「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 再び毘沙門に就て
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)一九七一年刊)、及び、「青空文庫」の「十二支考 鼠に関する民俗と信念」の一部を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。なお、本篇は平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)には所収しない。冒頭「凡例」によれば、本篇の『大部分が本選集第二巻の「鼠に関する民俗と信念」に収録されているために割愛した』とある。所持するそれも参考にした。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読で附した。
なお、先行する「毘沙門に就いて」(「就いて」はママ)は既にこちらで電子化しておいたので、まず、そちらを読まれたい。
また、本篇はダラダラと長い。内容は、それぞれの部分で面白いのだが、だいたいからして、熊楠御得意の十倍返しの喧嘩腰で始まり、これ見よがしの嫌味を言い、かなりの生理的不快感が感じられる箇所も、複数、ある(但し、これは、別に、本文に書かれている通り、自信作であった本論考との連関が非常に強い、所謂「十二支考」の一つである「鼠に關する民俗と信念」が、雑誌に不掲載となったことへの憤りも影響しているのだが)。さらに、送り仮名表記の不全が異様に多く、読みを添えるだけでも、一々、正しいかどうかを調べねばならない始末である。されば、注は、必要最小限で、あさあさと附すこととする。悪しからず。ソリッドに本篇が電子化されるのも、恐らくは初めてであると思うので、後人の方に詳細注は譲ることとする。]
再び毘沙門に就て (大正十五年九月『集古』丙寅第四號)
附たり大黑天と歡喜天と關係ある事
並びに大黑天の槌と鼠の事
丙寅三號五葉裏に、黑井君は『南方熊楠氏は「毘沙門の名號に就て」と題して曰く、『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた』云々と書かれたが、此事件を信じて居るから申したので有《あら》うが、小生の立場からは些《いささか》の價値がないのである云々、其《それ》のみならず、佛の時代と毘沙門の時代が異《ちが》つて居る』と申された。然し、熊楠は價値の有無に拘らず、只々此話の出處を識者に問《とう》たのである。抑《そもそ》も、國土の紀年史さえ[やぶちゃん注:ママ。]無《なか》つた印度に、夜叉が神王に轉生した時代が知れ居るだろうか[やぶちゃん注:ママ。]。
丙寅二號の拙文は、先づ、クベラ、又、クビラが毘沙門だ、とは「佛敎大辭彙」に出《いで》ある、と述《のべ》た。黑井君はクビラといふ發音は梵語にみえぬと言《いは》れたが、梵語程、發音の多樣な者なく、其が又、北印度、中央アジア、和漢と移るに伴《ともなつ》て、色々、移り異《かは》つた故、一切の梵語にクビラなる發音の有無は餘程、精査を要する。「佛敎大辭彙」は、熊楠如き大空の一塵程、梵語をカジリかいた「ゑせ者」よりは、恒河沙《ごうがしや》數倍えらい「學者」が集まり、大枚の黃白《くわうはく》[やぶちゃん注:金銀。金銭。]を掛《かけ》て出した者、それに「倶肥羅」を「クビラ」と訓じ、『毘沙門の異名』とし有《あれ》ば、クビラといふ梵語も有《あつ》たとしてよい。拉丁《ラテン》語に、羅馬共和時代、帝國時代、帝國衰亡時代、それから羅馬帝國滅後の「いかさま語」さへ、盛んに硏究され襲用されおる[やぶちゃん注:ママ。]如く、梵語にも種々の時代と、其行はれた國土の異なるにつれ、變遷・轉訛も有たので、どれも是も、梵語に相違ない。
