろいろな雜魚《ざこ》を捕つて、狐のために多くの御馳走をこしらへた。狐は招(ヨ)ばれて來て御馳走を鱈腹(タラフク)詰め込んで喜んで歸つた。

[やぶちゃん注:「ざいざい」「あらあら」の意か。]

 次の晚は狐の番であつた。獺は彼奴《きやつ》のはきつと山の物で、兎汁でも食はせるかなアと思つて行くと、狐の家ではさつぱり何の氣振《けぶ》りもない。獺は怪(オカ)しく思つて、ざいざい狐モラヒ、俺はハア來たぜと云つて入つて行つた。すると狐は一向返事もしないで、一生懸命に上の方ばかり見て默つて居る。獺が何《なじよ》したと訊くと、狐はやつと口をきいて、獺モライ獺モライ、申譯《まをしわけ》がないが實ア俺アところさ今夜、空守役(ソラマモリヤク)を告《つ》がつて、それで俺ア斯《か》うして、上の方ばかり見て居ねばならないから、今夜のところは許して還つてケモサイと云つた。獺はさう云はれて、狐のところに今迄聞いたこともない、妙な役割が告がつたものだと思つて家へ還つた。

 其次の晚、また獺は狐の家へ出かけた。ざいざい狐モライ、今夜も來たゼと云ふと、狐はやはり昨夜のやうに默つて今度は下の方ばかり見詰めて居た。獺が何したと訊くと、狐は顏も上げないで、獺モライ、今夜も運惡く地守役(ヂマブリ)が告(ツ)がつてナ、俺は斯うして居る。ザザ本當に申譯が無いども、今夜も歸つてケモサイと云つた。そこでいくら正直の獺もこれはしたりと氣がついたが、其儘何知らぬ振りして家に歸つた[やぶちゃん注:底本は「云つた」であるが、「ちくま文庫」版を参考にして訂した。]。

 ところが其次の晚、狐がひよつくり獺の所へやつて來た。獺モライどの居たか、實は今夜ソチを招(ヨ)びたいと思つたけれども、仕度がして無いのだ。これから魚捕りにでも行くべえと思ふが、あれは如何《どう》すれば捕れるものか、俺に敎《をしへ》てケ申せやと云ふ。獺は脇面(ソツポ)向いて、フン其れ位のことオ狐モライがまだ知らなかつたのか、そんなことア何も譯が無いさ。スパレル晚、長者どんの川戶(カド)[やぶちゃん注:川岸。]さ行つて、ヲツペ(尾)を川の水に浸して居れば、チヨロチヨロと魚が一匹づつ來て、ヲツペさ縋《から》み著く、さう云ふ魚をうんとヲツペさ縋み著かせておいて、いゝ加減の時を見計《みはから》つて、ソロツとヲツペを引上げて家さ持つて來るんだと云ふと、狐はフヽン其れだけなら知つて居たやいと言つて、錄《ろく》すツぽう聞く風もせず、プツと置屁《おきへ》して、笑つてどんどん走《は》せて行つた。

 けれども心の中では、獺の奴ア馬鹿者だなア、何でもかんでも祕傳ツコをぶちまけるウ、さう思つて可笑しくて、小鼻解《こばなと》きを顰《しか》めて笑ひながら長者どんの川戶へ行つて尾を水に浸して居《を》つた。するとザイ(薄氷)がカラカラ、カラツと流れて來ては、ぴたツと尾にくツつく。カラツカラと流れて來ては、ぴたツと尾にくツつく。狐はははアこれはみんな魚だなア、果報者々々々と喜んで、時々尻尾を水から引き上げては、その分量を計つて見たりして居た。そして段々重くなつたが慾を張つて、もう少し、もう少しと思つて、ぢつと我慢をして居た。

 そのうちに夜が明けた。川面《かはも》の一面に氷が張り切つた。狐の尻尾も氷と一緖に張りくわつてしまつた。狐は考へた。これは事だア、あの早起きの犬の奴か、人間に見付けられたら事が起る。今の中《うち》に魚をさげて家さ歸つた方がよい。そこで尻尾を持上げやうとしたが、一分《いちぶ》も氷から拔け上らばこそ、あれアと思つて、ひどく狼狽(アハ)てゝ居た。其所へ長者どんの嫁子樣《あねこさま》が朝水《あさみづ》を汲みに、手桶を擔《かつ》いで來た。そして狐が川戶に居るのを見て、擔ぎ棒で叩き殺した。

 (私の稚《をさな》い時の記憶、奧州の子供等はこんな
  種類の話を一番最初に聽かせられた。)

 

     (其の二)

 

 昔々或所に狐と獺と朋輩になつて居た。或時狐が獺の家へ招(ヨ)ばれて澤山魚を御馳走になつた。其時狐が言ふには、お前はいつも魚を澤山取つて居るが、それは一體どうして取るもんだか、俺にも敎へてくれないかと言つた。獺はいつも猾《ずる》い狐のことだから、日頃の思ひを知らしてくれべと思つて、狐モラヒ、魚取る事など一向難《むつかし》くないもんだ。寒中甚(ヒド)くシバレる夜明《よあけ》に魚の居さうな深い淵のやうな所に行つて尻尾を水に浸して居ると、いろいろな魚が來てつくから、いゝ加減ついた頃を見計らつて窃《そ》つと[やぶちゃん注:底本は「窃つて」。「ちくま文庫」版で訂した。]引き上げて家へ持つて還ればそれでよいのさと言つた。

 狐は獺の話を半分ぐらい聽くと、あゝもうえええ、分つた分つたと言つて歸り、其足で村でも一番雜魚の居さうな深い淵へ行つて、獺が云つた通りに尻尾を水に浸して座り、向ふ山を眺めてチヤジヤまつて(躇《うずくま》つて[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版で「躇」は「躊躇(ちゅうちょ)する」のそれだが、この漢字は「踏む」、「ためらう・たちもとおる・ぐずぐずする」(「躊躇」はその意)、「越える・飛び越える・渉(わた)る」の意しかなく、「踞(うずくま)る」の意はないから、佐々木の誤用であろう。])居た。そして時々尻尾を引き上げて見ると、川上の方からザエ(薄氷)が、カラカラと流れて來てはピツタリと尻尾にくつつく。すると狐はさうら一匹ツ、またカラカラと流れて來て、ピタリとくつつくと、さうらまた二匹と言つて居た。さうして居るうちに段々と多くの氷がしつかりくつついたので、狐はこれは大漁だと思つて嬉しく、一ツ歌をうたうベア、

   はア鱒アついたか、ヤンサア

   鮭がついたか、ヤンサア

 と繰り返し繰り返しながら歌ひながら、上下に體をあふつて居た。

 其朝、近所の家の嫁子《あねこ》が早く起き出て、川へ水汲みに行くと、狐の野郞が歌をうたひながらウナヅイ(體を上下)て居るので、あら狐の野郞が馬鹿眞似をして居るアと言つて、あたり近所の人達を起して、棍棒や斧などを持つて來させると、狐は驚いて一生懸命に逃げ出さうと尻尾を引き拔いたところが、尻尾の皮が引(ヒ)ン剝(ム)げて、結局ひどい目に遭つて命(イヌチ)からがら山へ逃歸《にげかへ》つたと。ドツトハラヒ。

 (江刺郡米里村の話、昭和五年六月二十七日佐々木
  伊藏氏談の三。)

 

     (其の三)

 

 昔はあつた。非常にシバレる晚であつた。恰度《ちやうど》雫石だと俺の家のやうな所で、向ふの方から雪道をシヨンシヨンと狐がやつて來た。すると此方(コツチ)の方から獺が大きな鮭を取つてズルズル曳きずつて來るのと、ばつたり出逢つた。ジヤ獺どナ獺どナ、ソナタ良くいつでも鮭だの鱒だの捕つて來るは、ナヂヨにして捕つて來るがナ。なアに雜作(ザウサ)なエごつた、まづ今夜のやうな、うんとシバレる時、づらツと見て步けば、家の前にじようや(玆《ここ》では屹度《きつと》の意)ぽつンと川戶さ穴が空(ア)いてゐるものだ、其處さ行つて、

   鮭ア釣《つ》ゲ

   鱒ア釣ゲ

 と言つて居ると、大きな鮭だの鱒が必ず釣ぐもんだ。まずやつて見とらなでヤ。時に獺どナ、その鮭まづ御馳走したもれでヤ、よがべ、よがべと言つて、二匹は、鮭を喰つてしまつて、それから狐は獺に敎へられた鮭釣りの傳授に、喜んで、まづ斯《か》う行つて見ると、如何にも獺の言ふた通り、氷(スガ)を取り除《の》けた川戶があつたので、早速尾を入れて、

   鮭ア釣ゲ

   鱒ア釣ゲ

と唄つてゐると、あまりシバレるので、ザエが流れて來て、狐の尾にぱたりぱたりと當るので、ひよツと尾を上げて見ると、何も釣いて居ない。又暫くすると、パタパタと障《さは》るので、今度こそ鮭が釣いたに相違ないと思つて、尾を上げて見るとやつぱり[やぶちゃん注:底本は「やつぽり」。「ちくま文庫」版で、一応、訂した。]何も着いて居ない。斯うして繰り返して居るうちに、段々尾が重くなつたので、何でも今度は大きな鮭は釣いて居るやうだと思つて喜んで居た。

 それが一ぴきや二ひきぢやない、餘程の魚が釣れてゐるやうだと思つて居ると、東の空が段々白くなつて、夜が明けさうになつた。すると近所の家々では、ガラガラと戶を繰つて朝起きをする模樣なので、これではならないと思つて、尾を引いて見ると重いので、ウンと力を入れて引ツ張つても尾が拔けない。そのうちに近所の家の嫁(アネコ)が桶を擔いで水汲みに來た。狐は一生懸命になつて引ツ張つても尾が拔けて來ないので、今は泣き出しさうになつて、

   鮭もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

   鱒もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

   鮭も鱒もいらない、

   センドコサのグエン、グエン、グエン

 と叫び出すと、水桶の擔ぎ棒でもつて、このクサレ狐ア、ひとの家の川戶さ來てケズガつたと言つて、ガキン、ガキンと打喰わ(ブツクラ)されて殺されてしまつたとサ。ドツトハラヒツ。

 (七九番同斷の一三。)

[やぶちゃん注:「センドコサのグエン、グエン、グエン」意味不明。]

大手拓次訳 「ギタンジヤリ」 ラビンドラナート・タゴール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 

 ギタンジヤリ ラビンドラナート・タゴール

 

彼はわたしの側にきて坐つた、

けれど私は眼が覺めなかつた。

なんといふ惱ましい眠りだ、

おお、みじめな私よ!

 

彼は夜がふけるとやつて來た。

彼はその手に竪琴(たてごと)を携へてゐて、

私の夢はその琴の調に共鳴りをした。

 

噫(ああ)、どうして、私の夜夜はこのやうにして皆失はれたのか?

噫、どうして私は、その呼吸を私の眠りに觸れしめた彼の姿を、何時かまた見失ふのか?

 

[やぶちゃん注:『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「螢」が採られてある。所持する「タゴール著作集」の「第一巻 詩集Ⅰ」(一九八一年第三文明社刊)で確認したところ、「ギタンジャリ」の「26」である。]

2023/05/18

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「河童忌」 / 下島勳著「芥川龍之介の回想」よりの抜粋電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和・一四・七』とクレジットのみがあり、初出は不明。後に、この下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)の本文末に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。一部のみ注をした。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 本編は底本の最終本文で、この後に刊行当時、郷里伊那で病床にあった勳氏の代わりに、勳氏の甥で養子となった英文学者・翻訳家であった下島連(むらじ)氏(一九八六年没)が書かれた「あとがき」があるが、筆者は著作権存続中であり、また、特に電子化しなければならない芥川龍之介関連の記載もないので、リンクに留める。而して、本書の抜粋電子化注は、これを以って終わる。]

 

河 童 忌

 

 七月二十四日は芥川龍之介君の十三回忌だ。昨夜から曇つてゐるのだつたが、午前八時ごろからぼつりぽつりと降つて來た。芥川氏の靈前にと思つて自作トマトの風呂敷包みを提げて早めに新宿まで出ると中々の降りとなつた。會は田端の自笑軒ときまつてゐて午後六時からだから、まづ北原大輔君を訪ねて見ると、久し振りなので大歡迎、ご馳走になりながら陶談、畫談などに思はず時間も忘れ、たうとう四時半ごろになつてしまつた。

 雨は上つたが曇天のいやがうへに蒸し暑い。北原氏のところを辭して芥川家へ行き、佛敎前へトマトを供へ線香を上げて奥さんと話してゐると小島政二郞君夫婦が見え、次いで佐佐木茂索夫婦が來る。同時に香瀧さんが見える。少し後れて自笑粁へ出かけるともう二十人ばかり座に就いてゐた。

 芥川忌は初めのうちは大分盛んだつたが、年が立つに隨つて段々出席者の數も減じ、こゝ、五六年は三十人前後になつてしまつた。併し實をいへばこの三十人は切つても切れない因綠の人たちばかりで、ほんとに芥川忌らしいなりかしい聲や顏ばかりになつてしまつた(尤も芥川賞の人たちが殖えてくる)。

 出席者は大槪おなじみの筈だつたが、谷口喜作君の隣りに座を占めてゐる、日に燒けたやうな黑い顏をした瘦せてひねこびた爺さんがお辭儀をするから、返禮はしたものの誰であるか思ひ出せなかつた。久米正雄君の呼びかけで小澤碧童君といふことが訣《わか》り大笑ひしたのだつた。同君は初めのうちは出席したのだが、その後全く出たことがないので、逢ふ機會がなかつたので見違へたのだつた。

 座の右隣が永見德太郞君で、故人の長崎での話などした。私は震災當時彼の束京の第二號が、三味線を抱へて澄江堂へ避難して來て玄關で逢つた話をしたら、頭を叩いて笑つてた。

 左隣は宇野浩二君で、君と初めて澄江堂で逢つたときは若い美男だつたが、よく禿げてまたよく瘦せたものだといつて笑つた。そのとき芥川君の紹介に、これは宇野で中々「ヒステリー」の硏究家だ、といつたことを覺えてゐるかと、いふとよく知つてゐるといつてすましてゐた。

 字野君は、知人に「エンボリー」に罹つて長く寢てゐる男があるが、「エンボリー」とは何のことかというふから、その說明をした。

 

    芥川君の十三回忌

   紫陽花の雨むしあつき佛間かな

(昭和・一四・七) 

[やぶちゃん注:「自笑軒」田端の芥川龍之介の自宅近くにあった会席料理屋「天然自笑軒」。芥川龍之介は文との結婚披露宴をここで行っている。

「北原大輔」「古織部の角鉢」で既出既注

「香瀧さん」不詳だが、思うに、これは龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生の上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)のことではなかろうか。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。龍之介の「學校友だち」では巻頭に、『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある人物である。

「エンボリー」embolism(英語)の略。塞栓症。血栓が血管に詰まった状態。特に下肢に生じた血栓が肺に移動して発症する肺塞栓症が知られ、外に脳梗塞や心筋梗塞なども同じ状態で起こる。私の昔の教え子の女性も、若くしてこれで亡くなった。]

「近代百物語」 巻一の三「なべ釜勢そろヘ」 / 巻一~了

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに適切と判断した箇所に挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。]

 

   なべ釜(かま)(せい)そろヘ

 たちばなの逸勢(はやなり)は、本朝三筆のひとりにして、家、冨(とみ)さかへける。

 

Nabekama1

 

[やぶちゃん注:以下、二枚とも、底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

世に釜(かま)のなる時(とき)

 木(き)をさしくべて

  まじない[やぶちゃん注:ママ。]

     となふる

 故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])有事也

《中段、左。》

ちよつと

 木を

  さし

   くべ

  さつ

   しやれ

《下段、中央。》

ふしぎ

なかま

  の

なり

 やう

 じや

《猫の絵の左下方。》

にやん

 とも

かてんの

  ゆ

  か

  ぬ

    *]

 

Nabekama2

 

[やぶちゃん注:同前で、底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

むかし咄(はなし)に

 なべ釜のばけて

  あるき

    たる圖(づ)

 是(これ)を

  写(うつ)して

  繪書(ゑが)き

たる

 なり

《中段、右。》

今宵はよい

   月の

《下段、右端。》

なむさん足が

     たゝぬ

        は

《下段、左。》

なべかま

 ばけて

 お

 どる

 しづ

  かに

 しづかに《これは画像では踊り字「〱」。》

   *

なお、底本でのこの挿絵位置は、無関係の第一話の中に投げ込んである。]

 

 されども、むほんの企(くはだて)、しきりなりしに、ある日、膳部をとゝのへ、飯(はん)を、かしぐ所に、なべ釜、十あまり、ならべて、煮る物、ようやく熟せんとするに、かまどのうちより、つき上るごとくにして、かまどをはなるゝ事、一尺ばかり、なべ、三つ、其下に、ならびて、釜をのせ、釜、三つを、九つのなべ、いたゞき、其外の小なべ、小釜を、つれて、かまどのうへより、地に、おり、行列して、門を、いず[やぶちゃん注:ママ。]

 家内(かない)、隣家(りんか)、おどろきて、これを見るに、みぞを、こへて、門(かど)へ出る。

 其中に、足、をれたる、なべ、みぞをこゆる事、あたはず。

 子供ありて、

「能(よく)、なべ釜、あるく。」

と、いへども、

「足おれたるなべを、捨てゝ打くや。」

と、わらふ。

 釜を、のせたるなべ、釜を、地におろしをき、ふたつのなべ、足おれなべを、おふて、溝、こへてゆき、四条の川原に出でて、しづまる。

 にはかに、そのへん、まつ黑になり、

「ぐわらぐわら」

と、物のくだけるおとして、其なべかま、みな、粉(こ)のごとく、くだけ、黑きほこりとなりて、日、くれに、いたりて、しづまりぬ。

 其のち、むほん、あらはれ、逸勢は、流刑せられぬ。

 なべかまのあやしみをなすは、よからぬ事にや。

一 之 巻 終 

[やぶちゃん注:最後の巻末の記は最終行末に一字上げインデントだが、改行した。

 本話の怪異は、見た目は「付喪神」(つくもがみ)の変形譚と言える。普通のそれは、長い年月を経た道具や無生物などに何らかの霊魂が宿ったもので、人を誑(たぶた)かすとされた古形の妖怪変化であるが、この逸勢の厨の釜・鍋が、皆、古物だったとも思われず、また、純粋に付喪神だけで怪談話に作ったものは、私の知る限りでは、それほど成功したものはなく、また、本篇の挿絵の如く、どうしてもホラーというよりは、ちょいと滑稽にしてユーモラスな属性が纏わりついていて拭えないのが難点と言える。ここは、それにヒントを得て、凶兆の兆しと転じたものであるが、著名な橘逸勢を主人公に配したことも、上手く効果を出しているとも感じられず、「だから、なに?」と、つっこみたくなる内容である。それとも、この「釜」「鍋」や「足の折れた鍋が溝を越えられない」というシークエンスに、何らかの逸勢絡みの洒落が隠してあるものか? 私にはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「たちばなの逸勢」橘逸勢(?~承和九(八四二)年)は平安初期の官人で書家。延暦二三 (八〇四)年、遣唐使に従って、空海・最澄らと入唐、唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年、但馬権守となったが、「承和の変」(橘と伴健岑(とものこわみね)らが、謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥の道康親王が皇太子となった)で捕えられ、本姓を除かれて「非人逸勢」と呼ばれ、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。後に嘉祥三(八五〇)年になって罪を許されている。空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称された書道の名人で、隷書を最も得意とし、嘗つての平安京大内裏の諸門の額の多くは、彼の筆に成ったものとされる(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。]

「近代百物語」 巻一の二「いふにかひなき蘇生の悅び」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」について及び凡例等は、初回の私の冒頭注を参照されたい。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに適切と判断した箇所に挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。]

 

   いふにかひなき蘇生の悅び

 

 世に、狐・たぬき・犬・描など、「人に託(つ)く」と、いひふらし。

 其所以を問へば、『科(とが)なきに殺生し、打たゝきなどするときは、かれらがたましゐ、皮膚に、わけ入り、人をして、病(やま)しむ。』と、醫書にも邪崇(じやそう)の論方(ろんはう)あれば、全く虛言とも、いひがたし。

 今はむかし、ひたちの國、桜田村とかやいふ所に、六兵衞といふ農民、男子(なんし)一人ありけるが、六之介と名をつけ、夫婦の中のひとり子なれば、蝶よ花よと愛せしが、いかなる過去のいんぐわにや、生れつき、病身にて、兩親(ふたおや)の心づかひ、常に、くすりのたゆるひまなく、食物(しよくもつ)、よろづ、氣をつくれど、其かい、さらに、あらしは、おろか、風がはやれば、人よりさきに、やむ身よりは、見る目とて、六兵衞もやまひのたね。はたけへゆけど、我子の身のうへ、わする事もなかりしが、六之介、十二のとし、きさらぎのころよりも、時疫(じゑき[やぶちゃん注:ママ。])、諸こくに、はやりければ、はや、六兵衞がむねにこたへ、

「わづらはぬ、そのさきに。」

と、灸をすへさせ、くすりをもちひ、ころばぬさきの杖の養生、なさけなや。

「此村の、たれと、誰(たれ)とが、時疫にあたり、きのふより、大ねつ。」

と聞くと、ひとしく、六之介、三番目とは、さがらぬ弱(よわ)もの、

「どふやら、頭痛がするやうな。」

と、いふが、序(しよ)びらき[やぶちゃん注:「序開(じよびら)き」で、以下に同じ。]、病(やまひ)のはじまり、さやうにおもへば、やまひ、おもる。

「まづ、四、五日は、見あはせ。」

と、ふとんうちきせ、食事をすゝめ、二、三日も、すておきしが、大ねつといふにも、あらず。

 氣色(きしよく)をとへば、

「わるい。」

と、ばかり、夜昼となく、もだへ、くるしみ、此あいだとは、容躰(ようだい)かはり、惣身もひへて、絕(ぜつ)しよくすれば、ふたおやは、大ひにあはて、常にたのみし医者をまねき、くすりを用ひて看病すれども、每日、よはりに、正氣もなく、今は此世のゑんつきて、たゞ十二歲を一期(ご)とし、つぼめる花を春かぜの、よけてもふかで、おちければ、父母のなげきのほど、けふをかぎりのわかれぞと、よそに見る目のいじらしさ、もらひなみだに、そで、しぼる、おりこそあれ、表のかたに、

「そりや、追(おへ)、」

「喰(くわ)すな、打(うて)、」

「たゝけ、」

「南無さん、くはへた、」

ハア死んだ、」

「運のつきじや。」

と、人々の、右往左往のあしおとに、

 

Itati1

 

[やぶちゃん注:底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

鼬(いたち)といふ物(もの)

何(なに)のがいもな

さゞるこもの也

常(つね)にいづくに

すむともさだか

       に

知(し)らずひそか

         に

鼡(ねつみ[やぶちゃん注:ママ。])などこれ喰(くらふ)に

 ねこなどの

   ごとく

 あらはならず

《以下中段、右。》

やれぶつかへせ

《以下中段、左。ここは左は左から右に書かれてある。》

    やろ

  たすけて

いたちを

   *]

 

 

「何事やらん。」

と、六兵衞、たちいで、物かげよりうかゝへ[やぶちゃん注:ママ。]ば、としふる鼬鼡(いたち)の、犬にかまれて、半死半生、四そくを、のべて、かた息になりければ、六兵衞、見るに、いたはしく、

「せめて我が子の菩提のため、いのちを、たすけ得させん。」

と、水をそゝぎ、なでさすれど、大疵(《おほ》きず)の毛は、血まみれ、何かはもつてたまるべき、

「きつ」

と、一聲、鳴(ない)たが、さいご、そのまゝ、息は、たへけるが、ふしぎやな、鼬鼡の口より、けぶりのごとき、白氣(はくき)を、ふき出し、

「六兵衞が家に、入るぞ。」

と見へしが、おしよせおきし六之介、[やぶちゃん注:最早、命終と諦めて、部屋の隅に押し寄せておいたのであろう。]

「むくむく」

と、よみがへり、そこらあたりを、はひまはれば、六兵衞は、ゆめ見しこゝち、

「そりや、目でたいは。」

と、家内のよろこび、旦那寺へは、人をはしらせ、

「御出で無用。」

の、ことはり、いひやり、またまた、

「くすりよ。」

と、もてかヘす。[やぶちゃん注:もと通りの位置に戻して、療治を再開したことを言うのであろう。]

 六之介は、足、たゝねど、はひまわる。

 そのいきほひ、平日(つね)にまされる顏色(がんしよく)なれども、やまひのゆヘに、啞(おし)とやなりけん、

「きよろきよろ」

と、座中を見まはし、「ねこ」を見ては、はなはだ、おそれ、鼡(ねずみ)、はしるあしおと聞きては、目をいからして、かけまはる。

 五、六日は、食をも、くはず。

 六兵衞はじめ、一門ども、食をあたへて、こゝろみるに、犬・ねこ・馬のしよくするごとく、座敷もいとはず、ふりまきて、口をさしよせ、喰ふありさま、「ちくしやう道(だう)」より、よみがへりしか。

 さはいへ、我子の事なれば、むごらしう殺しもならず、

「よし、なににもせよ、生きたが、大慶(たいけい)。びやう後(ご)の『らん氣』とおぼゆれば、次第に、心もしづまるべし。」

と、なをも[やぶちゃん注:ママ。]、養生おこたりなく、半ねんばかりすぎけれども、はじめにかはらぬ容体(ようだい)なれば、一門中より、聞出《ききだ》し、

「相模の國に、名を得たる灸治の上手(じやうず)、安部川道仙(あべかはだうせん)、『今を日の出』と、いひふらす。せむし・盲目・あざ・しら髮・いぐち・巻足・かなとこ・つんぼ・吃子(どもり)・むつゆび・ろくろくび、いづれも、一火で、その座に、いゆる。」

と、いふに、とびたつ六兵衞夫婦、竹輿(かご)にのせつれゆきて、道仙の灸てんうけ、一火すゆれば、コハいかに、

「きち、きち、きち、」

と、なく。

 容躰、人間ならぬ聲音(こはね)のひゞきと、ことならず。」

と、また、つれかへり、

「とかく、變化(へんげ)の所爲(しよい)なるべし。神佛のちからにあらでは、本心には、かへるまじ。」

 

Itati2

 

[やぶちゃん注:底本の富山大学附属図書館所蔵「ヘルン文庫」のもの。キャプションは、

   *

邪(じや)は正(せい)にあらずとて道德(どうとく[やぶちゃん注:ママ。])めでたさ

僧(そう)まへにてはおのづうからやう怪(くわい)も

きへぬべしことことしく粒珠(じゆす)を

つみ(、)だんをかざりたりとも德(とく)

なき人(ひと)は益(えき)なかるべし

《下段、右。》

ありかたふ[やぶちゃん注:ママ。]

 ござり

  ます

《下段、左下。》

小児たり

   とも

   かなら

     す

    まこと

     を

    つくす

     べし

   *

それにしても、本書の挿絵は、どれも特異的である。以上の絵や絵に添えたキャプションから見ると、作者自身が本文をサイドから補塡するような指示や書き込みをしているように思われ、非常に興味深い。

 

と、同村に閑居して、道德兼備の僧ありければ、これ、さいわひに、いのりを、たのみ、壇(だん)をかまへて、七日があいだ、せめかけ、せめかけ、いのらるれば、七日にあたる、ほのぼのあけ、六之介が口中(こうちう)より、けぶりのごとき白きもの、ぬけ出て、とびされば、たちまちに、息、たへて、死かばねばかり、のこりけり。

「これそ[やぶちゃん注:ママ。]、まつたく鼬鼡の氣、六之介がかばねをかり、しばらく、奇怪をなせし。」

とて、ある人の、かたられし。

[やぶちゃん注:「鼬鼡」(正字は「鼬鼠」)は食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。本邦ではニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチMustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により別種と決定されている)がタイプ種であるが、古来より、狐・狸・川獺と並び、ここに出るように、人に憑依する妖獣と認識されていた民俗誌がある。また、形状と生息域から江戸以前にはネズミの仲間と認識されていた(実際にはネズミの天敵の一種である)。さらに同種群の一種チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされるが、東北地方や信州では「飯綱(いづな/イイズナ)使い」「狐持ち」と呼ばれる家系が存在し、それを使役して妖術を使うともされた、強力な妖獣の一種としても捉えらえていた。詳しくは「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の私の注を参照されたい。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七九番 田螺と狐

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    七九番 田螺と狐

 

 昔はありましたとサ。恰度《ちやうど》ここらだと下久保のやうな所を、一匹の赤狐が、田の畦(クロ)を、向ふの方からシヨンシヨンシヨンシヨンと步いて來た。

 其時また、お天氣がよいのでヅブも田の中をスルリスルリと步いてゐた。狐は田圃の中になにか美味いものでもあるかと、遠見彼見(トウミカウミ)して來かゝると、水の中にいたヅブが、フト天上の方を見て狐を見つけ、

   燒野が原の赤狐

   口の尖(トガ)りは

   おかしおかし

 とやつた。何だか田の中で聲がすると思つて、狐が振返つて見ると田螺(ツブ)がゐるので、

   谷地田の中の

   塵(ゴミ)かむり

   尻(ケツ)のとがりは

   をかしをかし

 と返した。するとヅブは愛想よく時に狐どのナ、何所へ御座るナと訊いた。すると狐は、いや何所へでもないが、そなたこそ何處サ御座るナと問ひ返した。時に狐どのナ餘りお天氣もよし、俺と上方見物したらなぢよでござるナ。俺はハなんでもないが、其方(ソナタ)その姿態(ナリ)で步けるかナ。いやいや俺こそ心配はないが、そなたこそこの俺にかつついて來(キ)れるのかナ。よし、そんだら俺と上方參りの賭《かけ》だ。そして狐とヅブとは上方見物に出かけた。するとずるいヅブは、狐の尾サぴつたりくつついていつた。

 狐は足が達者だから、ヅブなどが仲々かつつけるものでないと、安心しながらシヨンシヨンシヨンシヨンと街道を盛岡の方へ來た。少し草臥(クタビレ)たので先づ一休みしやう[やぶちゃん注:ママ。]と傍らへ寄つて腰を下すと、狐どの今かなと言ふ者がある。狐が休む心算《つもり》で腰をおろした時、ずるいヅブはそのしつぽから離れて、夙(ト)くに來て待つて居た振りをした。いやいや俺は今はヤグド負けた、この次にあ負けないと言つて今度はプンプンプンプンと步き出した。狐は又草臥たので一休みしやう[やぶちゃん注:ママ。]とし、後からヅブの來るのを待たうと思つて休むと、又先の方で、狐どの今か、俺アいつつに來て待つだと言ふのを見ると、如何にもヅブは、夙《とう》から來て待つてゐた顏つきで居た。今度こそ負けてならないと、一生懸命になつて狐はプングリプングリプングリと跳ね出した。するとまたずるいヅブはその尾にぴつたり着いていつた。そして上方に着いて今度こそは勝つたと思つて鳥居の所で後《うしろ》を振返つて見ると、その拍子に尾から離れたヅブは狐どの今かなと言つたとさ。ドツトハラヒ。

 (七四番同斷の一二。)

[やぶちゃん注:「かつつける」宮城方言に「かつける」があり、「他人になすりつける・かこつける」の意があるが、ちょっと意味が合わない。私は、幾つかの地方に住んだが、どこの用法だか忘れたが(多分、富山県高岡市伏木)、「まあ、これ見よがしにやりやがったな!」の意で使うことがある。それだと、ここに合う。

「ヤグド」岩手方言で「わざと・故意に」の意。

「いつつに」秋田方言で「とうに・とっくに」の意がある。]

大手拓次訳 「輪舞歌(ロンド)」 ポール・フォル

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 輪舞歌(ロンド) ポール・フォル

 

もしも世界の娘たちがみんな揃つて手をかすならば、

娘たちは海のまはりにぐるりとロンドをやる事が出來るのに。

 

もしも世界の若者たちがみんな揃つて船乘りになるならば、

若者たちはめいめいの小舟(バルク)を波の上の樂しい橋とする事が出來るのに。

 

そして世界の人人がみんな揃つて手をかすならば、

世界のまはりにひとつのロンドをやる事が出來るのに。

 

[やぶちゃん注:フランスの詩人で劇作家としても知られるジュール・ジャン・ポール・フォール(Jules-Jean-Paul Fort 一八七二 年~一九六〇年:象徴性・単純さ・抒情性が混淆したバラードを得意とし、それらの幾つかは歌曲にも編曲されているようである)の‘ La Ronde Autour Du Monde ’(「世界を巡るロンド」)。

 フランス語の同詩篇のPDF化されたこちらを参考に、原詩を示す。

   *

 

                       LA RONDE AUTOUR DU MONDE

 

Si toutes les filles du monde voulaient s’donner la main,

Tout autour de la mer elles pourraient faire une ronde.

 

Si tous les gars du monde voulaient bien êtr’ marins,

Ils f’raient avec leurs barques un joli pont sur l’onde.

 

Alors on pourrait faire une ronde autour du monde,

Si tous les gens du monde voulaient s’donner la main.

 

   *

なお、cnz27hrio氏のブログ「カンツォーネ」の「セルジョ・エンドリゴ(SERGIO ENDORIGO)番外編 “世界をつなぐ若者”」の中に、ブログ主の「私の好きな少年少女詩 ★ 『輪おどり』 詩:ポール・フォール 訳:西條八十 (西条八十)」として、西条の訳詩が読めるので、参照されたい。また、フランス語の個人サイトのこちらで、同詩の朗読も聴くことが出来る。

「小舟(バルク)」“barque”。一般に「百トン以下の船」或いは「ボート・小舟」の意。但し、この語は海事用語で、“goélette”と同義で、「スクーナー船」、所謂、二本マストの帆船をも指す。詩篇の初読では、若者たちの小舟でいいが、世界一周(標題はそうも訳し得る)に達する時は、後者の方が絵としてはいいかも知れぬと感じた。]

2023/05/17

大手拓次訳 「信天翁」 シャルル・ボードレール / (別稿)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 異國のにほひ シャルル・ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに、

ふたつの眼をとぢて、おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき、

わたしは、單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰の島。

へいぼんな、つよい肉體をもつた男たち、

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち。

 

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて、

わたしは、ぼうつとした海の景色につかれはてながら、

帆と帆桂とにみちた港をみる。

 

そのときに、空氣のなかをとびめぐり、鼻のあないつぱいになる

みどり色の羅望女(タマリニエ)のにほひが、

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

[やぶちゃん注:『大手拓次譯詩集「異國の香」電子化注始動 / 序詩・「異國のにほひ」(ボードレール)』(ブログ単発版。一括PDF縦書版はこちら)を見られたいが、そちらの注では、原子朗氏の「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)に、初出『感情』のものに原氏が原詩の三、四連の行空けがないのは、雑誌編集者の恣意とされ(すこぶる同感である)、行空けを施したものを掲げておられる(196197頁)のを参考に、初出形を再現しておいた。しかし、それと、この底本のそれとは、やはり、異様に異同があり過ぎることから、本底本は別稿を元にしたものと考えるしか、ない。面倒なので、その原氏によって再現されたものを転写し、そこの異同部に【 】で注を附すこととする。「らんだ」の読みがないのは数えない。読み間違えはあり得ない熟語であり、詩集で編者が外しても、おかしくはないからである。

   *

 

  異國のにほひ ボードレール

 

秋のあつたかいゆふぐれに【←読点なし。①】

ふたつの眼をとぢて、おまへの熱い胸のにほひをすひこむとき【←読点なし。②】

わたしは單調なる太陽の火のきらきらする

幸福の濱べのあらはれるのをみる。

 

めづらしい樹と美味なる果物とを

自然があたへるところの懶惰(らんだ)【ルビなし。】の島

へいぼんな、つよい肉體をもつた男たち【←読点なし。③】

またはれやかな眼でびつくりとさせる女たち【←句点なし。④】

 

みいられるやうなこの季節にあたり、お前のにほひにみちびかれて【←読点なし。⑤】

わたしは【←読点なし。⑥】ぼうつとした海の景色につかれはてながら【←読点なし。⑦】

帆と帆柱とにみちた港をみる。

 

そのときに【←読点なし。⑧】空氣のなかをとびめぐり【←読点なし。⑨】鼻のあないつぱいになる

みどりいろの羅望子(タマリニエ)のにほひが【←読点なし。⑩】

わたしの靈魂のなかで水夫のうたともつれあふ。

 

   *]

大手拓次訳 「信天翁」 シャルル・ボードレール / (大手拓次譯詩集「異國の香」とは最終連に異同がある)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 信 天 翁 シャルル・ボードレール

 

乘組の人人は、ときどきの慰みに、

海のおほきな鳥である信天翁(あほうどり)をとりこにする、

その鳥は、航海の怠惰な友として、

さびしい深みの上をすべる船について來る。

 

板(いた)のうへに彼等がそれを置くやいなや

この扱ひにくい、内氣な靑空の主(ぬし)は、

櫂のやうに、その白い大きな羽をすぼめて、

あはれげにしなだれる。

 

この翼ある旅人は、 なんと固くるしく、 弱いのだらう!

彼は、をかしく醜いけれど、なほうつくしいのだ!

ある者は、短い瀨戶煙管(きせる)で其嘴をからかひ、

他の者は、びつこをひきながら、とぶこの廢疾者(かたはもの)の身ぶりをまねる!

 

詩人は、嵐と交り、射手をあざける

雲の皇子(プランス)によく似てゐるが、

下界に追はれ、喚聲を浴びては

大きな彼の翼は邪魔になるばかりだ。

 

[やぶちゃん注:これは既に『大手拓次譯詩集「異國の香」 信天翁(ボードレール)』(ブログ単発版。同詩集一括版縦書はこちら)で電子化してあるのだが、そこでは最終連が全三行であるものが、本底本では、そちらの最終行が、以上に二行に分かたれているので特に電子化した。なお、そちらでは、原詩を挙げてあるので、誰でも判るから注をしなかったが、老婆心ながら附け加えて言うと、「皇子(プランス)」は、フランス語の「王子」を意味する“prince”(音写「プランース」)を音写ルビしたものである。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七八番 田螺と野老

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから

「野老」は本文にある通り、「ところ」と読む。「野老」広義には、単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の中で、「~ドコロ」という和名を持つ所謂、「山芋」の一種であるが、時に、その中の一種であるオニドコロ(鬼野老)Dioscorea tokoro を指す。しかし、「~ドコロ」の種群は苦く、しかも幾つかの種は有毒であり、通常は食用としない。しかし、ウィキの「トコロ」によれば、『ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロ』( Dioscorea esculenta :本邦では沖縄で栽培されている)『は』無毒で、『広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ(またはヒメドコロ』(Dioscorea tenuipes )『)の栽培品種のエドドコロが栽培されていた。現代では、青森県や岩手県の南部地方などで食用とする文化が残って』おり、本邦でも『古い時代には救荒植物として』、『茹でて晒した上、澱粉を抽出して食用とした』歴史がある。因みに、私は若い頃、「ところ」は「山芋」の異名で、「とろろ芋」として食用に供するヤマノイモ Dioscorea japonica と同一だと思っていた。それは、芭蕉の句の、「此山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり)」の句から、漫然とそう思い込んでいたのである。『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 此山のかなしさ告げよ野老掘 芭蕉』を参照されたい。]

 

  七八番 田螺と野老

 

 昔、田螺(ツブ)と野老(トコロ)が隣り同志であつた。或時トコロがヅブのところ斯《か》う歌をかけた。

   ヅブスブと

   澁たれ川のゴミかぶり

   ケツがよじれて

   おかしかりけり[やぶちゃん注:「おかし」はママ。]

 すると田螺は返した。

   トコロどの

   あんまりチヨウゲンし過して

   體のケブを

   拔かれもさんナ

 これを聽いて野老は怖氣がついて、今のように土の中にモグリ込んだ。

[やぶちゃん注:「ケブ」「野老」の芋に生えているヒゲ根を「毛」と呼んだもの。]

(眞澄遊覽記の膽澤《いさは》邊で子供から路々聞いた話に兎(ウサギ)とツブとの斯うした掛歌があつた。私はそれを大層面白く思つて村で聽き合せると、この類の話を二三知つて居た。本話は家の老母から聽いたものであるが、同じ所でも古屋敷 萬十郞殿[やぶちゃん注:半角字空けはママ。]が知つてゐたのは歌のところだけで斯うであつた。)

    マルマルと

    澁タレ川のゴミかぶり

    尻の卷目が

    おかしかりけり

 これは野老の掛歌。すると田螺は斯う云つた。

    ニガニガしい野老どの

    頭のケブカ拔かれもさんな。

 

[やぶちゃん注:附記部分は、ポイント下げで、概ね本文二字下げであるが、全部引き上げて、同ポイントとした。

「膽澤郡」旧岩手県胆沢郡。旧郡域は現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町及びそこより南方部で奥州市の一部を含む広域であった(当該ウィキを見られたい)。

「眞澄遊覽記」江戸後期の大旅行家にして優れた博物学者であった三河国吉田生まれの菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)が記した膨大な日記・・論考・資料は、彼の『存命中の』文政五(一八二二)年に久保田藩の藩校『明徳館に献納された(同館事業として編纂された』「雪の出羽路 平鹿郡」と「月の出羽路 仙北郡」を『含む)』。明治四(一八七一)年に『明徳館本は佐竹家に移管され』、後の昭和一九(一九四四)年には『辻兵吉の所有となったが、その後』、『秋田県立博物館に寄贈され』、『現在に至る』。これは、敗戦後の昭和三二(一九五七)年には「自筆本 真澄遊覧記」全八十九冊として『秋田県有形文化財となり』、現在は『国の重要文化財と』も『なっている』とある、それ。]

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「秋時雨 ――鏡花泉先生の追憶――」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 今回、本篇に先立って、芥川龍之介が幼年期より愛読者であり、売れっ子作家になってからも最も尊崇し、その全集参訂者にも名を連ねた泉鏡花に関わって、

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

を電子化注したが、龍之介は、生前、鏡花を敬して語らずという礼法を守り、随筆などには彼を語った物は殆んどない。しかし、以上の鏡花作品に就いての語りを読むに、私は、芥川は直弟子を自認していた夏目漱石よりも、寧ろ、本邦の数少ない幻想文学の巨匠として、遙かにその小説群を尊敬もし、また、真似出来ない名匠として捉えていたものと考えている。私自身、泉鏡花を偏愛しているが、上に掲げた鏡花という作家の文学史的立ち位置の解析は、全集慫慂宣伝という割引をしても、なお、今現在から見ても、正鵠を射ており、未だに古びていないものと思われる。

 以下は、晩年の芥川龍之介と泉鏡花の点景を含んだ、鏡花追悼の一篇で(昭和一四(一九三九)年九月七日に癌性肺腫瘍のため満六十五歳で亡くなった)、同年九月に書かれ、『文藝春秋』に載ったものである。]

 

秋 時 雨

 

          鏡 花 泉 先 生 の 追 憶

 九月七日に泉鏡花さんがなくなられた。享年六十七ださうである。十日の午後三時から芝の靑松寺《せいしようじ》で告別式が行はれるといふので、私は少し用をたしてから出向いたのだが、時間が早かつたので、歌舞伎座や明治座の旗の飜つてゐる寺の門前に佇んでゐると、文士らしい人や男女の俳優らしい人たちも少しは見えて來た。

 この日は二百二十日の厄日の影響とでもいふのか、ザツと驟雨が來るかと思ふとケロリと止んで日が輝き、また忽ち降つてくるといふ反覆常なき厄介な天候で、傘の用意はしてゐながら、電車の乘り替へ用たしの途《みち》すがら、幾度濡れたことであらう。

 定刻には少し早いがかまはぬといふので、我々は一般告別禮拜者のトツプを切つたわけだつた。まづ本堂正面靈柩の前に進んでで型の如く恭しく燒香を了《をは》り、くびすを返して左側整列のご婦人がた右側整列の男のかたがたに一禮しつゝ退場したのだが、多數のうちから僅かに德田秋聲翁、佐藤春夫氏、久保田万太郞氏、室生犀生氏など、よく知ってゐる人たちのほんの二三の顏だけが朧げな老眼に映じただけだつた。寺門を出るとまたパラパラと雨が降つて來た。

 泉鏡花さんには大正八九年ごろ道觀會のをりに芥川龍之介君の書齋で始めてお目に懸つた。この時の會場は田端西臺の鹿島さんのお宅だったので、澄江堂から三人打連れ、話しながら参會したのだった。

[やぶちゃん注:「道觀會」不詳。中産階級の文化サロンのようなものであろう。

「鹿島さん」田端文士村に居住していた芥川のパトロンでもあった鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵であろう。]

 鏡花さんの噂さは、豫《かね》て聊かながら聞知《ぶんち》してはゐたが、さてお逢ひして見ると全くもつて純眞そのもの――否や、何とも言へぬ珍無類の存在だといふことを知つた。あの時代色の濃い洒落た莨入《たばこい》れの筒から、中ぼそのの銀張りを引き拔いて靜かに莨を詰め、火を點ずるやスツと一つ深く吸ふかと見れば吸殼ははや吐月峯《とげつぽう》の中に落される、クルツと指先に廻轉された煙草は、小指でぽんと拔かれた筒の中へ忽ちにして納まるといふ器用な手さばきはさながら落語家などの演ずる通人そのまゝだ。

[やぶちゃん注:「吐月峯」煙草盆に入れてある灰吹き用の竹の筒を言う語。室町時代の連歌師宗長(そうちょう)は十八歳で出家した後も、今川義忠に近侍し、書記役のようなことを務め、合戦などにも、度々、従軍していたが、義忠戦死の後、今川家を離れ、上洛し、一休宗純に参禅、また、宗祇に師事して連歌を修行した。その後、駿河国安倍郡長田村(現在の静岡市駿河区丸子(まりこ))に柴屋寺(さいおくじ)を開き、山の峰から月の出る景観の美しさを愛して、この地の山を「吐月峰」と命名したとされる。その吐月峰に産する竹が、灰吹き用の竹筒に最も適し、宗長はここで製する竹筒に「吐月峰」と産地の銘を初めて刻したと伝えられ、後、これが煙草盆の灰吹きとして広く世に用いられるようになってから、「吐月峰」は灰吹きの代名詞となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 少しアルコール利き出してからの話し振りは、聊か舌もつれの混《この》じた氣せはしい切迫調で勿論、普通の雄辯などとは甚だ緣遠いのかも知れぬが、陰翳濃まやかな抑揚自在の奇言百出、言葉の綾のもつれの面白味など如何な苦蟲黨《にがむしたう》も顎《あご》を解かずにはゐられまい。然も手振り身ぶりの妙趣に至つては、恐らく職業話し家《か》などの遠く及ばぬ自然さだからたまらない。

 この時の會はたしか拾人ぐらゐだと思ふのだが、その十人が十入誰れひとり臍《へそ》をよらぬ者とてなくあの小杉放庵君の如き斯ういふ不思議な眞人《しんじん》は我々繪かき仲間のうちには藥にしたくも見當らない。洵《まこと》に得がたい國寶だ……などと感嘆の叫びを擧げたほどだ。兎《と》にまれこの時の道觀會は、全く鏡花先生の一人舞臺だつたのである。

[やぶちゃん注:「臍をよらぬ」「撚臍」で「へそをよる」と読む、一種の隠語で「甚しく笑ふこと」で、「おなかの皮を撚(ひね)る」と言うのに同じ。

「眞人」「超俗的で、真理を悟って人格が完成された人」の意。]

 酒は餘り强い方ではないらしいが、時々――戴くなら熱いところを……などといひながら、ご機嫌の餘り大醉されたので、芥川君香取秀眞君並びに老生と三人が、交るがはる肩にかけて動坂まで送り出したのだつた。途すがら、もつれる舌を舐めずつて――吉原へ行かう……などとおつしやるのだつた。漸《やうや》くにして自動車に乘せ、運轉手にはよくお宅を敎へてやつたのだつたが、後に聞けぱ、神樂坂の懇意な藝者屋とかに車をつけさせ、明けてから歸宅されたといふことである。

 鏡花全集の出來るころ、いま泉さんが歸つたところだといふ澄江堂をお訪ねした。芥川君の曰く――泉さんが來て僕に全集の序文を書いてくれといふのだが僕は先生やうな先輩の全集へ序文など書けない……といつてことわつた。然るにどう考へてもほかに賴みたい人がないから、是非書いてくれといふので、たうとうことわり切れずに引受けて實はよわつてゐるところだと言つてゐた。あの序文は當時有名なもので、泉さんも大さう喜んでゐられたさうである。

[やぶちゃん注:「序文」芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)を指す。]

 芥川君のおつ夜のとき、控へ室に充てられた竹村の座敷で、曾て芥川君が修善寺の某溶館の二階に滯在中、泉さんご夫婦が見えられ、下の離れ座敷でご夫婦差し向ひのところを竊《ひそ》かに寫生し、畫の上に「鏡花先生蝶々喃々之圖」と題した珍畫を郵送してくれた。

 これはペンで描いた非常に面白い傑作なので大切に祕藏してゐたのだが、ふと泉さんに見せたい氣がしたので、早速取り寄せてご覽に入れた。果せるかな忽ち珍妙な相恰現はれ、これはこれは……と三度ほど頭を叩いて見入つてゐられたが、これに戴かせて下さいますか……と言はれたので一寸ドギマギした。何れある機會に……とうまく逃げたのだつたが、その機會がなかつたので、いまだに手箱の底に收めてある。

[やぶちゃん注:この二段落、下島が鏡花の所望に応じなかった後悔のドギマギが生じたからか、文章がおかしい。なお、その絵は、『芥川龍之介書簡抄125 / 大正一四(一九二五)年(六) 修善寺より下島勳宛 自筆「修善寺画巻」(改稿版)』の、これである。なお、この戯画には初稿があり、それも『芥川龍之介書簡抄124 / 大正一四(一九二五)年(五) 修善寺より佐佐木茂索宛 自筆「修善寺画巻」(初稿)+自作新浄瑠璃「修善寺」』で見られる。]

 私のところに紅紫山人の――

 

   瓢と財布春の別れを對し泣く

 

   ――といふ句を曾いた扇面がある。この話をしたら是非見たいと言つてゐられたが、これもお眼に懸ける機會がなかつた。序《ついで》ながら泉さんは、先師江葉山人の筆蹟に接するときにはまづ口と手を淸め恭しく禮拜してから觀られるのが常ださうである。一見洒々落々たるうちに謂ゆる――三尺離れて師の影を踏まず、といふ儒敎的敬虔さ義理堅さを持つてゐられたといふことは、何といふ尊いことではあるまいか。

 猶私は泉さんの短册を一點所藏してゐる。それは――

 

   紫のつゝしとなりぬ薄月夜

 

といふ鏡花さんらしい名句で、「その筆蹟も甚だ見事である。これは室生犀星から割愛されたもので、いまは芥川君の畫とともに、私のためには感慨深い遺品となつた。

[やぶちゃん注:以上の句は「紫の映山紅(つゝじ)となりぬ夕月夜」である。私の「泉鏡花句集」の「春」の部を参照されたい。]

 

     靈前に捧ぐ

   白しろと尾花の雨の寒からじ

(昭和一四・九・文藝春秋)

芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛

 

大正一四(一九二四)年三月十二日田端発信・消印十三日・麹町區下六番町廿六 泉鏡太郞樣・三月十二日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

朶雲邦誦仕候開口の拙文御よろこび下され忝く存候 何度試みても四六駢麗体の評論のやうなものしか書けず、今更あゝ言ふもののむづかしきを知りし次第、垢ぬけのせぬ所はいくへにも御用捨下され度候、御言葉に甘へ、味噌に似たものを申上げ候へばあの中野に白鶴の云々より先を書き居候時は少々逆上の気味にて眶のうちに異狀を生じ候 目下仕事やら何やらにて閉口致し居り候へどもいづれ拝眉仕る可くまづ御礼まで如斯に御坐候 頓首

  附錄に一句御披露申し候間御一笑下され度候 置酒と前書して、

   明星のちろりにひびけほととぎす

    十二日夜半          龍 之 介

   泉 先 生 侍史

 

[やぶちゃん注:「開口の拙文」先ほど公開した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口」を指す。そちらの冒頭注で記した通り、その文章は二ヶ月後の大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告に載るのだが、この十一前の同年三月一日の夜、編者を務めた春陽堂版『鏡花全集』の出版記念会が芝紅葉館で行われており、芥川龍之介も出席している(八十余名出席。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。そこで事前に鏡花にその広告文が披露されたのであろう。同年譜によれば、この三月上旬は『病気がちの上』、仲人を務めた作家『岡栄一郎夫妻の離婚話』、義弟『塚本八州の喀血などが重な』り、『仕事が詰り、面会日を中止して、原稿執筆に追われる』とあった。恐らくは、小説「春」の執筆に難渋していたことを指すのであろう。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「四六駢麗体」ママ。「四六駢儷体(體)」が正しい。小学館「日本国語大辞典」によれば、「駢儷」は「語句を対にして並べること」を指す語で、『漢文の文体の一つ。主に四字・六字の句を基本として対句』『を用いる華美な文体。漢・魏に起こり、六朝から唐にかけて流行し、韓愈・柳宗元が提唱した古文運動が定着するまでは、文章の主流であった。日本では、奈良・平安時代に盛んに用いられた。駢文。四六文。四六駢儷文』とある。李白の「春夜宴桃李園序」(春夜、桃李園に宴ずるの序)の授業で説明したぜ。

「眶」「まぶた」。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集に就いて

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月五日及び翌六日附の『東京日日新聞』に掲載されたもの。

 底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。総ルビであるが(なお、新聞物はもとより、雑誌発表作品でも、校正者が勝手に振るのが当たり前の時代であったから、それに従うのは、かなり危険ではあることを言い添えておく。岩波版芥川龍之介全集の元版に編集者として加わった堀辰雄は編集会議で全集を、総て、ルビ無しでと主張したが、退けられている)、一部に限った。踊字「〱」は正字化した。]

 

 鏡花全集に就いて

 

       

 

 「鏡花全集」の出づるにあたり、僕も參訂者の資格を離れた一批評家として言を立てれば、第一に鏡花先生の作品は屢(しばしば)議論を含んでゐる。これは天下の鏡花贔屓(びいき)には或ひは異端の說かも知れない。しかし先生の作品は、――殊に先生の長篇は大抵或議論を含んでゐる。「風流線」、「通夜物語」、「婦系圖」、――篇々皆然りと言つても好(よ)い。その又議論は大部分詩的正義に立つた倫理觀である。この倫理觀を捉へ得ぬ讀者は徒らに先生の作品に江戶傳來の侠氣のみを見出だすであらう。けれども僕の信ずる所によれば、この倫理觀は先生の作品を全(ぜん)硯友社の現實主義的作品の外(そと)に立たせるものである。のみならず又硯友社以後の自然主義的作品の外にも立たせるものである。

 たとへば尾崎紅葉の「多情多恨」や「金色夜叉」を先生の作品とくらべて見るがよい。前者は或ひは措辭の上に後者のプロトタイプを持つてゐるであらう。しかし先生の倫理觀に至つては全然紅葉の知らざる所である。自然主義の先生と相容れなかつたのもやはり措辭の爲ばかりではない。現に自然主義的文壇は小栗風葉氏の作品にさへ自然主義のレツテルを貼り、更にまた永井荷風氏の作品にもおなじレツテルを貼らうとした。しかも畢(つひ)に先生の作品を同臭味(どうしうみ)のものとしなかつたのは、この詩的圓光を帶びた先生の倫理觀に堪へなかつたのである。

 

       

 

 この倫理觀の夙(つと)に先生の作品を色づけてゐたことは、「貧民俱樂部(ひんみんくらぶ)」(これは今度はじめて集に入つた初期の作品の一つである。)の一篇に現れてゐる。「貧民俱樂部」の女主人公お丹(たん)の說破(せつは)する所によれば、慈善は必ずしも善ではない。その貴族富豪の徒(と)に自己弁護の機會を吳ふるかぎり、斷じて惡といはなければならぬ。貧民はたとひ饑(う)ゑるにしても、結束して慈善を却(しりぞ)ける所に未來の幸福を見出だす筈である。かういふ倫理觀の僕に興味のあるのはひとり上記の理由によるのみではない。これは明治廿何年かの先生の倫理觀たるにとどまらず、同時にまた大正何年かのプロレタリアの倫理觀ではないであらうか?………

 のみならずこの倫理觀は先生の愛する超自然的存在、――自靈や妖怪にも及んでゐる。尤も先生の初期の作品は必ずしも惡靈を避けなかつた譚ではない。「湯女(ゆな)の魂(たましひ)」の蝙蝠(かはほり)の如きはこの惡靈(あくれい)の尤なるものである。しかしその後の超自然的存在はいつか倫理的に向上した。「深沙大王(しんじやだいわう)」の禿げ佛(ぼとけ)、「草迷宮」の惡左衞門等はいづれも神祕の薄明りの中にわれわれの善惡を裁いてゐる。彼等の手にする罪業(ざいごふ)の秤(はかり)は如何なる倫理學にも依るものではない。たゞわれわれの心情に訴へる詩的正義に依るばかりである。それにもかゝはらず――といふよりも寧ろその爲に彼れ等は他に類を見ない、美しい威嚴を具へ出した。「天守物語」はかういふ作品の最も完成した一つである。われわれの文學は「今昔物語」以來、超自然的存在に乏しい譯ではない。且また近世にも「雨月物語」等の佳作のあることは事實である。けれども謠曲の後(のち)シテ以外に誰(たれ)がこの美しい威嚴を彼れ等の上に與へたであらうか?

 第二に先生の作品は獨特の措辭に富んでゐる。これは多言するを待たないかも知れない。たゞ僕の信ずる所によれば、先生の文章は世間一般の獨特とするよりも獨特である。先生のやうに一編の作品のうちに口語を用ひ、文語を用ひ、漢詩漢文の語を用ひ、更にまた名詞等を用ふる作家は明治大正の間にないばかりではない。若し他に匹(ひつ)を求めるとすれば、恐らくは謠曲を獨造(どくざう)した室町時代の天才だけであらう。この特色もまた先生をあらゆる文壇的陣營の外に立たせることになつたのは勿論である。第三に――第三以下を論ずることは紙面の都合上見合せなければならぬ。

 しかし上に述べた兩特色だけでも優に先生を殺すに足るものである。異を却け同を愛することは文壇も世間と變りはない。敢然と一代の風潮にさからふからには、たとひ命に別條はないにもせよ、われわれの文壇的存在は危ふいものと覺悟しなければならぬ。けれども畢に文壇は先生を殺すことに失敗した。「鏡花全集」十五卷は先生の勝利を示すものである。これは天下の鏡花贔屓の意を强(つよ)うする所以(ゆゑん)ばかりではない。詩的正義を信ぜざること、僕の如き冷血漢も大いに意を强うする所以である。卽ちこの惡文を草し、僕の一家言(かげん)を公(おほやけ)にすることにした。若しそれ先生の作品を論じてプロレタリアの倫理觀などに及んだ爲に先生の苦笑を買ふとすれば、「本是山中人、愛說山中話」――先生の寬容を待つ外はない。(修善寺にて)

 

[やぶちゃん注:「文壇は先生を殺すことに失敗した」筑摩書房全集類聚版『芥川龍之介全集』第五巻のこの部分の脚注に、『自然主義全盛時代、鏡花は逗子に住み、窮乏に耐えて、浪漫的神秘的作風を堅持し、大正期に至って後進に慕われた』とある。

「本是山中人、愛說山中話」これにはルビはない。訓読すると、「本(もと)是(こ)れ 山中(さいちゆう)の人(ひと)」「說(と)くことを愛す 山中の話(わ)」で、これは宋の禅僧で詩人でもあった蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛說山中話 五月賣松風 人間恐無價」が原拠である。芥川龍之介はこの二句を甚だ遺愛した。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 鏡花全集の特色

 

[やぶちゃん注:先に電子化注した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)」と同じく、大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。]

 

 鏡花全集の特色

 

 一 作品 泉先生の作品は小說、戲曲、隨筆の三方面に亙り、何れも天下無双の光彩を放つてゐる事は贅言するを待たないであらう。其取材構想は或は市井任俠の譚を捉へ、或は深山幻怪の事に及び、或は閨閤子女の情を寫し、あらゆる自然、あらゆる人生、あらゆる社會相を網羅してゐる。其又筆致行文は絢爛と蒼古とを併せ俱へ、殆ど日本語の達し得る最高の表現と稱しても好い。加之颯爽たる理想主義的人生觀は到る處に光芒を露し、如何に此偉大な藝術家の背後に偉大な思想家があるかを示してゐる。卽ち「鏡花全集」十五卷は明治大正の文藝のみならず、日本文藝の建造した一大金字塔と言はなければならぬ。

 二 編輯 編輯は泉先生自身之に從ひ、小山内薰、谷崎潤一郞、里見弴、水上瀧太郞、久保田萬太郞、芥川龍之介の諸氏が參訂の任に從つてゐる。泉先生の著作年月は三十餘年の久しきに亙つてゐるから、作品の敷も五百餘篇に及び、新聞雜誌に揭載された儘、單行本にならぬものは甚だ多い。泉先生の編輯方針はそれ等の斷簡零墨をも一つ殘らず集めた上、全體を小說、戲曲、隨筆の三方面に分ち、各方面それぞれ年代順に作品を排列する計畫である。卽ち「鏡花全集」十五卷は天才泉先生の精進の跡を示すのみならず、近代日本文藝史の最も光彩陸離たる一頁を造るものと言はなければならぬ。

 三 校正並びに印刷の體裁 校正並びに印刷の體裁等は小村雪岱、濱野英二の兩氏之に當り、職業的義務心を超越した獻身的情熱を注いでゐる。兩氏とも泉先生に親炙する事多年、先生の人格藝術に至大の尊敬を抱いてゐるから、坊間行はれる「全集もの」の校正並びに印刷の體裁とは自ら同日の談ではない。卽ち「鏡花全集」十五卷は字字魯魚の誤を脫し、行行珠璣の觀を具へた萬古の定本と言はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:「閨閤」「けいかふ」(けいこう)は「閨房」と同じく「寝所」の意だが、特に「女子の居間」。転じて「女子」の意で、以下の「子女」との畳語。

「濱野英二」(生没年未詳)は編集者。早稲田大学英文科卒。明治四三(一九一〇)年に雑誌『金と銀』(後に『象徴』に受け継がれた)を鈴木十郎・牧野信一らと創刊した。泉鏡花の崇拝者で、後、この春陽堂版『鏡花全集』の編纂の中心的立場に立っていた(以上は岩波新全集の「人名解説索引」に拠った)。

「行行珠璣」「ぎやうぎやうしゆき」「珠璣」まるい玉(ぎょく)と角ばった玉。大小様々な美玉で、宝玉のような美しい文章を指す。]

芥川龍之介 鏡花全集目錄開口 (正規表現版・注附)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告ページに他の参訂者(校訂にに加わった者)は五人連名中に初出されたもの。底本は岩波旧全集第七巻(一九七八年二月刊)に拠った。

 注は若い読者を考え、難読なもののみに限って、読み、又は、意味を添えた。]

 

 鏡花全集目錄開口

 

 鏡花泉先生は古今に獨步する文宗なり。先生が俊爽の才、美人を寫して化を奪ふや、太眞閣前、牡丹に芬芬の香を發し、先生が淸超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずるは已に天下の傳稱する所、我等亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文藝に羅曼主義の大道を打開し、艶は巫山の雨意よりも濃に、壯は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻に一代の壯擧たるのみならず、又實に百世に炳焉たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

 先生作る所の小說戲曲隨筆等、長短錯落として五百餘篇。經には江戶三百年の風流を吞却して、萬變自ら寸心に溢れ、緯には海東六十州の人情を曲盡して、一息忽ち千載に通ず。眞に是れ無縫天上の錦衣。古は先生の胸中に輳つて藍玉愈溫潤に、新は先生の筆下より發して蚌珠益粲然たり。加之先生の識見、直ちに本來の性情より出で、夙に泰西輓近の思想を道破せるもの尠からず。其の邪を罵り、俗を嗤ふや、一片氷雪の氣天外より來り、我等の眉宇を撲たんとするの槪あり。試みに先生等身の著作を以て佛蘭西羅曼主義の諸大家に比せんか、質は擎天七寶の柱、メリメエの巧を凌駕す可く、量は拔地無憂の樹、バルザツクの大に肩隨す可し。先生の業亦偉いなる哉。

 先生の業の偉いなるは固より先生の天質に出づ。然りと雖も、其一半は兀兀三十餘年の間、文學三昧に精進したる先生の勇猛に歸せざる可からず。言ふを休めよ、騷人淸閑多しと。瘦容豈詩魔の爲のみならんや。往昔自然主義新に興り、流俗の之に雷同するや、塵霧屢高鳥を悲しましめ、泥沙頻に老龍を困しましむ。先生此逆境に立ちて、隻手羅曼主義の頽瀾を支へ、孤節紅葉山人の衣鉢を守る。轗軻不遇の情、獨往大步の意、俱に想見するに堪へたりと言ふ可し。我等皆心織筆耕の徒、市に良驥の長鳴を聞いて知己を誇るものに非ずと雖も、野に白鶴の迥飛を望んで壯志を鼔せること幾囘なるを知らず。一朝天風妖氛を拂ひ海内の文章先生に落つ。噫、噓、先生の業、何ぞ千萬の愁無くして成らんや。我等手を額に加へて鏡花樓上の慶雲を見る。欣懷破顏を禁ず可からずと雖も、眼底又淚無き能はざるものあり。

 先生今「鏡花全集」十五卷を編し、巨靈神斧の痕を殘さんとするに當り、我等知を先生に辱うするもの敢て謭劣の才を以て參訂校對の事に從ふ。微力其任に堪へずと雖も、當代の人目を聳動したる雄篇鉅作は問ふを待たず、洽く江湖に散佚せる萬顆の零玉細珠を集め、一も遺漏無からんことを期せり。先生が獨造の別乾坤、恐らくは是より完からん乎。古人曰「欲窮千里眼更上一層樓」と。博雅の君子亦「鏡花全集」を得て後、先生が日光晶徹の文、哀歡双双人生を照らして、春水欄前に虛碧を漾はせ、春水雲外に亂靑を疊める未曾有の壯觀を恣にす可し。若し夫れ其大略を知らんと欲せば、「鏡花全集」十五卷の目錄、悉載せて此文後に在り。仰ぎ願くは瀏覽を賜へ。

   大正十四年三月

 

[やぶちゃん注:「鏡花全集」泉鏡花数え五十三歳の大正一四(一九一五)年七月から刊行が始まり、昭和二(一九二七)年七月(奇しくも芥川龍之介自死の月であった。芥川の葬儀では鏡花が先輩総代として第一番に本人によって弔辞を読んでいる。私の『泉鏡花の芥川龍之介の葬儀に於ける「弔辞」の実原稿による正規表現版(「鏡花全集」で知られたこの弔辞「芥川龍之介氏を弔ふ」は実際に読まれた原稿と夥しく異なるという驚愕の事実が判明した) / 附(参考)「芥川龍之介氏を弔ふ」』(ブログ版)を参照。PDF縦書サイト版もある。鏡花の自筆年譜のそこには、『七月、期に遲るゝこと八ケ月にして「全集」成る。この集のために、一方ならぬ厚意に預りし、芥川龍之介氏の二十四日の通夜の書齋に、鐵瓶を掛けたるまゝの夏冷き火鉢の傍に、其の月の配本第十五卷、蔽を拂はれたりしを視て、思はず淚さしぐみぬ。』と記されてある)に最終巻が配本された。全十五巻で、参訂者は小山内薫・谷崎潤一郎・里見弴・水上龍太郎・久保田万太郎、そして、芥川龍之介であった。

「太眞」かの玄宗の美妃楊貴妃の道号。

「鄒湛」(すうたん ?~二九九年頃)は西晋の官僚・文人。当該ウィキによれば、『若くして才能と学問で名を知られ、魏に仕えて通事郎・太学博士を歴任し』、『生前に書かれた詩や時事を論じた』二十五『首は、当時』、甚だ『重んじられた』とある。

「宅外、楊柳に啾啾の聲を生ずる」鄒湛の詩篇と思われるが、簡体字などを用い、いくら調べても、彼の詩篇に当たることは出来なかった。識者の御教示を乞うものである。

「濃に」「こまやかに」。

「啻に」「ただに」。

「炳焉」「へいえん」。明らかなさま。著しいさま。

たる東西藝苑の盛觀と言ふ可し。

「緯」「ゐ」。

「藍玉愈溫潤に」「らんぎよく。いよいよ、をんじゆんに」。

「蚌珠益粲然たり」「ばうしゆ、ますます、さんぜんたり。」。「蚌珠」は淡水産の斧足綱イシガイ目イシガイ科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata から採れる真珠。

「加之」「しかのみならず」。

「夙に」「つとに」。

「輓近」「ばんきん」。最近。

「擎天」「けいてん」。ここは、全世界の文芸を支えるところの貴重な存在の意。

「偉いなる哉」「おほいなるかな」。

「兀兀」「こつこつ」。凝っと腰を据えて物事に専心するさま。絶えず努めるさま。

「屢」「しばしば」。

「頻に」「しきりに」。

「困しましむ」「くるしましむ」。

「隻手」「せきしゆ」。(ただ先生お一人が、しかも)片手で。

「頽瀾」「たいらん」。波頭の崩れ落ちてゆく波。ここはロマン主義の衰退を指す。

「心織筆耕の徒」「しんしきひつかうのと」。ここは、「文学を活計とする者ども」の意。

「良驥」「りやうき」。千里を走る駿馬。転じて才能のある人物を指す漢語。

「白鶴」「はくかく」。同前。

「迥飛」「くゑいひ」(けいひ)。遙かに空高く舞い飛ぶこと。

「鼔せる」「こせる」。

「妖氛」「えうふん」(ようふん)。禍いを及ぼす悪しき気。妖気。

「海内」「かいだい」。

「噫」「ああ」。

「噓」「きよ」。感動詞的用法。長い溜息をつくことを意味する。

「辱うするもの」「かたじけなうする」。

「謭劣」「せんれつ」。あさはかで、劣っていること。

「校對」「かうつい」。校正。

「聳動」「しようどう」。恐れ、動揺すること。

「鉅作」「くさく」。傑作。

「洽く」「あまねく」。

「萬顆」「ばんくわ」。

「別乾坤」「べつけんこん」。

「完からん乎」「まつたからんか」。

「欲窮千里眼更上一層樓」。私も好きな、漢文の教科書にも載る、盛唐の詩人王之渙の五絶「登鸛雀樓」の著名な転・結句。通常、「眼」は「目」である。

   *

 登鸛雀樓

白日依山盡

黃河入海流

欲窮千里目

更上一層樓

  鸛雀樓(くわんじやくらう)に登る

 白日(はくじつ) 山に依りて 盡き

 黃河 海に入りて 流る

 千里の目(め)を窮めんと欲して

 更に上(のぼ)る 一層樓

   *

この「一層樓」を「一層の樓」と訓ずるのは、私は嫌いである。

「哀歡双双」哀しみと歓びとが二つながらともに。

「虛碧」「へききよ」。本来は「晴れ渡った青空」を指すが、ここは前後から春の水の流や淵の奥深い碧(あお)いそれを指す。

「漾はせ」「ただよはせ」。

「恣に」「ほしいままに」。

「瀏覽」「りうらん」(りゅうらん)。「くまなく目を通すこと」が第一義だが、ここは別に、「他人を敬って、その人の著作を閲覧すること」を言った謙遜表現。]

