佐々木喜善「聽耳草紙」 九三番 古屋の漏
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。
なお、底本では本篇の標題の通し番号が「九四番」となっているが、これは、「九三番」の誤りであるので、訂した。標題は本文のルビを参考にすれば、「ふるやのもり」である。]
九三番 古屋の漏 (其の一)
或る山里に一軒の百姓家があつた。其家では大變によい靑馬《あをうま》を一匹持つて居た。その靑馬を盜む氣になつて一人の馬喰(ばくらう)が宵のうちから厩桁(うまやげた)の上に忍び込んで匿(かく)れて居たし、又山の狼もその馬を取つて食ひたいと思つて厩の隅に忍び込んで匿れて居た。そして其家の爺婆の寢沈《ねしづ》まるのを待つて居た。
[やぶちゃん注:「靑馬」小学館「日本国語大辞典」によれば、『①青毛の馬。毛の色が黒く、青みを帯びた馬』とし、「日本書紀」を引用例とし、次いで、『②白馬。また、葦毛の馬。』(「葦毛」は馬の毛色の名で、栗毛(黄褐色)・青毛・鹿毛(かげ:明るい赤褐色から暗い赤褐色まで多様だが、長毛と四肢の下部は黒色を呈する)の毛色に、年齢につれて白い毛がまじってくるもの。とあり、これは、『③「あおうま(白馬)の節会(せちえ)」の略』或いは、その『節会に引き出され』る白『馬』を掲げ、そこでは、「万葉集」を引く。これについては、十『世紀中頃より漢字文献において「青馬」から「白馬」へと文字表記が統一される理由については、本居宣長、伴信友は馬自体が白馬に換えられたからであるというが、室町時代の』「江次第鈔」二の「正月」に『「七日節会〈略〉今貢二葦毛馬一也」とあり、後世においても』、『葦毛馬が使用されていたことが分かる。したがって毛色自体の変化というよりも、平安初期の』「田氏家集」下の「感喜勅賜白馬因上呈諸侍中」にも『「驄毛」』(そうげ:毛の色が黒く、青みを帯びた馬。)『の馬を「白馬」というように、灰色系統の色名範囲が』、『青から白に移行したことと、平安末期の』「年中行事秘抄」正月七日」に所引する『「十節」などに見える白馬に対する神聖視などから』見て、『意識的に「白馬」の文字表記を選択したものと考えられる』とある。なお、「おしらさま」と女性に纏わる民話の挿絵などでは、白馬が描かれることが圧倒的に多いようだが、これは「おしらさま」が馬の神である以前に蚕(かいこ)の神であることと関係すると私は思う。といって、白馬が有意に通常の農家に飼われていたというのは、ちょっと考え難いように思われ、私は頭の黒い「青毛」或いは「葦毛」を想起する。無論、老成したその色の馬で、白いものが混じっているものでも構わないけれども。]
此家の爺婆は每夜孫を抱寢しながら昔(ムカシ)噺を語つてきかせて居た。其晚も厩の壁隣りの寢所(ネツトコ)では先刻から爺婆の昔噺が始まつて居た。すると孫が怖(オツカナ)い話を聽かせろとせがみながら、この世の中で何が一番怖(オツカ)なかべと訊いた。爺樣はさればさこの世の中には怖ない物もたくさんあるけれども、其中でも人間では泥棒だべなと言つてきかせた。それを厩桁の上の馬喰が聽いてははアすると俺が人間の中では一番怖ない者だなと思つて笑つて居た。するとまた孫が獸《けもの》ではと訊くと、さうさな獸と言つても數多いが、其中でも一番怖いものはまず狼だべなと爺樣は言つた。それを厩隅《うまやすまこ》[やぶちゃん注:後の「其の三」の読みを採用した。]の狼が聽いて、ははアするとこの俺は獸の中では一番怖ないもんだなと思つて笑つて居た。するとまた孫はそれよりもそれよりもつともつと怖ない物は何だべと言ふと、爺婆は口を揃へて、其は雨漏(アマモリ)さと言つた。さあそれを聽いた厩桁の上の馬喰と厩隅の狼とは一緖に、あれそんだら俺より怖ない物が居るのか、其雨漏[やぶちゃん注:ここ以降は「アマモリ」と表記する方が自然で効果的である。]と謂ふもんはどんた[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版もママであるから、遠野方言か。]ものだべと思つてがくがくと顫《ふる》へて居た。そして怖ないと思つて、しつくもつく(逡巡)して居る拍子に馬喰は厩桁を踏外して厩隅にどツと落ちた。落ちることもよいが其所に蹲《うづ》くつてわだ顫つて居た[やぶちゃん注:総てママ。同前。]狼の背の上に落ちた。