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« 佐々木喜善「聽耳草紙」 七四番 猿の餅搗き(二話) | トップページ | 「教訓百物語」下卷(その3 「ろくろ首」の正体) »

2023/05/13

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート タウボシは唐乾飯也

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は、聞き伝えや、引用やらが、あまりにもごちゃごちゃしてベタで続いているので、特異的に、会話記号で切って、多量に段落・改行をテツテ的に設け、すっきりと読めるようにした。

 標題の中の「唐乾飯」は、本文では「たう」「ほしひ」とルビしている(歴史的仮名遣の正しい方を繋げて示した)。所謂、蒸して乾燥させた保存用の飯で、湯や水に浸して食べる。古くから旅の携行食として知られたそれで、「ほしいひ」の「い」を略した訓である。また、標題の「タウボシ」は現代仮名遣で「トウボシ」で、「唐法師」であり、これは「大唐米」(たいたうまい(ごめ):現代仮名遣「たいとうまい(ごめ)」)で、野生の稲(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa )の殆んどを占める「赤米」の内、中世に栽培され始めた稲の品種の一種を指す。但し、現代では「赤米」は、当該ウィキによれば、『イネの栽培品種のうち、玄米の種皮または果皮の少なくとも一方』(主に種皮)『にタンニン系の赤色素を含む品種を指す』とあり、また近年、『古代米』=『赤米とされることもあるが』、これは実は『科学的根拠はない』とある(不学にも私も今の今までそう思っていた)。また、『黒米を赤米に含める場合もある』とあり、『民俗学者の柳田國男は、赤飯の起源は赤米であると主張している』ともあった。「性質・特徴」の項を見ると、『「そのままではとても食べられない」といわれるほど味に難点がある』。『原因としては普通品種と比べてアミロースやタンパク質が多く含まれることから粘りがないこと、色素成分であるタンニンが渋みをもつこと、赤みを残すために精白を抑えざるをえないことが考えられる』。『文献上でも、「殆んど下咽に堪へず。蓋し稲米の最悪の者なり」などと記述されているほどである』。『赤米の味は、もち米を混ぜることで改善するとされる』。『赤米は雑穀米として白米や他の雑穀と共に飯にしたり、酒』『や菓子』、『麺類』『などに加工される。酒については、赤米をはじめとする有色米を使って着色酒を製造する方法が』一九八〇『年代に日本で考案され、特許を取得している』。『蒸した赤米を酵素剤で糖化した後で発酵させる方法でワインの製造が試みられたこともあるが、これは十分に色が出ず』、『失敗している』とある。なお、ここに赤米酒を一九八〇年代の考案とあるが、私は一九七五年年初に新潟大学文学部を受験(不合格)したが、その帰り、新潟駅の売店に赤米を用いた赤い酒が販売されているのを確かに見たので、それよりも前である。『赤米は脱粒しやすく』、『越冬性も強いため、他の圃場』(ほじょう:農作物を栽培するための場所。水田や畑・樹園・牧草地等を包括する語)『に混入することがしばしばある。普通米を栽培するにあたっては、赤米などの有色米が混入すると』、『米の検査等級が下がってしまう』『ため』、『直播き栽培を採用する地域では歴史的に排除・駆除の対象となっている』とあった。]

 

     タウボシは唐乾飯也 (大正四年八月『鄕土硏究』第三卷第六號)

 

 田邊町に住む老農輩、言《いは》く、

「タイトウと云ふ米は、尋常、水田に植《うゑ》る稻が、粒、細長く、脆くて、粘り氣、乏しく、變成《へんせい》したのだ。落散《おちち》り易く、味旨(うま)からぬ故、種を收むる時、注意して、之を除くが、二、三年もすると、又、變性して、多少のタイトウを生ずる。粳(うるしね[やぶちゃん注:ママ。「粳米」(うるちまい)のこと。])に限らず、糯(もちごめ)にも有り。粒の外面、恰《あた》かも「草綿種子(わただね)」を食ふ蟲程、赤いが、中は、白い。此《これ》は早稻(わせ)に多い。晚種(おくて)にも生ずるが、其は、多くは熟せず、綠(あを)いなりに、枯了(かれしま)ひ、若《もし》くは、丸《まる》で空穀(からもみ)を留《とど》むるのみ。偶々、熟すれば、其粒、赤からずして、白い。タイトウ、多く出來る年と、少ない年と、ある。」