2023/05/16

「近代百物語」電子化注始動 / 叙・目錄・巻一「二世のちぎりは釘付けの緣」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」は上記「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の「解題」によれば、刊記は冒頭に記した通りで、以下に示す、『鳥飼酔稚』(「とりがひすいち」(歴史的仮名遣)と読んでおく)『の序によると遍参の僧の怪説を川崎氏なるものが書きとめたことになっているが、『享保以後大坂出版目録』によれば、作者は吉文字屋市兵衛、すなわち序文を識した酔稚こと吉文字屋三代目洞斎である』と明らかにされておられ、この吉文字屋は書肆主人であったが、同時に『百物語怪談集の』執筆・『出版に余念のなかった』人物なのである。但し、太刀川氏は、『本書は全一五話、各巻三話ずつ、そのうち二話は「今はむかし」で始まる説話である。したがってこの形式のものが全巻で一〇話、そのうち七話にこれに先立って内容に関する前置きがある』こと、及び『各説話の長さが一定しないのは怪異小説の通例とはいえ、形式でも前置き、そして「今はむかし」の形を採らないところから』、『これには一考を要するところである。序文で酔雅が川崎氏の名をあげ、出版に際して酔稚が自分を作者としていることを併せてみるとやはり問題がありそうである』と作者を彼と断定するにはやや疑問があると推理されておられる。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。而して、欠損している第二巻は「続百物語怪談集成」では五幅の挿絵があるが、その「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正して使用する。因みに、後者については、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 ただ、どうも「ヘルン文庫」の場合、挿絵の位置が、どれも、話本文とは離れていて、おかしい。総てに於いて、「続百物語怪談集成」の挿絵配置を参考に、適切と思われる箇所に置いた。

 

 

新版

  近代百物語一 一之巻

繪入

 

[やぶちゃん注:以上は底本の表紙(明らかに新しい「近代百物語」の題箋があるが、省略した)の次にある原版本の表紙と思われるもの。頭の「新版」と「繪入」は底本では標題上に割注式に並んで入っている。なお「巻」の字はざっと全巻を見ても「卷」ではなく、「巻」である。

 以下、「叙」と「目錄」。]

 

近代百物語叙

 

 釈迦文尊者(しやかぶみそんじや)の大德、大いなるかな。上智をさとすに、不可説、微妙の間《かん》に、大悟を得、下愚(かぐ)に至つては、三世《さんぜ》因果をもつて、𢙣(あく)をこらし、善をすゝむ。衆生濟度の法便、仰ぐべし、尊(たつと)ぶべし。是れ、將(はた)、怪にあらずして、なんぞや。怪の大いなるものなり。近世(きんせ)、風雲の僧ありて、遍參の間《あひだ》、傳聞、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、まのあたり見る處の怪説を、かたる。川崎氏、書きとゞめて、五冊と成る。是(これ)、將(はた)、怪の小なる物也。大ものは、大益あり。小なるものも、また、小補(《しやう》ほ)なくんば、あらじ。此事を得て、梓行《しかう》して、世に弘(ひろむ)るの理(ことわり)、是によつて省悟(せいご)すべし。

 明和七年

  寅正月吉辰           鳥飼醉稚題

 

 

近代百物語目錄

 一之巻

   二世(せ)のちぎりは釘付(くきつけ[やぶちゃん注:ママ。])の緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。]

   いふに甲斐なき蘇生の悅び

   なべ釜の勢ぞろへ

 二之巻

   矢つぼを遁れし狐の妖怪

   貪欲心が菩提のはじまり

   はこね山幽㚑酒屋(ゆうれいさかや)

 三之巻

   㙒馬(のむま)にふまれぬ仕合吉(しあはせよし)

   磨(とき[やぶちゃん注:ママ。])ぬいた鏡屋が引導

   狐の嫁入り出生(しゆつしやう)の男女(なんによ)

 四之巻

   勇氣をくじく鬼面(きめん)の火鉢

   怨(うらみ)のほむらは尻(しり)の火ゑん

   山の神は蟹が好物(こうぶつ)

 五之巻

   巡(めぐ)るむくひは車(くるま)の轍(わだち)

   猫(ねこ)人に化(け)して馬(むま)に乘(のる)

   慈悲をかんずる武士の返礼

 惣目錄終

 

 

近代百物語巻一

   二世の契りは釘(くぎ)づけの緣

 諺に、「ねんりき、岩を、とをす[やぶちゃん注:ママ。]。」とは、古人の妙言、万事、いろにかへて、まなびなば、成就せずといふ事、あらんや。

 今はむかし、傳藏主(でんぞうす[やぶちゃん注:ママ。])といふ小僧あり。生國(しやうこく)は伯耆(はうき)の國の人にして、十二歲より、出家となり、

「學文の爲に。」

とて、諸國に行脚しけるが、生得(しやうとく)、万人《ばんにん》にすぐれたる美僧にて、みな人、

「おしき事かな。」

と、うらやまざるは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「傳藏主」歴史的仮名遣は「でんざうす」が正しい。不詳。「藏主」は禅寺の経蔵を管理する僧職を指す。]

 あるとき、越後の國、高田といふ所に、佛書の講談あるよし、其さた、四方(よも)に聞へければ、傳藏主も、きくと、其まゝ高田にくだり、每日、かうだんの席にすゝむ。春より夏にいたりて、長々の事なれば、武家をはじめ、町人までも、歸依する人、おほくして、あるひは、茶の施主(せしゆ)、「ちやのこ」をおくり、忌日(き《にち》)には、齊米(ときまい)をつかはし、休日には、酒飯をあたへて、労(らう)をたすけなどしけるが、其ころ、高田の町に、むらかみ屋五郞右衞門といふ大あきんど、一人のむすめありて、「おつね」と名づく、二八の、容色、たん花(くは[やぶちゃん注:ママ。])のくちびる、一たび笑(ゑめ)れば、國をかたふけ、蜂腰(はうよう)、しぜんのぼんじゆりふう、窈窕(ようてう[やぶちゃん注:ママ。])と、いよやかなる。

[やぶちゃん注:「茶の施主」茶の湯の施主となって、檀家諸人に茶を施すことを言う。

「ちやのこ」「茶の粉」。

「齊米」僧の斎(とき:食事)に供する米。その料として僧や寺に施す米を指す。

「二八」数え十六歳。

「たん花」正しくは「たんくわ」。「綻花」。花が咲くことを言う。その娘の美しい色形の唇の比喩。

「しぜんの」「自然の」。つくろったりしない、そのままの。

「ぼんじゆりふう」不詳。副詞の「ぼんじや(ゃ)り」ではなかろうか? 「柔和でおっとりしているさま」或いは、特に女性の「ふくよかで美しいさま」を言う語である。

「窈窕」「えうてう」が正しい。「しとやかで奥ゆかしいさま・美しくたおやかなさま・上品なさま。また、そのような美女を指す語。

「いよやかなる」「彌(いよ)やか」「やか」は接尾語で、「明らかなさま・はっきりしているさま」の意。「窈窕」であることが、である。]

 五郞右衞門、一日《いちじつ》、僧衆(そうしゆ)をまねき、珍菓・名酒のもてなしに、僧衆も詩を賦し、和哥(わか)を詠じなどしけるが、娘「おつね」は、

「僧衆の參會(であい)、いかなるものぞ。」

と、物かげより、そと、さしのぞきしに、おりふし、傳藏主も、和歌を詠じ、ともしびのもとに、硯(すゞり)、ひきよせ、したゝむるを見しより、「恋のやまふ[やぶちゃん注:ママ。「戀の病ひ」。]」となり、うちふしてのみ、くらせしが、聞くにつけ、かたるにつけ、其おもかげの、身にそひて、いやましのおもひ寢(ね)や。

 

Kamigakimeruhuhu

 

[やぶちゃん注:この挿絵が「ヘルン文庫」の一之巻の終りの方にある一枚(富山大学附属図書館所蔵のもの)。以下の詞書きが絵の中にある。配置はそのまま。読みは総てあるものを添えた。

   *

我(わか[やぶちゃん注:ママ。])神國(しんこく)は神(かみ)のおしへ

男女夫婦(なんによふうふ)のむすびを出雲(いつも[やぶちゃん注:ママ。])の大社(おゝ[やぶちゃん注:ママ。] やしろ)に神

集(あつま)らせ給ひ

定(さだ)めてたまふ

よしを申傳(つた)へ

          ぬ

皆(みな)神のめざめ

てふ夫婦の

緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])なれば

《以下、下段。》

互(たがい[やぶちゃん注:ママ。])にむつ

 まじく

  有

   たし

   *]

 

Kamimusubi

 

[やぶちゃん注:同じく前の絵に続くもの(富山大学附属図書館所蔵のもの)。詞書は、

   *

神(かみ)のむすび

置(おか)せ給ふ緣

なるを心のまゝ

       に

すぐなさるを

思(おも)ふまゝ神の

みこゝろ背《そむ》きて

 萬(よろづ)心の叶(かな)わぬ[やぶちゃん注:ママ。]

    事

  のみ

   出來り

    ぬべし

《以下、中段》

出雲

 やしろ

  風

   景

   *]

 

「いはでは、てんも、はかなし。」[やぶちゃん注:「てん」は「天」で、天地・天上界・神・天命の意ではあるが、ここは「『好き』と言わないでは、とてものことに、はかないばかり。」の強調の謂いであろう。最初の挿絵は、それを本文とは特異的に離れつつも、別なシチュエーションとして、具体に描いているようにも見えて、甚だ面白い。]

と、心をこめし筆のあや、人目のせきの、おそろしけれど、媒(なかだち)をもとめ、いひやりしかど、傳藏主は、顏、うちあかめ、手にだに、とらでありけるが、日ごとに、かよふ、ふみの數(かず)、千束(ちつか)にあまれば、大ひに、おどろき、

「我、佛道にこゝろざし、かくまで、学びし『かひ』もなく、今、此ところに、一心、墮落し、女犯(によぼん)をもつて破戒せん事、おそるべし、おそるべし。これぞ、天魔の障碍(しやうげ)なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。片時(へんし)も、はや、はや、立《たち》さらん。」

と、多くの文とも[やぶちゃん注:ママ。「ども」。]、取出《とりいだ》し、封のまゝにて、のこらず、燒(やき)すて、柱杖(しゆ(じやう)を友に、一衣(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])一鉢(はつ)、身は、うきくもの、さだめなき、古鄕(こきやう)に、いそぎ、かへりしかば、「おつね」は、聞くに、たへかぬる。

 よしや、うき世にながらへて、見る事だにも、かなはねば、昼は、ひねもす、泣(なき)くらし、夜(よる)は、よすがら泣あかし、かはく間もなき、なみだの床(とこ)、芙蓉(ふよう)のかんばせ、色さめて、日影まつ間のあさがほや、たのみ、すくなく、見へければ、兩親は、かくぞともしらで、見る目の、いたいたしく、神に詣(まふで)つ、佛(ほとけ)に、いのり、傍《そば》を、はなれぬ、かんびやうの、くすりも、つきて、はかなくも、おしや、二八の、つぼめる花、さそふあらしにちらされて、今は、名のみぞ、のこりける。

 傳藏主は、古鄕に庵居(あんご)し、日夜、書籍(しよじやく)に眼(まなこ)をさらし、十五、六年、つとめしかげにや、光陰、とゞまらず、歲霜(せいそう)、つもりて、三十余年、

「いさや、これより、京都に立ちこへ、ゆかりの人のあるを、さいはひ、㚑佛・㚑社を巡拜し、名所古跡も一見せん。」

と、また、たち出づる。

 みやこのかた、岡崎のほとりに、原田源助といふ浪人あり。

 傳藏主が叔父なりしが、たづね行(ゆき)て、座しきに通れは[やぶちゃん注:ママ。]、源助夫婦、對面し、四方やまのはなしうち、

「その方、いにしへ、越後の國へくだり給ふ、もはや十五年いぜんにて、血氣さかんの最中なりしが、三十歲にもあまりぬれば、髭(ひげ)なども、はへ、すがたも、あれて、むかしのかたちは、なきぞ。」

など、物かたりありければ、傳藏主、手をうつて、

「越後くだりに立ちよりしが、十五年になりしよな。愚僧はかへつて、わすれしに、よくこそ、おぼへさふらふ。」

と、あいさつすれば、

「さればとよ、其としの秋のころ、拙者が妻、懷姙して、誕生せし女子(によし)十四歲、これを證據のむかしがたり、娘も、追付(おつつけ)、御目に、かけん。」

と、内室(ないしつ)はおくに入、しばらくありて、娘ともども、座に、なをり、

「さいぜん、はなしの、彼(かの)むすめ、名は『おつね』といひまする。」

と、引(ひき)あはすれば、傳藏主、

「とくにも、御目にかゝるべきに、出家の身といひ、ことに遠國(をんごく)、今般(こんと[やぶちゃん注:ママ。「こんど」(今度)。])、ふしぎの上京にて、始終のやうすをうけ給はる。」

と、見やる。

 「おつね」が顏のいろ、朱(しゆ)をそゝぐがごとくにて、眉毛、さか立ち、

「きつ」

と、にらみ、

「御身に高田ですてられし『おつね』がたましゐ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、時を得て、これまで、生(うま)れ來たりしぞ。」

と、傳藏主に、いだきつき、

「いやでも應(おふ[やぶちゃん注:ママ。])でも、そはねば、おかぬ。今また、こゝで、ころされても、たましゐ、御身に、つきまとひ、我が一念を、はらして見せん。」

と、忿怒のいきほひ、のがれんやうもなかりしが、源助夫婦は、あきれながら、

「いかなる、やうす。」

と尋ぬれば、傳藏主は、なみだをながし、

「我、かく出家と成りたれども、過去の『がういん』、つきずして、眼前(がんぜん)、希代(きたい)の女難(ぢよなん)にあふ事、古今無双の、珍叓(ちんじ)なり。」

と、高田の事ども、つぶさにかたれば、源助夫婦は、夢見しこゝち、まぬがれがたき「ゐんぐわ」をさとり、傳藏主に教訓し、

「還俗して、夫婦となり、我があと、續(つい)で給はれ。」

と、其日を、

「最上、吉日。」

と、婚禮を、とりおこなひ、夫婦となして、くらせしが、友白髮まで、そひはてたり。

 かゝる惡業(あくけう[やぶちゃん注:ママ。])・ゐんゑん[やぶちゃん注:ママ。]も、あるべき事かと、いひつたふ。

[やぶちゃん注:なかなかに面白い展開で、意外にもハッピー・エンドというのも、いいじゃないか。しかし、やっぱ、この挿絵、今まで見たことがない、本文を説明しないちょっと変な挿絵だわい。]

大手拓次訳 「幻想」 シャルル・ボードレール / (四篇構成の内の三篇・注に原全詩附き)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 幻 想 シャルル・ボードレール

 

 

     

 

   暗 黑

 

底のない悲しみの窖(あなぐら)のなかヘ

司命神(デスタン)は既に私をおとしいれた。

そこへは薔薇色に快活なる光線は決して訪れないで、

ただ 陰氣な女主人(あるじ)の、夜(よる)のみがゐる。

 

私は、物あそびする神が

暗黑の上にゑがくやうに命じた画家と同じである。

そこに、葬儀の慾を料理して

私は、私の心を沸き立たせ、私の心を蝕(むしば)ませる。

 

きらめく一瞬の間、

そして長くのび、慈悲と光彩とに成長したる幽靈を誇示する。

極東の冥想にふけりつつ

 

彼がその全き大きさに達する時、

私は、私の美しい訪問者をゆるすのだ。

それは彼女である、暗く、然れども輝ける彼女である。

 

 

    

 

   香 氣

 

貪食者よ、お前はをりにふれて

迷亂と緩慢なる貪食とをもつて呼吸したことがあるか、

あの聖堂のなかにみちてゐる燒香の顆粒(つぶ)を、

あるひは麝香のふかくしみこんだ香袋(にほひぶくろ)を。

 

現在とよみがへれる過去とのなかに

われらを醉はしむる深く不思議なる妖惑よ!

かくしてこひ人は鐘愛のからだのうへに

追憶の美妙なる花をつみとる。

 

彈力のあるおもい彼女の頭髮から、

寢室の香爐であるにほひ袋の

いきいきしたかをりはのぼつた、あらく茶色に、

 

また、淸い若さのすつかりしみこんだ寒冷紗(かんれいしや)か或はびろうどの着物からは、

毛皮のにほひがのがれさる。

 

 

    

 

   (ふち)

 

うつくしい緣が繪につけくはへるやうに、

その繪がどんなにほむべき筆づかひであらうとも、

わたしは無限の自然からはなれては、

不思議も恍惚もあらうとは思はない。

 

それとひとしく、寶玉(ビジウ)も、裝飾品(ムーブル)も、メタルも金箔(ドリユール)も。

かの女(ぢよ)のたぐひない美しさにしつくりあてはまるとはおもはない、

彼女のまどかなる玲瓏をかくすものは何ひとつとしてなく、

ただすべては緣飾りとなつてつかへてゐるやうに見えた。

 

それにまた、だれもみんな自分を愛さうとしてゐるのだといふ、

彼女の所信を世人はをりふし噂にのばすだらう。

彼女は繻子やリンネルの接吻のなかにひたつた、

 

彼女のうつくしい裸躰は身ぶるひにみちて、

そして、おそく或はすみやかに彼女のひとつびとつの動作は

猿のやうな子供らしい愛嬌をふりまく。

 

[やぶちゃん注:「慾」「躰」は底本の用字である。「Ⅲ」の太字は底本では傍点「﹅」。

 本篇は実際には単独の詩篇ではなく、四パートから成る総標題Un Fantôme (「ある幽霊(亡霊)」或いは「ある幻想」)の第三篇である。全体は‘ I  Les ténèbres (「闇」)・‘ II  Le Parfum (「香(こう)」)・‘ III  Le Cadre (「額縁」)・‘ IV  Le Portrait (肖像)から成るものである。原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストがあるが、それによれば(そこでは総標題は「幻想」と訳されている)、原詩の内、拓次は実はこの詩篇を「 暗黑」・「 香氣」・「 緣」と訳しながら、「」は訳していないとする。『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「Ⅱ 香氣」と、「Ⅲ 緣」の二篇が収載されてあり(以上の本文とは「Ⅱ 縁」に決定的な異同(一行脱落。編者によるミスの可能性が高いとも思われる)がある。それはそちらで掲げて示してある)、既に電子化注してあるのだが、以上の第一篇「Ⅰ 暗黑」は収録されていない。‘ IV  Le Portrait(肖像)が含まれていない点で不完全であることに変わりはないが、せめても、この詩篇は続けて読まれるべきものであるわけであるからして、今回、電子化することとした。

 なお、既に「Ⅲ 緣」で注したが、本四篇は、堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る幽靈」である)の訳者註には、本篇全体は雑誌『『藝術家』一八六〇年十月十五日號に發表』とし、既に述べた『ジャンヌ・デュバル詩篇』としつつ、『この年デユヴァルはアルコールの過飲から激しいリューマチスにかかつて動けなくなりデュボア慈善病院に入院治療した。この詩はその不在の間の作だらうと見られてゐる』ある。

 以下に本篇の原詩(四篇全部)を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

                         UN FANTÔME

                                  I

                         Les Ténèbres

 

Dans les caveaux d’insondable tristesse

Où le Destin m’a déjà relégué ;

Où jamais n’entre un rayon rose et gai ;

Où, seul avec la Nuit, maussade hôtesse,

 

Je suis comme un peintre qu’un Dieu moqueur

Condamne à peindre, hélas! sur les ténèbres ;

Où, cuisinier aux appétits funèbres,

Je fais bouillir et je mange mon cœur,

 

Par instants brille, et s’allonge, et s’étale

Un spectre fait de grâce et de splendeur.

À sa rêveuse allure orientale,

 

Quand il atteint sa totale grandeur,

Je reconnais ma belle visiteuse :

C’est Elle ! noire et pourtant lumineuse.

 

 

                                 Ⅱ

                           Le Parfum

 

Lecteur, as-tu quelquefois respiré

Avec ivresse et lente gourmandise

Ce grain d’encens qui remplit une église,

Ou d’un sachet le musc invétéré ?

 

Charme profond, magique, dont nous grise

Dans le présent le passé restauré!

Ainsi l’amant sur un corps adoré

Du souvenir cueille la fleur exquise.

 

De ses cheveux élastiques et lourds,

Vivant sachet, encensoir de l’alcôve,

Une senteur montait, sauvage et fauve,

 

Et des habits, mousseline ou velours,

Tout imprégnés de sa jeunesse pure,

Se dégageait un parfum de fourrure.

 

                                III

                           Le Cadre

 

Comme un beau cadre ajoute à la peinture,

Bien qu’elle soit d’un pinceau très-vanté,

Je ne sais quoi d’étrange et d’enchanté

En l’isolant de l’immense nature,

 

Ainsi bijoux, meubles, métaux, dorure,

S’adaptaient juste à sa rare beauté ;

Rien n’offusquait sa parfaite clarté,

Et tout semblait lui servir de bordure.

 

Même on eût dit parfois qu’elle croyait

Que tout voulait l’aimer; elle noyait

Sa nudité voluptueusement

 

Dans les baisers du satin et du linge,

Et, lente ou brusque, à chaque mouvement

Montrait la grâce enfantine du singe.

 

 

                                  IV

                           Le Portrait

 

La Maladie et la Mort font des cendres

De tout le feu qui pour nous flamboya.

De ces grands yeux si fervents et si tendres,

De cette bouche où mon cœur se noya,

 

De ces baisers puissants comme un dictame,

De ces transports plus vifs que des rayons,

Que reste-t-il? C’est affreux, ô mon âme!

Rien qu’un dessin fort pâle, aux trois crayons,

 

Qui, comme moi, meurt dans la solitude,

Et que le Temps, injurieux vieillard,

Chaque jour frotte avec son aile rude ...

 

Noir assassin de la Vie et de l’Art,

Tu ne tueras jamais dans ma mémoire

Celle qui fut mon plaisir et ma gloire !

 

   *

最後の拓次が訳していないそれが、フランス語で判らず、もやもやされる方のために、前掲の堀口氏の当該パートを引用しておく。氏は著作権継続中であるが、本篇が四篇の部分詩であることから、引用許容の内に入ると判断するし、何より、氏の訳は正字正仮名で、私の数冊のボードレールの訳詩集の内、以上の拓次の訳の参考にするには最も相応しいと考えるからでもある。

   《引用開始》

 

    4 肖 像

 

僕等の爲めに燃え立つた、火の一切を

「病気」と「死」とが、灰にする。

切れ長の、やさしさこめて熱烈な、あの眼(なまこ)さへ、

僕が心を溺らせた、あの口さへが、

 

薄荷のやうに强烈な、あの數々の接吻も、

日の光より生(いき)のいい、あの度々の合歡も。

いま何を殘してゐるか? 魂よ、何たるこれは切なさだ!

一枚の淡彩の鉛筆描きの色褪せた素描だけとは、

 

それさへが、僕も同樣、孤獨のうちに泊えて行く、

「時」といふ名の理不盡な老いぼれの

嚴(きびし)い翼に日每日每に擦(こす)られて‥‥

 

ああ、時よ、「生命」と「藝術」の腹黑い暗殺者よ、

さしもの君も、殺し得まいよ、僕の快樂であり、光榮でもあつた

かの女を僕の記憶から消し去る事だけは!

 

   《引用終了》]

2023/05/15

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「俳人井月」 《警告――芥川龍之介関連随筆に非ず――》

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいる)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 なお、私は底本全部を電子化する意志は全くない。特に芥川龍之介がダシの如く使われている随想は興味がない。本篇の前にある、まず、「墨病」は、下島と室生犀星との関係を述べたもので、最後にちょろっと芥川龍之介が出てくるが、電子化の食指は全く動かない。その後に続く「淺草と私」「書話」「素はだかの畫人」の三篇も芥川龍之介とは関係のないものであり、以上の四篇は向後も電子化する気はない。

 では、以下の「俳人井月」は芥川龍之介が出るかというと、実は、やっぱり最後に、ちょろちょろっと、二度、出るだけ、である。但し、下島は井上井月の研究家であり、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)の「跋」を芥川龍之介は書いており、その出版を龍之介は後押しもしている。龍之介の跋文は私の『《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋』で電子化しているので見られたい。

 芥川も愛した俳人で、「乞食井月」の異名で呼ばれる井上井月(文政五(一八二二)年?~明治二〇(一八八七)年)は信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた、私も熱愛する奇狂俳人である。ウィキの「井上井月」によれば、『井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。伊那谷出身の医師であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号:空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、伊那谷に居住していた実弟の下島五老に調査を依頼。そして』、この翌大正一〇(一九二一)年に「井月の句集」を出版している。『本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられて』おり、『この句が松尾芭蕉』の「野ざらし紀行」の発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」を『踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる』とあり、『また、下島が芥川龍之介の主治医であった縁から』、「井月の句集」の『跋文は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』。但し、芥川が『井月の最高傑作と称揚している』「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」の句は、『皮肉にも』、『井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』ともある(これは国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の「後記」の「三」で具体に書かれてある。前の「二」の誤伝群のここの左ページ下段最後から二句目がそれ)。さらに、昭和五(一九三〇)年十月には、『下島勲・高津才次郎編集による』「井月全集」(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。白帝書房刊)が出版され、「井月の句集」に『掲載された虚子らの「井月賛」俳句と、芥川の序文は』、『この全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。また、本全集には、井月が残した日記も収録されている』とある。同ウィキには下島が描いた井上井月の肖像(大正一〇(一九二一)年作)の画像も載る。

 こういう因縁から、私は以下の「俳人井月」は私の偏愛する俳人に就いての文章として、電子化することとする。されば、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」ではなく、同カテゴリ「詩歌俳諧俳句」に収納することとする。

 本篇は最後の附記により、昭和六(一九三一)年九月八日の午後七時三十分から、ラジオの中央放送局(東京中央放送局(JOAK)は現在のNHK東京のこと)の「趣味講座」で口演されたもので、その原稿を、恐らくは下島が活字にしたものかと思われる。]

 

俳 人 井 月

 

 内藤鳴雪翁が――秋凉し惟然の後に惟然あり。と咏まれた俳人井月は、現今ではもはや俳壇や文壇の方々には、――アアあの乞食井月か……と、ご合點の行くほど有名になつてゐるやうですが、一般の方々には、――井月なんて一向聞ゐ[やぶちゃん注:ママ。]たこともない俳人だとおつしやるに相違ありません。それは勿論ご尤なことでありまして、去る大正十年かれの句集がまだ出來ない以前にありましては、井月が多年住んでゐた信州でも――と申したいが。實は彼の第二の故鄕でもあり、また現在墳墓の地であります上伊那の人でさえ、それも六十歲前後の特別な人ででもなければ覺えてゐる人が少ないといふほど、名もない埋もれた俳人だつたのであります。

 私は云はば淺からぬ因緣やらから、鄕里に散亂してゐゐ彼の俳句を拾ひ集めまして、――一寸お斷りしておきますことは、かれ井月は元李.自分の俳句の抄錄や手控へを作つておくといふやうな、氣の利いた人物ではありませんので、云はば至る處で咏み放し書きはなしておいたものの中の遺つてゐるものを拾ひ集めまして、去る大正十年の十月に、甚だ不完全ながら初めての彼の句集を作り、世の同好者にお頒けしたやうなわけだつたのであります。

 ところが案外なことには、この乞食井月が順頗る評判になつてまゐりましたばかりでなく、それが動機となつて非常に熱心な硏究家が現れるといふやうなわけで、(その硏究者は伊那高等女學校敎諭の高津才次郞といふ人であります)その結果として昨年十月彼の全集が出來たのであります。普通ならば彼井月も定めし地下に瞑するであらうなどと月並を申すところでありますが、この井月といふ人物は、元來自分を立てたり己れを現はす、即ち名聞といふことを嫌つた傾向の人物であるらしいのですから、――世の中にはいらざるおせつかいをする者もあるものだと、あの無愛嬌面をふくらませてゐるかも知れません。況やマイクロホンを通して彼を談《かた》るといふことなどは、最も不本意であらうと思ひますが、實は斯ういふグロテスクな人物であればこそお話の種ともなり、またその價値もあるのではなからうかと思ひます。

 これから彼の傳記と生活狀態のあらましと、それから彼の藝術卽ち俳句についてザツと述べてみたいと存じます。尤も傳記などと申しますと一寸大げさに聞えますが。實は信州へ入つてからのことが幾分訣《わか》る[やぶちゃん注:「訣」には「別れる」の意しかない。以下、同じ。]だけで、その他は全く不明な風來坊でありますから、遺憾ながらその點は世話がありません。

 井月が越後の國長岡の出身であるといふことは、ある記錄と古老の傳說によりまして確かなやうであります。が、長岡のどういふ處に生れ、どういふそだちをしたものであるかなどといふことは全く不明であります。それでありながら、彼が家を出た動機について一二の傳說が傳へられてゐます。一體生れもそだちも訣らやうな人物に、小說じみた出奔說など勿論眉つばものと云はねばなりません。ただ彼の學文の廣さと深さ、筆蹟の見ごとさなどから考ヘただけでも、相當な敎養あるそだちをした人物に相違なからうと推定されます。

 信濃へはいつてからの最も古い文獻は嘉永五年[やぶちゃん注:一八五二年。徳川家慶(翌年死去)の治世。]で、善光寺大勸進の役人吉村隼人といふ人のお母さんの追弔句がそれであります。試みに逆算すると三十一歲の時になります。それから第二の故鄕としてまた墳墓の地となつた伊那の峽《やまかひ》へ現はれたのは、確實ではありませんが、安政[やぶちゃん注:嘉永の次で元年は一八五五年で、安政は七年まで。]へはいつてからといふことになつてをります。

 信濃へ這入る以前の足跡は彼の遺句と、越後獅子と題する彼が諸國行脚中處々で接した俳人の句を一句づつ書きとめておいて、伊那で版にした小册子によつて確かに窺ひ知ることが出來るばかりであります。それは奥羽から兩毛地方、江戶及び江戶附近、それから東海道沿國、伊勢路、京都、大阪、近畿地方、須磨明石あたりまでの足跡であります。

 そして三十年ちかくも信州殊に伊那の地を放浪して、明治十九年の舊師走、べ伊那村の路傍で行きだをれ[やぶちゃん注:ママ。]になり、戶板に載せられて順送りに送られ、彼の入籍の家即ち上伊那郡都美篶村《みすずむら》[やぶちゃん注:現在の長野県伊那市美篶(グーグル・マップ・データ)。]太田窪[やぶちゃん注:現行の地名は美篶六道原(ろくどうはら)。]の鹽原家へ運びこまれ、そこの納屋で翌二十年三月十日旧暦二月二十六日に死んだのであります。年齢は六十六歲といふことが確かめられました。[やぶちゃん注:今も井月の墓は現存する。グーグル・マップ・データのここ。サイド・パネルの写真も参照されたい。いかにも井月に相応しい摩耗し苔むした墓である。]

――妻持ちしこともありしを着そ始め。といふ彼の句があります。この句から考へますと、どうも若年のころ一度は妻帶したことかあるやうに思へます。

 爰で彼の容貌を一寸申してみませう。勿論寫眞も何も殘してゐない人物ですから、私の幼少時代の印象をそのまま申しあげるまでであります。彼は瘦せてはゐましたが、骨格の逞しい、身長は私の父と比較して五尺六七寸[やぶちゃん注:一・七〇~一・七二メートル。]ぐらゐあつたらうかと思ひます。高濱虛子氏が――丈け高き男なりけん木枯に。と咏まれましたが、――勿論これは身の丈が高いといふ意味ではなく、思想や行ひの高邁を表現した句でありますが、偶然にも彼は丈高き體格の持主であつたのであります。そして頭の禿げた髯も眉毛もうつすらとした質《たち》でありました。眼は切れ長なトロリとした少し斜視の傾きを持ち、何かものを見詰る時は、一寸凄い光りがありました。鼻も口も可成り大がかりで、どうも私は故大隈侯爵と石黑子爵のお顏を見るとよく井月を思ひ出しましたから、何處か似てゐたに違ゐ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ありません。顏面は無表情の赤銅色で、丸で彫刻のやうな感じでありました。

[やぶちゃん注:「私の幼少時代の印象」下島勳氏は明治三年八月二十五日(一八七〇年九月二十日)長野県伊那郡原村(現在の駒ヶ根市)の生まれであるから、井月の亡くなった時でも、既に満十六である(但し、後で下島は、井月の最晩年には接触していないことを記す)。]

 さて井月の生活狀態はどうかと申しますとこれは全く一處不住の浮浪生活でありまして、例の伊那節で有名な信州伊那の峽を彼處《かしこ》に一泊此處に二泊、氣に入れば三四泊、五六泊も敢て辭するところではありません。また隨所で晝寢もすれば野宿もする。といつたやうな――マア恐る可き行きあたりばつたりといふやつだつたのであります。

 井月の立ち寄る家は大既一定してゐたやうであります。それは何處でもマア名望家或は資產家といつたやうな謂ゆる智識階級または特に俳諧に趣味のあるやうな處でありました。併し如何に名望家資產家でも、俳臭のない處や、吝嗇の家や、イヤに迷惑がる家などには決して立ち寄らなんだらしいのです。そしてグルグルと𢌞つて步いたのであります。

 その風態は全然あなた任せでありますから、丸でおこもさん[やぶちゃん注:「お薦さん」。乞食。]のやうな風態で來ることもあれば、また時には比較的小ざつぱりした身なりをして來ることもありました。

 特に一言しておきたいのは、袴だけは、どんなに汚れてゐても、裾がち切れてゐても、着けてゐたといふことがらであります。――袴着た乞食まよう[やぶちゃん注:ママ。]十六夜。といふ田村甚四郞といふ人の句がありますが、正にその通りだつたに違ゐありません。要するに、人の着せてくれるものを着てゐたのであります、尤もこれは着物に限つたことではありません。食物でも何んでも自分から强て請ひを受けるといふやうなことはなかつたらしいのです。併し彼の好物の酒だけは、さぞ飮みたさうな樣子ぐらゐはしたに相違ありますまい。ここで一寸申上ておくことは、井月を別名乞食井月或は虱井月といつてゐました。斯ういふ生活には虱は勿論つきもので珍らしくありませんが、何處でもこれには惱まされたものに違ゐありませんません[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]。私の家でも井月の衣類を燒いたり煮たりしたことがありました。私はある夏天龍川の磧の柳の蔭で、石の上に虱を並べて眺めてゐる井月を見たことがありますが、人が立つて見てゐるとも感じぬらしいのでした。マア良寬和尙と同じやうに虱と遊んでゐたのです。どうも虱井月の名は確かに當つてゐると思ひますが、乞食はどんなものかと考へさせられます。なぜと云ふに、井月といふ人物は、譬へ饑餓に迫つても寒氣に身をつんざかれるやうな場合でも、滅多に頭を下げ腰をかがめて人から憐みを請うといふやうな人物でなかつたことは、事實らしいからであります。鄕里あたりでは、酒が好きだからといふので飮せてやり、お腹が空いてゐるだらうと食物を與へ[やぶちゃん注:「食物」の間には半角以上の空隙があるので「食べ物」の脱字の可能性がある。]、寒むからうといつて着せてやつたまでのことで、彼が物を强て請ふたといふやうなことは聞いたことがありません。のみならず、貰つたものを人に與へて平氣だつたのです。その例を一つ擧げてみませうなら私の祖母が寒からうといふので、古い綿入羽織をなほし着せてやつたのですが、三四日の後道で逢つたが、その羽織を着てゐないのです。そこで祖母がたづねたら、乞食が寒むさうだから吳れてやつたと平氣なので、祖母もあきれたさうであります。こんな一例だけでも本質的には乞食どころか、彼の魂は殉敎考者とか聖者とかいつたやうな香氣がすると思ひます。

 私の知つた頃即ち明治十年頃から十五六年頃までは、古ぼはた竹行李と汚れた風呂敷包みを振り分けにして、時々瓢簞を腰にぶらさげてトボトボと鈍い步調で多いてゐたものです。而も減多に餘所見をしないのが特色でありました。晚年の井月を私は知りませんが、餘ほどなおこもさん姿に成り果てたさうであります。伊那へ初めて現れた頃は、恰も尾羽打ちからしたお芝居の浪人といつた風體であつたとのことですから、何だか紙芝居でも見るやうな幻影を感じもします。

 井月は風體が風體ですから犬がほえつく咬みつくで、これには閉口したらしいです。また樣子が樣子ですから惡太郞が動《やや》もすれば石をなげつける、後をつけて惡戲をするで、これにも甚だ苦しめられたらしいです。良寬和尙はよく子供とオハジキや隱れんぼなどをして遊んだものださうですが、井月は犬と子供は大苦手だつたやうであります。

 彼の嗜好は酒でありました。酒仙といつて支那で名づけた仙人がありますが、井月ぐらゐ酒仙の俤《おもかげ》のピツタリした人間を私はいまだ見たことが知りません。特別の場合のほか滅多に錢のある筈もないのに、多少とも常に醉ふことの出來たのは、何といつても彼の美德の然らしめたお蔭げと云はねばなりません。私はあまり酒を好みませんが、井月と酒――こればかりは無くてはならぬもののやうに思へてなりません。

 彼は元來非常な沈默家で、口をきいても低音でよく聽かぬと何を云ふのか我々には訣らないのです。また洒を飮んでもさし亢奮の樣子も見えず多辯になるでもなく、唯グズグズヒヨロヒヨロの度が加はるぐらゐなことでありました。一體井月は醉つてゐるのか醒めてゐるのか、恐らく誰にも區別はつかなんだであらうと思ひます。我々にも訣る井月の言葉で有名なのが一つありました。それは千兩千兩といふのです。これは謝詞、賀詞、感嘆詞、として使用するばかりか、今日は、さようならの挨拶にまで使用する事さヘあるといふ重寶な言葉でした。この千爾で一つエピソードがあります。ある人が道で井月に行逢ひ、何處へ行くかと訊ねたところ、高遠の市へ行くといつたさうです。そこである人が、一文も持たずに市に行つてどうすると戯れたところ、――一文の錢がなくても心せい月。といつたさうであります。少し出來過ぎてゐますが、事實だ。さうでありまして、彼の面目躍如たるものがあります。

 彼の無慾恬淡など今更申上る必要のないほど先刻ご推察であります。またこんな風貌でありながら相當の禮儀を守り、――尤も無用の虛禮などには頓着しなかつたさうですが、場合によつては寧ろ固過ぎるところさえ[やぶちゃん注:ママ。]あつたといふことです。性質は極めて温厚柔順、恰も老牛といつた感じで、全然無抵抗の域にまで達してゐたらしく思はれます。それは曾て爭つたことや怒つたといふところなど見たことも聞いたこともないといふのが事實になつてゐます。それでゐて人並以上の親切心や人情味があつたればこそ、現に生きてゐる老婦人などの中にも、虱や寢小便の厭やな思ひ出も打忘れて、アアいふ人がほんとの聖人といふものでせうといつて、今更ら井月をなつかしんでゐる人が、一人や二人ではありません。

 まづザツと斯んな人物でありましたから、その生活の反映として、技巧も覇氣もない即ち綿入でない[やぶちゃん注:事実を膨らました作りものではないことを言うか。]中々面白い奇行逸話が澤山ありますが、時間がありませんからお話することが出來ません。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の、ここから、実に二十三ページに亙って三十七条もの「奇行逸話」の項(その内、「私」とあるのは下島が実際に記憶している事実に基づいて記したものであると考えられる)がある。事実、非常に興味深いものである。

 それから彼の俳句でありますが、その數は約一千五百句ほどあります。多作の一茶に較べたら七分の一か八分の一に過ぎまいが、既に亡失したものも可成あらうと思ひますから、決して少ない方ではありますまい。

 井月一の俳句にはどんな作があり、またどんな特色があるかといふ問題でありますが、これは中々複雜な問題で簡單に申述べるわけにはまいりません。

 唯今日はご參考までに秋の作の中から、數句のご披露に止めおきます。[やぶちゃん注:一字下げがないが、誤植と断じて(改ページであることから)、下げた。なお、以下の句は、底本では総てが同じところで終わる均等割付となっている。]

 

   初秋や分別つかぬ鳶の顏

   大事がる馬の尾筒や秋の風

   蓮の實の飛びさうになる西日かな

   小流れに上る魚あり稻の花

   鬼灯の色にゆるむや畑の繩

   蜻蛉のとまりたがるや水の泡

   落栗の座を定めるや窪たまり

   はらはらと木の葉まじりや渡り鳥

 

 新聞や雜誌で見ました句評の一二を簡單に述べてご參考に供します。評者の名まへは差控へますが何れも權威ある有名な方々です。

 或る俳人は、萬葉以後、實朝、宗武、元義、曙覽、良寬等が出たやうに、全俳壇を風靡してゐた天保の俗調の中から、然もまだ子規及び其-派の明治新俳句の生れない前に、井月が直に巴蕉七部集ヘ深くつき入り、或は蕪村のやうな寫生句を吐いたといふのは、何としても不思議なことである。だから井月は子規の前驅をしてゐる俳人といつて差支がない、といふのです。

 また或る有名な文士で且つ俳人は、――化政天保以後の俳壇の最髙の圓座へ、即ち一茶と同列の圓座へ手をとつて据えるべき俳人である、と云ひ、蒼虬、卓池、梅室などに比べて逈《はる》かに芭蕉の幽遠に迫り漾ひが深いと云ひ、また井月は素直な發想を試み、一茶は好んで人生即ち小說道に特色を發揮してゐる。一茶は睨んでゐるのに、井月は眺めながら聽かうとしてゐる。ここに二つの翼の方向の違ひが出來、自然、兩翼を形ち作ることになつた云々と云ひ、井月の俳句は淸澄のうちに雅純を含み、殆ど完成された大俳人の俤がある、といつてゐます。

 次手ながら彼の書につき内田魯庵翁は、芭蕉とりウマイと云つてゐると芥川氏から聞きましたが、これは明らかに褒め過ぎであります。併しながら、井月硏究者の高津氏は、硏究動機の第一印象を彼の筆蹟の美に歸してゐるくらゐでありますし、私の父などはよく――姿を見ると、乞食だが、書を見ると御公卿さんだといつてゐました。私は勿論近代稀に見る高雅な書品であると信じてゐます。芥川龍之介氏は、あの井月句集の有名な跋文で、井月を印度の優陀延比丘になぞらへてゐられますが、これは遉《さす》がの井月も一寸微苦笑を禁ずることが出來なからうと存じます。

 最後に、彼はあの幕末から明治初年の極惡い時代に、飽くまで妥協しない理想生活を遂げようとしただけに、勢ひ數奇を極めた乞食生活――虱生活に陷り、あの悲慘ともみえる終末を餘儀なくせざるを得ないハメになつたのであらうと思ひます。或る人が――若し井月をして元祿ならずともせめて化政天保にでもあらしめたら、も少し人間らしい生活が出來たであらう、などと申したこともありましたが、ほんとのことを申しますれば、元祿の已惟然路通ならずとも、芭蕉を始め丈草あたりでさえ[やぶちゃん注:ママ。]、ある意味においてはやはり乞食といつて差支なからうと思ひますから、この道に深く魂を打ちこむ限り、少くも過去の世にありましては、アアいふやうな或は類似の生活に終るのが自然であらうと存じます。私は芭蕉の俳道は詮ずるに、生活の上からはまさしく乞食道であると信じてゐます。――成り金どころか金氣《かねつけ》には頗る緣の遠い餘ほど難儀な道だといふよりほかはありますまい。芭蕉は遇然にも――この道や行く人なしに秋の暮れ。といつてをります。井月は、――この道の神ぞと拜め翁の日。と申してゐます。

 私は珍らしく純眞無垢な、そして芭蕉の思想の實踐者として、正風掉尾のいとも不思議な俳人井月の俤を、聊かながら皆樣にお傳へいたしまして、このお話を了らせて頂ます。さようなら……

(昭和六・九・八・午後七・三〇・中央放送局趣味講座口演) 

佐々木喜善「聽耳草紙」 七六番 蛙と馬喰

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから

 なお、標題の「馬喰」は「博勞」に同じで、「ばくらう」(ばくろう)と読み、家畜の売買・交換・斡旋を生業とする者を指す。]

 

   七六番 蛙と馬喰

 

 昔はあつた。恰度《ちやうど》雫石だと、黑澤川《くろさはがは》のやうな所に、一匹の蛙が住んで居た。或時馬喰が駒に乘つて恰度雫石だと盛岡街道のやうなところを、盛岡の方へ、いゝ聲で馬方節《うまかたぶし》をうたいながら行つた。恰度日暮れ方《がた》、大森の麓(シタ)のような所へさしかゝると、其所に住んで居た蛙が、俺も一つあゝ云ふ風《ふう》に歌つてみませうと思つて、

   クエ

   クエ

 とやつた。けれどもどうも甘《うま》く行かないので、最初よりももつと聲を張り上げて、

   クエツ

   クエツ

 と唄つて見た。すると今迄無心にやつて來た馬喰が、蛙の聲を聽いてびツくりして立ち止まつた。

 そして其所に居る蛙を見つけて、蛙どの蛙どの何して御座ると聲をかけると、蛙は其方《そちら》が餘りよい聲で馬方節を流して御座つたから、俺も眞似してみたところさと答へた。あゝさうか時に蛙殿、俺はこれから上方參《かみがたまゐ》りに行くべと思つて居るが、行く氣はないかなと言つて通り過ぎた。

 蛙は、俺も々々一つ上方參りでもしてみて來るべと思つて、馬喰の後から、ブングリ、ブングリと跳ねて行つたどさ、まづ斯《か》うずつと江戶の入口まで行つたずな。大儀になれば、藪さ入つて憩《やす》み、又は人家の床下(タジキ)に入つては休み休みした。すると段々下腹ア磨(ス)れて步けなくなつた。そこで暫《しばら》く思案して居ると、良い事が思ひ浮んだ。俺も一つ人間のやうに立つて、二本足で步いて見ませうと思つて、ひよツと立ち上つて見ると、案外樂なので、これは良い考へだと思つて步いてゐた。段々上方へ近づくと、自分が元通つて來た所と變りがないので、上方と云ふ所は不思議なものだ。田舍と變りがないやうだと思つて、途中を急いで行くと、向ふに雫石の村屋のやうな所が見えて來た。

 おやおや、これはなお不思議だと思つて、まづ休んで見ると、其所は自分が元《もと》住んで居た黑澤川であつた。よく考へてみると、自分が二本脚で立つと、眼は後の方へ向いてゐるので、コレは自分がもと來た途を尻去(シリザ)りに步いて來た事に氣がついた。前だ前だと思つて居たのが後の方であつたのだ。それから此蛙は上方參りをすることは止めて、今でもそこらに住んでゐるとさ、ドツトハラヒ。

 (田中喜多美氏御報告分の一一。)

[やぶちゃん注:「雫石だと、黑澤川のやうな所」現在の岩手県岩手郡雫石町黒沢川。拡大して見ると判るが、辺縁を黒沢川が流れる。この話、民話の仮想世界へ聴き手を引き込むために、直後でも、「雫石だと盛岡街道のやうなところを、盛岡の方へ」と、場所を判ったような、判らぬような、ぼかしをしているところが、かえって面白い。]

大手拓次訳 「イカールの嘆息」 シャルル・ボードレール

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 イカールの嘆息 シャルル・ボードレール

 

うかれ女の情人(いろ)は

幸福で、愉快で、滿足だ。

私はと云へば、私の腕は多くの人を抱きしめた爲に傷(いた)んでゐる。

 

空の底にあまねく燃え上るものは

比類なき天體の惠みである、

つかれきつた私の眼が

太陽の思ひ出のみを見るために。

 

私は徒らに、空間に極と中心とを探さうとして、望んだ、

私が火の眼の何かを知らないので

私は、翼の衰へてゆくのをおぼえる。

 

そして、至善の愛によつて溫められて、

墓場(おくつき)に仕へるために

あの世に於ける私の名をあたへるところの

莊嚴の名譽を私は持たないだらう。

 

[やぶちゃん注:「イカール」フランス語“Icare”の音写。言わずもがな、ギリシア神話に登場する人物で、蜜蠟で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に近づき過ぎて、蠟が溶けて翼がなくなり、墜落して逝った、かのイカロス(ラテン文字転写:Icarus)である。

 本篇は、所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、本篇は『『惡の華 補遺』 一八六六年――一八六八年』(非常に詳細なフランス語ウィキの‘Les Fleurs du malによれば、一八六八年版で追加されたとある)の中の「第九」(‘Ⅸ’)篇で、原詩初出は『『廣小路』一八六二年十二月二十八日號に發表』とあり、『この時は題詞として、トーマス・グレーの四行詩がつけてあつた。この詩はすでに、ボードレールがその栅『不運』の末段にも借用しているものだ。』とある(トマス・グレイ(Thomas Gray 一七一六年~一七七一年)はイングランドの詩人・古典学者で、ケンブリッジ大学教授)。その詩篇「不運」は‘ Le Guignon ’で、「悪の華」の冒頭のパート、‘ Spleen et Idéal’(「憂鬱と理想」)の第九篇に配されてあるものであるが、同前の堀口氏の「註」によれば、『この詩篇は、殆んど全部が、ロングフェロー』(アメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)『の『人生讃歌』“ A Psalm of Life ”と、トマス・グレーの『村の墓地で書いた悲歌』“ Elegy Written in a Country Church-yard ”からの借物である。卽ち、第一、第二、第五、第六行はボードレールの自作だが、第三、第四、第七、第八行と第六行の半分はロングフェローであり、最後の二聯は全部がトマス・グレーの作である。また、第四行はヒポクラテスに倣ふと原稿に記入がある』とある、途轍もないパッチ・ワーク詩篇である。

 閑話休題。以下に本篇の原詩を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。

   *

 

  LES PLAINTES D’UN ICARE

 

Les amants des prostituées

Sont heureux, dispos et repus ;

Quant à moi, mes bras sont rompus

Pour avoir étreint des nuées.

 

C’est grâce aux astres nonpareils,

Qui tout au fond du ciel flamboient,

Que mes yeux consumés ne voient

Que des souvenirs de soleils.

 

En vain j’ai voulu de l’espace

Trouver la fin et le milieu ;

Sous je ne sais quel œil de feu

Je sens mon aile qui se casse ;

 

Et brûlé par l’amour du beau,

Je n’aurai pas l’honneur sublime

De donner mon nom à l’abîme

Qui me servira de tombeau.

 

   *

「莊嚴」老婆心ながら、これは“sublime”(「壮絶な」・「崇高な」・「卓抜な」・「高貴な」)の訳であり、あくまで「さうごん」(そうごん)と読むものあって、「墓場(おくつき)に仕へるために」とあるのに引かれて、知ったかぶって、本邦で専ら、「智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ること」・「仏像や仏堂を、多くの装飾品で厳(おごそ)かに飾ること及び、その装飾物」を指す「しやうごん」(しょうごん)とは、決して読んではいけない。稀れに、本邦の作家でも、前者の意味で「しょうごん」を使う者がいるが、私は、それを見ると、常に鼻白むのを常としているからである。少なくとも、原氏がルビをしていないのは、拓次が「さうごん」と読みを振っているからであると信ずるものである。]

2023/05/14

「教訓百物語」下卷(その4 「お山」・「辻君」は孝女而して掉尾) / 「教訓百物語」~了

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。漢文脈は返り点のみを附して本文を示し、後に〔 〕で読みに従った訓読文で示した。]

 

 又、同じ勤めといふても、「お山」といふ者は、人を、はめるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ながれの身、人をのぼすゆへ、「お山」といふ。「すり」や、「かんばん」、出して有(ある)のじや。

[やぶちゃん注:「お山」既注であるが、普通、歌舞伎の女方(女形)の男優を指すが、本書は大坂で刊行されていることから、上方では当時、「おやま」は「遊女」全般を指す語であったから、そちらである。

「のぼす」遊廓へ「登す」に、遊女に好かれていると「うぬぼる」(自惚る・己惚る)、所謂、自己評価を肥大化させてしまって「のぼせる」のニュアンスをも含めているように私には思われる。

「すり」客引きの紙摺りの広告であろう。]

 夫[やぶちゃん注:「それ」。]に、「のぼつたり、はめられたりする。」といふは、そゝふな事じや。

[やぶちゃん注:「そゝふ」歴史的仮名遣の誤りの多い底本であるので、思うに、「粗相・麁相」で歴史的仮名遣は「そさう」で、「自身の不注意や軽率さから過ちを犯すこと」の意でとる。]

「『お山』のいふ事は、皆、うそ、じや。」

といふ人があるが、「お山」のいふ事は、誠(まこと)斗りじや。

 「うそ」をいふが、商賣に、精出すのじや。

 お前方(まへがた)が、商賣に精出すと同じ事、百姓衆が野かせぎしたり、職人方(がた)が仕事に精出すやうなものじや。

[やぶちゃん注:『「うそ」をいふが、商賣に、精出すのじや』遊女が嘘を言うのは、それ以外に「身を売らねばならない」ということに対して、絶対必要条件であるからだ、と言うのであろう。]

 又、「お山」を、

「賎(いや)しいものじや。」

といふ人があるが、是れも、間違ひじや。

 「お山」程、貴(たつと)ひものは、なひ[やぶちゃん注:ママ。]

 あれが、一人でも、ゑ、よう、なぐさみにする事は、ない。

[やぶちゃん注:「ゑ、よう、なぐさみにする事は、ない」「ゑ」は不可能の呼応の副詞「え」の誤記で、「得、能(よ)う、慰みに爲(す)る事は」(一度たりとも)「無い」という意であろうと採る。]

 皆、親が、身(み)、しん[やぶちゃん注:「眞」。]に詰(つま)るか、義理のかねに詰るか、川へ、はまろふ[やぶちゃん注:ママ。]が[やぶちゃん注:『入水自殺でもせにゃならんか?』と切羽詰まること。]、首くゝろうか、といふ程の時でなければ、賣物(うるもの)じや、ない。

 其の時、賣られたのじや。

 皆、親の命(いのち)がはりに、つらひ[やぶちゃん注:ママ。]奉公する。

 皆、孝女じや。

 そふして[やぶちゃん注:ママ。]、うそをつくは、主人へ、忠義じや。[やぶちゃん注:「主人」廓の主人。]

 忠も、孝も、勤めて居(い[やぶちゃん注:ママ。])るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「君(きみ)」とも、「女郞(ぢよたう)」ともいふて、「君子(くんし)」の德が、ある。

 是れは、まだ、客の蔭で、味(むま)い物を喰(く[やぶちゃん注:ママ。「くふ」の縮約であろう。])たり、よい着物を着て居るが、

 扨、又、「辻君(つじきみ)」と言ふ者、有(あり)。是れは、女中方は、御存ない事じやが、大坂などでは、「市(いち)の川」・「橫堀(よこぼり)」などを、ふと、通ると、くらがりから、手を出(だ)して、直(じき[やぶちゃん注:ママ。])に引込(ひきこ)む。此人の讚(さん)に、

  〽主親(しゆをや[やぶちゃん注:ママ。])の為に身を賣る辻君を扨(さて)はそふかと知る人もなし

[やぶちゃん注:「辻君」夜道に立って客を誘う非合法の売春婦。古くは、市中の路地に店を構えた遊女・街娼のこと。夜鷹・夜発(やほち・やほつ)・辻傾城・辻遊女・立ち君などとも呼んだ。今で言う「立ちんぼ」である。

「市の川」この名は不詳だが、恐らくは、現在の大阪市西区堀江にあった花街、堀江新地附近を指すものと思われる。ここには青物市(野菜市場)があり、また、大阪市街で禁じられていた文楽などの芝居興行や、売春業である「待合茶屋」の営業も幕府は許可していた。「堀江新地」と言えば、この「堀江遊廓」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)を指すこともあるから、この「市の川」は、その遊廓の辺縁の河川添いの路地を指すものか。

「橫堀」大阪の知られた河川。正確には西横堀川と東横堀川があって、前者の東岸は材木の集積地として賑わい、「西横堀二十四浜」と呼ばれた。西横堀川は現在の中央区と西区の境界にあった(ここの中央の南北位置)。東橫堀はここの中央の南北に現存する。

「讚」人や物を褒める際の詞。

「主親」この場合、表は実の親を指すようであっても、裏は実は非合法の街娼の、売られた先の無慈悲な元締めを指していよう。

「そふか」「初めて『そうだったのか』と知る」の意の「さうか」(然(さう)か)に、男女が結ばれる「添ふ」を掛けていよう。]

 此勤(つとめ)は、大ていの事じやない。夫れでも、「辻君」の、「濱君」のと、いふて、京でも、「二条川原(でうかはら)」の、「松原(まつはら)」の、「川原」の、大坂でも、「市の川」の、「堀川」の、「橫堀の川」のと、皆、川のほとりに居(い[やぶちゃん注:ママ。])ますじや。或る人の歌に、

  〽此君の川の邊りに居ますのは行く者はみな斯(かく)のごとくか

[やぶちゃん注:「二条川原」この附近

「松原」この附近か。

「川原」このように地名で川沿いのものは複数あり過ぎるので、京都に冥い私には判らない。

「行く者はみな斯のごとくか」言わずもがな、「方丈記」の冒頭を洒落たもの。以下の本文でもそれを引きずって語られる。]

 遊女斗りが、「流れの身」では、ない。おまへ方(がた)も、我々も、皆、「流れ身」じや、同じ世を渡るのじや。

  〽借り切(きり)と思ふ間もなく目が覺めてのり合舩(あひぶね)の夜半(よは)のおきふし

 とゞまる者は、一ツも、ない。出る息、引(ひく)いき、ずるずる、しばらくも、とゞまる事は、ならぬ。皆、「ながれの身」ぢや。

 諸行は無常、説法(せつはう)、此移り替る有樣を、『いつまでも替らぬもの』と思ふて居るけれど、行く者は、皆、如斯(かくのごとし)か、みな、「ながれの身」じや。同じ世界を渡るのじや。何を身過(みすぎ)にしても、主從・親子・兄㐧(けうだい[やぶちゃん注:ママ。])・夫婦・友達のまじはりに、誠(まこと)さヘあれば、皆、「君子」なり。弘法大師の歌に、

  〽人多き人の中にも人ぞなき人になれ人人となせ人

「人」といふが、直(じき[やぶちゃん注:ママ。])に「君子」の事じや。其外は、皆、「人間」じや。「人間」とは、「人の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])」といふて、「人」と「畜生」と間じや。

 まだ、惡いのは「人面(じんめん)ぢうしん」といふて、顏は「人」で、心は「けだもの」じや。

 眞(まこと)の「畜生」は、死んでから、「皮」が、皆、用に立つ。人の「畜生」は、「土畜生(どちくせう[やぶちゃん注:ママ。])」と、いふて、死んでから、きたない、ばつかり、何にも、用にたゝぬ。

 生きて居(い)る内から、「畜生」、『死んだら、仏(ほとけ)にならふ。』と思ふて居るのは、『「瓜(うり)」を植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])て、「なすび」が、ならふ。』と思ふて居(い[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])るのじや。「瓜」の「つる」は、「なすび」は、ならぬ。皆、愚な事じや。

 誠の人にさへなれば、直に聖人(せいじん)・仏樣・神樣じや。

 どうぞ、どなたも、本心を、お知りなされて、人の人たる道を、学ぶのじや。

 「学ぶ」とは、まねするのじや、性出(せいだ)[やぶちゃん注:「性」はママ。]して学ぶと、どこぞては、本眞(ほんま)になる。[やぶちゃん注:「どこぞては」以下は、「そうした『真似』を誠実に着実に続けておれば、何処ぞで、何時かは、真(しん)の誠(まこと)の心性(しんせい)を得ることが出来る。」と言っているのである。]

  〽まねをせよ主人へ忠義親へ孝(かう)ひたものすれば本眞(ほんま)とぞなる

 じやによつて、

「『お山』の果て、じや。」

とて、

「そふかの、ふかいの、じや。」

とて、古道具店(みせ)へも出(いで)ず、辻々に、大勢が、うそうそして居(い)も、せぬ。

[やぶちゃん注:「そふかの、ふかいの、じや」「そふか」は恐らく「總嫁・惣嫁(そうか)」で当時の上方で、街頭に立って客を引く最下級の売春婦をかく呼んだそれであり、「ふかいの」とは、その「ふかい」=「深い」「因業ゆえにそこに堕ちた者じゃ」という謗りであろう。

「うそうそして」うろうろして。]

 皆、相應に、約束の男があつて、夫れを「眞夫(まぶ)」といふて、末を樂しみ、勤めて、年があくと、「宿ばいり」する。

[やぶちゃん注:「宿ばいり」一戸を構えて世帯を持つこと。]

 又、請け出されて、「奧樣」といわれ居(い)る者も、たんと、ある。

 皆、親へ、孝行、盡した者じや。

 よつて、天道樣(てんとうさま[やぶちゃん注:ママ。])の御惠みじや。ありがたひものじや。

 又、其(その)「お山さん」を買いに御出でなされた御方(かた)方[やぶちゃん注:「おかたがた」。]は、後には、大坂でなら、濱の納屋下(なやした)か、橋の上に、寢てござる。

 京で見れば、四條の川原、在所でなら、野原(のばら)か、徃來(わうらい)で、「鐵かい仙人」か、「がま仙人」の兄弟か、といふやうな衆が、むくむくとして、大勢、みへる[やぶちゃん注:ママ。]が、あれが、納屋の下や、川原で、御誕生なされたずが、ない。

[やぶちゃん注:「鐵かい仙人」中国の代表的な仙人である八仙の一人である、私の好きな李鉄拐(り てっかい)。「想山著聞奇集 卷の五 蛇の執念、小蛇を吐出す事」の私の「鐡拐仙人」の注を参照されたい。

「がま仙人」蝦蟇(がま)仙人。中国の仙人で、青蛙神を従えて妖術を使うとされる。当該ウィキによれば、『左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄、もしくは呂洞賓』『に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾をモデルにしているとされる』。但し、『蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている』とある。以上の二人は、しばしば、「蝦蟇鉄拐」(がまてっかい)と称して、中国の道釈(どうしゃく)の人物画の画題となっていて有名である。]

 皆、大事の、大事の、御子息方じや。

 御生れなされた時は、親御達が、

「ソリヤ、男の子が出來た。」

と、いふて、餠をついたり、產着を着せたり、だいたり、おふたり、なでさすりして、其上に、手習・學問まで、物を入れて、大てい、御世話なされた事じやない。夫れを、うかうか、思ふていて[やぶちゃん注:ママ。]、其後(そのゝち)、あのやうな御姿に、おなりなされた者じや。其[やぶちゃん注:「その」。]はづ、じや。

[やぶちゃん注:「大てい、御世話なされた事じやない」前にあったのと同じく、強意の断定表現で、「並大抵では『ない』それ以上の御世話を成されたものだったのじゃ!」の意であろう。老婆心ながら言っておくと、それをして貰ったのは、先の『「鐵かい仙人」か、「がま仙人」の兄弟か、といふやうな』、老いさらばえた河原にたむろする乞食『衆』の若い時の彼らである。]

 女郞衆は、親の爲に、千辛万苦(せんしんばんく)の勤(つとめ)する。

 それに、マア親の銀や、主人のかねをぬすみ、沢山、そふに、遣い捨てたものじやもの、 天から、よう見て、御ざらう、やうがない、こわいものじや。

[やぶちゃん注:「そふに」「そのように」。ここは挿入が前後している。主語は「女郎衆」ではなく、その前の「河原にたむろする乞食『衆』」であるので、注意されたい。]

 男には、色と、酒と、「ばくち」との、惡ひ[やぶちゃん注:ママ。]病ひがある。

 夫れから、親に、毒害じや。或る人の歌に。

  〽毒多き中(なか)にも氣の毒は目から口から鼻からも入る

「見ては、氣の毒、聞いては、氣のどく、百病は、氣より生ず。」

と、いふて、御子達に、氣を、いためられ、夫から、色々の病(やまひ)が出(で)て、定まつた命(いのち)が、五年へるか、七年へるか、十年へるか、定業(でうがう[やぶちゃん注:ママ。])まで生(いき)る人は、すくない。

 皆、親の、命とりじや。

 男斗りじやない。女中方も、着物や、くし・かんざしに付けて、親の命を、ちゞめた覺へ[やぶちゃん注:ママ。]はないか。覺へがあるなら、急度(きつと)、おわびなされませ。

孟子曰殺ㇾ人以挺與一ㇾ刄有以異乎 曰無以異乎〔孟子曰はく、「人を殺すに挺(つゑ)と刄(やいば)を以つてするは、以つて、異(こと)なること、有りや。」と。曰はく、「以つて、異なる無し。」と。〕

  〽山がつのいつしかつけし杣(そま)の跡㮤(まつ)は夫れより雪折れぞする

[やぶちゃん注:漢文部は返り点がおかしいので勝手に手を加えた。従って、訓読は指示通りではなく、歴史的仮名遣も正しいものを用いた。以上は、「孟子」の「梁惠王章句上」の一節だが、おかしい。頭は梁惠王が孟子に続けて教えを乞うために尋ねた場面で、「孟子對曰」とあり、その答えが「孟子曰はく」なのである。「孟子」は四書五経の中で唯一私の嫌いな書であるが、どうも原文と現代語訳ばかりで、正しい訓読文のあるサイトが少ない。漢字表記や訓読が歴史的仮名遣でなかったり、表記にかなり問題があるのだが、九去堂氏のサイト「九去堂『孟子』全文・現代語訳」の「『孟子』現代語訳:梁恵王篇上(4)率獣食人」をリンクさせておく。

「挺」(音「テイ」)は底本「つへ」(ママ)であるが、意味が上手くとれない、というか、誤解を生ずる可能性が高い(文字通り、「杖」で、「老人に使い物にならない不備な杖を与えておいて」という消極的殺人法と穿ってしまう読者は必ずいるだろう)。これは「棒」の意である。

「㮤」は「松」の異体字。]

 うかむ「せ」は、ないぞ。

 又、親御樣のなひ[やぶちゃん注:ママ。]御方は、幾つ、何十に成つても、同じ事じや。御佛檀へむかふ度每(たびつど)に、思ひ出し思ひ出して、「いはい」へ、おわびなされませ。そのうへでの、極樂參りの沙汰じや。其算用も濟(すま)さずにおひ[やぶちゃん注:ママ。]て、仏(ほとけ)にならふとは、あんまり、味(うま)い「せんさく」じや。

君子務ㇾ本 本立而道生〔君子は本(もと)を務む。本、立つて、道、生(な)る。〕

と聖人も仰せられた。

[やぶちゃん注:以上は「論語」の「學而第一」の一節。「Web漢文大系」の当該部をリンクさせておく。]

 「本」とはなんじや。「親」より外に「本」は、ない。

 此やうに、心の中に「化物(ばけもの)」が住(すん)で居(い)ては、仏(ほとけ)所(どころ)じやない。

 〽地獄餓鬼畜生あしゆら仏ぼさつ何(なに)にならふとまゝな一念

 〽今生(こんじやう)が眞(まこと)の道に叶ひなば願はずとても後生ごくらく

 天神樣の歌に、

 〽心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん

 とかく、心の内のばけ物を去つて、本心を、みがきなされませ。「つれづれ草」にも「鏡(かゝみ)」の段に言ふてある。主有(あるじある)家(いへ)には、すゞろなる人、心の儘に入りくる事、なし。主(ぬし)なき所には、道行く人、みだりに立ち入り、狐・ふくろやうの物も、人氣(にんき)にせかれねば、所得(ところへ[やぶちゃん注:ママ。])がほに入住(いりすみ)、「こたま」なんど、けしからぬかたちも、あらはるゝものなり。

[やぶちゃん注:『「つれづれ草」』「鏡(かゝみ)」の段』以上は第二百三十五段の抄出。以下に全文を示す。

   *

主(ぬし)ある家(いへ)には、すずろなる人、心のままに入(い)りくること、なし。主(あるじ)なき所には、道行人(みちゆきびと)、みだりに立ち入り、狐・梟(ふくrふ)樣(やう)の物も、人氣(ひとけ)にせかれねば、所得顏(ところえがほ)に入り住(す)み、木靈(こたま)などいふ、けしからぬ形(かたち)も、現(あらは)るるものなり。又、鏡には、色・形なき故に、萬(よろづ)の影、來たりて、うつる。鏡に、色・形、あらましかば、うつらざらまし。虛空(こくう)、よく、物を、容(い)る。我らが心に、念々(ねんねん)のほしきままに來たり浮(うか)ぶも、心といふものの、なきにやあらん。心に主(ぬし)あらましかば、胸のうちに、若干(そこばく)のことは、入り來たらざらまし。

   *]

 此通りに、主(ぬし)のない内へは、いろいろの化物が、入來(いりく)る。

 銘々、生れた時は、主人公も正(たゞ)しい。それから、次㐧(しだい)次㐧に、知惠付いて、見るにとられ、聞くにとられ、「百物語」、聞(きゝ)こんで、とうどう、主人を取り放して仕舞ます。

 此(この)「心学」といふは、取(とり)はなしたこゝろを、とりもどすのじや。

學問之道無ㇾ他求其放心而已矣〔學問の道、他(た)、無し。其の放心(ほうしん)を求むるのみ。〕

 

 

 

教訓百物語終

 

 文化十二年

   三月

 

    高麗橋淀屋橋筋

浪花書肆        加嶌屋久兵衞

 

[やぶちゃん注:「學問之道無ㇾ他求其放心而已矣」は「孟子」の「告子章句上」の一節。サイト「福島みんなのニュース」の八重樫一(やえがしはじめ)氏の「今日の四字熟語・故事成語」の「No.2752【仁は人の心なり、義は人の路(みち)なり】」をリンクさせておく。]

大手拓次訳 「田舍のワルツ」 D・フォン・リリエンクローン

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 田舍のワルツ D・フォン・リリエンクローン

 

わたしは城の露臺へ導かれ、

優しい、うつくしい、まばゆい公女の前に朗讀をさせられた。

わたしはゲーテのタツソーをえらんだ。

夏の夕べのなかを、もはや夜の小蟲がとびはねてゐる。

來の雲は灼灼と輝いて綠を帶び、しづんだ日のこなたにたなびいてゐる。

われらの下の靜かな花園はますます暗い影のなかに取りまかれてゐる。

またもやナイテインゲールが鳴きはじめる。

召使はランプをテーブルの上に置いた、

その光はありとしもない徵風にゆらめきつつ定まらない。

村の方からわれ等のもとへ音が聞える。

この暗黑と光の條(すぢ)との上に明るく

舞踏室の窓は閃めき輝いてゐる。

うはの空なる組組はわたしの後ろをさつとすぎた。

 

時時、扉が開けたままになつてゐるとき、

足ぶみの音、叫ぶこゑ、またみだれたるバスなど。

その歡樂は抑へがたくある。

わたしが、しばし讀みつづけつづけ行けば、

知らず識らず混沌たる喜びは

昔のはかない繪の如くひらめき通る。

そして、恰度(ちやうど)この句(ライン)に來たときに、

「臺杯(だいさかづき)は保つことが出來るか、

泡だちつつ沸騰し、うめきつつ溢るる酒を。」

わたしは眼をあげてながめると

姬は心なく、左の手を欄干にもたせてわたしの聲も耳に入らない、

彼女の褐色の眼はあこがるる夢幻に滿ち、

物うささうにこの粗野なる踊り手の上におててゐる…………

「どうしたら、お前の高い樂慾が許すだらうか、

そこへ行つて樂しいワルツの舞へ加はることを。」

そして、彼女はため息をした。

『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』

わたしがもし、彼女の聲(トーン)がまねられたら、

彼女が云つたやうにその言葉をわたしにあたへよ、

いま、「どんなに」と「だらう」の調子にふと思ひあたつた。

彼女が云つた「どんなに」を云つて見よう、

『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』

 

[やぶちゃん注:ドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)は、当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。彼の詩の訳は、『大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)』があり、拓次は彼が好きで、「綠の締金 ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――」という彼に捧げた献詩もある。

「ゲーテのタツソー」かの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が一七九〇年に発表した、十六世紀イタリアの叙事詩人トルクァート・タッソー(Torquato Tasso 一五四四年~一五九五年)を主人公とした戯曲‘ Torquato Tasso ’(ドイツ語音写「トルクワト・タッソ」)。]

大手拓次訳 「見事な菊」 ライナー・マリア・リルケ

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 見事な菊 ライナー・マリア・リルケ

 

あの日に、菊はどんなにうつくしかつたか。

わたしは、もう、その輝くばかりの白さにふるへた………

それから、お前はわたしの心を奪(うば)はうとして來た

眞夜なかに………

 

わたしは恐れを持つてゐた、そしてお前は、あやふくつつしみ深く來た、

丁度、ある夢がわたしの前にお前をぱつとあらはした時、

お前は來たのだ――フエアリーの脣からでる歌のやうに

夜のなかに鳴り出でた………。

 

[やぶちゃん注:作者は、無論、知られたオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)である。]

大手拓次訳 「ふくろふ」 (シャルル・ボードレール)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 ふくろふ シャルル・ボードレール

 

かれらをまもる、くろいいちゐの樹のしたに、

ふくろふたちはならんでとまつてゐる、

見しらない神さまのやうに、赤い眼をはなちながら。

かれらは沈思してゐる。

 

そのままうごかないでとまつてゐるだらう、

ななめになつた太陽をおひやりつつ、

暗黑があたりをこめてくる

いううつなときまでも。

 

彼等の容子(やうす)はかしこき人に

この世のなかでは騷擾(さうぜう)と動搖とを

恐れなければならぬことを示してゐる。

 

「すぎてゆく影に」ゑうた人は

場所をかへようと欲したので

つねに懲罰をうけてゐる。

 

[やぶちゃん注:最終連二行目の「欲」の字体には「慾」があり、拓次は詩集「藍色の蟇」ではその両方を用字として使用している。しかし、実は底本の原氏の「大手拓次詩集」では、それが原氏によって使い分けられており、「女よ」では、「慾」の字で示してあることから、ここは底本通り「欲」とした。太字は「いちゐ」は底本では傍点「﹅」。

 本篇は、所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の「註」によれば、『『議會通信』一八五一年四月九日號に發表』とある。原詩を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を元に以下に示すこととした。

   *

 

                  LES  HIBOUX

 

Sous les ifs noirs qui les abritent,

Les hiboux se tiennent rangés,

Ainsi que des dieux étrangers,

Dardant leur oeil rouge. Ils méditent !

