[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(本文冒頭部をリンクさせた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第十巻(初期文集他)一九七三年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部(紛(まが)い物を含む)は後に推定訓読を〔 〕で補った。
本篇は、やや長いので、ブログでは分割公開し、最終的には縦書にしてPDFで一括版を作成する予定である。実は、本篇は、今まで以上に、熊楠流の勝手な送り仮名欠損が著しい。私の補塡が「五月蠅い」と感じられる方も多かろう。さればこそ、そちらでは、《 》で挿入した部分を、原則、削除し、原型に戻す予定である。そうすると、しかし、如何に熊楠の原文章が読み難いかがお判り戴けることともなろう。
なお、「鷲石」は、「しうせき」(しゅうせき)で、その正体の最も有力な対象物は褐鉄鉱(リモナイト:limonite)で、ウィキの「褐鉄鉱」によれば、『吸着水や毛管水を含んだ針鉄鉱(ゲーサイト、α-FeOOH)、または鱗鉄鉱(レピドクロサイト、γ-FeOOH)の一方または両者の集合体であり、鉱物名としては褐鉄鉱は使用されていない』とあり、『天然の錆である』とあって、さらに『団塊状で内部に空洞のあるものを鳴石、壷石とい』うとある物が、以下で語られる「鷲石」である(空洞中には水を持っているものもある)。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「日本語と日本文化 壺齋閑話」の「鷲石考:南方熊楠の世界」に、『鷲石にまつわる伝承はとりあえずヨーロッパに広まっている。中国には鷲石そのものの伝承はないが、それと似たような話はある。禹余糧』(うよりょう:以下の本文にも出る。歴史的仮名遣は「うよりやう」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある』とある。引用元でも以下で解説が続く)『中国では、鷲石に相当する石は禹余糧と呼ばれている。むかし禹王が会稽の地で宴会を催した時、余った食料を江中に捨てたところが、それが化石となったので禹余糧と呼ばれるようになったというのである。小野蘭山によれば』、『この石は「はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色あり。その内空虚にして、細粉満てり」というから、ヨーロッパでいう鷲石と同じなわけだが、中国人はヨーロッパ人と異なり、これを鷲と結びつけることはしなかったのである。中国人には、鷲を性と結びつけるという発想がなかったためかもしれない』。『中国人も、この石の形が母胎に子を宿すに似ているところから、これを催生安産の霊物としたが、ヨーロッパ人とは異なり、これを昔の聖人が食い残した食物と結びつけたことから、長生して仙人になれる特効薬と考えるようにもなった。また、その成分の鉄が栄養源とて相当に働くことから、これに広い薬効を結びつけるようにもなった。鷲石をもっぱらセックスや繁殖と結びつけたヨーロッパ人とは、アナロジーの働く範囲が多少ずれていたわけであろう』と言及されておられる)『と呼ばれているものだ。日本では孕石というものがほぼこれらに対応している。そこで熊楠はこれらの伝承に潜んでいる共通点と相違点を摘出することに取り掛かるわけだ』。『ヨーロッパで鷲石と呼ばれているものは、扁平な形状の石のようなもので、内部に空洞があり、そこに小石が入っている。それが子を孕んだように見えることから、人間の出産と結び付けられるようになった。この石の正体は褐鉄鉱で、鷲が巣くうような洞窟によく見られる。そこから鷲と結びついて鷲石と呼ばれるようになり、その鷲石に、出産やそのほかの効用が結び付けられるようになったわけである』とある。「孕石」は以下の序文に出るが、「はらみし」と読み、やはり、石の中に空洞部分があって、小さな石を持っているように感じられるもので「子持ち石」とも言い、「鷲石」のように(以上の通り、壺齋散人氏は同一とされる)安産等のお守りとされた。本文でも南方熊楠が考察するように、ある形状・性質・様態に見える対象物が、異なったものであるが、やはりそうした似たものを有する全く別な対象物と強い親和性と共時性を持つと考える民俗社会の感応性、所謂、フレーザーの言う「類感呪術」である。]
鷲 石 考 南 方 熊 楠
鷲 石 考
第一 鷲石に就て
第二 禹餘糧等に就て
是は一九二三年三月十日ロンドン發行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯十二卷一八九頁に出た質問に對し、七月二十一日、二十八日、八月四日、十一日、十八日、二十五日の同誌上に載《のせ》た熊楠の答文を、本書の爲に自ら復譯した者である。但し、大意をとる。又『性之硏究』拙文「孕石のこと」より取《とつ》た所もある。爰には便宜上、「鷲石に就て」・「禹餘糧等に就て」の二篇に分ち述《のべ》る。
[やぶちゃん注:以上と次の「第一編 鷲石に就て」の「質問」の本文部分と「應答」一ページまでは、底本では、本文行間が他に比して有意に広いが、再現しない。なお、ここに出る‘Notes and Queries’の当該年のそれは、「Internet archive」でも、画像化が行われていない(リンク先は英文‘Wikisource’の同誌の「Internet archive」にリンクしたリスト)ので、視認出来ない。
「孕石のこと」サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)のページ・ナンバー『(497)』に、「孕石のこと」(大正九(一九二〇)年十一月・十二月発行『性之研究』第二巻第二号及び三号発表)として読める(二部構成)。]
第一編 鷲石に就て
質 問 龍 動 キルフレッド・ジェー・チャムバース
一六三三年附でリチャード・アンドリュースがニゥキャッスル女伯に出した狀は、史料手筆調査會第十三報に收め、出板された。其内に「予は、又、貴女へ、鷲石一つを送つた。是は、出產の節、腿《もも》に括《くく》り付《つく》ると、安產せしむ。」とある。此石の性質・効力に付《つき》て、一層、詳知したし。
[やぶちゃん注:「龍動」ロンドン。]
應 答 日本紀伊田邊 南 方 熊 楠
此答文は、主として、大正九年東京刊行『性之硏究』二號と三號に出した拙文「孕石の事」と、予の未刊稿「燕石考」より採り成した物である。
[やぶちゃん注:「孕石の事」については、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社『南方熊楠全集』第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)(新字新仮名)の、ページ・ナンバー『(497)』の「孕石のこと」で読める。
「燕石考」(えんせきかう)は英文論文‘The Origin of the Swallow-Stone Myth’ (「燕石神話の起原」)であるが、平凡社「選集」の第六巻、及び、河出文庫の『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」で岩村忍氏の訳(二つは同一)で読める。この「燕石考」及び「燕石」(「竹取物語」の「燕の子安貝」を始めとして、比定対象物は複数ある)については、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)」の私の注で少しく引用に形で述べてあるので参照されたいが、その複数の比定物の内では、タカラガイ類(腹足綱直腹足亜綱Apogastropoda下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae)の他に、有力な一つが、「石燕(せきえん)」で、これは二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石で(腕足類の知られた現生種では、舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina が知られる)、石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国では、その粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。]
此石を古希臘でエーチテースと云《いつ》た。その意譯で、獨語のアドレル・スタイン。露語のオーリヌイ・カーメン。佛語のピエール・デーグル。西語のピエドラ・デ・アギラ。皆な、英語のイーグル・ストーンと同じく、「鷲石」の義だ。獨語で、又、クラッペル・スタイン、露語でグレムチイ・カーメンといふは、ガラガラ鳴る故、「ガラガラ石」の意だ。
西曆一世紀に成つたプリニウスの「博物志」卷十の三章に、鷲に六種ありと述べ、四章に、其内、四種は、巢を作るに、鷲石を用ゆ。此石は、藥効、多く、又、よく火を禦《ふせ》ぐ。其質、恰《あた》かも孕んだ樣で、之を、ふれば、中で、鳴る。丁度、子宮に胎兒を藏《をさ》むる如く、石中に小石あり。但し、鷲の巢より採《とつ》て直《すぐ》に使はねば、藥效なし、と記す。又、委細を三六卷三九章に述べて曰く、「鷲石は每《いつ》も、雌雄二個揃ふて、鷲巢《わしのす》にあり。是れ無ければ、鷲は蕃殖《はんしよく》せず。隨つて、鷲は、一產二子より、多からず。鷲石に四種あり。第一、アフリカ產は、柔かで小さく、其腹中《ふくちゆう》に、白く甘い粘土を藏む。その質、碎け易く、通常、女性の物と、みなさる。第二に、雄なる物は、アラビア產で、外見、沒食子《もつしよくし》色(暗褐)若くは帶赤色、其質、硬く、中にある石、亦、堅い。第三、キプルス島の產は、アフリカ產に似るが、其より大きく、扁たく、他の圓きに異なり、内には、好き色の砂と、小石が混在し、その小石は、指で摘《つま》めば、碎くる程、柔《やはら》かい。第四は、ギリシアのタフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ。川底より見出され、白く、圓く、内にカリムスてふ一石を藏む。鷲石、種々なれど、是程、外面の滑《なめら》かなは、ない。是等の鷲石、孰れも牲《にへ》に供えた[やぶちゃん注:ママ。]諸獸の皮に包み、妊婦や、懷胎中の牛畜に佩《おび》しめ、出產の際迄、除かねば、流產を防ぐ。もし出產前に取去《とりさ》れば、子宮、落脫す。又、出產迫れるに取去《とりさら》ずば、難產する。」と。