[やぶちゃん注:『「草綿種子(わただね)」を食ふ蟲程、赤い』赤ダニ。鋏角亜門クモ綱ダニ目ケダニ亜目ハダニ上科ハダニ科 Tetranychidaeや、ハダニ上科タカラダニ科 Erythraeidaeの赤色で目立つダニの総俗称。昆虫やワタ(アオイ目アオイ科ワタ属 Gossypium )の専門家なら種同定出来るのであろうが、私は陸生節足動物は、とんと苦手なので判らぬ。]

 一つの穗に、尋常の粒と、タイトウの粒と、淆(まぢ)り生ずるので、タイトウは、病的變成物と知れる。

「詰《つま》らぬ物故《ゆゑ》、心配して、早く拔き去らんとするも、苗の時は、判らず。愈々、穗が熟して、始めて別る故、種を收むる中に、之を容れぬ樣、腐心する。」

と(『鄕土硏究』第一卷第四號二五二頁、太田君、答文、參照。)。

[やぶちゃん注:「太田君」「選集」に編者割注があり、太田稔という人物であるが、不詳。]

 又、言く、

「件《くだん》の病的變成と別に、又、タイトウと呼ぶ稻の、特種、有り。五十年程前、田邊へ傳はつたのを、沙地へ種《う》ゑたが、水を要する事、甚《はなはだ》しいので、收穫、乏しく、追々、廢止と成つた。此種のタイトウの粒、萬端病的變成のタイトウの如しだが、其粒が、他よりも、一層、長かつた。」

と。

[やぶちゃん注:沙地底本は「沙池」だが、「選集」のそれを示した。「池」なら、以下の続き具合が不審になるからである。]

 又、田邊から二里許り距《へだた》つた「鳥の巢」と云ふ濱地の人、言く、

「タイトウは、前年迄、彼《かの》地の水田に種ゑた。其味、乏しいが、飯に炊《ひさ》ぐと殖《ふえ》るので、吝嗇《けち》な輩《やから》、頗る、之れを重んじ、態《わざ》と多く種ゑたが、追々、廢止と成つた。」

と。

[やぶちゃん注:『「鳥の巢」と云ふ濱地』南方熊楠ゆかりの、田辺湾の、かの神島(かしま)を望む「鳥の巣海岸」(グーグル・マップ・データ)。]

 されば、タイトウに、本邦で、每年、多少、變成するのと、外來の特種と、色も、赤と白と、性《しやう》も、粳と糯と、田作と畑作と、有るらしい。

 扠《さて》、予が、「犬筑波」の句を孫引《まごびき》して、

『大唐米、卽ち、トボシの事なるべし。唐《もろこし》より渡り、乾飯(ほしひ)にし、其を、「こがし」にせし故、「唐ぼしひ」と云《いひ》しならん。』

と、『鄕土硏究』第一卷第十號六三七頁に云ひしを、柳田君は、

『稻を「乾飯」と云ふのが、「家猪(ぶた)」を「ハム」と呼ぶと同樣、不自然だ。』

と難ぜられた。

[やぶちゃん注:『予が、「犬筑波」の句を孫引《まごびき》して、『大唐米、卽ち、トボシの事なるべし。……』は「選集」に編者割注があり、『「紙上問答」答(一)』とあった。調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』第六巻(文集第二・渋沢敬三 一九五二年乾元社)のここで当該記事が総て視認出来る。そこで南方が引いた「犬筑波集」(室町後期の俳諧集。一巻。山崎宗鑑編。天文元(一五三二)年頃の成立。宗鑑・宗祇・宗長などの句三百七十句を収める。卑俗で滑稽な表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する機運を作ったもので、本邦初の俳諧撰集である)から引いた句だけを示すと、「日本の者の口の廣さよ」と「大唐をこがしにしてや飮ぬらん」である。なお、これを探すうちに、国立国会図書館デジタルコレクションの同全集の第十巻(書簡第三)のここに、南方熊楠の明治四四(一九一一)年十月二十八日夜十一時筆の柳田國男宛書簡を見つけ、そこに「あかごめ」=「唐人米(とうじんまい)」(ルビはママ)についての六行に亙る記載があるのを見つけたので、そちらも参照されたい。