 

Sans remuer, ils se tiendront

Jusqu’à l’heure mélancolique

Où, poussant le soleil oblique,

Les ténèbres s’établiront.

 

Leur attitude au sage enseigne,

Qu’il faut en ce monde qu’il craigne

Le tumulte et le movement;

 

L’homme ivre d’une ombre qui passe

Porte toujours le châtiment

D’avoir voulu changer de place.

 

   *

「ふくろふ」梟。本篇の多くの訳詩の標題訳では、圧倒的に「梟」(ふくろう)ではある。しかし、私の所持する大学以来愛用の大修館書店「スタンダード佛和辭典 像法改訂版」(一九七五年刊)では、“hibou”(“hiboux”は複数形)『みみずく』とする。仏文サイトでも、どうも「フクロウ」と「ミミズク」は混用されているようだが、鳥類学的ではなく、頭部形状としては異なり、フクロウ目フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、本邦での古名は「ツク」で、「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である(但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)。しかも、羽角があってもフクロウを名に持つ種がおり、やはり古典的博物学的形態分類に過ぎない)。ここでは、それを詳細すると、えらく長くなってしまうので、『和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)』の私の注を見られたい。また、ネットを調べると、別に、フランス語教師によれば、“hibou”は♂を、“chouette”は♀を指す、という記載があったが、私の辞書では、“chouette”は『梟(ふくろう)』とある。まあ、フクロウでよいのだろうが、私は羽角のあるミミヅクが好きだから、それをイメージする。

いちゐ」「櫟」(いちい)。本邦産のそれは、裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata 当該ウィキによれば、『果肉を除』いて、『葉や植物全体に有毒』の『アルカロイドのタキシン(taxine)が含まれて』おり、『種子を誤って飲み込むと』、『中毒を起こす。摂取量によっては痙攣を起こし、呼吸困難で死亡することがあるため注意が必要である』が、『果肉は甘く』、『食用になり、生食にするほか、焼酎漬けにして果実酒が作られる』。『アイヌも果実を「アエッポ(aeppo)」(我らの食う物)と呼び、食していたが、それを食べることが健康によいという信仰があったらしく、幌別(登別市)では肺や心臓の弱い人には進んで食べさせたとされ、樺太でも脚気の薬や利尿材として果実を利用した』とあるが、この種はヨーロッパには分布しない。この場合は、同属の内、唯一ヨーロッパに自生するヨーロッパイチイ Taxus baccata となる。なお、フランス語の当該ウィキによれば、有毒性は同じである。但し、本種のフランス語としての“abritent”は、現在は使用されていない模様で、辞書やフランス語のサイトでもかかってこないし、前記フランス語ウィキにもこの単語はない。なお、この「いちい」の歴史的仮名遣はブレがあるようで、所持する小学館「日本国語大辞典」では「一位」の項の中に本種が出るから、ここの通り、「いちゐ」で正しいのだが、ネットの辞書類を見ると、「いちひ」とするものが多い。]

大手拓次訳 「夢幻の彫刻」 (シャルル・ボードレール) / (『異國の香』所収の同詩篇とは異同があるため参考提示した)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。

 なお、本篇は『大手拓次譯詩集「異國の香」 「夢幻の彫刻」(ボードレール)』で電子化しているのであるが、そちらが、一連構成であるのに、本底本では二連構成になっているため、掲げることとした。]

 

 夢幻の彫刻 シャルル・ボードレール

 

奇妙な化物ははれのかざりに、

ただ、異形の風をする醜い冠を

その瘦骨の頭のうへにをかしくのつけてゐた。

拍車もなく、鞭もなく馬をあへがせる、

てんかん病みのやうに鼻から泡をふく

その身とおなじやうな妖精の不思議な駑馬(どば)を。

 

空間をよぎりて彼等ふたりは沒し、

おぼつかない蹄のはてなさを押しせまる。

騎士はその馬のふみしだく名もない群のうへに

もえたつ刀をひらめかす。

そしてわが家を監視する王侯のやうに、

無限の、寒冷の、境界なき墓場を徘徊する、

そこに、白い艷のない太陽の微光のなかに

古今史上の人人はかくれふしてゐる。

 

[やぶちゃん注:ルビは原氏が原原稿からチョイスしたものであるから、異同とは言えない(拓次の詩原稿は多くの漢字にルビを附している)が、二連構成は明らかな異同である。『大手拓次譯詩集「異國の香」 「夢幻の彫刻」(ボードレール)』の注で、私は原詩を示してあるが、原詩は一連である。所持する堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊。この本の優れている点は歴史的仮名遣・正字版であることである)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る版畫の幻想」である)も一連である。拓次は実は、連構成などでも、原詩に従っていない訳を多く残しているから、これは拓次の確信犯と原氏は捉え、原原稿をそのままに示したものと推定出来、これが本当の拓次の本篇であると断じてよいと思われる。

佐々木喜善「聽耳草紙」 七五番 ココウ次郞

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    七五番 ココウ次郞

 

 昔々ざつと昔、あつとこに爺と婆があつた。爺は池に棲んでゐる蟹に每日握飯をやつて、ココウ次郞と呼んでかわいがつて居た。ある日、婆が爺のいない間に蟹を喰べてやらうと思つて、握飯を拵へ、[やぶちゃん注:底本では行末で読点がないが、「ちくま文庫」版で補った。]池のふちへ行つてココウ次郞々々々々々と呼んだら、蟹がワサワサと澤山出て來たので、婆は殘らず網で掬《すく》つて喰つてしまつた。そして甲羅は爺に知れないやうに垣根の向ふさ投げ棄てた。そこへ爺が歸つて來て、婆や握飯コこしらへろと云つて、握飯を作らせ、池さ持つて行つて、いつものやうに、ココウ次郞々々々々々と呼んだが、蟹は一匹も出て來ない。何遍も呼んで見たが蟹は一向に姿を見せない。[やぶちゃん注:底本では行中で句点なく以下に繋がっているが、「ちくま文庫」版で補った。]爺は不思議に思つて每日池さ行つて何遍も呼んだが、そんでも蟹は出て來なかつた。ある日のこと樹の枝に烏(カラス)が一匹とまつて。

   かあらは垣根

   身は婆(バンバ)

 と鳴いたので、爺が急いで垣根のとこさ行つて見たら、蟹の甲羅が澤山散らばつてゐた。

 (仙臺地方の話。昭和五年四月五日、三原良吉氏
  採集御報告の分の二。)

[やぶちゃん注:「ココウ次郞」は、当初、固い甲羅を持った蟹で「硬甲次郎」か? ふと思いついた。しかし「硬甲」の音は歴史的仮名遣「カウカフ」で合わない(但し、方言表記とすれば問題はない)こと、また、「池」とはあるが、これが仙台地方の海浜近くの語り話であるなら、池は汽水のそれかも知れず、純淡水産の蟹に限ることは出来ないし(そもそも、純淡水産の本邦に棲息する蟹は、唯一種類、日本固有種(北海道は除く)である十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属 Geothelphusa (タイプ種サワガニ Geothelphusa dehaani )しか棲息せず、しかも彼らの甲羅は硬いとは到底言えず、本邦産のカニ類の中でも寧ろ柔らかい甲といえるので相応しくない)、則ち、硬い甲羅を持つとなると、純淡水産で池中に棲息するという条件ではちょっと厳しいことになるので、この語源は当たらない気がした(海浜近い池や、汽水の池となれば、まず、短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Orisarma intermedium を筆頭として、複数上げることが出来る。それらの同定候補は、たまたま先日電子化した『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 蟹嚙に就て』で考証してあるので見られたい)。そこで仕切り直して、リセットし、ネットを調べたところ、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらで、『「蟹」と「おじいさん」と「酒」がでてくる日本の昔話を読みたい』という質問の回答を見つけ、それを見ると、本書の本話が紹介されているが、ご覧の通り、「酒」は出てこない。ところが、その資料に、自館の電子蔵書目録資料を検索したところ、『「蟹の甲(原題・蟹こと爺さま―蟹の報恩)」という話が載って』おり、『爺のかわいがっているカニを婆が食べ、爺がさがしに行くと、捨ててあった蟹の甲羅に酒がたまっていた、という話である』また、別資料には、『「蟹の恩返し」という話が載っており、よく似た内容だが「酒」が出てこない。巻末の「話型対照表」より、「蟹の恩返し」は『日本昔話集成』の「蟹の甲」を見ると良いことが分かる。そこで』その『資料』の『「蟹の甲」を見ると、地域によって微妙な違いがあり、青森県三戸郡に伝わる話には「酒」が出てくることが分かる』とあった。本篇はまず、一読、結末に欠損が感じられ(何よりも、蟹を食った婆様を爺様はどうしたのかが気になる)、蟹の干からびた殻の山のアップという殺伐としたシーンで終わっている(蟹喰い婆は、蟹の背の鬼の如き形相の鬼婆にでも変ずるか)が、寧ろ、話しを少しでも明るくする向きが、「酒を湛えた甲羅」には見られる。すると、「ココウ次郞」とは、蟹を大事にして呉れた爺様への、あの世の蟹たちからの恩返しという異類報恩譚の様相とコーダを見ることが出来るのである。さすれば、これは結果した「孝行次郎」(歴史的仮名遣「かうかうじらう」)という意味の縮約・転訛ではあるまいか? と私は、一人、合点はしたのである。

2023/05/13

「教訓百物語」下卷(その3 「ろくろ首」の正体)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。

 さらに、本書には挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。]

 

 又、「ろくろ首」じや。是も噺し斗りあつて、誰(たれ)もみたものが、ない。

 又、やう思ふて御らうじませ。

 人の首が、ぬけてたまるものか。とんとない事じや。

 大坂などには、大ぶん、近頃、はやる。

 先づ、女中がた、「奉公する」といふは、どうした事じや。よう考(かんがへ)て御ろうじませ。

 田舍で奉公さすと、親のためなれど、親は慈悲なもので、

「京・大坂へやつておけば、皆、よい事を見習ひ、針仕事を覺へて[やぶちゃん注:ママ。]、其上、よい給金とれば、着物も出來て、嫁入(よめいり)の時、勝手がよい。」

と、夫婦、いろいろ、相談して、京・大坂の奉公に出すのじや。

 又、いづ方、奉公しても、親といふものは、大切なもので、二季には、「養父入(やぶいり)」といふて、主人が、親の内へ、返す。

 何ゆへなれば、年中、外(そと)にばかり居て、親に仕へる事が出來ぬによつて、親へ仕へに返すのじや。夫れで、「養父入」と書いたものじや。

 それをしらずに、

「親の内へ、休みに返るのじや。」

とばかり、合點して居(い[やぶちゃん注:ママ。])る。

 戾ると、親を、目のもふ程、遣(つか)ふ。

[やぶちゃん注:「目のもふ程」不詳。「もふ」は「亡(も)ふ」で、謂わば、「目に入れても痛くない(ほどに可愛がり、)目が見えなくなくなるほど、の可愛がりようだ。」という意か?]

 親は、悅んで、てんてんてんと、まふ。

[やぶちゃん注:「てんてんてんと」「てんでてんでに」で「頻りに、ますます」の意か。]

 夫(それ)が、不孝には、ならぬかな。

 扨、又、親を、むごひ[やぶちゃん注:ママ。]めに、あはす。

 戾つた晚から、母親のそばへ寄(よつ)て、親方の事、傍輩(ほうばい)の事、何やかや、長々と咄す。盜人(ぬすびと)の昼寐(ひるね)も當(あて)があるのじや。

[やぶちゃん注:「親方」奉公先の主人。

「盜人の昼寐も當てがあるのじや」毎晩の長話につき合って、娘は勿論、二親も、深夜・未明に入り込む盗人には、まるで気づかない。だから、盗人はゆっくり前の日の昼寝をしておくことが出来る。それを「當がある」と言っているのであろう。]

「扨(さて)、マアおまへ方(がた)は、大坂の勝手はしらんせんが、大坂程、はれがましい所はない。マア誰さんは、かふゆふ[やぶちゃん注:ママ。]着ものがある、あの人は、こふゆう[やぶちゃん注:ママ。]帶がある、かふした[やぶちゃん注:ママ。]帷子(かたびら)がある、かういふ『くし』も持つてじや、かうした『かうがひ[やぶちゃん注:ママ。]』もある、銀の『かんざし』も、二本、ある。私等は、なんにもないよつて、お供に出るといふても、大てい、恥しい外聞の惡い、情(なさけ)ない事じやない。夫(それ)で、どふぞ、いにしなに、銀五拾兩程、とゝさんに、もろふておくれ。下着を一つ、こしらへねば、もふ[やぶちゃん注:ママ。]、春から、奉公は、出來ぬ。」

と、いふて、「高ゆすり」じや。一の谷の太五平(たごへい)から、つり取つて來る位(くら)ひ[やぶちゃん注:ママ。]じや。

[やぶちゃん注:「情ない事じやない」「情けないどころの騒ぎじゃないないほど、恥ずかしい思いをしているの!」という謂いであろう。

「一の谷の太五平」これは私の好きな文楽「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき:五段続き。宝暦元(一七五一)年十一月大坂豊竹座で初演。並木宗輔作)二段目の内の「菟原(うばら)の里(さと)林住家(はやしすみか)の段」に引っ掛けた謂い。当該ウィキの同段の梗概を読まれたい。]

 扨、夫れを聞くと、母親は、ぐつと、脇腹へ、出刄包丁、つき込(こん)で、ゑぐられるやうな物じや。

 腹の中が、三ツ程、ひつくり返る、そこで母親は、

マア今夜はくたびれて居(い[やぶちゃん注:ママ。])やらふ。寢や、明朝、爺さんに、そつと、云ふて見よ。」

と、たらかして、まづ、ねさしても、夜の目も合(あは)ず、いろいろと、苦にして、娘が近所へ礼に行つた跡にて、父親(てゝをや[やぶちゃん注:ママ。])に、段々と、かべぞしやう[やぶちゃん注:ママ。]してみれば、父親も、おもひがけもなひ[やぶちゃん注:ママ。]事ゆへ、[やぶちゃん注:「かべぞしやう」「壁訴訟」(かべぞしよう/かべそしよう)「不平を呟くこと・陰で苦情を言うこと」又は「遠回しに当てこすること・聞こえよがしに言うこと」を言う。]

「今時分に、何金(なにがね)があるもので、あたこだくさんそうにそうな事は、しらん。」[やぶちゃん注:「あたこだくさんそうにそうな事」「あた」副詞で、不快・嫌悪の気持ちを表わす語に付いて、「その程度が甚だしい」ことを意味する。「こだくさんに」は「小澤山」で、形容動詞。「多いさま」を卑しんで言う語。「そうな事」は「そんなこと」。「あったら、そんなぎょうさんな、してもやれんそんな法外なこと」の意であろう。]

と、

「いやい、のふ。」[やぶちゃん注:「厭やじゃて!!!」。]

と、大きに、しかられて、又、母御(はゝご)の腹の中が、三つ程、ひつくり返る。

 扨、又、其晚、娘は、母親のそばへよつて、

「おまへ、夕べの事、とゝさんに、言ふておくれたか。」

と、いふと、母御は、腹の中へ、出刄を突(つき)こまれたやうに思ふて、

サアそふ言ふてみたが、大きにしかつてで、有(あつ)た。」

と、いふて、直(じき[やぶちゃん注:ママ。])に、顏付き、替へて、おこつて、見せる。

「そんなら、こちや、奉公はせぬ。春から、戾るじや。」

と、おこり、もつて、寐て、二、三日の逗留に、きげんを𢙣(わる)ふ[やぶちゃん注:ママ。]して、いぬる。

 母親は、それから、積(しゃく)がおこる。[やぶちゃん注:「積」は「癪(しやく)」(しゃく)で、胸や腹が急に痙攣を起こして痛むこと。所謂、女性に多い「さしこみ」である。]

 

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 父親は、しかつてみても、氣は、すまぬ。

『あいつが「戾り、戾り、」、かう、其やうに、いふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]なら、能〻(よくよく)、かた身が、すぼるので、人中[やぶちゃん注:「ひとなか」。]で、恥かしう思ふであらふ[やぶちゃん注:ママ。]が、でも、口惜(くちをし)い事じや。わしも人並に暮すなら、女子(をなご)の子を、遠方へは、やりはせぬ。近年の不勝手(ふかつて)から、ふびんな事じや。』

と思へば、夜(よ)の目(め)も、ねられず。

 夫婦が、寄(よつ)て、云出(いゝだ[やぶちゃん注:ママ。])し云出して、しやう事なしに、貸(かる)か、又は、質でも置くかして、跡から、やる。

 其やうにして、每年每年、親の方(はう)をいじりたてゝ、もらひ、給銀(きうぎん[やぶちゃん注:ママ。])は、なんぼ取つても、べにや、おしろい、又、櫛や、笄(こふがい[やぶちゃん注:ママ。])かんざしに、皆、入れて仕舞ひ、何程あつても、皆、首ばかりになつて、仕𢌞(しま)ふを、「ろくろ首」といふのじや。

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート タウボシは唐乾飯也

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は、聞き伝えや、引用やらが、あまりにもごちゃごちゃしてベタで続いているので、特異的に、会話記号で切って、多量に段落・改行をテツテ的に設け、すっきりと読めるようにした。

 標題の中の「唐乾飯」は、本文では「たう」「ほしひ」とルビしている(歴史的仮名遣の正しい方を繋げて示した)。所謂、蒸して乾燥させた保存用の飯で、湯や水に浸して食べる。古くから旅の携行食として知られたそれで、「ほしいひ」の「い」を略した訓である。また、標題の「タウボシ」は現代仮名遣で「トウボシ」で、「唐法師」であり、これは「大唐米」(たいたうまい(ごめ):現代仮名遣「たいとうまい(ごめ)」)で、野生の稲(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa )の殆んどを占める「赤米」の内、中世に栽培され始めた稲の品種の一種を指す。但し、現代では「赤米」は、当該ウィキによれば、『イネの栽培品種のうち、玄米の種皮または果皮の少なくとも一方』(主に種皮)『にタンニン系の赤色素を含む品種を指す』とあり、また近年、『古代米』=『赤米とされることもあるが』、これは実は『科学的根拠はない』とある(不学にも私も今の今までそう思っていた)。また、『黒米を赤米に含める場合もある』とあり、『民俗学者の柳田國男は、赤飯の起源は赤米であると主張している』ともあった。「性質・特徴」の項を見ると、『「そのままではとても食べられない」といわれるほど味に難点がある』。『原因としては普通品種と比べてアミロースやタンパク質が多く含まれることから粘りがないこと、色素成分であるタンニンが渋みをもつこと、赤みを残すために精白を抑えざるをえないことが考えられる』。『文献上でも、「殆んど下咽に堪へず。蓋し稲米の最悪の者なり」などと記述されているほどである』。『赤米の味は、もち米を混ぜることで改善するとされる』。『赤米は雑穀米として白米や他の雑穀と共に飯にしたり、酒』『や菓子』、『麺類』『などに加工される。酒については、赤米をはじめとする有色米を使って着色酒を製造する方法が』一九八〇『年代に日本で考案され、特許を取得している』。『蒸した赤米を酵素剤で糖化した後で発酵させる方法でワインの製造が試みられたこともあるが、これは十分に色が出ず』、『失敗している』とある。なお、ここに赤米酒を一九八〇年代の考案とあるが、私は一九七五年年初に新潟大学文学部を受験(不合格)したが、その帰り、新潟駅の売店に赤米を用いた赤い酒が販売されているのを確かに見たので、それよりも前である。『赤米は脱粒しやすく』、『越冬性も強いため、他の圃場』(ほじょう:農作物を栽培するための場所。水田や畑・樹園・牧草地等を包括する語)『に混入することがしばしばある。普通米を栽培するにあたっては、赤米などの有色米が混入すると』、『米の検査等級が下がってしまう』『ため』、『直播き栽培を採用する地域では歴史的に排除・駆除の対象となっている』とあった。]

 

     タウボシは唐乾飯也 (大正四年八月『鄕土硏究』第三卷第六號)

 

 田邊町に住む老農輩、言《いは》く、

「タイトウと云ふ米は、尋常、水田に植《うゑ》る稻が、粒、細長く、脆くて、粘り氣、乏しく、變成《へんせい》したのだ。落散《おちち》り易く、味旨(うま)からぬ故、種を收むる時、注意して、之を除くが、二、三年もすると、又、變性して、多少のタイトウを生ずる。粳(うるしね[やぶちゃん注:ママ。「粳米」(うるちまい)のこと。])に限らず、糯(もちごめ)にも有り。粒の外面、恰《あた》かも「草綿種子(わただね)」を食ふ蟲程、赤いが、中は、白い。此《これ》は早稻(わせ)に多い。晚種(おくて)にも生ずるが、其は、多くは熟せず、綠(あを)いなりに、枯了(かれしま)ひ、若《もし》くは、丸《まる》で空穀(からもみ)を留《とど》むるのみ。偶々、熟すれば、其粒、赤からずして、白い。タイトウ、多く出來る年と、少ない年と、ある。」

[やぶちゃん注:『「草綿種子(わただね)」を食ふ蟲程、赤い』赤ダニ。鋏角亜門クモ綱ダニ目ケダニ亜目ハダニ上科ハダニ科 Tetranychidaeや、ハダニ上科タカラダニ科 Erythraeidaeの赤色で目立つダニの総俗称。昆虫やワタ(アオイ目アオイ科ワタ属 Gossypium )の専門家なら種同定出来るのであろうが、私は陸生節足動物は、とんと苦手なので判らぬ。]

 一つの穗に、尋常の粒と、タイトウの粒と、淆(まぢ)り生ずるので、タイトウは、病的變成物と知れる。

「詰《つま》らぬ物故《ゆゑ》、心配して、早く拔き去らんとするも、苗の時は、判らず。愈々、穗が熟して、始めて別る故、種を收むる中に、之を容れぬ樣、腐心する。」

と(『鄕土硏究』第一卷第四號二五二頁、太田君、答文、參照。)。

[やぶちゃん注:「太田君」「選集」に編者割注があり、太田稔という人物であるが、不詳。]

 又、言く、

「件《くだん》の病的變成と別に、又、タイトウと呼ぶ稻の、特種、有り。五十年程前、田邊へ傳はつたのを、沙地へ種《う》ゑたが、水を要する事、甚《はなはだ》しいので、收穫、乏しく、追々、廢止と成つた。此種のタイトウの粒、萬端病的變成のタイトウの如しだが、其粒が、他よりも、一層、長かつた。」

と。

[やぶちゃん注:沙地底本は「沙池」だが、「選集」のそれを示した。「池」なら、以下の続き具合が不審になるからである。]

 又、田邊から二里許り距《へだた》つた「鳥の巢」と云ふ濱地の人、言く、

「タイトウは、前年迄、彼《かの》地の水田に種ゑた。其味、乏しいが、飯に炊《ひさ》ぐと殖《ふえ》るので、吝嗇《けち》な輩《やから》、頗る、之れを重んじ、態《わざ》と多く種ゑたが、追々、廢止と成つた。」

と。

[やぶちゃん注:『「鳥の巢」と云ふ濱地』南方熊楠ゆかりの、田辺湾の、かの神島(かしま)を望む「鳥の巣海岸」(グーグル・マップ・データ)。]

 されば、タイトウに、本邦で、每年、多少、變成するのと、外來の特種と、色も、赤と白と、性《しやう》も、粳と糯と、田作と畑作と、有るらしい。

 扠《さて》、予が、「犬筑波」の句を孫引《まごびき》して、

『大唐米、卽ち、トボシの事なるべし。唐《もろこし》より渡り、乾飯(ほしひ)にし、其を、「こがし」にせし故、「唐ぼしひ」と云《いひ》しならん。』

と、『鄕土硏究』第一卷第十號六三七頁に云ひしを、柳田君は、

『稻を「乾飯」と云ふのが、「家猪(ぶた)」を「ハム」と呼ぶと同樣、不自然だ。』

と難ぜられた。

[やぶちゃん注:『予が、「犬筑波」の句を孫引《まごびき》して、『大唐米、卽ち、トボシの事なるべし。……』は「選集」に編者割注があり、『「紙上問答」答(一)』とあった。調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第六巻(文集第二・渋沢敬三 一九五二年乾元社)のここで当該記事が総て視認出来る。そこで南方が引いた「犬筑波集」(室町後期の俳諧集。一巻。山崎宗鑑編。天文元(一五三二)年頃の成立。宗鑑・宗祇・宗長などの句三百七十句を収める。卑俗で滑稽な表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する機運を作ったもので、本邦初の俳諧撰集である)から引いた句だけを示すと、「日本の者の口の廣さよ」と「大唐をこがしにしてや飮ぬらん」である。なお、これを探すうちに、国立国会図書館デジタルコレクションの同全集の第十巻(書簡第三)のここに、南方熊楠の明治四四(一九一一)年十月二十八日夜十一時筆の柳田國男宛書簡を見つけ、そこに「あかごめ」=「唐人米(とうじんまい)」(ルビはママ)についての六行に亙る記載があるのを見つけたので、そちらも参照されたい。

「『鄕土硏究』第一卷第十號」は前の最初のリンク先の記事末に大正二(一九一三)年十二月発行のクレジットがある)。

『柳田君は、『稻を「乾飯」と云ふのが、「家猪(ぶた)」を「ハム」と呼ぶと同樣、不自然だ。』と難ぜられた』これは、柳田國男の「大唐田又は唐干田と云ふ地名」の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第二十巻(一九六二年筑摩書房刊)のここで視認出来る。これは『郷土研究』(第二巻第五号)大正三年七月発行に初出したものである。柳田國男が、この如何にもいやらしい言い方で批判したのは、熊楠のそれから、半年も経ってからである。しかも、柳田は南方熊楠がこういう言い方をされたら、キレるであろうことを承知でやっているのである。こういうところが、私がインキ臭い、人を小馬鹿にする柳田國男に対して、強い生理的嫌悪感を感ずる一面である。

 物の諸部分や諸效用の中に就て、一を採つて、其物の名とした例は、羚羊《れいよう》を褥(にく)、綿羊を羅紗綿(らしやめん)、玳瑁龜(たいまいがめ)を鼈甲(べつかう)、その他、多々有るべく、「姓氏錄《しやうじろく》」や「古語拾遺」に、秦(はだ)氏の祖が獻じた絹帛(きぬ)が、軟らかで、肌膚(はだ)を溫煖(あたた)めたにめでゝ、仁德帝が、彼に「波多公(はだのきみ)」の姓を賜ひ、其より、「秦(しん)」を「ハダ」と訓《よ》むと出《で》るを、本居宣長は、

『若し、此等の義ならば、「溫か」・「軟《やはら》か」の言《いひ》を取つてこそ、名づくべけれ、「肌」と云ふ言を取るべき樣、なし。』

と難じた。

[やぶちゃん注:「羚羊」この場合は、獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus 。日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県)に分布する。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」を参照されたい。

「褥(にく)」原義は、古く「毛の敷物・しとね」の意であるが、江戸時代には、皮が敷物に適するところからカモシカの別名でもあった。

「綿羊」哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries (所謂、家畜化された綿羊(メンヨウ))及びヒツジ属に属する種群。但し、はっきりとは断定は出来ないが、日本列島には、家畜としてのヒツジは存在していなかったとも考えられている。江戸時代になって、中国から移入して飼育を試みたことはあるが、失敗しているようで、近世以前の生体個体の飼養記載は、古代以降、極めて乏しい。

「羅紗綿(らしやめん)」ここにある通り(「羅紗緬」とも書く)とは、本来は「綿羊」(ヒツジ)のことを指す。サイト「JBpress」の「横浜開港・時代に翻弄された幕府公認・ラシャメンとは何か」によれば、『西洋の船乗りが食料としての目的と、性欲の解消のため、性交の敵娼(あいかた)として羊を船に載せていたことが』、『羅紗緬の呼び方の由来とされる』とあり、『それが転じて、外国人を相手にする娼婦や妾を』、『当時の人』が『綿羊娘と揶揄した』とあって、『洋妾』(らしゃめん:この忌まわしい差別語の漢字表記の方が知られる)『は長崎には』、幕末には、『すでに存在していた』とし、慶應四(一八六八)年の『中外新聞』に、『「外国人の妾を俗にラシャメンと称す」とある』と記されてある。

「玳瑁龜(たいまいがめ)」潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata 。「鼈甲」細工に用いるのは、本種を最上とする。詳しい博物誌や、理不尽なワシントン条約による鼈甲細工(座って作業することから、多くの身体障碍を持った方が古くから名工としておられた。その仕事を同条約は奪ったのである)の危機に対する怒りを込めた私の若書きの注を、是非、サイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「たいまい 瑇瑁」で読まれたい。

「姓氏錄」御覧の通り、現代仮名遣で「しょうじろく」と読み、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」のこと。弘仁六(八一五)年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑。

「古語拾遺」官人斎部広成(いんべのひろなり 生没年未詳)が大同二(八〇七)年に平城天皇の朝儀に関する召問に応えて編纂した神道資料。

『仁德帝が、彼に「波多公(はだのきみ)」の姓を賜ひ』「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「はたうじ/秦氏」によれば、『西日本に広く分布する秦人の伴造(とものみやつこ)で、法然の母もその一族』。「日本書紀」には『応神一四年(二八三)弓月君(ゆづきのきみ)が率いて百済から渡来したとするが、一般には機織(はたおり)や農耕に従事した新羅系の人びとといわれる。仁徳天皇の時代(三一三—三九九)に機織(はた)(秦)の姓を賜り、一族の一部が美作国久米郡錦織郷(にしこりごう)(岡山県久米郡美咲町)に留まった。錦織神社は秦氏の氏神で、美作の秦氏は秦豊永の子孫が続いた。法然の母を秦氏とする伝記の初出は信瑞の』「黒谷上人伝」と『推定されている』とあった。]

 如何にも不自然至極の命名ながら、右の書共《ども》に斯《かか》る語原を載せたのを見ると、假令《たとひ》、仁德帝が、斯る不自然な命名を、なし賜はざりしにせよ、二書の編者も、其頃の人も、肌を快くする絹帛を獻じた人を「ハダ氏」もて稱(なづ)くるを異常の事と思はず、隨つて、自分等《ら》も其樣な不自然な命名を、多少、行なひかねなんだとてふ事が判る。東西共、世俗は精確な論理を推定《おしさだ》めて後《のち》、始めて物に名づくるに限らぬ。既に柳田君自身も、「聖人」を「ヒジリ」(「日者(につしや)」の義)と訓(よ)んだ。甚だ不自然ながら、然も、其理有る徑路(みちすぢ)を示されたに、吾輩、感服し居るでは無いか(第二卷第六號三二七頁、第三卷第二號一〇三頁參照)。

 されば、乾飯を作るに、恰好な一種の稻に、「乾飯《ほしゐ》」もて、名《なづ》くるは、俗人から見て、何の不都合、成し得可らざる事に、非ず。

[やぶちゃん注:『柳田君自身も、「聖人」を「ヒジリ」(「日者(につしや)」の義)と訓(よ)んだ』これは、先に電子化した「柳田國男 鉢叩きと其杖」を含む連載の直前の一章「聖と云ふ部落」を指す。初出は『郷土研究』大正三(一九一四)年八月初出で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。当該の柳田の論考は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本登録」で見られる「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)のここから視認出来るので見られたい。また、先行する『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート ヒジリと云ふ語』も見られたい。]

 「乾飯」てふ物、近時、頗る不必要の物で、予の妻子は知らず。予も、所謂、「道明寺乾飯《だうみやうじほしいひ》」を、夏日、慰みに食ふてより、三十五年も、見た事無く、どんな物か、全く忘れ了《をは》つて、一向、不足を感ぜぬが、往昔(むかし)、和漢とも、軍陣や旅行に頗る乾飯を重んじ、多く製造したは、「淵鑑類函」三八九「糗糒」(乃《すなは》ち、「乾飯」)の條、又「一話一言」十三に「小宮山謙亭筆記」から、『奧州は大國にて、國中《くになか》、一揆起《おこ》る事、昔は度々《たびたび》也。官軍を遣はし、又、國主、郡主、一揆の黨を鎭《しづむ》るに、兵粮《ひやうらう》、不足無き樣に糒(ほしひ)を詰(つめ)たり。其風、殘りて、今に、仙臺の糒、名物の樣に成《なり》し也。』と引《ひい》たので知れる。其程、乾飯、大必要の世に、大唐米(だいたうまい)が入り來つて、其製造に適し居《を》つた故、特に之を「唐乾飯(とうぼしひ[やぶちゃん注:「とう」はママ。])」と呼んだは、田邊で、時代も姓名も傳はらぬ一人の鍛工(かぢや)が、骨を喉に立てて死んだ魚を、「イサギ」と呼ぶよりは、專ら、「カジヤコロシ」で通用し居るよりも、遙かに自然の成行(なりゆき)と惟《おも》ふ。

[やぶちゃん注:「道明寺乾飯」「道明寺糒」ともかく。小学館「日本国語大辞典」によれば、『大阪府藤井寺市の道明寺で作られる乾飯。糯米(もちごめ)を蒸して』、『天日に干したもので、水に浸したり』、『熱湯を注いでやわらかくしたりして食べる。かつて、道明寺で天満宮に供えた饌飯』(せんぱん)『のお下がりを』、『乾燥貯蔵したことに』始まるとされ、『軍用、旅行用に貯蔵食品として重んじられた』とある。

『「淵鑑類函」三八九「糗糒」(乃ち、「乾飯」)の條』「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により、張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍。その当該部は「漢籍リポジトリ」にあるこちらの当該巻[394-20a]を見られたい。

「一話一言」大田南畝の随筆で、安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆。全五十六巻であるが、内、六巻は欠。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と、他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段末から)。

「小宮山謙亭筆記」太宰春台の門人。将軍徳川吉宗の命を受けて、検地に関する書物「正生録」を書き、また、佐倉小金(千葉県佐倉市)の開墾によって賞せられるなど、農政・経済分野の専門家として活躍した江戸中期の儒者で幕臣の小宮山昌世(まさよ)の書いた有職故実書。謙亭は彼の号。

『「イサギ」と呼ぶよりは、專ら、「カジヤコロシ」で通用し居る』「イサギ」は条鰭綱スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum の異名。東京でも流通名で「イサキ」と並んで「イサギ」も普通に使われている。私の「大和本草卷之十三 魚之下 イサキ」を見られたいが、そこで引いた引用にも、南紀での呼称「カジヤゴロシ」(鍛冶屋殺し)は、イサキの骨が非常に硬く、骨が喉に刺さって死んだ鍛冶屋がいたことから、その名が付いたと云われる、としっかり記されてある。 ]

 大唐米に、赤、白、二態あることは、白井博士すでに言ひ(『鄕土硏究』第二卷第五號二八四頁)、予も前文に述《のべ》置いたが、槪して、大唐米は、赤いが、普通だつた證據は、元和《げんな》九年に成つた「醒睡笑」卷六に、『貧々(ひんひん)と世をふる僧の思《おもひ》に堪へかね、兒(ちご)を請じ、大唐米の飯《いひ》を出《いだ》せり。「是は珍しき物や」抔(など)と、ほむる人も有りけり。亭坊(ていばう)の云はるゝ樣(やう)、「せめての御馳走(ごちそう)に米を染(そ)めさせたる。」と、あれば、彼《かの》兒(ちご)、箸を持直《みちなほ》し、「さうかして、『大唐めし』のやうな。」と。』。大唐米の飯を「大唐飯(だいたうめし)」と云ふたから、推して、「大唐干飯(だいたうぼしひ)」と云ふ名も有つたことゝ知る。

[やぶちゃん注:「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。

「元和九年」一六二三年。

『「醒睡笑」卷六に、『貧々(ひんひん)と世をふる僧の……』「醒睡笑」(せいすいしょう)は咄本(はなしぼん)笑話集。全八巻。安楽庵策伝作。戦国末期から近世初期、お伽衆によって語られてきた笑い話を中心として、四十二項に分類し、集大成したもの。当時の社会や時代風潮を反映した話が多く、後代の落語や咄本などに大きな影響を与えた。寛永五(一六二八)年に京都所司代板倉重宗に献呈されている。この「卷六」の前半は総標題を「稚兒の噂」とあることから判る通り、僧坊の同性愛の対象となった稚児絡みの話がずらりと並ぶ。以上は、当該話の全文で、カットはない。国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文学大系』第二十二巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)の当該部(右ページ終りから四行目からの三行)をリンクさせておく。所持する鈴木棠三校注の岩波文庫版の注には、「大唐米」を『赤米。古く栽培されていた粗悪な品種』とする。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七四番 猿の餅搗き(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    七四番 猿の餅搗き (其の一)

 

 或山の麓にお寺があつて、そのお寺の境内の古池に蛙がズツパリ(多く)住んで居た。春の彼岸が來たのでみんなが蓮の葉の上に寄り集つて、ぢえぢえこれら、彼岸には何を喰つたらよかべなアと相談した。そして今年は餅を搗くことにきめて、池のほとりで餅を搗いて居た。すると其所へ山猿がやつて來て、なんだお前達は何して居れやと訊いた。

 蛙どもはおらアお彼岸樣に上げる餅を搗いて居るところだと言つた。猿は嘲笑つて、お前達は蛙の癖に何もそんな眞似するには及ばないさ。どれ其餅をこツちさ寄こせと言つて、餅を臼ごと引擔《ひつかつ》いで山の方へ、どんどん走つて行つてしまつた。

 蛙どもは悲しくて大變泣いて居た。そしてこれはことだ、これはことだとダヤカエシ(がやがやとつぶやき)ながら、猿が行つた方の山へぞろぞろと行つて見た。すると餅が途中に落ちてゐた。それを見つけて蛙どもはゲクゲクと大騷ぎして喜んで皆して寄つて喰つて居た。

 猿は自分の家へ還つて、臼を肩から下して見ると、餅はなかつた。これはしまつた、さう言つて引返して途中まで探して來ると、多勢《おほぜい》の蛙どもが、盛んにその餅を食つて居た。猿は怒つて、その餅よこせと言つた。すると蛙どもも怒つて、そんだらそれ、これでも食らへと言つて、自分らの食い殘しをみんな猿の顏に撲(ブツ)つけた。あれやツと言つて猿が其餅を顏から取るべえとすると、皮がびりびり剝(ヘ)げて、今のやうにあんな眞赤な色(イロ)ズバサ(色肌)になつた。

 

        猿と蟹 (其の二)

 

 或時、猿と蟹とで餅搗きをした。猿はよい程に餅が搗けた時、ドラと聲がけをして、臼を背負つて途哲《とてつ》[やぶちゃん注:漢字はママ。「途轍」が正しい。]もない山の方を目掛けてどんどん走《は》せて行つた。これヤことだと蟹は膽《きも》を潰して、猿どん猿どん何してそんなことウすんまアすと言つて、猿のあとを追(ボツ)かけて行つた。猿は餘りあわてて、臼の中から餅が落ちたのも知らないで山へ入つた。蟹は餅を見つけて拾つて、木の葉を吹拂(フツパラ)ひかツぱらひ食へばわるくも御座らぬと言ひながら、しんめりしんめりと食つていた。

 猿はそんなことは知らないで、どんどん走せて行つて、後を振返つて見ると今迄追(ボツ)かけて居た蟹がはア見えなくなつて居た。だから此邊がよかべと思つて、臼を肩から下して見ると、中に餅がなかつた。これはしまつたと言つて後へ引返して來て見ると、蟹がさもさも、うまさうに餅を食つて居た。猿はひどく怒つて、蟹々其餅よこせと言つた。それでも蟹は澄まして、木の葉や塵(ゴミ)がついて、なぞにしても食はれないところを、そんだらそれやツと言つて、猿の顏に撲(ブツ)つけた。

 あれやツと言つて猿が顏の餅を引放(フチパナ)すべと思つて、いきなり搔(カツ)ちやくと、顏の皮がびりびりと引剝げて今のやうに、あんなに赤面《あかづら》になつた。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。]

大手拓次訳 「お前はまだ知つてゐるか」 (リヒャルト・デーメル) / (『異國の香』所収の同詩篇とは有意な異同が二箇所あるため参考提示した)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。

 なお、本篇は『大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)』で電子化しているのであるが、有意な異同が二箇所あるので、示すこととした。]

 

 お前はまだ知つてゐるか リヒャルト・デーメル

 

まだお前は知つてゐるか、

ひるの數多い接物のあとで

わたしが五月の夕暮のなかに寢てゐた時に

わたしの上にふるへてゐた水仙が

どんなに靑く、どんなに白く、

お前のまへのお前の足にさわさわとさはつたのを。

 

六月眞中の藍色の夜のなかに、

わたし達が荒い抱擁につかれて

お前の亂れた髮が二人のまはりに絡(から)んだとき、

どんなにやはらかくむされるやうに

水仙の香が呼吸(いき)をしてゐたかを

お前はまだ知つてゐるか。

 

またお前の足にひらめいてゐる、

銀のやうなたそがれが輝くとき、

藍色の夜がきらめくとき、

水仙の香は流れてゐる。

まだお前は知つてゐるか。

どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。

 

[やぶちゃん注:本篇は、恐らく同原稿を元としたと考えられるものが、『大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)』に載っている。しかし乍ら、二箇所の重大な異同がある。以下に挙げる。

●第二連五行目「水仙の香が呼吸(いき)をしてゐたかを」の「呼吸」のルビ「いき」が、『異國の香』の方では、存在しない。ここは読者が「こきふ」(こきゅう)と読んでしまう可能性は甚だ高い。しかも、「いき」と振られてこそ、初めて、音律的に納得されるものである。

●第三連五行目「まだお前は知つてゐるか。」が『異國の香』の方では、「まだお前は知つてゐるか、」と最後が読点になっている。この最後の三行のコーダのブレイクは、ここが句点であるか、読点であるかの違いで、朗読した際や、黙読した折りの印象が微妙に異なってくる。言わずもがなであるが、「水仙の香は流れてゐる。」//「まだお前は知つてゐるか。」//「どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。」であるのに対して、「水仙の香は流れてゐる。」//「まだお前は知つてゐるか、」/「どんなに暖かつたか、どんなに白かつたか。」となってしまうということである。私は原詩の表記を見ていないが、それとは無関係に――拓次は、この三行に句点による強いブレイクを三回打たねばならないと考えたとすると、私は非常に納得されるのである。

 『異國の香』の編者は拓次の同僚・親友にして画家の逸見享であるが、彼は詩人ではない。出版に関係した当時の版権所有者二人も作家ではない。されば、原原稿の校正作業が正確でなかった可能性は非常に高いと私は考えている。手書き原稿の小さなルビや、句読点の判読は、素人ではなかなか難しい。それを考えると、私はこの二種は同じ原稿によるものであり、原氏の底本のこれが、正しいと考えるものである。]

大手拓次訳 「河をよぎりて」 (リヒャルト・デーメル)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 河をよぎりて リヒャルト・デーメル

 

夜(よる)は暗く、重く、ゆるやかであつた、

そして重重しくボートは闇を走つた。

他の人人はあたりに笑つた。

恰も、春が樹の皮に呼吸してるのを感ずるやうに。

 

うす黃の、沈默の廣い川は橫はる、

揚げ場からくるちらちらする光り、

裸の柳には少しの震へもない。

けれど私はお前の顏を見上げて。

 

そしてお前の息が願つてるのを感ずる、

私の眼をのぞいて呼ぶいぢらしい眼とともに

私は見た――私の前にも一人(ひとり)立つてゐて、

咽びながら口ごもるのを。私はお前のものだ。

 

折檻された光線をもつて光りは近く輝き

ぎすぎすした柳の影は

灰色の水のなかに、黑く、よろめきながら沈む、

そしてボートは、ぱりぱりと音して岸に咬みつく。

 

[やぶちゃん注:リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル(Richard Fedor Leopold Dehmel 一八六三年~一九二〇年)はドイツの詩人。詳しくは、『大手拓次譯詩集「異國の香」 お前はまだ知つてゐるか(リヒャルト・デーメル)』の私の詩篇注冒頭を参照されたい。同詩集には、もう一篇、『大手拓次譯詩集「異國の香」 沈默の町(リヒャルト・デーメル)』も収載されている。なお、前者の「お前はまだ知つてゐるか」は、ルビ・句読点の異同があることから、次に底本の同詩篇を再掲する。]

大手拓次訳 「秋のはじめ」 (カール・ブッセ)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。

 ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]

 

 秋のはじめ カール・ブッセ

 

いま秋が來た、空は不思議に靑白くなり、

赤くなつた林檎の落ちるに風はいらない、

鸛(こふのとり)はもうずつと前に此の黃色くなりかかつた土地を去つた。

夜はだんだん冷たくなり、萬聖節も間近になつた。

木の葉はやがてこぼれ落ちるだらう、で今心は心を見出す。

いとしいものよ、お前と私とが別れる折ではないか?

 

[やぶちゃん注:ドイツの詩人・作家カール・ヘルマン・ブッセ(Karl Hermann Busse 一八七二年~一九一八年)。上田敏が明治三八(一九〇五)年に訳詩集『海潮音』に収めた「山のあなた( Über den Bergen )」の名訳のお蔭で、国語教科書にも度々採用されたために本邦では知らぬ人が少ないが、ドイツ本国では殆んど無名の詩人である。大手拓次の『譯詩集「異國の香」』には「滿月の夜に」(作者名の音写は拓次のそれでは『カール・バツス』)が載る。

「鸛(こふのとり)」この場合は、ロケーションがドイツであるから、ヨーロッパ・西アジア・中東・アフリカ北部及び南部で繁殖するコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属シュバシコウ亜種シュバシコウ Ciconia Ciconia ciconia であろう。因みに、本邦で言うそれは、コウノトリ属コウノトリ Ciconia boycianaで分布域は東アジアに限られる。なお、後者の博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を参照されたいが、最近、電子化注したものでは、本邦の「鸛」の民俗誌を含め、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 鴻の巢』が参考になるはずである。]

2023/05/12

「教訓百物語」下卷(その2 河童の真相)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。]

 

 又、「川太郞」といふものが、ある。江戶では、是れを「かつば[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]」といふ。丹波から西では、「川童(かはら)」といふ。「川のわつば」とは、「川の童(わらんべ)」・「川童(かはら)」といふも、「川太郞」といふも、皆、子供にたとへた名じや。「川の小人」といふ事じや。[やぶちゃん注:「小人」は「こども」と訓じておく。]

 扨て、此「川太郞」といふもの、九刕(きうしう)邊(へん)には、沢山にあつて、「川太郞まつり」といふて、數多(あまた)の川太郞が集(あつまつ)て、いろいろの、たわむれして、あそぶといふ事じやが、其やうな遠方へゆかひでも、面(つら)のかはの辺(ほとり)にも、澤山に、居(い[やぶちゃん注:ママ。])ます。どなたも引込(ひきこま)れぬやうに、隨分、隨分、御用心なされませ。

 太郞とは、「あほふ」の替名(かへな)じや。

  〽𢙣處(あくしゆう[やぶちゃん注:ママ。])へ己が心で引き込まれ身を亡ぼすが皆不孝もの

[やぶちゃん注:「𢙣處」(普通は「あくしよ」)は遊里や芝居町を指す。]

 先づ、夏の夕だち水、少し見合せていればよひ[やぶちゃん注:ママ。]に、我(が)が、つよひ[やぶちゃん注:ママ。]から、[やぶちゃん注:「水」所謂、水商売を暗示させるための掛詞であろう。]

「何の此くらひの川を。」

と、己(をの[やぶちゃん注:ママ。])が心から、つひ[やぶちゃん注:ママ。]引込(ひきこま)れ、あたまの皿へ、水が乘ると、あつちへ引き込まれると、千人力(せんにんりき)じや。

 是れが、川ばかりじや、ない。

 京・大坂、其外、江戶でも、何國(いづく)の浦でも、「川太郞」が多い。

「あそこの御子息は、久しふ、みへぬが。」

とゝへば、

アレハ、田舍に、一家衆(いつかしう)があつて、預けられて居(い[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])らるゝ。」

「それは。どふした事じや。」

「イヤ、『道(どう)とんぼり』へはまつて居(い)たゆヘ[やぶちゃん注:ママ。]じや。」

といふ。[やぶちゃん注:「道(どう)とんぼり」道頓堀(グーグル・マップ・データ)は、江戸時代から劇場が建ち並び、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた繁華街である。]

 又、

「どこそこの手代は、久しふみんが、どうしたのじや。」

と、とふと、

アノ人は『しゞめ川』へ、つかつて居(い)た。」[やぶちゃん注:「しゞめ川」元は「蜆川(しじみがは)」に同じ。大阪市北区の曾根崎新地と堂島新地との間を流れて、堂島川に合流していた川で、別に「曾根崎川」「梅田川」とも呼ぶ。後に、ここの堂島川北岸に、江戸初期、堂島新地ができ(この附近。グーグル・マップ・データ)、遊女の町として発展。元祿一〇(一六九七)年には、ここに米市場が移されてから諸藩の蔵屋敷が置かれ、米市がたち、現在まで、大阪の経済の中心をなしている。]

 又、

「あそこの御内儀は、さられてじやげなが、どふした事。」

と、とへば、

アリヤあんまり、芝居へ、ばつかり、はまり込んでじやよつて。」

 又、

「どこそこの見せが、〆(しめ)て有(ある)。あれは、何事じや。」

イヤあれは、分散(ぶんさん)ジヤ。今、借金方(しやくきんかた)へ、あつかひ、最中じや。」

「夫れは、マア、近年、はんじやうにみへたが、どうした事じや。」

イヤ堂嶋の米相場にはまつて居たゆへ[やぶちゃん注:ママ。]じや。」

といふ。

 方々(ぼうぼう[やぶちゃん注:ママ。])に、つかる所や、はまる處の「淵」が、ある。少しもゆだんはならぬ。こはひ[やぶちゃん注:ママ。]ものじや。

 ケレド遊所(ゆうしよ)でも、米市(こめいち)でも、又、川々でも、むかしから、「川太郞」が引(ひき)ずりに來た事は、ない。皆、こちから、行つて、はまるのじや。

 スリヤ、「川太郞」は、銘々、こつちにある。用心さへすりや、はまりは、せぬ。皆、御用心、御用心。

 

大手拓次訳 「夜の歌」 (ポール・フィル)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。原氏曰はく、『同じ原作者のもの(たとえば最多のボードレール)がとびとびで出てくるのは、拓次訳の成立年次に従ったためである。原作者名も一、二、編者が手を入れたものもあるが、できるだけ拓次自身の表記に従った。これらはフランス語の原詩からの直接訳、ないしフランス語訳からの重訳がほとんどだが、リルケ、リリエンクローン、タゴール、ペネット等の訳は英語からのものである』とあり、最後に、『まとめていえることは、それが訳詩ほんらいのありようとはいえ、しかし、どれもあまりにも拓次自身の詩になっているということである。編者は、かつて、一つ一つ、拓次の拠った原詩にあたり、上田敏をはじめ、他の訳者による日本語訳のあるものはそれらにもあたって、拓次訳の欠点と長所を点検したことがあるが、あまりに大胆な「拓次ぶり」に感心し、あまりの意訳、あるいは誤訳等の欠陥も、拓次自身先刻承知のうえでのことではなかったかと思ったほどである。拓次が決定的な影響を受けたボードレールほか、サマンやグールモンなど、とくにフランス詩との拓次一流の「交感」の実態を、しかし、彼の訳詩は如実に示している』とあるのは、非常に同感するものである。

 私は既に、死後に刊行された『大手拓次譯詩集「異國の香」』を正規表現版で、このブログ・カテゴリ「大手拓次」で分割で、また、サイト版を「心朽窩新館」で、PDF一括縦書版、及び、同横書版(一部の詩篇で原詩を注で示した関係から、欧文を読み易くするために、こちらも作成した)で電子化注を公開しているが、原氏の底本では、同訳詩集とは異なる原稿から採録されているものがかなり多くある。実は、上記の「異國の香」に載るもので、原氏のこの底本にある別稿を注で示したものもあるので、それらの再校訂をしつつ(実は既に「異國の香」の本文や注に引いた本底本の詩篇中にミス・タイプやルビ落ちを発見してしまった箇所があり、それらは順次修正をしている)、チョイスすることとする。また、同一と見做していたが、よく見ると、今回の比較で、ルビがあるものや、連構成が異なるものを見出している。それらは、やはり、ここで取り上げて示すこととする。ブログ版だけなら、そちらで追加処理出来るが、二つのPDFの場合、行数が増えると、全体の送りを補正しなくてはならなくなり、結果して大仕事になってしまうのを避けるためである。

 

 夜の歌 ポール・フィル

 

影は、匂ひのやうに山山から消散し、

また沈默は死を信ぜらるるほどである。

此夕べ、星の光が西風の流れのなかにのぼるのを聽くだらう。

 

默想は、お前の眼が、反映をもつて、彼女の路の岸を魅する所の

源である事をお前の額の下に。

……星の世界の上に空を奪ひとり、苔の露のなかに、星の靑い歌をきく。

 

吸ひ、そして空氣を吐く、空氣の花はお前の息、

お前の暖かい息は花を匂はせる、

空を眺めつつ信心深く息を吸ひ、

そしてお前の濕つた息は、尙千草を星で飾るだらう。

 

お前の暗い眼のなかに全き空を泳がせる、

そして、地球の影にお前の沈默をまぜ合す。

もし、お前の命がその影の上に顏を爲さないならば、

お前の眼とその露とは地球の鏡である。

 

お前の魂が永久の軸の上にのぼるのを感ずる。

神聖な、そして天に達する情緖は

お前の星が、或は、お前の永久の魂が

その花びらを半ばひらきつつ空を匂はす眼である。

 

見えない枝を持つてる夜の壁列樹(かべなみき)に、

吾等の生命の希望である此黃金の花の輝くのを見よ、

吾等の上に煌(きらめ)くのを見よ――未來の生命を持てる黃金の印章――

夜の樹のなかにあらはな吾等(われら)の星を。

 

お前の凝視が星に溶けるのをきく、

彼等の反映は、やさしげにお前の眼のなかに衝突し、

お前の凝視はお前の呼吸の花に溶けつつ、

新らしい星をお前の眼にあらはれしめよ。

 

默想はお前の物であれ、お前の感覺を考へよ、

此生命のなかに散亂せるお前自身を燃えなくしめよ、

理解もなくお前の眼のなかに空を整理せよ、

そしてお前の沈默で、夜の音樂を創造せよ。

 

[やぶちゃん注:作者ポール・フィルは不詳。欧文の綴りを試み、そのフレーズ検索もしてみたが、これらしいという詩人すら見当たらない。従って、どの国の出身かさえも判らない。されば、原詩に当たることも出来ず、以上の訳語の読みの一部も不審があるが、判らない。識者の御教授を乞うものである。

「尙千草を」「なほ、ちぐさを」と訓じておく。]

大手拓次 「死」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇を以って『文語詩』パートのチョイスを終わる。]

 

 

 

しろきうを

かさなりて 死せり

 

大手拓次 「あをき刃の」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 あをき刃の

 

あをき刃(は)のかみそりのごとく

かなしみをきざむ 秋の日のかげ

ところどころに このつめたき影はうごき

また ひとむれの鳥となりて おちきたる

 

[やぶちゃん注:「刃」は底本のものをそのまま用いた。理由は詩集「藍色の蟇」での用字が「刃」だからである。]

大手拓次 「ゆふぐれ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 ゆふぐれ

 

みぞれするかや

このゆふぐれの日に

こゑもなく

ひとびとの 行き交(か)へり

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 七三番 猿の聟

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   七三番 猿の聟

 

 或所に爺樣があつたとさ。或日山畑さ行つて畑の雜草を取つて居ると、とても畑が廣いし、草がずつぱり(多く)で、頭が痛くなるやうだから、草を取る手を休めて斯《か》う言つたど、

   向い山の猿どオ

   此所さ來て

   雜草コ取つて

   助けねえが…

   娘ア三人あツから

   一人嫁子《あねこ》に遣ツから…

 さうすると山から、ワリワリと猿どもが下りて來て、爺樣の畠を見て居る間にすつかり取つてしまつたヂこつちや。

 雜草を取つて助けられたことはいゝが、娘を猿などの嫁子《あねこ》に遣るつて言つたことが心配で、終夜(ヒトバン)眠らねへで[やぶちゃん注:ママ。]明《あか》し、朝間《あさま》も寢床から起きないで居ると、娘どア心配して、一番大きな姉子《あねご》が來て、

   爺樣な爺樣な

   何して起きて

   御飯(オママ)をあがらねます、

   アンバイでも惡(ワリ)ますか…

 と訊いた。すると爺樣は、

   アンバイもどこも惡(ワリ)くねえども

   俺ア氣にかゝつことあツからさ…

   昨日(キンノウ)山畑で

   あんまりひどい雜草(クサ)だもんから

   向ひ山の猿どさ

   此雜草取つて助けたなら

   娘ア三人あツから

   一人嫁子《あねこ》にやツから……

   と呼んだば

   山の猿どア

   ワリワリと畑さ下りて來て

   見て居る間に

   みんな雜草を取つてケた…

   それで猿の嫁子に

   お前が行つてケンないか

 とさう言ふと、姉娘はひどくゴセを燒いて(怒つて)爺樣の枕下を蹴立《けた》てゝ其所を走りながら斯う言つた。

   どこの世界に

   そんなことアあんもんでゲ

   誰ア山猿のオカタ(妻)なんかに

   行くもんでゲ

 二番目の娘もその通り、三番目のバツチ(末娘)が爺樣に御飯あがれと云つて來た。(この爺樣と娘達の對話を繰り返すのが、此の話の興味である。)そして爺樣の言ふ嘆きを聽いて斯う答へた。

   爺樣な爺樣な

   俺ア猿のとこさ

   嫁子に行くから、

   何も心配をしねアで

   はやく起きて

   御飯をあがつてがんせ…

 爺樣は喜んで起きて御飯を食べた。

 山の猿どア嫁子を迎へにやつて來た。そしてお手車《てぐるま》をして娘を乘せて奧山へ連れて行つた。[やぶちゃん注:「お手車」「手車」は既注だが、再掲すると、二人以上の者が、両手を差し違えに組んで、その上に跨らせて運ぶことを指す。なお、次行は一字下げがないが、誤植と断じて、一字下げた。]

 里歸りの日になつた。猿の聟どんは舅どンに餅を搗いて持つて行くのだと言つて餅を搗いた。この餅を何さ入れて行くべなアと猿は言つた。

   櫃(ヒツ)さ入れれば木臭い

   朴《ほお》の葉さくるめば靑臭い、

   その臼ごと持つてアエで

   ケてがんせ…

 と嫁子は言つた。可愛い嫁子の言ふことだから猿は何でも聞いて、あゝそんだら臼ごと背負つて行くべと云つて、餅を臼ごと背負つて嫁子の先きに立つて山から下りて來た。すると谷川の大きな淵の向ふ崖(ガケ)に、淵に垂(タラ)ヅて美しい藤の花コが今を盛りに咲いてゐた。嫁子はそれを眺めて、

   猿どんな猿どんな

   あれあの藤の花コ

   一枝…

   折つてケでがんせ、

   俺方の爺樣ツたら

   あの花コ

   なんぼ好きだか分りません

 と言つた。猿はメゴイ嫁子のことだから、何でも言ふ通りになつて、それぢや餅の臼をここさ下して木に登つて取るべ……と言ふと、

   猿どんな猿どんな

   土の上さ置けば

   土臭くなる……

   草の上さ置けば

   靑臭くなる……

   どうかその臼

   背負(シヨ)つて木の上さ

   上つてケてがんせ…

 と嫁子は言つた。猿はメゴイ嫁子の言うことだから、何でも嫁子の言うことを聞いて、それぢやと言つて、重たい餅臼を背負つたまゝで藤の花コ取りに高い高い木に登つて行つた。そして手近の一番デト(手前)の枝に手をかけて、下の嫁子を見下しながら、[やぶちゃん注:以上の段落の頭は、ちょうど改ページ部分で、一字下げがないが、これも誤植と断じて、一字下げた。なお、次の頭の「オフミコ々々々」と後文のそれはママ。「ちくま文庫」版では、『オフミコオフミコ』とする。三行後の「いゝえ々々々」に引かれて佐々木が誤ったか、或いは植字工が誤ったものかも知れぬが、「オフミコ」は最後の猿の唄から「文子」という、この末娘の名前であることが判る。さすれば、二度目の呼びかけは「オ」を外して「フミコ」であっても違和感はないので、そのままとした。

   オフミコ々々々

   この枝か…

と猿が言つた。嫁子は下から、高い高い木の上を見上げながらこう言つた。

   いゝえ々々々

   まだまだ

   もつと上の枝

 猿はまたずるずる木の上枝に攀ぢ上つて、オフミコ々々々この枝か、まだまだもつと上の枝で、(この對話を自分の氣分によつて、なるべく度々繰り返すのがこの話の興味である。)猿はずんずん木の上枝の梢の端へ登つて行くと、餅臼の重みで、木の枝がバリヽと折れて、眞倒(マツサカサ)まに猿淵《さるぶち》に墮ちてしまつた。そして川下に流れて行きながらこう唄つた。[やぶちゃん注:「猿淵」と唄は、その地名「猿澤」と川の淵名の由来譚のフライングである。]

   猿澤や

   猿澤や

   流れ行く身は

   いとはねど…

   あとのお文(フミ)子ア

   嘆くベヂヤやい…

(自分の古い記憶と、遠野町佐々木艷子氏からの御報告の七による。最後の猿の唄ふ歌は同氏の知つておられたものである。[やぶちゃん注:ここに丸括弧閉じるがあるが、誤記か誤植と断じて除去した。]

私の鄕里の近くの釜石地方の同話には全く自分達の知らぬ一節が入つてゐて、それが此話の山でもあるという。卽ち猿どもが里の美しい娘を嫁に貰つて行つて、其夜の猿の家での酒盛りで唄ふ歌の文句である。それは、

   スポニコポンポン

   ポンポンポン

   鎌倉のめえけんと

   かまへて此事聽かせんな

   ヘララ、ヘララ、

と云ふのであると謂ふ。此一條は報告者板澤武雄氏も言つて居られる通り、他國の、例へば伊那の光善寺の猿の人身御供譚のヘイボウ太郞や此類話の系統で、板澤氏は現在では二つ別々の猿の昔話は以前一つのものから岐《わか》れて來たとも考へられると謂ふて居られるが、また其反對に釜石の譚は、以前二つであつた話が昔の物識者《ものしりもの》の手でもつて斯《か》くの如く一つに纏められたものかとも考へることが出來よう。猿の聟譚は大凡《おほよそ》單純に話されて、ヘイボウ太郞式の部分が缺けて居つたからである。

又其の嫁子の名前も、お藤ツ子と云ふのが普通であるやうだが、私の話では報告者の記憶を尊重した。

又秋田縣仙北郡角館町邊の同話では、爺樣が餅好きで、山へ行つて例へば猿でもいいが餅一重《ひとかさね》此所さ持つて來てくれたら、娘が三人あつから其中《そのうち》一人ケンがと云ふと、猿が餅一重を持つて來たもんだから、あゝウマヒ、あゝウマヒと云つて食ふ。家へ歸つて娘どもに猿の嫁に行つてくれろと云ふと、姉も中姉《なかあね》も嫌《いや》だと云ふ。遂に末娘が嫁に行く。舅《しうと》禮に歸つて來る時、淵の崖の上の櫻の花を眺めてあれを一枝折つて父親に土產にしたいと云ふて、猿に臼を背負はせたまゝ木に登らせる。例のやうなデテイルで猿は木から落ちて淵に沈むと、娘はワザと泣く眞似をする。そこで猿が、

   サルサルと

   流るる命(イノチ)惜しくないが

   あのひめの泣く聲

   いとしかるらん

と云つて死ぬと云ふのである。これは同所淸水キクヱさんと云ふ娘の談話筆記による、武藤鐵城氏の御報告九。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、底本ではポイント落ちで、頭の丸括弧が突き出て、以降の全体は本文でこのページでは二字半下げになっている(但し、続く次のページ以降の版組では二字下げとなっていて、一定して組まれていない)。しかし、長く、非常に重要な内容を含むので、特異的に本文と同ポイントにし、全文を上まで引き上げた。

 本篇は所謂、異類婚姻譚の最も知られた一つである「猿の聟(婿)入り」型の一話である(この話の基本は、世界的には、三人の姉妹の末の妹だけが二人の姉と異なった運命或いは試練を与えられるという「シンデレラ」型を示すことも、よく問題にされる)。同譚についての民俗学的な説明は、「コトバンク」の「猿婿入り」の複数の辞書の解説を読まれたいが、私は実は、この話、好きでない。この末娘が、嫌いである。既に、此の嫌悪感は「花嫁と瓢簞 火野葦平」の注で述べているので繰り返さないが、未見の方がそちらの最後の私の注を見られたい。

「私の鄕里の近くの釜石地方」佐々木喜善は岩手県上閉伊郡土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)であるが、旧南閉伊郡釜石町、現在の釜石市(グーグル・マップ・データ)は遠野市の東方で接する。

「伊那の光善寺の猿の人身御供譚のヘイボウ太郞」「光善寺」は光前寺(グーグル・マップ・データ)の誤り。現在の長野県駒ヶ根市赤穂にある。この寺には人身御供を求めた老狒(ひひ)(妖怪となった老猿)を退治した霊犬の「早太郎伝説」があり、同寺の公式サイト内のこちらに簡単な解説がある。なお、この寺の誤記や、「ヘイボウ太郞」(この霊犬譚の犬名の一つ)は、柳田國男の「山の人生」(大正一四(一九二五)年『アサヒグラフ』初出)をもとに記したものと推定される(ネット上でもこの柳田のミスが、今も、亡霊の如く散見される)。「青空文庫」のこちらで同論考が電子化されてあるが(新字新仮名)、その「一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと」の第三段落目の最後を見られたい。後の大正一五(一九二六)年に郷土研究社から刊行された原本当該部は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらでログイン無しで見ることが出来る。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七二番 猿になつた長者

佐々木喜善「聽耳草紙」 七二番 猿になつた長者

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   七二番 猿になつた長者

 

 或所に長者があつた。其隣りに大層貧乏な家があつて、八月の十五夜の晚お月神樣に上げる米もなかつた。それで隣りの長者どんに團子にする米を借りに行つた。すると長者の旦那樣はさんざらほだい(大層に)貧乏人を惡口して笑つたあげく、お月樣には馬の糞でも拾つて來て上げるがよいと言つて歸した。

 貧乏人は困つて、外の畠から少し豆を盜んで來て、お月樣に上げた。

 其翌朝隣の長者の家で、なんだかクワエンヒ、クワエンヒと啼く聲がするので行つて見ると、旦那樣はじめ家の人達がみんな猿になつて居た。それを追つて貧乏人は長者となつた。

 此人の行《おこな》ひから、八月十五夜の神樣に上げる豆は、人の物を盜んでも神樣はおゆるしになることになつて居る。

 

大手拓次 「白くあれ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 白くあれ

 

わづらひは 草のごとくしげれども

ただ しろくあり

とらへがたなく はびこれり

 

ひびきを咬(か)みて あらはるる

その くろき言の葉は

さまもなく たたずみをれり

 

しろくあれかし

なにごとも かたちなく かたちなく

しろくあれかし

 

大手拓次 「心ふたがれ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 心ふたがれ

 

いたましく 心ふたがれ

さびしさの かさなりゆけば

われ 飯(いひ)もたべえず

瘦せゆけり

 

大手拓次 「春の斷章」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 春の斷章

 

    *

 

しづけさは 影をまとへり

われ 懶惰(らんだ)のみちにゆきくれて

かさなれる こゑのおもてに身をとざす

 

    *

 

ものかげに ひかりあり

たゆたへる その花びら

心して 摘むなかれ

 

    *

 

こころ こころをもとむれど

かたみに みえざれば

うつくしき虹

わたるよしなし

 

    *

 

まことなればこそ

言葉 ほのかなれ

風 花をめぐりてすぎぬ

 

    *

 

わがこころ

黃金(こがね)のくさりもて いましめられ

鳥のごとく

ほそき枝のうへに ためらへり

 

2023/05/11

「教訓百物語」下卷(その1 通臂猴、又は、哀れなる猿知恵)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。漢文脈は返り点のみを附して本文を示し、後に〔 〕で読みに従った訓読文で示した。]

 

 又、山猿が、腰に、縄切(なはきれ)や、ふじかづらのやうなものを、卷(まひ[やぶちゃん注:ママ。])て、栗の、きびの、ひへ[やぶちゃん注:ママ。]の、といふ類(るひ[やぶちゃん注:ママ。])を盗みに來る。

 性出(せいだ)して[やぶちゃん注:「性」はママ。]、折つては、腰のなはに、はさみて、歸らんとする。

 けれど、うごかれぬ。

 なぜになれば、折(をつ)たは、折つたけれど、折れた斗(ばかり)で放れずに、ある。

 皆、根が附(つひ[やぶちゃん注:ママ。])てあるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、動かれんのじや。

 所(ところ)を、人が、見付(みつけ)て、棒で、たゝき殺して仕𢌞(しま)ふをみて、あほう[やぶちゃん注:ママ。]なものと、そしる。

 人間も其通りで、人の物を、ぬすみては、こしに、はさみ、主人のものを取つては、こしに、はせ、人の女房を、ぬすみ、親のゆるさぬ、しのびあひ、其外、いろいろの惡事(あくじ)、みなみな、粟や、きびを、こしにはせて、江戶へ、いたり、長崎へ、いたりしても、根が切れぬによつて、根(ね)から、たくれば、つひに、しれる。[やぶちゃん注:「はせ」は、「挾(は)す」でサ行下二段活用の動詞。現在の方言にもあるが、江戸時代の浮世草子に用例が既にある。]

 「根」といふは、人の合㸃せぬのじや。

 人の合點せぬは、天の合點なされぬのじや。皆、根が付(つい)てあるを、しらぬゆへ、[やぶちゃん注:ママ。]、跡で、難儀する。

 たゞ、物をほしがるばかりじや。

 物覚(ものおぼへ[やぶちゃん注:ママ。])がないゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ]、恥をしらぬ猿は、人間に、毛が、三筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])、たらぬ。

 慈悲と、知惠と、正直と、此三つがないゆへ、人と、噺仕(はなしし)て居(い[やぶちゃん注:ママ。])るかと思へば、足で、物をとり、後(うしろ)へ、かくし、逃げて行く跡からは、よふ[やぶちゃん注:ママ。「よう」。「能く」。]、みへてある。