次に、予は帝釋が毘沙門をクベラと呼《よん》で佛の供養を佐《たす》けしめたてふ「經律異相」の文を引《ひい》て、クベラは實名、毘沙門は通稱のごとくみえる、と云《いつ》た。佛經に、此類の事、少なからず。帝釋如きも呼び捨て、又、至《いたつ》て親しみ呼ぶには憍尸迦《きやうしか》と名ざされおる。帝釋は通稱、憍尸迦は氏名らしい。今は、こんな事は、知れ渡りおるだろうが[やぶちゃん注:総てママ。]、明治廿六年、予、大英博物館の宗敎部長、故サー・ヲラストン・フランクスより列品の名札付けを賴まれた時、從前、佛敎諸尊の名號を、尊稱・通稱・實名・氏名、何の別ちもなく、手當り次第につけあるは、丁度、無差別に、耶蘇・基督・救世主・ナザレスの大工の忰《せが》れ、と手當り次第、呼ぶ樣で、不都合なれば、尊稱と通稱に限り、名札に書くがよいと進言して、それに決した。少し後に、土宜法龍師、見えられ、此事を聞《きい》て、誠に至當な事といはれた。佛敎を奉ずる者が、釋尊を瞿曇具壽《くどんぐじゆ》、道敎の信徒が、老子を李耳、抔、いはば、眞《まこと》の其徒でないと自白するに等し(「阿毘達磨大毘婆沙論」一八一)。諸敎の諸尊に、それぞれ[やぶちゃん注:底本は後半は踊り字「〱」であるが、濁音化した。]名號が多いが、其名號が、みな、ゴッチャクタに異名といふべきに非ず、種々の用途に隨つて、各別の名號が使はれたといふ事の例示迄に、クベラも毘沙門も同一の神の名號乍ら、使用の場合、意味が差《ちが》ふといふ事を述たのである。
次に『此神、前世、夜叉なりしが、佛に歸依して、沙門たりし功德により、北方の神王に生まれ變つた云々』の文句は、丙寅第二號の拙文に明記しある通り、アイテル博士の「梵漢辭彙」一九三頁から引たので、此書(一八八八年龍動《ロンドン》出板)、本名「支那佛敎學必携」、予、在英の頃、佛敎の事を調ぶる[やぶちゃん注:底本は「調ふる」だが、訂した。]者が、皆な、持《もつ》た者で、アイテルは、身、支那に居り、色々、穿鑿したから、支那へ往《ゆか》ねば聞き得ぬ珍說を、多く、書き入れある。黑井君は、熊楠が『此事件を信じて居るから申したので有う』と言《いは》れた。成る程、熊楠は、攝・河・泉、三國の太守同樣、「毘沙門の申し子」といふ事で、小兒の時、小學敎場でさえ[やぶちゃん注:ママ。]毘沙門の呪《じゆ》を誦《ず》した位い[やぶちゃん注:ママ。]之を信仰したが、四十過《すぎ》て、一切經を通覽せしも、件《くだん》の「梵漢辭彙」に載せた話を、見ず。因《よつ》て丙寅二號五葉裏の上段十三、四行で、『此話は何の經に出で居《を》るか、識者の高敎をまつ』と、明らかに自分の無智無識を告白した。
アイテルが述た通り、毘沙門にも色々あり、古梵敎のクヴェラ、現時ヒンズー敎のクヴェラ、佛敎四王天に在《あつ》て、「夜叉衆」を領する富神「毘沙門」で、スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物乍ら、世態《せいたい》が變るに隨つて、形も、姿も、食物も、動作も、生活も、全く異なる如く、古梵敎のクヴェラと、佛敎の毘沙門と、同じからず。佛敎の毘沙門は、「一切の夜叉の王」たるに、印度《ヒンズー》敎のは、ラヴァナに寶車を奪はるゝ程、弱い者なれば、是れ亦、同じからず。「羅摩衍《ラーマーヤナ》」にも、佛經と齊《ひと》しく、之を「黃金と財富の神」としあるに、日本で、信貴山《しぎさん》が大繁昌するに反し、今の印度でクヴェラの像や、𤲿《ゑ》を求めても、得ぬ程、薩張《さつぱ》り、もてない位い[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]、是亦、違ふ。