そしてあれアこれだな雨漏と云ふ化物はと思つた。厩隅の狼はまた狼で、氣無しな[やぶちゃん注:油断しているさま、無防備なさまであろう。]所へいきなり背中の上へ馬喰に落ちて來られたので、魂消《たまげ》て、あれアこれこそ雨漏だと思つてやにわに厩から逃げ出した。そして雨漏を體《からだ》から振落《ふりおと》さうと身悶《みもだ》えをした。背上(セノヘ)の馬喰は馬喰で、今これに振落《ふりおと》されたらことだ、[やぶちゃん注:底本には読点なし。「ちくま版」で補った。]生命《いのち》がなくなる。これが死ぬか俺が死ぬかと思つて一生懸命に狼の首玉に縋《すが》りついた。さうすればするほど狼は大變《たいへん》がつて死物狂《しにものぐるひ》になつて駈け出した。そして野を越え山を越えずつとずつと遠くの方へ駈《か》けて行つた。そのうちに夜が明けた。
[やぶちゃん注:この時点で盗人の馬喰は自分が乗っているのが、「一番怖(オツカ)な」いアマモリという化け物と認識していることは、以下の段で明らかであるが、そういった意味でも。「あまもり」を漢字表記してしまうのは、読む民話としては、やはり、上手くないことは明白である。]
夜が明けてアタリが明るくなつて見ると、奧山の奧果(オツパ)[やぶちゃん注:奥山のそのどん詰まりの深山の果て。]であつた。馬喰は雨漏と云ふ物はどんな物かと思つて見ると、それは狼に似た化物《ばけもの》であつた。何してもこれは大變なことになつたと思つて居るうちに、大木《たいぼく》の枝が垂下《たれさが》つてゐる所の下をそれが駈け通《とほ》つた。この時だと思つて其枝に手なぐり着いて木の上に這ひ上つた。それとも知らずに狼は夢中になつて何所《どこ》までも何所までも盲滅法《めくらめつぽふ》に駈けて行つた。
狼はやつと自分の穴まで逃げて來た。そして心を落着けて見ると背中の上の雨漏はいつの間にか居なくなつて居た。そこで漸《や》つと元氣づいて其所邊(ソコラ)の獸仲間の所へ行つた。まづ第一番に虎の所へ行つて、ざいざいもらい殿はいたか、俺は今ひどい目に遭つて來た。この世の中には何よりも怖ない雨漏と謂ふものがゐる。俺はそれに背中に乘られて、昨夜から今まで駈け通しに逃げてやつと命だけは助《たすか》つて穴まで戾つて來た。とても彼奴《きやつ》の居るうちは俺は安心して此山に棲んで居られない。仇討《かたきうち》をしたいからなぞにかして力を貸してくれないかと言つた。虎はそれを聽いて、お前がそんなに狼狽《あわて》て居る程怖しい物では本統[やぶちゃん注:ママ。]に怖かない化物だべ。だが俺が行つたら最後取つて喰ひ殺して見せると言つて、巢から出て雨漏の居る所を探し步いてゐた。その途中で山猿が木の上に居て、虎どん狼どん何所さ行くと聲をかけた。虎と狼は、今俺達は雨漏といふ此の世の中で一番怖かない化物を退治に行く所だが、お前は木の枝の上にばかり居るから、そんな者を見かけなかつたかと訊いた。すると猿は大笑ひをして、さう言へば狼どんが今朝方《けさがた》背中に乘せて來た者なら、ほら其所の大木の枝の上に坐つて居る。あれが此の世の中で一番怖かない化物だべか、あんな者なら俺一人ででも生捕《いけど》つて見せべかと言つた。猿はあれは人間だと謂ふ事をよく知つて居た。虎と狼とは猿にさう言われて、むこふの大木の枝の上を見るとほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に人間に似た雨漏が居て此方《こちら》を見て居た。そこで驚いて虎と狼とは一緖にうわううと吠へた[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「ざいざい」「あらあら」の意か。
「もらい」以前に本文で『モラヒ(朋輩)』と既出している。]
狼の背からやつとのがれて木に這上《はひあが》り、怖かなくてへこめつて居た馬喰は、今また目の前に狼ばかりか虎までが一緖にやつて來て、自分を見上げて、うわううと唸《うな》るので、これは大變だと思つてその大木の空洞穴(ウドアナ)へ入つて匿れた。すると其所へ猿と虎と狼とが來て、此所に匿れた、この空洞穴の中さ入つて匿れた、此中の雨漏を退治した者が明日《あした》から獸の中の一番の大將になるこつたと約束した[やぶちゃん注:この言上げは虎であろう。]。そして氣早《きばや》の猿はあれは人間だつけと謂ふことを覺えて居るものだから、第一番に自分の尻尾《しつぽ》を穴の中に突込《つつこ》んで、これや雨漏や居たか、居たかと言つて搔き𢌞した。馬喰も斯《か》うなつては命懸けだから猿の尻尾をおさへてうんと踏張《ふんば》つた。猿はこれはことだと思つて、穴の外でこれもうんと踏張つた。ところがあんまり力《りき》んだものだから尻尾が臀(ケツ)からぼツきりと引拔(ヒンヌ)けた。猿はそのはづみを食《く》つて前にサラツイテ(轉倒して)土で顏を摺りむいた。それであの獸は今でも尻尾が無く、顏はあんなに眞赤に赤だくれになつて齒をむき出すのだと謂ふことさ。