 また、借錢(しやくせん)して、よいなり、したがるも、おなじやうな事じや。

 すべて、人にかくして物をするは、猿の同類、ちくしやうの仲間内(なかまうち)じや。

 其せうこには、人が似た噺(はなし)をすると、顏が赤ふなるじやによつて、人中(ひとなか)で顏の赤ふならぬやうに、なされませ。哥に、

  〽道ならぬ物をほしがる山猿の心からとや淵にしづまん

 譬へ、

「我が、存分、勝利を得たり。」

とて、人の合點せぬ物を、集めて樂しみとするは、

  〽水の月望む心はゑんかうの左延ぶれば右は短かし

我(わが)がすいた方へ、手が延びる。博奕(ばくゑき[やぶちゃん注:ママ。「ばくえき」でよい。])・米市(こめいち)・遊女・山事、片一方で、難儀、さして、片一方で、ぜいの八百、云居(いゝを[やぶちゃん注:ママ。])るのじや。

[やぶちゃん注:「左延ぶれば右は短かし」中国の妖猿(ようえん)の一種に「通臂猴」(つうひこう)がいる。以下に出る「ゑんかうざる」=「猿猴猿」と同じ。左右の腕が体内(肩と首の後ろ)で完全に繋がっているという伝説上の怪猿。思うに、これは東南アジアに棲息するテナガザル類(霊長目直鼻亜目真猿下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科 Hylobatidae)の樹上移動の様子を見て、そのようなものとして誤認したものと考えられる。

「米市」米相場の立った米を売買取引をする市場。

「山事」「やまごと」は元は「鉱山事業」及び「鉱山・山林などの売買に関係すること」を言うが、それらが大金が動くことから、しばしば、「その売買に関して詐欺を働くこと」を言った(「やまこかし」との言う)。そこから転じて、「かなりのリスクを伴った投機的・冒険的事業」を、広く、かく言った。ここは最後の意。]

 「ゑんかうざる」といふ、手のながい猿がある。又、「ゑんかうが、月を望む。」といふて、水にうつる月をとらんと、手を延ばして居(い[やぶちゃん注:ママ。])る繪がある。唐(から)には、アノやうな手の長ひ[やぶちゃん注:ママ。]さるが、あるものじやか。其繪を、人にたとへて見れば、皆、「人の猿知惠」を書いたものじや。人も、道をしらずに、私欲にくらんでくると、なんでも、

『金がなければ、どふ[やぶちゃん注:ママ。]もならん。』

と思ふ處から、わるい穴へ、はまる。

 惡氣(あしき)が出來(でき)て、後(のち)には、賽(さい)をこかすやう、堂嶋(どうじま[やぶちゃん注:ママ。])へはしるやう、江戶ぼりへ行くやうになる。

 アノ賽といふものも、一の裏は六、二のうらは五、三の裏は四、𠆤(ちやう)[やぶちゃん注:「丁」の異体字。]と半とは裏表、𠆤は陰なり、半は陽なり、一は天、六は地なり、「一天・地(ぢ)六・南(なん)三・北(ほく)四・東(とう)五・西(さい)二」といふて、大躰(だいたい)、大切なものじやない。

 御武家樣方(がた)では、具足櫃(ぐそくびつ)に入る大舩(たいせん)には、「舟玉(ふなだま)」と祝ふ。ナゼ、「天・地・東・西・南・北」なれば、直(じき)に「大千世界」じや。

 天地同根萬物(ばんもつ)一躰皆是(みなこれ)阿彌陀佛一天四海皆(みな)歸妙法(きめうはう[やぶちゃん注:ママ。])、放ㇾ之則彌六合末優合為一理。[やぶちゃん注:利美に従い、訓読を試みると、「之れを放てば、則(すなはち)、六合(りくがう)に彌(わた)り、末(すへ[やぶちゃん注:ママ。])、優(ま)た、合(がつ)して一理(いちり)と為(な)る」であろう。]

 其、大切なひ[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「続百物語怪談集成」では『大切ない』と判読している。「ひ」或いは「い」は衍字か或いは、強調のために鋏んだ助字か。よく判らぬ。]世界を、こかす事じや。

 よつて、家や、藏や、田地も、山も、舟も、川も、なんの、ぞふさも、なふ[やぶちゃん注:ママ。]、こける。

 我も、ともに、こける。

 やうしたものじや。

 其道理も、しらずに、めつたむせうに、手を延ばし、天命の家業さへ精出せば、かねはもうけらるゝ事をせずに、わるい方ばかり、手を延ばすが、皆、「ゑんかうのさる知惠」じや。

  〽水の月とらんとするが手長猿(てながさる)はまつて居(い[やぶちゃん注:ママ。])ても知らぬはかなさ

  

大手拓次 「ひとひらの花あるごとく」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 ひとひらの花あるごとく

 

ひとひらの花あるごとく

そよろなく

わがむねに うごくものあり

 

夜(よる)となく

ゆふべともなく ひるとなく

わがむねに

たえまなく うごくものあり

 

[やぶちゃん注:「そよろなく」「そよろ」は副詞で、風が静かに吹くさまや、対象物が軽く触れ合って立てる音を表わす語であるから、この「なく」は「無く」ではなく、「鳴く」であって、「そろそろと幽かに鳴くような」「しずしずとした雰囲気の、ごくごく小さな鳴き声のように」の意であろう。]

大手拓次 「序詩」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、拓次数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作になる詩篇である。詳しくは、こちらの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

  序 詩

 

このくるしさに

たへやらで

われは また

いたつきに ふすならむ

すべもなき いたつきに

いつしらず はかなくならむ

かずしれぬ

かなしきうたを のこしつつ

 

[やぶちゃん注:「いたつき」「勞き・病き」で、ここは「病気」の意。]

大手拓次 「まへがき」 / (大手拓次「第二 九月の悲しみ」に記載されたもの(詩篇))

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本のパート『文語詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、文語詩約八百七十篇中より、十一『篇を選んだ』とされ、但し、『この文語詩のセクションにかぎって、配列はかならずしも制作年月日順になっていない。というのは』、『晩年期、拓次自身の手による詩集仕立てのノートや冊子があって(「九月の悲しみ」と題された第一から第四まで四冊、ほか)、それらの詩稿別の配列に従ったからである。ただ、ここに選出した』十一篇は、昭和三(一九二八)年から昭和七(一九三二)年『までのもの』であるとあるので、拓次は数えで四十二歳から四十五歳の折りの創作ということになる。さらに原氏は、『文語詩といえば、一般的にはそうだから』、『拓次の場合も口語詩以前の明治期のものかという印象をもつ読者もいるかもしれない(たしかに習作期に拓次も文語詩を書いてはいる)。だが、厖大な拓次の文語詩の多くは、なんと』四十『歳を過ぎてからの、ついに成就されない、いくつかの片想いの恋情の発する嘆きの歌であった。日本の象微詩史を書きかえねばならないほどの本格的な口語象徴詩の詩業や、また意外な可能性を秘めた、さきの散文詩などにくらべたら、とるに足りない感傷過多の歌があまりにも多』く、『その間』、『「本格的な詩が書けない」と、白秋あての書簡で嘆いたり』も『している。本文庫での文語詩収録篇数が少ないのもそのためである。なお、文語詩のセクションの冒頭にある「まへがき」は、前記「第二 九月の悲しみ」のそれから採ったことをことわっておく』とある。

 私は既に、このブログ・カテゴリ「大手拓次」と、サイトのPDF縦書一括版で「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」(拓次の死から六年後の昭和一五(一九四〇)年に、大手拓次著で、生前の友人で版画家の逸見享氏の編纂・装幀で龍星閣から刊行された文語詩詩集)を電子化注しているが、原氏の選ばれた十一篇(冒頭の「まへがき」を含む)の内、表記が全く同じものは、たった二篇しかない。

 その九篇を以下で電子化注する。]

 

  まへがき

 

わがおもひ盡(つ)くるなく、ひとつの影にむかひて千年

の至情(しじやう)をいたす。あをじろき火はもえてわが身をは

こびさらむとす。そは死の翅(つばさ)なるや。この苦悶(くもん)の淵

にありて吾を救ふは何物にもあらず。みづからを削(けづ)

る詩の技(わざ)なり。されば、わが詩はわれを永遠の彼方

へ送りゆく柩車(きうしや)のきしりならむ。よしさらば、われ

この思ひのなかに命を絕(た)たむ。

 

[やぶちゃん注:底本では通常本文位置ではなく、『文語詩』パートのパート標題の裏(左ページ)に有意に下方左寄せでポイント落ちで印刷されてある。本文「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」に同文の「まへがき」があるが(リンク先はブログ版の同詩画集の第一回分)、原氏の元にしたものは、以上の通りで、拓次の原原稿に基づくもので、実際に、一行字数が異なり、しかも、「技(わざ)」以外のルビは「大手拓次詩畫集 蛇の花嫁」には存在しないことから、ここで電子化しておくこととした。読みを添えたので、一行字数が揃っていないのは、悪しからず。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 七一番 猿と爺地藏(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     七一番 猿と爺地藏

 

 或所に貧乏で小供の無い爺樣婆樣があつた。それでも澤山な畠を作つて、麥だの粟だのを每年多く穫(ト)つて喜んで居た。ところが或年、まだ麥や粟が實らない中《うち》に、山の猿や兎が來てみんな食つてしまつた。どんなに工風《くふう》して追つても追つても猿どもの方が賢(サカ)しくて、爺樣の手におへぬので、或日婆樣に白餅をこしらへさせて眞裸體になつて其れを體中に塗り着けて、地藏樣のやうな眞似をして畠に行つて、畠の傍らに座つて番をして居た。

 其日も山から猿どもがぞろぞろと下りて來た。そして爺樣がそんな風をして座つて居るのを見ると、一番の年寄猿が、やいやい此所に見た事の無い地藏樣が來て番をして居るから、此地藏樣を川向ふへ守(モ)り申してから、ゆつくり穗を食ふベアと言つて、猿どもが皆寄り集まつて手と手を組み合せて、其上に爺樣を乘せて斯《か》う云ふ歌を唄つて川を越して行つた。

   猿……

   地藏……

   ヤウヤラサン

   ヤウヤラサン……

 其時爺樣の體が少々傾いた。すると年寄猿が、やア地藏樣が轉びさうだ。早く千兩箱を持つて來て當てがへと言ふと、手下の猿どもが何所からか千兩箱を持つて來て、爺樣の膝の下に當てられた。すると又一方が傾(カシ)がつたら、それア今度は此方(コツチ)の方が曲(マガ)つたと言つて、又千兩箱を持つて來て當てがつた。そんな事をして川向ひの御堂に連れて行つて置いて、猿どもはまた元の畠に穀物の穗を食ひにぞろぞろと引ツ返して行つた。

 爺樣は其間に千兩箱を二つ引ツ擔《かつ》いで、さつさと家に歸つて、長者どんとなつた。

 此事を聞いた隣家の爺樣が、大層羨やましがつて、よしきた俺も一ツ地藏樣になつて隣家の爺々の眞似をやつて大金儲けをすべえと思つて、婆樣に白粉《おしろい》を練《ね》らせて體全體に塗つたぐり、自分の畠に行つて、山から猿どもの來るのを待つて居た。其時にも猿どもがぞろぞろと山から下りて來て、前の爺樣に言つた通りの事を言つて爺樣を川向ひに渡すことになつた。

 そこで猿どもが可笑しな歌を唄ふ時、隣家の爺樣がやつたやうに少々體を傾(カシ)げると、それアと言つて千兩箱を當てゝくれた。又少し傾げると千兩箱を當てがつてくれた。其時爺々は隣りは千兩箱二つだと言つたけが、どれ俺は三つ貰つてやれと思つて、前の方へ體を傾げると、それツ此所も傾げると言つて、前の方にも千兩箱を當てがつてくれた。其時擽《くす》ぐたくつて可笑しくなつて、いきなりあはははツはツと笑ひ出すと、猿どもは驚いて、組んで居た手をばらばらに離してしまつたので、爺々は川の中にどんぶりと落ちた。その上この爺奴、昨日も地藏樣に化けやがつて俺達から千兩箱を盜んだと言つて、大勢で爺の體を引ツ搔き廻して、ウソと泣かせて家に歸した。

 (秋田縣仙北郡角館町、高等科一年生の鈴木てい子

  氏、昭和四年某月某日の筆記摘要。武藤鐵城氏御

  報告の八。)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。次の話でも同じ。]

 

     猿皮賣り(其の二)

 

 或所に爺婆があつた。爺は山にあらく(新畑)をきつた。秋になつて穀物の穗が實つた。すると奧山の猿どもが下(サ)がつて來て荒し散らして仕樣がなかつた。爺樣は猿追ひに大層おめをとつた(苦勞をした)。けれども追拂(オツパラ)ふことが出來なかつた。

 或日爺は婆樣に、婆樣々々、稈《わら》しとぎをこしらへてけ申(モ)さいぢやと言つて、稈しとぎを作つて貰つて、山畑へ持つて行つた。そして自分の體中にそれを二面に塗たぐつて、畠傍(《はた》ボトリ)に坐つて居た。

 其日も奧山の猿どもが多勢《おほぜい》山から下りて來たが、爺樣を見て、今日は畠の穀物を食ふよりは此の地藏樣でも向山(ムカヒヤマ)さ守り申《も》せと言つて、ズツパリ(多く)して手を組み合つて、其上に爺樣な乘せて谷川を渡つた。その時猿はかう唄つた。

   猿ぺのこ、よごすとも

   地藏ぺのこアよごすな……

 向山には御堂があつて其所に爺樣をば守り申した。そして猿どもは代《かは》り代《がは》りに爺樣の機嫌をとつた。すると爺樣が斯う言つた。これからお前だちは俺の言ふ事をきけ。男猿《をとこざる》は山さ行つて木を伐つて大槌《おほづち》をこしらえろ。女猿は町さ行つて布と針と糸を買つて來てそれで大袋をこしらえろ。えヘンえヘン。

 猿どもは直ぐに爺樣の言ふ通りにした。すると爺樣はまたお前だちは殘らずこの袋の中さ入(ハイ)ろと言つた。猿どもはぞろぞろとみんな袋の中に入つた。すると又爺樣は其袋の口を少し開けて、一匹々々と呼び出した。そして猿が袋の口から頭(アタマコ)を出すと直ぐ大槌で頭を撲《なぐ》つて一匹一匹殺した。そして皮や肉を町へ持つて行つて斯うフレ步いて賣つた。

   猿皮三十

   肉(ミ)は六十

   頭(カウベ)三百

   ハアちよん百

   ちよん百…

  さうして爺樣は俄《にわか》金持になつた。

  (大正十年の春頃、村の菊池梅乃と云ふ女房から
   聽いた。此人が、その祖母から聽いて覺えて居
   たものだと謂ふ。その老婆は橫懸のサセノ婆樣
   と言つて話識《はなしし》りの人であつた。)

[やぶちゃん注:「稈しとぎ」「しとぎ」は「粢・糈」と書き、本来は、水に浸した生米を搗き砕いて、種々の形に固めた食物を指す。神饌に用いるが、古代の米食法の一種とも言われ、後世には糯米(もちごめ)を蒸して、少し搗き、卵形に丸めたものをも指す。「しとぎもち」とも言う。しかし、ここでは「稈」(わら)と冠してあるので、本来は食用にならない穀類の藁(わら)を搗いて白粉状にしたものを指すようだ。]

宇野浩二 「龍介の天上」 / 異本底本二ヴァージョン同時電子化

 

[やぶちゃん注:以下は、宇野浩二(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)が後に盟友となる芥川龍之介と知り合った(大正八(一九一九)年七月二十八日、江口渙の「赤い矢帆」出版記念会で龍之介は発起人の一人で、宇野は江口と旧知であった。当時、宇野二十八歳、龍之介二十七歳)、その僅か三ヶ月後の大正八年十一月に発表した童話「龍介の天上」(「りゆうすけのてんじやう」)の異本底本二ヴァージョンである。ネット上では電子化されていない模様である。

 増田周子(ちかこ)氏の「宇野浩二童話目録」(『千里山文學論集』五十一巻所収・関西大学大学院文学研究科院生協議会出版・一九九四年三月発行・「関西大学学術リポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)によれば、本作は雑誌『解放』の大正八年十一月一日発行)第一巻第六号に載ったものが初出であるが、その初出には、「付記」があって、

   *

右はオランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」の中から、飜譯したものである。デタは幾多の詩集及び小說集の著者だと聞いてゐるが自分はまだそれ等を讀む機會を得ない。一はそれ等の英譯書がないからでもある。こゝに揭げた「龍介の天上」原名「鼻」は先に揭げた英譯書からの重譯で、所々固有名詞などは讀者の頭に入りよいやうにとの老婆心から、譯者が任意に變へたところもあることを斷つておく。尙デタの右の書物の中には、此の外色々興味の深い小說があるが、その中[やぶちゃん注:「うち」。]時々譯して讀者の淸鑑に資するつもりである。(譯者)

   *

とあった(原雑誌を私は確認出来ないが、以上の引用は正しく歴史的仮名遣で記されてあるので、初出「付記」に近づけるため、恣意的に漢字を正字化した)。

 さて。まず、

■第一番目のヴァージョンの底本は、童話の体裁をしっかり保持した、

国立国会図書館デジタルコレクションの宇野浩二の本篇を書名とした単行本童話集『龍介の天上』(敗戦後の昭和二一(一九四六弘文社)の正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちら(リンク先は本文開始冒頭。挿絵が左ページにある。但し、この挿絵は最終シークエンスのものである。標題ページは前のここ

を使用した。

 太字は底本では傍点「﹅」である。漢数字を除いて総てにルビ(但し、これを一般に「総ルビ」と称する)附されてあるが、五月蠅いだけなので、示した方が躓かないと判断した箇所にのみ、読みを附した。踊り字「〲」(ルビにのみある)は生理的に嫌いなので正字で示した。

 なお、一部、改行かどうかが物理的に判断出来ない箇所が一箇所あり、それは前後の表現様式から改行し、地の文内で改行しているにも関わらず、次行で一字空けがない箇所一箇所は、不自然なだけであるから、私の判断で一字下げを行った。また、直接話法の一箇所が文末に句読点等がなかったが、ここは句点よりも以前のシークエンスに徵して、口の中での唱えであっても、「!」であるべきでところと私は判断し、それらは特に注を入れぬが、底本と比べて戴ければ、判る。而して、この一番目の改行と、三番目の「!」は、電子化終了後に発見した以下に示した宇野の全集所載の、初出直後に書き変えたもので確認することが出來、私の判断した改行と「!」とになっていることが確認出来た。但し、二つめの改行はそちらでは、改行せずに続けているのであるが、私は底本の童話集を読んだ子どもたちの立場に立って、それに従わずに一字空け改行のままとして変更しないこととした。

 ところが、以上を電子化した後に、改めて国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、表記と内容が異なるものを(正字正仮名の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」のこちらに見出した。それが、

■第二番とした電子化ヴァージョンは『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の正字正仮名の同名異稿

である。こちらは、第一ヴァージョンとは異なり、ルビが殆んどなく、漢字表記を格段に多く、表現にも異同が有意に見られ、特にコーダが異なる別ヴァージョンなのである。これは、同全集の「あとがき」によれば、大正九年一月聚英閣刊の単行本『海の夢山の夢』(他の資料で調べたところ、宇野の別な童話集の一冊で、一月十八日発行であるから、本篇初出から一月半後のことである)を底本としているとあるが、ルビが殆んどない点で、底本通りではないだろう。この状態では子供は読めないからである。いや、実は、これは童話の形を借りた、実際には、秘かに大人の読者をターゲットとして書かれたものであることが判然としてくるであろう。本ヴァージョンは、結末部分が大きく異なる点で、無視出来ないものであり、実は、時期的に見て、これこそが、或いは本篇の初出形に最も近い内容である可能性が高いと思われるので、煩を厭わず、後に続けて電子化した。

   *

 さて。実はいろいろと述べたいこと(種明かし)はあるのだが、読み始めると、まんず、芥川龍之介好き(宇野浩二ではない)の方なら、この話、何だか、モヤモヤしてくるに決まってる。……それらについては、二種のテクストを示した後、一番、最後に種明かしをすることと致そう。……まずは、まず、童話を、お楽しみあれかし!

 

 

■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版

 

     

 

        

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大へんいたづらずきな男がすんでゐました。

 龍介は、兩親には早く死にわかれたのですが、わづかながら財產を殘されましたので、別にこれといふしごともせずに、年中あそんでくらしてゐました。ですから、なほのこと、いたづらすることばかり考へてゐました。

 けれども、毎日のことですから、しまひにはそのいたづらの種もつきてしまひまして、なにもすることがなくて、退屈で退屈でこまつてゐました。

 ところが、ある日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中をかきさがしてゐますと、ふと片すみにへんな小箱があるのが目に止まりましたので、明けて見ますと、中に古ぼけた小さなつちがはひつてゐました。

「何だらう?」と思つて、しばらく首をかしげてゐましたが、やがて龍介は思はず膝をたたいて、

「これはいいものが見つかつた!」と喜びました。

 それは彼の父の金助(きんすけ)が死ぬときに、

「この中には小さなつちがはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶(たから)だからむやみに人に見せてはいけない。またお前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、とにかく、その使ひ方を敎へておかう……」

 といつて、金助がせつめいするには、これはまことふしぎなつちで、たれか人に向つてこれを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、

「あの人の鼻高くなれ!」

 ととなへると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、また

「その人の鼻低くなれ!」

 といふと、その人の鼻がいくらでもつちを振つてゐる間(あひだ)は低くなるといふのでした。

 龍介は、今それを思ひ出しますと、根がいたづらずきな上に、每日退屈でこまつてゐた時ですから、

「どうせ、人間は生身のからだだ。いつなんどき死ぬかも知れないのだから、さつそく使つてやらう。」

 と、かう思ひ立ました。

 ちやうど、その翌日が村のお祭で、鎭守のけいだいに芝居がかかりましたので、彼はそつとその小づちふところにして、何食はぬ顏をして、けんぶつに出かけました。

 見ると、龍介のすぐそばのせきに、おともの女中を三四人もつれた、それはそれはきれいな娘が、同じやうに見物に來てゐました。

 これは、きつとよほどよい家(うち)の娘にちがひないとは、たれが見ても思はれました。

 そこで、「同じためすなら、こんな娘に一つためしてやらう。」と思ひつきましたので、龍介はそつとふところから例の小づちを取り出しまして、誰(たれ)にも氣がつかれぬやうに、

「この娘の鼻高くなれ!」

 と口の中でとなへて見ました。

 すると、思つたとほり、そのきれいな娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。

 面白いので、龍介はてうしに乘つて、いつまでも小づちを振りながら、

「この娘の鼻もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と口の中でとなへつづけました。ところが、娘の鼻は、ずんずんのびて行つて、たうとう向ふの舞臺の背景につかへてしまひました。

 當人(たうにん)の娘はいふまでもありませんが、大ぜいの見物人も、みなみな目を見はつて、

「おやおや、あの肉の柱(はしら)のやうなものは、あれは一たいなんだらう?」

 と口々(くちぐち)にさけびながら、よく見ますと、その柱の根もとが、きれいな娘の鼻なのですから、びつくりしてしまひました。

 そのうちに、舞臺でしばゐをしてゐた役者たちも、しばゐが出來なくなつたものですから、さわぎ出しました。

 しかし、どうにも手のつけやうがありません。

 そのうちに、娘の家(うち)に知らせにゆく者なぞがありしたので、家(うち)からはお醫者やら、人足(にんそく)やらがかけつけて來ました。さうして、やつとのことで、まるで神輿(みこし)をかつぐほどの人數(にんず)で、大の男が大(おほ)ぜいよつて、その鼻をかついで娘を家(いへ)へつれてかへることになりました。[やぶちゃん注:「人足」はこの場合、この豪家に、常時、雇われている、主に荷物の運搬や普請などの力仕事に従事している人夫を指すのであろう。]

 いつの間(ま)にか、それを聞きつたへてあつまつて來た人人(ひとびと)で、娘のとほる道すぢは、けが人が出來(でき)るほどのさわぎでした。

 娘ははづかしいやら、苦しいやらで、氣をうしなつてしまひました。

 やがて、やうやうのことで娘を家(うち)につれて歸りましたが、門(もん)をくぐるのにも、げんくわんを通るのにも、なかなかてまが取れました。それに、今までのやうに、四疊半(でふはん)の部屋では、鼻だけでもはひりきれませんので、幾間(いくま)も部屋をあけはなして、やうやうのことで橫向きに娘をねかしました。

 それから、村の醫者はいふにおよばず、方々(はうばう)の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、なんとかちれうをしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんなふしぎな病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。いくらお禮をいただいても、私どもに手の下(くだ)しやうがありません。」

 といひました。

 さういふわけで、どうにも手のつけやうがなく、家中(うちぢゆう)の者はただうろうろとしてゐるばかりでした。

 兩親はいふにおよばず、あつまつて來たしんるゐの人たちも、途方にくれて、泣いてゐるばかりでした。

 そのうちに、氣つけぐすりだけはきゝましたので、きぜつしてゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために、娘はなほのこと、はづかしいのと、苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつづけました。

 すると、その翌朝(よくあさ)のことでした。おもての通(とほり)を、

「どんななんびやうでも、ちれうするまじなひ! まじなひ!」

 と呼びながら、りつぱな房(ふさ)のついた、そのくせ小さな、古ぼけたつちをふりながら、通る男がありましたので、なんでもためしに呼んで見ようといふので、さつそくその男をむかへました。

 その男とは、いふまでもなく、いたづら者の龍介であります。

 龍介はさつそく病室に通されますと、しさいらしく病人をしんさつするまねをしてから、

「これはめづらしい病氣です。が、御安心なさい。きつと私(わたくし)がなほして上げます。」

 と、いかにもえらさうにいひました。

「なほりますか?」

 と娘の親は、うれしさに、とび立つやうな聲を上げて、

「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがおひとり身なら、どうぞ娘のむこになつて下さい。そして、この家(うち)の後(あと)をとつて下さい!」といひました。

 そこで、龍介はもつたいをつけて、長い間、口の中ででたらめおまじなひのやうなことを唱(とな)へてから、れいの小づちを手に持つて、それをうやうやしくふりながら、口の中で人には聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」

 といひますと、さしもの長い鼻が、しだいしだいに低くなつて、わけなくもとの通りになりました。

 娘はいふまでもなく、兩親の喜びは口でいへないほどでした。

 そこで約束どほり、龍介はその娘のむこになって、まんまとその家の若主人(わかしゆじん)となることになりました。

 で、さつそく、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しにあけてあつた部屋を式場にして、そこに赤いまうせんをしくやら、床の間に花をいけるやら、金びやうぶを立てるやら、大さわぎをして、めでたいこんれいの式をあげました。

 

        

 

 さて、なにをいふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命(いのち)の親(おや)のやうな者ですから、一家(か)の人人(ひとびと)に大へん大事にされましたので、今までよりももつともつときらくな身分になりました。それとともに、からだがますますひまになりましたので、性來(しやうらい)のいたづらずきな龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それにこの家(うち)は、近在(きんざい)での、第一番の物持(ものもち)でしたから、したいはうだいのことが出來るわけで、又どんなことをしても、けつして誰(たれ)もしかるものはありませんでした。

 それといふのも、みな死んだ父の金助がのこしてくれた、あの寶の小づちのおかげだと思ふと、龍介はつくつく父の金助をありがたいと思ひました。

 が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふゆゐごんを思ひ出しますと、ふふくでなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、なんだか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。[やぶちゃん注:「ゆゐごん」戦前には、この歴史的仮名遣が通用していたが、現在は歴史的仮名遣としても「ゆいごん」が正しいとされている。]

 それにしても、いくらしたいはうだいのいたづら出來る身分なつたとはいひながら、すぐそのいたづらの種がつきてしまひましたので、また前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 秋とはいひながら、じこうはまだ夏のとほりで、朝から家(うち)の中が暑くてたまりませんので、龍介は、庭のふんすゐのそばの草原にねころんで、凉(すゞ)しい風に吹かれてゐました。[やぶちゃん注:「ふんすゐ」これも敗戦前は、かく書かれることが圧倒的であったが、中国音韻の研究が進んで、現在は「噴水」の歴史的仮名遣は「ふんすい」でよい。]

 やがて、晝飯もそこへはこばせて、腹ばひになつてそれを食べてしまひますと、又ごろりとあふむけになつて、なにか面白いいたづらをすることがないか、と、しきりに考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、また低く目をおとして、すぐ自分の鼻のさきをながめたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻がれいの小づちでどのくらゐのびるものか、ためして見たくなりました。

 さう思ひたつと、龍介は、

「一生に一度しか使つてはならぬ。」

 といふ死んだ父のゆゐごんも何も忘れてしまひました。

 ちやうど、晝休みのじぶんで、家の者たちはみんな晝ねをしてゐるやうでしたから、

龍介はそつと自分で小づちを持ち出して來まして、またもとのところで仰向けになつて寢ころびながら、

「おれの鼻高くなれ、高くなれ!」

 かう口の中でとなへながら、少しも休まずに、大いそぎで小づちをふりはじめました。

 すると、鼻はだんだんのびて行つて、見る見るうちに、たうとう雲の中(なか)まで入つて行きましたが、てうしに乘つた龍介は、それでもなほ止(や)めないで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」

 と、いつまでもいつまでも、小づちをふつてゐました。

 そのうちに、眠氣(ねむけ)がさして來て、うとうとしながらも、やつぱり少しも小づちをふる手を止(や)めないで、むちゆうで、

「もつとのびろ、もつとのびろ!」といつてゐました。

 と、とつぜん、遠くの鼻のさきの方(はう)が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目をさましました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻ちぢまれ、ちぢまれ!」

 と、となへながら、あらためて大いそぎで、小づちをふりはじめました。が、もう、その時は、いつの間にか、誰(たれ)が見つけるともなく見つけて、家(うち)の人人(ひとびと)も、村の人人も、さてはよその村の人人も、思ひ思ひに一かたまりになつて、このふしぎなありさまを眺めてさわぎ出しました。

 龍介は、それと知ると、きまりが惡いやら、何やらでますますあわてて、むちゆうで小づちをふりまはしましたが、遠くの方の鼻のさきの痛さは、少しもなほらないばかりでなく、ふしぎなことには、小づちをふつて、

「ちぢまれ、ちぢまれ!」

 といふ度(たび)に、だんだん自分のからだが、地べたをはなれて、持ちあがつてゆくのです。

 これは一たいどうしたわけかといふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとどいてゐたので、それが天の川の川上の、たなばた川(がは)といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやどそのたなばた川で、橋をかける工事中だったので、とつぜん川の中からぬツと突き出て來た、ゑたいのしれない柱に、人々は一時(じ)はびつくりしましたが、天國の人人は、地上の龍介よりはもつといたづらずきと見えて、これはさいはひ橋ぐひにいいといふので、にはかにそれに穴をあけてよこげたをさしこんだのでした。

 龍介が遠くの鼻のさきに痛みをおぼえて、目をさましたのは、その時でした。

 ですから、いくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なるほど鼻は短くなつて行くのですが、さきを止められたものですから、からだの方が持ち上げられて行くわけなのでした。

 けれども、如何(いか)にりこうな龍介も、そんなこととは知りませんから、ますますあわてて、

「おれの鼻短くなれ、短くなれ!」

 とさけびながら、やたらに小づちをふりましたが、さうすればさうする程、からだがだんだん上にあがつて行くのでした。

 そのうちに、にはかに空がくもつて來て、ぴかぴかと電(おなづま)が光つて、雷(かみなり)がなりはじめたかと思ふと、たちまち、さつと夕立がふつて來ました。その中を龍介のからだは、ばたばたと手足をはんもんさせながら、上へ上へと上(あが)つて行きましたが、さつきからあまり小づちをふりつづけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立にはげしく打(う)たれたために、その手が次第に冷たくかじかんでしまつたものですから、たうとう天まで行(ゆ)かないうちに、小づちをおとしてしまひました。[やぶちゃん注:最後の「小づち」の「づち」は傍点がないのは、ママ。]

 ですから、龍介は、いまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとどかず、地にも落ちず、雲の中に宙(ちう)ぶらりになつてゐるさうです。

 

 

■『宇野浩二全集』第九巻(昭和四五(一九六九)年中央公論社刊)の所収版

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。ルビは完全に採用した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部、物理的に改行かどうかが判らない部分は、私の判断で改行した箇所がある。特にそれは指示しない。]

 

 龍介の天上

 

        

 

 今は昔、あるところに、龍介といふ、大變いたづら好な男が住んでゐました。彼は、兩親には早く死に別れたのですが、僅ながら財產を殘されましたので、別にこれといふ仕事もせずに、年中遊んで暮らしてゐました。ですから、尙のこと、いたづらすることばかり考へてゐました。けれども、毎日のことですから、終(つひ)にはそのいたづらの種も盡きてしまつて、何もすることがなくて、退屈で退屈で困つてゐました。

 ところが、或日のこと、龍介は何かいたづらの種はないかと思つて、押入の中を搔き探してゐますと、ふと片隅に變な小箱があるのが目に止りましたので、開けて見ますと、中に古ぼけた小さな槌が入つてゐました。

「何だらう?」と思つて、暫く首を傾(かし)げてゐましたが、やがて龍介は思はず膝を叩いて、「これはいゝものが目付(めつ)かつた!」と喜びました。それは彼の父の金助が死ぬ時に、

「この中には小さな槌がはひつてゐる。これは家(うち)の大事な寶だから無暗に人に見せてはいけない。又お前もこれは一生に一度しか使つてはならないよ。だが、兎に角、その使ひ方を敎へておかう……」と言つて、金助が說明するには、これは誠不思議な槌で、誰か人に向つて、これを振りながら、こちらの思ふ高さになるまで、「あの人の鼻高くなれ!」と唱へると、その人の鼻がいくらでも高くなるし、又「その人の鼻低くなれ!」といふと、いくらでも槌を振つてゐる間は低くなると言ふのでした。

 龍介は今それを思ひ出しますと、根がいたづら好きな上に、每日退屈で困つてゐた時ですから、「どうせ、人間は生身のからだだ。いつ何時死ぬかも知れないのだから、早速使つてやらう。」と斯う思ひ立ました。で、丁度、その翌日が村のお祭で、鎭守の境内に芝居が掛りましたので、彼はそつとその小槌をふところにして、何食はぬ顏をして、見物に出かけました。

 見ると、龍介のすぐ傍(そば)の桝に、お供の女中を三四人も連れた、それはそれは奇麗な娘さんが、同じく見物に來てゐました。これは、屹度餘程よい衆の娘に違ひないとは、誰が見ても思はれました。そこで、同じ試すなら、こんな娘に一つ試してやらう、斯う思ひつきましたので、龍介はそつと懷から例の小槌を取り出しまして、誰にも氣がつかれぬやうに、それを振りながら、

「この娘の鼻高くなれ!」と口の中で唱へて見ました。すると、案の定、その奇麗な娘の鼻が、見る見るうちに高くなつて行きました。面白いので、龍介は調子に乘つて、いつ迄も小槌を振りながら、「この娘の鼻もつと延びろ、もつと延びろ!」と口の中で唱へつゞけましたところが、娘の鼻は、ずんずん延びて行つて、到頭向うの舞臺の背景に迄つかへてしまひました。

 當人の娘は言ふ迄もありませんが、おほ勢の見物人も、みなみな目を見張つて、

「おやおや、あの肉の柱のやうなものは、あれは一體なんだらう!」と口々に叫びながら、よく見ますと、その柱の根元が、奇麗な娘の鼻なのですから、吃驚(びつくり)してしまひました。そのうちに、舞臺で芝居をしてゐた役者たちも、芝居が出來なくなつたものですから、騷ぎ出しました。

 しかし、どうにも手の附けやうがありません。そのうちに、娘の家に知らせに行く者なぞがありしたので、家からはお醫者やら、人足(にんそく)やらが駈けつけて來ました。そして、やつとのことで、まるで神輿をかつぐ程の人數で、大の男がおほ勢寄つて、その鼻をかついで、娘を家へ連れて歸ることになりました。いつの間にか、それを聞き傳へて集つて來た人々で、娘の通る道筋は、怪我人が出來るほどの騷でした。娘は恥しいやら、苦しいやらで、氣を失つてしまひました。

 やがて、漸くのことで娘を家に連れて歸りましたが、門をぐゞるのにも、玄關を通るのにも、中々手間が取れました。それに、今迄のやうに、四疊半の居間では、鼻だけでもはひり切れませんので、幾間も部屋を明け放して、漸うのことで橫向きに娘を臥(ね)かしました。それから、村の醫者は言ふに及ばず、方々の村々、遠方の町々から、呼べるだけのお醫者を呼んで、何とか治療をしてくれと賴みましたが、どの醫者もどの醫者も、

「こんな不思議な病氣は、今まで話にも聞いたことがありません。どんな本を見ても、こんな病氣のことは出てゐません。とても、いくらお禮をいたゞいても、私(わたし)どもに手の下(くだ)しやうがありません。」と言ひました。

 さういふ譯で、どうにも手の附けやうがなく、家中(うちぢゆう)の者は唯うろうろとしてゐるばかりでした。兩親は言ふに及ばず、集つて來た親類の人たちも、途方に暮れて、泣いてゐるばかりでした。そのうちに、氣附藥だけはきゝましたので、氣絕してゐた娘はやつと正氣にかへりましたが、そのために娘は尙のこと、恥かしいのと苦しいのとで、一晩ぢゆう泣きつゞけました。

 すると、その翌朝(よくてう)のことでした。表の通を、「どんな難病でも、治療するまじなひ! まじなひ!」と呼びながら、立派な房のついた、その癖小さな、古ぼけた槌を振りながら、通る男がありましたので、何でも試しに呼んで見ようといふので、早速その男を迎へました。

 その男とは、言ふ迄もなく、いたづら者の龍介であります。龍介は早速病室に通されますと、仔細らしく病人を診察する眞似をしてから、

「これは珍しい病氣です。が、御安心なさい。屹度私がなほして上げます」と、如何にも自信ありげに、言ひますと、

「なほりますか?」と娘の親は、嬉しさに、飛び立つやうな聲を上げて、「もしなほりましたら、娘はあなたにさし上げませう。また、あなたがお獨り身なら、どうぞ娘の婿になつて下さい。そしてこの家(いへ)の後(あと)をとつて下さい!」と言ひました。

 そこで、龍介は勿體をつけて、長い間、口の中で出鱈目のおまじなひのやうなことを唱へてから、さて例の小槌を手に持つて、それを恭々しく振りながら、口の中で聞えぬやうに、

「この娘の鼻低くなれ、低くなれ!」と言ひますと、さしもの長い鼻が、次第々々に低くなつて、難なく元の通りになりました。

 娘はいふ迄もなく、兩親の喜びは口で言へないほどでした。そこで約束通り、龍介はその娘の婿になって、まんまとその家の若主人となることになりました。で、早速、今まで、娘の鼻のために、ぶツ通しに開(あ)けてあつた部屋を式場にして、そこに赤い毛氈を敷くやら、床の間に花を活けるやら、金屛風を立てるやら、大騷ぎをして、目出たい婚禮の式を擧げました。まづは、めでたし、めでたし。

 

        

 

 さて、何を言ふにも、龍介はその家(うち)の一人娘の命の親のやうな者ですから、一家の人々に大へん大事にされましたので、今迄よりももつともつと氣樂な身分になりました。それと共に、からだが益々暇になりましたので、性來のいたづら好な龍介には、まつたくもつてこいの身分なのでした。

 それに、この家は近在での、第一番の物持でしたから、したい放題のことが出來るわけで、又どんなことをしても、決して誰も叱る者はありませんでした。それといふのも、みな死んだ父の金助が殘してくれた、あの寶の小槌のお蔭だと思ふと、龍介はつくづく父の金助を有難いと思ひました。が、また、一生に一度しか使つてはいけないといふ遺言を思ひ出しますと、不服でなりませんでした。もう自分が生きてゐるうちに、あれが使へないのかと思ふと、何だか使つてしまつたのを、後悔するやうな氣にさへなりました。それにしても、いくらしたい放題のことが出來る身分とは言ひながら、直(すぐ)もうするいたづらの種が盡きてしまつて、又以前のやうな退屈な日を送らねばならなくなりました。

 或秋の始めのことでした。秋とはいひながら、時候はまだ夏のとほりで、朝から家の中が暑くてたまりませんので、龍介は庭の噴水の傍の草原に寢轉んで、涼しい風に吹かれてゐました。やがて、晝飯もそこへ運ばせて、腹這ひになつてそれを食べてしまふと、又ごろりと仰向けになつて、何か面白いことがないか、と頻(しきり)に考へてゐました。

 さうして、ぼんやりとして、高い、靑い空を見上げたり、又低く目を落して、すぐ自分の鼻の尖(さき)を眺めたりしてゐますと、ふとこの自分の鼻が例の小槌でどの位延びるものか、試して見たくなりました。さう思ひ立つと、龍介は、「一生に一度しか使つてはならぬ」といふ、死んだ父の遺言も何も忘れてしまひました。丁度、晝休みの時分で、家の者たちは皆晝寢をしてゐるやうでしたから、彼はそつと自分で小槌を持ち出して來まして、また元の所で仰向けになつて寢轉びながら、

「俺の鼻高くなれ、高くなれ!」

 斯う口の中で唱へながら、少しも休まずに、大いそぎで小槌を振り始めました。すると、鼻はだんだん延びて行つて、見る見るうちに、到頭雲の中まで入つて行きましたが、調子に乘つた龍介は、それでも尙止(と)めないで、

「もつと延びろ、もつと延びろ!」と、いつ迄もいつ迄も、小槌を振つてゐました。そのうちに眠氣がさして來て、うとうとしながらも、やつぱし少しも小槌を振る手を止めないで、夢中で「もつと延びろ、もつと延びろ!」と言つてゐました。と、突然、遠くの鼻の尖の方が、ちくりちくりと痛むのを覺えましたので、龍介はびつくりして、目を醒しました。

 龍介は急にあわて出して、

「俺の鼻縮まれ、縮まれ!」と唱へながら、改めて大急ぎで、小槌を振り始めました。が、もう、其時は、いつの間にか、誰が目付(めつ)けるともなく目付けて、家の人々も、村の人々も、さてはよその村の人々も、思ひ思ひに一團になつて、この不思議な有樣を眺めて騷ぎ出しました。龍介は、それと知ると、氣まりが惡いやら、何やらで、益々あわてゝ、夢中で小槌を振り𢌞しましたが、遠くの方の鼻の尖の痛さは、少しもなほらないばかりでなく、不思議なことには、小槌を振つて、「縮まれ、縮まれ!」と言ふ度に、だんだん自分のからだが、地面を離れて、持ち上つて行くのです。

 これは一體どうした譯かと言ふと、龍介の鼻はいつの間にか天までとゞいてゐたので、それが天の川の川上の、あくた川といふ川を突き拔けたのです。すると、丁度そのあくた川で、橋を架ける工事中だったので、突然川の中からぬツと突き出て來た、異樣な柱に、人々は一時は吃驚しましたが、天國の人々は、地上の龍介よりは更にいたづら好と見えて、これはさいはひ橋杭にいゝといふので、俄にそれに穴をあけて橫桁をさし込んだのでした。

 龍介が遠くの鼻の尖に痛みを覺えて、目を醒ましたのは、その時で、それからいくら「俺の鼻短くなれ!」と叫んだところが、なる程鼻は短くなつて行くのですが、尖を止められたものですから、からだの方が持ち上つて行くわけなのです。

 けれども、如何に利口な龍介も、そんなこととは知りませんから、益々あわてゝ、「俺の鼻短くなれ、短くなれ!」と叫びながら、矢鱈に小槌を振りましたが、さうすればさうする程からだが段々上に上(あが)つて行くのでした。

 そのうちに、俄に空が曇つて來て、ぴかぴかと電(いなづま)が光つて、雷が鳴り始めたかと思ふと、忽、さつと夕立が降つて來ました。その中を龍介のからだは、ぱたぱたと手足を煩悶させながら、上へ上へと上つて行きましたが、さつきから餘り小槌を振りつゞけてゐましたので、手がしびれて來ました上に、夕立に激しく打たれたために、次第に冷たく凍(かじ)かんでしまつたものですから、到頭天まで行かない小槌をおとしてしまひました。(その後(のち)、その小槌を拾つたのは、大黑といふ大へん肥つた男だともいひますし、又一說には、心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男が、實はそつと拾つて持つてゐるといふことです。)[やぶちゃん注:「ぱたぱた」はガンマ補正をかけて、周囲のそれらと比較した結果、濁点ではなく、半濁点と判断した。また、最後の丸括弧部分は第一ヴァージョンにはない。]

 餘談はさておき、ですから、龍介はいまだに雨が降つても、風が吹いても、雷が鳴つても、天にもとゞかず、地にも落ちず、雲の中に宙ぶらりになつてゐるさうです。(今では又、彼はすつかりをさまつてしまつて、俺は雲を起し、風を吹かす、傀儡師だと言つて、威張つてゐるとも言ひます。)[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分も第一ヴァージョンにはない。]

 けれども、下界の人々はそんなことは知りませんから、龍介は天上したのだと思つてゐます。めでたし、めでたし。[やぶちゃん注:この最終段落も第一ヴァージョンにはない。]

 

[やぶちゃん注:再度示すと、本篇を宇野浩二が発表したのは大正八(一九一九)年十一月である。

 而して、芥川「鼻」は、大正五(一九一六)年二月十五日に『新思潮』に発表され、それが夏目漱石(本名は夏目である)の激賞を受けて、華々しく文壇にデビューしたことも御存知の通りである。「鼻」を含む芥川龍之介の処女作品集『羅生門』の刊行は大正六(一九一七)年五月(阿蘭陀書房)刊である。

 私は古くに、宇野の盟友芥川龍之介を追懐した力作である「芥川龍之介」を、ブログ・カテゴリ『宇野浩二「芥川龍之介」』で七十七分割で電子注し、直後にサイト版として、それらをブラッシュ・アップして、上巻一括及び下巻一括とに二分割して公開しているが、ブログ分割版の「宇野浩二 芥川龍之介 六」で、宇野自身が、この「龍介の天上」について述べているので読まれたいが、冒頭注で宇野が述べた初出の付記にある、『オランダ國の詩人、ラメエ、デタの著すところ「日本童話集」』という原拠は、「デタ」「ラメエ」=「出鱈目」であり、本篇は、宇野浩二の確信犯の芥川龍之介に対する、かなり露骨にして辛辣なカリカチャライズされた童話仕立てにした揶揄(からか)いの小品なのであり、宇野自身が以上の「六」で、『私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。』とあるのである。「六」の最後に以下のようにある。

   *

 ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取〔おんどとり〕は芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押ししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。

 そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。

 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行〔おこな〕われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)

 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、

「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。

「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。

 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

   *

とあるのである。ここには、事実の時制との決定的齟齬がある。これは、宇野の記憶違い、或いは、病的な(後述)記憶齟齬があると考えてよい。

 ともかくも、この露骨な宇野の行為を、寧ろ、芥川龍之介は好意的に捉え、以降、逆に宇野浩二と非常に懇意となり、芥川の最晩年、宇野が重い精神疾患を発症した際にも(後に脳梅毒によるものと判明している。宇野が入院している最中に芥川龍之介は自殺しているが、後に固定治癒している。私が「固定」と添えている理由は、発症以前と、治癒の後の彼の文体に、かなり激しい変異が見られると考えているからである)、率先して、彼の入院や、家族への気配りをしていることも、よく知られている。

 このかなりキツい小説を読みながら、私は、後の二人の固い友情の形成を、正直。羨ましく思うのである。

 また、第二ヴァージョンの「大黑といふ大へん肥つた男」「心王羅漢とかいふ、これも大へん肥つた男」というのも、恐らく特定人物のカリカチャーで、例えば、芥川作品の御用達であった『中央公論』の編集長の滝田樗陰とか、『大阪毎日新聞』社学芸部部長で、芥川龍之介を社員として招聘した詩人薄田泣菫などを想起するが、これは私の思いつきに過ぎず、「小槌」を持っている肥った作家となれば、芥川龍之介のライバル谷崎潤一郎なども浮かぶ。

 なお、本篇には、発表時期が以上の二つの間に当たる時期の、昭和七(一九三二)年十月に刊行された宇野の童話集『海こえ山こえ』 (春陽堂・『少年文庫』第十一)の中に、「長鼻天つく」という標題に変えた、別ヴァージョンが。今一つ、ある。ただ、その内容は、ほぼ、先に掲げた、「■単行本童話集『龍介の天上』(昭和二一(一九四六)年弘文社刊)所収版」と同じで、最後に、『何(なに)といたづらのばつは恐(おそ)ろしいではありませんか。』(太字は原本では傍点「﹅」)と添えてあるもので、私には、電子化する食指が全く動かない。幸い、これは、国立国会図書館デジタルコレクションで、『ログインなしで閲覧可能』の『インターネット公開(保護期間満了)』であり(当該篇はここから)、誰もが視認出来るので、見られたい。宇野は芥川龍之介の自死後、病気から恢復した、推定で、遅くとも、昭和五、六年頃に(この時期、宇野は盛んに童話を書いている。当該ウィキを参照されたい)、芥川龍之介を辛辣に弄った初出形を、せめても、自殺を決意していながら、最後まで自分を労わって呉れた龍之介との、出逢いの思い出の形見として、ソフトに変容させ(標題の変更が明らかにそれを意味していると私は思う)、書き直しをしていたことが判然とするのである。

 最後に。龍介は娘を貰って結婚しているが、芥川龍之介は、この前年の大正七年二月二日に文と婚姻している。しかし、私は龍介が、騙して女を手に入れているのが、妙に、気になるのである。無論、これは偶然なのだが、実は、この大正八年の九月、芥川龍之介は、秀しげ子と深い不倫関係に堕ちていることが、真っ先に想起されたからである。]

2023/05/10

佐々木喜善「聽耳草紙」 七〇番 地藏譚(五話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    七〇番 地藏譚

 

     石地藏の笠 (其の一)

 或所に爺と婆があつた。爺は每日山に行つて柴を刈つて、それを町へ持つて行つて賣つて、クラシて居た。

 ある日のこと、いつものやうに刈つた柴を町へ持つて行つた歸りに野中を通ると、大雨の中で石地藏樣が雨に濡れて居るので、爺樣は氣の毒に思つて、町へ引返して行つて、柴を賣つた金で笠を買つて來て被(カブ)せてやつた。

 其夜はそんな事をして米を買つて歸らなかつたので、婆樣に其譯を話すと、婆樣もそれはよい事をしたと言ふので、有り合せの殘り物で夕飯を食べて寢た。

 其翌日山へ行く途中で、昨日の地藏樣の前を通ると、地藏樣が、爺樣々々と呼び止めて、昨日の御禮を言ひ、そして何か爺樣サ御禮をしたいが俺には何にも無い。たゞ今夜夜半頃に來て俺の蔭に隱れて居れ。さうすると每夜のやうに來る博突打ちどアが來るから、其時お前は鷄の鳴き眞似をやれや、そうすると[やぶちゃん注:ママ。]博突打ちどアびつくりして金をみんな此所に置いて逃げて行くからそしたらイン攫《さら》つて行き申せと敎へた。

 其夜、爺樣が其石地藏の蔭に隱れて居ると、いかにも博突打ちどア來て、博突を始めた。爺樣は程よい刻限を見計つて、

   コキヤコノヨウ

 と鷄の鳴聲をすると、博突打ちどア、あれアハア一番鷄だツと言つた。爺樣がまた、鷄の鳴き眞似二度續けると、あれアはア三番鷄だツ夜が明けたら大變だツ、と言つて大あわてにあわてゝ金を其所ら一面に置いて行つてしまつた。

 爺樣は其金を拾つて、地藏樣にお禮を中して、家に持ち歸つて金持になつた。

 (秋田仙北郡角館小學校高等科、淸水キクヱ氏の筆記。
  此後段にその眞似して失敗をした爺樣の話もなく、又
  博突打ちを鬼とも言つてゐないのである。それでも鷄
  の聲を恐れる事は如斯《かくのごとく》であつた。昭
  和四年某月。武藤鐵城氏御報告の分の七。)

[やぶちゃん注:「イン攫《さら》つて」「イン」不詳。単なる方言の、動作を起こす際の接頭語か。或いは「引」で、「さっと引き受けて」と言った意味か。

「秋田仙北郡角館小學校」恐らくは正式には当時は「角館尋常高等小學校」で、現在の秋田県仙北市角館町(かくのだてまち)東勝楽丁(ひがしかつらくちょう)のここが跡地(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの碑を見ると、「角館小学校跡」とあって、下方に明治七(一八七四)年六月二日創立と記されてある。]

 

        地藏の木曳 (其の二)

 貧乏な爺樣婆樣があつた。大晦日が來たけれども、魚も米も味噌もなんにもない。一年一杯稼(カセ)いで貯(タ)めた三百文ばかりの錢があるから、それを持つて行つて歲取仕度《としとりじたく》をして來るべえと言つて、爺樣は町へ行つた。そして恰度《ちやうど》地藏堂のある所まで行くと、御堂が甚(ヒド)く破壞(コワ[やぶちゃん注:ママ。])れて、この雪降りに小さな地藏樣も大きな地藏樣もみんな雪を吹ツかけられて眞白くなつて居た。

 爺樣はそれを見て、これは勿體のない事だ。俺ア爺婆は何も米の飯や魚を食はなくとも齡《とし》は取られる。これは第一にこの地藏樣達に頭巾コでも買つて上げなくてはならないと思つて、米味噌買ふ錢で赤い小巾(コギレ)を買つて戾つて、小さな地藏樣から先にかぶせて行くと、大きな地藏樣にかぶせる巾(キレ)が無くなつたから、其地藏樣には自分が着て居た笠と簑(ケラコ)とを脫いで着せかけて、あゝこれでいゝ、これでやつと安心したと言つて、婆樣の所には、ただの手振八貫《てぶらはつくわん》で歸つて來た。そして其譯を話すと、婆樣も神佛に上げる事だから、いゝいことをしたと言つて、燈(アカシ)コ㸃(ツ)けて少し殘つて居た米を炊いて歲取神樣《としとりがみさま》に上げたり食つたりして早く寢てしまつた。

 夜半になると、何處かでごろごろと大木を引くやうな音がするので、爺樣が、婆樣々々あれあの音を聽け、長者どんの若者達ははア起きて木を引いて居るやうだ。ほんとにサと話して居ると、其音が段々爺婆の家へ近くなつて來て、やがて玄關の所で、爺樣々々、爺樣々々と呼ぶ聲がした。誰だか其聲が分らぬので、誰だアでアと訊くと、昨日爺樣から笠を貰つたもんだから一寸(チヨツト)起きろと言ふ。起きても薪が無いから火が燃せねえがアと言うと、外で俺が大きな木を曳いて來たから起きろと云ふ。寒々ながら起きて見ると、外の吹雪の中に大きな地藏樣が三人で大きな一抱え[やぶちゃん注:ママ。]もありさうな木を持つて來て玄關先きに置いて、向ふの方へのこのこと行く所であつた。

 爺樣は地藏樣達が昨日の御禮だと言つて、こんな大きな木を曳いて來て吳れたと言つて、婆樣と二人で大きな斧でガキンガキンと割ると、木の中は空洞(ウド)で、中から金銀がざくざくとたくさん出て來た。爺婆は元朝《ぐわんてう》から俄か長者になつた。

 (秋田縣仙北郡角館小學校、高女一、鈴木てい子氏の
  筆記摘要。昭和四年頃。武藤鐵城氏御報告の八。)

 

        糠餅と地藏 (其の三)

 昔ハありましたとさ。ある所に貧乏ではあるけれども正直に暮して居る夫婦があつた。今年も御正月になつたが、餅を揚く米もないから粉糠餅(コヌカモチ)を搗いた。朝早く若水を汲みに行つて、川戶(カド)の御水神樣《ごすいじんさま》に餅を供へてから水を汲むべとして、懷を見ると、入れて來た筈の餅が見えないので、これは事やつた、と思つて其邊を探したが見當らない。それでは此の川戶に(カド)落したかも知れないから見付(メツケ)べいと思つて、段々と川端を探して往くと、川下(カハシモ)に一人の石の地藏樣が居て、にかにかと笑つて居た。地藏樣々々々、俺の餅が此方(コチア)流れて來(コ)なかつたべすかと訊いて見た。すると地藏樣は、あゝ來たケ來たケ、俺が今御馳走になつたとこだと言つて、頰に粉糠を着けて居た。男は、そだば良(エ)ます良(エ)ますと言つて地藏樣を拜んで歸つて、元の川戶から水を汲んで戾つて來ると、水桶が段々重たくなつて、一足々々せつなくなつて來た。これは不思議なこともあるものだと思つて、家へ歸つてから、中を覗いて見ると、桶の中には水では無くて米だの黃金《こがね》だのがズツパリ(多く)入つてをつた。これは地藏樣の御授けだと喜んで、今まで貧乏だつた家が俄か長者になつた。

[やぶちゃん注:「粉糠餅(コヌカモチ)」玄米を精白する際、その表皮が細かく砕けてできた粉で作った餅。

「川戶(カド)」集落を貫流する川、或いは、その畔(ほとり)。]

 隣家の欲張り爺が其話を聞いて、俺もと思つて餅を懷に入れて水汲みに出かけた。そして何とかして餅を川戶に落さうと試みたがなかなか落ちない。仕方がないから川に投げ入れて流して遣つた。すると案の定地藏樣は居つたが不機嫌な顏をして居た。其所で食い[やぶちゃん注:ママ。]たいとも言はない地藏樣の口に餅を無理矢理におつぺし込んで歸つて來た。そして元の川戶から水を汲んでさげて來ると、段々家の近くになるにつれて桶が重たくなつたので、これは俺も果報が來て長者になると思つて、大喜びで家に駈け込み、中を見ると、馬の骨骸(ホネガラ)や牛(ベコ)の糞だの、なんともかんとも云へない程汚い物許り入つて居た。

 (岩手郡の北部地方の東根とも云はれる川口地方に
  ある話、摘要。田中喜多美氏御報告の分八。)

 

        地藏の酒 (其の四)

 昔ありましたとさ。或所に一人暮しの爺樣があつて、今日は町さ用足しに行つて來るべいと思つたが、留守居がないので、隣家の婆樣にヤドヰを賴んだ。隣りの婆樣々々、俺あ今日町さ用足しに行つて來るだス、俺家さ來てヤドイして居て給れでアと賴むと、婆樣はすぐ來てくれた。

 爺樣は家を出る時、婆樣々々奧の座敷はゼツテエ開けてケてはならねぜと言つた。すると婆樣は、はいはい用の無いもの何しに開けるベアと言つて、猫に這入《はい》つて(猫のやうに爐中《ひぼとうち》[やぶちゃん注:ここのそれは説明するためから考えれば、後代の「炬燵(こたつ)の中」の意であろう。]に入つてと謂ふ形容)あたつて居るので、爺樣も安心して出かけて行つた。

 爺樣が遠く居なくなると、隣家の婆は、爺樣が見るなと言つた奧の座敷が見たくて耐《たま》らない。奧の座敷に何か隱してあるに違ひない、見てケませうと思つて、拔足差足で行つて戶を開けて見ると、地藏樣が居て、其鼻の穴から何だかタチリタチリと湧いて下に置かれた瓶(カメ)に溜まつてゐた。これは不思議だと思つて指を入れて搔き廻して見ると、プンと佳《よ》い酒の香りがする。舐めて見ると何とも云はれない佳い酒なので、少し飮んで見るべと思つて飮むと、とても耐《こた》えられないので[やぶちゃん注:ママ。]、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]瓶の酒をみんな飮んでしまつた。

 けれども其酒を飮んだことを隱すべえと思つて、地藏の鼻穴を大きくしてうんと酒を出さうとして、柴ツ木でボキボキと突(ツ)ツつき廻すと、地藏の鼻は缺けて落ちたが、酒がヅツタリ湧かなくなつた。仕方がないから水を汲んで來て瓶に入れて置いて、自分は知らんふりをして爐(ヒボト)へ來てネコに入つて[やぶちゃん注:不審。「ネコに入(まぢ)つて」とでも読むか?]眠つた眞似をして居た。

 其所へ、今歸つたと言つて爺樣が歸つて來た。お早かつたなす。それで俺ア歸つてもよかべだす、家さ行くアなすと言つて婆樣は歸つて行つた。

 其後で爺樣が奧座敷サ行つて見ると、地藏樣の鼻は缺け、酒は湧いてゐないので、これはジヨウヤ(屹度《きつと》)隣の婆樣の仕業《しわざ》に違ひないと思つて隣の家サ行つて、奧座敷をあれ位開けてケるなと言つたのに、お前だべ瓶の酒を飮んでから、地藏樣の鼻ア缺いたのはと言ふと、婆樣は何しに俺は奧座敷の地藏を知るべやと言つたとさ。

 (岩手郡川口地方の話。田中氏の御報告の分の九。
  藤本と云ふ人の奧さんから聽いたと謂ふものの
  
中。)

[やぶちゃん注:「岩手郡川口地方」岩手県岩手郡の北部にあった川口村。現在の岩手郡岩手町川口(グーグル・マップ・データ)。]

 

         黃金をひる地藏 (其の五)

 或所に爺と婆があつた。爺は用足《ようた》しに町サ行くので、婆ア婆ア今日俺は用足しに行つて來るだす、まつたく奧の座敷を開けて見てはならないぞと言つて出掛けた。

 婆は、あの人は何時(イツ)も一人で奧座敷さ行つて居るが、何か隱してあるに違ひないと思つて、奧の座敷を開けて見ると、地藏樣が棚の上に在《あ》つて、其尻穴から金粒《きんつぶ》をぽれぽれと出してゐた。

 これだなアよしよし金をうんと產(ナ)させて遣《や》れと言つて、婆樣が燒火箸《やけひばし》で其穴をヂリヂリと大きく燒きはだけると、其地藏樣は金をひるどころか、ブンと呻《うな》つて何處(ドツカ)へ飛んで行つてしまつた。

 其家は段々貧乏になつた。(前同斷の一〇。)

[やぶちゃん注:附記の位置はママ。底本では次で改ページとなるので、校正時に佐々木がそう変更したか、或いは、植字工が勝手に節約して成したものかとも思われる。]

大手拓次 「幻は月を刻む」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。

 なお、本篇を以って編年体パートの『散文詩』からのチョイスは終わる。]

 

  幻は月を刻む

 

 まぼろしは 月をきざんでゐる。薔薇の形に。散らうとする意志をふくむ 滿開のばらの形に。

 まぼろしは 言葉にならない音をきざんでゐる。魚のおよぐ形に。丘にのぼらうとする小魚のむらがる 心の形に。

 

 まぼろしは 無心(むしん)の口笛をふいてとどまり、

 おびただしい稜角をもつて表現をおさへてゐる。

 

大手拓次 「初めの言葉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  初めの言葉

 

 消えゆく草のうへに坐して、靑空の深みにまたたく星辰(せいしん)の掌(たなごころ)に眠りをはらむわがともがらの、その白き手に人の世のくさぐさの花はひらかれむとす。

 さびしき徵笑は、たゆるなき銀の梵鐘をうちならしつつ、霽(はれ)と雨とのけはひを誘ふならむか。

 咲けよ、われらの歌の生(い)き花(ばな)。

 にほひ高き水色のちさき花、もゆるくれなゐの花、闇に溶くる臙脂(えんじ)の花、嵐のごとく頂(いただき)にひしめく群花(むればな)、蒼白の湖水を吹きあぐる眞冬の花、紫の夢をささやくしだり花、さては路のべに立迷ふ靑と黑との斑(まだら)の狂ひ花、雪白(せつぱく)の朝(あした)の花、哀しみに埋るる遠空(とほぞら)の新月の花、南風に羽づくろひする雛鳥の花、あるは手のなかに笑ふ押花(おしばな)、指頭にたはむるる陽炎(かげらふ)の花、魂の扉にそうて嘆く淡紅色(ときいろ)の花、淚に暮るるうすずみの戰(をのの)く悶えの花、時としてはさめざめとして氷河を涉る半開の失意の花、花と花とにかこまれたる大いなる黃金の日輪草。

 われらはまことの心もてひたすらに合掌す、かなたの空しきなかにそびゆる神ヘの祈りをこめて。

 われらの歌は、祈りのおもかげにすぎず。

 われらの歌は、地に生(お)ふる祈りの移り香にすぎざるなり。

 

[やぶちゃん注:「埋るる」「うづもるる」と訓じておく。「うもるる」よりも、この前後の音律と詩想から、私は前者を採るものである。]

大手拓次 「内部にひらく窓」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  内部にひらく窓

 

 一切を超えようとするものの力弱さに わたしは遙に梢をのぼる月しろのやうな おぼろにひろがりゆく世界の消息をおぼえる。

 窓がひらかうとしてゐるのではないだらうか。

 ふみしだかれた雜草の呼吸のなかによみがへるものは ひかりある淨らかさをもつて ばうばうと炎上する。さはれ、みえざる光背を感じつつ野の小徑をたどるもののさびしい相貌のおもてに 魚は映りきて日每の默禱の糧をあたへるのである。

 時のきざみのかたはらに 永遠の窓がひらかうとしてゐるのであらうか。

 いろもない現實のひびきは 器をやぶつて啼きかはし、大いなる水のやうにながれうつるのである。

 

大手拓次 「鋏で切りとつた風景」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  鋏で切りとつた風景

 

 むらさき色の ぼんやりとした なまなましい溫氣(うんき)の霧の扉がひらいたりとぢたりしてゐた。彼はふかい沈默の潮流のなかでなめくぢのやうに踊りををどつてゐた。はてしない影が斷崖のひだのやうに ふかぶかとめぐつてきて、彼をおしつけた。かるく手をゆるめたり、またひしひしと濁流のやうにそそぎかけた。

 彼の感情の扇はしづかにひらいて、まつくらな靑い空氣の花粉のなかで息をした。化粧した毒蛇のやうな太い線がもりあがつてきて笑ひをころしてゐるのだ。靑い蟲が水色の帽子をつけて、右へ左へ往來し、ふくらんでくる足をもちあつかひながら、その苦しさに蓋をして樂しんでゐた。

 そよぎの爆彈がぽつぽつと彼のからだからぬけでて、輪をかき、遠くの庭の草の葉つぱのうへで眼かくしをしてゐた。

 絹のきれで拵つたやうな彼の手のひらは、しきりになめらかになり、うつろになり、しとしとと汗ばんできた。指は五つの生きもののやうに語りあつて寄りそひ、蝶蝶色(てふてふいろ)の音をたてた。爪は王冠のやうに指の自由をふみしだいてゐた。

 爪はさみしく胡弓のいとをひいてゐた。

 彼の唇は一疋の蛙だ。その蛙のまへにやはらかいものが動いてゐた。ぶよぶよしたあつたかいものが、魚のやうになまめかしく匂つてゐた。蛙は闇のなかで風をかんじた。

 ほの明るさが絲のやうにあたりをぬつていつた。

 ももいろの あをあをした乳房の月が 彼のあたまのなかを步いてゐた。

 

[やぶちゃん注:「拵つた」底本には、ルビはない。「拵」は刀剣用語では「こしらへ」の読み以外に、「つくり」の読みがあるから、ここは「つくつた」と訓じてよい。

「唇」底本通り。先行する散文詩「霧のなかに蹄を聽く」や、それより前の複数の詩篇で、底本では、原氏は「脣」の字を用いている。されば、この原稿のここでは、「唇」の字を拓次自身が使っていると判断さられることから、この表記のママとした。

「絲」詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

2023/05/09

大手拓次 「指の群」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  指 の 群

 

 ほがらかなおほきさのなかに、とりとめもない ありとしもないたはむれをむすび、そのあたりに泉をかもさうとするわざは、風韻のかげをうすらげ、いたづらに生のなやみをふみしだく たよりない盲目のながめである。

 風景はうつりきたり、また泡のやうにきえさつてゆくのである。それとなく置かれた手のまはりに黃金(きん)の環(わ)をゑがいて、あざなはるしらせをはしらせる運命のおとづれである。

 やぶれた帆でさへも、波を欲するのである。

 

 いま、わたしの手のなかにおちてくるさざめやかな貌(かげ)は、あをあをとした空靈の世界である。

 なかばひらいたままうつろひゆく花のおもひをそそがれ、ねむられぬ夜夜(よるよる)を茫然となまめかしくするのである。

 ろうろうとした細い流れにひたり、わたしのひだりのくすり指の根のくぼみを見惚れ、そのやはらかいおもざしにひたつてしみじみとやさしさを掘るのである。そのみづみづしい指のかほだちに、おきどころなく瀲灔(れんえん)としてあをめく思ひがあふれてくる。

 想念の流れのおもてをむいてゐるとき、ものはしづかに浮び、そのところへおもむくのである。色多く、ねいろ多く、淸らかに新綠のしろめくそよぎであり、おともないどよもしである。はかりがたい空間と時間とをいよいよこえて、かなたにうつりすむのである。

 これは表現の跳(はねばし)橋である。

 また、うちにむいてうごめくとき、ものはとどこほり、ひそまり、よどむのである。これは宇宙の意志とつながりを斷たれ、はなれてひとりそむく時である。

 このふたつの心情の流れの向きは、つねに逆らひ、相阻(あひはば)んで波立つのである。そのあひだに、身をときはなし、あらしのなかに沒せしめ、あるがままに消えようと

する飽和狀態にいたるのである。

 しづかに花はささなきをもらして、闇のなかにほころびはじめるのである。

 にほひはあたりをこめて、けはひはよそほひをこらし、韻律はかさなりあひ、微光はうつろのやうに動きをもとめ、全身の波はもりあがるのである。

 くづれようとして天心に釣針の絲をたれるのである。

 無心の絲を、無爲の絲を。

 心は黃金(きん)のゆふぐれ、寂びはてて馬をすべらし、あをい雪のなかに思ひでの月をうめてしまふのである。

 このとき、全感覺は湖上をわたり、永劫をくらふのである。

 裸體のままに乳をいだいて哲學するのである。

 心は黃金(きん)のゆふぐれ、ならびゆく僧形(そうぎやう)の馬はけむりである。

 眼をふさげよ。

 心をふさげよ。

 手をふさげよ。

 身をふさげよ。

 すべての四邊の風物をふさいで、閉ぢこもらせよ。

 これらの行ひは無の大皿のうへにをどり、何物かの食欲に待たれるのである。

 言葉の觸手はゆふぐれとなり、ともしびをかかげて、迷ひのなかに明るみをうがつのである。

 古生物の有翅爬蟲類をもちゐて、わたしはそこに幻想を點火し、時代をわたり、あをぐろいあゆみをとほして、皆滅の水邊にとけくづれる。

 ゆがめられ、たわめられ、沼地のなかにおよぎまはつて、まじろき、焦噪と恐悸と悔恨とに追ひかけられ、八裂(やつざき)にされ、轟轟と消えてゆく靑春の旅路を詛ふのである。

 ねずみいろの道化物、

 しろい被(おほ)ひをした吐息をあつめてあをずむ癡呆の滿開。

 うまれたままに死し、死のなかにあゆみをうつし、うつろひ、ひるがへり、ながれさり、べうべうと吠える犬のやうに夜陰に乘じて、虛空に粘着し、驚異の窓をおしひらいて、官能のしぶきに沐浴し、浮動する瞬間をばうばうともえたたせる。

 色あをざめた靈魂は寒林のうちを散策し、雙手に季節をだいて、みづから醱酵し、變態する。

 未知の變態である。

 白綠色(びやうくりよくしょく)の、環狀の、無始無終の、嗜眠的變態である。

 あらゆる指のもぞもぞとうごく月光變態である。

 くさむらにおもてをよごす鬼畜である。

 それは地にうけた洗禮である。

 輝く美貌は、蒼黑い水面のやうにおびえ、波立つ肌とかはり、しきりにも低迷して草木をうゑそだてる。

 わたしのもとめるのは、絕えざる心性の破壞である。怪奇なる綠色鞭毛(りよくしよくべんもう)の破壞につぐに、更に生態の破壞をもつてし、日夜にわたつてらんらんと眼をひらかせるのである。