「『鄕土硏究』第一卷第十號」は前の最初のリンク先の記事末に大正二(一九一三)年十二月発行のクレジットがある)。

『柳田君は、『稻を「乾飯」と云ふのが、「家猪(ぶた)」を「ハム」と呼ぶと同樣、不自然だ。』と難ぜられた』これは、柳田國男の「大唐田又は唐干田と云ふ地名」の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの『定本柳田国男集』第二十巻(一九六二年筑摩書房刊)のここで視認出来る。これは『郷土研究』(第二巻第五号)大正三年七月発行に初出したものである。柳田國男が、この如何にもいやらしい言い方で批判したのは、熊楠のそれから、半年も経ってからである。しかも、柳田は南方熊楠がこういう言い方をされたら、キレるであろうことを承知でやっているのである。こういうところが、私がインキ臭い、人を小馬鹿にする柳田國男に対して、強い生理的嫌悪感を感ずる一面である。

 物の諸部分や諸效用の中に就て、一を採つて、其物の名とした例は、羚羊《れいよう》を褥(にく)、綿羊を羅紗綿(らしやめん)、玳瑁龜(たいまいがめ)を鼈甲(べつかう)、その他、多々有るべく、「姓氏錄《しやうじろく》」や「古語拾遺」に、秦(はだ)氏の祖が獻じた絹帛(きぬ)が、軟らかで、肌膚(はだ)を溫煖(あたた)めたにめでゝ、仁德帝が、彼に「波多公(はだのきみ)」の姓を賜ひ、其より、「秦(しん)」を「ハダ」と訓《よ》むと出《で》るを、本居宣長は、

『若し、此等の義ならば、「溫か」・「軟《やはら》か」の言《いひ》を取つてこそ、名づくべけれ、「肌」と云ふ言を取るべき樣、なし。』

と難じた。

[やぶちゃん注:「羚羊」獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属カモシカ亜属ニホンカモシカ Capricornis crispus 。日本固有種。京都府以東の本州・四国・九州(大分県・熊本県・宮崎県)に分布する。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」を参照されたい。

「褥(にく)」原義は、古く「毛の敷物・しとね」の意であるが、江戸時代には、皮が敷物に適するところからカモシカの別名でもあった。

「綿羊」哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries (所謂、家畜化された綿羊(メンヨウ))及びヒツジ属に属する種群。但し、はっきりとは断定は出来ないが、日本列島には、家畜としてのヒツジは存在していなかったとも考えられている。江戸時代になって、中国から移入して飼育を試みたことはあるが、失敗しているようで、近世以前の生体個体の飼養記載は、古代以降、極めて乏しい。

「羅紗綿(らしやめん)」ここにある通り(「羅紗緬」とも書く)とは、本来は「綿羊」(ヒツジ)のことを指す。サイト「JBpress」の「横浜開港・時代に翻弄された幕府公認・ラシャメンとは何か」によれば、『西洋の船乗りが食料としての目的と、性欲の解消のため、性交の敵娼(あいかた)として羊を船に載せていたことが』、『羅紗緬の呼び方の由来とされる』とあり、『それが転じて、外国人を相手にする娼婦や妾を』、『当時の人』が『綿羊娘と揶揄した』とあって、『洋妾』(らしゃめん:この忌まわしい差別語の漢字表記の方が知られる)『は長崎には』、幕末には、『すでに存在していた』とし、慶應四(一八六八)年の『中外新聞』に、『「外国人の妾を俗にラシャメンと称す」とある』と記されてある。

「玳瑁龜(たいまいがめ)」潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata 。「鼈甲」細工に用いるのは、本種を最上とする。詳しい博物誌や、理不尽なワシントン条約による鼈甲細工(座って作業することから、多くの身体障碍を持った方が古くから名工としておられた。その仕事を同条約は奪ったのである)の危機に対する怒りを込めた私の若書きの注を、是非、サイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「たいまい 瑇瑁」で読まれたい。