その態(ザマ)を見て狼はこんどは俺が代つて遣つて見ると言つて、穴の中に陰莖を突き込んでがらがら搔き𢌞した。中に居た馬喰はまたかと思つて、それを引摑(ヒツツカ)んでぐつと力を入れて引張《ひつぱ》つた。狼は魂消《たまげ》てこれは大變だと思つて逃げ出さうとして力《りき》むと、陰莖がぶちりと根元から引拔けてしまつた。そしておうおうと痛がつて泣き叫んだ。だから今でも狼の鳴聲はあんなに高いのだと謂ふことさ。
虎はそれを見て、俺はア迚《とて》も叶はぬから止めた、そしてこんな强い怖ない雨漏に居られては俺は日本が厭(ヤン)たから唐(カラ)さ往《ゆ》くと言つて、海へ入つて韓《から》の國へ渡つて行つた。だから虎はそれから日本に居なくなつたとさ。
狼と猿も虎の言ふ事はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]だ、俺達も唐さ往きたいと謂つて海に入つたが、傷に潮水《しほみづ》がしみて痛くて堪《たま》らなかつたので、また陸へ引返した。雨漏は怖ないけれども仕方がないから日本に居ることになつたとさ。
(大正九年の冬《ふゆ》村《むら》の原樂タケヨ殿の話。
自分の古い記憶。)
[やぶちゃん注:「原樂」この姓はネットで姓名・苗字サイトでも登録されていないし、「原楽 姓 土淵 遠野」で調べても、かかってこないので、読み不詳。「はららく」と一応、読んでおく。]
(其の二)
昔、野原の中に一軒家があつた。其家には爺樣と婆樣と娘と三人だけで住んで居た。或大雨の降る夜、山の虎(トラ)が何か喰ふものは無いかと、のそりのそり其一軒家へ來た。
其時爺樣が、それそれ古屋の漏《もり》が來た。そらまた來たと言つた。それは家が古い爲に雨が漏つて來たと言つたのであつた。娘が古屋の漏はそんなに怖(オツカ)ないものかと訊ねると、古屋の漏が一番怖ないと答へた。そんだらオイノ(狼)よりも怖ないか、オイノよりも怖ない。それでは山の虎よりも怖ないか、虎よりも怖ないと問答した。
それを聽いた虎は、それでは古屋のモリと云ふ物は、俺よりも强い物だなア、これは日本に斯うしては居《ゐ》られないと云つてカラヘ渡つた。
(栗橋村地方の昔噺、大正十四年二月下旬菊池一雄氏
御報告の七。)
[やぶちゃん注:「栗橋村」岩手県上閉伊郡にあった村。現在の釜石市栗林町・橋野町(南東に接して栗林町がある)に相当する(グーグル・マップ・データ航空写真)。旧村域の大部分は山間部である。]
(其の三)
爺樣と婆樣があつた。夜寢て居ると、厩のスマコ(隅)へ唐土(トウド)の虎がやつて來て、
アナくぐツてチヨコチヨコ
立ちどまつてソワカ
と唄ひながらスカマ(蹲踞)ツてゐた[やぶちゃん注:「うずくまっていた・しゃがんでいた」。]。家の中では寢物語に、爺樣が、世の中で一番おツかねアものは何だベアと尋ねた。世の中で一番おツかねアものは唐土の虎だべやと婆樣が答へた。すると爺樣が、いやいやフルヤ(古家)のモルヤ(漏家)が一番おツかねアと婆樣に言つてきかせた。それを聞いた唐土の虎は、ハテ俺よりも怖ないものが居るのかと驚いて、厩から馬を曳き出して、それに乘つて逃げ出した。やがて夜明方になつて、あたりが白くなつたので、馬は初めて自分の背に乘つてゐるのが唐土の虎だといふことに氣がついて、跳ねあがつた。そこで虎は落馬して、そのまゝ川を一跨(マタ)ぎに跳越《とびこ》して、山に入つて隱れてしまつた。それだから唐土の虎よりも古家の雨漏りの方が怖(オツカナ)いのだと謂ふ。
(遠野鄕地方の話。松田龜太郞氏の御報告の分。
大正十一年冬の頃一六。大正十一年冬の頃。)
[やぶちゃん注:附記の最後のダブりらしきものは、ママ。「ちくま文庫」版では最後のそれは除去されてある。]
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