 夜の大道のなかに白熱の幽靈を犯し、内へ内へとまきこまれる惡血(をけつ)のパントミイムである。

 わたしは、神を拜するとともに甘美なる醜怪なる惡魔の妖婉を禮讃する。

 灰白色のこの婬性の羽はひらいて、どすぐろく麗麗と闊步する。

 わたしの眼に網をかけてうばひさる途上のをとめよ。

 その眼は空想のやうにあをく、のりをひいて、わたしの衣服のところどころに、ほつほつとした螢光をつける。

 それは、をりをりにわたしの感情の食慾を飾るうつくしいパイである。

 街をさまよふみづつぽいこはれやすいフアンシイケエクである。

 あだめいた その銀と金との星星のなかに、わたしは爪をかきいれ、足跡をくらまして、倉皇とにげさる。

 それは指先に鳴る葦笛(あしぶえ)の謎語の闇である。

 

 栗鼠(りす)のごとく全身の針先を逆立たせ、風にそよぐこの感覺圈は、白布をさらして獸性のうちに沈めば、沈むにしたがつて、いよいよ强く宇宙的意志の薰染(くんせん)を感じきたるのである。

 このゆゑに、全感覺の震動的醱酵こそ、象徵のこみちである。

 感覺の重みは、生きたるままに雲煙化する群蜂の消散であり、その瞬間に天上の星座と呼應し、あらゆる觀念は還元し、個個の生活體となつて游泳する。

 この綜合されたる感覺は燃燒して轉生し、その境地を絕し、飛躍し、突如として實在のなかへ奔流する。

 この心境は絕對である。金剛不壞である。

 

 すべての感覺をはびこらせよ。

 すべての感覺を繁らせよ。

 それらの感覺を感覺にのみとどめおくなかれ。はてしなくひろがる感覺のいただきに死をあたへ、無に通じ、有に通じ、明に通じ、暗に通じ、萬法の掌中によみがへり、ひそかにおともなくひらく花。

 この花をわたしは象徴とよぶ。

 感覺より入り、感覺を絕するところに道はあるのである。

 水母(くらげ)のやうにぶよぶよするわたしの感覺はあまりのするどさに、銀色の傘をきてあるくのである。

 しかも、その周圍に頻頻と焦死する芳芬は、あだかも日蝕する燕である。

 いはば、個の肉をつらぬいて、個の靈に入り、更にそれをつらぬいて、全き靈のなかへ開き入るのである。

 これらの感覺の燃燒のいやがうへにも高まり、火と雨とのなかをついて、不可見の未知の未到の無邊際の生生たる創造の世界へ轉身するすがたである。

 感覺は避けることのできないとらはれである。ひとつの媒體である。消えるまでもそれを解きはなてよ。そのいただきに到つて、しめころせよ。

 この、とらはれのなかにこそ韻律は生ずるのである、この肉體的感覺にとらはれることの深ければ深いほど、精神的飛躍は高くなることを得るのである。

 この一見矛盾ともみられる原理は、空間に纏綿するかすかな木の葉のうごきにも似てゐるではないか。

 心をゆすぶれよ。

 ありとある感覺の絹の色絲を能ふかぎりのばし、ひろげ、ときほごし、日に日をかをらせ、飾り、編み、織り、ひかりのごとく遍通せしめよ。かくして、そのおどろくばかりの無數の色絲を、ただひとすぢの透明なる無色の絲となし、形なき絲となしをはるのである。

 色もない、形もない、ばうばうともえてゐる透明なる絲のふるへこそ、わたしの詩のすがたである。

 それは、あらゆるものの眼である。

 ひとつの感覺を八方に廻轉せしめよ。

 ひとつの感覺を八方に放射せしめよ。

 感覺を感覺のままにあらしめてはならぬ。その感覺をして、感覺みづからを越え、絕するところに、ものはあるのである。

 廻轉せしめよ、放射せしめよ、蒸溜せしめよ。

 感覺の切斷面は常に銳角のつながりであり、やすみなき震動體である。

 あまたの感覺をしてみえざるものかげにふるへしめ、そのうへに一輪の花をひらかせるのである。

 感覺の吸收するものは、みどり色の水である。それは、絕えざるあたらしさに濡れてゐるのである。

 もぞもぞと匍ひまはり、うごめく指の群はべとべとにぬれ、幻をよび、時空にむかつてほえてゐる。

 もんしろ蝶は羽をかくし、ひかりをくはへてとびまはつてゐる。

 空間をほれよ、空間をほれよ。

 闇につまづけよ、闇につまづけよ。

 

[やぶちゃん注:「瀲灔(れんえん)」水の満ち溢れるさま。また、漣(さざなみ)が光り煌(きら)めくさま。「灔」の字には、より複雑な「灧」の字体があるが、この熟語字体を使用している詩集「藍色の蟇」での用字(「咆える月暈(つきかさ)」)を採用した。

「絲」詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「古生物の有翅爬蟲類」所謂、「翼竜」で、初めて空を飛んだ脊椎動物であるが、現代の鳥類ほどには上手く空を飛べず、地上を歩いたりすることも出来なかった。三畳紀に現われ、白亜紀末に絶滅した。爬虫綱双弓亜綱目翼竜目 †Pterosauria類。プテラノドン(翼指竜亜目オルニトケイルス上科 Ornithocheiroideaプテラノドン科プテラノドン属 Pteranodon)・ケツァルコアトルス(翼指竜亜目アズダルコ上科 Azhdarchoideaアズダルコ科ケツァルコアトルス属 Quetzalcoatlus )・ランフォリンクス(嘴口竜亜目ランフォリンクス科ランフォリンクス属 Rhamphorhynchus )などが、恐竜図鑑や映画では、よく知られる。

「恐悸」「きようき」。恐れて顫(ふる)えこと。恐れ悸(わなな)くこと。

「詛ふ」「のろふ」。「呪詛する」に同じ。

「癡呆」「癡」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。

「綠色鞭毛(りよくしよくべんもう)」鞭毛虫の内の植物性鞭毛虫でクロロフィルを持つ鞭毛藻類。代表的な種はユーグレナ藻綱Euglenophyceaeユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ属 Euglenaや、緑藻植物門緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科オオヒゲマワリ(ボルボックス)属 Volvox 等が知られる。この類の分類は我々が高校の生物で習ったものとは、分類が多様に変わってしまっている。

「パントミイム」「パントマイム」。フランス語“pantomime”。音写「パァントミーム」。英語の綴りも同じで、元は古代ギリシャ語(ラテン文字転写)“panto”(「総てを」)と+“mimos”(「模倣する・真似る」)が語源。

「妖婉」「えうゑん」。妖(あや)しいほどに艶(なま)めかしく美しいこと。

「フアンシイケエク」英語の“fancy cake”。フランス語の“cake”は「果実入りのケーキ」であり、“fancy cake”は和製英語の「デコレーション・ケーキ」を指すが、ここは、英語の“fancy”の原義を用いて「幻想のケーキ」と訳す方が拓次らしくはあるか。

「廻轉」「廻」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六九番 豆子噺(三話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題は「まめつこばなし」(まめっこばなし)と訓じておく。]

 

    六九番 豆子噺 (其の一)

 

 昔々、或所に爺樣婆樣があつたど。朝マ起きて婆樣ア内を掃き、爺樣土間(ニワ)を掃くと、豆コ一つ拾ふたど、

   婆樣婆樣豆コ一ツ見(メ)ツけたかやえ

   畠さ蒔いて千粒にすベエが

   臼でハタいて黃粉(キダコ)にすベエが

 さう言つて二人で相談コして居ると、豆コがポロツと爺樣の指の間からこぼれて、ころころころツと轉んで行つて、土間の隅(スマコ)の鼠穴《ねづみあな》へ入つてしまつたど。あれアこれアことだ。折角拾つた豆コ失《な》くしたがやい。婆樣婆樣早く木割《きわり》コ持つて來て吳(クレ)申せやと言つて、婆樣が木尻(キニシリ)から持つて來た木割をたないて、その鼠穴を掘りながら、爺樣は段々奧の方へ入つて行つたぢもな、……

[やぶちゃん注:「木尻(キニシリ)」既出既注だが、再掲しておくと、囲炉裏端の末席。横座(主人の座)の対面で、使用人などが座る座を言う。薪をここからくべるので、薪の尻が向くことから生じた呼称。

「木割をたないて」サイト「南部盛岡弁と滝沢弁(澤村果樹園の方言集)」のこちらに、「たなく ・ たなぐ」に「持ち上げる、持つ」とあるので、薪を持って、小さな鼠の穴を掘り起こして広げ、それを繰り返しつつ、地下の奥へと向って行ったことを言うようである。]

   爺々ごろがした豆コウ知らねアか

   爺々ごろがした豆コウ見なかつたかア

 斯《か》う唄ひながら入つて行くと、路の傍らに石地藏樣が居《ゐ》たぢもの。それで爺樣は、もしもし地藏樣シ爺々轉がした豆コ見なかつたますかと訊くと、見たつたども俺が拾つて炒《い》びつて食つたと地藏樣は言つたど。そいぢやよイがア俺ア家さ行くからと言つて、爺樣が歸るべとすると、地藏樣はモツケ(氣の毒)がつて、爺樣爺樣ちよツと待て、それだけのことはしてやるからと言つたど。爺樣はそんだら地藏樣なに敎(オセ)ベヤと言ふと、ほだからさ、これから爺樣が段々奧に入つて行くと、赤え障子コが立つて鼠どアずつぱり(多く)嫁子取《あねこと》り支度《したく》をして居るから、其所へ行つたら唐臼搗きでもしてすけ申《まう》さい。それから又奧に行つて黑え障子コの立つて居る所へ行くと、鬼どアずツぱりいて博突打《ばくちう》ちして居るから、其所に行つたら鷄《にはとり》の鳴く眞似をして金をさらつて來もせアと敎へたちもの……

[やぶちゃん注:最後はガンマ補正をかけても、「・」二つしか見えないが、「ちくま文庫」版で六点リーダとした。

「炒びつて」下関や遠州地方であるが、「炒る」を「いびる」と訛ることがネット上では確認出来た。]

 爺樣は地藏樣に、はいありがとがンすと言つて、奧さ行くと、地藏樣の言つた通り赤え障子コが立つて居る所があるから、ハイおめんとごワりますと言ふと、中から鼠の娘(アネゴ)が出《で》はつて來て、爺樣は何しに來たますと言つたと、爺樣は俺ア此家(コツチ)に嫁子取《あねこと》りがあるぢから唐臼でも搗いて助(ス)けさ來たと言ふと、あれアそれアよい所さ來たます。早く入つて助(ス)けてがんせと言ふから、よしきたと言つて爺樣が内へ上つて見ると、其家の立派なこと、一(イチ)

の座敷には朱膳朱椀に唐銅火鉢《からがねひばち》があつたり、二の座敷にはずツぱり(多く)絹子(キンコ)小袖の衣裝が掛けてあつたり、三の座敷に行つて見ると多勢の鼠どもが、臼に黃金を入れて、ヂヤクリ、ヂヤクリと搗きながら、

   よいとさのやエ

   よいとさのやエ

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢややエ……

 と歌つて居たじもな。爺樣が其所へ行つて唐臼を搗いて助《す》けると、鼠どはひどく喜んで、美しい絹子小袖をズツパリくれてよこしたど。それからまた鼠からもらつた赤い衣物《きもの》を持つて、ずつとずつと奧の方に行くと、黑い障子コが立つて居て、多勢の鬼どが居て、ビツタクタ、ビタクタと博突打ちをして居たから、爺樣は鬼どの知らねアやうに其家の厩桁《うまやげた》の上サ上つて居て、夜中に箕《み》をパタパタと叩いて、

   ケケロウ……

 と鷄の時立てる眞似をしたじもの。すると、鬼どはあれアはア一番鷄《いちばんどり》だが、と言つたぢもの。爺樣はまた暫時《しばらく》經つてから、箕をパタパタと叩いて、

   ケケロウヤエ

 と言ふと、あれアはア二番鷄だがと鬼どは言つていたぢ、爺樣は暫時經つてからまた箕をパタパタと叩いてから、

   ケケロウ、ケケロウ

 と言ふと鬼どは魂消《たまげ》て、それアはア三番鷄だ、夜が明けたらことだツと言つて、錢金《ぜにかね》をそのまゝ其所らさ打散(ブツチ)らかして我先きとワリワリとはア何所さが逃げて行つてしまつたど。爺樣は其時厩桁からソロソロと下りて來て、其金《かね》をみんな持つて來たどさ。そして婆樣として今まで着ていたチヂレ衣物ば脫いで、鼠からもらつた絹子小袖を着て、金をチヤラン、ポランと升に入れてはかツて喜び繁昌して居たど。

[やぶちゃん注:「厩桁」サイト「岩手・けせん 匠の里」の「長屋は旦那と大工の合作」に、『現在の大船渡市内の農家には「長屋」と言って独特に工夫された建物がある。畜舎と農舎がセットされたもので、その時代、長屋門(中門)を造ることをはばかられた人々の創意工夫であろう。その特徴は厩(うまや)の二階梁が出桁(でげた)造りとなっていて、まぐさを与える時に雨露をしのぐようになっている』とあるのが、それらしい。]

 其所へ隣の婆樣が、居たますか、カランコロン、火コたんもれぢやと云つて來て、あれアあれア汝達(ソンダチ)何《な》してそんなに喜び繁昌して居申すやと言つたど。爺樣婆樣は俺は斯ういふ譯で、赤い衣物(ノノ)だのズツパリ金《かね》だのを貰つて來たから、これこれ見てケ申せと言つたど。隣の婆樣は、それアまた何たらケナリ(羨しい)話だべ、それでア俺らも早く家さ歸つて爺樣をそこさやんべえと言つて、ソソクサと歸つて行つたど。そして隣の爺樣婆樣のしたやうに、婆はウチを掃き、爺はニワを掃いたが、どうしても豆コが出て來なかつたぢもな。そこで大きな聲で、婆ア婆ア早くそこの俵(タラ)から豆一つかみ持つて來ウと言つて、婆の持つて來た豆を一つかみ、鼠穴に入れて、そのあとから木割でガツチラ、モツチラと土を掘つて中に入つて行つたど。すると話の通りに路傍に石地藏樣が座つてござつたから、こゝさ豆が轉がつて來なかつたかと訊くと、地藏樣は、あゝ來たつたども俺ア拾つて食つたと言つたじもの。すると爺は、なんたらこと言ふこの地藏野郞、人の豆を拾つて食つたりして、人ウ馬鹿にして居る。その代《だえ》に絹子(きんこ)小袖だの金だのをよこせと言ふと、地藏樣は苦い顏をして、前の爺樣に敎へた通りのことを敎へたぢもの。そこで爺は斯う唄つて行つたぢます。

   俺ア豆を誰(タレ)アぬすんだツ

   俺ア豆の代(ダエ)よこせツ

 暫時行くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に赤い障子が立つて、鼠どア、

   よいとさのやエ

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢややエ

 と歌をうたひながら、ジヤクリ、ジヤクリと臼で黃金を揚いて居た。爺が覘《のぞ》いて見ると、前の爺樣の時のやうに、赤い衣物だの、朱膳朱椀だの、金だのがうんとあつたぢ、爺はそれが欲しくなつて、これア猫の眞似したらあの寶物どをみんな取るによいと思つて、ひどく大きな聲で、

   ニヤゴウ

   ニヤゴロツ

 と叫ぶと、今まで明るかつた立派な鼠の館《やかた》が、ペツかりと灯(アカリ)を消した樣に暗くなつて、なんにもかんにも消えてなくなつた。爺はこれは何の事だツと思つて暗(クラ)しま[やぶちゃん注:暗くなった間(ま:部屋)。]を這つて行くと、今度は黑い障子のトガイ(向ふ)でビツタ、カツタと音がするので、これやなんだべと思つて覘いて見ると鬼どが集つて博突打つて居たど。さうだ石地藏から聞いて來た事はこの事だと思つて、鬼どに氣づかれないやうに、ソロツと馬舍桁に這ひ上つて匿れて、夜中に、其所にあつた箕をバタバタツと叩いて、大きな聲で、

   ハア一番鷄ツ

 と奴鳴《どな》つたど。すると鬼どは驚いて、あれア何だツとヒヨウヒヨウ面(ヅラ)[やぶちゃん注:不詳。]になつたど。すると爺はまた此所だと思つて、大きな聲で、

   ハア二番鷄(ドリ)ツ

と奴鳴つたど。すると鬼どはまた、サアあれア何だツ何だツと騷ぐから、爺は今度こそ鬼どを魂消《たまげ》がして追(ゲツ)たくる氣になつて、ますます大きな聲で、

   三バンウドリツ

 と奴鳴つたど。すると鬼どは、何だあの聲は昨夜《ゆんべ》もニセ鷄で俺の金を攫《さら》つて行つた者があるが、今夜も來て居《ゐ》やがる、ええからフン捕(ヅカ)まへろと言つて、どやどやと厩桁に上つて來たど。鬼どは大急ぎで上つて來たもんだから、釣鼻(カギハナ)に鼻の穴を引掛けて中合《なかあひ》にブラ下つたりした者もあつたど。爺はそれを見て、エヘツ、エヘツと大笑ひをしたぢもの、鬼どはいよいよゴセを燒いて[やぶちゃん注:既出。怒って。]、その爺(ヂン)ゴ逃がすなツと、多勢で爺を捕まへて、この爺(ヂン)ゴツ昨夜(ユンベ)も俺ら金取つたツと言つて、打つたり蹴つたりしたど。爺は體中傷だらけにして、赤い血を流し、血ぐるまになつておウいおウいと泣きながら土穴《つちあな》から這ひ出して來たぢます。

 家で待つて居た婆は爺の泣聲を聞きつけて、あれアあれア俺家《おらいへ》の爺樣ど、赤い絹子《きんこ》小袖を着て、あんな歌コを唄つて來るがと着て居たボロチヂレをば火サくべて裸體になつて待つて居たど。そすると爺がそんな有樣で、やツと土穴から這ひ出し、おウいおウい泣いたどさ。ほだからワリ(惡い)爺の血だらけ、ワリ婆のセンタク(衣物)燒きだとサ。ドンドハラヒ、法螺の貝コポウポホと吹いたとさ。

(この話は私の「紫波郡昔話」の(九)の畠打、(二七)の豆子噺にもその要素が出ている。尤も本話は以上の如く二つの素質を持つた話のやうであるが、これは私が最近聽いた通りに記錄してみた。村での話。[やぶちゃん注:ここに丸括弧閉じるがあるが、除去した。]

(一)此部分は他の豆子噺の如く、爺樣に石地藏の膝に上《あが》れ、肩に上れ、頭に上れと謂ふやうに話されるのが普通であるやうだが、話手《はなして》に隨つてその部分は入れなかつた。

(二)この鼠の歌も種々ある。私の家内の知つて居るのは斯うだ。

   猫コニヤゴと言(ヤ)アば

   おら早(ハエ)く逃げるウ

   ケセネ搗アコワイども

   田所の嫁になりたい

   ヂヨエアサア

   ヂヨエアサア

 と謂ふとある。ケセネは穀物、主に稗米《ひえ》のこと、コワイは疲勞である。

 尙他に三戶《さんのへ》地方ではこの鼠の歌を、

   この世の中で

   五十になるべが百になるべが

   ニヤゴといふ聲

   聞きたくねアぢやなア

 と唄つて居たとも謂ふ。そして本話では臼で搗いてゐたものは黃金ではなくて、大凡はケセネである。)

[やぶちゃん注:最後の附記は、全体がポイント落ちで二字下げであるが、長いので、総て引き上げて、ポイントも同じとした。所謂、「鼠の浄土」譚である。小学館「日本大百科全書」から引く。異界を『訪れて財宝を得ることを主題にした致富譚(ちふたん)の一つ。爺(じじ)が落とした団子が穴に転がり込む。追って穴に入るとネズミの国である。機(はた)を織りながら、ネコがいなければ世の中がよいと歌っている。爺は歓迎される。ネコの鳴きまねをするとネズミは逃げる。爺は宝物を持って帰る。隣の爺がまねをするが、さんざんなめにあう。「地蔵浄土」と基本形式が同一で、異郷をネズミの国とするところに特色がある。本来、一つの昔話から分化したものであろう。地下のネズミの世界の説話は』、「古事記」の大国主命の『物語にもある。物語の表現も、団子が転がる場面、ネズミの歌、ネコの鳴きまねなど、技巧的で興味深い』。『動物の国を訪ね、財宝を得て帰り、まねをした人は失敗するという構想は』、「舌切り雀」の話とも『共通する。この類話の「猫の家」は、トルコを中心に、カフカス、ハンガリー、ギリシア、イタリアに分布している。親切な女はネコの家で贈り物をもらい、悪い女は蛇やサソリの入った袋をもらう。ネコがスズメにかわったのが「舌切り雀」である。「猫の家」は継娘(ままむすめ)と実の娘が主人公で、継子』いじめ譚に『なっている。「継子の栗(くり)拾い」はその形を継承して分化した話である。「鼠の浄土」は「猫の家」のネコとネズミが入れ替わった形である。これらは、ヨーロッパに広く分布する「親切と不親切」の系統に属する類型群である。「親切と不親切」は、継母が継子を井戸に突き落としたため、地下の国へ行く話になっており、親切な継娘はネコとスズメに助けられて、そこで』一『年間奉公し、褒美に宝石の入った箱をもらって帰るが、不親切な実の娘は火の入った箱をもらって焼け死ぬという話もある。「鼠の浄土」の発端は「地蔵浄土」と同じく、団子、握り飯など食物をネズミに与えることから始まるが、これはもともと、稲穂を手に入れ、それで食物をつくるという、日本の昔話の語り始めの形式の一つで、「語りの様式」とよぶべき部分である。類例は古く「かちかち山」の赤本』「兎(うさぎ)大手柄」にあり、「猿蟹合戦」の『カニの握り飯や、「舌切り雀」のスズメがなめた糊(のり)も、おそらくその名残(なごり)であろう』とあった。

「紫波郡昔話」は佐々木喜善の本書より五年前の著書(大正一五(一九二六)年郷土研究社刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの原本で、「(九)の畠打」はここからで、「(二七)の豆子噺」はここである。

「三戶地方」青森県の旧三戸郡。旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。南で岩手県に接する。]

 

       (其の二)

 昔々ざつと昔、ある所で婆が座敷を掃いてゐたら、豆が一粒落ちてゐた。婆が拾ふべとしたら、豆はコロコロと轉がつて行つた。婆が拾うべと思つて追懸《おひか》けて行つたら、どこまでも轉がつて行くので、

   豆どん豆どんどこまで御座る…

 と云つて追つて行くと、道端の地藏さんのお堂の中で見失つてしまつた。そこで婆は地藏さんに、地藏さん、地藏さん、豆ころがつて來えんか[やぶちゃん注:読み不明。]と尋ねた。處が地藏さんは、おれ喰つてしまつたと云つたので、婆は歸らうとしたら、待つてろ待つてろ、良い事敎へてやると引き留めて、おれの膝の上さ上がれと言つた。婆はとつても勿體なくて上がられえんと言うと、地藏さんはいいから上がれと云ふ。そこで婆がおそるおそる地藏さんの膝さ上つたら、今度は、手のひらへ上がれと言ふ。婆が、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云ふと、いいから上がれと言つた。婆はおそるおそる地藏さんの手のひらへ上がると、肩の上さ上がれと云ふ。婆が又、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云ふと、いいから上がれと云ふので、婆は又おそるおそる肩の上さ上がつた。するとまた、婆や婆や頭の上サ上がれと地藏さんが云ふ。とつてもとつても勿體なくて上がられえんと婆が云ふと、いいから上がれと云ふので、婆はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]地藏さんの頭の上へまで上げられた。すると今度は、梁(ハリ)の上さ上がれと云はれた。婆は相變らず、とつてもとつても勿體なくて上がられえんと云つたら、いいから上がれと云はれたので梁(ハリ)の上へ上がると、地藏さんが云ふ事には、婆や婆、おれが良い事敎えてやる。今に鬼どもが此處さ博突打ちに來つから、そしたらおれが指圖したら、鷄の啼く眞似をしろと敎へた。間もなく鬼共がどやどやとやつて來て、地藏さんの前で博奕を始めた。地藏さんが指圖をしたので、婆は梁の上でコケコツコウと鷄の啼くまねをした。すると鬼どもは、一番鷄が啼いたから急いでやれと云つて、ウンと博突をやつた。地藏さんが又指圖したので、婆は再びコケコツコウと鷄の啼く眞似をしたら、鬼どもは、もう二番鷄だと云つた。地藏さんの三遍目の指圖に婆がコケコツコウとやると、鬼どもはそれ三番鷄だから夜が明けたと云つて、みんな狼狽《あわ》て慌《ふた》めいて、金を澤山置いたまゝ逃げ出して行つた。そしたら地藏さんが、婆や婆、ここさ下りて來いと云はれたので、婆が梁から下りて行くと、其所にある金を持つて來いと云ひつけられた。婆が金を搔き集めて持つて行つたら、地藏さんが、それを持つて早く歸れと言われた。婆はその日からウンと金持になつた。

 そこへ隣の慾たかり婆が來て、あんだ何してこんなに金持になつたのフシやと尋ねた。婆は有りのままにこれこれ斯う云ふ譯で金持になつたと敎へた。すると慾たかり婆は早速家さ歸つて、豆を座敷に轉がして、それを地藏さんの所まで轉がして行つて、地藏さん地藏さん豆ころがて來えんかと尋ねた。地藏さんは何とも返事をしないのに、慾たかり婆は勝手に地藏さんの膝の上へ上がつたり、手のひらへ上がつたり、肩へ上がつたり、頭の上へ上がつたりして、梁の上へ上がつた。そこへきのふのやうに鬼どもがぞろぞろ博突打ちにやつて來た。慾たかり婆はコケコツコウと鷄の啼く眞似を、地藏さんが合圖もしないのに三遍やつて、鬼どもの前へ下りて行つたら、鬼どもはウンと怒つて、さては昨日《きのふ》おれたちをだましたのは此の婆だなと云つて、慾たかり婆を散々にハタいて、血だらけにしてしまつた。

 (仙臺市邊の話。昭和五年五月五日の夜、三原良吉氏の採集されたもの。同氏御報告分の一。)

 

      (其の三)

 或所に爺樣と婆樣があつた。朝(アサマ)、爺樣は庭を掃き、婆樣は家の中を掃いた。婆樣が座敷で豆を一ツ拾つた。爺樣々々豆ツコ一つ拾つたがなじよすべえと言つた。爺樣は戶棚さでも上げておけやと云つた。そこで婆樣はその豆を戶棚に上げて置いた。すると豆がコロコロと轉び落ちて床(ユカ)の節穴へ入つてしまつた。婆樣はあれあれ爺樣、豆ツコア穴さ轉び入つた。なじよにすべえと言つた。爺樣はよしよし俺が入つて取つて來ンベえと言つて、其節穴から入つて行つた。そしてだんだん奧の方に行くと、大きな座敷があつた。其所に小人(コビト)が一人立つて居た。爺樣がその小人の側に行くと、小人は爺樣お前ア鷄の鳴くまねをしろと言つた。そこで爺樣は、

   コケコツコウ!

 と聲高く啼いて見せた。すると小人(コビト)は、爺樣もう一遍やれと言つた。そこで爺樣はますます聲を張り上げて。

   コケコツコウ

 と啼いて見せた。小人はウンなかなか爺樣はウマい。褒美として之れを遣るからと云つてカブレワラシ(火男のような顏の見憎くい子供を…原文。)をくれた。爺樣はこツたらもの、いらねぢやアと言つて、ブン投げやうとしたところが、其童(ワラシ)は細い小さな聲で、投げるなと云つた。それでも爺樣が投げる投げてしまうと言ふと、又カブレワラシが、爺樣投げんなと言つた。それで爺樣も投げるのをあきらめて、豆ツコのことなどは忘れて歸つて來た。

 婆々や婆々や今來たでア、ワラシ子もらつて來たでアと云つた。婆樣は今まで子供が無かつたものだから、ひどく喜んで、なじよなワラシだべなアと思つて、早く見せらアしやいと云ひながら、爺樣の連れて來た童を見ると、なんともかんとも云はれないほど見憎《みに》くくて、火男(ヒヨツトコ)以上もクソもあつたもんぢやない。おまけに足は跛《びつこ》で、體は小人(コビト)の子だからタマゲたもんだ。まるで化物で婆樣も腰を拔かすとこだつた。こんたらガキ家(エ)さ置かれねアと言つて怒るのを、爺樣はまアまア待て待て、せつかく投げるな投げるなと云ふもんを、棄てるわけにもゆくめえと言つて、婆樣をスカして其のカブレワラシを養ふことにした。それから十年經つて、童も餘程大きくなつた。その代り爺樣婆樣の方がだんだん弱つて來た。

 或日、そのカブレワラシが爺樣に向つて、俺も今まで世話になつたが、何も恩を返さなかつたから、家へ還つて親父(オヤヂ)に話して恩を返します。どうか爺樣も婆樣も達者で暮してたんもれと云つて、何處へか行つてしまつた。

 それから爺樣婆樣の家は自然(ジネン)と富んで來て、遂に村一番の長者になつた。

  (この話の筆記者である黑澤尻中學の生徒二甲、
   小野顯氏は話中《わちゆう》の所々を非常に
   氣にされて、爺樣が節穴から入つて行くあた
   りには、此所には節穴から人間が入るなんて、
   少し變だがさうしか敎へられないから仕方が
   無いとか、又終りには之れは話だからアテに
   はならない等の註記をせられて居つた。村田
   幸之助氏御報告の分。)

[やぶちゃん注:「黑澤尻」は旧和賀郡内で、現在は岩手県北上市黒沢尻で、狭いが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「黑澤町(くろさはじりちやう)」は遙かに広域であり、「黑澤尻中學」というのは、ここで、これは旧「岩手縣立黑澤尻中學校」であり、同校は大正一三(一九二四)年五月一日の開校式が挙行されている(本書の刊行は昭和六(一九三一)年二月)。現在の「岩手県立黒沢尻北高等学校」(グーグル・マップ・データ)である。]

★永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」に見出したる龍之介の未知の俳句「向扇や永見夏汀の手の肥り」「蘭館に賣られて來たる瓢かな 我鬼」二句/永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」全本文附

 

[やぶちゃん注:岩波文庫から六年前の二〇一七年七月に刊行された石割透氏の編になる「芥川随想」は、嘗つて書痴であった私は、仕事をやめてより、最早、殆んど書籍を買わなくなっていたのだが、この本はたまたま妻のリハビリ治療を待つ間、時間潰しに本屋の棚を見、芥川龍之介フリークとしての半ばは反射的自働作用で買ったもので、既にその内の半分近くは、別な資料で既に読んでおり、古くに電子化注もしたもの(例えば、松村みね子(=片山廣子)「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」や、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」等)含まれていたために、真面目に通読することをせず、ごく最近まで、うっちゃらかしていた。ふと、日々の電子化注のルーティンにちょっと飽きて、やおら、残っていた未読資料を、拾い読みしていたところ、三日前、とんでもない発見をして、目ん玉が飛び出てしまった。

 それは、第「Ⅲ」パート内にある永見徳太郎氏の「芥川竜之介氏と河童」(お恥ずかし乍ら、今回、初めて読んだ)の中に紹介されてある芥川龍之介の俳句の中に、私の知らない句が二句含まれていたからである。しかも、この句、現在、最新の芥川龍之介の句集でとされる二〇一〇年八月岩波文庫刊の加藤郁乎氏編の「芥川竜之介句集」(連句・川柳を含む千百六十九を掲げる)が、この二句は収録されていない。但し、私は、この句集を芥川龍之介の句集の最良のものとは認めていない。それは二〇一一年三月二十六日附のブログ記事『岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること』を読まれたい。ただ、この句の蒐集作業は加藤氏ではなく、岩波書店編集者によるものであり、加藤氏よりも、そちらの編集者のトンデモ勘違いに責任の大半はある、但し、加藤氏が原文に当たって、それが俳句ではなく、確信犯的な龍之介の好んだジュール・ルナール風のアフォリズムであり、満鉄をカリカチャライズしたアフォリズム一行短文警句以外の何ものでもないことの検証をされなかった点での編者責任はある。なお、後者の「蘭館に」の句は、あきひろ氏のブログ「彰浩の部屋」のこちらに、田辺市立美術館の「文人たちのこころの絵」に出品されていたこの絵を見たものかと思われる記事(二〇〇八年八月二十四日の記事)に「蘭館に売られて来たる瓢(ひさご)かな」とあった(あきひろ氏は芥川龍之介の自画像とされておられるが、展覧の際の解説が不備だったものか)。

 さて、私は永い年月をかけて、私のオリジナルの「芥川龍之介俳句全集」(全五巻)をこちらで公開している。これは可能な限り、過去に作られた故芥川龍之介の諸句集を総当たりし、芥川龍之介の書簡・日記・ノート・断簡零墨を可能な限り、点検し、芥川龍之介の知人らの随想なども対象として蒐集したもので、表記が異なるものも確定的なものは漏れの無いように並列してあり、拾遺では、断片の内で俳句らしきもののそれも拾ってある。オリジナルに注も附してある。従って、私は私の「芥川龍之介俳句全集」が、現行、芥川龍之介の俳句集では最も完備しているものという自負を秘かに持っている。しかし、ここに出た二句は、私の蒐集句の中に、類型句さえ、存在していないのである。

 そこで、その句を含む永見氏に追想記事の全文を電子化し、最後に、改めて、未知の二句を挙げておくこととする。

 本記事は、雑誌『新潮』の昭和二(一九二七)年九月号『芥川龍之介追悼號』に初出されたものである。原初出誌はネット上では画像を見出すことが出来ないので、原表記で示すことは出来ない。従って、不満であるが、新字新仮名になっている石割透編「芥川随想」を底本とする。但し、この本、総てが、「芥川竜之介」になっているのは、ちょっと生理的に私が勘弁であり、本篇でも、「竜」だけは、「龍」に代えてある。悪しからず。なお、永見氏はパブリック・ドメインである。ルビは特に石割氏が添えたという注意書きはないので、総て採用した。一部にオリジナルにストイックに注を附した。必要なしと感じたものは注していない。悪しからず。

 なお、作者永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛、竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された通人でもあり、長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。本文の最後に書かれているが、自死を決していた芥川龍之介は、かの名作「河童」の原原稿を永見に死ぬ十日前に贈呈している。なお、私は以前に、現在、国立国会図書館デジタルコレクションにあるその原稿を、『芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈電子化注』(以上はサイト一括版。ブログ・カテゴリ『芥川龍之介「河童」決定稿原稿」』で十九回分割版もある)。として電子化注して公開しており、その最後にある、『■芥川龍之介「河童」決定稿原稿の最後に附せられた旧所蔵者永見徳太郎氏の「河童現行縁起記」復刻』も電子化してあるので、未見の方はどうぞ。

 なお、以下の永見氏の随想には、三枚のモノクローム画像があるが、永見氏の芥川龍之介の芥川龍之介の顔を描いた絵に、未知の一句が芥川龍之介によって添えられてある一枚があり、その一枚だけは、底本からOCRで読み込み、トリミングし、適切と思われる箇所に添えておいた。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

   芥川龍之介氏と河童

永見徳太郎  

 

 理窟なしに私は、河童を好んで居るものである。

 現代に於(おい)て、河童の図をよくするものに、二人がある。その一人は芥川龍之介氏、もう一人は小川芋銭氏。芥川氏の描くところのものには、墨跡力強く、河童の骨格は筋張(すじばつ)て、それを捕えようものなら、その関節がポキポキと音をして、折そうな気がする、爛々と赫(かがや)く大眼の光りは、よくスペクトルの味が表現され尽されて居る。芋銭氏の河童は、沼の中に棲息して餌に不自由なく、円々と肥えふとった。ユモアな気分にうたれるところが多い。芥川氏のアマチュアな絵、芋銭氏の専門的の絵、其処には両者の味が、別々に表現されて居るのが愉快でならない。

[やぶちゃん注:「小川芋銭」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は私の好きな日本画家。私はよく知っているが、知らない方のためにウィキの「小川芋銭」から引いておく。本名は茂吉。生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 芥川氏が、長崎に再遊の時……。大正十一年五月の事。

 私の乞うまま、芥川氏は硯(すずり)に筆を染浸(にじ)ませ、一線一線毎(ごと)に、河童の図を書(か)き初(そ)められた。氏は、創作をされる時と同じ様に気分を落付けて、筆を卸(おろ)して居られたが、一枚を破り二枚を破り、三枚目に、

「もう労れてしまった……明日書きましょう。」と言って筆を投げてしまわれた。氏は何日も[やぶちゃん注:「いつも」。]愛飲されたゴルデン・バッドの煙を輪に吹き乍(なが)ら。……しばらくすると、今度は、短尺を取りあげ、

  向扇や永見夏汀(ながみかてい)の手の肥り

  時鳥(ほととぎす)山桑摘めば朝焼くる

と書かれた。

[やぶちゃん注:俳句二句は底本では均等割付である。第一句が未知の句である。「夏汀」永見の号。]

 それから、芥川氏は再び画筆を握って自画像を描かれたが、また破って紙を手で丸められる。

 「僕の顔を自分で、鏡に写して見ると、全く変なものですよ、まあ獣という感じでしょう。」

 傍にあって、墨を擦って居た私の妻を振り返って言われた。

 「河童というところですかね。」私のこういう言葉を聞いて、珍(めず)らしくも、「アハヽヽと。」[やぶちゃん注:「と」が内に会話記号内にあるのは、ママ。]大笑せられた。この大きな笑声を聞いたのは、後にも前(さき)にもこれが初めてであったのである。

 「では、芥川氏の顔を描いて見ましょうか?」

 「面白い、さあモデルになりますよ。」

 私の手が動くと、芥川龍之介の顔が、紙の上に現れた。

 「永見君は、よく僕の顔を見てるな。では讃を一つ。」

  蘭館に売られて来たる瓢かな

二人の合作は、私の大切に秘蔵するものとなった。

Rankann

[やぶちゃん注:永見の龍之介の絵の右手に、

 蘭館に賣られて來たる

        瓢かな

          我鬼

とあるのが視認出来る。これが二つ目の未知の句である。これが左下方に永見の落款らしきもの(判読不能)がある。

 以下、一行空けはママ。]

 

 翌日お昼過ぎに、芥川氏は大急ぎで、

 「大筆と唐墨を貸しませんか?」

 と言われるので、昨日約束の河童を大幅に描かれる事であろうと、紙まで添えて出すと、芥川氏の癖であるところの長髪を、一度左手にてなであげ、右手には、唐墨と大筆を摑むように、懐(ふところ)に捩込(ねじこ)み、脱兎の如く戸外に出られた。実にその姿は、脱兎の如くであった。

 芥川氏は、遂々河童之図を残さずして、帰京してしまわれたのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空けはママ。]

 

 八月の暑い日盛りは、丸山の廓(くるわ)にも、強く照りかがやいて居た、何処(どこ)からともなく稽古(けいこ)三味線が、ポツンポツンと鳴って居る。私は、小島の坂石段を馳け降りると、其処には丸山の名妓(めいぎ)照菊君の住居であったから、雨宿(あまやどり)のつもりで、飛びこんで座敷に通ると、これは驚いた、二枚折銀屛風(ぎんびょうぶ)が、燦然(さんぜん)と光って、その周囲の三味線や、鏡台の艶(なま)めかしい調子を打毀すかのように、筆力雄大なる水虎晩帰之図が目立つのであった。

 唐墨、大筆は、この家に役にたったのである。

 「長崎の町には、芸妓のいいのが居りますね。」

 「誰がいいんですか?」

 「照菊さ。全く堂々として立派なものです、東京に出て来ても恥(はず)かしくない女ですよ。」と、何日だったか言われた事が、思い出された。

 なる程(ほど)、芥川氏の目は高い。……何時(いつ)の間にか好きな妓をつくり、何時の間にか銀屛風を描く氏の早術(はやわざ)には、敬服するより他なかった。

 芥川氏の絵の中では、照菊裙(くん)所蔵するところのこの屛風が、おそらく一番の大作で、一番の力作であろう。

 艶色(えんしょく)ならびなき芸妓照菊裙と河童之図は、氏の口を吐いて出る皮肉と諧謔(かいぎゃく)の様なコントラストだと思うと、私は微苦笑を漏らさずには居られなかった。

[やぶちゃん注:「丸山の廓(くるわ)」長崎の旧丸山(まるやま)遊廓(グーグル・マップ・データ)。

「小島の坂石段」長崎丸山遊廓には坂が多いので、長崎に詳しくない私には特定出来ない。サイト「ナガジン!」の「長崎『坂』ストーリー」にあるどれかではあろう。「小島」という地名からは、「ピントコ坂(ぴんとこざか/上小島)」が候補か。

「照菊君」「照菊」(てるぎく)「君」(きみ)であろう。芸妓「照菊」は私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」の後の方の「大正一五(一九二六)年三月十一日・田端発信・杉本わか宛」の私の注を参照されたい。

「裙」「紅裙」の略。元は「紅色の着物の裾」の意だが、転じて「美女」或いは「芸妓」を指す。

 以下の一行空けはママ。]

 

 その年の秋、長崎の年中行事第一である諏訪大祭(すわたいさい)が、近づく時に、長崎美術協会の展覧会の日が迫って、私も何か出品しなければならない義理があった。

 忙しい私には、絵を描く時間の余裕がなかった。然(しか)し何か書かねばと考えて居た。砲術家高島秋帆(たかしましゅうはん)先生の遺跡である家に行っての戻り道、前に願雨にあった坂道を通ると、その土塀が毀れかかって面白かった、のでこの上塀をスケッチして、大奉書に描いて見ると、漫更(まんざら)捨てた絵でもなかったから、これを急場凌(きゅうばしのぎ)に出品する事とした、しかしその絵の中には何処となく淋しさのある漫然さがあったので塀の落書を書添える為(た)めに相合傘を書いた、傘の右に芥川龍之介、左(ひだ)りにわかと記した。

 わかとは、妓照菊の本名であった。

 誰も知るまいと思って、展覧会場に行って見ると、この絵の前は一ぱいの人集(ひとだかり)で、誰もが、龍之介おわかの正体を知ろうとして居た。

 私は、この旨をその夜、芥川氏に知らせる為に手紙を書いた、定(さだ)めし芥川氏は喫驚するだろう、河童之図を私に描かなくて、愛妓に描いた事を思出して居られるだろうと、考え乍ら。

 長崎の新聞では、その絵が問題となって、大きな活字で、龍之介わかの正體を書きたてた。

 「東京まで、知れるものかごと思って居る間もなく、その記事が、長文になって相合傘の絵まで、東京の或(ある)新聞に出たのを知った私は、

  相合傘の一件には、御降参の御事と存じ申候、

  是といふのも貴下河童之図の御約束を果たさざ

  るところと御思慮あれ……云々

 と、私は書面した。

 我鬼大人は、この相合傘が世間にバットして大に弱り抜いたと零(こぼ)して居られた。

 初めから、龍之介わかは、何等(なんら)恋愛的のものではなかったのである、ただ芥川氏が、何(な)んとなくその妓を好きであったので、全く私の筆先の悪戯で、少々悪戯過ぎて、後には、それが評判になる程、私は氏に気の毒と思って弱ったのであった。照菊裙は、氏の

「きりしとほろ上人」だの「お富の貞操」だのの愛読者に過ぎなかったのだ。

[やぶちゃん注:芥川龍之介宛書簡は、底本では全体が二字下げベタであるが、ブラウザの不具合を考えて、改行してある。

 以下の一行空けはママ。]

 

 或日、私は中通(なかどおり)を車にて走ると、或小さい道具屋の店頭に、河童の図が見えて居た。

 車を降りて、其処の主人に、絵の出所を尋ねると、

 「このガワン太郎(長崎では、河童をガワン太郎と言う。)ですか、こるは(これは)、委託品ですタイ……上海の人(ひと)んと(人のもの)ですタイ。」

 「誰が書いたのでしょうか?」態(わざ)と聞いて見ると、主人は頭を搔き搔き、

 「何んとかいう、六ケ敷(むつかしか)名前の文士ですゲナ……ええと、ええと。」しきりに、記憶より氏の名を呼び起そうとして居る。

 「芥川龍之介でしょう。」

 「そうそう、そんげん(そんな)でしたタイ。妙な絵ですのう。」

 「これは何程(いくら)でしょうか?」

 「弐拾円ならヨカでしょう。」

 その四、五日前の事であったが、芥川氏は、強盗に這入(はい)られて、弐拾円をせしめられたとの記事を、新聞で知って居ただけ、私には、その弐拾円が、不思議な因縁の様に思われてしかたがなかった。

 絵は、横物に仕立(したて)られた掛物であった、而して墨色黒々と、元気に描かれた河童には、水虎晩帰之図と題されてあった、この絵は、氏の一本槍の絵に相違ないが、サインには、我鬼酔墨としてある事が、私の好奇心を動かしたのであった。

 芥川氏と、私とは、何度一所(いつしょ)に食事をしたであろうか? 十度二十度どころではなかった。何時も食事の時には、お膳を私の分と芥川氏の分とを、くっつけて喰べたのである、丁度(ちょうど)恋人の様にして……。私は、よく飲みよく喰う牛飲馬食(ぎゅういんばしょく)の徒であったから、芥川氏がユックリと、一品ずつ風味をして居る時には、氏の分まで、黙って荒したのであった。東京では、氏の近所の自笑軒で会食する事を常として居た。

 「よく喰うね。」

 「よく喰べないなあ。」

 二人は、極(きま)ってこんな事を言って顔を、見合せて笑ったのであった。

 芥川氏は喰べものに注意して居られて、鰻などは、あの旨(うま)い油濃ゆい皮は絶対に食べない方であった。お酒は時として猪口にチョット注いで貰(もら)っただけであった、その人が、我鬼酔墨と署名してあるには、実際驚ざるを得んやである。

 何年か後に、この弐拾円で買った絵の話をすると、

 「ああ、それは上海の六三亭だったか……書いたよ。」

 「今度は、上海の相合傘ですかね。」

 「もう、もう、相合傘には大閉口さ。」

 「また、絵でも書いていじめようかなあ。」

 二人の交友は、非常な親密さを増して、言葉の上にも隔(へだた)りがなくなって居た。

[やぶちゃん注:「芥川氏は、強盗に這入(はい)られて、弐拾円をせしめられた」「芥川龍之介書簡抄111 / 大正一一(一九二二)年(二) 二通」の最初の「大正一一(一九二二)年二月十日・田端発信・薄田淳介宛」の「二伸」に『四百金難有く頂戴 丁度拙宅へ泥棒はひり外套二着マント一着コオト一着帽子三つ盜まれた爲早速入用が出來ました あれは大阪から來た泥棒かも知れない』とある。そちらの私の注を参照されたい。

「水虎晩帰之図と題されてあった、この絵は、氏の一本槍の絵に相違ないが、サインには、我鬼酔墨と署名してある」底本には、その絵の写真が添えられてある。その絵は、『小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」』の中に画像を掲げておいたので、見られたい。これ。添え辞は「水虎晩歸之図」「我鬼醉墨」で、下に赤陽刻の落款(但し、上海の古道具屋で買ったもので、本人のそれではない)。]

 

 私は、一昨年の冬、久々振に、田端の澄江堂(ちょうこうどう)居を尋ねた、その日は馬鹿に寒い時で、二人は炬燵(こたつ)して、長話をつづけた。

 私は東京に転居する事情を話した。

 芥川氏は、「自分は、田舎に引籠(ひきこも)りたいと考えて居る……君、長崎を引払うのなら、早(は)やく、決行する方がよい、君が来ると賑(にぎ)やかになるだろう。」

[やぶちゃん注:以下の一行空けはママ。]

 

 私は、昨年の春、愈々(いよいよ)東京人となる覚悟で、家族と共に滝野川に居を構えることとした。

 その時、氏がかねて垂涎三千丈(すいぜんさんぜんじょう)して居た鉄翁(てつおう)遺愛の硯を、上京紀念として贈った。

 芥川氏の顔には、欣びの色が漲(みなぎ)った。

 氏の長崎日録の中に、

  五月十七日

 夏汀の家に竹田(ちくでん)、逸雲(いつうん)、

 梧門(ごもん)、鉄翁、熊斐(ゆうひ)、仙厓(せ

 んがい)等の日本画家、江稼圃(こうかほ)、沈南

 蘋(しんなんびん)、宋紫石(そうしせき)、胡公

 寿(ここうじゅ)等の支那画家を観る。竹田は丸

 山のエスキス。この画によれば当年の廓は甚(は

 だ野趣(やしゅ)を存せしに似たり。夏汀また鉄

 翁の硯を蔵す。もと竹田の贈る所。石薄うして反

 (そ)りかえれるさま、如何(いか)にも洒落(し

 ゃれ)たる硯なり。僕大いに慾しがれども、夏汀

 更に譲る気なし。

 とある程、氏はその硯を慾しがって居たのであった。

 昨秋芥川氏は鵠沼(くげぬま)に転地して居られたので、訪問する可(べ)く約束して居たが、私は風邪の大熱に冒(お)かされて行く事が出来なかった。

 滝野川より今の住所西荻窪に転じた私は、忙しいのと、遠くはなれて来たので、長く逢っていなかった。今年の春頃、氏を尋ねたが折悪(おりあ)しく外出の時であった。

 最近、出版した画集南蛮屛風は、キット芥川氏が欣んでくれるに相違ないと思って、氏の都合よき時、持って行こうと考えて居ると、十四日であったか、十五日であったか、明瞭(はっきり)と記憶しないが、何かの原稿を書いて居る時、「スグコイ アクタガワ」との電報が来たので、私はペンを置いて、田端へと出かけた。

 二階の室(へや)で、「一年振りだったね。」

 「ほんとに長い間でしたなあ。」

 「この頃は忙しそうだね。」

 「ええ、おかげで……あなたも、なかなか書きますね。」

 と二人は話し合った。

 昨年逢った時の芥川氏は、あの長髪を短かく刈りこんで居られたが、大分その髪も伸びて居た、「芥川氏は髪の長い方が、芥川氏らしい。」と思ったりした。

 氏は夫人を呼んで、掛物をいろいろと見せられた、それ等は、唐画や俳画や書等であった。

 「君の欲しいものをあげよう。」

 「ほんとうだろうか?」

 「うん、遠慮したまうな。」

 「では、その沈黙の唐画を貰っても、かまわないかしら。」

 「どうぞ……。」

 沈黙の花鳥は、沈南蘋の画風に似て居るが、南蘋よりも、シッカリした写生だと私には思われた。

 「今日は、馬鹿に大きな書を書きたいなあ。」

 「じゃあ、久振(ひさしぶ)りに何か書いて貰い度(た)いものです。」

 「……では、小穴の家で、筆を借りて書くとしよう。」

 「じゃあ、行きましょう。」

 「もう一つ、……やり度いものがある……。」

 「何です?」

 夫人に、「河童の原稿を持って来てくれ。」と言われた。

 私は、芥川氏の原稿を、沢山貰って居るのであるから、河童の原稿を貰う事は、何より嬉しかった。「ありがとう。」と言って、私は、戴くようにして、それを受取った。

 芥川氏の家を出ると、小穴隆一氏の家は、すぐ近くだった。

 途中で、「永見君は、僕に二つ年上だね。」

 「芥川氏は三十六ですか?」

 「僕は三十六、君は三十八。君の方が天空海闊(てんくうかいかつ)だから若い……実に君は天空海闊だよ。」

 「クヨクヨ考えたって駄目ですからね。」

 画家の小穴隆一氏とは、震災前、鎌倉で逢ったぎりで、随分久し振りだった。

 芥川氏は、唐紙(とうし)の前に座って、

 「永見君の顔なら、書けそうだ。」

 「震災前、鎌倉の平野家で私の顔を、油絵で書いたのは如何(いかが)したんですか?」

 「何処へやったか無いよ。」

 「では、私を書いて貰いたいな。」

 芥川氏は、黙々として、二枚の書と、一枚の絵とを書いてくれたのであった。

  秋 の 日 や 竹 の 実 垂 る る 垣 の 外

  あはれあはれ旅びとの心はいつかやすらはん「垣

  ほを見れば山吹や笠にさすべき枝のなり」

 絵は、私の好きな河童之図で、絵の上には、

  蒲の穂はなひきそめつゝ蓮の花

 と書かれたのであった。河童は、以前の形と大分変って、芥川氏の身体のように益々(ますます)細長くなって居た。

 「君が来るのを待って居たから、二、三日したら鵠沼ヘ行くよ。」

 「私も遊びに行きましょう。」

 小穴氏の家を出でて別れる時、私はこう云ったが、何んとも答えがなかった。

[やぶちゃん注:『あはれあはれ旅びとの心はいつかやすらはん「垣ほを見れば山吹や笠にさすべき枝のなり」』は二字下げベタであるが、前と同じ理由で、改行した。底本では、ここで書かれた河童図が載る。句は痩せさらばえた異様の河童の上に、頭に「龍之介」と署名して、「蒲」「の穗」「はなひ」「きそめ」「つつ蓮の花」の五行に記されてある。

「十四日であったか、十五日であったか、明瞭(はっきり)と記憶しない」これは「河童」の脱稿(昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表)は同年二月十三日である。永見は「今年の春頃」と言っているから、三月か四月、年譜上の状況から考えると、三月かと思われる。]

 

 芥川龍之介氏の死……二十五日の新聞で知った時の私の驚愕……あの時が、永久の別れであったのか……私を呼んで……涙は、とめどなく落ちて来た。……その日の何(いず)れの新聞にも、三面には芥川氏の死を悲(かなし)んだ記事が一ぱいである、而してラジオ欄には、その夜放送する私の肖像が載って居た。

 「芥川氏と私は、何んという縁だろう! 同じ日の新聞に、二人の写真が載ってる等とは……。」

 芥川家に、馳けつけると、其処には涙に咽(むせ)ぶ人々が、多勢(おおぜい)集まって居られたのであった。

[やぶちゃん注:以下、一行空けはママ。]

 

 告別式の翌々日、芥川氏の家を尋ねると、夫人は、

 「河童の原稿を、あなたに差上げました時に、なんとも言えぬ嫌な眼付(めつき)に、お気附(きづき)ではありませんでしたか?」と言われた。

 芥川龍之介氏……河童……その逸話も紀念品も、今は、すべてが、涙の紀念(かたみ)となってしまったのである。

 私は、静かに端座(たんざ)して、ありし日の氏を追悼しようと、数多い氏よりの贈物を取出して居ると、妻が「私も書いて貰ったものがあります。」と女持(おんなもち)の扇子(せんす)を持出したので、開いて見ると、我鬼酔筆の分と、絵の大小の差はあっても、絵には寸分の相違もない、水虎晩帰之図であった。

[やぶちゃん注:以上で本篇は終わっている。]

 

★永見徳太郎「芥川龍之介氏と河童」に見出したる龍之介の未知の俳句「向扇や永見夏汀の手の肥り」「蘭館に賣られて來たる瓢かな 我鬼」二句

 

向扇や永見夏汀の手の肥り

 

[やぶちゃん注:「向扇」読みが確定出来ない。「きやうせん」「かうせん」の孰れかであろう。三ッ足の扇ちょっと開いた形の向付(むこうづけ)の食器に「向扇」があるが、ここはまさに正しく永見が手に持っている扇を少しだけ先を開いて持っている、その仕草から永見のふっくらとした白い手首をクロース・アップしたものと読む。

「肥り」「こえり」と訓じておく。]

 

蘭館に賣られて來たる瓢かな

 

[やぶちゃん注:「蘭館」「らんくわん」。阿蘭陀(おらんだ)屋敷。芥川龍之介は長崎を愛し、大正八(一九一九)年五月上旬と、大正一一(一九二二)年五月の中・下旬の二回、遊んでいる。二句目の署名が「我鬼」となっているが、永見ははっきりと「再遊の時」といっている。龍之介は大正十一年の春頃から、龍之介は号を我鬼から澄江堂と変えているが、ここでは未だ世間に知られていない号は使わず、敢えて知られた旧号を用いたものと推定される)。

「瓢」「ひさご」或いは「ふすべ」。瓢簞。この句。私は一種の歴史詠の想像の時代絵巻も匂わせた句であろうと私は思う。]

2023/05/07

大手拓次 「霧のなかに蹄を聽く」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  霧のなかに蹄を聽く

 

 亡靈のごとくたけなはにながれる霧は、ふかくふかく、あをくとけいり、柳の葉のすがたをまとめて、ばうばうとけむりしづんでゐる。そこに、私は心のなかにゆるやかな蹄のおとをきく。

 この言ひやうのない無心のやはらかさは、かの薄倖のトリスタン・コルビエエルの「黃色い戀」をみちびき、はらみゆく夢に叡智の木馬をゑがきださうとする。

 わたしは、みえざる友の手にしばらく魂を託さうとする。

 みづいろの風情をかもすわかい手のなだれる吹雪のなかに、この放心をなげようとする。

 霧は母胎の苦惱を木立によぢらせ、人生の寂しい澁面にいれぼくろする。

 金屬製の騷音は默默として、この無爲の階段の犬を縛し、みどりの圓柱のうへに暗黑の葬禮をとほらせる。

 肉身は掌をひらいて因果をうけ、地にひれふす。

 月は太古の火を焚いて幽遠の娘をかたちづくる非望を持つ。

 脣は震動し、震動する。

 感情の旋轉は拍車のやうにくるほしく捲きあがり、旋行するけれど、やはり暮方のとびらに入る。

 ふかぶかとした霧の羊毛の海に眼をあけ、漂鳥のやうに認識をなめむさぼりゆけど、虛無ははてしなく充ち滿つる。

 縛せよ、はてしなく縛せよ、光の消えうせるまで。

 しめくくれよ、意識のもうろうとして梢にのぼるまで。

 わたしは此處に存在し、彼も亦此處にありのままに存在し、沈默の微動のうつるままに、またわたしと彼とは彼處に存在し、廣く時空を通じて何處にも遍在するのである。

 生えさかり、生えさかる雜草のくびをきるなかれ。恐怖の眼に四季の花は死の衣をつけてよみがへり咲くものを。

 微笑せよ、耳なくして聞きうる燕のはおと。

 たたずめよ。眼なくして見うるうららかな女のかたわらひ。

 母韻(ぼゐん)は風、子音は木立。母韻は夢、子音は現。母韻は聲、子音は象。母韻は女、子音は男。母韻は夜、子音は晝。母韻は水、子音は地。母韻は南、子音は北。母韻はみだれ、子音はととのひ。母韻はあゆみ、子音は走り。母韻は指、子音は掌。

 母韻「あ」は空であり、「い」は流れであり、「う」は人間であり、「え」は物であり、「お」は登るにつれて頂いよいよ遙に、無窮の混沌たる進展の貌である。

 

 飽くなき貪婪の情熱は、いよいよ澄むにしたがつて、いよいよくもり、澄みきはまつて更にいよいよ渾沌とおぼろめく迷宮に入り、いよいよ暗く、いよいよ重く、いよいよ惱ましく、いよいよ現實の火爐に沒するのである。澄心いよいよ高く徹して透明となるとともに、人間性の陰影はいよいよ濃く、腐爛し、爆發し、紛糾し、溶透し、燃燒し、低徊し、消失し、あらゆる醜汚のかぎりをつくすのである。澄めよ、濁れよ。れいろうたる鳥のはかげに未知のひびきがある。澄みきはまり、濁りきはまり、この現身の、さつとして一瞬の微笑と化するとき、この矛盾のうちにまつはり咲く幻法こそ私のおもひである。

 うつくしいをんなよ、指をみがけよ。指をみがけよ。

 そのうすくれなゐの爪に幻をうつせよ。

 その爪のひとつひとつに、それぞれの香料を宿らせよ。

 たとへば、おやゆびには香料Vouloir C'est Pouvoirを。ひとさしゆびには香料Rose sans Finを。なかゆびには香料Enfermant Les Yeuxを。くすりゆびには香料Un Jardin la Nuitを。こゆびには香料Un Jour viendraを。

 かくして、それらの指の爪と爪とのなかにたちのぼるひといろの香に移りゆくねむりをさそへよ。

 うつくしいをんなよ。わたしはお前たちのために香料をつくらう。その名は「幻の犬」、「接吻の羽」、「祕密の墓」………さて最後にわたしの指の香をおくらう。

 わたしの夕暮の指は、迷ひのリラであり、影をふくむジヤスマンであり、戀を扇ぐ白薔薇であり、感傷の君影草(きみかげさう)であり、病毒の月下香である。

 わたしの朝の指は、うしほの香であり、森林の香であり、月光の香であり、蛇身の香であり、瑪瑙の香である。

 わたしはこれらの指と指とのもつれる香に、わすれられたる、またいまだ來らざる幽靈の足あとをみいだすのである。

 をんなよ、空氣のなかにすわらう。

 光がむらむらとさわいでゐるではないか。

 

 香料はみなぎりあふれ、すべてはこの肉身の動きのなかにまどろみをつづける。その放肆なる幻影のあゆみは、よろぼふ月のひかりにおとろへることもなく、一介の蟲を匍はして究明のいらくさに休息をもとめる。

 すべてのものは、私のまへにもえなづむけむりの唄である。くちなしいろの音樂である。蒼涼とした子音の群れるかぎろひである。

 わたしは無明のなかに、空のなかに、ながながとよこたはり、むらさきの星をうつした女の脣をおしのけるのである。

 わたしのぞよめく戰慄のゆくほとりに、なにもののこゑかを聽き惚け、うつうつと逆立して感情の小鳥を放ちやる。

 ああ、このかなしい微笑のみぞをのぞくものの不幸を何に譬へよう。

 すべてこのへんぺんとしてめぐる木立のよびごゑは、まさりゆく影にすぎない。

 わたしは戀情にふるへる指をよそほはしてたちもとほる。

 Faisons un Rêveのなじみの香料を手にすりこみ、わたしはとげだつた心像のにはたづみに舟をはしらせようとする愚かさを食べるのである。

 月を黑く塗り、わたしは魚(うを)にうまれ、耳は噴水となり、眼は丘のうへにさきみだれる蔓草となる。

 このみたされたる時のなかに、ひとつの感情は螺狀のひかりをうけて雛の初聲をもらすのである。

 笑ひも、悲しみも、妬みも、惱みも、悅びも、慕ひも、鬱金色の靄(もや)にかくれて浮びあがらうとしてゐる。

 花花をおほひかくして沈め、そのにほひをはるかにおくり、みどりの艷麗なる靑葉をもつてあたりいちめんに飾りつくす。その葉飾りのうめきのらうらうとのびあがるこゑは、無限の生長をそなへた生物である。

 蜂のやうに散亂する透明體の渾沌(こんとん)は足をひきずりながら、顏をかくしてゐる。

 その顏のしめりのあけぼのよ。

 わたしの胸には木の葉がちり、ひたり、もだえ、あがきつつ眼をひらく。

 遠景をよべよ。そのはるかさの賴りないよろよろとした近づきの路に心の莟はふくらむ。

 いつさいが影であり、いつさいが香氣であり、いつさいが音樂である。

 すなはち、たたずみであり、翔(かけ)りであり、消えさるものの美しさである。すべてが捉へがたなきものの哀憐である。

 しかも、このふるいサンボリスムの美學の殿堂を破壞し、洪水をそそぎ、凝固させんとするものの形態にわたしは放射線的執着をおぼえるのである。

 惡魔の舌をひきよせて神の頭にはしらせ、女性の淫を繁らせ、混濁の不具を祭り、變性の靴をはかせ、この風潮の狂ひ咲に長長と接吻し、現代科學の身邊をすくひとり、そこに、どろどろとうづまく人間的黎明の澄徹をたづねんとするのである。

 手をぬらせよ、手をぬらせよ、その遠い手に。

 脣をひたせよ、脣をひたせよ、その遠い脣に。

 心に、意志に、嫉妬に、愛憐に、うつし世をめぐる現身に、さんらんとして無心の香料を沁みとほらせよ、おぼれるまでに、その波のあひだにいだかれて。

 不可解の臥床に風をいたはり、闇のなかに失神するもの。聲は聲をのんであをくうすれ、發光して消えゆく林檎のかげのふかさよ。

 

[やぶちゃん注:「トリスタン・コルビエエル」(Tristan Corbière 一八四五年~一八七五年)はフランスの詩人。ブルターニュの海岸地方に生まれた。船乗りで海洋冒険小説家の父の影響で、早くから海に憬れたが、中学時代、リウマチに罹患し、夢を断たれた。この挫折感が自らの醜貌への過剰な意識と重なり、屈折の多い複雑な心理を形成していった。詩作品はここに出る、一八七三年にパリで自費出版された詩集「黄色い恋」(‘Les Amours jaunes’)に纏められているが、この中で自らを、犬・蟇蛙・蛇などに擬して、永遠の女性の愛を請い、海の冒険の見果てぬ夢を追い、生の倦怠と孤独を歌い、言葉遊びと醒めたユーモアで自嘲を繰り返した。無名のまま、二十九で結核(推定)で夭折した。コルビエール没後の一八八三年、ヴェルレーヌが雑誌『リュテス』で「呪われた詩人たち」の一人として、その詩業を紹介、後、シュルレアリストのブルトンは「睡眠への連禱」を自動書記の先駆的作品として評価した(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「香料Vouloir C'est Pouvoir」フランス語で「『望む』ということ、それは『出来る』ということだ。」の意で成句。「精神一到何事か成さざらん」「意欲は力なり」に同じ。『アール・ヌーヴォー』と『アール・デコ』の両時代に亙って活躍したフランスのガラス工芸家ルネ・ラリック(René Lalique 一八六〇年~一九四五年)の作品に同名の香水瓶がある。合同会社SENOO商事グループのアンティーク部門のサイト「古き旅」の「ガラスの工芸家 ルネラリック Rene Laliqueの素晴らしき香水瓶のご紹介」によれば、『細長い円柱状のガラス容器に、小さな花模様が縦に何列も入った香水瓶で』、『ドーム型のストッパーがつい』た一九二三『年頃の作品』とあった。欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。

「香料Rose sans Fin」「果てしなき薔薇」「終わりなき薔薇」。サイト「ACCUEIL」のこちらに、一九一六『年創業のパリの老舗のパフュームリー『ARYS』から』一九一九『年に発売された『ROSE SANS FIN』という名の香水のパフュームカード』があるとし、現物の写真が掲げられてある。

「香料Enfermant Les Yeux」「目を閉じると見える」だが、“En fermant Les Yeux”が正しい。このフレーズは、知られたものでは、フランスのオペラ作曲家として知られるジュール・マスネ(Jules Emile Frédéric Massenet 一八四二年~一九一二年)作曲のオペラ「マノン」(Manon:一八八四年初演。フランスのアントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジル(Antoine François Prévost d'Exiles/アベ・プレヴォ(Abbé Prévost:僧プレヴォ:カトリック教会聖職者であったため)が書いた小説「マノン・レスコー」(Manon Lescaut)に基づくもの)のアリアが有名。香水名にあって相応しいとは思う。

「香料Un Jardin la Nuit」「夜の庭」。先と同じサイト「古き旅」で、ラリックの同名の香水瓶がある。『イバラ模様の装飾の入った円柱状のガラス容器に、ブロック型のストッパーがついた香水瓶で』、一九二二『年頃の作品』とある。同前の欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。

「香料Un Jour viendra」「ある日やって来る」。同前の「古き旅」で、『細長い卵型の透明なガラス容器に、丸いストッパーとオリジナルラベルがついた香水瓶で』、一九一九『年頃の作品』とあり、同前の欧文サイト「RLalique.com」のこちらで現物の写真が見られる。思うに、拓次はこれらの香水の香りをかいだことがあるのではなく、フランスの香水広告から、以上の香水品の名前から選んだものと推察される。

「リラ」モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイ(紫丁香花)Syringa vulgaris 。標準和名よりも英語のライラック(Lilac)で呼ばれることが多い。リラ(Lilas)はフランス語での呼称。当該ウィキ(「ライラック」である)によれば、『ヨーロッパ原産。春』『に紫色・白色などの花を咲かせ、香りがよく、香水の原料ともされる。香気成分の中からライラックアルコール』Lilac alcohol『という新化合物が発見された』。『耐寒性が強く』、『花期が長いため、冷涼な地域の代表的な庭園木である』。『花冠の先は普通』四『つに裂けているが、まれに』五『つに裂けているものがあり、これは「ラッキーライラック」と呼ばれ、恋のまじないに使われる』。『日本には近縁種ハシドイ Syringa reticulata が野生する。開花はライラックより遅く』六~七『月に花が咲く。ハシドイは、俗称としてドスナラ(癩楢、材としてはナラより役に立ちにくい意味)とも呼ばれることがある』。『ハシドイの名は、木曽方言に由来する』ともされるらしい。『属の学名 Syringa は笛の意で、この木の材で笛を作ったことによるという』とあった。

「ジヤスマン」フランス語で花の「ジャスミン」は“Jasmin”であるが、音写すると、「ジャスマン」である。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum のジャスミン(アジアからアフリカの熱帯及び亜熱帯地方が原産で、本邦には自生しない)類、或いは、ソケイ Jasminum grandiflorum であろう。先の「Jasmin Whiteの香料」の冒頭に附した注を参考にされたい。

「君影草(きみかげさう)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の異名の一つ。香りが強い私の好きな花。当該ウィキによれば、『フランスでは、花嫁にスズランを贈る風習がある。また、メーデーにスズランの花を贈り合う』とあった。なお、本種は有毒植物で、『有毒物質は全草に持つが、特に花や根に多く含まれる。摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの症状を起こし、重症の場合は死に至る』とある。

「月下香」キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ゲッカコウ属チューベローズ Polianthes tuberosa の異名の漢字表記(英名:tuberose)。当該ウィキによれば、『種小名はラテン語で「ふくらんだ、塊根状の」を意味し、球根を形成することに由来する。「チューベローズ」は』、『その英語読みである』とあり、『香りがよく、複雑でエキゾチックな甘いフローラル系で、とくに夜間は香りが強い。園芸種は八重咲きのものが多いが、一重咲きの方が香り高い』とあった。

Faisons un Rêveのなじみの香料」フランス語は「夢を見よう」の意。アンティーク・ショップ「テーブルウェア」のサイトの「ガラスの工芸家 ルネラリック RENE LALIQUEの素晴らしき香水瓶のご紹介2」に、『下から上に向かって緩やかに広がるガラスのボトルに、小さなドットのストライプが入った香水瓶で』、『揃いのドーム型ストッパーがついて』おり、一九二〇『頃の作品』とあった。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六八番 鼠の相撲

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    六八番 鼠の相撲

 

 或所に貧乏な爺樣婆樣があつた。爺樣が或日山へ柴刈りに行くと、向ひ山の方から、デンカシヨツ、デンカシヨツと云ふ聲が聞えるから、ハテ不思議だと思つて、其音を便りに行つて見ると、瘦鼠と上々の鼠とが一生懸命に相撲を取つて居た。

 木の間に隱れて其れをよく見て居ると、其瘦鼠は爺が家の鼠、上々の鼠は長者どんの所の鼠であつたが、爺の家の方のが力が弱くて、長者どんの鼠にスポン、スポンと取つて投げられるので、爺樣はモゾク(可愛想に)なつて、家に歸つた。そして婆樣に山で見た事を言つて、家の鼠がモゾヤだから餅でも搗いて食はせて力を强くして、相撲を取らせたいと言つて、爺婆して餅を搗いて戶棚に入れて置いた。

 其晚、鼠はうんと餅を食つた。

 其次ぎの日も爺樣が山へ柴刈りに行くと、昨日のやうに、デンカシヨツ、デンカシヨツと云ふ掛け聲が聞えるから、其音を便りに行つて見ると、又昨日の鼠どもが相撲を取つて居た。爺樣が木の間から見て居ると、爺の鼠と長者どんの鼠とはどうしても勝負がつかなかつた。そこで長者どんの鼠がお前はどうしてさう急に力が强くなつたと訊くと、爺の鼠は、得意になつて、實は俺ア昨夜餅をウンと御馳走になつたから力が强くなつたと言つた。すると長者どんの鼠はケナリ(羨《うらやま》し)がつて、それぢや俺も行くから御馳走してケロと言ふと、爺の鼠は、俺ア家の爺樣婆樣は貧乏だから、めつたに餅などア搗けねけども、お前が錢金《ぜにかね》をうんと持つて來たら御馳走してもよいと言ふた。そんだら持つて行くから御馳走してくれと言つた。