[やぶちゃん注:以上のプリニウスの「博物誌」の当該部は、所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)で確認した。熊楠は「卷十の三章」と言っているが、引く内容自体は「四」である。そこでは、その鷲石を『ある人はガキテスと呼ぶ』とある。「三六卷三九章」は『鷲石(アエティテス)』の項で、『タフイウシア產で、「タフイウシア鷲石」と呼ぶ』の部分は『タピウサ種として知られている第四種は、タピウサのレウカス島に産する。タピウサというのは、イタカからレウカスへ船で行くとき』、『右にある地区だ』とある。「タピウサ」は判らないが、「イタカ」は現在のギリシャの「イターキ島」、「レウカス」は「レフカダ島」であるから、グーグル・マップ・データのこの中央附近になるか。「川底」(訳本では『渓流』)とあるからには、レフカダ島の内陸部であろうか。]
一九〇五年板、ハズリットの「諸信及俚傳」一卷に云く、鷲石は臨產の婦人に奇効ありと信ぜられた。レムニウス說に、左腕に、心臟より無名指へ動脈通ふ處あり、其邊え[やぶちゃん注:ママ。]此石を括り付置《つけおけ》ば、いかな孕みにくい女も、孕む。孕婦に左樣に佩びしむれば、胎兒を强くし、流產も、難產も、せず、又、自ら經驗して保證するは、產婦の腿に、之を當《あつ》れば、速かに安產す、と。ラプトン曰く、孕婦の左臂《ひぢ》又は左脇に鷲石を佩びしむれば、流產せず、且つ、夫婦、相《あひ》好愛《かうあい》せしむ。又、難產の際、之を腿に括り付《つけ》れば、忽ち、安產す。又、蛇の蛻皮《ぬけがら》を腰に卷付《まきつけ》ても、安產す、と。是は、東西に、例、多き、「似た物は、似た患《わづらひ》を救ふ。」といふ療法で、眞珠が魚の眼玉に似るから、眼病にきくの、キムラタケは陽物そつくり故、壯陽の功、著し、とか、虎や狼は、犬より强いから、その肉や骨は犬咬毒《いぬのかうどく》を治《いや》すとか、黃金の色が、似おる[やぶちゃん注:ママ。]から、黃疸に妙だ、等、信ずる如く、蛇が皮をぬぎ、穴をぬけるのが、赤子の產門を出《いづ》るに類し、鷲石の内部に小石を藏《ざう》せるが、子宮に胎兒を藏むるに似たよりの迷信だ。
[やぶちゃん注:『ハズリットの「諸信及俚傳」』イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の‘Faiths and Folklore’(「信仰と民俗学」)。
「レムニウス」オランダの医師で作家のレビヌス・レムニウス(Levinus Lemnius 一五〇五年~一五六八年)。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの左にある“ Ætites ”の項がそれ。「アエタイト」は熊楠が古ギリシャ語で「エーチテース」と音写したそれで、ギリシャ語由来の鉱物「鷲石」の意である。
「無名指」薬指の異名。
「ラプトン」“Lupton”。人物は不詳だが、前注の箇所の、すぐ後に出て来る。
「キムラタケ」まず言っておくと「キノコ」ではない。葉緑素を欠いた多年草で完全な寄生植物にして高山植物であるシソ目ハマウツボ科オニク(御肉)属オニク Boschniakia rossica の別名である。奇体な形状は当該ウィキを見られたいが、異名の『キムラタケは、「黄紫茸」「金精茸」と書いて「きむらたけ」と読み』、中国や本邦で『強壮剤として利用されたことによる』。『また、「をかさ蕈」「おかさたけ」ともいう』とあった。]
一五六八年、ヴェネチア板、マッチオリの「藥物論」には、「鷲石をふれば、内部に音する事、孕めるが如く、其腹中に、一石、あり。之を產婦の左臂に佩ぶれば、流產を防ぐ。扨、愈よ、臨產となれば、臂から取去《とりさ》り、其腿に括り付ると、安產する。此石、又、盜人を露はす効、あり。パンに之をそつと入《いれ》て、食《くは》しむるに、盜人、嚙めども、嚥《の》み下す、能はず。又、鷲石と共に煮た物をも、嚥み能はず。その粉を、蜜蠟か、油に和し、用《もちふ》れば、癲癇《てんかん》を治す。」と出で、一八四五年、第五板、コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」六頁には、『鷲石を、孕婦の腿に付れば、安產すれど、其胸に置《おか》ば、出產を妨《さま》たぐ。ジオスコリデス說に、此石を燒《やい》た粉を、パンに混じ、嫌疑ある人々に食せば、少しでも其粉が入《はいつ》たパン片を、盜人は、嚥み能はず。今も、希臘人は、呪言を誦して、右樣のパンを盜人穿鑿に用ゆ。』と筆す。全く、鷲石の内に一石を藏すると、盜人が取つた物を懷中すると似るより、此石、よく、盜人をみ出《いだ》すと信じた者か、と迄は書《かい》た物の、なぜ癲癇にきくかは、一寸、解き難い。先《まづ》は、氣絕した患者が囘生《くわいせい》すると、鷲や人の子が產まれて世に出るとを、一視《いつし》して、言ひ出《だ》したで有《あら》う。
[やぶちゃん注:『マッチオリの「藥物論」』イタリアの医師・博物学者ピエトロ・アンドレア・グレゴリオ・マッティオリ(Pietro Andrea Gregorio Mattioli 一五〇一年~一五七七年)。当該ウィキによれば、『医学に関する著作に加えて、プトレマイオスの』「ゲオグラフィア」『などのラテン語やギリシャ語の著作からイタリア語への翻訳をおこなった。特に、ディオスコリデスの本草書』「薬物誌」の『翻訳と解説が有名となった』一五四四『年にジャン・リュエルのラテン語訳を元に、図版なしで最初の翻訳・注釈本が出版され』、一五四八『年に』は『増補版の解毒剤に関する著作が加えられ』、一五五〇年と一五五一年にも『増補版が出版された』。一五五四『年には』「ディオスコリデスの著書への注解」( Commentarrii in sex libros Pedacii Dioscoridis )が『出版された。それまで広く流布されていたジャン・リュエルの注釈本とは一部の解説が異なり』五百八十三に及ぶ『木版画が添付された』とある。所持する『南方熊楠コレクション』の「Ⅱ 南方民俗学」(一九一一年河出文庫刊)にある長谷川興蔵氏の注によれば、この「藥物論」というのは、『熊楠は恐らく内容に即して、『薬物論』としたのであろうが』、彼が従ったものは、同英文ウィキにある、一五六八年版の‘I discorsi di m. Pietro Andrea Matthioli sanese, medico cesareo, et del serenissimo principe Ferdinando archiduca d'Austria &c. nelli sei libri di Pedacio Discoride Anazarbeo della materia medicinale. Venezia’が、それであるとしておられるようで、“discorsi” は『談話』の意であるとされておられる。
『コラン・ド・プランシーの「妖怪辭彙」』フランスの文筆家コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)が一八一八年に初版を刊行した“ The Dictionnaire infernal ” (「地獄の辞典」)と思われる。]
一八八五年第三板、バルフォールの「印度事彙」一に、プリニウスは鷲石が治療に効ある外に、難船等の災禍を禦ぐと說《とい》たとあるが、プリニウスの書にそんな事、一向みえず。暗記、又、引用の失だろう[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。扨、『アラビア人、之をハジャー・ウル・アカブと稱へ、タマリンド果の核《たね》に似たれど、中空で、鷲の巢の内に見出ださる。印度から鷲が持つてくると信ず。』と述た儘、何に用《もち》ゆと、かき居らぬが、必竟、歐人同樣、專ら、產婦に有効とするのだろう。そして又、アラビア人は鷲石は難船等の災難を予防すと信ずるので有《あら》う。
[やぶちゃん注:『バルフォールの「印度事彙」』スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。ちょっと手間取ったが、「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第一巻)の当該箇所はここの右ページの終りにある“EAGLE STONES”の項であることが判った。
「タマリンド果」アフリカの熱帯原産で、インド・東南アジア・アメリカ州などの亜熱帯及び熱帯各地で栽培され、食用となるマメ目マメ科デタリウム亜科 Detarioideaeタマリンド属タマリンド Tamarindus indica の果実。]
プリニウスの「博物志」三七卷五九章に、メヂアより來たるガッシナデてふ石は、其色、オロブス豆の如くで、花紋あり、此石を振《ふる》へば、子を孕みおると判る。三ケ月間、孕むとあるから、其丈《だ》けたてば、石が子を產むのだ。同卷六六章には、ペアニチスは、子を孕む石で、婦女の安產を助く。マケドニア產で、外見、水がこり固まつた樣だ、と載す。孰れも、構造、鷲石に似乍ら、鷲に係る話のない品らしい。