原來、佛敎、廣博で、インド諸敎の說を取り入れたれば、其の諸尊に關する傳說、亦、「委陀《ヴェーダ》」や『プラナ』に限らず。印度に、古く、梵敎の外に、異類・異族の敎、多かりしは、諺《ことわざ》になりある程。それに印度邊陲《へんすい》[やぶちゃん注:「辺境」に同じ。]の諸國から、トルキスタンや支那を經て、日本へ入る迄に、無數雜多の土地の傳說を攝取し居る可《べけ》れば、「委陀」や「プラナ」位い、調べた所ろが、現存佛敎の諸說を解くに、足《たら》ず。
[やぶちゃん注:「スクモと、ニシドチと、蟬と、同じ物」「スクモ」「螬」であるが、これは狭義には「甲虫類の地面の下に潜む幼虫」を指すが、ここは、セミのそうした土中に幼虫を指している。「ニシドチ」「復蜟」で、一つは、「大辞泉」には、『チョウやガのさなぎ。特に、アゲハチョウやスズメガのさなぎ。指でつまんで「西はどっち、東はどっち」と言うと、それに答えるように腰から上を振るといわれる。入道虫。西向け』とあるが、小学館「日本国語大辞典」には『セミの幼虫』や『根切り虫の蛹(さなぎ)をいう』とあった。]
付《つい》ては、アイテルが述た『此神、前世、夜叉なりしが云々」の話が、支那の經藏にない以上は、西藏《チベット》・蒙古・カシュミル・ネパル・セイロン・緬甸《ビルマ》・暹羅《シャム》や、トルキスタン邊にそんな話がある事か、と識者の高敎をまつ次第である。アイテル博士に聞合《ききあは》せば、判つた筈だが、熊楠、右の話に初めて氣付《きづい》た時、聞合せに、手懸りなく、其後、彼《かの》人、物故したと聞《きい》て、其儘、打過《うちすぎ》て居りました。熊楠は、右の話を信ずる處《どころ》か、出處さえ[やぶちゃん注:ママ。以下、略す。]も、知《しら》ぬ者なれば、信じてよいか惡いかをさえ判じえず。誰か、アイテル博士に代つて、此話の出處を敎え[やぶちゃん注:ママ。]られん事を切望する。
又、乙丑第二號第二葉裏上段に、黑井君は『聖天(乃《すなは》ち歡喜天)には、鼠も付《つい》て居る。右手の斧は、小槌《こづち》と代えて見て、左手の大根を以て、大黑天の二又大根《ふたまただいこん》と思へば、玆《ここ》で始めて。大黑天の化身の樣《やう》に思はる。けれども、何の緣《ゆかり》もないから、混合してはならぬ』と述られ、扨、其下段には、大黑天を『シヴアの息子ガネサ(歡喜天)の變名ではあるまいかと言はるるならば、理由もつくが、孰れにしても、硏究の餘地がある』と說《とか》れた。硏究の餘地が有るなら、何の緣もないと斷ずべからず。この文が發表されたは、大正十四年三月だつた。
其一年餘前に、予は、大正十三年の子歲《ねどし》をあて込《こん》で、明《あく》る新年號の『太陽』に例年の順で、鼠の話を出すべく、十二年の十一月に、早く、其初分を草し、博文館へ送つた處ろ、九月震災の餘響で『太陽』も體裁を改むる事となり、永々《ながなが》、予を引立《ひきたて》て吳《くれ》た淺田江村君も退社し、予の原稿も、サランパン、一先づ、返却となって、予は、面《づら》を汚した泥鼠のチユウのねも出ず。其後、中村古峽君の望みで、十二禽の話の板權を賣渡《うりわた》したが、鼠の話は未完故、其儘、手許に殘し居り、其れには、歡喜天と大黑天と何の綠もない所《どころ》でなく、關係大有りてふ說を述べある。此拙文は自分のみかは、誰が讀《よん》でも三嘆するから、歡喜・大黑二天のことを論ずる人の法螺《ほら》の種にもと、チト長文乍ら、其部分を全寫・解放と出かける。但し、大正十二年、後《あと》の年月を記した處だけは、只今、書加《かきくは》へる所に係る。