 爺樣は鼠の話を聽いて可笑しくなり、家へ還つて山での事を婆樣に話して聽かせ、其夜も餅を搗いて二匹分置き、その側に赤い褌《ふんどし》を二筋揃へて置いた。

 長者どんの鼠は錢金をうんと背負つて、爺の鼠のところへ來て見ると、そこには餅もたくさんあれば、其上に赤い褌まであつたので大喜びで、餅を御馳走になつて金を置いて行つた。

 爺樣は其次ぎの日も、いつもの通りに山へ柴刈りに行くと、今日は何日(イツ)もにも增して元氣よく、デンカシヨツ、デンカシヨツと掛聲して相撲取つて居る音がするので、木の間から見ると、二匹は赤い褌を同じやうに締めて取り組んで居たが、爺の鼠も今では長者どんの鼠のやうに力が强くなつて、いくら取つても勝負つかずであつた。

 爺樣は鼠からもらつた金で、大金持になつた。

 (秋田縣角館小學校高等科、柴靜子氏の筆記摘要。
  武藤鐵藏氏御報告の五。)

 

2023/05/06

佐々木喜善「聽耳草紙」 六七番 瘤取り爺々(二話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    六七番 瘤取り爺々(其の一)

 

 昔或所に、額に拳ほどの瘤のある爺が二人あつた。二人の爺どもは、其瘤が如何にも見つともないから、取つて貰はうと、或山奧の神樣に詣《まゐ》つて願をかけて夜籠《よごも》りをして居た。眞夜中頃になると、何だか遠くの方で音がする。それが追々近くなると、賑やかな笛太鼓の囃《はやし》の音になつた。何だらうと思つてゐるうちに、はや其音が一の鳥居の處までやつて來た。

   トレレ、トレレ、トヒヤラ、トヒヤラ、

   ストトン、ストトン

という囃の音が、神樣の長殿(ナガトコ)に入つて來た。これはたまらぬと二人の爺が片隅の方へ隱れようとすると、隱れるか隱れぬうちに、社の戶がガラリと開いて、丈(タケ)が六尺もある赤ら顏の鼻高《はなたか》どもが、四五人連れで入《はい》り込んだ。天狗であつた。[やぶちゃん注:「長殿」寺院等で、板敷の上に一段座を高くして、横に長く畳を敷いた所。ここで、僧などが修行をしたりした。当時は神仏習合で別当寺などもあったので違和感はない。]

   トレレ、トレレ、トヒヤラ、トヒヤラ

   ストトン、ストトン

 かう其天狗共は囃して居たが、いかにも囃ばかりで舞ひ手のない神樂《かぐら》には、天狗どもも倦《あき》ると見えて、互《たがひ》に舞を勸め合《あ》うた。けれども如何《どう》してか其中に舞の出來る天狗が居なかつた。そこで一人が忌々《いまいま》しさうに脇を向く拍子に、隱れて居た二人の爺は見顯はされた。何だ、そこに人間の爺共が居たのか、そんなら早く出て來て舞を舞へと、立つて來て一人の爺の袖を牽《ひ》いて皆の眞中《まんなか》に突出《つきだ》した。怖いこと此上もない、だが、其囃方がいかにも面白かつたので、其爺は調子に乘せられて、こんな歌を唄ひながら踊つた。

   くるみはパツパぱあくづく

   おさなきやアつの

   おツかアかアの

   ちやアるるウ

   すツてんがア

 此歌を三度繰返して歌ひながら舞ふと、天狗だち[やぶちゃん注:ママ。]は、すつかり興じて、手を叩いて褒めはやし、そして皆で斯《か》う言つた。折角のよい舞だが、どうもお前の額の大瘤《おほこぶ》のために、面の作りがよく見えね。其瘤を取つてやらう。ほんとに善《よ》い舞人だと言ひながら、天狗どもは爺の額の瘤を綺麗に取つてしまつた。爺は急に頭が輕くなつたやうな氣がして、喜んで引下《ひきさが》つた。

 

 さて其次には、もう一人の爺の方が、圓座の眞中に引張り出された。さあさお前も舞つて見いと言つて、天狗どもは囃し立てた。

   トレレ、トレレ、トヒヤラ、トヒヤラ

   ストトン、ストトン

 併し此爺は、あまり怖いので體ががたがたと顫《ふる》へて、膝が伸びなかつた。だが皆にせき立てられて、仕方なく斯う歌ひながら、體を動かした。

   ふるきり、ふるきり、ふるえンざア

   こオさアめの降る時は

   いかにさみしや

   かろらんとも、すツてんがア

 だが折角の歌も聲が顫へ、齒ががぢやがぢやでは了(ヲ)えない。おまけにひどく調子が低いので、陽氣好きの天狗どもは厭な顏をして、もう少し元氣よくやつてくれとせがんだ。爺はいよいよ縮み上り、到頭其處に尻餅をついて、わわわわと泣き出した。

 天狗どもは散々に機嫌を惡くし、臆病にも程がある、それほど俺達の顏が奇態だと言ふのかとの言ひ分、折角の面白い神樂を泣潰《なきつぶ》してしまつた。二度ともうお前のやうな爺には逢ひ度くない。此瘤でも持つて還れとばかり、先の爺から取つた瘤をその爺の鼻の上に投げ付けた。爺は驚いて鼻の上をこすり廻したが、もう遲かつた。前の瘤の下に又一つ大きな瘤が出來て、まつたく變な爺になつてしまつた。

 (和賀《わが》郡黑澤尻町《くろさはじりちやう》
  邊の話。家内が祖母から聽いて記憶して居たもの
  の分。)

[やぶちゃん注:囃し唄の歌詞はよく意味が分からない。

「和賀郡黑澤尻町」現在、岩手県北上市黒沢尻(グーグル・マップ・データ)があるが、旧町域は遙かに広い。「ひなたGPS戦前の地図を確認されたい。]

 

       (其の二)

 或所に額に大きな瘤のある爺樣があつた。ある日山へ木伐りに行つて、もう少しもう少しと思つて居るうちに日が暮れてしまつて歸れなくなつたので、其所の山ノ神樣の御堂の中に入つて泊つて居た。

 さうすると夜半頃になると、山奧から大鬼や小鬼どもが大勢下つて來て、走せツドして、御堂をぐるぐる廻りながら、斯う歌つた。

   一ボコ

   ニボコ

   三ボコ

   四ボコ…

 そして變な格好して踊り廻るので、瘤爺も初めのうちは怖(オツカナ)くて御堂の隅コから默つて見て居たが、その踊りの調子がだんだんと面白くなつて、とてもじつとしておられなくなつ

たので、いきなり御堂から飛び出して、鬼どもの後に立つて踊りながら、鬼どもの歌にこ

うつけ加えた。

   ……俺も足して

   五ボコ

 鬼ども、

   一ボコ

   二ボコ

   三ボコ

   四ボコ

 瘤爺樣、

   俺も足して

   五ボコツ

 そして爺樣は鬼どもと一緖になつて、夢中になつて夜明けまでさうして踊り廻つて居た。

その中《うち》に何所かで鷄が啼くと、それやツ夜が明けると言つて、鬼どもが大層あわて出し、爺樣々々、お前の踊りも歌もとても面白いから明日(アス)の夜も來《こ》ヘツ、それまで其のお前の額の瘤を預つて置くと言つて、厄介物の額の瘤をぽつりと取つてしまつた。爺樣はわざとあわてて、鬼樣々々、其瘤は寶瘤だからと言ふと、鬼どもは笑つて、明晚來たら返すと言つて、わりわりと奧山の方へ歸つて行つた。[やぶちゃん注:「わりわりと」「わらわらと」と同じであろう。「急いで、ばらばらと散ってゆくさま」の意で表はよかろうが、他に「陽気なさま」の別な意も含ませてあるか。]

 爺樣は急に身輕になつたやうな氣持ちで、喜んで家に還つた。

 隣家にも同じやうな瘤爺があつた。其家の婆樣が來て見て、爺樣の額の瘤が無くなつたのを見て驚いて其譯を問ふた。昨夜の事を話すと、それでア俺家(オラエ)の爺樣も其所さやんべえと言つて、隣家の婆樣は歸つて行つた。

 隣家の瘤爺も婆樣にすゝめられて其山の御堂に行つて夜籠りをして居た。すると話のやうに夜半頃になると、奧山から大鬼小鬼どもが下りて來た。

   一ボコ

   二ボコ

   三ボコ

   四ボコ

 と歌つて御堂をぐるぐる踊り廻つた。こゝだとばかり其爺樣も御堂から飛び出して、それに調子を合はせて、一緖になつて

   …三ボコ

   四ボコツ

 と言つて走せ廻つた。すると鬼どもが大層不機嫌で、爺樣昨夜のやうに歌へツと言つた。それで爺は益々《ますます》一生懸命に、

   三ボコ

   四ボコッ

と繰り返した。鬼どもは手を叩いて、あとは、あとはと囃し立てた。けれども爺々はやつぱり其後(アト)を知らなかつた。

 鬼どもは大變ゴセを燒いて(怒つて)、お前があれ位《くらゐ》大事がつた物ツ、それやツ返してやるツと言つて、昨夜の爺樣の瘤を取り出してぴつたりと額に打ツつけて、それやツ早く歸れツと言つた。

 (西磐井《にしいはゐ》郡湧津《わくつ》村に殘つて
  ゐる話。昭和五年六月某日、龜島光代氏の談話。)

[やぶちゃん注:「西磐井郡湧津村」現在の一関市花泉町(はないずみちょう)涌津(グーグル・マップ・データ)。]

大手拓次 「綠の惡魔」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

   綠の惡魔

 

 寢床のなかにゐると、あるひとつの音階をふんで幻影がながれよる。野にけむる骨をもとめる生きものの群れのやうに、ひそみかくれた隱忍のけはひが物すごく跪拜して、とりとめもない法念のうごきが顯滅する。鬼火のやうにふらりふらりとやはらかく死の假面をたたかうとして私の心はもだえはじめた。しかし、喪衣をつけた嵐はかけてゆく、かけてゆく。一輪の花の永遠をはこぶ接吻(ベーゼ)もかきみだれる。この動搖し戰慄する夜(よる)のふかい底からわきあがつてきて私をひき去らうとするものがある。ちやうど水母(くらげ)のやうに軟質の、しかも强靭性をもつてゐて、幅のある軀幹はおほきく一面に感觸のうへの闇を場どつてゐる。あゐ色から土ぼけた灰色にかはつてゆくうなり聲は私の皮膚の全面におしかぶさる。

 拔羽を嘴(くち)にくはへて身ぶるひをする鳥、私はそんな思ひがした。

 

[やぶちゃん注:「軀幹」の「軀」は底本の用字。

「接吻(ベーゼ)」拓次の専門であるフランス語では“baisers”(「ベェズイ」)。ドイツ語の同義の“baiser”は、しばしば、「ベエゼ」「ベーゼ」とカタカナ書きするのが普通だが、実際のドイツ語では「ビィズィ」に近い。大手拓次譯詩集「異國の香」の『「緣(ふち)」(ボードレール)』の一節では、『接吻(ベエゼ)』と振っている。]

「教訓百物語」上卷(その4 「狐の嫁入り」又は「付喪神」)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。漢文脈は返り点のみを附して本文を示し、後に〔 〕で読みに従った訓読文で示した。

 さらに、本書には挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。]

 

 皆、百物がたり、聞きこんで、とうしんが、段々、へつて、くらがりになると、いろいろのばけものが、出て來る。又、愚痴といふは、女中(ぢよちう)に多いものじや。[やぶちゃん注:「女中」は、この場合、「御婦人」の義。]

 先づ、第一番に、髮のかざり、骸(からだ)の裝束、

「こんなかんざしは、さゝれぬ。こんな着物は、着て行かれぬ。」

のと、こゞと、ばかり、いふ。

 皆、十二、三の時分から、百物語、聞き込んで、いろいろと、迷ひ出す。

 又、年寄ると、五年、十年前の事を言々(いゝいゝ)出(だ)して、あんじ過(すご)したり、腹立てたり、

「春は、どふせう。秋は、どうせう。子供の末は、どふならふ。」

何をいふも、「かね」の事じや。

「かねが、ほしい、かねが、ほしい、ちつとな。」

と、よびなりしたら、高名の一番帳にも、付くやうに思ふて、咽(のど)、かはかす。

[やぶちゃん注:『「金が欲しい。金が欲しい。ちょっとでもね。」と、年がら年中呼ばわったならば、高名の手柄を記す帳面の一番になれるかのように思い込んで、何時でも、金に渴(か)つえていて、咽喉を渴(かわ)かしている始末だ。』と言った意味か。]

 「君子素其位而行。〔君子、其の位(くらい[やぶちゃん注:ママ。])をして行(おこな)ふ。〕」といふて、我が分限より過(すぎ)た事は、皆、御法度(ごはつと)の奢(をごり[やぶちゃん注:ママ。])じや。

 是れを、「迷ひ」の根本で、「愚痴」といふ。

 「愚痴」は、「畜生の緣を結ぶ。」といふ。何(なに)に化(ば)き[やぶちゃん注:ママ。]]やうも知れぬ。

 よい日和(ひより)に、ばらばらと、雨がふると、

「是れ、狐の嫁入りじや。」

といふ。

 元、「嫁入り」といふは、甚だ、大切な事じや。

 先づ、其家を治めんが爲に、人の子を、もらふ。又、其子の身を治(をさ)めんがため、娘を、外(ほか)へ遣(つかは)す事じや。スリや、むかしから、大切の事故(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])、段々、聞合(きゝあは)して、誠(まこと)を打明(うちあか)して相談したものじや。

 夫れが、近頃の嫁入りの相談といふと、「仲人口(なかうどぐち)」といふて、あてにならず。

「それ、合點。」

で、心得違ひ、相談、極めるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、いろいろの間違(まちが)ふ事が、出來(でき)るじや。

 其せうこには、「狐の嫁人り」といふ繪本がある。

 是れを見ると、嫁さんも、仲人も、かごかきも、荷持(にもち)も、提灯(てうちん)もちも、皆、「きつね」にしてある。

 何故(なにゆへ[やぶちゃん注:ママ。])なれば、雇人(やとひど)を、我が家來の樣にして行(ゆく)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、で、皆、尾が出る、といふ事を書いた物じや。

 三月[やぶちゃん注:「みつき」。]か、五[やぶちゃん注:「いつ」。]つきが立つと、兩方から、

「いや、思ひの外、拵(こしら)へが麁末。」

なの、

「イヤ、身上(しんしやう)がら、聞いたよりは、輕い。」

のと、いろいろと、俄(にはか)に樣子が替(かは)る。

 是れが、よひ日和に、きよろきよろと、雨のふるやふなもので、ぐれぐれと、やうすがかはるゆへ、「狐の嫁人り」といふ。[やぶちゃん注:「ぐれぐれと」副詞で、物事や状態が不安定なさま、また、気持がどっちつかずではっきりしないさまを表わす。現行の「ぐらぐら」に同じ。]

  〽人每(ひとごと)に着るや狐の皮衣(かはころも)化(ばか)しばかされ渡る世の中

 人が、狐狸に化ける、いろいろの物に、妖(ばけ)ける、夫(それ)で、聖人も、「人面獸心(じんめんじうしん)」と仰せられた。顏は人で、心は鳥・けだものじやといふ事じや。

 先(まづ)、寢むたひ[やぶちゃん注:ママ。]時、昼寢なんど、仕(し)かける所へ、人が來ると、

「グウグウ」

と、空(そら)いびきして、寢たふりして、だまして居る。是れを「狸寢入り」といふ。

 又、子供衆(こどもしう)の繪本に、やう書いてある、「狸の『きん』をのばす」といふ事が遠國(ゑんごく)には、ある。人をだまして、かねを延(のば)す「わろ」はある。夫[やぶちゃん注:「それ」。]を「狸の金(きん)のばし」といふ。なぜなれば、金を高利に、かし付けて、取り立てる時は、いろいろの名目を付て[やぶちゃん注:「つけて」。]、金(きん)に包(ひつゝん)で、きうきう、云はす。是れも、此方(こち)から、言はされに行くのじや。笑止な事じやないか。それも、あたまから、かくごしてかゝる人は、千人に一人(ひとり)も、なけれども、又、折々は、あるげな。銘々、御用心なされませ。

  〽世の人の己(をの[やぶちゃん注:ママ。])が心に化されて狐狸(きつねたぬき)をおそれやはする

 

Tukumogami_20230506151301

 

[やぶちゃん注:所謂、「付喪神」(つくもがみ)である。本邦で、長い年月を経た道具や無生物などに何らかの霊魂が宿ったもので、人を誑(たぶた)かすとされた古形の妖怪変化である。右下、石灯籠の変化(へんげ)は左右に手が生えており、左手に盃を、右手に酒を酌むための「ちろり」を持っている(灯りとりの空洞が目に見えて「一つ目小僧」っぽいのが御愛嬌)。その左の地面には本文に出た露地下駄の変化が、鼻緒でシミュラクラ(simulacra)しており、左幅では、右中央に、やはり本文に出る火鉢の変化(火鋏を角にした鬼ちゃん風)、その左に「碁盤」の変化(絵師は碁石入れを両眼に擬えて三つ見える脚からは蟇蛙のように登場させているようだ)、その左奥に将棋盤の付喪神(王将らしいでかい駒が目玉に、その右手に三つの駒を歯のように描いてシミュラクラに成功している)がいる。その上には掛軸三幅を纏めたものも付喪神だ。下部にムカデかゲジゲジのような多足類の足が生えており、軸の芯部分が、あまり成功していないが、シミュラクラと見た。そして、その左中央上にあるのは、恐らく金属製の火消壺の変化で持ち手の鉄輪(かねわ)が口代りで、両目が生じている。而して、絵師は、奥の簞笥も鍵を口に引き手を目玉にシミュラクラしていると私は思う。因みに、底本(「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本)のここの画像では、旧蔵者が、前と同じく、落書していて、超面白い。右幅の空いた箇所の右上に閉じた大きな唐笠が斜めに描かれ、中央に眼玉があり、地面に接する部分には、ヤスデのような脚が添えてある。さらに、露地下駄上部の空白には、黒い髑髏(どくろ)で薄い黒の上半身、左腕を振り挙げて、何かを持っている不気味な絵がある。未ダウン・ロードの方は、是非、この機会にどうぞ! さても、本書の中で、真に怪奇真骨頂な部分は、実は、この挿絵のみである。しかし、言っておくと、儒学や仏教に絡めて「百物語」をダシにして、教訓を語っているこの本は、私は、非常に面白く読んだ。ブログ・カテゴリ「怪奇談集」「怪奇談集Ⅱ」とで、本篇で一千五百五十四篇を電子化注してきたが(他に独立カテゴリの怪奇談があるので、恐らくは二千篇に近い)、いい加減、似たような話にちょっと飽きていた私には、却って新鮮である。]

 

 うかうかすると、古狸に見入れられ、高步(たかぶ)の銀(かね)、借りて、身を奢(おご)り、つひには、「旦那樣」に仕立てあげ、扨、夫から[やぶちゃん注:「それから」。]、「お山」に化けたり、「役者」に化けたり、「関取り」に化けたり、種々(しゆしゆ)無量、旦那の好む物に化けて、つきまとひ、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、穴(あな)に引ずり込まれ、家内中(かないぢう)、眞(ま)くらがりになると、せんざいの石燈籠(いしどうろう)や、手水鉢(てうずばち)・飛び石・らうじ下駄に、目鼻(めはな)が出來(でき)、座敷の、はんどう・火鉢・燭臺やら、碁盤・将棊盤(しやうぎばん)まで、手足ができて、かけ出す。是れも、家内中は、まだしも、後には、「古道具や店(みせ)」へ、かけ廻(まは)る、諸式・諸道具、ことごとく、化けあらはして仕廻(しま)ふ。こはひ[やぶちゃん注:ママ。]物じや。[やぶちゃん注:底本では、ここで切れて、「下卷」の冒頭が改行せずにくっついてそのまま続いている。「続百物語怪談集成」では、ここに、『どなたもよう御合点(がてん)なされませ。』とあって、ページ末に『教訓百物語上之巻終』とある。

[やぶちゃん注:「お山」普通、歌舞伎の女方(女形)の男優を指すが、本書は大坂で刊行されていることから、上方では当時、「おやま」は「遊女」全般を指す語であったから、そちらである。なお、歴史的仮名遣は、「おやま」か「をやま」かは、不詳である。

「せんざい」「前栽」。江戸時代の用法であるから「座敷の前庭」の意。

「らうじ下駄」露地下駄。「茶の湯」で、雨天の際に露地の出入りに履く下駄のこと。杉材で作り、竹の皮の鼻緒を附ける。「数寄屋(すきや)下駄」とも言う。]

大手拓次 「岡よりくる夏」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  岡よりくる夏

 

 悌順な性を持つてゐる下枝(したえだ)の、まだ固く卷かれてゐる葉がほの白い水氣(すゐき)をふくんで伸張するとき、やはらかい銀色の生毛(うぶげ)は露をおびてふるへる。春は人人の感觸のうちに更生の種子を殘してかろく去りゆき、酣醉(かんすい)をのろふ愁殺(しうさい)たる僞笑(ぎせう)はもとほりつつ、その官能の疾驅のうちに豐滿なうつり香をおくのである。われらは、足のない季節の廣漠たる迫進の律動によつて押され、誘はれ、導かれて古甕の如き夏の暗さに入る。

 乾草の夢を湛へた家畜は軟草の燻蒸(くんじよう)する香に淚ぐむ。

 くみ合せた二人の手は汗ばんで分れる。

 鳥は、碧空に向つてとび、痙攣するかすかな物音は野をこめて、くらく、しづかな夏はくる。

 

[やぶちゃん注:「悌順」「弟順」とも書く。兄や年長者に対して従順なことを言う。

「性」大手拓次は実際には、原稿では詩篇の漢字に有意にルビを振っているらしい(原氏による)が、底本では、原氏が読みが振れないものは、ルビを附さないとされているので、これは「しやう」ではなく、「せい」と読んでいると考えてよい。植物の性質の「せい」でよかろう。

「酣醉(かんすい)」原義は、十分に酒を飲んで酔うことを言う。

「愁殺(しうさい)」非常に憂え悲しむこと。また、この上なく嘆き悲しませること。「殺」は強意の添え字である。「しうさつ」とも読む。

「もとほりつつ」「𢌞(もとほ)りつつ」。「もとほる」は、多くの場合、「立つ」・「行く」・「這(は)ふ」などの連用形について「巡る・回(廻:まは)る」の意。「古事記」に既に見られる上代語である。拓次の好んだ語である。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六六番 上の爺と下の爺

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

    六六番 上の爺と下の爺

 

 昔、上《かみ》の爺と下《しも》の爺とで川さ笯(ドツコ)かけをした。朝早く、上の爺が笯上げに行つて見ると、自分の笯の中には大きな木の根(ネツ)コが、ゴロゴロ入つてゐたので、ひどくゴセを燒いて、何だこんな根コきれツと言つて、それを下の爺の笯に投げ込んで、下の爺の笯に入つてゐた雜魚(ザツコ)をばみんな取つて持つて來た。

[やぶちゃん注:「笯(ドツコ)」「ど・うけ・うえ」或いは「ふせご(伏籠)」等と呼び、「筌」(うえ:音は「セン」)の漢字や呼称の方が知られる。水中に沈めて鰻などを捕らえる漁具で、竹・木・金属などで筒状或いはずんぐりした籠の形に作ったもの。。グーグル画像検索「筌」を見られたい。

「ゴセを燒いて」「腹を立てて」の意の東北方言。個人ブログ「わたしのくらし」の「東北の方言3」に、『河北新報』(平成二二(二〇一〇)年)十一月二十四日附の志村文隆氏の『とうほく 方言の泉』からとして、「ゴシャク(怒る)」について、『腹を立てることと相手を叱(しか)ること。怒る意味を持つ東北方言にゴセヲヤク(ごせを焼く)、ゴシャクがある。仙台弁でも活発に使われる。「何そったにゴシャでんのっしゃ(何をそんなに怒っているの)」。東北六県と北陸に分布が見られる。同じ意味でゴセガヤケル、ゴセッパラガヤケルの形もある』。『由来は謎に包まれている。ゴセは「後世」とする説が有力だが、「強情(ごうじょう)」が変化したとする見方など諸説があり、それによって「焼く」の意味もさまざまにとらえられる』。『最も古い出典をたどると、江戸時代前期の仙台方言集』「仙台言葉以呂波寄(いろはよせ)」(享保五(一七二〇)年)に『「こせかやける」が見られ、これ以降の用例も東北や北陸地方に限られている』とされ、『ゴセ(後世)とは仏教用語で生まれかわった世界、来世の安楽のこと。「怒ることは後世を焼くこと」との解釈に立てば、むやみに怒ることを戒めるような示唆にあふれたことばにも見えてくる』とあった。]

 其次に下の爺が笯上げに行つて見ると、自分の笯の中に大きな木の根コが入つてゐるから、あゝあゝこれでも天日《てんぴ》で乾かして置いて割つてクベルといゝもんだと言つて、拾ひ上げて家に持還《もちかへ》つて日向《ひなた》コさ干して置いた。さうしていゝ加減に乾いたから割つて見るベえと思つて、斧を持つて來て、ガツキリ、ガツキリと割ると、其根コの中で、

   爺樣

   靜かに割れツ

   爺樣

   靜かに割れツ

と云ふ聲がした。これア不思議なこともあるもんだと思つて、言はれる通りに靜かに割ると、中からメンコイ(可愛いらしい)小さな犬コが一匹出て來た。そこで爺樣は婆樣として、爐傍《ろばた》の木尻(キニシリ)に置いて大事にして育てた。

[やぶちゃん注:「木尻(キニシリ)」囲炉裏端の末席。横座(主人の座)の対面で、使用人などが座る座を言う。薪をここからくべるので、薪の尻が向くことから生じた呼称。]

 この犬コは、なんたらメゴカベアと言つて、カサコで御飯を喰はせればカサコだけ、今度はお椀で喰はせればお椀だけ、今度は手桶で喰はせれば手桶だけ、臼で喰はせれば其臼のやうに大きくおがつた。

[やぶちゃん注:「メゴカベア」「なんとまあ、可愛らしいなあ」の意であろう。

「カサコ」東北弁で「木の椀の蓋」や「木の小皿」「小さな椀」を指す。「かさっこ」。]

 其犬コが或時、爺樣々々今日は山さ鹿取りに行きますべと言つた。さうして爺樣の斧だの鎗《やり》だのお晝飯(ヒル)だのを俺に背負(シヨ)わせろと言ふから、否々(インニヤ)そんな物は俺が持つて行くからいゝと云ふと、いゝからつけろ、いゝからつけろと言ふから、そんな道具を犬コの背中に附けると、犬コは爺樣の先に立つて、チヨシコ、チヨシツコと山さ走せて行つた。そして爺樣さ[やぶちゃん注:「爺様さ」以下は犬の台詞。]

   彼方(アツチ)の鹿も此方(コツチ)ヤ來ウ

   此方(コツチ)の鹿も此方ヤ來ウ

と呼べと言ふから、爺樣がさう呼ぶと、彼方《あつち》の鹿も此方《こつち》の鹿も、みんなビングリ、ビンゲリと駈けて來たので、犬コはそれをみんな喰ツけアし(喰ひ殺し[やぶちゃん注:噛み殺し。])てしまつた。そして其鹿を犬と爺樣として背負ひ切れない程背負つて來て、町さ持つて行つて高く賣つて、赤い着物や米肴をたくさん買つて來て、爺婆して着つたり喰つたりして喜び繁昌ウして居た。

[やぶちゃん注:「ビングリ、ビンゲリ」鹿がホッピングするのをオノマトペイアしたものであろう。]

 上の家の婆樣はそれを見て、下の家の人達ナ、お前達ア何處からどうして、みんな美しウ衣物《きもの》を着たり米の飯を食つたりして居申《をりまう》せヤと言ふから、俺ア家の犬コを山さ連れて行つて、

   彼方(アツチ)のスガリも此方(コツチ)ヤ來ウ

   此方のスガリも此方ヤ來ウ

[やぶちゃん注:「スガリ」「すがり」は「すがる」で、歌語(「古今和歌集」・「山家集」に用例有り)で「鹿」を指す。これは「蜾蠃」で、元来は「蜂」、特に腰のくびれた「ジガバチ」(細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini の狩り蜂であるジガバチ類)を指し、これは古く「万葉集」に出るが、一説に、ジガバチのように腰が細いというところから、それを鹿に当てたともされる。さても、ここが眼目!]

 と呼ぶと、彼方の山の鹿も此方の山の鹿もビンゲリ、ビングリと駈けて來たから、それを殺して町さ持つて行つて賣つて、衣物だの米だのを買つて來たのシと言つた。すると婆樣は、あれアそれでア俺ア家の爺樣も鹿取りにやりたいから、其犬コを明日貸してケ申せヤと言つて連れて行つた。そして犬コが山さ行くべとも言はぬうちに首に繩を結び着けて、ムリムリ山へ引つ張つて行つて、

   彼方のスガリも此方ヤ來ウ

   此方のスガリも此方ヤ來ウ

 と呼ぶとさあ事だア、あちらのスガリもこちらのスガリも山中の蜂どもが、ガンガンと唸《うな》りながら飛んで來て、上の爺樣のケエツベ(睾丸)をさつぱり刺してしまつた。爺樣は雷樣《かみなりさま》のやうに怒つて犬コを打ツ殺して、コメの木の下に埋めて來た。

[やぶちゃん注:「ケエツベ(睾丸)」語源不詳。

「さつぱり」これは単なる推理だが、「さっぱり」は「全然」の意があり、現代でも、誤りであるが、盛んに慣用表現される「全然、いい」のような用法ではないか? 「すっかり」「しっかり」蜂に「さんざん」刺されたという言い方ではあるまいか?

「コメの木」Q&Aサイトのこちらで、アセビやムラサキシキブを挙げつつも、多数意見と判断されるのは、ムクロジ目ミツバウツギ科ミツバウツギ属ミツバウツギ Staphylea bumalda である旨の記載があった。]

 下の爺の家では上の爺樣が次の日になつても、メンコ犬コを返してくれぬので、行つて見ると、なに、犬ツあの犬のお蔭で俺アこんなに體中蜂に刺されて寢起きもロクロク出來ねえやうになつた。彼《あ》の畜生は打ツ殺してコメの木の下さ堀込《ほりこ》[やぶちゃん注:「堀」はママ。]んで來れアと上の爺は言つた。

 そこで下の爺樣は泣きながら、そのコメの木を伐つて來て、座敷の眞中にゴザを敷いて、木摺臼《きすりうす》を置き其上にコメの木を立てゝ、

   錢金(ゼニガネ)ア降れエバラバラツ

   米、酒ア降れエバラバラツ

 と言つてホロク(搖《ゆす》る)と眞實《まこと》に錢金や米や酒の入つた錫《すず》コなどが降つて來て、まアた長者どんになつて、米の飯を煑て食つたり酒コを飮んだりして居た。

[やぶちゃん注:「錫コ」は「錫子」か。思うに、錫製のものが多い「銚釐」(ちろり)様のものを指しているのではないか。中国から渡来した、酒を温めるのに用いる金属製の容器で、銀でも作る。やや尻つぼみになった円筒形で、注ぎ口と取手が付いている、現在でも酒の燗をつけるのに使われている。「銚子」。]

 其所へまた上の家の婆樣が來て、あれア、汝達(ヲンダチ)はまた米の飯だの酒コを飮んで居るア、ケナリ(羨ましい)事ケナリ事と言ふので、譯を言つて其のコメの木を貸して遣ると、上の家の爺婆は座敷の眞中にゴザを敷いて其上に其木を立てながら、

   牛(ベコ)の糞ア降れエベダベダア

   犬(イン)の糞ア降れエベダベダア

   猫(ニアゴ)ア糞ア降れエベダベダア

 と唱へると、眞實に牛や犬の汚い糞が座敷中一杯に降つて臭くて臭くて、迚も寄ツ着《つ》かれなかつた。上の爺樣はひどく怒つて其木をヘシ折つて竃ノロさクベてしまつた。

[やぶちゃん注:「寄ツ着かれなかつた」近くに寄ることも出来なかった。]

 次の日になつても上の爺樣がコメの木を返さないので下の爺樣が行つて見ると、上の爺は大變怒つて、何のコメの木、あれア糞ばかり降るのでヘシ折つて火さクベてしまつたと言つた。それでは其灰コでもいゝからと言つて、其灰コを持つて來た。そして夕方になつたから屋根の上へ登つて、

   雁(ガン)ア目(マナク)さ入れツ

   雁(ガン)ア目さ入れツ

 と呼んで其灰を蒔くと、恰度《ちやうど》其時空を飛んで通る雁々の目サ灰が入《はい》つて、雁々がぽたぽたと下へ落ちて來た。それを拾つて下の家では雁汁《がんじる》を煮て食つて居た。

 其所へまた上の家の婆樣が來て、あれア汝達はケナリこと、何處から其んな雁を捕つて來て、雁汁など煮て食つて居申せヤと言つた。そして譯を聞いて、それでア俺家の爺樣にも雁を取らせるから、其灰コを貸せと言つて持つて行つた。そして上の爺樣は雪隱《せつちん》の屋根に上つて、

   爺々(ヂンヂ)ア眼さ入れツ

   爺々ア眼さ入れツ

 と呼んで灰を蒔くと、ほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に爺樣の眼に灰が入つて、目が見えなくなつて、屋根の上からゴロゴロと轉がり落ちた。下で棒を持つて雁が落ちるのを待ち構へて居た婆樣は、それア大きな雁が落ちて來たアと言つて爺々を棒で叩き殺して、大きな鍋に入れて煮てしまつた。

[やぶちゃん注:最後が、なかなか――クる――ものがある。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六五番 蛇と茅と蕨

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

   六五番 蛇と茅と蕨

 

 或時野原の蛇が茅萱畑(チガヤバタケ)に晝寢をして居た。ぐつすりと眠つて居るうちに茅の芽が萠《も》え出て自分の體を貫(ツラヌ)いて伸びてゐた。

 蛇は前へも行かれず後《あと》にも退《ひ》かれず、體が動けなくなつて困つてゐると、其所へ蕨(ワラビ)の芽が萠え出《だ》して蛇の體を自然と持ち上げて、茅の芽から拔いてくれた。

 だから野原などで蛇を見たら斯《か》う云ふ呪《まじな》へ語(ゴト)を唱へれば害はせぬといふ。

   蛇々

   茅萱(チガヤ)畑に晝寢して

   蕨の恩顧(オンコ)を忘れたか……

   アプラウンケンソワカ

 斯う三遍唱へれば、蛇は蕨の恩顧を思ひ出して必ず路を除《よ》けてくれると謂ふ。

 (私の幼時の記憶。村のお秀婆樣からの傳授。又
  村の子供達が夏の野などを行く時の蛇除けの文
  句は斯う言ふ。
   蛇ア居たら、
   ガサガサ
   大工殿の鐵火箸
   赤く燒いてれ
   打つけんぞツ
   打つけんぞツ)

[やぶちゃん注:「茅萱畑(チガヤバタケ)」「茅萱」は単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica 当該ウィキによれば、『かつて、茎葉は』、『乾燥させて屋根を葺くのに使い、また』、『成熟した柔らかな穂は』、『火打石で火をつけるときの火口(ほくち)に使われた』し、『乾燥した茎葉を梱包材とした例もある』とある。わざわざ畑に植えなくても、野原に繁茂するが(寧ろ、現在は厄介な雑草である。私はあの穂が大好きなのだが)、『尖った葉は、昔の日本で邪気を防ぐと信じられていて、魔除けとしても用いられた』。また、『この植物は分類学的にサトウキビ』(イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum )『とも近縁で、根茎や茎などの植物体に糖分を蓄える性質があ』り、『外に顔を出す前の若い穂はツバナ』(茅花)『といって』、『噛むと』、『かすかな甘みがあって、昔は野で遊ぶ子供たちがおやつ代わりに噛んでいた』。『地下茎の新芽も食用となったことがある。万葉集にも穂を噛む記述があ』り、『日本では古くから親しまれ、古名はチ(茅)であり、花穂はチバナまたはツバナとも呼ばれ』、「古事記」や、既に述べた通り「万葉集」にも、その名が出ているとあり、現在では、『葉が赤くなる性質が強く出るものを』『園芸』として『栽培する例がある』ともあった。まあ、この場合の「茅萱畑」は、実際のチガヤを植えた「畑」ではなく、「茅萱の群生する野原」の謂いであろう。

「蕨(ワラビ)」シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ亜種ワラビ Pteridium aquilinum subsp. japonicum 。私は好きな山野草の一つだが、近年は発癌物質を含むことで、人気が落ちた。ワラビはウィキの「ワラビ中毒」によれば、牛・馬・羊などの家畜などはワラビ摂取によって中毒を起こし、牛では重症化すると死亡することが知られ、ヒトの場合も中毒を起こすことがあり、『適切にアク抜きをせずに食べると』、『ビタミンB1を分解する酵素が』、『他の』摂餌した食物の『ビタミンB1を壊し、体がだるく』、『神経痛のような症状が生じ、脚気になる』場合『もある』。『一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』とあり、また、発癌性も指摘されており、ウィキの「ワラビ」によれば、発癌物質とされる『プタキロサイド』(ptaquiloside)『はアクの部位に多いが、アク抜きしても発ガン性は残存』し、『ラットの発ガン率は、処理なし78.5%に対し、灰処理25%、重曹処理10%、塩蔵処理4.7%と低下はするものの』、『残存』することが証明されてはいる。

「アプラウンケンソワカ」「アビラウンケンソハカ」(アビラウンケンソワカ)が正しい。「阿毘羅吽欠蘇婆訶」で大日如来に祈る際の呪文(真言呪)。「アビラウンケン」はサンスクリット語の音写で、「地水火風空」を表わし、「蘇婆訶」は、同じ語の音写で、「成就」の意を表わす。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六四番 野槌

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

    六四番 野槌

 

 河原の某と云う者があつた。朝草刈に片澤と云ふ所へ行つて、いつもの通り何の氣もなしに草を刈つて背負つて來て、馬に喰はせべえと思つて見たら、胴ばかりの蛇が刈草の中に入つて居た。

 次の朝また片澤へ行つて見たら、胴の無い藁打槌《わらうちづち》のやうな格好の蛇が眼を皿のたうにして睨んでゐた。これはきつと昨日の蛇だと思つて、これから此澤に入りませんし、オドコ(祠)を建てゝ、祭りますから、祟らないでケロと言つて歸つた。

 其後何代かが過ぎて喜代人《きよと》と云ふ人が、其言ひ傳へを聞かずに、其所へ草刈りに行くと、頭ばかりの槌のやうな蛇が居《ゐ》たつた。見て歸つて病氣になつて死んだ。それからは現在も其所の草は刈らないことにしてゐる。

  (閉伊郡遠野鄕佐比内《さひない》村の話。菊池一雄氏
  御報告分の三。この野槌の話は私の村にもあつた。卽
  ち或男が例の通り朝草刈に行くと間違つて鎌で蛇の頭
  を切つてしまつた。其男は老人達の話を聽いてゐたも
  のだから、直ぐに蛇に、これは俺の故(セイ)でア無
  いよ。鎌の故だよ。祟らば鎌さ祟れと言つて歸つた。
  それから丁度三年目に其所で草を刈つて居ると、藁打
  槌のやうな頭ばかりの蛇が、草の中からいきなり鎌に
  嚙みついた。其時鎌で突詰《つきつ》めて眞實《まこ
  と》に殺したと謂ふのであつた。)

[やぶちゃん注:「野槌」所謂、「ツチノコ」(槌の子)「野槌蛇」で、実在しない(と私は断言する)異蛇であるが、「古事記」「日本書紀」に登場する『草の女神』とされる「カヤノヒメ」の別名に「野椎神(ノヅチノカミ)」があり、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」には、「徳のない僧侶は、深山に住む槌型の蛇に生まれ変わる。」とあり、「生前に口だけが達者で、智慧の眼も、信の手も、戒めの足も無かったため、野槌は、口だけがあって、目や手足のない姿なのだ。」と言及が既にあり、江戸時代になると、しきりに本草書や怪奇談に出現するポピュラーな未確認生物ではある。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」で熊楠が詳説し、私も詳しく注を附しているので見られたい。また、最近の私の電子化注では、『早川孝太郞「三州橫山話」 蛇の話 「引越して行つた蛇」・「群をした蛇」・「ヒバカリの塊り」・「烏蛇の恨」・「ツト蛇」・「人の血を吸ふ蛇」』の「ツト蛇」がそれであるので、参照されたい。未だに「実在する」と主張する連中はいるが、一度として生体が捕獲されたことは、ない。私の記事でも以上を含めて、二十件で言及している。

「河原」「片澤」附記に「閉伊郡遠野鄕佐比内村」とあり、これは現在の岩手県紫波郡紫波町(しわちょう)佐比内(グーグル・マップ・データ)である(遠野市市街から北西約二十八キロメートル)。「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、「佐比内村」のここに「川原町」があるので、「河原」は地名で、ここであろう。「片澤」は見当たらないが、現在の「川原町」に相当する箇所を右の「国土地理院図」で見ると、「芳沢」と、その南西に「片山」があるので、この中間地点附近が、候補となろうかとも思われる。グーグル・マップ・データ航空写真ではここに当たる。]

大手拓次 「枯草の囚人」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

 枯草の囚人

 

 私は老いた。落葉の丘、枯草の野、ものうい息はひたすらに物をまねく。

 そよりそよりとなぶられ、心まかせにゆれるうすい薁(ゆすらうめ)の枯草、みじかい針のやうにきらめくのもあり、鋒(ほさき)のやうにひらめくのもある。灰色に、茶に、朱に、こはばつた枯草がめづらしく生の名殘を示してゐる。そのなかに鳥はひそみかくれ、雫する水のしたたりは化粧する。人人の言葉はしづかに步みよつてよりすがる。黑いやはらかい土はひろくつらなつて情け深く、もぐらもちや種や失はれた寶玉を抱き、うたがひ深い風はたえず物をさがす。苦しみは老いほけた姿を投げだし、歡喜は、くづれくちた幻を植ゑようとする。おろか者だ。彼等は爭つた。愛しあつた。又憎んだ。親しんだ。反抗した。追ひかけた。

 或日太陽がわらつた。すると小さな靑い野鳥が歌ひ出した。

  生きてゐたとて何にならう。

  波のまにまにはじけとぶ

  みどりの葉つぱの鳳仙花。

 太陽はまたにこにこと笑つた。鳥は續ける。

  生きてゐたとて何にならう。

  白い尾羽根のかもめどり、

  命の夢をもてあそぶ。

 太陽はなほ笑つてゐる。

  生きてゐたとて何にならう。

  赤い大きい火の貝殼に

  黃金(きん)の紐をつけてからからと。

 太陽は悲しさうであつた。野鳥は悲しいこゑをのこして消えた。

 太陽は野鳥の姿を追ひ求めた。しだいに强くおごそかに赫赫とてりかがやいた。枯草は驚異の感にうたれ、眼をあげてをののいた。しかし分らない。小さな野鳥は暗い地のなかで祈禱の歌をつづけてゐた。太陽はそれを知らない。それゆゑに灼くやうに輝いた。

 飽くまでも探さうとした太陽の努力は無にはならなかつた。野鳥の歌が太陽の耳にはひつたのだ。永劫はうつりゆくのだ。太陽は姿を捨てて、歌聲に愛をたれた。野鳥は今も土のかげに歌をつづけてゐる。太陽は彼の幸福を祝してゐる。

 

[やぶちゃん注:「薁(ゆすらうめ)」バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 。うす甘い、サクランボに似た味のする赤い実で知られる。当該ウィキによれば、漢字表記では「梅桃」「山桜桃」で、『俗名をユスラゴともいう』。『和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫するのに』、『木をゆするのでこの名がつけられたのではないかとしている』。なお、『現在では、サクラを意味する漢字「櫻」は、元々はユスラウメを指す字であった。ユスラウメの実が実っている様子を首飾りを付けた女性に見立てて出来た字である』とあった。

「赫赫」「かくかく」。赤々と照り輝くさま。私はそう発音はしないが、口語では促音化して「かっかく」とも発音する。]

大手拓次 「とび色の歌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  とび色の歌

 

 ムリロは頭をなぐつた。紫色の水母(くらげ)のやうにぐにやぐにやとくづれた。ねばる液がひろがつて行つた。そのなかには黃色い幼蟲が眼をあけてさわいでゐた。そいつは可笑しいのでも、悲しいのでもない、やたらにうれしいのだ。蟻の子囊(しなう)のやうなものである。ふいふいと浮んでゐる。

 ムリロは手をなぐつた。女蛇のやうに强くしふねくはねかへつて、くるくると絡みあつた。そしてゆるくしつかりとねぢれる。紅い血も見えないし、强(こは)らしい音もない。人燒場のかまどから出る脂火(あぶら)のやうに物うい想念が座をかまへてゐる。爪の色ばかりが、あを白く影をふくんで搖れうごいてゐる。

 ムリロは足をなぐつた。鳥がさわ立つて、夜とつかず、ひるとつかず、限りない擾音と轟鳴とがうちかへしなりかへしてゐる。そしてその二つの足は翅となつて舞つて行つた。

 

[やぶちゃん注:「子囊」の「囊」の字は底本の表記である。

「とび色」「鳶色」で、鳥のトビの羽色に似た赤味の強い暗い茶褐色を言う。

「ムリロ」不詳。綴りは“Murillo”か。ラテン系の名ではある。

「紫色の水母」私の得意分野である海棲動物中のクラゲ類で、私がまず真っ先に思い浮かべる「紫色の水母」は、強力な刺胞毒を持つ刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalisLinnaeus, 1758である。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”“Bluebubble”などと呼ぶ(実は形状から女性生殖器に喩えた猥褻含みの欧名もある)。詳しくは、「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(5)」の私の長い注を参照されたい。なお、和名「カツオノエボシ」は、「鰹」がやってくるまで被っていた「烏帽子」の謂いで、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まず、このクラゲが先に沿岸部に漂着し、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を豊漁の予祝的に儀式正装の烏帽子に見たてて、かく呼ぶようになったものである。断言は出来ないが、私はカツオはカツオノエボシを摂餌はしないと思う(ちっちゃな可愛いアオミノウミウシ(綺麗な格好しているくせに刺胞を発射させることなく、体内に取り入れる「盗刺胞」をやらかすのだ。この不思議な機序は実は判っていないのだが、私は何らかの情報(細胞質内の酵素或いは遺伝情報)を刺胞に与えて異物認識をしないようにさせているのではないかと私は考えている。そんなの非科学的だって?! いやいや! ウミウシの中には細胞核の情報を盗んでクラゲの刺胞を自己武器に転用するトンデモない「盗核」がほぼ確実視されているウミウシがいるのである! 嘘だと思うなら、私の「盗核という夢魔」を読まれよ!)や、カツオノエボシと共生するなどと言われている(私は「共生」という考え方には意義がある)当該種の刺胞毒に耐性を持ち、平気で刺胞体垂下部に棲んでいるスズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii(こいつがカツオノエボシの刺胞体をついばんで食うことはずっと昔からよく知られているのだ。だからこれはやはり寄生というべきなのだ、と私は声を大にして言いたいのである)なんてえのも、いることは、いる(但し、時に刺胞に刺されて食われるエボシダイもいるらしい)。なお、近日、奄美大島などの海岸に押し寄せてニュースになった、生体自体のそれが、同じく青みを帯び、しかも堅い板状を呈して、まさしく寧ろ揉烏帽子によく似ていると私は感じている、しかし、カツオノエボシとは全くの別種である(ニュースでは、「カツオノエボシの仲間」と言っているアナウンサーが複数いたが、以下の分類名を見てみれば、一目瞭然、あれは近縁種ではなく、とんでもない誤りだ! ただ、カツオノエボシほどではないが、やはり、刺胞毒は強く、危険なので、触れてはいけない。但し、カツオノカンムリには、カツオノエボシと異なり、ごく短い触手しかない)ヒドロ虫綱花クラゲ目 Anthomedusae 盤泳亜目 Disconectae ギンカクラゲ科 Porpitidae カツオノカンムリ属 Velella カツオノカンムリ Velella velella Linnaeus, 1758も挙げておいてやらないと、可哀そうだな。

「女蛇」原氏はルビを振っていない。「めへび」か。「ぢよじや」は硬いし、聴いたことがなく、「をんなへび」では韻律が悪い。先の「大手拓次 ゆあみする蛇」での使用例があるが、そこでもルビを振っていない。

「擾音」歴史的仮名遣「ぜうおん」(現代仮名遣「じょうおん」)。煩わしい乱れた騒音。]

大手拓次 「手箱の嫁入」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『散文詩』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正期(元年は一九一二年)から昭和期(拓次の逝去は昭和九(一九三四)年四月十八日午前六時三十分)年までの、数えで拓次二十六歳から死の四十七歳までの『散文詩約五〇篇中より一七篇』を選ばれたものとある。そこから、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。]

 

  手箱の嫁入

 

 ふるい原始的のをどりが、今あれさわいでゐる。銅色の肉塊と銀色にひびく歡喜のこゑ。神は幽玄の手舞の思ひをひそめて、そのかるい步みをとどめる。彼等は一列に、また二列に、さまざまにとりどりに入りみだれ、組み合され、はなれては物を思ふ如く、ついては命にもえる如く、火の蛇の戀に狂ふやうに、雄雄しく、おづおづと、云ひがたい悅びと豫期とにみたされてあれまはる。

 靑と朱と金泥の娘たちがあらはれて、戀の男をとりかこむ。

 みどりの木の葉木の葉はなりさわぐ。

 疾風のやうな環舞ひよ。

 

 ひとりの坊さんが出た。

 彼等はみんな平伏した。

 あけぼのが東に見えはじめた。

 しづかにしづかに彼等の身體はうごく。

 

2023/05/05

大手拓次 「みづのほとりの姿」 /(詩集「藍色の蟇」所収の同篇とは複数の異同がある)

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は詩集「藍色の蟇」に含まれているのだが、原氏のそれは、明かに同詩集のそれ(リンク先は私のブログ単発版。比較されたい)とは、有意な箇所で字空けが異なっており、読点の異同もある。原氏は詩原稿に当たったものと思われるので、特に例外的にここに掲げることとした。

 なお、これを以って、『『藍色の蟇』以後(昭和期)』からのチョイスは終わる。

 但し、採用しなかった詩集「藍色の蟇」に採用されてある詩篇の総てを、厳密に本底本と校合しているわけではないので、或いは、他にも表現の異同がある詩篇がある可能性がある。以後、時間のある時に、それらもゆるゆると検証し、それが判った場合は、改めて、ここで掲げようと思う。悪しからず。

 

 みづのほとりの姿

 

すがたは みづのほとりに うかぶけれど、

それは とらへがたない

とほのいてゆく ひとときの影にすぎない。

 

わたしの手の ほそぼそと のびてゆくところに

すがたは ゆらゆらとただよふけれど、

それは みづのなかにおちた 鳥のこゑにすぎない。

 

とほざかる このはてしない心のなかに

なほ やはやはとして たたずみ、

夜(よ)も晝も ながれる霧のやうにかすみながら、

もとめてゆく もととめてゆく

みづのほとりの ゆらめくすがたを。

 

[やぶちゃん注:詩集「藍色の蟇」との異同を示す。ルビの有無も含めると、八箇所もの異同があるのである。

・第一連第一行目

「すがたは みづのほとりに うかぶけれど、」は、詩集「藍色の蟇」では、「すがたはみづのほとりにうかぶけれど、」で、二箇所の字空けが、孰れも、ない。

・第二連第一行目

「わたしの手の ほそぼそと のびてゆくところに」は、詩集「藍色の蟇」では、「わたしの手のほそぼそとのびてゆくところに」で、二箇所の字空けが、孰れも、ない。

・第二連第二行目

「すがたは ゆらゆらとただよふけれど、」は、詩集「藍色の蟇」では、「すがたは ゆらゆらとただよふけれど」で、句末の読点が、ない。

・第二連第三行目

「それは みづのなかにおちた 鳥のこゑにすぎない。」は、詩集「藍色の蟇」では、「それは みづのなかにおちた鳥のこゑにすぎない。」で、後の方の字空けが、ない。

・第三連第三行目

「夜(よ)も晝も ながれる霧のやうにかすみながら、」は、詩集「藍色の蟇」では、「夜」のルビ「よ」は、ない。

・第三連五行目(最終行)

「みづのほとりの ゆらめくすがたを。」は詩集「藍色の蟇」では、「みづのほとりのゆらめくすがたを。」で、字空けが存在しない。

「教訓百物語」上卷(その3 地獄は現在地獄にして親の怒りが子に報う)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。漢文脈は返り点のみを附して本文を示し、後に〔 〕で読みに従った訓読文で示した。

 さらに、本書には挿絵が八枚(二幅セットで四種)あるが、底本は画像使用には許可が必要なので、やや全体に薄い箇所があるものの、視認には耐えるので、「続百物語怪談集成」のもの(太刀川氏蔵本底本)を読み込んで、トリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。いや、というより、底本の画像の状態が非常によいので、そちらを見られんことを強くお勧めするものではある。]

 

 扨て、とうしんを、百筋、入れて燈(とも)したといふは、赤子(あかご)のたとへじや。赤子は、ほしいの、おしいの、惡(にく)いの、うらめしいの、といふやうな心は、ない。たひてい[やぶちゃん注:ママ。]、明らかなものじやなひ[やぶちゃん注:ママ。]。暗い心は、みぢんも、ない。それ故、「孟子」にも、『夫人者不失其赤子之心。』〔夫(そ)れ、人は、其の赤子(せきし)の心(こゝろ)を失はず。〕と、あり。又、一休も、

  〽生(むま)れ子の次第次第に知惠付(つき)て佛(ほとけ)に遠くなるぞ悲しき

又、釋尊も、「天上天下唯我獨尊。」〔天上天下(てんが)、唯我(ゆひが[やぶちゃん注:ママ。])獨尊。〕と仰(をゝせ[やぶちゃん注:ママ。])られた。是れも、うぶ湯だらひの中(なか)での事じや。誰(たれ)も皆、赤子の時は、佛樣とくらべても、神樣・聖人とくらべても、少しも違ひは、ない。皆、いろいろ、さまざまの事、聞きならひ、見ならひ、其(その)百物がたりからと、ふしんが、一筋(すじ[やぶちゃん注:ママ。])、一筋、へつて、後には、眞(まつ)くらがりに、なるのじや。銘々、身に備はつてある本心を、とり失ふて、仕廻(しまふ)ふて[やぶちゃん注:ママ。]、人心(じんしん)斗(ばか)り、「おれが、おれが、」を主(あるじ)として、一生を苦しみ詰めにして、死んで仕廻(しま)ふは、悲しいものじや。夫(それ)で、

『孟子曰、仁人心也、義人路也、舍其路而弗ㇾ由、放其心而不ㇾ知ㇾ求哀哉、人有鷄犬放、則知ㇾ求ㇾ之、有放心而、不ㇾ知ㇾ求。』〔孟子曰はく、「仁は、人(ひと)の心なり。義は、人の路(みち)なり。其の路を舍(す)てゝ、而(しか)ふして、由(よ)らず。其の心を放ちて、而ふして、求むることを知らず。哀しいかな、人、鷄犬(けいけん)を放(はな)てることあるとき、則ち、之れを求むることを知る。放心(ほうしん)有りて、而ふして、求むることを知らず。」[やぶちゃん注:「と」が欲しいが、ない。]。〕

[やぶちゃん注:注無しでいいと思うが、万一のために、高校生向けのサイト「フロンティア古典教室」の「孟子『仁は人の心なり』原文・書き下し文・現代語訳」をリンクさせておく。]

 「仁」は、人の德、本心の事じや。「義」は、人の步むべき道じや。然るに、今日(こんにち)、銘々ども、本心を、とりはなして、求めもせず、又、道筋を捨てゝ、用ひず。人の道を、ふみたがへて、迷ふて居るといふは、誠に、悲しむべき事じや、と仰せられた事じや。内(うち)にかひ置いた犬・鷄(とり)・ねこなど、取り失ひし時は、うろうろして、さがし求める。先祖から產み付けてもらふた本心を、とり失ふて、求めざるは、どふした道理じやぞ。どなたも、本心を御しりなされて御ろうじませ。甚だ、調法なものじや。

 扨、段々と、心が暗ふなる事を、御噺申しませう。

 先(まづ)、幼少の時分、欲心の出來ぬ内は、手に物を取りても、手より、ずるずる、落す。手に、物を、取りも、せぬ。

 扨、少し欲が出來ると、物を、とつて、じつと、にぎる事を、しる。

 或人の發句に、

  〽片ちぶさにぎるや欲の初ざくら

 まだ、其時分は、物を持ちて、喜ぶばかりじや。たとへ喰ひ物でも、

「兄樣に、一ツ、やりや。」

と、いふと、直(じき)にやるじや。まだ、ほしいばかりで、おしむ心が、ない。

 ま、一段、欲が出來ると、

「皆、ぼんがのじや。」

と、いふて、放さぬ。

 其欲心が、次第次第に增長(ぞうちやう)して、「どん欲」といふ「化物」になるのじや。

 盜人(ぬすひと)の子でも、二ツや、三ツ斗りまでは、持(もつ)ている[やぶちゃん注:ママ。]、ものを、

「たい、たい、」[やぶちゃん注:「頂戴な。」という幼児語というか、話し手の希望を表わす助動詞の「たい」であろう。]

と、いふと、直に放してくれる慈悲の丸垢(まるむく)じや。

 夫(それ)が、大きうなると、「たい、たい、」所じやない、節季(せつき)に書き出しやつて、其上に、さいそくしても、

「いやじや、いやじや、」

と、いふて、放しや、せぬ。

 皆、垢の溜(たま)つたのじや。替つたものに、化ける者じや。

  〽吉㙒川其水上(みなかみ)を尋づぬればむぐらのしづく萩の下露(したつゆ)

 こわい者じや。吉野川程の大川でも、水上は少しの事じや。

○易曰霜履堅氷至葢順言。〔「易」に曰はく、『霜(しも)を履(ふ)んで、堅き氷(こふり[やぶちゃん注:ママ。])に至り、血、葢(けだ)し順(したが)ふを言ふ』。〕

[やぶちゃん注:以上は「易経」「坤卦」(こんけ)の一節。小学館「日本国語大辞典」に、『霜をふんで歩く季節を経て、氷が堅く張る厳冬の季節に達する。何事も徴候が現われてから、その後に実際のできごとが起こるというたとえ』とある。]

 人欲(じんよく)も、初(はじめ)は、少しの事じや。親に、「なんぞ、なんぞ、」と、いふたくらひの事が、段々、百物がたりを聞(きゝ)こんで、後(のち)には、祖父も、祖母も、兩親も、つきのけて置(をひ[やぶちゃん注:ママ。])て、我が方(はう)へ取り込む工面(くめん)ばかり仕(し)て居(い[やぶちゃん注:ママ。])る。

 そうなると、心も(骸からた[やぶちゃん注:ママ。])も、次㐧(しだい)次㐧、替(かはつ)て來る。腹の大きな、手足、ほそふ[やぶちゃん注:ママ。]、化ける。

  〽欲ふかき人の心とふる雪はつもるにつけて道をわするゝ

  〽銀持(かねもち)と朝晚捨てる灰吹(はいふき)はたまるほどなを[やぶちゃん注:ママ。]きたなひ[やぶちゃん注:ママ。]としれ

  〽燒(やけ)ば灰埋(うづ)めば土となるものを何にしつらん欲つらのかわ[やぶちゃん注:ママ。]

  〽凡夫(ぼんぷ)めらあまりに物なほしがりそ身さへ我身にならぬものかは

  〽十𢙣の立(たち)ならびたる其中にどん欲どのゝ背(せい)の高さよ

[やぶちゃん注:「十𢙣」「𢙣」は「惡」の異体字。「身(しん)」の三悪(正行(しょうぎょう))の殺生・偸盗・邪淫、「口(こう)」の四悪(正語)の妄語・綺語(綺麗事を言って誤魔化すこと)・両舌(二枚舌を使うこと)・悪口(あっく:他人の悪口を言うこと)、「意(い)」の三悪(正思)の貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい:すぐ怒ること)・愚癡(恨んだり妬んだりすること)を指す。]

 此(この)やうにいふと、『欲は、ならぬ物か。』と思召(おぼしめ)そふが、そふでは、ない。先祖・御兩親を、大切に養ひ、仕へ、女房・子を、はごくみ、又、『子孫にも、相應の家とくを、ゆづりたい。』と思ふは、皆、人の情じや。少しも、無理せず、無理いわず、商賣、精出して、賣先(うりさき)も、買先(かいさき[やぶちゃん注:ママ。])も、ともに身過ぎして行(ゆく)やうにして、自身、儉約を第一に守りて、もふける[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ならば、百貫でも、もふけたがよい。

  司馬溫公(しばをんこう)の家訓に曰(いはく)、

  積ㇾ金以与于子孫子孫必能不ㇾ持、

  積ㇾ書以与于子孫子孫必能不ㇾ讀、

  不ㇾ如陰德積銘〻于内以為子孫

  計長久矣。

〔金(かね)を積んで、以つて、子孫に与ふ、子孫、必ず、能(よ)く持たず。書を積んで、以つて、子孫に与ふ、子孫、必ず、能く讀まず。陰德、銘〻(めいめい)、内(うち)に積んで、以つて、子孫長久の計(はかりごと)を為(な)すに如(し)かず。〕

[やぶちゃん注:漢文部は、底本では、全体が二字下げでベタで書かれているが、読み易さを考えて適宜、改行した。また、「于」の内、一行目と二行目のそれは、底本では「亍」の字となっているが、これは「留まる・立ち止まる・やや進む」の意であって、対象を表わす前置詞の助字「于」とは違うので、「于」に代えた。

「司馬溫公」北宋の学者で政治家として知られた司馬光(一〇一九年~一〇八六年)。「溫公」は諡(おくりな)の一つ。山西出身。神宗の治世に、王安石の新法に反対して引退したが、次代の哲宗の時に宰相となり、新法を廃し、旧法に復した。優れた史書「資治通鑑(しじつがん)」(戦国初(紀元前四〇三年)から五代の終り(九五九年)に至る千三百六十二年間に亙るもの)の作者としても知られる。七歳の時、庭の水瓶に落ちた友を瓶を石で割って助けた故事で知られる。私は小学校二年の頃、国語の教科書に載る、訳されたその話を朗読して、先生や同級生らから、喝采を浴びた(多分に芝居っぽい読み方をしたため)のを、六十年経った今でも、鮮やかに思い出せる。考えてみると、私の漢籍故事との最初の邂逅は、実に、この司馬光の話であったのであった。

 「どんよく」といふは、「餓鬼道」じや。「十𢙣」の中(うち)でも第一番じや。「十𢙣」といふは、「身」に三ツ、「口」に四ツ、「意」に三ツ。「身」に三ツといふは、則ち、殺生【無益。】、偸盜【あたへざるを、とる。】、邪婬【男女とも、我に粉さる。】、口に四ツ、綺語【かざる。】、妄語【みだりに、うそ僞[やぶちゃん注:「いつわる」。]。】、𢙣口【わるくち。】、意(こゝろ)に二ツ、貪欲(とんよく)【むさぼり。】、嗔意(しんい)【いかる。】、愚痴【あきらめ、なし。】合、十𢙣、其十𢙣の内の、第一番じや。

[やぶちゃん注:【 】は二行割注。この内、「邪婬」の「男女とも、我に粉さる。」であるが、「続百物語怪談集成」では、ここを『男女とも我に粗さる』と起こしてあるのだが、この「粗さる」の「粗」には、動詞としての用法がなく、読めない。私は底本の崩しを拡大して凝っと見つめてみるうち、『或いは、これ、「粉」の字の崩しではないか?』と感じた。比較すると、「粉」と「粗」の崩し字は非常によく似ていることが判った。而して、「粉」には「かざる」という動詞の意がある。「粉飾する」ことは「邪婬」と極めて親和性が強いから、それで起こした。

 それから、又、段々と、百物語を聞込(きゝこん)で、「しん意」といふ心が出來る。是れも、外の事じや、ない。最初は、腹の立つのじや。是れも、赤子の時から、腹を立つる子は、ない。皆、百物がたりからじや。

 先づ、子もねさせて置て、仕事を、親が、している。

 子が、目を明(あい)て、なき出だす時、子は、何んにも腹立(はらたて)て、なくでは、ない。

 親が、腹立て、聞(きか)かすのじや。

「アノ子程(ほど)、早(はや)ふ起(をき[やぶちゃん注:ママ。])る子は、ない。」

と、いふて、ほつて置くゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、段々、せはしう、なきだす。

 

Sininimotohaoyakara

 

[やぶちゃん注:実は底本の方の、この画像を見ると、台詞が見えるのである。右の幅の男(父親か)の上に振り上げた右手(煙管を握っている)の甲の上方に「こな」という怒りの感動詞が、それを前で、グッと組み止めている男(爺様か)の頭上に「まあまあ」と宥めたそれが、そして、左幅には泣き叫ぶ子を抱えて、夫の暴力から走り去ろうする妻の上部に「いのいの」(「去(い)の、去の、」であろう)とあるのである。但し、これらの台詞は、明かに印刷された部分に比べて、孰れも、同じように薄いことから、本底本の旧蔵者の子ども辺りが書いた落書と思われる。今まで、この手の板本を何度も底本にしてきたが、結構、そうした落書はあるのである。まさか、遠い未来にそれを、私のような好き者が電子化して、世界中に落書が知られるというのは、お釈迦さまでもご存じあるめえ、と唸りたくなるのである。]

 

 それから、親の聲が、大きうなつて、おこりて、乳も吞まさずに、引起(ひきをこ[やぶちゃん注:ママ。])して、

「ヱ〻、此(この)俄鬼(がき)わひの。」[やぶちゃん注:「俄鬼」はママ。]

と、あたま、たゝく。

 それが、五度や、十度の事じや、ない。

 始終、其百物がたりをして聞かす故、だんだん、とつくりと、聞き覺へたのじや。

 是れも、最初は少しの事じやが、だんだん、腹立てる事が上手になりて、きつう、腹が立つ時は、身も、あつふ[やぶちゃん注:ママ。]なり、顏もまつかびになつて、嗔意(しんい)の 炎が、もへるのじや。

 白狐(しろきつね)も、其時は、鬼女となり、佛が、人面じうしんと、ばける。

 〽もへ出(いづ)るしんゐ[やぶちゃん注:ママ。]のほのふ[やぶちゃん注:ママ。]消へ[やぶちゃん注:ママ。]やらで我と引きけん火の車かな

 〽造りこし罪を薪(たきゞ)の火の車我(わが)がなす業(わざ)と知るやしらずや

 〽𢙣い事にたきつけられて煮へるのを地獄の釜の湯とやいふらん

 地獄の釜とて、外には、ない。皆、我が腹の内の事じや。

 〽我が心(こゝろ)鏡に見ゆる物なればさぞや姿の見にくかるらん

 三惡道は、心に、あり。皆、餘所(よそ)の事にして、我(われ)は佛のよふに[やぶちゃん注:ママ。]思ふて居る。

 スツキリ皆、身びいきの迷ひじや。こはい物じや。

 皆、「地獄廻り」して居るのじやが、どなたも、どふぞして、本心をしつて、極樂の本海道へ、早(はや)ふ[やぶちゃん注:ママ。]、出るやうになされませ。

 「火の車じや。」とて、地獄から持ちて迎ひに來てくれるやうな、念比(ねんごろ)な鬼は、ない。銘々、皆、此方(このはう)で拵ヘて、夫(それ)に乘りて行くのじや。「おのれが、おのれが、」といふやつが、引きずつて行(ゆく)のじや。それを知らずに、我を心の主人(あるじ)として、何でも、「おれが、おれが、」と思ふて居る。こはいものじや。

 〽身の内の主人を知らで欲といふいたづら者にますあぶなさ

 本心は、そんな物じやない。

 主人公といふて、誠の御主人がある。其名を、「神樣の」、「佛樣の」、「明德(めいとく)の」、「本心の」と、いろいろに、名はかへてあれど、皆、一物(いちもつ)じや。

 大躰(たいてい)、ありがたひ[やぶちゃん注:ママ。]ものじやない。

 扨て、腹の立つ時の心が、地獄の釜の證(しやう)こには、

「サア、腹が立つと、胸が、ぐらぐら、します。」

といふ、はたからも、見へるかして、

「向かひの誰(たれ)さんは、煮返らしやる。」

と、いふ。

 扨、夫(それ)から、大きな聲をすると、近所となりへ聞へる。

 隣近所の人がよつて、

「まあ、しづかになされませ。あんまり、聲が、高い。」

と、しづめても、もへたつ「しんゐのほのふ」じや。くるしうて、くるしうて、其時、自身がでに、白狀して、

「いや、もふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、ほつて置ておくれ。もゝ、こちや、いつかう、燒(や)けじや。」

と、いふ。

「夫(それ)でも。」

と、いふと、

「いや、もふ、かまふてくれな。燒けの『かんばつ』じや。」

といふ。「かんばつ」といふは、「消す水がない」といふ事じや。

 とほうもない事になるものじや。

 或る社中方(しやちうがた)の内の衆が、少し、心得違ひの事があつて、喧嘩にもなりそふな[やぶちゃん注:ママ。]事になつた所へ、社中の某(なにがし)が出(で)て、

「夫(それ)は御前さまのが、御尤(ごもつとも)。みな、此方(このはう)が、不調法でござります。」

と、手をすつて、いなしておいて、跡で、狂哥(きやうか)に、

 〽小天地すでにころりと燒(やきよ)とした心(こゝろ)に水の德もわきけり

 何と、有難(ありがたい)事じやナ、本心をしると、たちまち、そふ、德が、あらはれる。「あやまりました」と「まける」のは、みな、本心の光明じや。

 先(まづ)、むかうから、どのやうに大きな聲をして、燒(やけ)を、もつて來ても、

「それは、おまへのが、御尤。私が、わるふ御ざりました。」

といふのが、直(じき)に水をかけてけしてやると、むかふにも、

「おれが、りくつが、あるによつて、あやまる。」

と、また、大きなこへが、する。又、此方(このはう)から、

「幾重(いくへ)にも御了簡。」

と、また、水をかけてやれば、いかほどもへる「やけ」でも、直(じき)に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])る。

 此術を、能くおしへると、一生、大てい、安樂なものじや、なひ[やぶちゃん注:ママ。]

 〽まけてのく人をよはしと思ふなよ知惠のちからの强きゆへなり

 〽一切の物にまけるは佛ぼさつ勝ちたがるのは犬や牛むま

 

大手拓次 「こゑ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 こ ゑ

 

こゑは つぼみのあひだをわけてくる うすときいろの霧のゆめ、

こゑは さやいでゐる葉の手をのがれてくる 月色の羽音(はおと)、

こゑは あさつゆのきえるけはひ、

こゑは こさめのふりつづく若草の やはらかさ、

こゑは ふたつの水仙の指のよりそふ風情、

こゑは 月ををかしてとぶ 鴉(からす)のぬれいろ、

こゑは しらみがかつてゆく あけぼのの ほのむらさき、

こゑは みづをおよぐ 銀色の魚の跳躍、

こゑは ぼたんいろの火箭(ひや)、

こゑは 微笑の饗宴。

 

[やぶちゃん注:「うすときいろ」「薄朱鷺色」。我々が絶滅させてしまったトキの風切羽のような少し黄みがかった淡く優しい桃色のさらに薄いもの。

「鴉(からす)のぬれいろ」謂わずもがなであるが、カラスの羽が濡れたように光る艶のある黒色を指し、特に本邦では、古えより、女性の最も美しい黒髪の美称名でもある。]

大手拓次 「言葉は魚のやうに步く」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 言葉は魚のやうに步く