[やぶちゃん注:既出の訳書では、『メディア産のガッツシナデスはヤハズエンドウの色をしており、』(中略)『これは妊んでいて、それを振ると支給の中に石はいっていることを示すといわれるひとつの宝石である。「胎児」が発育するのに三カ月かかるという』とあった。この「ヤハズエンドウ」(矢筈豌豆)は、マメ目マメ科ソラマメ属オオヤハズエンドウ亜種ヤハズエンドウ Vicia sativa subsp. nigra で、我々が異名の「カラスノエンドウ」(烏野豌豆)で親しんでいるものと同じである。当該ウィキによれば、『原産地はオリエントから地中海にかけての地方であり、この地方での古代の麦作農耕の開始期にはエンドウなどと同様に栽培されて作物として利用された証拠が考古学的資料によって得られている。そのため、若芽や若い豆果を食用にすることができるし、熟した豆も炒って食用にできるが、その後栽培植物としての利用はほぼ断絶して今日では雑草とみなされている』とある。熊楠の「オロブス豆」のそれはギリシャ語由来の“orobus”で「苦いレンゲ」(マメ科マメ亜科ゲンゲ属 Astragalus )の意のようである。]
鷲石の外にも、色々の物を、種々の鳥が用いて、繁殖の助けとする話、多い。其役目の異同に隨ひ、雜と分類して說かう。
(一) 卵を破れざらしむる物 一八八〇年刊行『ネーチュール』二二卷に、チャテルが引た如く、『フィロの「避邪方」に云く、鷲は巢の内に、或石を匿しおき、其卵の破壞を防ぐ、丁度、燕がパースレイの頂芽を以て、子を護る如し。其石を、孕み女が頸に付れば、子は安々と產れる、と。又、エリアノスの「動物書」三卷二五章に云く、甲蟲が燕の卵を害しにかゝると、燕はパースレイの小枝の尖(さき)を投《なげ》て、以て、之を防ぐ。』と。
[やぶちゃん注:以上の‘ Nature ’の当該部は「Internet archive」のこちらの右ページ下方から始まって次のページに及ぶ、「チャテル」(CHATEL)氏の記事 “The Stone in the Nest of the Swallow”であることが視認出来た。それを見るに「フィロ」は“Phile”なる人物で、その書「避邪方」は ‘ Remedies Against Sortileges ’(「諸魔法に対する処方類」)であり、「エリアノス」は“Ælianus”、その書名「動物書」は‘ Natura Animal ’であることが判った。則ち、「エリアノス」は「アイリアノス」で、熊楠は以下の「(二)」では「アイリアノス」と表記している。古代ローマの著述家クラウディオス・アイリアノス(ラテン文字転写:Claudius Aelianus 一七五年頃~二三五年頃)のこと。彼の「ゲスタ・ロマノルム」(ラテン文字転写:Gesta Rōmānōrum)は、中世ヨーロッパのキリスト教社会に於ける代表的なラテン語で書かれた説話集で、標題は「ローマ人たちの事績」を意味するが、「ゲスタ」は中世に於いては「物語」の意味合いとなり、「ローマ人たちの物語」と訳すべきか。古代ローマの伝承などを下敷きにしていると考えられているが、扱っている範囲は古代ギリシア・ローマから中世ヨーロッパ、更には十字軍が齎したと思われる東方の説話にも及んでいる。題材はさまざまなジャンルに亙るが、カトリックの聖職者が説教の際に話の元として利用できるよう、各話の「本編」の後に「訓戒」としてキリスト教的な解釈編が附されてある(Wikibooksの同書に拠った)。「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」の「ゲスタ・ロマノールム」によれば、『現存する』百十一『冊の写本数から『ゲスタ・ロマノールム』はヤコブス・デ・ヴォラギネの』「黄金伝説」と『並ぶ人気を博した書物であったと推察される』が、『聖人伝を纏めた』それ『と異なる点は題材で』、「ゲスタ・ロマノールム」には『若干の聖人伝に加え、伝説、史話、逸話、動物譚、笑話、寓話、ロマンスなど、ありとあらゆるジャンルの物語が登場する。そして、どの話の後にも教訓解説』『が書かれている。この内容の豊かさ故に』本書は『後にシェイクスピアの』「ヴェニスの商人」、『さらには芥川龍之介に至るまで影響を与えた』。『ラテン語で印刷された』本書は一四七二年に『ケルンで刊行されて以来、様々な増補、改変が行われた。従って』、本書には『決まった物語数というものはない』。『写本は』十三『世紀頃に編まれたと考えられているが、印刷本が刊行されるようになってから』百八十一『話が定本となり、さらに編者によって各話が改変されたり、数十話が付け加えられたりしたらしい』とあった。以上の引用に出た芥川の影響については、「芥川龍之介書簡抄142 / 昭和二(一九二七)年二月(全) 十六通」の「昭和二(一九二七)年二月十六日・田端発信・秦豐吉宛」の中に言及があり、また、「芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》」の「《12―20》」にも記載があるので、見られたい。なお、以下、欧文文献の著者や書名、及び、神話・歴史上の神や人物は、注を始めると、異様に手間がかかり、ちっとも電子化が進まなくなるため、私がどうしても躓いたもの、是非ともオリジナルに語りたく感じたもの、そして、注しないと後が読めないもの以外は、ちょっと調べても判らない場合は、注することをあっさりやめることとする(既に先行して熊楠が引用して分かっている場合は例外的に記す)。私が判っているものも、原則、注しない。悪しからず。
「パースレイ」原文“parsley”で、これは、所謂、「パセリ」、セリ目セリ科オランダゼリ属又はオランダミツバ属オランダゼリ Petroselinum crispum のことである。]
(二) 塞がれた巢を開通する物 オーブレイの說に、サー・ベンネット・ホスキンスの園丁が、試しに、啄木鳥の巢の入口の孔を、斜めに釘を打つて、遮《さへぎ》り、其巢のある木の下に淸淨な布を廣げおくと、數時間へぬ内に、鳥が、釘を除き、其時、用いた葉が、布の上に留まり有た。世に傳ふ、ヒメハナワラビは、斯《かか》る障碍物を除くの功あり、と(一九〇〇年板、ベンジャミン・テイロールの「ストリオロジー」、一五三頁)。猶太《ユダヤ》說に、ソロモン王、音を立《たて》ずに金石を掘り出ださんとて、鬼神の敎え[やぶちゃん注:ママ。]により、ガラス板で鴉(はしぶとがらす)(又、シギとも、鷲とも云)の巢を葢《おほ》ふと、鴉、還つて、其卵を護る能はず、飛去て、智石(シャミル)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を持來つて、ガラスを破つた。是は、鐵も力及ばぬ堅い物を、容易に切り開く力、あり。又、アイリアノスは、漆喰(しつくひ)で、ヤツガシラ鳥の巢をぬりこめおくと、忽ち、ポア草を持來り、漆喰にあて、之を破り開き、子に餌を與ふ、と言た。「ゲスタ・ロマノルム」には、駝鳥が、同じことをする、と見ゆ(ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章)。日本にも「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、水晶の如く、堅くて、玉の樣なる物なり。オランダ人、持來る。又、常に、ギヤマンを、オランダ人、無名指に、かねの環を掛けて、挾み持て、刀劍の代りに用るなり。石鐵の類、何にても堅き物を、このギヤマンにて磨る時は、微塵に碎けずということ、なし云々。全體、ギヤマンと云は、鳥の名なる由。此鳥、雛を生じたるをみて、オランダ人、其雛を取りて、鐵にて拵え[やぶちゃん注:ママ。]たる籠に入れ置く。時に、親鳥、雛の鐵籠にあるを見て、頓て、此玉を含み來り、鐵の籠を破り、雛を伴て飛去る。其落し置たる玉ゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、鳥の名を呼で、ギヤマンということとぞ。此物、オランダ人も何國にある物と云事を知ず、と云り」と記す。
[やぶちゃん注:「ヒメハナワラビ」シダ植物の一種で、維管束植物門大葉植物亜門大葉シダ綱ハナヤスリ(花鑢)亜綱ハナヤスリ科ハナワラビ(姫花蕨)属ヒメハナワラビ Botrychium lunaria 。ユーラシア・北アメリカ・グリーンランドなどの極地附近に分布し、本邦では、北海道から本州中部以東の高山・亜高山に稀れに植生する。
『ベーリング・グールドの「中世志怪」、一六章』イングランド国教会の牧師にして、考古学者・民俗学者。聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)が一八六六年に刊行した‘Curious Myths of the Middle Ages’ (「中世の奇妙な神話譚」)。一八七七年版を「Internet archive」で「十六章」は、ここから。
『「譚海」一一に、「ギヤマン(金剛石)と云物、……」事前に私のブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で「譚海 卷之十一 ギヤマンの事」として、フライングして電子化しておいた。必要と思われる読みは、そちらで附してある。]
(三) 卵を暖むる物 支那人は、鸛(こう)と鵲(かさゝぎ)が、礜石《よせき》で、卵を暖め孵《かへ》すといふ(「博物志」四。「本草綱目」十)。日本でも、「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ。支那人は、礜石の性、熱く、昔し、之を埋めた地は、乾いて、植物、生ぜず、と信じ、明朝《みんてう》に、南京の乞食、其少量を嚥《のん》で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)。だから、鳥がそれで卵を孵すと云《いつ》たのだ。人參が物を溫むるとの信念に就ては、「本草綱目」一二、「大英百科全書」十一板一二卷、其條。一八七二年板、ラインド「植物界史」五二九頁。一八八四年板、フレンド「花及花傳」二卷六二八頁をみよ。
[やぶちゃん注:「礜石」多数の死者が出たというのでお判りかと思うが、これは砒素を含んだ鉱物の一つで、猛毒。鼠殺しなどに使われた。