「姓氏錄」御覧の通り、現代仮名遣で「しょうじろく」と読み、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」のこと。弘仁六(八一五)年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑。

「古語拾遺」官人斎部広成(いんべのひろなり 生没年未詳)が大同二(八〇七)年に平城天皇の朝儀に関する召問に応えて編纂した神道資料。

『仁德帝が、彼に「波多公(はだのきみ)」の姓を賜ひ』「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「はたうじ/秦氏」によれば、『西日本に広く分布する秦人の伴造(とものみやつこ)で、法然の母もその一族』。「日本書紀」には『応神一四年(二八三)弓月君(ゆづきのきみ)が率いて百済から渡来したとするが、一般には機織(はたおり)や農耕に従事した新羅系の人びとといわれる。仁徳天皇の時代(三一三—三九九)に機織(はた)(秦)の姓を賜り、一族の一部が美作国久米郡錦織郷(にしこりごう)(岡山県久米郡美咲町)に留まった。錦織神社は秦氏の氏神で、美作の秦氏は秦豊永の子孫が続いた。法然の母を秦氏とする伝記の初出は信瑞の』「黒谷上人伝」と『推定されている』とあった。]

 如何にも不自然至極の命名ながら、右の書共《ども》に斯《かか》る語原を載せたのを見ると、假令《たとひ》、仁德帝が、斯る不自然な命名を、なし賜はざりしにせよ、二書の編者も、其頃の人も、肌を快くする絹帛を獻じた人を「ハダ氏」もて稱(なづ)くるを異常の事と思はず、隨つて、自分等《ら》も其樣な不自然な命名を、多少、行なひかねなんだとてふ事が判る。東西共、世俗は精確な論理を推定《おしさだ》めて後《のち》、始めて物に名づくるに限らぬ。既に柳田君自身も、「聖人」を「ヒジリ」(「日者(につしや)」の義)と訓(よ)んだ。甚だ不自然ながら、然も、其理有る徑路(みちすぢ)を示されたに、吾輩、感服し居るでは無いか(第二卷第六號三二七頁、第三卷第二號一〇三頁參照)。

 されば、乾飯を作るに、恰好な一種の稻に、「乾飯《ほしゐ》」もて、名《なづ》くるは、俗人から見て、何の不都合、成し得可らざる事に、非ず。

[やぶちゃん注:『柳田君自身も、「聖人」を「ヒジリ」(「日者(につしや)」の義)と訓(よ)んだ』これは、先に電子化した「柳田國男 鉢叩きと其杖」を含む連載の直前の一章「聖と云ふ部落」を指す。初出は『郷土研究』大正三(一九一四)年八月初出で、後の著作集では「毛坊主考」の一篇として収録されている。当該の柳田の論考は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本登録」で見られる「定本柳田国男集」第九巻(一九六二年筑摩書房刊)のここから視認出来るので見られたい。また、先行する『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート ヒジリと云ふ語』も見られたい。]

 「乾飯」てふ物、近時、頗る不必要の物で、予の妻子は知らず。予も、所謂、「道明寺乾飯《だうみやうじほしいひ》」を、夏日、慰みに食ふてより、三十五年も、見た事無く、どんな物か、全く忘れ了《をは》つて、一向、不足を感ぜぬが、往昔(むかし)、和漢とも、軍陣や旅行に頗る乾飯を重んじ、多く製造したは、「淵鑑類函」三八九「糗糒」(乃《すなは》ち、「乾飯」)の條、又「一話一言」十三に「小宮山謙亭筆記」から、『奧州は大國にて、國中《くになか》、一揆起《おこ》る事、昔は度々《たびたび》也。官軍を遣はし、又、國主、郡主、一揆の黨を鎭《しづむ》るに、兵粮《ひやうらう》、不足無き樣に糒(ほしひ)を詰(つめ)たり。其風、殘りて、今に、仙臺の糒、名物の樣に成《なり》し也。』と引《ひい》たので知れる。其程、乾飯、大必要の世に、大唐米(だいたうまい)が入り來つて、其製造に適し居《を》つた故、特に之を「唐乾飯(とうぼしひ[やぶちゃん注:「とう」はママ。])」と呼んだは、田邊で、時代も姓名も傳はらぬ一人の鍛工(かぢや)が、骨を喉に立てて死んだ魚を、「イサギ」と呼ぶよりは、專ら、「カジヤコロシ」で通用し居るよりも、遙かに自然の成行(なりゆき)と惟《おも》ふ。