 

ことばは うをのやうにあるいてゆく

こころの たそがれを、

わすれぐさの ひかりのなかを、

きえぎえに けむる みちのはだへを。

 

かげろふいろの 魚(うを)のやうに

ことばは あるいてゆく、

くもりのなかに にほひのふかれ ちらばふとき、

ひるがへり なみだつ ぞよめきのしづけさに。

 

ことばは みしらぬかげに おびやかされ、

眼(め)のない魚のやうに あるいてゆく。

 

[やぶちゃん注:「わすれぐさ」あくまで標準和名に拘るならば、「萱草」(音読み「くわんざう(かんぞう)」)で、単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科ワスレグサ属(標準種はワスレグサ Hemerocallis fulva )に属する多年草の総称で、ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba・ヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea・ユウスゲ Hemerocallis citrina var. vespertina ・ニッコウキスゲ(ゼンテイカ・禅庭花) Hemerocallis dumortieri var. esculenta などを含む。葉は刀身状で、夏に黄や橙色のユリに似た大きい花を数個開く。多くの園芸品種や近縁種がある。「けんぞう」ともいう(生薬として知られる双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ(甘草)属 Glycyrrhiza とは全くの別種であるので注意)。ワスレグサ(忘れ草)という和名は、概ね、花が一日限りで萎むことに由来し、英語でも“Daylily”と呼ばれる。但し、「大手拓次 妖氣」を参照されたいが、或いは、拓次はそこに示した、キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus を「忘れ草」に当てている可能性もなきにしも非ずという気もしなくはない。

「かげろふいろの 魚(うを)のやうに」このフレーズは、「かげろふ」/「いろの」//「魚(うを)のやうに」で以下の二行に繋がると私は読む。「かげろふ色」で「陽炎色」ととってしまうと、リズムが微妙におかしくなるのと、「陽炎色」であるなら、漢字にするか、せめても「色」を漢字するであろう。確かに、赤い燃えるような色の「魚」という読み取り方も出来ようが、詩全体は、幻想の「こころの」「たそがれ」の「ひかり」と「かげ」の交代が詩想の核心にあるから、ここは「かげろふ」という「翳ろふ」ところの「こころの」「たそがれ」のそれであろうと私は読む。]

大手拓次 「重たい月を荷つた心」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 重たい月を荷つた心

 

わたしは しろい幽靈のむれを

ゆふぐれごとに さそひよせ、

わたしの顏も わたしの足も

浮動する氣體に とりまかれる。

 

わたしは そのなかに

ゆふぐれの かなしみを よろこび、

ゆふぐれの あをい思ひを 食べ、

おさへつけられるやうな

月のひかりの おもみをになつて

木の葉の ささやくあたりに

眼をあけたまま たたずんでゐる。

 

大手拓次 「冬の夜の螢」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 冬の夜の螢

 

あをい寶石をつらぬいて

この くらいことばの飾りとし、

その ひとつびとつの ふれあふ音をかくし、

みだれ咲かうとする 思ひを

眼と眼のあひだに とざしいれた。

わたしの くらいことばは

冬の夜(よ)の 螢のやうにおほきく、

あをあをとして ふかく しづんでゐる。

 

[やぶちゃん注:「寶」の字体は詩集「藍色の蟇」の用字に従った。]

大手拓次 「ゆふぐれ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 ゆふぐれ

 

ゆふぐれは そこにちかづいて

ことばを さしいれる、

きえてゆかうとする あをいことばを。

 

ゆふぐれは うすいろのきものをきて、

こころのおもてに

うまれない星を ちりばめる。

 

ゆふぐれは あのひとの こゑのないことばを

そよそよと そよがせ、

みづのやうに こころをふかくする。

 

ゆふぐれは はなればなれの思ひを

けむりのやうに つなぎあはせ、

かくれてゐる おどろきを そだててゆく。

 

佐々木喜善「聽耳草紙」 六三番 蛇の劍(三話)

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここ。]

 

    六三番 蛇の劍(その一)

 

 小友《おとも》村の松田某と云ふ人の先祖は何所かの武士の流れであつた。昔は大層富み且つ威張つて居た。其當時の主人は、二代藤六行光《とうろくゆきみつ》と云ふ太刀を佩《は》いて步いて居たさうである。

 或時遠野の町からの歸りに、小友峠の休石《やすみいし》と云ふに腰を掛けて一憩《ひとやす》みをしたが、立つ時右の太刀を忘れて置いて歸つた。大きに驚いて從僕を遣つて尋ねさせたところ、峠の休石の上には大蛇が幡踞《ばんきよ》して居り恐しくて通行が出來なかつた。歸つて其事を主人に告げると、今度は主人自身で行つて見た。從僕があれあれあの通りの大蛇が居ると言ふて指差す方を見ると、それは先刻《さつき》自分が忘れて行つた太刀であつた。

[やぶちゃん注:小友村」現在の遠野市街の南西の山間部、岩手県遠野市小友町(おともちょう:グーグル・マップ・データ航空写真)。

「二代藤六行光」サイト「刀剣ワールド」のこちらに、『行光(ゆきみつ)は、鎌倉時代末期に相模国』『で作刀した刀匠で、新藤五国光の子とされていますが、門人とする説もあります』とし、かの名匠『正宗の兄弟子にあたる名工』とあった。その流れを汲むと称した者ではあろう。

「小友峠」「国土地理院図」で発見した。標高四百四十七メートル。]

     (其の二)

 遠野の侍で名刀村正《むらまさ》と云ふ物を持つて居る人があつたが、此人釣魚(ツリ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])が好きで、或日松崎村の金澤の淵へ行つて釣魚をして居たが、疲れたものだから其小刀を枕にして淵岸の往來傍らに晝寢をして居た。すると通行の人達には、侍が赤い大蛇を枕にして寢て居るやうに見えて大騷ぎをした。

[やぶちゃん注:「村正」初代は室町・戦国時代の伊勢国桑名の刀工(生没年未詳)。そのご江戸時代まで数代続き、初代は貞治年間(一三六二年~一三六八年)の人と伝えるが、村正銘をもつ現存最古の刀は明応一〇・文亀元(一五〇一)年の作である。一般に、古刀は表裏の刃文(はもん)が揃わないが、村正のものは表裏が揃っているのが特色である。「持主に祟る」という伝説がある(種分は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「松崎村」現在の遠野市松崎町(まつざきちょう)松崎(グーグル・マップ・データ)・松崎町光興寺・松崎町駒木・松崎町白岩に相当する。

「金澤の淵」不詳。但し、「ひなたGPS」で松崎の近くを探ると、「金ヶ澤」(かながさわ)の地名があり、現在も「松崎町光興寺(こうこうじ)金ケ沢(かねがさわ)」として存在し、しかも、南が猿ケ石川の右岸であるから、この附近であろう。とすると、本文の「金澤」はこれで「かねがさは」と読むことになろう。]

     (其の三)

 金澤村の月山と云ふ家、その家に月山《つきやま》ゲツサンと云ふ名刀があつた。この名刀は夏の夜などは夜半窃《ひそ》かに座敷の床の間から拔け出して野原へ出で露を吸ふた。

 或時家に盜人《ぬすつと》が入《はい》ると、座敷一杯の大蛇が居るので一物《いちもつ》をも取らずに、怖れ遁げ歸つた。

 近年此の家漸々《やうやう》家計不如意になつて、家寶の此名刀をも大槌町《おほつちちゃう》かの質屋へ入れた。すると夜分蛇になつて、質屋の土藏を拔け出して家に還つて來た。何《いづ》れにしても稀代の名刀であることは疑はれない。

 (其一話は小友村松田新五郞氏報。その二は岩城氏の
  談の二。其の三は村の百姓男榮三と云ふ人の度々す
  る自慢話で何でも此人と其名刀のある家は親戚か何
  かである理由であるらしい。何れも岩手縣の話であ
  る。)

[やぶちゃん注:「大槌町」岩手県上閉伊郡大槌町(グーグル・マップ・データ)。但し、最後に「か」とあるから、ここに特定はされない。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六二番 蛇女退治

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。標題の「蛇女」は「へびをんな」と訓じておく。]

 

     六二番 蛇女退治

 

 或所に兄弟が三人あつた。兄は太郞、中面(ナカツラ)を次郞、末子(バツチ)を三郞と言つた。ともに武藝を上手につかつた。其頃奧山に大變惡い化物が居るといふことを聞いて、兄の太郞は、俺が行つて其化物を退治して來ると言つて家を出て行つた。

 太郞は其化物の居る山を目差して、行くが行くが行つた。そして其山の麓まで行くと、谷合に萱《かや》のとツちぺ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版では『とッちぺ』とある。意味不明。]小舍があつた。道を訊くべと思つて立寄ると、白髮《しらが》ぼツけの婆樣が一人居て、兄や何所さ行くと訊いた。太郞が俺はこの奧山の化物退治に行くべと思ふが、

どう行けばよいかと言ふと、婆樣は溜息をついて、兄々お前も化物退治に來た人か、それは止めたらどうだ。あたら生命(イノチ)を棄てるから、これから直ぐ家さ還れやいと言つた。太郞がそれでも行くと言ふと、それでははア仕方ない。この婆の言ふことをきかないなら、向ふの谷川の瀧の鳴音に依つて往くとも還るともしろ。決してこの婆は惡いことは言はぬからと言つた。太郞は薄笑(ウスワラヒ)をして行つた。谷川のほとりへ行くと、大きな瀧があつて其水音が斯《か》う鳴つた。

   戾れやトントン

   還れやトントン

 太郞はそれでも何(ナアニ)と思つて行つた。すると又笹立《ささだ》ちがあつて、笹叢《ささむら》に風があたつて斯う騷いだ。

   戾れやガサガサ

   還れやガサガサ

 それでも太郞が行くと、川に一本橋が架かつてあつて、其丸木橋の下に一つの瓢簞(フクベ)が浮んだり沈んだりしながら、又斯う言つた。

   戾れやツプカプカ

   還れやツプカプカ

 太郞はそれでも行くと、深い谷があつて、大きな樹木がいつぱいに茂り暗がりが入つて氣味が惡かつた。すると向ふから一人の美しい女が步いて來て、太郞と行會つた。女は莞爾(ニツコリ)と笑つて、和公(ワコ)樣は何所さ行きますと訊いた。太郞が俺は此山の化物退治に來たと言ふと、女はそれやまだまアだ遠い。一寸(チヨツト)此所で憩《やす》んで行つてがんせと言つた。太郞が立ち止まると、女は立つて休まば座(ネマ)つて休めと謂ふことがあるから、座つて休んでがんせと言つた。太郞が女の側に座ると、座つて休まば寢て休めと謂ふことがあるから寢て休んでがんせと言つた。太郞が寢ると女は大蛇になつて、太郞の體をぐるぐると卷きつけて絞殺《しめころ》してしまつた。

 家では、いくら待つても待つても山から太郞が還つて來なかつた。それで次郞は兄を迎へかたがた樣子を見に奧山へ出かけて行つた。すると山の麓の萱小舍の婆樣が太郞に言つた通りのことを言ひ、又谷川の瀧の音も、笹立の笹葉の騷ぎも、一本橋の下の瓢簞のツンプカプめく音も、みな戾れや還れやと謂ふ音であつた。それでも行くと暗がり林の中に行き、向ふから美しい女が來て、太郞に言つた通りや、した通りのことをして、其あげく遂々《たうとう》殺されてしまつた。

 今度は二人の兄を尋ねて三郞が奧山に行つた。一番の兄がしたやうに山の麓の萱小舍に立寄つて道を訊くと、此時ばかりは小舍の婆樣も引止めなかつた。お前なら行つても安心だと言つた。また谷川の瀧の水の音も斯う鳴つた。

   往けやトントン

   往けやトントン

 それから笹立の笹の葉も風に騷いで斯う騷いだ。

   往けやガサガサ

   往けやガサガサ

 それから谷川に架かつた丸木橋の下の瓢簞も、浮んだり沈んだりして斯う言つた。

   往けやツプカプン

   往けやップカプン

 三郞が暗がりの林に差《さし》かゝると、向ふの樹蔭から美しい女が步いて來て、三郞さん三郞さん何處へ行くと訊いた。三郞は俺は兄の仇討《あだうち》に、又此山の化物退治に來たと答へた。すると其女は其山はまだまだ遠い。まづまづ憩んで行つてがんせと言つた。三郞が立止まると、立つて休まば座つて休めと謂ふことがあるから、座つて休んでがんせと言つた。三郞が座つて休むと、又女は座つて休まば寢て休めと謂ふことがあるから寢て休めと言つた。それで三郞は寢て休んだが、右の目をひツくれば左の目を開(ア)き、左の目をひツくれば右の目を開きして女の樣子を見て居た。すると其女が大蛇になつて絡み着いてきたから、いきなり刀を拔いて斬つてかゝつた。大蛇も仲々きかなかつたが遂に三郞に斬殺《きりころ》されてしまつた。

 三郞は大蛇を退治してから、先刻《さつき》女の出て來た大木の蔭へ廻つて見ると、大變夥しい人の骨が山と積まれてあつた。これだこれだ、あの化物女に兄共《あにども》も取つて食はれたのだと思つて、よく其邊を見ると、數多(アマタ)の大小がごちやごちやとある中に、見覺えのある兄共の脇差も交《まじ》つておつた。三郞は其兄どもの脇差を持つて家に歸つた。

 其手柄が、殿樣に聞えて、殿樣の御殿に三郞は呼出されて、大層御褒美を貰つて、そして立身出世をした。

 (祖父のよく話した話。自分の古い記憶。)

 

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 蟹嚙に就て

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 なお、「選集」では、標題の次行の添え文の前行同位置に『川村「蟹噛み」参照』とある。この標題の「蟹嚙」であるが、一応、「かにかみ」或いは「かにはみ」、又は、馬鹿正直の最も正確な「かにはさみ」と訓の例を示しておくに留めておく。なお、「選集」では、川村のだけでなく、熊楠の標題も「み」を標題で勝手に送り仮名として出しており、この「み」は書誌的には信用出来ないのだが、私以外には誰も文句を言っていないようだから、「み」という読みの終りは確実と考えてよいとしておく。事実から言えば、蟹は鋏で以って「はさむ」のであるから、「かにはさみ」で確定したいところだが、ちょっと私の側に比定する根拠・傍証がないのである。全く関係ない所持する雑誌や書籍に載るこの単語、及び、国立国会図書館デジタルコレクションでも検索をかけたてみたのだが、「蟹嚙み」「蟹噛み」の語はあるものの、ルビはなかった。とすれば、大多数のそれらの作者は、蟹の大型の第一脚に鋏まれることで使用しており、しかもルビがいらないと考えているということになり、であれば、やはり「かにはさみ」以外にはないのではないか? と個人的には思っている。別な読み方であるとされる方は、読みと使用例を御教授戴けると恩幸これに過ぎたるはない。ともかくも、実は、熊楠自身が、標題だけでこれを使用しており、本文にはないという点でも、どうも不審があるのではある。

 さて。而して、その川村某の「蟹嚙」の論考なのだが、柳田通の方なら、もうお分かりかと思うが、川村というのは、柳田國男が『郷土研究』でよく使った変名ペン・ネームの一つである、「川村杏樹」ではないか? 「選集」が姓だけを出していること自体が、柳田國男のそれだと暗示しているものではないか? と、まず、踏んだ。但し、「ちくま文庫」版全集にはない。同全集は「全集」とは名ばかりで、未収録作品がゴマンとある不全なものであるから、国立国会図書館デジタルコレクションで検索して調べたところ、図に当たった。一九六四年筑摩書房刊「定本柳田国男集」第二十九卷のここに収録されてあった。標題は「蟹嚙」「み」の送りはないである巻末の「内容細目」を見ると、『蟹嚙(大正三年九月、鄕土硏究二卷七號』で、以下の標題の附記参照の書誌と、ドンピシャであり、やはりこれは柳田國男の論考であることが判明した。御覧の通り、極めて短いものであり、何時もの熊楠通り、その論考に触発されたというより、「儂はずっと前に英文論文で「蟹の害」のことをとっくに書いておる。儂の知ってをる『蟹嚙』の話はこれじゃ!」的な例のブイブイの書き振りであり、敢えて柳田のそれを示さなくてもいい気もするが、見つけたからには、添えるのが正当と考え、と言って、改めて単独記事公開するほどのものでもないので(最後は「蟹」から離れて「鷲」でエンディングだ。呆れてものが言えないね)、以下に以上を視認して、この冒頭に示すこととした。読みは全くないので、今までのここでの仕方を踏襲した。注は必要最小限度に抑えた。

   *

 

     蟹  嚙

 

 芝田君の大唐米談《たいたうまいだん》の中に、蟹の害を避ける爲に此稻を田の周匝《しうさふ》[やぶちゃん注:現代仮名遣「しゅうそう」。取りまいた周辺のこと。]ばかりに栽ゑるとあつた。此動物の害は近頃あまり之を說く者は無いが、昔は其繁殖が今より盛んで、諸國山間の淸水掛りの田など往々にして其跳梁を患《うれ》ひたのではあるまいか。山城蟹滿寺《かにまんじ》の古い緣起譚はともかく、狂言の蟹山伏を始《はじめ》として所謂八足二足の妖怪譚が各地に語り傳ヘられてゐるのを見ると、其民俗思想と交渉する所必ずしも僅微《きんび》で無かつたのである。之を書物かもたらした外來のものと見ることは、簡單であるが自然では無い。肥後の天草下島《しもしま》[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ。]の西海岸、「天草島鏡《あまくさしまかがみ》」の編者が住んで居た高濱村[やぶちゃん注:ここ。]に於て自分は蟹嚙の害と云ふものを目擊した。此邊の水田は多くは例の棚田であつて、上の田の境は必ず九尺三寸[やぶちゃん注:約一メートル六十一センチ。]の石垣である。蟹は其石垣の隙に隱れ住み、夜分出で來つて苗の根を嚙み倒す。別に食料にするでも無いやうであるが、一夜の中に幾十株の稲を流し而《しか》も之を防ぐ方法はまだ無いと云ふことであつた。鷲なども田螺や泥鰌《どぢやう》を捕るのはよいが、其爲に苗代を流すことは非常である。武藏杉山社[やぶちゃん注:杉山神社(武藏國六之宮)。]の田植祭の歌などを見ても、此鳥が如何に百姓を苦しめたかはよく分る。故に自分は怖れたから祭つたのが諸國の鷲森の最初の由來だと思つて居る。(『鄕土硏究』第二卷六一頁照)

   *

文中の「大唐米」は野生の稲(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa )の殆んどを占める「赤米」、或いは、その内、中世に栽培され始めた稲の品種の一種を指す。また、「山城蟹滿寺」は『柳田國男 「鴻の巢」』の「蟹滿寺(かいまんじ)の緣起」の私の注を参照されたい。「天草島鏡」一巻。上田宜珍(よしうず 宝暦五(一七五五)年~文政一二(一八二九)年:陶業家で国学者。肥後高浜村の庄屋であった。本居大平(もとおりおおひら)に師事して天草史を研究した。家伝の高浜焼を継いだ。後、同地を訪れた伊能忠敬からは測量術を学んでいる)著。文政一二(一八二八)年以前の成立。「天草風土考」・「天草島廻り長歌」・「天草私領公料由来長歌」・「天草御取箇免成行長歌」・「天草郡年表事録」は著者自身の手に成るもので、他に「天草寺社領之覚」・「天草寺社領御証文之写」・「上野様より御尋并答之写」・「島原御旧領之砌之覚書」は著者が収集した史料である(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。

 蟹類の同定や付属資料に拘った結果、延べ一日半、電子化注にかかってしまった。

 

       蟹 嚙 に 就 て (大正四年六月『鄕土硏究』第三卷第四號)

           (『鄕土硏究』第二卷七號四四二頁參照)

 

 橫さらふ蟹ちふ奴は、水陸共に、死んだ物を食うて、人間の爲に掃除(さうぢ)・淸潔(きよめ)の大役を勤め吳れるが、又、生《いき》た物をも食ふから、人を困らす事も多い。二十年程前に『ネーチュール』へ蟹害《かにのがい》に關する一書を出した事が有るが、座右に只今無く、何を陳べたか、多分を忘れ了《をは》つたが、纔かに手控へ、又、記憶する丈を述べやう。

[やぶちゃん注:「橫さらふ」は「橫去らふ」で、連語で、「さらふ」は動詞「去る」(「来る」「行く」の古語)の未然形に、動作の反復・継続を表わす上代の助動詞「ふ」が付いたもので、「横に移動する・横歩きをする」の意の上代以来(「古事記」の歌謡に既に用いられている)の古い語である。

「二十年程前に『ネーチュール』へ蟹害《かにのがい》に關する一書を出した事が有る」「Internet archive」の当該原雑誌(合冊版)のここで南方熊楠の当該論考が視認出来る。イギリスの権威ある自然科学雑誌‘Nature’(一八六九年創刊・ロンドン)の一九〇〇年三月二十二日発行号で、標題は‘Crab  Ravages  in  China.’(「中国の蟹災害」)である。私は幸いにして所持する集英社二〇〇五年刊の「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」で読んでいる(同篇は田村義也氏訳。示した上の和訳邦題は田村氏のもの)。その原文と田村氏の訳で梗概を記すと、概ね、ここで以下に語られてある内容ではある。

   *

 まず、冒頭で、こちらでは少し後に出る、左丘明の作とされる(現在は偽書説があって怪しい)「国語」から、越の王が開戦を参謀がはやるのを諫めた稲蟹の比喩を引き、次いで、ここでも示されてある青木昆陽の「昆陽漫録」の「平江記事」の呉(現在の江蘇省)での蟹による稲の全滅被害を記す。次いで、「酉陽雑爼」の第十七巻の卷十七「廣動植之二」の「蟹八月腹中有芒、芒真稻芒也、長寸許、向東輸與海神、未輸不可食。」「蟹は八月になると、腹の中に本物の稲の芒を持っており、長さは一寸(唐代は三・一一センチメートル)程で、東に向かって海の神に献上するので、その前には食べてはいけない。」という記事を紹介、次に熊楠御用達の「淵鑑類函」の卷四百四十四の「蟹四」(「漢籍リポジトリ」のこちら[449-22a]の終りから[449-23a]の内容)の冒頭に載る陸亀蒙の「蟹志」の記載を記し、次いで同書同巻の[449-23a]の中ほど以降の宋代の傅肱の「蟹譜」を引いている。而して、熊楠はこの体内にあるとする「稲」は、海まで出て産卵するところの雌蟹の卵塊であることは自明であるとする。その後で、熊楠は、この稲を海に運ぶ蟹と、作物を食害する蟹は、恐らく同一種であろうとし(私、藪野直史は、この見解は完全に誤っていると考えている)、本篇にも引くド・ロシュフォールの「アンチル諸島の自然及び風俗誌」から、西インド諸島の「ムラサキオカガニ」(甲殻綱十脚目オカガニ科ムラサキオカガニ属 Gecarcoidea。タイプ種はムラサキオカガニ Gecarcoidea lalandii 。本邦では南西諸島に棲息する)はタバコ畑を荒らすものの、穀物に被害は与えないようであるとしつつ、中国の蟹は穀物を害するとする話が広範囲に存在するとし、同様の例として、十七世紀末に書かれた記事の、インド洋上のロドリゲス島の「オカガニ」の種が、渡りの時期に示す破壊的な力は、中国のその蟹に匹敵するようだと述べる。そして、やはり本篇と同じく「搜神記」を引いて、簡単な私見を述べて終わっている。注があり、琴平宮の信者は蟹食をタブーとするとあり、先のリンクの原文には見当たらないが、訳文には、注の2があり、本邦では、毛蟹は秋に川を下ると、その後に川を遡上することはないことも知られていたとして、原拠を「大和本草」十四巻四十八丁とする。これは、私の電子化注「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」である。参照されたい。さらに、蟹が穀物を海に運ぶという伝承は日本には全くないと記した後に、これにやや似たような話で、唯一つ見つけたのは、橘南谿の「北窓瑣談」の、淀川を上る蟹の大群の話、一掬いで蟹数十匹が獲れたというのを紹介している。「北窓瑣談」の該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのここの右ページの二行目から視認出来る。

   *

 先づ、「昆陽漫錄」に、『越語曰、今其稻蟹不ㇾ遺ㇾ種、韋昭註曰、稻蟹食ㇾ稻也。〔「越語」に曰はく、『今、其の稻蟹は、種を遺(のこ)さず。』と。韋昭が註に曰はく、『稻蟹は稻を食らふなり。』と。〕此註にても、稻蟹、明《あきら》かならず。「函史」に、『蟹、秋末稻熟時、乃出各執一穗、朝其魁一、晝夜觱沸望江ㇾ奔、既入江、則形稍大於舊、自ㇾ江復趨ㇾ海、如赴江狀、入ㇾ海益大、或曰、持ㇾ稻以輸海神、八月開其腹、有芒長寸許者、稻芒也。〔蟹、秋の末、稻の熟する時、乃(すなは)ち、出でて、各(おのおの)、一穗(いつすい)を執り、其の魁(かしら)に朝(めどおほ)りす。晝夜、觱沸(ひつふつ)して、江(え)に望みて、奔(はし)る。既にして、江に入れば、則ち、形、稍(やや)、舊(もと)よりも大なり。江より、復(ま)た海に趨(はせむ)かふに、江に赴く狀(さま)のごとし。海に入りて益(ますます)、大となる。或いは曰はく、「稻を持ち、以つて、海神に輸(おく)る。八月、其の腹を開けば、芒(のぎ)の長さ、寸許りなる者、有り。稻の芒なり」と。』〕と有れども、年々の事にして、種を遺《のこ》さゞる程に非ず。平江記事曰、大德丁未吳中蟹厄如ㇾ蝗、平田皆滿、稻穀蕩盡〔「平江記事」に曰はく、『大德丁未[やぶちゃん注:一三〇七年。]、吳中の蟹の厄(わざはひ)、蝗(いなご)のごとし。平田に、皆、滿ち、稻の穀(み)、蕩盡す。』と。〕と。是にて「越語」の稻蟹は、蟹厄《かにのやく》たる事、明かなり。且つ、吳は、古《いにしへ》より、蟹厄あり、と見ゆ。」とある。右の「越語」云々は、某王が、兵を起こして敵國に向はんとするを、忠臣が諫めた言《げん》の中に、「今年は、蟹が稻を食ひ盡して、種、すら遺さぬ。此不景氣に戰爭を仕出かすたあ、無分別千萬。」と云《いふ》た事と記憶する。「搜神記」曰《いはく》、晉太康四年、會稽郡蟛踑及蟹、皆化爲鼠、其衆覆野、大食ㇾ稻、爲ㇾ災、始成、有毛肉而無ㇾ骨、其行不能過田畻、數日之後、則皆爲牝。〔晉の太康四年[やぶちゃん注:二八三年。]、會稽郡にて、蟛踑(ほうき)及び蟹、皆、化して鼠と爲る。其の衆(おほ)きこと、野を覆ひ、大いに稻を食(くら)ひて災ひを爲す。始めて成るや、毛・肉、有れども、骨、無し。其の行くに、田の畻(あぜ)を過(よぎ)る能はず。數日(すじつ)の後(のち)、則ち、皆、牝と爲れり。〕。是は「本草綱目」に蟛螖《ほうかつ》は蟹の最小無毛者〔最小にして無毛なる者〕と有るから、推知せらるべき通り、蟹類の多くは足等に多少の毛有り。ことにヅガニは、爪に鼠の毛の樣な毛が密生し居《を》る。「本草啓蒙」四一に、『ヅガニ、卽ち、螃蟹《ばうかい》、毛蟹也。又、稻蟹(「典籍便覽」)とも云ふ。「寧波府志」に、螃蟹、俗呼毛蟹、兩螯多ㇾ毛、生湖泊淡水中、怒目橫行、故曰螃蟹、秋後方盛〔螃蟹、俗に「毛蟹」と呼ぶ。兩の螯(はさみ)に、毛、多し。湖泊[やぶちゃん注:湖沼。]の淡水中に生じ、目を怒らせて、橫行(わうかう)す。故に「螃蟹」と曰ふ。秋の後、方(まさ)に盛んとなる。〕』と載せて、本邦產と、多少、差(ちが)うか知《しれ》ぬが、兎に角、ヅガニ屬の者らしい。其毛が、鼠毛《ねづみのけ》に似居《を》り、太康四年に會稽郡の田野に、此蟹と鼠と、同時に大災《たいさい》を爲したので、先づ、生じた蟹が、後に生じた鼠兒(ねづみのこ)に化したと信じたのだろ。

[やぶちゃん注:『「昆陽漫錄」に、『越語曰、……』幕臣御家人で書物奉行であった儒者・蘭学者にして、サツマイモの普及を図ったことから「甘藷先生」の綽名で知られる青木昆陽(元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年:昆陽は通称(号))の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(日本随筆大成編輯部編・昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらの「○稻蟹」で当該項が視認出来る。

「越語」臥薪嘗胆の故事で知られる越王勾践が、大夫文種と図って、呉王夫差と和を請うた経緯を記した漢籍。国立国会図書館デジタルコレクションの大正六(一九一七)年早稲田大学出版部刊の『漢籍國字解全書』の第四二巻「先哲遺著追補」のここから視認出来る(左上段末の原漢文以降)。諫言するのは、やはり知られた、かの賢将范蠡(はんれい)である。『又一年、王召范蠡而問焉曰、吾與子謀吳子曰未可也、今其稻蟹不遺種、其可平、范蠡對曰、天應至矣、人事未盡也、王姑待之、』とあり、訓読して、『又一年の後、王范蠡を召して之れに問ひて曰く、吾は先きに子と吳を伐つことを謀りしに、子は未だ可ならずと曰へり、今吳國をみるに、稻蟹稻を食ひて其の種子を遺さゞらんとし、凶饉甚し、其れ之れを伐ちて可ならんかと、范蠡對へて曰く、天時は至れり、されど人事は未だ極點まで至らず、王しばらく之れを待てと』とある(勾践は直後に怒っている)。次のコマには『〔稻蟹〕稻を食ふ一種のかに』と注がある。

「韋昭」韋昭(?~二七三年)は三国時代の呉の政治家で、儒学者にして歴史家。

「觱沸(ひつふつ)」この語は「泉が湧き出るさま」を言う語。単に多数の蟹が湧き出るの意であろう。或いは、それらが皆、泡を吹いてさまを形容しているのかも知れないと、一読、感じはした。

「函史」明の文学者鄧元錫(ていげんしゃく)の随筆と思われる。「中國哲學書電子化計劃」の版本の当該部で校合した。十三行目下方から。

「寸許りなる者、有り」紀元前の一寸は二・二五センチメートル、三世紀までは、二・三~二・四センチメートル。

「平江記事」元代に書かれた歴史・地誌書のようである。

『「搜神記」曰《いはく》、晉太康四年、會稽郡蟛踑及蟹、皆化爲鼠、……』「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で校合した。巻七所収。

「會稽郡」現在の浙江省(グーグル・マップ・データ)。

「蟛踑及蟹」所持する竹田晃訳(昭和四九(一九七四)年平凡社「東洋文庫」版)では、『泥蟹と蟹』とある。「泥蟹」は調べたところ、現在、中国では、一つは、軟甲(エビ)綱真軟(エビ)亜綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科コメツキガニ亜科チゴガニ(稚児蟹)属 Ilyoplax を指す(タイプ種はチゴガニIlyoplax pusilla 。甲幅は一センチメートルで干潟にいる、漢字表記の通り、小型の蟹である。しかし、稲を害するとする種としては、チゴガニ類では、如何にも小さ過ぎるから違うだろう。一方、中国語では、「泥蟹」は別に、短尾下目ガザミ上科ガザミ科トゲノコギリガザミ属アミメノコギリガザミScylla serrata の異名でもあり、本種は海水域・汽水域・マングローブ地帯や干潟などに棲息し(温帯から熱帯まで広い地域に棲息し、本邦でも相模湾以南に普通に棲息する)、何より、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの写真を見られたいが、ガザミ類なれば、鋏が強烈であるから、これは生態から見ても相応しい感じはするが、巨体のアミメノコギリガザミが群れを成して陸を歩くというのは、ホラーぽくはあっても、現実には考え難い。

 さて、では――田圃の純淡水域や、河川、河口、その周縁の汽水域を自由に移動し、陸にも登ることが可能であり、稲の苗を好んで摂餌する「蟹」(ネズミではない)――となると、これはもう、「シャンハイガニ」で知られるところの、

短尾下目イワガニ科モクズガニ属チュウゴクモクズガニ Eriocheir sinensis

以外には考えられない。当該ウィキによれば、『幼生は海水から汽水域で育つため、親蟹は雄、雌とも産卵のために河口や海岸に移動する必要がある。主に秋に、河口で生殖したのち、雌が海水域に移動して産卵する』とあり、『食性は植物食に偏った雑食性であり、甲殻類、貝類、小魚、水生昆虫、水草、稲の苗』(☜)『などを好んで食べる』と明記されてある。熊楠の推察は正しい。

「皆化爲鼠」「有毛肉而無ㇾ骨、其行不能過田畻、數日之後、則皆爲牝」これは誤り。熊楠の推理とは違うが、私は、恐らく、蟹を鼠が大挙して襲って食い尽くしたのを、蟹が鼠に変じたと錯覚したのであろうと思う。

『「本草綱目」に蟛螖《ほうかつ》は蟹の最小無毛者〔最小にして無毛なる者〕と有る』巻四十五の「介之一」「龜鱉類一」の最後(「鱟魚」(ゴウギョ)=カブトガニ)から、二つ目に「蟹」がある。「漢籍リポジトリ」のここの[106-21b]を見られたい。著者李時珍は内陸の人で、海産生物には疎く、本書のそれは誤りが多い。しかし、淡水蟹も多くいるのだから、ここで十把一絡げで「蟹」は、ないでショウ!?! と常に私は呆れている。毛のある蟹のためにのみ、こんな引用をするなら、もっと相応しい箇所があるでショウが、熊楠先生! 「集解」のここですよ、ここ!(多分、「函史」とダブるからだろうが、より詳しいでっせ?!)

   *

俗、傳ふ、「八月一日に、稻の芒(のぎ)の兩枝を取る。長さ、一、二寸許りにして、東行して、芒を長(をさ)に輸送す。故に、今、南方に、蟹を捕ふこと、差(や)や早きときは、則ち、芒を銜(ふく)む有り、須(すべか)らく、霜後(さうご)[やぶちゃん注:霜が降りた日から後で。]に芒を輸(おく)るべく、方(まさ)に、之れを食ふべし。否(しからざ)るときは、則ち、毒、尤も猛なり。其の類、甚だ多し。[やぶちゃん注:以下、毒蟹の記載が続くが、略す。訓読には、国立国会図書館デジタルコレクションの出寛文九年刊の板本の当該部の訓点を一部で参考にした。]

   *

なお、「蟛螖」は複数の中文サイトを見たが、蟹の一種とあるだけで、種同定されていない。現行では、私は、本邦にも棲息する短尾下目イワガニ上科モクズガニ科キクログラプスス亜科Cyclograpsinaeアシハラガニ属アシハラガニ Helice triden 或いはその近縁種であろうと睨んでいる。私の『毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蟹二種 蘆虎(アシワラガニ)・蟙(ツマジロ・スナガニ) / マメコブシガニ・スナガニ』を参照されたい。そこには「蟛螖」も出てくる。そこで注したが、再掲すると、平安中期の辞書「和名類聚鈔」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクション寛文七(一六六七)年版から)

   *

(アシハラガニ) 「兼名苑」に云はく、『は【「彭」・「越」、二音。「楊氏漢語抄」に云はく、『葦原蟹』と。】形、蟹に似て小なり。』と。

   *

と既に古くに種同定されているのである。こいつも雑食性で稲を食いそうだが(但し、当該ウィキによれば、『捕食性はかなり弱く、主食はヨシの葉などの植物質の分解過程のデトリタスである』とある)毛もないし、行動は夜間の方が活発であるから、この蟹の群れには、相応しくはないように私は思う。

「ヅガニ」ズガニ。モクズガニのかなり知られた地方異名(特に西日本)。

『「本草啓蒙」四一に、『ヅガニ、卽ち、螃蟹《ばうかい》、毛蟹也。……』国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の板本のここ(左丁の八行目。但し、そこでは「ツガニ」とある)。

「典籍便覽」明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。以下の部分は、「中國哲學書電子化計劃」の影印本と校合した。ここ(最終行末に「螃蟹」と割注の「俗呼」のみ)と、次の丁の画像で視認出来る。読み難いとなら、別板本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、この単体画像がよかろう。右丁大罫三行目「※螃」(「※」は「グリフウィキ」のこれ。「蟹」の異体字)がそれ。]

 十七世紀の末、印度洋ロドリーグ島を視たフランソア・レガーの「探險航記(ヴオヤージユ・エ・アヴアンチユール)」(一七〇八年板)に、彼《かの》島に、陸蟹、多く、七、八月、滿月前後、其雌、諸方より團集《だんしふ》して、卵、生みに、海に赴く。其數、百萬とも算ふべし。其時は、穴を掘《ほつ》て身を隱さぬ故、幾許(いくら)でも殺し得《う》。因《より》て、一夕《いちゆふ》、嘗(こゝろ)みに、三千疋、打殺《うちころ》し、扠《さて》、翌朝、見ると、少しも減《へつ》た樣に無《なか》つた。其肉は、味、好く、食ふべしだが、困つた事には、此蟹、日夜、圃(はたけ)に入《いり》て、植物を裂き、籠で覆ふた植物をば、地に、孔《あな》、掘り、侵入して裂き了《をは》る。何とか、其害を遁れんと勘考の末、「吾等の圃に、種蒔きすると同時に、蟹、最(いと)多く棲む所々へも、多く、種を蒔ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、蟹ども、巢を遠く離れずに、澤山、苗を啖(くら)ひ得る上は、態々《わざわざ》、圃を襲ひに來ぬ筈。」と、宛込(あてこみ)の褌《ふんどし》がダラリと外《はづ》れて、苗が生出(はえ《だ》)すが最期、安逸飽食しては、天道樣が怖ろしいと云ふ風で、蟹群《かにのむれ》、續々、園中へ侵入した。因て、一同、大いに我を折り、注意して、蟹が、餘り多く來ぬ處を選《えら》み、川から成《なる》べく距(へだ)たつた園や丘に、種蒔きする事と定めたと有《あつ》て、此蟹、又、何でも鉗(はさ)み行く一例として、或人、虎の子より大切にし居《を》つた財布を、蟹に取去《とりさ》られ、狂ひ怒つて、蟹を見る每《ごと》に殺した由、載せ居る。

[やぶちゃん注:『印度洋ロドリーグ島を視たフランソア・レガーの「探險航記(ヴオヤージユ・エ・アヴアンチユール)」(一七〇八年板)』フランス生まれで、イギリスへ渡って一七〇九年にその地で帰化した旅行家・冒険家であったフランソワ・ルガ(François Leguat 一六三八年~一七三五年)が書いたとされる‘Voyage et aventures’ であるが、ウィキの「フランソワ・ルガ」によれば、『家族構成などの詳細は不明であり』、この書以外、『執筆はしておらず、また』、『この著作に関しても、彼以外の手によって書き加えられたことが確実であるとされている』とあった。但し、別に、『本旅行記のロドリーグ島(ロドリゲス島)』(=「ロドリーグ島」(Rodrigues Island) :インド洋のモーリシャス島から北東五百六十キロメートルに位置するモーリシャス領の孤島で、三つの島から成る。ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)『での描写に登場した「孤独鳥(ソリテール)」』(Solitaire:ロドリゲス島固有種ハト目ドードー科 Pezophaps 属ロドリゲスドードー Pezophaps solitaria 。一七六一年を最後に目撃者はいない。当該ウィキを見られたい)『は現代では絶滅してしまった鳥であり、発見者の記述も少なく、博物学者からは存在が疑われた時もあった。ところが』、十九『世紀後半に、同島の洞窟から様々な絶滅種の化石が発見され、ルガの描写と一致したものもあり、この旅行記が博物学に与えた影響は大きいと言える』ともあった。なお、ここに出たのは、まず、短尾(カニ)下目イワガニ上科オカガニ科 Gecarcinidae の一種ではあろう。インド洋では全くの対位置にあるクリスマス島ココス諸島の固有種で、鮮やかな赤色をした、大移動で知られるオカガニ科ムラサキオカガニ属クリスマスアカガニ Gecarcoidea natalis のそれが有名である。]

 褌と財布の序《ついで》に述《のぶ》るは、明治十八年五月、淺草芝崎町《しばざきちやう》平民、宮崎喜兵衞、平素、蟹を嗜《たしな》み、食ふ。二、三日前、鳥越町《とりこえちやう》の魚肆(さかなや)で、女蟹(めがに)五疋を、八錢で求め歸つて、晚酌の下物(さかな)に食ひに掛《かか》る時、俗にいふ「褌」の間より、目方一匁三分[やぶちゃん注:四・八八グラム。]程の黃金塊を見出《みいだ》し、大切に保存すと、其月二十五日の『繪入朝野新聞《ゑいりてうやしんぶん》』で見た。「川柳百人一首」、某婦人の句に「ふんどしに子を包むのは蟹の母」と有つたが、時に黃金をも包む事無きにしも非ずらしい。予が目擊した西印度諸島の彩畫蟹(クラブパント)も、年々、無數、大群を成し、山と云《いは》ず家と云ず、直進して、海へ、子、生みに往く。其間、地方の名產煙草の芽を荒す等、年により、災難、夥しい。其混雜の狀《さま》は、一六六五年板、ド・ロシュフォールの「西印度諸島博物人情志(イストア・ナチユレル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ・ド・ラメリク)」や、一八九三年板、ステッビングの「介甲動物篇(クラスタセア)に、よく記載し有る。左程の大群を、予は、見なんだが、小穢(こぎたな)い旅舍(やどや)で食事中、彼《かの》蟹、數多《あまた》、進行中で、雪隱から人糞を鉗(はさ)み來たり、皿邊(さらあたり)へ、步み近づくに畏れ入り、日本天主敎最初の大祖師ハヴィエル尊者(そんじや)、バラヌ島の近海に、十字架を落して、二十四時の後《のち》、一蟹、兩螯(りやうがう)、之を捧げ、復《もど》したと聞く。予の不德、即ち、蟹が大便を將來(もちく)るを致すかと、吾乍ら、愛憎《あいそ》が盡きた事ぢやつた。

[やぶちゃん注:「明治十八年」一八八五年。

「淺草芝崎町」現在の台東区西浅草三丁目

「鳥越町」現在の台東区鳥越二丁目

「繪入朝野新聞」明治一六(一八八三)年一月に山田風外(孝之介)が創刊した小新聞で、同年六月から『朝野新聞』に経営が移った。同紙の姉妹紙として民権派の論説を展開し、有力な小新聞に成長したが、明治二十年頃から部数が伸び悩み、明治二二(一八八九)年には『朝野新聞』との関係を絶ち、『江戸新聞』に改題した。

「西印度諸島の彩畫蟹(クラブバント)」このカタカナは恐らく“Crab paint”の訛りであろう。一般にはRed Land Crab”で、オカガニ科 Gecarcinus 属  Gecarcinus ruricola であろう。英文の当該種のウィキによれば、同種は、カリブ海の陸上の蟹の中で、最も陸生に適応した種であり、キューバ西部からアンティル諸島を越えて、バルバドスまで分布が見られるとあり、同種の一般的な異名には、「紫陸蟹」「黒陸蟹」「赤陸蟹」及び「ゾンビ蟹」(zombie crab)があるとあった。この英文ウィキの写真を見れば、熊楠の言う「彩畫」も、異名の「ゾンビ・クラブ」も、絶対! 納得である!

『一六六五年板、ド・ロシュフォールの「西印度諸島博物人情志(イストア・ナチユレル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ・ド・ラメリク)」』フランスの博物学者シャルル・ド・ロックフォール(Charles de Rochefort 一六〇五年~一六八三年)のHistoire naturelle des iles Antilles de l'Amerique(「アメリカのアンティル諸島の自然史と道徳史」。一六六五年刊)。

『一八九三年板、ステッビングの「介甲動物篇(クラスタセア)」』イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:『チャレンジャー』号の探検航海で得られた甲殻類の研究で知られ、また牧師でありながら、進化論を擁護(自らダーウィンの弟子と称して憚らなかった)したことでも有名である。当該ウィキによれば、『進化論に関してダーウィンに反対する記事を分析する多くの論文を書いた。彼の行動は、宗教的な説教を行うことを禁じられることになった』とあった)の‘A History of Crustacea: Recent Malacostraca’ (甲殻類の歴史:現生軟甲綱)。

「日本天主敎最初の大祖師ハヴィエル尊者」フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。彼はスペインのナバーラ州ハビエル(Javier)出身であった。

「バラヌ島」不詳。]

 又、序に、詰らぬ話乍ら、世態の變遷を、後代の爲に書き留め置くは、吾輩、十一、二の年、「違式詿違(ゐしきかいい)」出た、其前、他は知らず、京阪地方の人力車の背(うしろ)に種々《いろいろ》可笑(をかし)い繪を彩り畫《ゑが》いた中に、西行法師が富士を眺め乍ら、蟹に祕具を鉗まれ居るのが有《あつ》た。斬髮床(ざんぱつどこ)や、興行物のビラにも、屢〻有つた。是は、角力取が踊る唄に「西行法師が一歲(ひとゝせ)東(あづま)へ往(い)た時に 岩にヤーエー 腰をかけ 蟹に○○○○鉗まれた」と云ふより、起こつたらしいが、此樣(こん)な唄は何時頃出來た物か、諸君に問ひ置く。西洋にも、往時(むかし)は其樣(そん)な事を、別に、氣咎《きとが》めせなんだと見えて、瑞典《スウェーデン》女皇クリスチナが悅んで讀んだちふ、佛國の文豪ベロアル・ド・ヴェルヴィユ(一五五八―一六一二)の「上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)」四九章に、最も變な蟹害の話を載す。濱地の知事夫妻に、蟹、數疋を贈る者、有り。知事、之を厨《くりや》に致す前、一疋、走り出《いで》て、寢室(ねま)の壁掛(かべかけ)の裏に匿れたが、夜分、鹽氣《しほけ》を慕ふて、虎子中(おまるのなか)に潜《ひそ》む。知事の妻、一向知らず、それに尿(しと)せんとして、下部(しも)の兩脣(くちびる[やぶちゃん注:二字へのルビ。左右の大陰唇のこと。])を鉗まれ、夫(をつと)、倉皇(あはて)、近づいて、之を吹き放さうとする。其口の兩唇[やぶちゃん注:膣口に近い左右の小陰唇。]をも、鉗まる。蟹は、雙手、四唇を離さず、夫妻、大いに苦《くるし》む聲に驚き、僕(けらい)、剪刀(はさみ)、持ち來たり、兩螯《りやうばさみ》を截(きつ)て、主人を救ふたと云ふ。

[やぶちゃん注:「違式詿違(ゐしきかいい)」「違式詿違条例」(いしきかいいじょうれい)。明治初期に於ける軽微な犯罪を取り締まる単行の刑罰法を指す。明治五(一八七二)年十一月八日の『東京府達』(たっし)を以って、同月十三日から施行された「東京違式詿違条例」が最初で、翌年七月十九日の『太政官布告』により、「各地方違式詿違条例」が制定され、各地方にも公布・施行されることとなった。全九十条から也、風俗・交通・衛生・営業・用水等、日常的秩序維持に関わる軽微な犯罪と処罰を規定したもの(「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらの回答を参照した(参考にした文の原拠は平凡社「世界大百科事典」)。

「西行法師が一歲(ひとゝせ)東(あづま)へ往(い)た時に 岩にヤーエー 腰をかけ 蟹に○○○○鉗まれた」伏字は「きんたま」。籠橋隆明氏のブログ「名古屋・豊橋発,弁護士籠橋の中小企業法務」の「番外 カニにきんたま」に拠った。そこに柳田國男が出て来る。柳田の直接の著作ではないが、国立国会図書館デジタルコレクションの守屋健輔著の「柳田国男と利根川――柳田学発生の周辺を歩く」(一九七五年崙書房刊)の『7 布川時代に覚えた歌や踊り』の冒頭にある『○ 西行橋と西郷隆盛の歌』で腑に落ちた。読まれたい。

「瑞典女皇クリスチナ」十七世紀のヴァーサ朝スウェーデンの女王クリスティーナ(スウェーデン語/Kristina  一六二六年~一六八九年:在位:一六三二年~一六五四年)。グスタフⅡ世アドルフと王妃マリア・エレオノーラ(ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公ヨハン・ジギスムントの娘)の娘。当該ウィキによれば、『後世の歴史家は、クリスティーナを「バロックの女王」と呼んだ。スウェーデン普遍主義に則り、フィンランド大公を兼ねた最後のヴァーサ家のスウェーデン君主である。若くして退位し』たとある。

『ベロアル・ド・ヴェルヴィユ(一五五八―一六一二)の「上達方(ル・モヤン・ド・バーヴニル)」』『南方熊楠 履歴書(その21) 書簡「中入り」』の私の「ベロアル・ド・ヴェルヴィユ」の注を参照されたい。私はそこで、フランスのルネサンス期後半の詩人で作家のフランシワ・ベロアルド・ド・ベェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六二六年)ではないかと思われるとしたが、生没年が近いものの違っている。しかし、‘ Le Moyen de Parvenir ’(「達成への道」)は確かに彼の著作(初版は一六一七年)であるので、確定である(英文の当該作者のウィキを参照した)。]

 扠、本邦で蟹が植物を害する例、親(まのあた)り予が見たは、那智山其他で、「ヒメガニ」(一卷一二號七三〇頁參照)が、甚だ、山葵(わさび)を嗜《この》み、其苗を扠(はさみと)る事、夥だし。西牟婁郡、瀕海(うみべ)の諸村、處により、蟹害を受けるが、廣く平らかな地の本田(ほんでん)に、なくて、巒側(こやまのわき)や、高堤(たかいつゝみ)や、石垣に沿うた田に、稻苗を栽付《うゑつけ》ると、蟹、來たつて、若芽を摘む。丁度、田が新らしく出來て、蟹の食ふべき物、稻苗の外、乏しいからで、稻、稍〻《やや》長ずる頃は、種々(いろいろ)食ふべき草の芽等も多く成り、稻は硬くなる故、食はれぬ。此邊の蟹は、「クソガニ」(和歌山)、又、「エツタガニ」(田邊)、又。「タユガニ」(神子濱(みこのはま))抔言《いひ》て、全身、褐色(ちやいろ)で穢《きたな》いのと、「猩々蟹《しやうじやうがに》」、又、「辨慶蟹」(和歌山)、「ベンシヨウ」(田邊)抔、呼んで、螯(つめ)、赤く、甲(かう)・脚(あし)、黑(くろ)、若くは、赤いのと有るが、前者が、後者よりも、害、多く做《な》す。孰れも、多く、岸側(きしわき)や、石垣の橫穴に棲み、稻芽(いなめ)を摘むごとに、必ず、穴に持還《もちかへ》つて啖《くら》ふ。水底で、永く働き得ぬ故、遠く、田の中に到らず、岸に近き田緣(たのへり)のみ、荒らす。

[やぶちゃん注:「一卷一二號七三〇頁參照」先行する熊楠の「山人外傳資料」を指す。そこで、『山人の動物食も、鳥獸魚介に限らず、今日の市邑《しいう》に住む人々の思ひも付《つか》かぬ物をも多く食たに相違無い。支那のは知《しら》ぬが、本邦の山男が食ふ蟹は、紀州で「姬蟹」と云ふ物だらう。全身、漆赭褐色《しつしやかつしよく》、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔、專ら、之を食ふ。甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある由、聞《きい》た。』とある。そちらで、『紀州で「姬蟹」』「全身、漆赭褐色、光澤有り、步行、緩漫で、至つて捕へ易い。山中の狸抔專ら之を食ふ」『甲斐で「石蟹」』の注で、私は『「甲斐」ときては、もう、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani しかあり得ない。ただ、以下の『甲斐で「石蟹」と呼《よん》で、今も蒲鉾にし、客に食はす處ある』とあるのは、不審。蟹をどうやったら、蒲鉾に出来るのか? サワガニの個体を、多数、擂鉢で徹底的に摺り潰して、何か繋ぎになるものを入れて作ったものか? 甲州の方、ご存知ならば、御教授あられたい』と書いた。誰からも情報は寄せられていない。再度、乞うものである。

「西牟婁郡」旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「クソガニ」「糞蟹」だろう。

「エツタガニ」これは恐らく差別異名で、「穢多蟹(ゑたがに)」の音変化であろう。

「タユガニ」語源不詳。

「神子濱」現在の和歌山県田辺市神子浜

「ベンシヨウ」語源不詳。但し、これは並列から以下の「赤いの」と同種である。

「黑」先に示したモクズガニとアシハラガニが相当するかのように見えるが、実は、以下のベンケイガニの色違いで近縁種に短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属クロベンケイガニ Orisarma dehaani がいるので、これを筆頭にしなくてはなるまい。

「赤いの」前の「猩々蟹」「辨慶蟹」に同じ。短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科クロベンケイガニ属ベンケイガニ Orisarma intermedium である。赤いこれは、私は新宮市の高台の岩にある神倉神社を訪ねた際、彼らが恐るべき数棲息しているのに驚いた経験がある。「南方熊楠記念館」の公式ブログの「蟹隠れ」を見られたい。こんな連中の大きい奴が、夏場の湿気もない、参道(ご存知と思うが、最初の部分は、最早、ただの崖)に、ごろごろ居たんだから、驚いたのだ。

 神子濱抔、溝に、蟹、多きを、少しでも、其害を緩める爲、田の緣邊(へり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])に、餘分に、稻苗、多く種(うえ)て、充飼(あてが)ひ、其以(それより)内(うち)へ食込(くひこ)むを、禦ぐ。又、予は見ぬが、空俵(あきだはら)を、長徑、一行(いちぎやう)に排《なら》べ、伏せ置くとも聞く。然し、予が睹《み》た、尤も普通な法は、「カニダテ」とて、米俵を胴切りして、橫に舒《のば》すと、長方形の薦、二枚、出來る。其を幾つも維(つな)ぎ合せて、卷紙如く、卷置《まきお》き、苗代を田に移して、田側《たがは》の岸に、彼《かの》薦を、展(のば)して、其上瑞(うへはし)をもたせ掛け、田の中から、泥を、其裾に壓付(おさへつけ)るのだ。然る時は、岸邊の蟹、稻芽を犯さうとならば、傾斜せる屋根裏を跛登《はひのぼ》る樣な藝當を要し、隨つて、侵入する事、割合に少ない。新庄(しんじやう)村抔、潮水、多少、到る田には、「ミズガニ」(和歌山)、「ツマジロ」(新庄村)抔、唱える蟹、甲脚、靑く、螯の端、白く、石垣や岸の橫穴に棲まずして、泥中に深く、竪穴(たてあな)し居るのが多い。其穴底には、常に水が溜り居るので見ても、此蟹は、水中に長く働き得と知れる。隨つて、根氣よく、薦を、鉗み破つて、較《やや》遠く、水田中(みづたのなか)に討ち入り、迚も一筋繩で往かぬ奴だから、二筋の椶櫚繩(しゆろなは)で、細い竹を、鮨卷(すしま)く簾子(すだれ)樣《やう》に、編《あん》で置き、岸にもたせ掛《かく》る事、薦製の者に異《こと》ならず。苗、長じ、蟹、恐るるに足らざるに及び、卷き片付《かたづけ》て、來年の用に備ふ。以上は、川村生《せい》の說に、「天草(あまくさ)では、未だ、蟹を防ぐ法、無し。」と有たが、氣の毒さに、津(つ)の國(くに)の難波(なには)につけて疎《うと》まるる身を顧みず、蘆間(あしま)の蟹の、淺猿(あさま)しい咄(はなし)迄、調合して、此篇を綴つた。扠、言遺(いひのこ)したは、蟹は、大豆の芽をも、摘食(つみくら)ふて、百姓を苦しむ。又、一老農の說に、「雨天に、大豆を蒔き步くこと、少頃(しばらく)して、始めの處に還り視れば、豆、既(はや)、亡(な)く、傍に蝦蟇(いぼがへる)のみ有つたので、此物も、豆の種を盜むを知る。」と。

[やぶちゃん注:「カニダテ」私には「蟹楯」が一番しっくりくる。

「新庄(しんじやう)村」和歌山県田辺市新庄町(しんじょうちょう:グーグル・マップ・データ)。田辺湾の南東沿岸に当たり、先の神子浜と海を隔てて対峙する位置にある。

「ミズガニ」「水蟹」か。

「ツマジロ」「爪白」であろう。この名から私が想起するのは、カニ下目ワタリガニ科ヒラツメガニ属ヒラツメガニ Ovalipes punctatus である。第一両脚の内側と先端が白い。当該ウィキによれば、『甲幅は』十センチメートルを『やや超える程度。ガザミと同じく第二脚から第四脚は歩脚であるが、第五脚は遊泳脚(ヒレ脚)であり、遊泳して移動することもできる。第一脚(鋏脚)の下側に突起が並んでおり、左右のこの部分をこすって発音する』。『波打ち際から水深』百メートルの『浅海域に生息するが、特に波打ち際から水深』二十センチメートル『程度に集中する』とある。熊楠が、「此蟹は、水中に長く働き得と知れる」「迚も一筋繩で往かぬ奴」という点では、本種の可能性はあるか。但し、本種が完全な淡水の田に侵入して、しかも、稲を切るかどうかは、観察したことがないので判らない。

「蝦蟇(いぼがへる)」一般には、両生綱無尾(カエル)目アカガエル科アカガエル亜科ツチガエル属ツチガエル Glandirana rugosa を指すことが多いが、時に無尾目ヌマガエル科ヌマガエル属ヌマガエル Fejervarya kawamurai も一緒くたに「イボガエル」(疣蛙)と呼ぶ。但し、両種は最大でも体長は五センチメートル程で、私の認識する「イボガエル」は断然、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類しかイメージしない。本邦の種は「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照されたい。]

追記(大正十五年九月一日早朝記す) 角力取が「西行法師が一歲《ひととせ》吾妻へいた時に」と唄ふ「富士見西行《ふじみさいぎやう》」てう下題の起りは、「源平盛衰記」八に、『扨も、西行、發心の起りを尋ぬれば、源《みなもと》は、戀故とぞ、承はる。申すも恐れある上﨟女房を、思いかけ參らせたりけるを、『あこぎの浦ぞ。』といふ仰せを蒙りて、思ひ切り云々、有爲《うゐ》の世の契りを遁れつつ、無爲の道にぞ、入りける。『あこぎ』は歌の心也。「伊勢の海阿漕が浦にひく網もたび重なれば人もこそしれ」と云《いふ》心は、彼《かの》阿漕《あこぎ》の浦には、神の誓ひにて、年に一度の外は、網を引かず、とかや。此仰せを承はりて、西行がよみける、「思ひきや富士の高根に一夜《ひとよ》ねて雲の上なる月をみんとは」。此歌の心を思ふには、一夜の御契りは、有けるにや。』(下畧)とある、それなるべし。

[やぶちゃん注: 『「源平盛衰記」八に、『扨も、西行、發心の起りを尋ぬれば、……』国立国会図書館デジタルコレクションの板本のここで当該部(左丁三行目から「讃岐事」の一節)が視認出来る。

「彼阿漕の浦には、神の誓ひにて、年に一度の外は、網を引かず、とかや」この伝承は、「諸國里人談卷之三 阿漕塚」の私の「あこぎの事」の注を参照されたい。

 なお、底本本文はここで終わっているが、「選集」では、『再追記』として、大正七(一九一八)年九月発行の『土俗と伝説』第一巻第二号に載ったものが添えてある。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの一九五二年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第六巻(文集 第二)のここから、正規表現で視認出来ることが判ったので、それを元に如以下に電子化注する。本電子化に準じて句読点・記号を追加し、読みも推定で加える。

   *

 追  記(二)

 川村生の書かれた記事の(『鄕土硏究』、二ノ四四二)の天草下島では、蟹嚙みの防禦法無きやう見えたのを、不思議に思ひ、此邊で行はるゝ、「カニダテ」などの構造を書いて送つたが(『鄕土硏究』、三ノ二一一)、其後、日高郡南部町大字山内と云ふ海邊の、山に圍まれた僻地から、下女が來たので、聞いて見ると、此地でも、「カニダテ」などの名案を聞いたこと無く、唯、稻苗を植ゑ付けた當分、甘藷《かんしよ》の貯へ置いたを、取り出し、橫截《よこぎ》りして、夕刻、田に撒き、日暮れて後、村民、組みをなし、炬火《たいまつ》を燃《もや》し、鎌の刄《は》を、曲げ反らせて、持ち出で、蟹どもが、藷片《いもきれ》を食ふ所を、打ち殺し、其屍骸は、集めて、海に投げ入れ、磯魚を惹き寄せる相《さう》だ。纔か、五、六里を隔てゝ、或は「カニダテ」の名案を行ひ、或は、其名も聞かぬ處もあるとは、さりとは、妙な世界と云ふ外なし。

   (大正七年、九月、『土俗と傳說』一ノ二) 

   *

「『鄕土硏究』、三ノ二一一」この熊楠の論考はネットでは発見出来なかった。

「日高郡南部町大字山内」現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)山内(やまうち:グーグル・マップ・データ)。田辺の北西で、「五、六里」というのは実測距離と思われ、地図上では、かなり近い。]

2023/05/03

佐々木喜善「聽耳草紙」 六一番 雪姬

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     六一番 雪姬

 或所に、大變な地所や下人を持つた長者があつた。下男下婢の數は三百六十五人、恰度《ちやうど》一年の月日の數程《かずほど》あつたので、一日休ませると、丁度一年休んだことになると言つて雨風を咀ふ[やぶちゃん注:ママ。「のろふ」で「詛」の誤字か誤植である。「ちくま文庫」版に『詛(のろ)う』とある。]位《くらゐ》貪婪《どんらん》であつた。長者の妻女が、或年火難に遭つて家屋(イヘ)倉《くら》を悉く失(ナク)してしまつたので、あまり悲嘆したあげく氣が狂つて、お庭の池に身を投げた。すると忽ち髮が振り亂れ口は耳の根まで引裂けて、額に角の二本生えた蛇體になつた。そして其邊で、アレアレと言つて立ち騷ぐ人々を取つて食つた。其後其池を廣めて棲居《すみか》としたが、或時池の中から大きな聲で村中に聞えるやうに斯《か》う叫んだ。

   一年に一人宛《づつ》

   良い娘を喰(ク)はせねアごつたら

   此所邊(コヽヘラ)中《ぢゆう》泥の海に

   してしもウぞツ

 それからと謂ふものは、其村では一年に一人づつの娘を、池の主《ぬし》に生贄(イケニエ)に供へなくてはならなくなつた。若しそれを守らないと鄕《さと》一體が泥の海にされる筈だつた。ところが或年に鄕の豪家の一人娘の順番になつた。其家ではひどく嘆いて、娘の代理に立つ者を諸々方々《しよしよはうばう》の村々に人を出して探させた。

 一人の使者(ツカヒ)が、生贄になる娘を尋ねて或山中に差しかゝつた。そしてあまり疲れたので谷間の一軒家に立寄り、少々憩《やす》ませて貰ひたいと言つて入つて行くと、其家に母娘の者が二人ツきりで[やぶちゃん注:底本は「きりて」。「ちくま文庫」版で訂した。]住んで居た。そして心よく使者(ツカヒ)を憩ませた。使者がよく見ると、娘の美しいことは、世に類ひ[やぶちゃん注:ママ。]ないほどであつた。そこで娘さんの名は何と言ひますかと訊ねると、母親はこれは雪姬と云ふ子だますと言つた。使者はこの娘なら主人の愛娘《まなむすめ》の身代りにしても恥かしくないと思つて、自分の役目を其所で打明けた。さうして俺はさう謂ふ人買ひいである。私にこの娘御を賣つてくれぬか、代價は黃金を山に積もうと言つた。雪姬はそれを聽いて、はい私でよければ買はれて行きますと言つた。そして嘆く母親を慰めて、暫時(シバラク)の間の別れだから決して心配しないで居《ゐ》てがんせ、私は用がすんだら直ぐ歸つて來ますからと言つて、その人買ひと一緖に家を出て行つた。

 長者の家では、雪姬を見て、お前のお蔭で一人娘の生命《いのち》が助かると言つて非常に喜んだ。そして雪姬は村の人達に見送られて、池のほとりの櫓《やぐら》の上に登つた。大蛇は雪姬の影が水に映(サ)すのを見て、水の上に體を現はし、只一口に雪姬を呑まうとした。その時雪姬はアアこれこれ魔神(マシン)のものしばらく待てツと言つて、何やら御經を口の中で誦(ヨ)んだ。すると今までの恐しい形相《ぎやうさう》の蛇體から額の角がポロリポロリと滴(コボ)れ落ち、鱗の生へた顏が梅ノ花(ハナコ)のやうに美しくなつた。そして元の長者の妻女の姿に返つて淚を流して、雪姬の前に伏して厚く御禮を言つた。それから村の態(サマ)も昔通りの靜かな里となつた。

 雪姬は長者からは餘分の黃金を貰ひ、また蛇體であつた妻女からも、御禮だと言つて、寶《たから》ノ珠《たま》を貰つて、元の山中の母親の許へ歸つて來た。家へ還つて見ると、戀しい母は居ないで後(ウシロ)の山の方で、

   雪姬戀しいぢやホウイ

   雪姬戀しいぢやホウイ

 と叫ぶ聲がした。雪姬は泣きたくなつて後(ウシロ)の山へ走つて行つて見ると、母は娘戀しさに目を泣き潰して盲目となつて、鳥《とり》コを追つてゐた。

 雪姬は[やぶちゃん注:「は」は底本では脱字。「ちくま文庫」版で補った。]貰つて來た寶珠《はうしゆ》で潰れた母親の目をコスルと眼が開いた。母親は喜んで家に還つた。さうして長者どんから貰つた黃金で一生豐かに暮した。

(大正三年頃、岩手郡瀧澤《たきざは》村で小學校敎員をして居《を》られた武田彩月兄《けい》からの報告に據るその三。別に村の大洞犬松爺が話した「蓑笠の始まり」と謂ふのには、或所の長者が、家來下男を三百六十五人使つて居《を》つた。其多くの召使人を寢《ねか》せる時は一本の長い材木を枕にさせて置いて、朝未明に其端を大槌でどンと打つて皆を起した。又その當時は十日に一度の雨降りがあつたが、一日休ませると一年の月日を休ませたと同じだといつて、その家のお内儀(カア)樣は蓑笠といふ物を工風《くふう》して、それを下人に被《かぶ》せて雨天でも野良へ働きに出した。そんなことから神樣が怒つて、月に三度ではなく不規則に雨を降らせるやうになつたとも謂ふてゐる。)

[やぶちゃん注:最後の附記は以上の通り長いので、全体が二字下げポイント落ちであるが、読み難くなるだけなので、冒頭も引き上げ、全体を本文と同ポイントで示した。

「岩手郡瀧澤村」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ。盛岡の北西の現在の岩手県滝沢市。]

大手拓次 「風の言葉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 風の言葉

       こは自らの影を帝王切開するの歌にして
       無限の實在たる神の意識へ昇華せむとす
       るわが最初にして最後の里程標なり

 

秋の日は 眼をとぢ、

風は みえがくれに わたしの心を 追つてきたのだ。

風は ながれの枝をふりかざして、

うなだれた わたしの心を むちうつのだ。

風は みづにおぼれた銀色の言葉をもつて、

ゆれてゐる わたしの心を さそふのだ。

風は おちちる ひとひらの木の葉をもつて、

地にふしてゐる わたしの心に よりそふのだ。

 

しろざめて すぎゆく風は

そのおとづれもなく ひかりのはねにかくれて、

わたしの さだめない心の月を おびやかす。

 

風は 微笑の丘をきずつけて めぐり、

うつうつとした うまれない花の幻を うばふのだ。

風は ところもあらず しろいかげをよびかはし、

まよひゆく ひとみのやうな大空をゑがくのだ。

風は とぎれとぎれに はなれゆき、

すがたもない 心のたそがれを みおくるのだ。

風の脚は くさのあひだに いざよひ、

また みづのおもてに 眠り、

はつるところなく その波立てる小徑(こみち)をあゆみ、

うすぐもる 黃金の鐘を 鳴らすのだ。

 

大手拓次 「霧にかくされた言葉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 霧にかくされた言葉

 

この うまれようとして さまよつてゐる言葉は

とりちらされた 夜(よる)の霧にかくされ、

枝から枝へ うつりかかり、

みごもつた はればれしさを おししづめ、

せまつてくる霧の底に 眼(め)をひらいてゐる。

 

大手拓次 「陶器の玩具」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 陶器の玩具

 

こころを 銀の釘でうちつけて

花をとりさられた くさむらのなかに うごいてゐるもの、

こころを みづのうへにうかべて

とろとろと 火をつけてゐるもの、

こころを 霧の刃物でさしつらぬき

みちばたに すててゆくもの、

わたしは 鳥でもない 犬でもない、

陶器でつくつた ひとつの玩具(おもちや)だ。

 

[やぶちゃん注:「器」は詩集「藍色の蟇」の用字に従った。「刃」は詩集「藍色の蟇」では、「グリフウィキ」のこの、三画目が二画目を貫かない字体で統一されているが、表示出来ないので、そちらでは「刃」で示した。底本も「刃」であるので、同じくそれを採用した。]

2023/05/02

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート じようりきじようまん

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

      じようりきじようまん (大正四年五月『鄕土硏究』第三卷第三號)

 

 「じようりきじようまん、にたんところはおさごいごいよ、」云々と、草履隱《ざうりかく》しの戯れする時、田邊の小兒が唱ふる由、既に「一極《いちきめ》の言葉」の條に述べたが、全體、何のことか分らぬ。

[やぶちゃん注:「草履隱し」子どもの遊びで、それに附帯した鬼を決めるための歌である。「鳥取県立博物館」公式サイト内の「鳥取県の民俗行事等」の「わらべ歌」の「草履隠しクーネンボ(履物隠し歌)鳥取市鹿野町鹿野」に、『この歌の遊び方は、まず全員が履物の片方を差し出して一列に並べ、その上を親が詞章に合わせて順番に指差してゆく。歌の終わりに当たった履物の持ち主は、その瞬間に鬼と化し、履物を隠す隠し鬼へと移行する。こういった決まりごとのもとに繰り返し遊ぶのである。鳥取県下でもこの遊びは親しまれていたようだ。詞章もだいたい同じだった。』とあって、昭和三九(一九六四)年八月に聴取した西部の日野郡江府町御机での歌詞が示されてある。なお、歌詞の最終行には、続けて、『伝承者』とあって、明治二六(一八九三)年生まれの方とする注記がある。採取地は鳥取市鹿野町(しかのちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)とあって、録音された当時の音声もリンク先で聴くことが出来る

   《引用開始》

草履隠しクーネンボ

橋の下のネズミが草履をくわえて チュッチュッチュッ

チュッチュク饅頭はだれが食た

だれも食わないわしが食た

表の看板三味線屋

さあさあ 引いたり引いたり

   《引用終了》

また、別の日野郡江府町(こうふちょう)からの採取の歌詞も載る。こちらも同じ場所に『伝承者』が記され、昭和三二(一九五七)年生まれ(私と同い年である)とある。

   《引用開始》

草履隠しチューレンボ

橋の下の子ネズミが草履をくわえて チュッチュッチュ

チュッチュク饅頭はだれが食た

だれも食わないわしが食た

表の看板三味線だ 裏から回って三軒目

   《引用終了》

最後の歌詞が後者では変わっているが、これは『鳥取市の方が元だったと考えられ、日野郡江府町の方が変化したものだろう』とあった。

 なお、昔野遊人(むかしのゆうと)氏のサイト「昔の遊び」の「くつかくし」に、八種の歌詞のヴァリエーション(一部は部分)が示されているので、参照されたい。

 さらに、これは是非読んで戴きたいのだが、「京都産業大学」公式サイト内の「乳幼児発達研究所『はらっぱ』一六一号」の灘本昌久氏の「わらべ歌と差別」(本文メインの最初の標題が『「ぞうり隠しの歌」は差別の歌か』となっている)は、本歌詞について、非常に興味深い事実(事件)が語られてあり、灘本氏の見解には強く共感が持てた。