「博物志」三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二年~三〇〇年)の書いた幻想的博物誌にして奇聞伝説集。全十巻。以上の「鸛」のそれが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本の画像のここの、後ろから二行目で視認出来る。
『「本草綱目」十』「金石之四」の「礜石」の記載。「漢籍リポジトリ」の同巻の[032-24a]以下を見られたい。「鸛」はそこに、三度、出る。その[032-26a]に続いて「特生礜石」が立項されてあり、その「集解」の中に。『𢎞景曰舊説鵲』(☜)『巢中者佳鵲常入水冷故取以壅卵令熱今不可得』とある。
『「善光寺道名所圖會」五に、鶴が卵を孵すに、朝鮮人參で暖めるといふ』国立国会図書館デジタルコレクションの『新編信濃史料叢書』第二十一巻(一九七八年信濃史料刊行会編刊)同書第五巻の中に神鳥としての鶴の挿絵があり、そのキャプションに当該内容が記されてあるのを視認出来る。
『明朝に、南京の乞食、其少量を嚥で、冬、寒を禦ぎ、春に成ると、數千人、死んだといふ(「本草綱目」十。「五雜俎」五)』前者では確認出来なかったが、「中國哲學書電子化計劃」の「五雜俎」の電子化の「第五卷 人部」に、「京師謂乞兒爲花子、不知何取義。嚴寒之夜、五坊有鋪居之、内積草秸、及禽獸茸毛、然每夜須納一錢於守者、不則凍死矣。其饑寒之極者、至窖乾糞土而處其中、或吞砒一銖、然至春月、糞砒毒發必死。計一年凍死、毒死不下數千。而丐之多如故也。」とあるのが(ガイド・ナンバー「54」)確認出来た。]
(四) 一旦失なふた活力を囘復する物 「甲子夜話」一七に、お江戶靑山新長谷寺の屋上に鸛が巢を構へたのを、和尙の不在に、寺男が、其卵を盜み煮食はんとした。處へ、和尙、歸り、雌雄そろふて、庭に立《たち》て訴ふる體《てい》に、和尙、僕を糺して、仔細を知り、煮た卵をみるに、熟し居《をつ》た。「これを、還さば、心を慰むに足らん。」とて、巢に戾しやると、三、四日の間だ、一つの鸛、みえず、然るに、なにか、草を啣(ふく)んで歸り來り、其卵、遂に、孵つた。其草の實、地に落ちて生ぜしをみると、イカリソウ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]だつた、と記す。「本草綱目」の淫羊藿《いんやうかく》はイカリソウで、能く、精氣を益し、筋骨を堅くし、眞陽不足者宜ㇾ之、久服之使下人好爲二陰陽一有上ㇾ下子、嘗有二淫羊一、一日百遍合、蓋食二此草一故名。〔眞陽の足らざる者は、之れを宜(よ)しとす。久しく服(ぶく)すれば、人をして、好んで、陰陽を爲(な)し、子、有らしむ。嘗つて、淫羊有り、一日(いちじつ)に、百遍、合(がふ)す。蓋(けだ)し、此の草を食せるなれば、故に名づく。〕とある。又、夫絕陽無ㇾ子、女人絶隂無ㇾ子〔丈夫(じやうぶ)の絕陽にして、子、無きもの、女人(によにん)の絕陰にして、子、無きもの〕に、功、有りと。鸛、蓋し、是を以てするか、と靜山侯は言《いつ》た。男女を暖ためて、子、有《あら》しむるから、卵をも、暖め、雛に孵らしむると心得たのだ。今も件《くだん》の寺に、かの草と傳說を傳え[やぶちゃん注:ママ。]、先年、三村淸三郞氏が、其葉を、寺僧より買ひ、予に贈られた。歐州にも、和漢產と別だが、此屬の草、數種あり。其一つ、ボリガラ・アルピヌムを、英語でバレン・ヲールト、不生殖草といふ。和漢產と反對で、之を食へば、一件を遂行し能《あた》はなくなるといふより、名づけたと承はる。氷洲《アイスランド》人は、鴉の卵を煮熟しても、親鴉が、或る黑石もて、よく復活せしむと信じ、蘇格蘭《スコットランド》にも同說あり。今の希臘人、亦、鷲が伏せおる[やぶちゃん注:ママ。]卵を、取て煮た後、其巢に返しおけば、親鳥がジョルダン河へ飛び往き、一小石を齎し、歸つて巢に納めて、卵を孵す、と、いひ、其石を採つて、邪視を避け、種々の病を治す。之を「緩(ゆる)め石」と呼《よん》で、屢ば、鍍金《めつき》して珍藏す、と(ベーリング・グールド「中世志怪」一六章。一九〇一年八月と、一九〇四年八月、龍動《ロンドン》發行、『マン』)。
[やぶちゃん注:「甲子夜話」のそれは、先行する南方熊楠の「鴻の巢」の注に必要であったため、既に「フライング単発 甲子夜話卷之十七 19 新長谷寺鸛の事幷いかり草の功能」として電子化注してあるので、そちらをまずは見られたい。
「淫羊藿」「イカリソウ」は、モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ(錨草)属イカリソウ Epimedium grandiflorum var. thunbergianum 。当該ウィキによれば、『和名』『「錨草」』で、『花の形が和船の錨に似ていることに由来する』。『茎の先が』三『本の葉柄に分かれ、それぞれに』三『枚の小葉がつくため、三枝九葉草(さんしくようそう)の別名がある』。『地方によって、カグラバナ、ヨメトリグサともよばれ』、『中国』での『植物名は淫羊藿(いんようかく)』とあり、『花言葉は、「あなたを離さない」である』とあった。『薬効は、インポテンツ(陰萎)、腰痛のほか』、『補精、強壮、鎮静、ヒステリーに効用があるとされる』。『全草は淫羊霍(いんようかく、正確には淫羊藿)という生薬で精力剤として有名である』。『淫羊霍とは』、五~六『月頃の開花期に』、『茎葉を刈り取って天日干しにしたもので、市場に流通している淫羊霍は、イカリソウの他にも、トキワイカリソウ、キバナイカリソウ、海外品のホザキノイカリソウ(ホザキイカリソウ)も同様に使われる』が、『本来の淫羊霍は中国原産の同属のホザキノイカリソウ E. sagittatum』『(常緑で花は淡黄色)で』、『名は』、『ヒツジがこれを食べて精力絶倫になったという伝説による』。『イカリソウの茎葉には有効成分としてはイカリインというフラボノイド配糖体と、微量のマグノフィリンというアルカロイドなどが含まれ、苦味の成分ともなっている』。『充血を来す作用があり、尿の出を良くする利尿作用もあるとされている』とある。
『「本草綱目」の淫羊藿』同書の「淫羊藿」であるが、「漢籍リポジトリ」の「卷十二下」の「草之一」の[037-25b]以下であるが、見て戴くと判るのだが、熊楠は、例によって漢文原文をパッチワークしており、ソリッドにはこの引用部は存在しないので、注意が必要である。但し、同書の述べている内容を改変はしていない。
「三村淸三郞」市井の書誌学者三村竹清(ちくせい 明治九(一八七六)年~昭和二八(一九五三)年)の本名。号のそれは、彼が京橋八丁堀で竹問屋を営んでいたことによる。後に屋代弘賢や曲亭馬琴のそれを真似て、『新耽奇会』を作ち、珍しいものを持ち寄って集い、その図録「新耽奇漫録」を纏めている。
「ジョルダン河」中東のヨルダン川。]
全體、「この鷲石とは何物か」と尋ぬるに、「大英百科全書」一一板一六卷にある通り、其純正品は、褐鐵鑛の團塊、中空で砂礫を蓄へ、ふれば、ガラガラと鳴る物だ。ポストクとリレイが、英譯本プリニウス「博物志」三六卷三九章の註に、鷲石は、粘土を混じた鐵石の圓塊《ゑんくわい》で、或は、中空、或は、内に、他の石、又、少しの水、又、或る礦物末を藏むるとあるのが、普通品で、不純の褐鐵鑛だ。日本にも、大有りだが、たゞ之を鷲と連ねた話は、ない。古來、本草家や玩石家が、漢名「太一餘糧」、和名「スヾイシ」、又、漢名「禹餘糧」、和名「イシナダンゴ」とした兩品が、尤も歐州の鷲石に恰當《かふたう》[やぶちゃん注:過不足なく一致・相当すること。]し、漢名「卵石黃」、和名「饅頭石」といふは、やゝ似て、非なる者らしい。歐州の鷲石に種々ある如く、支那でも「太一餘糧」と「禹餘糧」の區別、判然たらず。因て、漫《みだり》に此樣《かやう》な石を「太一禹餘糧」と呼《よん》だと、「本草綱目」にみえる。『性之硏究』第一卷第六號二三二頁に、「鷲石」を「孕石」と書き有《あつ》たに就ては、本話の最末に拙見を述よう。一八七四年、パリ板、スブランとチエールサンの、「支那藥材篇」にも、既に、予輩、浙江沿岸地方より得た「禹餘糧」てふ物は、西洋で「鷲石」と云《いは》るゝ「水酸化鐵」で、大きさ、鴨卵《かものたまご》ほどで、中空に、多く、小石粒あり、下痢を止むるに藥用さる、とある。
斯《かか》る物を、鷲に引合《ひきあは》した古歐人の心が、知れぬ樣だが、全く解說なきに非ず。此田邊町の北、三哩《マイル》[やぶちゃん注:約四・八三キロメートル。]斗《ばか》り、岩屋山の頂《いただき》に近く、岩洞中に觀音像を安置し、參詣、斷《たえ》ず。洞の内外の岩壁、自然に棚を重ねた狀をなし、鷲が巢《すく》ふに恰好だ。此岩壁と岩棚に、無數の小石を含みあり。何れも楕圓で、較《や》や扁たく、空なる腹内に、黃土、滿つ。「饅頭石」と稱ふ。此饅頭石を包んだ岩が軟らかいから、風雨でさらされて、饅頭石、離れ出で、或は、洞底に、或は、棚上に、時々、落留まる。信心の輩、拾ひ歸つて記念とし、佛壇抔に納め、不信心の者は、硯滴(みづいれ)に作り、又、小兒の玩物とし、或は、中の黃土を𤲿《ゑ》の具に試みたが、うまく行ぬと、きく。此近處に、鷲をみること、全くなきに非ねば、鷲が、此岩棚に巢くひしことも、なしと限らず。果して鷲が巢つたなら、かの饅頭石が、多少、其巢内に見出された事も有《あら》う。扨、ボストック及びリレイ英譯、プリニウス十卷四章註に、鷲石、乃《すなは》ち、「含鐵《がんてつ》子持ち石」の片塊《へんくわい》が、たまには、鷲の巢の中より見出ださるゝは、有り得べきことだ、と言ひおり[やぶちゃん注:ママ。]、凡て、人間の判斷は、必しも、一々、正確嚴峻な論理を踏むを、またず、多くは、眼前の遭際《さうさい》に誘はれ、左右される。既に以て、ベーン先生の「論理書」にも、數日間、或る地に滯在中、晴天斗り、續いたら、其地は、年中、晴天のみである樣《やう》心得た人、多く、彼《かの》地は、いつも天氣のよい所など、よくいふ物、と說かれた。