大黑天の事は石橋臥波《いしばしぐわは》君の「寶船と七福神」てふ小册に詳述されたから、今成るべく鼠に關する事どもと、かの小册に見えぬ事斗《ばか》り述よう。皆人の知る通り、此神が始めて著はれたのは、唐の義淨法師の「南海寄歸内法傳」による。義淨は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸亨《かんこう》二年[やぶちゃん注:底本は「咸享」であるが、誤りなので訂した。六七一年。]、卅七歲で印度に往き、在留廿五年で歸つた時、奉佛、兼、大婬で、高名な則天武后、親《みづ》から、上東門外に迎へた程の傑僧で、「寄歸内法傳」は、法師が、彼《かの》地で目擊した所を記した、法螺《ほら》ぬきの眞實譚だ。石橋君の著は、其大黑樣の所を抄した迄で、誤字も、多少、あれば、今は、本書から引《ひこ》う。云く、又、西方諸大寺、皆な、食厨《くり》の柱側、或は、大庫の門前に、木を彫《ほり》て、二、三尺の形を表はし、神王[やぶちゃん注:底本は「神主」であるが、誤植と断じて訂した。]となす。其狀《かたち》、坐して、金囊を把《と》り、却つて小牀《せうしやう》に踞《きよ》し、一脚、地に垂《た》る。每《つね》に油を以て拭ひ、黑色、形を爲し、莫訶歌羅(マハーカーラ。「大神王」の義)といふ。卽ち、大黑神也。古代相承して云く、是れ、大天(印度《ヒンズー》敎の「シワ大神」)の部屬で、性、三寶を愛し、五衆を護持し、損耗、無からしめ、求《もとむ》る者、情に、稱《かな》ふ。但《ただ》、食時に至り、厨屋《くりや》每《ごと》に香火を薦《すす》むれば、有《あら》ゆる飮食《おんじき》、隨つて、前に列す、と。乃《すなは》ち、大黑神は、今も、印度で大陽相を以て表はし、盛んに崇拜するシワの眷屬乍ら、佛法を敬し、僧衆を護り、祈れば好《すい》た物を授ける。臺所で、香火を供へて願へば、忽ち、飮食を下さると云《いふ》のだ。扨、この邊から、義淨は、唯《ただ》聞いたままを記すといふ斷《ことわ》り書きをして、曾て釋尊大涅槃處へ建《たて》た大寺は、いつも、百餘人の僧を食《くは》せ居《をつ》た處ろ、不意に、五百人、押掛《おしかけ》たので、大《おほい》に困つた。所ろが、寺男の老母が、「こんな事は、いつも、ある。心配するな。」と云た儘、多く、香火を燃《もや》し、盛んに祭食を陳列して、大黑神に向ひ、佛涅槃の靈跡を拜みに、多勢の僧が參つた。「何卒、十分に飮食させて不足のないように。」と祈り、扨、一同を坐せしめ、寺の常食を與ふると、食物が、殖《ふえ》て、皆々、食ひ足《たり》たので、揃ふて、大黑天神の力を稱讃した、とある。大分、怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家は、孰れも信心厚く、行儀も良《よか》つたから、事に慣《なれ》た老婆の言を信じ切《きつ》て、百人前の食物が、五、六倍にふゑた[やぶちゃん注:ママ。]と思ひ定め、食《くひ》て不足を感じ無《なか》つた者だろう[やぶちゃん注:ママ。]。寺の住職の妻を、「大黑」といふも、專ら、臺所を司つて、大黑神同樣、僧共《ども》に、腹を減《へら》させないからで、頃日《けいじつ》。『大每』紙へ出た、大正老人の「史家の茶話」に、「梅花無盡藏」三上を引《ひい》て、足利義尙將軍の時、既に、僧の妻を「大黑」と呼《よん》だと證した。云く、長享《ちやうきやう》二年[やぶちゃん注:一四八八年。]十一月二十八日、宿房の大黑を招き、晨盤《しんばん》を侑《すす》む。其體《てい》、蠻《ばん》の如し、戲れに詩を作《つくり》て云く、宿房大黑侑晨炊、合掃若耶溪女眉、好在忘心無一點、服唯繒布語蠻夷〔宿房の大黑 晨炊(しんすい)を侑(すす)む 合(まさ)に若耶溪(じやくやけい)の女(ぢよ)の眉(まゆ)を掃(は)くべきに 好在忘心(かうざいばうしん) 一點も無し 服は唯(ただ) 繒布(そうふ)して 語(ことば)は蠻夷(ばんい)なり〕[やぶちゃん注:「繒布」彩った絹織の布。あやぎぬ。]。意味はよく判らないが、當時、はや、夷子《えびす》・大黑を對稱した丈《だけ》は判る。高田與淸《ともきよ》は、「松屋筆記」七五に、大黑の槌袋に關し。「無盡藏」卷四を引《ひき》乍ら、卷三の、僧の妻を、「大黑」といふ事は、氣付《きづか》なんだ者か。