[やぶちゃん注:「道明寺乾飯」「道明寺糒」ともかく。小学館「日本国語大辞典」によれば、『大阪府藤井寺市の道明寺で作られる乾飯。糯米(もちごめ)を蒸して』、『天日に干したもので、水に浸したり』、『熱湯を注いでやわらかくしたりして食べる。かつて、道明寺で天満宮に供えた饌飯』(せんぱん)『のお下がりを』、『乾燥貯蔵したことに』始まるとされ、『軍用、旅行用に貯蔵食品として重んじられた』とある。

『「淵鑑類函」三八九「糗糒」(乃ち、「乾飯」)の條』「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により、張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍。その当該部は「漢籍リポジトリ」にあるこちらの当該巻[394-20a]を見られたい。

「一話一言」大田南畝の随筆で、安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆。全五十六巻であるが、内、六巻は欠。歴史・風俗・自他の文事についての、自己の見聞と、他書からの抄録を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ下段末から)。

「小宮山謙亭筆記」太宰春台の門人。将軍徳川吉宗の命を受けて、検地に関する書物「正生録」を書き、また、佐倉小金(千葉県佐倉市)の開墾によって賞せられるなど、農政・経済分野の専門家として活躍した江戸中期の儒者で幕臣の小宮山昌世(まさよ)の書いた有職故実書。謙亭は彼の号。

『「イサギ」と呼ぶよりは、專ら、「カジヤコロシ」で通用し居る』「イサギ」は条鰭綱スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum の異名。東京でも流通名で「イサキ」と並んで「イサギ」も普通に使われている。私の「大和本草卷之十三 魚之下 イサキ」を見られたいが、そこで引いた引用にも、南紀での呼称「カジヤゴロシ」(鍛冶屋殺し)は、イサキの骨が非常に硬く、骨が喉に刺さって死んだ鍛冶屋がいたことから、その名が付いたと云われる、としっかり記されてある。 ]

 大唐米に、赤、白、二態あることは、白井博士すでに言ひ(『鄕土硏究』第二卷第五號二八四頁)、予も前文に述《のべ》置いたが、槪して、大唐米は、赤いが、普通だつた證據は、元和《げんな》九年に成つた「醒睡笑」卷六に、『貧々(ひんひん)と世をふる僧の思《おもひ》に堪へかね、兒(ちご)を請じ、大唐米の飯《いひ》を出《いだ》せり。「是は珍しき物や」抔(など)と、ほむる人も有りけり。亭坊(ていばう)の云はるゝ樣(やう)、「せめての御馳走(ごちそう)に米を染(そ)めさせたる。」と、あれば、彼《かの》兒(ちご)、箸を持直《みちなほ》し、「さうかして、『大唐めし』のやうな。」と。』。大唐米の飯を「大唐飯(だいたうめし)」と云ふたから、推して、「大唐干飯(だいたうぼしひ)」と云ふ名も有つたことゝ知る。

[やぶちゃん注:「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。

「元和九年」一六二三年。

『「醒睡笑」卷六に、『貧々(ひんひん)と世をふる僧の……』「醒睡笑」(せいすいしょう)は咄本(はなしぼん)笑話集。全八巻。安楽庵策伝作。戦国末期から近世初期、お伽衆によって語られてきた笑い話を中心として、四十二項に分類し、集大成したもの。当時の社会や時代風潮を反映した話が多く、後代の落語や咄本などに大きな影響を与えた。寛永五(一六二八)年に京都所司代板倉重宗に献呈されている。この「卷六」の前半は総標題を「稚兒の噂」とあることから判る通り、僧坊の同性愛の対象となった稚児絡みの話がずらりと並ぶ。以上は、当該話の全文で、カットはない。国立国会図書館デジタルコレクションの『近代日本文学大系』第二十二巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)の当該部(右ページ終りから四行目からの三行)をリンクさせておく。所持する鈴木棠三校注の岩波文庫版の注には、「大唐米」を『赤米。古く栽培されていた粗悪な品種』とする。]

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