其と齊《ひと》しく、當初、此石を鷲石と名づけた地が、上述、田邊近所の岩屋山の如く、自然に、鈴石、多くある岩山に、鷲が巢くひ、其巢の内に、偶然、鈴石を見出だす事、一度ならず、阿漕《あこぎ》の浦のたび重なりて注意すると、其石中に、又、小石を藏せるを見て、石が子を孕んだ物と誤認し、延《ひい》て、鷲が、此石に、其卵を孵す力、あり、と知《しつ》て、巢に持ち込んだと、合點したゞろう[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「岩屋山の頂に近く、岩洞中に觀音像を安置」現在の和歌山県田辺市稲成町にある「岩屋観音」(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの画像の、これとか、これ、或いは、これや、これを見ると、熊楠が言っている崖面の特異な楕円状の穴群が確認出来る。なお、サイト「AND LOCAL」の『和歌山県・田辺市 絶景と厳かな境内「岩屋山 観音堂(観音寺)」へ行ってきた。』によれば、『ここは今から約』八百五十『年ほど前、那智山の滝で苦行された文覚上人がその後、牟婁地方をまわられた時、一夜の夢に霊感をおぼえて岩屋山に立ち寄られ、そして、大岩窟に念持仏の聖観世音像をおまつりしました』。『これが観音密寺の始まりと伝えられて』おり、『その後は、仏徳高い厄除け寺として、人々の信仰を集めてきましたが、昔、小栗判官兼次が、当山に参籠し』、『観音霊夢によるお護りをうけたと語り継がれていることなどによっても、古くから熊野信仰につながる霊場として広く世に知られていたことがうかがわれます』。『今もなお、『岩屋山』の名で親しまれ』、『健康長寿、交通安全、学芸成就を願ってお参りする人々が後を立ちません。特に、ひき岩群に設けられた新西国』三十三『番霊場を巡れば、その眺めは絶景かつ雄大であり、大自然の静けさと霊気ただよう寺院として感慨そぞろ深いものがあります。高山寺の末寺であり、天正年間』、『豊臣勢による熊野侵攻の際には、高山寺の尊像をここに移して災禍をまぬがれ、太平洋戦争末期にも、万一を考えて再度の避難地となった』とあった(最後に『(岩屋山説明書より)』引用とある)。]
此樣《こん》な石に催生《さいせい》安產の奇効ありと信ずるには、必しも、その偶然、鷲巢内にあるを見るを須《ま》たず。そは、和漢共、斯る石を右樣の効ある物と信じ乍ら、鷲と何の關係ありと說かぬで、知れる。蓋し、支那人は、烏麥(からすむぎ)が、至つて生え易く、熟して落ち易きをみて、催生劑とした如く、饅頭石の内に、土や砂礫を藏め、宛然、母の體内に子ある如きをみて、是にも、催生安產の効ありと、したのだ。少しく類例を擧《あげ》んに、米國のズニ印甸《インジアン》の女は、產に臨んで、生(なま)で豆を嚥む。豆が、やすやすと喉を滑り下《おり》る樣に、子も安く產まるゝといふのだ。ニゥギネアのコイタ人は、山の芋の收穫を增す爲め、畑に、その種芋(たね《いも》)の形した石を栽《う》え[やぶちゃん注:ママ。]、バンクス島人は麪包果《バンのみ》を殖やさん迚、呆れる程、此果に酷似した珊瑚石を植《うう》る(「本草綱目」十。「重修植物名實圖考」一。一九一九年十一月『マン』八六項。一九一四年板、バーン「民俗學必携」二四頁。一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁)。
[やぶちゃん注:「烏麥(からすむぎ)」単子葉植物綱イネ科カラスムギ属 Avena の食用にされる四種、或いは、その代表種であるエンバク Avena sativa 。
「ズニ印甸」アメリカ・インディアンの一民族。ニューメキシコ州中部と、アリゾナ州との州境附近に住む。独自の言語を有し、その起源や初期の歴史は知られていない。トウモロコシ農耕を主な生業とし、銀細工・籠細工などに優れている。社会は 十三の母系氏族から成るが、主な役職には男性が就く。複雑な儀礼体系を有し、男性が神乃至は精霊に扮して、仮面や衣装を着ける「カチーナ踊り」も残されているが、殆んどが現代社会に同化されてしまった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「コイタ人」パプア・ニュー・ギニアの中部地方、ポート・モレスビー(グーグル・マップ・データ)一帯の乾燥して痩せた海岸地帯に住んでいる少数民族。元々は内陸部に住み、海岸地帯の部族と交易に携わっていた。白人と接触後、海岸地方に移住し、オーストロネシア語系の言語を話す「モツ族」と共存するようになった。そのため、現在では、彼等固有の言語を話す者は非常に限られ、若年層はトク・ピシンや、英語を好んで話す傾向にあり、村での生活も文化面もコイタ族特有のものは殆んど残っていない(当該ウィキに拠った)。
「山の芋」パプア・ニュー・ギニア周辺で知られる古い芋類は、タロイモ(単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科 Araceaeのサトイモ類)・ヤムイモ(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea のヤマノイモ類)である。現在はそれに、タピオカの原料として知られる、キントラノオ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ Manihot esculenta も挙げられるが、これは、後に南米から移入されたものであり、しかも、木本低木であり、狭義の日本人のイメージする「芋」類とは、ちょっとズレがある。
「バンクス島人」バンクス諸島(現在のバヌアツ共和国の北部にある群島)の先住民。
「麪包果」常緑高木でポリネシア原産のクワ科パンノキ属パンノキ Artocarpus altilis の実。当該ウィキによれば、『ほどよく熟した実を調理したとき』には、『焼きたての穀物のパン』『のような触感』があり、風味は『じゃがいもに似ている』とあった。
『一八九一年板、コドリングトン「ゼ・メラネシアンス」一一九と一八三頁』メラネシアの社会と文化の最初の研究を行った英国国教会の司祭兼人類学者であったロバート・ヘンリー・コドリントン(Robert Henry Codrington 一八三〇年~一九二二年)の‘The Melanesians : studies in their anthropology and folklore ’ (「メラネシア人:人類学と民間伝承の研究」)。「Internet archive」で原本の当該部が読め、指示されたページは、ここと、ここ。前の部分には石の霊性が語られてあり、後の部分では、珊瑚石がパンの実に驚くほど似ているという記載がある。]
そこで、鷲石を、石が子を孕んだ物、又、鷲が子を孵す爲め、巢へ持込だ、と解して、妊婦に佩びしめ[やぶちゃん注:底本では「ネしめ」であるが、意味不明なので、「選集」で訂した。]、試るに、利く場合も、有る。扨は、產婦に偉効ありと判斷し、評判高まるに付ては、催生安產と、殆んど、同功一體なる、卵を暖ためるの、卵の破壞を禦ぐの、煮拔かれたのを、再活せしむるのと、雜多の奇驗《きげん》も、此石に附會さるゝは、知れ切つた成行き。人間に取ても、此石のお蔭で、妻が安產すれば、新產婦は、一生の大厄を免れて、命、維《こ》れ、新た也。萬機《ばんき》改造して、特樣《とくやう》の妙趣、あな、にへやう[やぶちゃん注:「あな」は感動詞だが、参道の「穴」を掛け、「にへやう」は「煮えやう」か。]、まして、女などの企て及ばぬ備え[やぶちゃん注:ママ。]、多し。去《され》ば、後漢の安世高譯出「佛說明度五十校計經《ぶつせつめいどごじふかうけいきやう》」に云く、佛言。是人譬如二婬泆女一、上頭姪決自可、已妊身不ㇾ知下胞胎兒在二腹中一日大上、幾所婬泆、妬女爲二復婬泆一自可、至二兒成就一、十月當ㇾ生、兒當ㇾ轉未ㇾ轉、當ㇾ生未ㇾ生、其母腹痛、自慙自悔當ㇾ墮、痛時妬女啼聲聞第七天、「伊也土言布乃仁私多可羅土漸土宇美」、兒生巳後其母痛愈、便復念二淫泆一、「禰太布利で夫仁佐波流公事工み」、便不ㇾ念ㇾ慙不ㇾ念ㇾ痛、便婬泆如ㇾ故、「阿太々女氏吳奈土足遠佛津可美」、如ㇾ是苦不ㇾ可ㇾ言、妬女亦不ㇾ能三自覺二苦痛一。「於是夫茂嬶阿殿比女波自米駝土薄加遠伊比」〔佛、言はく、「是の人は、譬へば、婬泆妬女(いんいつとぢよ)のごとし[やぶちゃん注:「婬泆」淫(みだ)らな男女関係。]。上頭(としわか)くして、淫泆を、自(みづか)ら可とす。すでに姙身(みごも)るも、胞胎兒(はうたいじ)の、腹の中に在つて、日に大(おほ)きになるを知らず、幾所(いくばく)の淫泆、妬女、復(ま)た、淫泆を爲(な)すを自ら可とす。兒(こ)の成就するに至れば、十月(とつき)にして當(まさ)に生むべし。兒、當に轉ずべくして、未(いま)だ轉ぜず、當に生まるべくして、未だ生まれず。其の母、腹痛して、自ら慙(は)ぢ、自ら悔(く)ゆ。墮(お)つるに當りて、痛む時、妬女の啼く聲は、第七天に聞こゆ。「いやと言ふのに、したからと、やつと、うみ。」。兒、生まれ已然(をは)りて後(のち)、其の母、痛み、癒(い)ゆれば、便(すなは)ち、復た、婬泆を念(おも)ふ。「ねたふりで、夫(をつと)に、さはる、公事(くじ)だくみ。」。便(すなは)ち、慚(はぢ)を念(おも)はず、痛みを念はず。便ち、復た淫泆なること、故(もと)のごとし。「あたためて、くれなと、足を、ぶつつかみ。」。是(か)くのごとき苦しみ、言ふぺからざるに、妬女は亦、自ら苦痛を覺(さと)る能はず。是(ここ)に於いて、夫(をつと)も 嬶(かかあ)殿、ひめはじめだ、と、ばかをいひ。」。〕妻が安產、夫は大悅、苦んで、泣き、產んで、苦を忘れ、世にトシゴを、引つ切りなくうむすら、少なからず。隨つて、孕んでは、鷲石を佩びて、安產、產んで後は、之を帶びて、夫妻相好愛す。是ほど結構な事なく、鷲石ほど、重寶な物、なし、と信ずるに及んだのだ。