永祿二年[やぶちゃん注:一五五九年。]、公家藤原某作てふ「塵塚《ちりづか》物語」卷三に、卜部兼倶《うらべかねとも》、說として、大黑と云は、元と、大國主命也。大己貴《おほなむち》と連族《むらぢぞく》にて、昔、天下を經營し玉ふ神也。大己貴と同じく、天下を運《めぐ》り玉ふ時、彼《かの》大國主、袋の樣なる物を、身に隨へて、其中へ、旅產《りよさん》を入《いれ》て、廻國せらるるに、其入物《いれもの》の中の糧《かて》を用ひ盡しぬれば、又、自然に滿《みて》り。其に依《より》て後世に福神《ふくじん》と云《いひ》て尊《たつと》むは、此謂れ也と云々、然して、其後ち、弘法大師、彼《かの》「大國」の文字を、改めて、「大黑」と書《かき》玉ひけると也、と記す。かく、「大黑天」は、「大國主命」を佛化したといふ說は、足利氏の代、既に在《あつ》たので、「古事記」に、大國主の兄弟八十神、各《おのお》の、稻羽《いなば》の八上《やかみ》姬を婚せんと、出立《いでた》つに、大國主に、袋を負《おは》せ、從者《すざ》として往《いつ》た話、あり。本居宣長、其賤役《せんえき》たるをいひ、事《こと》功《こう》の人に、後《おく》るゝ者を、今も「袋持ち」といふと述た。海外にも、マオリ人は、脊に食物を負うを、「賤民」とす(一八七二年伯林《ベルリン》板、ワイツとゲルランドの「未開民人類學」、六卷、三四五頁)。大國主も糧袋《かてぶくろ》を負《おふ》たとみえ、大黑神も、飮食不盡の金嚢を持《もつ》た所が似居《にを》るから、大國主の袋をも、「不盡の袋」と見て[やぶちゃん注:ここ以下は、底本の画像の順が入れ替わってしまっている。アドレス末「206」に「三八八」及び「三八九」があり、次の「207」に「三八六」及び「三八七」頁がある(というか、「208」には正しい画像が再度出る)。注意されたい。]、二神を合一したのだ。
次は槌だ。「譚海」一二に、日光山には、「走り大黑」といふあり、信受の者、懈怠《けたい》の心、有《あれ》ば、走り失《うせ》て、其家に座《ましま》さず。殊に靈驗ある事、多し。是は、往古、中禪寺に、大《だい》なる鼠、出《いで》て、諸經を喰ひ敗《やぶ》り、害をなせし事ありしに、其鼠を追《おひ》たりしかば、下野《しもつけ》の足緖《あしを》まで逃《にげ》たり。鼠の足に、緖《を》を付《つけ》て、捕へて、死《しし》たるにより、其所《そこ》を「足緖」と云《いふ》とぞ、「足緖」は「足尾」也。扨、死たる鼠の骸《むくろ》に、墨を塗《ぬり》て、押す時は、其儘《そのまま》、「大黑天の像」に成《なり》たり。其より、日光山に、此鼠の死たる骸を重寶《ちやうはう》して、納め置き、今に「走り大黑」とて、押出《おしいだ》す。御影《みえい》は是也、と記《しる》す。一昨年、某大臣、孟子が、所謂、『大王、色を好んで、百姓と共にせん。』との仁心より賴まれた「惚藥《ほれぐすり》」の原料を採りに、中禪寺湖へ往《いつ》た時、「篤《とく》と、此大黑を拜まう。」と心掛けて滯在して、米屋旅館に、岩田梅とて、芳紀二十三歲の、丸ボチャ クルクル猫眼《ねこめ》の仲居頭《なかゐがしら》あり。嬋娟《せんけん》たる花の顏《かん》ばせ、耳の穴をくじりて、一笑すれば、天井から、鼠が落ち、鬢《びん》のほつれを搔き立てて、枕のとがを憾《うら》めば、二階から、人が落ちる。