「一極の言葉」『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十三」』の冒頭にある「〇一極めの言葉」を指す(「一極め」は「いちきめ」と私は読みを確定した。その根拠もそちらの注で示してある。ここでも、その読みを添えた)。そちらを、まず、読まれたい。]

 「鹽尻」(帝國書院刊本)六六卷、二五三頁に、『江州クズ川の嶽』云々、『ひゑの山の奧の院といふ。』中略、『山門山住の行者、六月會、十月會に、入峯する靈所なり。叡山より北の方十里許りの道程也。前行《ぜんぎやう》一百曰、無言にして叡山の諸堂靈所を每日廻りて拜す。其道七里半と云ふ。入峯《にふぶ》して、七日、斷食し、行を滿《みた》す。此地に、淨鬼・淨滿とて、民、有り。和州大峯《おほみね》の前鬼《ぜんき》・後鬼《ごき》が如し。入峯の修驗を導くとぞ。』と出づ。

[やぶちゃん注:「鹽尻」江戸中期の随筆。天野信景(さだかげ)著。現在の通行本は門人堀田六林(ほったりくりん)が考訂した百巻本で、原書は一千巻近くあったというされるが、多くは散逸した。大部であり、且つ、近世随筆の中では時代が早いことから、世に広く知られる。信景は名古屋藩士で、本書は、元禄(一六八八年~一七〇四年)から享保(一七一六年~一七三六年)にかけて、彼が諸書から記事を抜粋し、自身の意見を記したもの。対象事物は歴史・伝記・地誌・言語・文学・制度・宗教・芸能・自然・教育・風俗など、多岐に亙っており、挿絵もある。国立国会図書館デジタルコレクションで室松岩雄校訂(一九〇七年帝国書院刊)の「鹽尻 下」で当該箇所が読める。ここの左ページ上段後方の「○江州葛川の嶽……」以下である。

「江州クズ川の嶽」所謂、延暦寺の開創である最澄の弟子の円仁のその弟子である相応和尚が始めたとされる過酷な「百日回峰行(ぎょう)」「千日回峰行」が行われる比良山地内にある回峰行の行程の一つ。例えば、「葛川越」がここにある(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。その参籠断食修行である「葛川(かつらがわ)参籠」が行われる葛川明王院(正式名称は阿都山葛川寺(あとさんかっせんじ)息障(そくしょう)明王院)はここ

「淨鬼・淨滿」前注でも参考にした株式会社タンタカのサイト「不思議のチカラ」の『日本の鬼伝説の中心地「大江山」と比叡山の鬼の子孫のお話』によれば、そ『の葛川参籠の行者を現代にあっても山へと先導するのが、鬼の子孫と言われている人なので』あるとし、『相応和尚は山々を修行で巡るうちに、この葛川の地が霊気に満ちていると感じ、この場所で修行をしたいと思い』、『そこで和尚は、この土地神である「思古淵神(しこぶちしん)」という水神にかけあい、修行地を与えられ』、『思古淵神は眷属(神の使者、家来)である「浄鬼」と「浄満」のふたりをつかわし、相応和尚はそのふたりの導きで比良山中の三の滝に行き、七日間の断食修行を行』ったとし、その『満願の日、相応和尚は不動明王の存在を感じ、三の滝に飛び込』んだとあり、『不動明王と感得した姿は桂の古木であり、相応和尚は』、『その古木から千手観音像を刻み』、『安置して葛川明王院とし』たとある。そして、『この』時、『相応和尚を先導した「浄鬼(常喜)」と「浄満(常満)」が水神の家来の鬼と言われていて、その子孫が葛野常喜家と葛野常満家という二家の信徒総代として』、『現在にも続いており、平安時代から現代に至るまで回峰行者の葛川参籠を先導する役割を果たしてい』るとあった。

「和州大峯の前鬼・後鬼」大峰山は奈良県中央部にある修験道の聖地(広義の大峰山の最高峰は八経ヶ岳(はっきょうがたけ)で標高千九百十五メートルで、奈良県及び近畿地方の最高峰)。「前鬼・後鬼」は修験道の開祖とされる役小角が従えていたとされる夫婦の鬼。前鬼が夫、後鬼が妻。当該ウィキによれば、『元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの』五『人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた』結果、二『人は改心し、役小角に従うようになった』。この時、役小角は二人に『義覚(義学)・義玄(義賢)の名はが与えた』ともされる。後、『前鬼と後鬼の』五『人の子は、五鬼(ごき)または五坊(ごぼう)と呼ばれ』、『下北山村前鬼』(しもきたやまぬらぜんき:ここ)『に修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号とした。また』、『それぞれ、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)の』五『家の祖とな』り、『互いに婚姻関係を持ちながら』、『宿坊を続け』、五『家の男子は代々名前に義の文字を持った』とあり、現代まで、その子孫は続いている旨の記載がある。]

 然らば、淨鬼・淨滿は、山入りの案内で、「鬼《き》」と呼ばれた者だ。わるい子供は、淨鬼・淨滿に、頭を剃られ、伴《つ》れ行かるゝ抔、古く言《いふ》たのだらう。熊野は、山伏輩が、不斷、往來した地故(若くは、ずつと以前、淨鬼・淨滿は、近江に限らず、他所《よそ》でも案内の山民を呼ぶ名だつた者か)、「草履」を、方言「じようり」と呼ぶに緣(ちな)んで、「鬼」を撰《えら》ぶ唱詞《となへことば》に、此二鬼の事を言たので有らう。右の詞の末句、「なゝやのきはとんぼを、ななやのこゝのとお、」と云ふ兒も有る。

 

大手拓次 「わたしの側には」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 わたしの側には

 

わたしのそばには、

影を蹈(ふ)んだ馬がながれてゐる。

わたしのそばには、

ひびきを化粧する鐘がおよいでゐる。

わたしのそばには、

空をかきけす迷路がたはむれてゐる。

わたしのそばには、

眼をとぢた魚群が火をむさぼつてゐる。

わたしのそばには、

くさむらをどよもす鴉(からす)が羽ばたいてゐる。

わたしのそばには、

白い微笑をふくんんだ月がぬれてゐる。

わたしのそばには、

水のうへの靑い散り花がうづまいてゐる。

 

[やぶちゃん注:「蹈」の字は底本自体の表記である。]

大手拓次 「手に薔薇は繁けれど」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 手に薔薇は繁けれど

 

こころのなかに さがしもとめてゐる

さりがての ふるへをののく あをじろい ばらのはな、

わたしの つむぎくるまのやうな なやみのなかに、

うすいろの みえわかぬ羽をきて、

おほなみを ゆさぶり ゆさぶり、

ひらかうとしてゐる。

 

手をうごかせば ちりぢりになつてゆくやうな あやふさを

たたへ あふれさせながら、

それともない あのひとつのばらのはなは

今夜 わたしの胸にささやいてゐる。

 

大手拓次 「梨子の花色のマドモアゼエルヘ」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 梨子の花色のマドモアゼエルヘ

 

さまたげのない色がおまへをうつした。

おまへは 月とひびきとの とけあひ うちあふ ひそかなくらがりに臨んでゐる。

あらしと とほいこゑとが合掌してゐる。

いちご色の舌に あをいシヤーペツトをのせてゐる春の夜(よ)に ぽんぽんといふおとをさせてくる戲れがみえる。

 

[やぶちゃん注:「戲」は詩集「藍色の蟇」での用字に従った。]

大手拓次 「薔薇はゆれる」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 薔薇はゆれる

 

このばらは

あをき日のゆめを背負うて

なだらかに そのかげをただよはせ、

ふかみゆく そのこゑの羽をねむらせ、

しろじろとながれる 軟毛(なよげ)の媚(こび)のさざなみを

それとなく ふりこぼしつつ、

この 眞紅(しんく)のばらのゆれゆれは

すぎさつた月の姿をよびもどす。

ゆら ゆらと こころなく

みじろぐ ばらのはかなさ。

 

下島勳著「芥川龍之介の回想」より「芥川君の讀書の速度」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいるので、そこにはママ注記を入れた)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。

 なお、私は底本全部を電子化する意志は全くない。特に芥川龍之介がダシの如く使われている随想は興味がない。本篇の前の「花萱草」(読みは「はなくわんざう」であろう)は久保田万太郎と俳句についてのもので、芥川は名が出るものの、私の食指は全く動かないので、飛ばした。以降でも同様の飛ばしを行う予定である。]

 

芥 川 君 の 讀 書 の 速 度

 

 「羅生門」が出て間のない頃のことです。私のところへ遊びに來られた芥川君と、何かのきつかけから實朝の話が出たのです。そこで私は、――勿論一般には全く知られてゐない古い同人雜誌「ふかみどり」の中に、送春樓主人といふ人の「金槐集を讀みて」といふ一文が載つてゐるのに氣がついて、それを見せたのでした。彼は一寸取り上げて。パラパラ繰つてゐるかと思ふ間に、もう無造作に雜誌を閉ぢて下におき、袂から莨を出して火をつけた。[やぶちゃん注:『「羅生門」が出て間のない頃』第一作品集『羅生門』は大正六(一九一七)年五月二十三日に阿蘭陀書房(北原白秋の弟北原鉄雄が経営していた書肆)から刊行された。当時龍之介は満二十五歳であった。『「ふかみどり」の中に、送春樓主人といふ人の「金槐集を讀みて」といふ一文が載つてゐる』雑誌も作者も作品も不詳。]

 そのとき私は變な感じがしたから、――もう讀んでしまつたのですか、ときいてみた。すると、エエ拜見しましたと、いとも凉しい顏をしながら燻《くゆ》らしてゐるのでした。

 それは決して長いものではなかつたが、それでも七頁の文章ではありませんか、私はあまりにその電光石火的過眼《くわがん》の速度に驚かされて、しばし啞然としてゐましたが、――それでわかつたんですか、と、更に反問か愚問だかを發せざるを得なかつたほどでした。[やぶちゃん注:「過眼」これは他動的に「目前を通り過ぎる」の意の漢語であるから、相応しい用法とは言えない。]

 これがそも、芥川君の讀書力の尋常でないといふことを知つた最初であります。

 そののち書齋では、時をり親しいたれかれと話しながら、新刊ものや雜誌などを玩具のやうに、膝の上でいぢくりまはしながら、その實、讀んでゐるらしい彼に氣がつくやうになると同時に、――またやつてゐるわい……ぐらゐで、別に珍らしいとも思はぬやうになつてしまひました。

 あるとき、――僕は邦文の書物や雜誌なら、三四人と話をしながら讀めるんですよ、併し、誤解されたり失敬なやつだなんていはれるのが厭だから、如らぬ人の前などでは決してそんなことはしませんと、私に告白したことがあります。

 震災後、日日新聞社の用事で大阪へ行つたことがありましたが、私はそのとき分厚な英文の一本を四五册手提げの中へ入れたのを知つてゐました。やがて用事を濟ませて歸つて來ての話に、――汽車の中では睡られないから、本を讀むよりしかたがなかつた。だから京都へ着いたときには持つていつたのをみな讀んでしまつたから、滯在中は谷崎君から借りて讀んだんです、といつてゐた。[やぶちゃん注:「日日新聞」芥川龍之介が特別社員であった『大阪毎日新聞』の傍系会社であった東京日日新聞社のこと。「谷崎君」当時、京都に住んでいた谷崎潤一郎。]

 その頃の私は、彼の讀書の態度や速度について、多少の注意はしてゐたんですが、こんな全く想像も及ばぬことを聞かされては、――噓だらう……といつて彼に笑はれたほどだつたのです。

 その時だつたと思ひますが、一體どのくらひ[やぶちゃん注:ママ。]の遠度で本が讀めるのかと聞いてみたところは、普通の英文學書なら一日一千二三百頁は樂だといつてゐた。併し一日といつたところで、時間によるのだが、まあ假に一日一千二百頁の十時間とすれば、一時間百二十頁、一分間二頁といふことになるわけです。

 彼が英書を讀み耽る特徵は、本を少し斜《ななめ》の位置にまげるといふことです。――正面からは感じが强すぎるといつてゐましたが、何のことはない恰《あたか》も、事務官か銀行家が計算表でも見るやうな構へと頁の繰りかたであつたといふのが、飾りのない私の印象です。

 だから若し、――知らぬ人が實見したら、どなたに限らず、恐らく私と同じやうに、――あれで實際ほんとに讀んでゐるのだらうか?との疑念を生じ、次いでその感受性の異常さに驚歎させられたは違ゐ[やぶちゃん注:ママ。]ありません。

(昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報)

[やぶちゃん注:最後の附記は、最終行の下インデントであるが、改行した。]

佐々木喜善「聽耳草紙」 六〇番 お菊の水

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

     六〇番 お菊の水

 

 紫波郡片寄《かたよせ》村中曾根屋敷に十兵衞と云ふ狩獵の名人があつた。荒熊を手取りにしたり、五郞沼の大蛇を打ち殺したりする程の剛《かう》の者であつた。或時孕《はら》んだ猿に出會《でくは》して鐵砲を差し向けて、猿が淚を流し手を合はせて拜むのを擊ち殺して家へ持つて還つた。其時懷姙中であつた女房は其猿のことを痛く嘆いていたが、やがて產月《うみづき》が來て生んだのが熊の手足に猿の顏の子供であつた。そんな奇怪な子供を三度も續けて生んだが、四度目に生れたのが玉のやうな女の子であつた。夫婦は喜んでお菊と名をつけて可愛がつて居た。

 お菊は二十一の齡(トシ)になつた。降るやうに方々から申込まれる緣談などは耳にも入れなかつた。そして或日父親に向つて、

   雨と降らせて行くべか

   風を吹かせて行くべか

と言つた。そして必ず必ず妾《わらは》の室を覗いて見てはなりませんと言つた。

 父親は娘の言葉を不審に思つて、堅く々々覗いて見るなと言はれた娘の室を覗いて見ると、十六の角(ツノ)をさゝえた大蛇が長持(ナガモチ)を卷いて播踞(ウヅクマ)つていた[やぶちゃん注:「播」はママ。「蟠」の誤記か誤植。]。あうして父親に言葉をかけた。妾は元は五郞沼の主《ぬし》のお前に殺された大蛇である。どうかしてその怨恨(ウラミ)を晴らさうと思つて、母の胎内を借りて人間と生れて來たけれども養育の恩に感じて恨みも罪も忘れてしまつた。正體を見られた上は親子の緣もすでにこれまでであると嘆いて、長持から一個の珠(タマ)を取り出して父親に與へた。

 此玉にむかつて妾の名前を呼んだら、何時でも妾は今までの姿となつて現はれませう、亦若し父樣に飢渴の苦しみがある時には、この玉を嘗《な》めて居てクナさい。これから妾は隣國の仙臺領東山ホロハ山《さん》の麓の深谷《ふかだに》を棲家として身を隱しましせうと言ひ棄てゝ、大暴風雨を起して飛び去つた。

 然しながら保呂羽山の麓の大權現に恐れて、その深谷には入れず、道を轉じて南小梨《みなみこなし》のマタカの堤に移つた。それでも、また神樣達の怒りに觸れ、雷神が頻りに祟るので止むなく北小梨川へ飛び込んで、橋を流したり堤を破つたりして川を下つた。其のために黃海《きのみ》などは海のやうになつた。そして大蛇は追はれに追はれて遂に北上川に入つたが、そこで雷神に打たれて七裂(サキ)八裂(サキ)にされてしまつた。此時の大洪水は寬政三年十月十六日の大暴風雨で、お菊の水と云つたと謂ふ。

  (千葉亞夫氏御報告の二。大正十二年秋の頃。)

[やぶちゃん注:この手の龍蛇の人に変じた伝承で、コーダに実際の年月日まで登場するというのは、その洪水被害を後世に記憶させる大事なポイントとして機能していることは言うまでもない。寬政三年十月十六日は、グレゴリオ暦一七九一年十一月十一日である。

「紫波郡片寄村中曾根屋敷」現在の岩手県紫波郡紫波町(しわちょう)片寄(かたよせ:グーグル・マップ・データ航空写真)。西部が山間に繋がる。また、同地区には小字名を「鍛冶屋敷」とするものが残っている。「ひなたGPS」の戦前の地図では、「中曾根屋敷」或いは「中曾根」はなかったが、同地区に「萩屋敷」の地名(現行もある)を見出せる。

「五郞沼」片寄の東直近の紫波町南日詰(みなみひづめ)箱清水(はこしみず)のここに現存する。岩手県観光ポータルサイト「いわての旅」の「観光スポット」のこちらに、『平泉・藤原氏初代清衡の孫、樋爪太郎俊衡が建立した樋爪館跡の南にある五郎沼は、春は桜、冬は白鳥が飛来し訪れる人を楽しませています』。七『月には駐車場隣の蓮池で、中尊寺で泰衡の首桶から見つかった種を復活させた古代蓮(中尊寺ハス)が美しい花を咲かせます。東岸には、昔、度重なる沼の堤防決壊を食い止めるために人柱にされた女性の泣き声がするという伝説のある夜泣石と呼ばれる石碑があります』とあり、或いは、この「五郎沼経塚跡」というのが、それに関連するのかも知れない。而して、この奇怪な話は、実はおぞましい女人の人柱伝承を内に隠したものであるとなら、クレジット明記というのも甚だ納得出来るのである。

「仙臺領東山ホロハ山」「保呂羽山」現在の宮城県本吉(もとよし)郡南三陸町(みなみさんりくちょう)志津川上保呂毛(しづがわかみほろけ)にある保呂羽山(ほろわさん)。標高三百七十二メートル。山頂からは、東方に南三陸金華山国定公園に含まれる志津川湾を一望の下に見渡せる。本話では「麓」とあるが、山頂に「保呂羽権現」が、非常に古くから祀られてきている。

「南小梨のマタカの堤」「南小梨」川は岩手県一関市を流れる(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「北小梨川」不詳。但し、前の南小梨川の位置関係からは、太平川(おおだいらがわ)がそれの旧川名のように思われる。

「黃海」南小梨川・太平川の原水系である一関市の黄海川(きうみがわ)。

「千葉亞夫」同じ水怪伝承の「一四番 淵の主と山伏」の報告者。]

大手拓次 「薔薇の讃歌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 薔薇の讃歌

 

薔薇は おごれる洒落者(ダンデイ)のやうに

ひらいてゐる、ためらつてゐる。

あふれでる 花の盛りのつつましさを、

また そりかへる花びらのあはれさを、

夕化粧した處女(をとめ)の頰のかなしさを、

みそかごとに 聽きいる女の耳のをののきを、

薔薇のすがたはさまざまに

すぎゆく時のなかに立つてゐる。

 

こんもりした そのつぼみの影とあかるみを、

まだ ひとしらぬそのくちびるを、

 

眠りのなかにさそはれる その思ひのほのかさを、

薔薇よ、珊瑚色のばらよ、

うすく あからみ ほのほのとして

あげはの蝶の手のやうにふるへる

冬の夜のばらよ。

 

[やぶちゃん注:「讃」の字は、詩集「藍色の蟇」で、拓次の詩篇で一箇所だけ使用されてある散文詩「琅玕の片足」(このリンクはブログ版の当該詩。第二段落の『私は決して過去を讃美しようとはしない。』がそれ)に従った。詩集「藍色の蟇」では、北原白秋の長々しい「序」の中で、「讚」の字が二箇所用いられているのに、である。されば、これによって、私は拓次は、日常的に「讚」ではなく、「讃」を用いていた可能性が高いと判断した。後の大手拓次譯詩集「異國の香」でも「沈默の町(リヒャルト・デーメル)」のコーダで使用されているが、やはり「讃」である。]

大手拓次 「白い言葉」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 白い言葉

 

しげりあふ こずゑのなかに

まよひをふかめるのは

あをくもえる くちびる。

粉をふりながした菌(きのこ)のやうな眼(め)が

吐息を車にのせてはこび、

しろい言葉を ただつみかさねた。

 

大手拓次 「黃金の梯子をのぼる蛇」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 黃金の梯子をのぼる蛇

 

風のうへに のしかかつて

たちはだかる幻想のなかに

こゑをからして つながりゆく

うすむらさきの

りんだう色の蛇、

風をきつて にほひの笛をひびかせる

ぶどういろの蛇、

心の舌をもとめて

かさなり のぼりゆく

なまめいた うめきの姿態(しな)、

空に また 水のなかに ゆれてゐる

つめたい黃金のはしごをみつめる媚(こび)のしぶき、

やはらかく くづれて襞(ひだ)にくるまるとき、

ふしぎのこゑが よろめいてかよつてくる、

こゑが しとしとと匍(は)つてくる、

花粉のやうなさみしいこゑが

みづみづとたはむれをよそほつて

もつれてくる、

星の火のやうにけむるさけびが

よれよれに たかまつてくる。

うすむらさきの蛇よ、

いとしい ぶどういろの蛇よ、

あきらかにきらめいてゐる

あの黃金のはしごによぢのぼれ、

くもりのなかに ゆれてゐるはしごにのぼれ。

 

[やぶちゃん注:「みづみづと」前段で、「ぶどういろの蛇」は「空に また (☜)「のなかに ゆれてゐる」「つめたい黃金のはしごをみつめる媚(こび)のしぶき(☜)なのであり、また、「ふしぎのこゑ」は「しとしとと」(☜)「匍つてくる」のであって、幻想のロケーションは水界であり、湿気(しっき)に包まれてあるから、「みづみづと」は「水水と」「瑞瑞と」であることは確かである。「と」があるから、これは副詞のそれであり、とすると、個人的には「水水と」では如何にも底が浅い感じがするので、「瑞瑞と」を採りたくなる。而して、それは、きゅっと、しっとりとした「新鮮で艶(つや)がある・生き生きしている・若々しくある」様子・状態が持続している属性を表わし、それは続く「たはむれをよそほつて」「もつれてくる、」という表現と完全に融和する。]

2023/05/01

「教訓百物語」上卷(その2 白狐に化かされる人生)

 

[やぶちゃん注:「教訓百物語」は文化一二(一八一五)年三月に大坂で板行された。作者は村井由淸。所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」の校訂者太刀川清氏の「解題」によれば、『心学者のひとりと思われるが伝記は不明である』とある。

 底本は「広島大学図書館」公式サイト内の「教科書コレクション画像データベース」のこちらにある初版版本の画像をダウン・ロードして視認した。但し、上記の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)の本文をOCRで読み込み、加工データとした。

 本篇は、書名からして「敎」ではなく、現在と同じ「教」の字を用いているように、表記が略字形である箇所が、ままある。その辺りは注意して電子化するが、崩しで判断に迷った場合は、正字で示した。また、かなりの漢字に読みが添えてあるが、そこは、難読或いは読みが振れると判断したもののみに読みを添えた。

 また、本書はこの手の怪談集では、例外的で、上・下の巻以外には章立て・パート形式を採用しておらず、序もなく、本文は直にベタで続いているため(但し、冒頭には「百物語」の説明があって、それとなく序文っぽくはあり、また、教訓の和歌が、一種のブレイクとなって組み込まれてある)、私の判断で適切と思われる箇所で分割して示すこととし、オリジナルなそれらしい標題を番号の後に添えておいた

 読み易さを考え、段落を成形し、句読点も「続百物語怪談集成」を参考にしつつも、追加・変更をし、記号も使用した。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化或いは「々」等に代えた。ママ注記(仮名遣の誤りが多い)は五月蠅いので、下附にした。]

 

 扨(さて)、或る所に、白狐(しろきつね)を嫁に取(とつ)て、家内(かない)が、ばかされた。

 旦那どのが、一番に化(ばか)されて、其狐のいふ通りをして御座(ござ)る。

「江戶づま。」

「ハイハイ。」

「芝居行き。」

「ハイハイ。」

「びろどの帶。」

「ハイハイ。」

 何でも、

「ハイハイ。」

 異見する者が有(ある)と、ひまを出(いだ)し、出入り、さしとめ。

 商賣、休んで、其狐と、每日每日、まゝ事(ごと)ばかりして御座る。

 〽氣もしらで顏に化され嫁とつて跡でこんくわひすれどかへらず

[やぶちゃん注:「こんくわひ」「吼噦」で、正しい歴史的仮名遣「はこんくわい」。古く狐の鳴き声のオノマトペイアであったが、それが転じて、「狐」のことを指すようになった。ここはそれに「後悔(こうくわい)」を掛詞にしたもの。]

 扨、此狐めが化しをるのは、先(まづ)、紅白粉(べにをしろひ[やぶちゃん注:ママ。])で年を化(ばか)し、梅花(ばいくわ)の、丁子(てうじ)の、松がねの、といふもので、髮を化し、「かもじ」のそへの、びんみの、もつそふの、一(いち)の輪(わ)、二の輪、かりわげ・前髮・へたなしの、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、びんはり・つとはり・突棒(つくぼう)・差股(さすまた)などゝ、皆、やとひ人(ど)で、あたまをばかし、度々(たびたび)着替へる衣しやうの七(なゝ)ばけ、正味(しやうみ)の所は、ちつと斗(ばか)りで、みな、やとひ人(ど)に化されてゐる。

[やぶちゃん注:「梅花」以下は簪(かんざし)の型の呼び名であろう。「梅花」は梅の枝に花の咲いた形のそれ、「丁子」はクローブ(チョウジノキ)の花蕾の頭の丸い釘型形のそれ、「松がね」は松の葉のような二叉のそれであろう。「まつがね」は思うに、「松が根」では風流でない。「松が音(ね)」で所謂、「松籟」(しょらい)に掛けた雅びな呼称であろう。

「びんみの」「鬢蓑」。前の「髲(かもじ)」と同じで、髪が豊かでない婦人がつける添え髪の一種で、蓑のような形をしたもの。「假髻」とも漢字表記し、それをまた、「すゑ」とも読む。参照した「精選版 日本国語大辞典」に画像がある

「もつそふ」よく判らないが、「物相・盛相」ではないか。「相」は「木型」を謂う語で、通常は飯を盛って一人分の量をはかるための、円筒形の曲げ物の器を指すが、ここでは、髪を膨らませて高くするために、髪や髲の中に入れておく木製の曲げ輪型の補助具を言っているように私には思われる。

「かりわげ」「假髷」か。髷(まげ)は「髪を頭頂に束ね、髻(もとどり)を結ったものを折り返したり、曲げたりした部分」を言うが、これを上方では「わげ」と読んだ。「假」は本格的に形成せず、簡易に、の意で添えてみた。見当違いで「雁髷」かも知れない。「刈髷」ではあるまい。

「へたなし」「蒂無し」か。アクセントのピン・ポイントの飾り具がない髪型か?

「びんはり」「鬢張り」。鬢の中に入れて、左右に張り出させるために用いた道具。鯨の髭や細い針金などで弓のような形に作った。これを江戸では「鬢差(びんさ)し」と呼んだが、それを上方では、かく称したのである。

「つとはり」「髱・髩」で、襟足に沿って背中の方に張り出させた部分の名称。江戸では「たぼがみ」・「たぶ」と呼んだが、上方では「つと」と言った。参照した「goo辞書」のこちらに解説画像がある。

「突棒・差股」以上と並置されているから、張り出させた髪型の形状の比喩名称であろう。

「やとひ人(ど)に化されてゐる」これは、雇い入れた女のための「髪結い」によって、家内の連中が、その髪結いの技によって「化かされている」という二重性を言ったもの。]

 〽色といふうはべの皮にはまりては世を渡らずに身をしづめけり

 御先祖が、壱文、二文から組み上げなされた、皆、汗、油じや。

 それを、おしげ[やぶちゃん注:ママ。]もなふ、づかづかと遣ひ、へうして、樂しみとして居(い[やぶちゃん注:ママ。])る。

[やぶちゃん注:「へうして」「僄す」でサ行変格活用の動詞。「見下す・侮(あなど)る」の意。]

 『團子じや。』と思ふて、馬の屎(くそ)を喰ひ、小便(しやうべん)を酒にして、のみ、仕𢌞(しまひ)[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。]には、土坪(どつぼ)の中へ這入(はいり)て、行水(ぎやうずい)するきたない事のあり条(でう)。目が覺めたら、出來る仕事じや、ない。

[やぶちゃん注:「土坪」「土壺」に同じ。そう! そう思われた通りで、狐に化かされて入る「肥溜め・糞壺」のことである。]

  〽一口に取(とつ)て噛(かむ)のは目にみへず三味線かじる鬼ぞ恐ろし

  〽酒くんで三味線(さみせん)引(ひい)て氣をうばひ人を取喰(とりふ)鬼の多さよ

  〽目には色(いろ)耳にやさしき三味の手に引(ひれ)て更に鬼と思わず[やぶちゃん注:ママ。]

 皆、向(むか)ふは、天命の職分、口過(くちすぎ)じや。

[やぶちゃん注:「口過」生計。生業(なりわい)。ここは妖狐のそれ指している。]

 其所(そのところ)へ、「我(われ)」といふ骸(からだ)を、こしらへて、喰(くは)れに行(ゆく)。

 後には、家屋敷・土藏まで、醬油かけて、してやらるゝ、人を取喰(とりく)ふ鬼の多さよ。

[やぶちゃん注:「醬油かけて」「うまく」(旨く・上手く)自分のものとして、貪り食うのに、塩梅よく味付けをしてという換喩表現。]

 子供が隱れんぼするに、

「もふ、よい。」

と、いふと、鬼めが、つかまへに來る。

「息子には、嫁をとり、孫子(まご)もできた。商賣も、次第に、仕似(しに)せた。是れから、隱居するばかりじや。金の步(ぶ)も、一日に何(なに)ほどづゝ、這入(はいつ)て來る。もう、是れでよい。ヤレ、嬉しや。」

といふが最後、もう、鬼めが、つかまへに來る。

 孫がわづらふか、息子が錢を遣ふか、嫁が死ぬるか、損をするか、家内に、色々樣々(いろいろさまざま)の災ひが、起つて來(く)る。

 是れが、人をだましても、こかしてもして、やらふやらふの、むくひが、來たのじや。

[やぶちゃん注:「鬼めが、つかまへに來る」寿命の切れるのが近づくこと。

「やらふやらふ」「遣らふ遣らふ」で、嘗つて白狐に騙されて、雇人たちを、「ことあるごとに」「追放した」ことを指していよう。]

  〽もふよいと思ふが直(じき[やぶちゃん注:ママ。])に地獄道(みち)鬼の來(こ)ぬ間(ま)にせんだくをせよ

[やぶちゃん注:「せんだく」「洗濯」。]

 「せんだく」とは人欲(じんよく)の心を改むるのじや。戰々競々、愼しみが大事。

  〽狐よりこはき[やぶちゃん注:ママ。]は金(かね)と色(いろ)と名(な)とおふかた是れに化されぞする

[やぶちゃん注:「おふかた」これ歴史的仮名遣の誤りではなく、確信犯のように感じる。狐よりももっと恐ろしい現実の「金と色と名と」を背「負(お)ふ」に、「おほかた」(大方)と掛詞としたものだろう。]

 六根淸淨、内外淸淨(ないげしやうじやう)、日々(ひゞ)に、新たに、「せんだく」をするのじや。

  〽狐狸(きつねたぬき)金と色とに科(とが)はなし化さるものゝ科と知るべし

 とうとう[やぶちゃん注:ママ。]、ぢいばゝ、化(ばか)さるゝ此(この)化(ばか)す物(もの)をしらずに、銘々に、一生の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])くらがり住居(すまい[やぶちゃん注:ママ。]

  〽くらきよりくらき道にぞ入りにけり其くら闇に迷ふくらやみ

  〽うかうかと火宅(くわたく)の世話を燒(やく)うちについ灰(はい[やぶちゃん注:ママ。])となる身とはしらずや

 くらがりから、闇がりへ、迷ひ、地獄の釜こげになるとは、あんまり悲しい事じや。

[やぶちゃん注:「こげ」「焦げ」。亡者が微小な釜の底の「こげ」になっても、地獄の陰風が吹けば、元の亡者に戻るのは御存じの通り。]

 どふぞ[やぶちゃん注:ママ。]、どなたも、本心を知つて、御(ご)らふじませ。化して、人がしれる。此(この)化(ばかして[やぶちゃん注:送りがなを振っているのはママ。])人をしらんと、いきを引(ひき)たくつてしまはれても、どふも、仕樣事(しやうごと)が、ない。

 どれほど我(が)のつよい人でも、其時に、「おれが、おれが、」は、間にあはぬ。役に立たぬ。或る人、道歌に、

  〽化もの化ものにする化物がついそばに居(い[やぶちゃん注:ママ。])る油斷めさるな

[やぶちゃん注:「其時」末期(まつご)の時。]

大手拓次 「くさむらの裸のうへに」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 くさむらの裸のうへに

 

あをじろい影を追ふけれど、

みちは むなしく、

みちは ほのぐらく。

こゑをたたんで

波は ただ ひたひたとする。

この五月(いつつき)の日はすぎゆきて、

身は くさむらの裸のうへに

あはあはとけむる

むらさきの夜(よる)をこほらせる。

 

大手拓次 「火を探す」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 火を探す

 

もえる月を 手にをさめて、

わたしは その みだれ かをりたつ顏のすがたを

わうわうとして もとめしづむ。

 

矢をそろへる金箔の月、

猿のやうに 笑ひを溶かす滿月、

この鍍金(めつき)の月に 火をさがす。

 

[やぶちゃん注:「わうわう」歴史的仮名遣が正しいとして、「わうわうと」で形容動詞となると、「汪汪」しかない。「水が広く覆って深いさま」で、転じて「人の度量が広いさま」も言うが、ここは「しづむ」に呼応して、前者の喩えを能動的に変化させて用いたものであろう。他に「往往」も「わうわう」で、「あちこち」の意でもとれそうに見えるが、これは副詞であり、「として」とは馴染まない。歴史的仮名遣を誤っているとしても、しっくりくる誤りそうな単語は、ちょっとない。]

大手拓次 「水底の嘆きの歌」

 

[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。

 以下は、底本の編年体パートの『『藍色の蟇』以後(昭和期)』に載るもので、底本の原氏の「解説」によれば、大正一五・昭和元(一九二六)年から昭和八(一九三三)年までの、数えで『拓次三九歳から死の前年、すなわち四六歳までの作品、四九四篇中の五六篇』を選ばれたものとある。そこから原則(最後に例外有り)、詩集「藍色の蟇」に含まれていないものを選んだ。この時期については、本パートの初回の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 水底の嘆きの歌

 

くらくなる わたしの耳に

ふえがきこえる。

洋洋とながれる しろい空想のかなたに

たえまなく ひとつの笛のねが すずろいでゐる。

 

[やぶちゃん注:「すずろいで」「すずろぐ」は「漫ろぐ」で、古語。「わけもなく心が騒ぐ・心がはやる・落ち着かずそわそわする」ことを言う。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 天狗の情郞

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。

 標題は、本文中のルビにより、「てんぐのかげま」と読む。ご存知ない方のために言っておくと、南方熊楠は、男性の同性愛に対して、非常に強い知的関心を持っている。

 なお、「選集」標題後の参照附記の右に『柳田国男「山男の家庭」参照』とある。これは、幸いにも、本年二月の末に、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』で電子化注済みであるので、まずは、そちら見られたい。]

 

     天 狗 の 情 郞 (大正四年五月『鄕土硏究』第三卷第三號)

         (『鄕土硏究』第三卷第一號三六頁參照)

 久米君が、予、未見の書「黑甜瑣語《こくてんさご》」から、天狗の情郞(かげま)又、奴(やつこ)と成《なつ》た話を引かれたは、頗る面白い。

[やぶちゃん注:「黑甜瑣語」上記リンク先にも注したが、「黑甜瑣語」は出羽国久保田藩の藩士で国学者であった人見蕉雨(宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)の記録・伝聞を記した随筆。柳田が紹介した当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちら(左丁の三行目以降の割注部)で視認出来る。]

 川島正久と云ふ和歌山人、高野山の小姓《こしやう》から出身して、諸府縣で警部たり。曾て其上官たりし大浦兼武氏を山縣内務卿に彈劾し、その前、西南役に、後藤純平や西鄕菊次郞氏を調べた等、面白い履歷ある人ぢやつた(其等の書類は、予、借り寫し有る)。此人の話に、「大阪等の監獄で牢頭(らうがしら)に愛せらるゝ美男囚を『奴』と呼ぶ。」と言《いふ》た。天狗の姣童(わかしゆ)と云ふ事、古い淨瑠璃本にも散見したと思ふ。又、何かの繪草紙本で、「山若衆(やまわかしゆ)」とて、一種の姣童が樵夫(きこり)群中にある由、見たと覺える。

[やぶちゃん注:「川島正久」詳細事績不詳。

「高野山の小姓」サイト「み熊野ねっと」の「熊野の説話」の「高野六十那智八十」の記事に、『「高野六十那智八十」という諺がある』。『高野山や那智山では男色が盛んで、老年になっても小姓を勤める者があるという意味。高野が六十で那智が八十なのは、高野紙が一帖六十枚、那智紙が一帖八十枚であることから来た』とあった。

「大浦兼武」(嘉永三(一八五〇)年~大正七(一九一八)年)は官僚・政治家。薩摩藩主島津家分家の宮之城島津家家臣。「戊辰戦争」では薩摩藩軍に参加して、奥羽に出征、維新後に警察官となり、累進して明治八(一八七五)年に警視庁警部補に昇格、明治一〇(一八七七)年の「西南戦争」では「抜刀隊」を率いて功績を挙げ、陸軍中尉兼三等小警部となった。以後、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事、警視総監(第十二代・第十四代の二期)、勅選貴族院議員、逓信大臣、農商務大臣、内務大臣(二期)、『大日本武徳会』会長等を歴任した(詳しくは参照した当該ウィキを見られたい)。

「山縣内務卿」『明治の妖怪』山縣有朋。

「後藤純平」(嘉永三(一八五〇)年~明治一〇(一八七七)年)は明治初期の代言人(弁護士)。明治三年、生地の豊後大分郡で「日田(ひた)一揆」(長州藩脱隊騒動の脱走浪士らによる日田県庁襲撃の策動の影響を受けて、日田郡五馬(いつま)の農民たちが租税増額反対などを要求して蜂起、庄屋宅などを打毀(うちこわ)した事件)を指導し、逮捕される。明治六年に出獄すると、法学を学び、後に大分県中津で代言人となった。「西南戦争」が勃発すると、中津隊を組織して西郷軍に加わったが、鹿児島の城山で降伏、処刑された。

「西鄕菊次郞」(万延二(一八六一)年~昭和三(一九二八)年)は政治家・外交官。当該ウィキによれば、西郷隆盛と龍一族佐栄志の娘愛加那の長子として奄美大島龍郷(たつごう)で生まれ、数え九歳で鹿児島市の西郷本家に引き取られた。十二歳で『アメリカへの留学』し、二年六ヶ月に及んだ『留学生活を終え、帰国』、その三『年後の』十七『歳のとき』、「西南戦争」に『薩軍の一員として参戦』、『延岡・和田越えの戦闘にて』、『右足に銃弾を受け』、『膝下を切断』、『和田越えの戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は』、『俵野に陣を移し、今後の動向について軍議を』重ねたが、『その結果、可愛嶽を越えて三田井に抜ける事』となり、『重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らい』によって、『他の負傷兵と共に俵野に取り残』された『その際に隆盛の老僕であった、永田熊吉をつけておいた。熊吉は、負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道』(つぐみち/じゅうどう)『のもとへ投降した。従道は甥の投降を喜』んだという。川島正久による尋問はこの時のことであろう。以降の事績は引用元を参照されたい。]

 古希臘の大神ゼウスが、ダルダニア王トロスの子ガニメーデースの艷容に執著《しふぢやく》し、自ら鷲に化《な》つて天に拉行(つれゆ)き、小姓にしたのは名高い話で、串童(かげま)を拉丁《ラテンご》でカタミツスと云ふ始《はじま》りだ。之に反し、印度では、鷲の一類たる金翅鳥王(こんじてうわう)が美童身(びだうしん)を現じ、某大神(たいしん)(ヴシユヌか)に愛せらるゝ談有りしを寫し置《おき》しが、今、見出《みいだ》し得ぬ。金翅鳥王(迦樓羅王(がるらわう))が、邦俗、所謂、烏天狗(からすてんぐ)像の模範たるは、淺草堂、後《うしろ》から見える襖障子(ふすましやうじ)の觀音廿八部衆、其《それ》が、今、無くば、「神佛靈像圖彙」を見れば、明らかだ。「今昔物語」一〇の「聖人犯ㇾ后蒙國王咎成天狗語」〔聖人、后を犯して國王の咎(とが)を蒙り、天狗と成れる語(こと)〕は、聖人が女犯《によぼん》して後《のち》、天狗と成《なつ》たので、卷廿には、天狗が女人に化《くわ》して淸僧を嬈(みだ)さんとした話、二つ有る。而して、同卷の「染殿后爲天狗嬈亂語」〔染殿の后、天狗のために嬈亂(ねうらん)せられたる語〕の外に、古く、天狗が女犯した譚を聞かぬ。後代の話は、皆な、天狗、頗《すこぶ》る女嫌ひで、靈山聖地へ、禁を破つて登つた婦女が天狗に裂《さか》れたと云ふ(例せば、「新著聞集」崇厲篇(そうれいへん)末章(まつしやう))。女嫌ひと云ひ習はした處から、「天狗の情郞《かげま》」ちう事も出來たゞらう。

[やぶちゃん注:「ガニメーデース」ギリシア神話の飛びっきりの美少年ガニュメーデース(ラテン文字転写:Ganymēdēs)。イーリオス(トロイア)の王子だったとされる。当該ウィキによれば、『オリュムポス十二神に不死の酒ネクタールを給仕するとも、ゼウスの杯を奉げ持つともいわれる。元来は』、『大地に天の雨をもたらす神だったと考えられており、ヴェーダ神話のソーマとの関連も指摘されている』。『日本語では長母音を省略してガニュメデス、ラテン語形でガニメデとも呼称される』とある。

「カタミツス」所持する「羅和辭典」(田中秀央(ひでなか)編昭和三八(一九六三)年十一版研究社刊)によれば、“Catamītus”で、『Ganymedesのラテン名』とあったが、「男色」「陰間」「男娼」の意は載っていなかった。“Ganymēdēs”の項もガニメデのことのみが記されてある。まあ、転用は腑に落ちる。

「金翅鳥王(こんじてうわう)」所謂、仏教で「八部衆」の一尊として、釈迦に教化されて、仏法を守護する天部の天龍八部衆の一尊となった「迦楼羅(かるら)」のこと。「高野山霊宝館」公式サイト内のこちらによれば、『古代インドでは、火や太陽を神格化した神と言われ、巨大な霊鳥でありヘビを常食する鳥王とされていました。またヒンドゥー教では、神々がもっていた不死の霊薬アムリタを奪い、その偉大さを知ったインドラによってアムリタを皆に返すという条件でヘビを食べる力を与えられたと言われています』。『また、迦楼羅の母が龍の母と仲が悪かった事から、龍の仇敵になった、という伝承が生まれたようです』。『その姿は鳳凰』『のように美しく、翼を広げると』、『三百三十六万里もあると語られていたようですが、仏教に取り入れられてからは、鳥頭人身の姿で表されています。また、不動明王の火焔の光背が「迦楼羅焔(かるらえん)」と呼ばれるのも、この鳥が羽を広げた形を擬したものとされています』とあった。

「ヴシユヌ」ビシュヌはヒンドゥー教の神。「リグ・ベーダ」では、単に太陽を神格化したものであったが、後世、シバ・ブラフマー(梵天)と並ぶ最高神の地位を占めるようになった。宇宙の維持発展を司り、ラクシュミーを妻とし、巨鳥ガルダに乗る。ラーマ・クリシュナ・仏陀などは、その化身ともされる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「其が、今、無くば」今はないとなら。狩野安信筆であるが、この論考が書かれた当時、現存していたかどうかは、不明。この後、旧堂は後の東京大空襲で焼失しているから、現存はしない模様である。

「觀音廿八部衆」千手観音の眷属。当該ウィキによれば、『東西南北と上下に各四部、北東・東南・北西・西南に各一部ずつが配されており、合計で二十八部衆となる』とある。詳しくはリンク先を見られたい。知られたものでは、「摩睺羅(まごら)」、先に注した「迦楼羅」、「乾闥婆(けんだつば)」、「毘沙門天」、「帝釈天」、「金毘羅」、「阿修羅」がいる。

「神佛靈像圖彙」元禄三(一六九〇)年序・跋の「佛像圖彙」の別称。宝暦二(一七五二)年版が「国書データベース」にあり、「觀音廿八部衆」はここから視認出来る。

『「今昔物語」一〇の「聖人犯ㇾ后蒙國王咎成天狗語」』ブログで、南方熊楠の「今昔物語の研究」(リンク先はサイト一括PDF縦書版。ブログでは全九分割)の資料として、「今昔物語集」卷第十「聖人犯后蒙國王咎成天狗語第三十四」を電子化注してある。

「卷廿には、天狗が女人に化《くわ》して淸僧を嬈(みだ)さんとした話、二つ有る」「今昔物語集」巻第二十の「仁和寺成典僧正値尼天狗語第五」(仁和寺(にんわじ)の成典(じやうてん)僧正、尼天狗(あまてんぐ)に値(あ)ふ語(こと)第五」と、その次の「佛眼寺仁照阿闍梨房託天狗女來語第六」(佛眼寺(ぶつげんじ)の仁照(にんせう)阿闍梨の房(ばう)に、天狗の託(つ)きたる女(をむな)、來たる語第六)であろう。それぞれ、「やたがらすナビ」のそれ(新字)をリンクさせておいた。

『同卷の「染殿后爲天狗嬈亂語」〔染殿の后、天狗のために嬈亂(ねうらん)せられたる語〕』前の前の注と同じで、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』を電子化注してある。

『「新著聞集」崇厲篇(そうれいへん)末章(まつしやう)』神谷養勇軒編の「新著聞集」の「第九 崇厲篇」(「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)の掉尾にある「女人高野(こうや)山に詣(まふ)て害(かい)せらる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ(単独画像)(第九巻の掉尾。リンク先は非常に読み易い)。なお、たまたま、先に電子化注した、「大和怪異記 卷之三 第三 高野山に女人のぼりて天狗につかまるゝ事」が本話を原拠としているので、未見の方は、是非、読まれたい。]

 支那には、「酉陽雜俎(ゆうやうざつそ)」一四に、火髮(くわはつ)、藍膚(らんぷ)、驢耳(ろじ)の飛天野叉(ひてんやしや)が美男に化《くわし》て、村女を古塔中に牽行《ひきつれゆ》き、年久しく夫妻(めをと)たりし譚、有るが、較《やや》、天狗の情郞に相當する話は、予、一つしか知らぬ。椿園(ちんゑん)の「西域見聞錄」四に、カシュガルの西、西馬行卅日、至轄里薩普斯、多妖法邪術、風俗淫惡、男女皆龍陽、其塔里扈魯城内、有一土阜、居城之中央、他國之人、入其城者、一見高阜、輙心神恍惚、必欲登臨、爾後快登之、則必欲至其巓、至其巓、則瞀不知人、逾時始蘇、手握銅錢二文、下體已爲人所汚、西域囘子皆畏而避之、而誤入被姦者、正復不少、但多諱而不言耳、葉爾羌、大阿渾、阿布都哈爾、庫車囘子、阿瓦茲、皆曾遇强暴、人問之、則怒不可解、而飮酒過醉、往々自道其實、而聞者無不絕倒。〔馬にて行くこと、卅日、轄里薩普斯(キリサブス)に至る。妖法邪術、多く、風俗は淫惡にして、男女、皆、龍陽なり。其の塔、里扈魯斯(タリコルス)城の内に、一つの土の阜(をか)有り、城の中央を居(し)む。他國の人にして、其の城に入(い)る者は、則ち、心神、恍惚し、必ず登臨せんと欲(ほつ)す。爾(しか)る後、快く之れに登れば、則ち、必ず、其の巓(いただき)に至らんと欲す。則ち、瞀(めくら)みて、人を知らず、時を逾(こ)えて、始めて、蘇へる。手に銅錢二文を握り、下體は、已(すで)に人の汚(けが)す所と爲(な)る。西域の囘子《かいし》は、皆、畏れて、之れを避(さ)く。而して、誤りて入り、姦(かん)せらるる者、正(まこと)に、復(ま)た、少なからず。但(ただ)、多くは、諱(い)みて言はざるのみ。葉爾羌(ヤルカンド)・大阿渾(だいアホン)・阿布都哈爾(アブドハル)・庫車(クチヤ)囘子・阿瓦茲(アワツ)、皆、曾て、之の强暴に遇ふ。人、之れを問へば、則ち、怒りて解(と)くべからず。而(しか)るに、酒を飮みて過醉すれば、往々、自(みづか)ら、其の實(まこと)を道(い)ふ。而して、聞く者、絕倒せざる無し。〕(以上)。外色(がいしよく)盛行(せいかう)の世には、本邦にも、斯《かか》る怪事が有《あつ》たかも知れぬ。〔(增)(大正十五年九月記) 天狗が女をさらふた話、「甲子夜話」にあり、近頃は、天狗も變つてきた、と笑評しある。〕

[やぶちゃん注:『「酉陽雜俎(ゆうやうざつそ)」一四に、火髮(くわはつ)、……』「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(六行目)から視認出来る。

「飛天野叉」所持する「東洋文庫」の今村与志雄氏の訳によれば、『飛ぶように空にのぼり』(それが「飛天」)、『火のような髪、藍(あい)』色の『膚(はだ)、チイチイと音をたてて、耳は驢馬に似ていた。』とあり、「夜叉」に注されて、『『注維摩経』に、「羅什(らじゅう)によると、夜叉には三種がある。一は地にあり、二は虚空にあり、三は天夜叉である」』とあって、『唐代、夜叉に関する説話は多い。「広記」三五六、三五七の二巻に収む。』とある。「広記」は「太平廣記」(北宋期に書かれた前漢以降、執筆当時までの奇談を集成した類書(今で言う百科事典)。太宗の勅命を奉じて李昉(りぼう)ら十二名が九七七年翌年にかけて編纂した。全五百巻・目録十巻)のこと。「中國哲學書電子化計劃」の同巻、「夜叉一」「夜叉二」をリンクさせておく。後者の「丘濡」(きゅうじゅ:報告した博士の名)が「酉陽雜俎」からのそれである。

「西域見聞錄」清代の乾隆帝の一七七七年に刊行された西域についての地誌・民俗資料。全八巻。著者椿園は官吏で、新疆に十余年滞在した。以上の原文は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの、一八一四年序のものの当該箇所(「卷之四」の「轄里薩普斯」の項)と校合した。訓読では、国名・地方名等は「選集」の訓読文のルビを、一部、参考にした。

「カシュガル」原文は「喀什噶爾」。現在の新疆ウイグル自治区カシュガル地区のカシュガル市(ケシケル市・喀什市)(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「轄里薩普斯(キリサブス)」不詳。ただ、カシュガルの西というなら、現在のキルギスの何となく発音が似ているような「サル=タシュ」という町がある。

「龍陽」「男色」を意味する漢語。「龍陽君(りゅうようくん)が、魏王に君寵の長からん事を乞うたところ、魏王が「誓って、美人を近づけず。」と答えた故事による。

「里扈魯斯(タリコルス)城」不詳。

「囘子」イスラム教(回教)徒のことであろう。

「大阿渾(ダァーアホン)」不詳。「アホン」はペルシア語で、イスラム諸学に通じた人物を意味する。【二〇二三年五月三日追記】私の知人で、台湾出身の日本文学の若き女性研究者(特に近代文学の男色文学を研究対象の一つとされておられる)がおられるが、本篇は電子化注している最中から、彼女が最上の読者と思いつつ作業をし終え、本篇の公開をお伝えしたところ、昨日、感謝のメールとともに、この「大阿渾」と次の「阿布都哈爾」について、以下の情報提供があった。部分引用する。

   《引用開始》

なお、藪野様の文章を拝読いたしました後、グーグルで関連情報を調べてみましたら、「阿布都哈爾」と「阿瓦茲」が人名の可能性があることがわかりました。[やぶちゃん注:メールでは、ここに中文サイトの大愚若智の記事「巴茶·拜姿:满洲人和俄国人笔下的内亚男风」のアドレスがある。美少年の絵像にノック・アウトされた!]

葉爾羌からの大アホン.阿布都哈爾さん、庫車からのイスラム教徒.阿瓦茲さん、お二人ともそういう経験がありました。他の人に聞かれたら怒っていましたが、酒が入り酔っ払ったら自らが実情を言いました。

この解釈なら文脈に合うかもしれません。いかがお考えでしょうか

   《引用終了》

とあった。この箇所は訳判らんままに、概ね「選集」の訓読を無批判に安易にそのまま使用したため、これを私が舊国名の羅列と目出度くも思い違いしていたことが、彼女の指摘で鮮やかに見えてきた。されば、本文の訓読文も人名として仮に修正しておいた。情報を提供して呉れた彼女に心から感謝申し上げる(彼女は芥川龍之介の研究でも優れた知見と才能を持っておられ、これからが楽しみな注目している方でもあるのである)。

「阿布都哈爾(アブドハル)」不詳。何となく漢字を眺めていての思いつきだが、新疆ウイグル自治区のトルファン市を想起した。【二〇二三年五月三日追記】前の追記の通りで、人名ととる。

「庫車(クチヤ)」新疆ウイグル自治区のアクス地区にあるクチャ市(庫車市)。

「阿瓦茲(アワツ)」新疆ウイグル自治区のアクス(阿克芬)地区であろうか。【二〇二三年五月三日追記】同前で、人名ととる。

『天狗が女をさらふた話、「甲子夜話」にあり、近頃は、天狗も變つてきた、と笑評しある』事前に『フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる』で電子化注しておいたので読まれたい。

 以上で底本の本文は終わっている。但し、「選集」では以下の「追記」がある。末尾の附記によれば、大正七年九月発行の『土俗と伝説』(第一巻二号)に収録されたものである。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの一九五二年乾元社刊の渋沢敬三編『南方熊楠全集』第六巻(文集 第二)のここから、正規表現で視認出来ることが判ったので、それを元に如以下に電子化注する。本電子化に準じて句読点・記号を追加し、読みも推定で加える。

   *

 追  記

 一度(『鄕土硏究』、三ノ一五五)書いた、金翅鳥王が美童身を現ずる由の出處、見出だし得なんだが、只今、見出でたから、書き付ける。一八四八年出板の『ベンガル亞細亞協會雜誌』十七卷、カンニンガム大尉の「ラダク紀行」五九八頁に、「此邊の高山の絕崖上に高く翔《か》けるラムマァガイヱル(在印度の英人の、所謂、「金鷲(ゴルヅン・イーグル)」)は、この邊(クマオン等)の民、韋紐天(ヰシユヌ)が騎《かけ》るグルウル(「迦樓羅《かるら》」に同じ)なりと信ず。但し、プトレスナットなる雕像《てうざう》には、グルウルを、ヒマラヤ山中の姣童《わかしゆ》の、翼生えた者として居《を》る」と出づ。さしたる事ならねど、虛言いはぬ證《あかし》に確かに出所を表《あらは》し置く。又、古く、天狗が女を犯した譚を聞かぬと言つたが、女犯《によぼん》迄は知らず、天狗が女を掠《さら》へた話は、「甲子夜話」卷四九に見えて、世も澆季になつて、天狗も女人を愛することになり行きたることならむかと、著者靜山侯が、歎息を泄《もら》し居る。

 それから方角が轉《かは》つて、「新著聞集」奇怪篇第十の廿四章に、天保四年、中川佐渡守家臣の召使い關内《せきない》なる者、茶店《ちやみせ》で水を飮む。茶碗に最(いと)麗(うるは)しき少年の姿映れるを、奇怪に思ひ、水を捨てゝ、又、汲むに、再《ふたたび》彼《か》の顏、見ゆる故、止むを得ず、飮むと、其夜、關内の部屋へ、式部平内と名乘つて、件《くだん》の美少年、來《きた》る。『表門を、何として通り來るぞ。人にあらじ。』と思ひ、拔打ちに斬り懸くるに、消失《きえう》せる。其翌夜、平内の使者、三人、各《おのおの》、姓名を名乘り、「思ひ寄つて參りし者を、勞《いたは》る迄こそなくとも、手を負はせるは、如何《いかが》ぞや。湯治中《たうじちゆう》なれば、疵、愈え歸りて、報復せむ。」と、いきまく。關内、又、斬り懸くれば、逃去《にげさ》り、後、又も來なんだ、とある。同じ天和の二年に出た「一代男」卷一、世之介十歲、「袖の時雨は、かゝるが幸《さひはひ》」の條など、參看するに、印度・アラビヤ・波斯《ペルシヤ》等と齊《ひと》しく、本邦にも、外色大流行の世には、少年が、進んで念者《ねんじや》[やぶちゃん注:年長者の同性愛者を指す語。対して、年少者は「若気」(にゃけ)と呼ばれた。]を求むるのみか、妖怪までも少年に化けて、同樣の所行に及んだらしい。斯《かか》る世にして、始めて、天狗の情郞《かげま》と成つたてふ人の話も、信《ま》に受けられたるなれ。世態學(ソシオロジイ)や群衆心理學(ソシアル・サイコロジー)、又、精神變態學(サイキアトリイ)を修むる人々の、一考を要することであらうと思ふ。

(大正七年九月、土俗と傳說、一ノ二)  

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『カンニンガム大尉の「ラダク紀行」』イギリスの陸軍技師で考古学者でもあったアレキサンダー・カニンガム(Alexander Cunningham 一八一四年~一八九三年:インド考古調査局(Archaeological Survey of India)の設立に深く関わり、インドの仏教寺院遺跡の発掘に大きく寄与したことで知られる)の‘LADĀK: Physical, Statistical, and Historical with Notices of the Surrounding Countries’ (「ラダック――物理的・統計的・歴史的及び周辺国に就いての通報」:一八五四年刊)かと思ったが、「Internet archive」で初版原本を見ると、「485」ページで同書は終わっており、こんなページは、ない。熊楠はしばしばページ・ナンバーを誤るので、フル・テクストを用いて、幾つかの単語で調べてみたが、遂に見当たらなかった(従って、引用の箇所の単語の意味も注さない)。ラダックは、当該ウィキによれば、『インド北部にある旧ジャンムー・カシミール州東部の地方の呼称』で、『広義には、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた一帯を指し、ザンスカール』及び、『現在』、『パキスタンの支配下となっているバルティスターンを含む。中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い。中国が実効支配するアクサイチンも、かつてはラダックの支配下であった。中心都市はレー』で、『かつてはラダック王国という独立した仏教国であったが』、十九『世紀にジャンムー・カシュミール藩王国に併合された。長らく、行政区画の名称としては使用されていなかったが』二〇一九年十月三十一日に『発効したジャンムー・カシミール州再編成法』『に基づく旧ジャンムー・カシミール州の分割に伴い』、インドの『連邦直轄領となった』とある。ここ

「クマオン」インドのウッタラーカンド州の西側の地方であるガルワールの別称。この附近。

『「新著聞集」奇怪篇第十の廿四章に、天保四年、中川佐渡守家臣の召使い關内《せきない》なる者、……』これは、ちょっと読まれて、小泉八雲の怪談で知られるそれと判ったか方が多かろう。私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「茶碗の中」 附 小泉八雲「茶碗の中」原文+田部隆次譯』を見られたい。以上の原拠(「新著聞集」の「卷五」の「奇怪篇 第十」の「茶店(さてん)の水椀(すいわん)若年(じやくねん)の面(をもて)を現(げん)ず」)も、所持する吉川弘文館随筆大成版を加工データとしつつ、オリジナルに漢字を増やし(一つは原典の歴史的仮名遣が誤っているのを隠すためもある)、一部に読みも添えたものを電子化しえある。その際、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「新著聞集」の原本PDF版(カラー)をも参考視認してある。

『天和の二年』(一六八二年)『に出た「一代男」卷一、世之介十歲、「袖の時雨は、かゝるが幸《さひはひ》」の條』、井原西鶴の処女作にして浮世草子の嚆矢とされる「好色一代男」。国立国会図書館デジタルコレクションの伊藤祷一編の昭和一五(一九四〇)年共同出版協会刊の「好色一代男・好色一代女」の当該部をリンクさせておく。

「世態學(ソシオロジイ)」sociology。社会学。

「群衆心理學(ソシアル・サイコロジー)」social psychology。社会心理学。

「精神變態學(サイキアトリイ)」psychiatry。精神医学。精神病治療学(法)。]

ブログ1,950,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和三十年一月

 

 [やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、『東京新聞』昭和二十九年十二月二十八日附・二十九日附・三十日附に掲載されたとある。しかし、う~ん、だとすると、内容は、時制的には――昭和二九(一九五四)年十二月――なんだな。まあ、冒頭に昭和三〇(一九五五)年の九種の文芸雑誌・総合雑誌の新年号を読んで書いたというのだから、しょうがないか。実際、読まれて、評価が定まるであろう事態は翌年に入ってからだからね。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合等を除いて、原則、注しない。悪しからず。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日深更、1,950,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年五月一日 藪野直史】]

 

   昭和三十年一月

 

 九つの新年号の文芸詰・総合誌の小説は、「群像」の二十二編を筆頭に、総計すると実に六十七編という数に上った。壮観と言えば壮観である。それがずらずらと押し並んでいるありさまは、さながら重箱にぎっしり詰められた正月料理、カズノコやクロマメやゴマメのたぐいを思わせる。目次をながめただけで、おめでたいような、うんざりしたような気分にさせられる。

 私の作品もゴマメ然として、その中に小さくなってはさまっているのだが、六十七編なんていくらなんでも、少々多過ぎるように思う。

[やぶちゃん注:因みに、梅崎春生の新年号発表作は、中井正義氏の「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程」の年譜によれば、「古呂小父さん」(『新潮』)、「風媒花」(『小説新潮』)、「老嬢」(『小説公園』)である(後の二篇の小説は沖積舎版全集(第一期)には収録されていない)。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 私はこの二日間、かかりきりで読むことに没頭したが、全部を読み終えるというわけにはとても行かなかった。つまみ食い式にしか読めなかった。読み過ぎるということは、食べ過ぎと同じ程度に苦しい。食べ過ぎには消化剤というものがある。私も小説読みがもたれてくると、ぺージをくって座談会を読み、随筆雑文を読み、文学文芸講座のたぐいを読んだ。

 新年号からの企画として、連載講座が二つ始まっている。「文芸」の「文芸講座」と「文学界」の「現代文学講座」。後者は第一回として「文壇とジャーナリズム論」と言って、伊藤整のものを読むと日本文壇の現状が判り、荒正人のを読むと文芸雑誌ジャーナリズムなるものが理解出来、河盛好蔵を読んで読者とはどうあるべきかということが教えられる。そういう仕組みになっている。

 読者は文学そのものを教わるかわりに、文壇の生態やジャーナリズムの機構などを教えられるのである。

 

 そのことが良いことか悪いことであるかは別として、敏感な編集者がそういう企画を立てたのは、そういうものを読者が知りたがっていると察知したためだろう。文芸雑誌がそういう読者によって支えられている。そう考えると、私はなんだか背筋がむずむずするような気分になる。

「文学界」にはそれに加うるに、丹羽文雄の「小説作法」実践編という連載ものがある。素人の小説の例をとって、くわしく小説の技術やつくり方を説いたものであって、なみいる小説よりもある意味において、私はこれがはるかに面白かった。しかしこんなに楽屋裏をさらけ出して、読者に小説作法を伝授していいのだろうか。

 熱心な読者が続々と丹羽作法の免許皆伝を取り、丹羽以上の小説を続々書かれては、困りはしないか。師匠までが文壇から押し出されるような事態が来ないとは、だれも保証出来ない。

 昔日の芸術家や職人は、自分の技術の秘密をかたくなに守った。ある刀匠のところに、そのつくり方の秘密をぬすみに、弟子入りをした男がいる。その肝心の秘密は使用する湯の温度にあるとにらみ、刀匠が向うをむいている時、すばやくちょっと指を湯につっ込んだ。間髪を入れず師匠はふりかえり、手にした刀で、その男の手首をすぽりと切り落したという。

 湯につっこんだ指はその手首についていたのだから、湯の温度の秘密は守られたというわけだ。

 

 現代でも原則的にはこうあるべきだろうと思い、念のために「小説作法」を読み返してみたら、刀匠の湯加減に相当する小説の秘密は、ここでもちゃんとかくされていることを発見した。連載中だから断定は出来ないが、ここに書かれているものは、大体につちのふるい方だとかふいごの使い方のような末端の技術であって、大元の性根のところは完全に省略されている。読者がこれを熟読玩味、再読三読しようとも、それでもって直ちに良質の作品をつくり出すというわけには行かないだろう。

 その意味においてこの「小説作法」は、読物としてはいざ知らず、技術論ないし芸術論としては、不毛の文章であると私は思う。読者は実体をつかんだつもりで、実は影をしかつかめないのだ。

 

 新年号作品六十七編と言ってもゴマメ級の短編ばかりでなく、百枚の中編が三四本ある。

 小島信夫の「犬」(文芸)はそのひとつであるが、これを読了して、私はある当惑と混乱と危惧とを感じた。ここに描かれているものは、犬のコンクールをめぐる人々や犬たちの動きなのであるが、ここに出てくる畜犬振興会というのは日本文学振興会であり、O賞とは芥川賞であり、したがって飼主と畜犬の関係は候補作家と候補作の関係である。うつし絵でもするように、作者は芥川賞をめぐる現実を、そのまま畜犬コンクール風景に引きうつしている。

 そして犬の世界に引きうつしたことから生ずる末端の矛盾をつじつま合わせるために、文章だの構成はかなり混乱している。

 

 私が感じた当惑とは、何故芥川賞をめぐるいきさつを、こんなに代置された形で読まされねばならぬのか、その点である。たとえば火野葦平の「淋しきヨーロッパの女王」は、同じく百枚の力作で、真杉静枝女史そのものずばりを語っているが、小島信夫はそういう形では語れなかったのか。代置せねばならぬ必然性はどこにあるのか。

 この作品から、代置するという作業をとりのぞいたら、あとに何が残るのか。

 この作品にそそがれた努力の大部分は、その代置作業についやされている。それで自足しているように見える。その点において私は小島信夫に危惧を感じる。ひとごとでない危惧を感じる。それに代置という作業は、さほど高級な才能を必要としないのだ。

 小島信夫は先日の朝日新聞に、第三の新人と分類されることに反撥の気配を示し、「ぼくは戦争直後から『諷刺文学』というものをいつも念頭に置いてきた」と書いている。とすればこの「犬」も風剌文学として書かれたのであろう。しかしこれは風刺文学としての観点からも失敗作である

[やぶちゃん注:芥川賞に触れているので一言言っておくと、梅崎春生は、この年(昭和二十九年)の八月に『新潮』に発表した「ボロ家の春秋」(リンク先は「青空文庫」。「蜆」に次いで、先に電子化されてしまって内心甚だ悔しいものである)で、この記事を書いた一月余り後に、昭和三十年二月に第三十二回直木賞を受賞したが、知る人ぞ知る、梅崎春生は、自身、芥川賞を受けるべき作家として自認しており、直木賞受賞を断ろうとし、相当にナーバスになったのであった。

 

 この作と反対の火野の「淋しきヨーロッパの女王」こそ、代置の必要のある作品ではないかと私は思う。ヨーロッパにおける一日本人女流作家の異常な心理と行動、それはいろんな点や角度においていろんな問題をふくみ、いろんな問題にもつながってくるだろう。だから作者は問題のあり方を正しく消化し、第二の現実として作品をつくるべきであった。

 真杉女史ずばりを描いては、実名小説としての面白さはあろうとも、小説としての底は浅い。

 坂口安吾の「狂人遺書」(中央公論)は豊臣秀吉に材をとり、秀吉の独白体という形式であるが、独白体でとらえるには材料がぶわぶわとひろがり過ぎていて、うまく行っていないようである。ではどんな形式がいいかと言われると私も困るが、こんな独白体では、たとえば秀吉と小西行長の関係に焦点を定めたら、作品としての完成度はずっと高められるだろうと思う。

 

 沢野久雄の「被害者」(改造)は十二月号と新年号に連載されたものだが、加害被害の問題をとりあつかって、面白かった。ただ作中の諸人物の位置が、その思わせぶりな構成の仕方で、ぼやけている傾向があるように感じられる。こういう作品は、やはり分載の形をとらず、一挙に発表すべきであろう。(作者の都合か編集部の都合かわからないけれども)

 以上の四編だけで、四百枚を越える。読むだけで一日仕事である。あと六十三編が目白押しに残っている。文運隆盛とは言うものの、読む方は楽でない。

 

 文芸雑誌が文学志望者に、きそって門戸を開放するようになったのは、一年ほど前からのことで、梶野豊三の「イワーシェンコ老人の鼠」(文芸)もそのひとつだ。戦前改造社から出ていた「文芸」でも「文芸推薦」なる制度があって、私も一度落選の経験を持つが、当時のは同人雑誌に一度発表された作品が審査の対象となっていた。現行の文芸推薦小説なるものは未発表作品に限られている。では普通の投稿とどう違うかというと、その未発表作品は各同人グループの推薦になるものに限られている。

[やぶちゃん注:「私も一度落選の経験を持つ」対象作品不詳。]

 責任を個人に持たせず、グループに持たせようとしたところがみそとなっているらしい。

 

 さて、この「イワーシェソコ老人の鼠」であるが、丹念に手がたく書き込まれてあり、イワーシェンコ老人の風貌もかなり適確に描かれている。しかし戦争小説としての型は新しくない。

 いわゆる第三の新人たちの戦争小説、軍隊小説には、ひとつの型がある。自己を放棄することによって、効果的に生きながらえようとするような、そんな消極的な反抗の姿勢。

 これは少年時代、あるいは青年時代を、戦争によってゆすぶられた同時代者たちの共通した考え方であり感覚なのであろう。

 しかしそうはっきり割切ってしまうのは危険であって、小説というものはもっとあやふやな形のものであり、作者の主体と作品は必ずしも直結していない。間に文体というものが介在している。

 そういう身についた文体を、彼等は最初持っていなかった。先人の文体は彼等の身に合わなかった。文体を持ちあぐねていた彼等は、なるほど、なるほど、そういう手もあったかと、安岡式スタイルに皆自分流によりかかり、そこで表現の場をかたちづくったのではないか、という風に私は考えている。

 安岡や小島が始祖というわけでなく、相互影響という形で、第三の新人に共通した特有の考え方なり感じ方なりが、形成されたのだろう。

 

 独自の表現なり発想法をつくり出すことは、個人としてはなかなか至難のことであって、よりかかる方が楽なのである。そっくりよりかかってはだめであるから、自分流によりかかればよろしいのだ。鷗外の歴史小説なんか、現今でもさかんによりかかられている。第三の新人はこれから先、あとから来るものによって、当分よりかかられるだろうと私は推測している。

 にがりによって豆腐がかたまるように、彼等はスタイルでもって自分の資質をかためた。

 あと何年か経つと、そのお仕着せが自分の身に合わないことを悟って、変貌するのが何人か出て来るかも知れない。昭和初年の新感覚派の作家たちが、やがてそれぞれの資質に分れて行ったように。

 

 軍隊小説、俘虜小説が、北方帰りと南方帰りとでははっきりした差異がある。置かれた風土のせいなのだろう。文体の明晰(めいせき)さにしても、大岡昇平のそれと、長谷川四郎のそれとは、やはりどこか違う。大岡は南方的であり、長谷川は北方的である。南方帰りはとかく短編が多いが、北方帰りはとかく長編を書きたがるようだ。南方は暑くて持続的思考に耐えられないし、北方は寒くて単調で、生命力を短時間に燃焼することがない。そういうせいかとも考えられる。「イワーシェンコ老人の鼠」は北方であるが、短編である。短編であっても、やはり北方的であった。

 もっと作品に即して書く予定であったが、こと志とちがって、こんな中途半端な時評になってしまった。どうも他人の作品をあげつらうことにおいて、私は筆がすくむ傾向にある。

 

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