中世歐州で、普く讀まれた「動物譬喩譚(フィシヨログス)[やぶちゃん注:ルビでなく、本文。]」原本の第十九譬喩《ひゆ》は、ヴュチュールが、石の内に、又、石を放在する者を以て安產する話だ。ヴュチュールは、種屬、多般で、支那にも有《あつ》て、鵰《てう》と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭《とくとう》故、「博物新編」には「禿鷲《はげわし》」と譯した。鷲と近類だから、鷲石の話を、禿鷲が安產を得ん爲め用ゆる石に振替《ふりかへ》たのだ。プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女《はらみをんな》の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言《いつ》た。一六四八年、ボノニア板、アルドロヴァンジの「礦物集覽」四卷五八章に、大アルベルツスから引て述た、禿鷲體内に生ずるクヮンドリなる頑石《ぐわんせき》は、詳說を缺きおる[やぶちゃん注:ママ。]が、禿鷲の安產石で有《あら》う。
[やぶちゃん注:「動物譬喩譚(フィシヨログス)」フィシオロゴス(ラテン語転写: Physiologus )は、中世ヨーロッパで、聖書と並んで広く読まれた教訓本。表題はギリシア語で「自然を知る者・博物学者」の意。ヨーロッパでは五世紀までに訳されたラテン語版が流布した。参照した当該ウィキによれば、『さまざまな動物、植物、鉱物の容姿、習性、伝承が語られ、これに関連して宗教上、道徳上の教訓が、旧約聖書や新約聖書からの引用によって表現されている。とくにラテン語版は、のちに中世ヨーロッパで広く読まれる動物寓意譚』「ベスティアリウム」『(Bestiarium)の原型になったと言われる』とある。
「ヴュチュール」「種屬、多般で、支那にも有て、鵰と名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドル、亦、此類だ。何れも、多少、禿頭」「禿鷲」「鷲と近類」熊楠は民俗史上のそれを言っているものの、ここでの謂いは鳥類学上からは、当時の時点でも、既にして誤りが多過ぎる。まず、「ヴュチュール」は英語“:vulture”で、腐肉を漁る猛禽類を広く指す俗称であって、特定の鳥の種名ではなく、ハゲワシ類やコンドル類を指す。その「ハゲワシ」であるが、これはタカ科 Accipitridaeの多系統の科を指す。分類学的になかなか決定がなされなかったが、現行では、タカ科のハゲワシ亜科 Aegypiinae及びヒゲワシ亜科 Gypaetinaeに属する種に「ハゲワシ」類は限定されている。しかし、では、中国語でそれを指すと熊楠の言っている「鵰」(現代仮名遣「ちょう」)は、実際には何を指すかと言えば、タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、オオワシ(タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus)・オジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)・ハクトウワシ(タカ科ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus)等のように、比較的大きめの種群を漠然と指す通俗通称なのである。而して、教義に日本で「鵰」は何に当てられるかというと、本邦にも棲息する大型であるタカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 、漢字表記で「角鷹」「熊鷹」「鵰」がそれなのである。中文ウィキの同種のページを見ると、「鷹鵰」が当てられていることからも、クマタカで納得されるのである。以上から、「クマタカ」は熊楠の言うような「コンドル」類及び訳語の「禿鷲」類とは「同類」ではないのである。コンドルはタカ目コンドル科コンドル属コンドル Vultur gryphus であって、以上の意味限定から、コンドルは絶対に「鵰」ではないし、ちょっと禿げてるからと言っても、現行の狭義の分類学上の狭義の二科の「ハゲワシ」類とも、当然のごとく、全然、同類ではないのである。因みに、ヨーロッパ南部からトルコ・中央アジア・チベット・中国東北部に分布し、本邦には迷鳥として北海道から沖縄まで各地で記録があるタカ科クロハゲワシ属クロハゲワシ Aegypius monachus は頭部に羽毛がなく、灰色の皮膚が露出している見た目で確かに正統に「禿げた鷲」であり、嘴も太く、鉤状になっていて先端部が黒いという、如何にもな、正統な「鵰」に属する種(♂で全長一~一・一〇メートル、翼開長二・五〇~二・九〇メートルで、本邦で記録されたタカ科の鳥の中で最大である)がおり、このクロハゲワシの旧和名は非常に困ったことに実は「ハゲワシ」だったという悩ましい過去の事実もあるのである。
『プリニウスの「博物志」三十卷四七章、亦、孕女の足下に、禿鷲の羽を置けば、出產を早める、と言た』前掲訳書でも『ハゲタカの羽』となっている。問題ない。広義の「ハゲタカ」に該当する現生種は二十三種おり、タカ科ハゲワシ亜科Aegypiinaeには、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに生息する十六種が含まれているからである。]
爰で、鷲を性慾と蕃殖に關して有勢の物とした話が、諸方に少なからぬに付て述べ置《おか》う。先づ、古希臘の傳說に、トロイ王トロスの子ガニメデス、艷容無双で、大神ゼウス、之に執心の餘り、鷲をして、取て天上せしめ、之を酒つぎ役の寵童とし、神馬二匹を、其父に償ふたという事で、歐州の美術品に古來大鷲がこの少年を捉つて天上するところが多い。ローマで少年の美奴酒の酌を勤めるを、ガニメデス、それから轉じて、カタミツスと呼でより、英語で男色を賣る者をカタマイトといふ(スミス「希﨟羅馬傳記神話辭彙」二、及び「ヱブスター大字書」)。ツラキア生れの名娼ロドピスは、曾て動物訓話作者イソップと共に、サミア人ヤドモンの奴《ど》たり。後ち、サミア人ザンデスの奴となり、埃及の大港ナウクラチスで、藝妓商賣をした。一日《いちじつ》、此女、浴する間に、鷲がきて、其靴一つを摑み去り、埃及王が裁判しおる前に落した。王、其事の奇にして、其靴の美しきに迷ひ、持主を尋ねて息《やま》ず、遂に此女を探り當て、后とした。ロドピスは「頰赤」の義で、わが邦では、川柳にも「頰赤の匂比囊《にほひぶくろ》で防ぐ也」と有《あつ》て好評ならぬ[やぶちゃん注:「好評でならぬ」の意。]。北印度で韋紐《ヴイシユニユ》[やぶちゃん注:読みは「選集」のルビに拠った。]神は金鷲に乘ると信じ、翼ある美童像もて其鷲を表はす所が、希臘のガニメデスに似おる[やぶちゃん注:ママ。](一八四八年發行『ベンガル皇立亞細亞協會雜誌』一七卷五九八頁)。
南印度のトダ人、傳ふらく、老媼ムラッチの頭に、鷲が留まり、其より、此婆、孕み、男兒を擧たのが、コノドルス族の先祖、と。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」に高名な、猴王ハヌマンの緣起に、アヨジャー王ダシャラタ、子なきを憂ひ、牲《にへ》を供えて[やぶちゃん注:ママ。]禱《いの》るに、牲火中《にへのくわちゆう》に、神、顯はれ、天食パノヤス[やぶちゃん注:神の食物の名か。]を授けて、其三妃に頒たしむ。其時、一妃の分を、鷲が掠め去《さつ》て、アンジャニ女《ぢよ》の手に落す。此女、亦、子なきを悲しみ、苦行中だつた。今、天食を得て、甚だ、喜び、之を食ふと、忽ち、孕んで、ハヌマンを生《うん》だ、とある。
[やぶちゃん注:『南印度の「トダ」人』インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。]
所謂、金鷹は佛經の金翅鳥《こんじちやう》で、佛說に、昔し、ビナレ城に、タムバ、治世の時、釋尊の前身、金翅鳥王に生まれ、年、若し。一日、少年に化《くわ》してビナレに往《ゆ》き、王と博戲《ばくち》するを、宮女蘿等、其美貌に見とれ、王后に語る。他日、化《ばけ》少年、又、往《い》つて、王と博戲する時、后、盛裝して入《はいつ》て見る。少年、亦、王后の麗容に驚き、忽ち、象牙の英語[やぶちゃん注:ivory。洒落。]で相惚《あいぼ》れときた。鳥王、乃《すなは》ち、暴風を起し、天地晦冥、宮人、愕き、走り出るに乘じ、后を摑んで、自分が住む龍島につれ行て、之と淫樂し續く。王、其樂人サツガをして、遍く海陸に后を搜さしむ。サツガ、海商の船に乘つて、金島に渡る。船中の徒然を慰むる爲め、商人どもサツガに奏樂を勸めると、易い御用なれど、予が海上で奏樂したら、魚、驚いて、船を破るべし、といふ。一向、信ぜずに、强いられ、止《やむ》を得ず、絃を鳴《なら》すに、魚類、大騷ぎし、其内の大怪魚一つ、飛揚《とびあが》つて、船に落ち、二つに破り了《をは》る。鳥王は、后を盜んで、飽く迄、之と淫樂し乍ら、知らぬ顏して、每度、ビナレ王と博戲にゆく。此時も、丁度、其方《そつち》へ行《いつ》た留守中で、后は技癢《ぎやう》[やぶちゃん注:自分の技量を見せたくて、うずうずすること。]の至りに堪《たへ》ずと有《あつ》て、所詮、女房にやもちやなさるまい抔と、うなりつゝ海濱に出步く内、本夫に仕へた樂工が、船板を便りに此島え[やぶちゃん注:ママ。]流れ寄《よつ》た處へ、行合《ゆきあ》ひ、事情を聞き、猴《さる》にかき付《つか》れたんぢやないが、逢《あひ》たかつたと、抱伴《だきつ》れて宮中に歸り、十分、保養し、本復《ほんぷく》せしめ、美裝・美食に手を盡して、之と淫樂し、「斯《かか》りける處え[やぶちゃん注:ママ。]亭主歸りけり」の警句を忘れず、注意して匿しおき、鳥王、出で行けば、又、引出《ひきだ》して、サツガと歡樂した。斯《かく》て一月半の後、ビナレの海商、薪水《しんすい》を求めて、島に上りしに、便船して、王宮に戾り、鳥王、來つて、タムバ王と遊ぶを見、絃を皷《なら》して、「王后、鳥王に盜まれ、海島にあり、自分、其島へ漂著して、飽く迄、王后と歡會した。」事を謠ふた。