「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート じようりきじようまん
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]
じようりきじようまん (大正四年五月『鄕土硏究』第三卷第三號)
「じようりきじようまん、にたんところはおさごいごいよ、」云々と、草履隱《ざうりかく》しの戯れする時、田邊の小兒が唱ふる由、既に「一極《いちきめ》の言葉」の條に述べたが、全體、何のことか分らぬ。
[やぶちゃん注:「草履隱し」子どもの遊びで、それに附帯した鬼を決めるための歌である。「鳥取県立博物館」公式サイト内の「鳥取県の民俗行事等」の「わらべ歌」の「草履隠しクーネンボ(履物隠し歌)鳥取市鹿野町鹿野」に、『この歌の遊び方は、まず全員が履物の片方を差し出して一列に並べ、その上を親が詞章に合わせて順番に指差してゆく。歌の終わりに当たった履物の持ち主は、その瞬間に鬼と化し、履物を隠す隠し鬼へと移行する。こういった決まりごとのもとに繰り返し遊ぶのである。鳥取県下でもこの遊びは親しまれていたようだ。詞章もだいたい同じだった。』とあって、昭和三九(一九六四)年八月に聴取した西部の日野郡江府町御机での歌詞が示されてある。なお、歌詞の最終行には、続けて、『伝承者』とあって、明治二六(一八九三)年生まれの方とする注記がある。採取地は鳥取市鹿野町(しかのちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)とあって、録音された当時の音声もリンク先で聴くことが出来る。
《引用開始》
草履隠しクーネンボ
橋の下のネズミが草履をくわえて チュッチュッチュッ
チュッチュク饅頭はだれが食た
だれも食わないわしが食た
表の看板三味線屋
さあさあ 引いたり引いたり
《引用終了》
また、別の日野郡江府町(こうふちょう)からの採取の歌詞も載る。こちらも同じ場所に『伝承者』が記され、昭和三二(一九五七)年生まれ(私と同い年である)とある。
《引用開始》
草履隠しチューレンボ
橋の下の子ネズミが草履をくわえて チュッチュッチュ
チュッチュク饅頭はだれが食た
だれも食わないわしが食た
表の看板三味線だ 裏から回って三軒目
《引用終了》
最後の歌詞が後者では変わっているが、これは『鳥取市の方が元だったと考えられ、日野郡江府町の方が変化したものだろう』とあった。
なお、昔野遊人(むかしのゆうと)氏のサイト「昔の遊び」の「くつかくし」に、八種の歌詞のヴァリエーション(一部は部分)が示されているので、参照されたい。
さらに、これは是非読んで戴きたいのだが、「京都産業大学」公式サイト内の「乳幼児発達研究所『はらっぱ』一六一号」の灘本昌久氏の「わらべ歌と差別」(本文メインの最初の標題が『「ぞうり隠しの歌」は差別の歌か』となっている)は、本歌詞について、非常に興味深い事実(事件)が語られてあり、灘本氏の見解には強く共感が持てた。
「一極の言葉」『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十三」』の冒頭にある「〇一極めの言葉」を指す(「一極め」は「いちきめ」と私は読みを確定した。その根拠もそちらの注で示してある。ここでも、その読みを添えた)。そちらを、まず、読まれたい。]
「鹽尻」(帝國書院刊本)六六卷、二五三頁に、『江州クズ川の嶽』云々、『ひゑの山の奧の院といふ。』中略、『山門山住の行者、六月會、十月會に、入峯する靈所なり。叡山より北の方十里許りの道程也。前行《ぜんぎやう》一百曰、無言にして叡山の諸堂靈所を每日廻りて拜す。其道七里半と云ふ。入峯《にふぶ》して、七日、斷食し、行を滿《みた》す。此地に、淨鬼・淨滿とて、民、有り。和州大峯《おほみね》の前鬼《ぜんき》・後鬼《ごき》が如し。入峯の修驗を導くとぞ。』と出づ。