金翅鳥王、之を聞《きい》て、后の好淫、厭足なきに呆れ、怒り去《さつ》て、后を伴れ來て、タムバ王に返し、再びビナレえ[やぶちゃん注:ママ。]來なんだ、とある。唐譯の、此譚は、これと、大分、差《ちが》ふ。商船、難破して、商主、死し、其妻、一板を便り、海洲に漂著して、金翅鳥王の妻となり、其子を生む譚、あり。又、梵授王が、妙容女を妃とし、其貞操を全うせしめん爲め、金翅鳥王に命じて、晝は、之を、海島に置き、一切、人間に見られざらしめ、夜は、之を、王宮に伴《つれ》來たらしめ、天に在ては願わくは比翼の鳥と契りし内、速疾《そくしつ》てふ名の樂工が、サツガ同然の難に逢《おふ》て、其島に上り、王妃に通じ、共に、鳥王を欺き、王宮え[やぶちゃん注:ママ。]つれ歸り、姦通の事、露はれて、阿房拂ひになり、賊難に遇《おう》て、妃は、賊魁の妻になり、情夫、速疾を殺し、種々《いろいろ》と、淫婦に、ありたけの醜行《しうぎやう》を重ねた後ち、野干《やかん》の謀《はかりごと》に遵《したが》ひ、恆河《ごうが》に浴して、改心、易操[やぶちゃん注:意味不明。]したと稱し、再び、王に迎へられて、大夫人と成《なつ》た次第を述べある。其から、本邦の羽衣傳說に似た希臘の神話、有《あつ》て、女神アフロジテが、川に浴するを、其甥ヘルメス神が垣間見《かいまみ》、鷲をして其衣を攘《かす》め去《さら》しめ、「望みを叶へたら、返しやる。」とて、之に通じたといふ。セストス市の少女、鷲を育つると、每度、鳥類を捉へ來たり、返禮した。少女、死して、屍を燒く火中に、鷲が投身して、殉死し、市民、碑を建て、之を旌表《せいひやう》[やぶちゃん注:人の善行を褒めて、世に広く示すこと。]したと有《あつ》て、何にしろ、鷲は、美童や婦女ずきとされた物だ(一九〇六年板、リヴァース「トダ人篇」、一九六頁。一九一四年、孟買《ボンベイ》板、エントホヴェン「グジャラット民俗記」、五四頁。カウエル「佛本生譚」、三卷三六〇語。「根本說一切有部毘奈耶雜事」、二九。一八七二年板、グベルナチスの「動物志怪」、二卷一九七頁。プリニウス「博物志」、十卷六章)。
[やぶちゃん注:『リヴァース「トダ人篇」、一九六頁』イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌‘The Todas’ 。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で原本が読め、ここが当該部。]
鷲と子孫繁殖を連ねた信念は古羅馬に在《あつ》た。アウグスツス帝がリヴィア・ズルシルラを娶つた直後、鷲が白牝鷄を后の前垂れに落し、其牝鷄が月桂枝を銜《ふく》み居《をつ》た。卜《うらな》ふと大吉兆と知れ、其枝を植ると大森林となり、牝鷄を畜ふと大繁殖した。因て其所を牝鷄莊と號した。ネロ帝の末年、其鷄、皆な、死に、月桂林は萎み亡《う》せたので、「帝統、絕ゆべし。」と知《しつ》た想《さう》な。鷲に摑み去れた幼兒が名人となり、或は著姓の祖と成た例、日本に少なからず。奈良大佛の創立者良辯僧正、攝州高槻の鷲巢見氏の祖等だ。印度にも大王の后となつた太陽姬(スリア・バイ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]は、貧な牛乳搾り女の娘で、一歲の時、老夫婦の鷲に捉去《とりさ》られ、其巢で養はれたといふ。(グベルナチス、二卷、一九六頁。「元亨釋書」本傳。「翁草」三。一八六八年板、フレール「デッカン舊日譚」六章)。
[やぶちゃん注:「グベルナチス、二卷、一九六頁。」この部分は「選集」では『グベルナチス、一巻一九六頁。』となっているので、「Internet archive」で調べたところ、第二巻で正しいことが判明した。ここである。そこには確かに、「アウグストゥス家の繁栄の瑞兆として、嘴に月桂樹の枝をくわえた白い雌の鷲鳥、リヴィア・ドルシッラの膝の上に落ち、その枝が植えられ、鬱蒼とした月桂樹の森林と成った。牝鶏は非常に多くの子孫を産んだことから、この出来事が起こった別荘は「雌鶏別荘」(“Villa of the Hen”)と呼ばれるようになった。」とあって、「ネロの生涯の最期の年、鶏は、総てが死に、月桂樹もまた、総て枯れた。」とあるから、間違いない。この平凡社に「選集」は、総てが、原本に当たって厳密に検証されて校訂されているわけではない(今まで何度も煮え湯を飲まされて、延々、徒労の探索をさせられたりした経験がある。専門家が校訂編集している訳ではないと覚悟された方がよく、例えば、総ての漢文部は、全部が本文(白文・訓点附漢文)なしで訓読されてあるものの、この訓読、正直な感想を言うと、漢文の苦手な日本文学の大学生でも、こうは決して読まないと、呆れるおかしな部分が、多々、見られるのである)ので、注意が必要である。]
一九〇九年板、ボムパスの「サンタル・パルガナス民談」、九六章は、雌雄の禿鷲が人の双生兒を養ひ、二兒、步み得る程に成《なつ》て、高い木の上から、地に下《おろ》し、『「カーラゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、アサンの下に殘されて、夫婦の鷲に育てられつる」巡禮に御報謝を。』と、唄を敎えた[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。蓋し、其母、カーラ果を集めに行《いつ》て、林中で双生兒を生《うん》だが、折角、取つた果物を、持還《もちかへ》らずば、明日が過《すご》されず、子と果物と兩持ちすべき力も、なし。「儘よ。食ひさえ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。多発する。]すれば、子は、又、出來る。運さえよくば、引還《ひきかへ》し來るまで、活きおれ。」と言《いつ》て、アサンの葉を二兒に被せおき、果物を負ひ歸つた間だに、禿鷲夫婦が取去《とりさつ》て育て上《あげ》たのだ。扨、二兒がひよろつき乍ら、件の唄を張上《はりあ》げ、村に入《はいつ》て乞食すると、ちつとの物になるを、巢に持歸《もちかへ》つて、生活した。禿鷲、かねて、二兒に敎えて、其親の住《すむ》村え[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、往《ゆか》ざらしめた。一日、二兒、乞食に出で、「なんと、鷲が『往くな』と云た方え、往《いつ》てみようでないか。」と、相談、決して、彼《かの》村へ往き、唄ひ𢌞り、生みの兩親の家え、くるを、見れば、小さい巡禮、「ドレドレ、御報謝進上。」と、盆に、しらけの志《こころざし》、イヨーと、懸け聲迄は書いてゐないが、其母親が、お弓もどきに出て聞くと、唄は根つから吾が事なり、彌《いよい》よ、尋ねて、吾子と知れ、大悅びで、夫と共に、二兒を大籃《おほかご》にふせおいた體《てい》、恰《あたか》も、安珍を道成寺の鐘下に匿した如し。禿鷲は執念深いからどうせ只はおくまい、ドウモ安珍ならぬと案じたのだ[やぶちゃん注:「安心」に引っ掛けた洒落。]。果して、禿鷲、此家え、舞ひ來たり、屋根を穿つて、飛び入り、籃を覆《くつが》へして、二兒を捉へた。父母も、「やらじ。」と二兒を執《とら》へ、エイ聲《ごゑ》出して引合《ひきあ》ふたので、二兒の體が、二つに割れ、父母は、泣く泣く、手に留《とどま》つた半分の屍骸を、火葬した。禿鷹も、片割れの死骸を持歸《もちかへ》つたが、自分が育てた者を、食ふに忍びず、火葬の積りで、巢に火を掛《かけ》ると、燒けおる[やぶちゃん注:ママ。]屍骸から、汁が迸《ほとば》しり、其口に入《はい》た。それが無上に旨《うま》かつたので、燒いてしまふは惜《をし》い物と、殘つた屍骸を引出して食《くつ》たのが、この鳥、人屍《じんし》を食《くら》ふ濫觴だ、といふ次第を說《とい》た者である。誰も知る如く、パーシー人は、必ず、其屍を、此鳥の腹に、葬る。
[やぶちゃん注:書名の中の「サンタル・パルガナス」は“Santal Parganas”で、インド東北部の地方名。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「アサン」インド・ミャンマー・タイを原産とし、熱帯アジア大陸部に植生する高木落葉樹であるフトモモ目シクンシ(使君子)科Combretaceaeモモタマナ(桃玉菜)属クチナシミロバランTerminalia alata 。個人サイト「タイの植物 チェンマイより」の同種のページによれば樹高は二十~三十メートルに達し、葉は単葉で、ほぼ対生し、長さ十~十五センチメートルの楕円形を成す。本種の実は翼果で、五つの翼を有する。但し、『大きく』、『あまり遠くへは飛ばないで、樹下に落下していることが多い』とあり、「その他の名称」の項に『ヒンディ-語・ベンガル語Asan』、『英名Asan、Burma laurel』とあって、この「アサン」は現地での正統な名であることが確認出来る。また、『仏典の植物 タイ語HPには本樹はバ―リ語名アッチュナと』あるとされ、『そして「仏典の植物」(満久)には』『本樹は梵語名アサナ漢訳仏典名-阿娑那(あさな)と』、『記載されている』ともあった。
「お弓」母と娘の関係から浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」の母「お弓」(娘は「おつる」)のことだろう。
「パーシー人」ヒンディー語で、「パールシー」「パールスィー」と音写される、インドに住むゾロアスター教の信者を指す語。]
歐・亞共に、獸畜が、人の子を育て上げた譚、多し。アタランタが牝鹿に、シグルドが牝熊に、ロムルスとレムスの双兒が牝狼に乳せられ、后稷《こうしよく》が牛・羊に養はれ、楚の若穀於擇《じやくこくおせん》が牝虎に育てられた抔だ(コックスの「民俗學入門」、二七五頁。スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」。「琅邪代醉編」七)。こんな例、今もなきに非ざれば、鷲や禿鷲が食ふ積りで捕へ去《さつ》た人の兒を、子細有《あつ》て食はず、其内、慈念を生じて、養ふ處を、人が見付け、救ふて、己れの子とするは、丸で無い事でないと惟《おも》ふ(一八八〇年板、ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下。大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節[やぶちゃん注:後の資料は「選集」のものを参考にして追補してある。])。此一事は、「鷲が、人間繁殖に關し、力あり。」と信念の唯一の源因たらぬ迄も、大《おほい》に之を强めたは爭ふべ可らず。
[やぶちゃん注:「アタランタ」ギリシア神話に登場する女性の英雄で、俊足の美貌の女狩人として知られるアタランテー(ラテン文字転写:Atalanta)であろうが、当該ウィキによれば、彼女は牝熊に乳を与えられている。そこに、また、『アタランテーは』『カリュドーンの王子』『メレアグロスと関係を持っていた。彼女は後にパルテノパイオスを産み』、『パルテニオン山に捨てた。このとき』、『テゲアー王アレオスの娘アウゲーもヘーラクレースの子を捨てており、牧人たちは』二『人の赤子を拾って養育し、前者をアタランテーが処女を装ってパルテニオン山に赤子を捨てたことからパルテノパイオスと名づけ、後者の子を牝鹿』(☜)『が養っていたことにちなんでテーレポスと名づけた』という話と熊楠は混同したものかも知れない。
「シグルド」不詳。ゲルマン神話に登場する戦士ジークフリート(ドイツ語: Siegfried)は古ノルド語では「シグルズ」(Sigurðr)であるが、彼のことか。しかし、彼が熊に乳を受けたという記述は、ネット上には見つからない。
「后稷」当該ウィキによれば、『伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は棄、号は稷。不窋の父。后稷はもともと棄』『(捨てられし者)という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。后稷の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという』。「史記」の「周本紀」に『よれば』、伝説の聖王『帝嚳』(こく)『の元妃(正妃)であった姜嫄』(きょうげん)『が、野に出て』、『巨人の足跡を踏んで妊娠し』、一『年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが』、『牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたが』、『たまたま山林に人出が多かったため』、『捨てられず、氷の上に捨てたが』、『飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。棄と名づけられた』。「山海経」の「大荒西経」に『よると、帝夋』(しゅん)『(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる』。『棄は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷』『の官をつとめ、邰』(たい)の地に『封ぜられて、后稷と号した』。「魏志」の「東夷伝」の「夫餘」には、『「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。その』後、『子を生んだ。王は、その子を溷』(こん)『(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水』(しえんすい)『までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで』、『橋をつくり、東明は渡ることができた。そこで魚鼈』(ぎょべつ)は、『ばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘』(紀元前一世紀から紀元後五世紀に満州北部(中国の東北部)に存在した国。「扶餘」とも書く。住民はツングース系の狩猟農耕民族で、一世紀から三世紀半ば頃までが全盛期で,東満州・北朝鮮一帯に発展したが、後、高句麗や鮮卑(せんぴ)に圧迫されて衰え、四九四年、勿吉(もつきつ)に滅ぼされた)『の地に都を置き、王となった」とある』。一方、「史記」巻四の「周本紀」には、『「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐』(ふ)『まんと欲す。之を踐むや、身』、『動き、孕める者の如し。居ること』、『期にして』、『子を生む。不祥なりと以為』(おも)い、『を隘巷』(あいこう:裏通り)『に棄つ。馬牛過る者』、『皆な』、『辟』(さ)『けて』、『踐まず。徙』(うつ)『して』、『之を林中に置く。適會』(たまたま)、『山林』、『人』、『多し。之を遷』(うつ)『して』、『渠中の冰上』(溝の中の氷が張ったその上)に『棄つ。飛鳥、其の翼を以て』、『之を覆薦』(ふくせん:覆って敷いてやること)『す。姜原』(きょうげん)『以て』、『神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め』、『之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」と』あって、『牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余』(「夫餘」と同じ)『と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した』「六度集経」にも『あることを指摘し、「此種の伝説の播敷」(はふ:広める)『も頗る広き者なることを知るべし」とする』とある。熊楠は「牛・羊に養はれ」たとするが、以上を読むに――鳥に養われた――とするのが、適切である。
「若穀於擇」「じゃくこくおたく」(現代仮名遣)と読んでおく。「擇」の字は不審だが、これは、春秋時代の楚の公族で宰相(令尹(れいいん))であった闘穀於菟(とう こくおと/とう こうおと 生没年不詳)のことである。ウィキの「闘穀於菟」によれば、は『姓は羋』(び)、『氏は闘、諱は穀於菟』(「穀」は「乳」の、「於菟」は「虎」の意)、『字は子文。楚の君主の若敖』(じゃくごう)『の子の闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相といわれる。以下、子文の名で記す』。『闘伯比が鄖子』(うんし)『の娘と密通して、子文が生まれた。娘は子文を雲夢沢』(うんむたく:注に『現在の洞庭湖の北に広がっていた沼沢地の名前。現在は上流からの堆積物により埋没し、江漢平原となっている』とある)『の中に捨てたが、狩りに出た鄖子が虎に育てられた』(☜)『子文を見つけ、娘が育てることを許したとされる』。『紀元前』六六四『年、令尹に抜擢されると、私財を投じて楚の財政を救った。成王は、貧乏で食いつなげなくなった子文のために何度か俸禄を増やそうとしたが、そのたびに子文が下野し、取り消すと戻ってきたので、遂には諦めたという。代わりに、子文が登朝するたびに』、『肉の干物一束と朝飯一籠が贈られ、この習慣は』、『のちに楚の令尹に受け継がれていくようになった』。『弟の闘子良の子の闘椒(子越)が生まれた際に』は、『「必ずこの子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、声は山犬や狼のようである。きっと我々、若敖氏に害をなすだろう」と言ったが、子良は聞き入れなかった』。『臨終の際には一族を集めて「子越が政治を執るようになったら、楚を離れて難を逃れるようにせよ」と遺言し、「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」と泣きながら、若敖氏の滅亡を予言した』。『子文の死後、子越は予言された』通り、『名君荘王に叛いて』、『若敖氏を滅亡させた。しかし、荘王は「あの子文の家系が途絶えたとあっては、私は人に善行を勧めることができなくなる」と言って、国外にいて』、『乱に加担しなかった一族の闘克黄に跡を継がせた』とある。
『コックスの「民俗學入門」、二七五頁』イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ。
『スミス「希﨟羅馬傳記辭彙」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」(Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology)。
「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の官吏張鼎思(ちょうていし)の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。
『ボールの「印度藪榛《そうしん》生活」、四五七頁以下』アイルランドの地質学者ヴァレンチン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)が一八八〇年にロンドンで刊行した ‘Jungle life in India’。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。狼に育てられた少年の話から入っている。
『大正三年正月『太陽』、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第四節』「青空文庫」の南方熊楠「十二支考 虎に関する史話と伝説民俗」(新字新仮名)の「(四)史話」が読み易いであろう。正規表現では、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第一巻 『十二支考 Ⅰ』(渋沢敬三編一九五一年乾元社刊)のここから当該部を視認出来る。]