[やぶちゃん注:「鹽尻」江戸中期の随筆。天野信景(さだかげ)著。現在の通行本は門人堀田六林(ほったりくりん)が考訂した百巻本で、原書は一千巻近くあったというされるが、多くは散逸した。大部であり、且つ、近世随筆の中では時代が早いことから、世に広く知られる。信景は名古屋藩士で、本書は、元禄(一六八八年~一七〇四年)から享保(一七一六年~一七三六年)にかけて、彼が諸書から記事を抜粋し、自身の意見を記したもの。対象事物は歴史・伝記・地誌・言語・文学・制度・宗教・芸能・自然・教育・風俗など、多岐に亙っており、挿絵もある。国立国会図書館デジタルコレクションで室松岩雄校訂(一九〇七年帝国書院刊)の「鹽尻 下」で当該箇所が読める。ここの左ページ上段後方の「○江州葛川の嶽……」以下である。
「江州クズ川の嶽」所謂、延暦寺の開創である最澄の弟子の円仁のその弟子である相応和尚が始めたとされる過酷な「百日回峰行(ぎょう)」「千日回峰行」が行われる比良山地内にある回峰行の行程の一つ。例えば、「葛川越」がここにある(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。その参籠断食修行である「葛川(かつらがわ)参籠」が行われる葛川明王院(正式名称は阿都山葛川寺(あとさんかっせんじ)息障(そくしょう)明王院)はここ。
「淨鬼・淨滿」前注でも参考にした株式会社タンタカのサイト「不思議のチカラ」の『日本の鬼伝説の中心地「大江山」と比叡山の鬼の子孫のお話』によれば、そ『の葛川参籠の行者を現代にあっても山へと先導するのが、鬼の子孫と言われている人なので』あるとし、『相応和尚は山々を修行で巡るうちに、この葛川の地が霊気に満ちていると感じ、この場所で修行をしたいと思い』、『そこで和尚は、この土地神である「思古淵神(しこぶちしん)」という水神にかけあい、修行地を与えられ』、『思古淵神は眷属(神の使者、家来)である「浄鬼」と「浄満」のふたりをつかわし、相応和尚はそのふたりの導きで比良山中の三の滝に行き、七日間の断食修行を行』ったとし、その『満願の日、相応和尚は不動明王の存在を感じ、三の滝に飛び込』んだとあり、『不動明王と感得した姿は桂の古木であり、相応和尚は』、『その古木から千手観音像を刻み』、『安置して葛川明王院とし』たとある。そして、『この』時、『相応和尚を先導した「浄鬼(常喜)」と「浄満(常満)」が水神の家来の鬼と言われていて、その子孫が葛野常喜家と葛野常満家という二家の信徒総代として』、『現在にも続いており、平安時代から現代に至るまで回峰行者の葛川参籠を先導する役割を果たしてい』るとあった。
「和州大峯の前鬼・後鬼」大峰山は奈良県中央部にある修験道の聖地(広義の大峰山の最高峰は八経ヶ岳(はっきょうがたけ)で標高千九百十五メートルで、奈良県及び近畿地方の最高峰)。「前鬼・後鬼」は修験道の開祖とされる役小角が従えていたとされる夫婦の鬼。前鬼が夫、後鬼が妻。当該ウィキによれば、『元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの』五『人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた』結果、二『人は改心し、役小角に従うようになった』。この時、役小角は二人に『義覚(義学)・義玄(義賢)の名はが与えた』ともされる。後、『前鬼と後鬼の』五『人の子は、五鬼(ごき)または五坊(ごぼう)と呼ばれ』、『下北山村前鬼』(しもきたやまぬらぜんき:ここ)『に修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号とした。また』、『それぞれ、五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)の』五『家の祖とな』り、『互いに婚姻関係を持ちながら』、『宿坊を続け』、五『家の男子は代々名前に義の文字を持った』とあり、現代まで、その子孫は続いている旨の記載がある。]
然らば、淨鬼・淨滿は、山入りの案内で、「鬼《き》」と呼ばれた者だ。わるい子供は、淨鬼・淨滿に、頭を剃られ、伴《つ》れ行かるゝ抔、古く言《いふ》たのだらう。熊野は、山伏輩が、不斷、往來した地故(若くは、ずつと以前、淨鬼・淨滿は、近江に限らず、他所《よそ》でも案内の山民を呼ぶ名だつた者か)、「草履」を、方言「じようり」と呼ぶに緣(ちな)んで、「鬼」を撰《えら》ぶ唱詞《となへことば》に、此二鬼の事を言たので有らう。右の詞の末句、「なゝやのきはとんぼを、ななやのこゝのとお、」と云ふ兒も有る。