南方先生、其の何やらのふちから溢《あふ》るるばかりの大愛敬《だいあいきやう》に、鼠色の涎《よだれ》を垂《たら》して、生處《せいしよ》を尋ねると、足尾の的尾《まとを》の料理屋の娘と云《いふ》から、「十分、素養もあるだらう、どうか一緖に、『走り大黑』、身は桑門《さうもん》となる迄も、生身《なまみ》の大黑天と崇め奉らん。」と、企《くはだ》つる内、唐《からつ》けつに成《なつ》て下山し、トウトウ[やぶちゃん注:ママ。]「走り大黑」を拜まなんだ。全く、惚藥取りが、惚藥に中毒したのだ。其節、『集古』會員上松蓊《うへまつしげる》君も同行したから、彼女の尤物《いうぶつ》たる事は、同君が保證する。彼《あの》邊へ往《いつ》たら、尋ねやつて吳《くれ》玉へ。
[やぶちゃん注:「譚海」の当該分は所持する「日本庶民生活史料集成」版で校合した。実は「足緖」の部分は、本文は、ひらがなで、なお且つ、「あしほ」となっている。しかし、これは明らかに現在の栃木県日光市足尾町(あしおまち:グーグル・マップ・データ)のことだから、「あしを」が正しいので、そちらを採った。因みに、「譚海」では、冒頭に『大黑天は梵語にアカキヤラ天と稱す、マカキヤラは眞黑成事也。……』で始まる大黒天の考証があるが、熊楠には都合が悪かったからか、カットしている。なお、以上の引用の末尾は、『彼山の祕事にて不可思議也。』で終わっている。
「嬋娟」あでやかで美しいこと。品位があって艶めかしいこと。
「的尾」不詳。地名ではなく、屋号か。]
件《くだん》の「譚海」の文に據れば、鼠が神に成《なつ》て大黑天と現じた樣だが、「滑稽雜談」二一には、大黑天神は厨家《くりや》豐穰の神なるが故に、世人《せじん》、鼠の來つて、家厨《くり》の飮食倉庫の器用を損ずるを、此神に祈る時、十月の亥《ゐ》の日を例として、子(ね)の月なる十一月の、子(ね)の日を(祭りに)用ゆるなるべし、と記す。「梅津長者物語」には、鼠三郞、「野らねの藤太」等《ら》の賊が、長者の宅を襲ふと、大黑、眞先に打つて出で、「打出の小槌」で、賊魁を打ち殺す事、あり。是ぢや、大黑は、時に鼠や賊を制止・誅戮《ちゆうりく》し、其槌は殺伐《さつばつ》の具と成つて居《を》る。
[やぶちゃん注:「鼠三郞」国立国会図書館デジタルコレクションで活字本の「梅津長者物語」を見たが、これ、「えひす」(夷)「三郞」の誤記か誤植ではなかろうか。]
槌は、いかにも、大黑の附き物で、繁昌を此神に祈つて、「鼠屋」、又、「槌屋」と家號したのが、ある。京で名高い柄糸(つかいと)を賣る「鼠屋」に紛はしく、「栗鼠(りす)屋」と名のる店が出た話あり(寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]板、「子孫大黑柱」四)。伊勢の「御笥《おたんす》作り」内人《うちんど》土屋氏は、昔し、「槌屋」と稱へ、豪富なりしを、惡(にく)み、數十人、圍み、壞《やぶ》りに掛《かか》り、反《かへ》つて、敗北した時、守武の狂歌に、「宇治武者は千人ありとも、炮烙《ほうろく》の槌一つには叶はざりけり」、「蛆蟲」を「宇治武者」に云《いひ》なしたので、當時、「焙烙千枚、槌一つに叶はぬ。」てふ諺が有たらしい(「石崎文雅鄕談」[やぶちゃん注:「鄕」は底本「卿」だが誤植と見て、訂した。])。それから娼屋には、殊に、「槌屋」の家號、多く、例せば、寶永七年板「御入部伽羅女《ごにふぶきやらをんな》」四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衞方に及んで、「したるい目付き掃部《かんべ》さま、これが『槌屋』の大黑也。」と、此娼を、家の大黑柱に、比べおる[やぶちゃん注:ママ。]。四壁庵の「忘れ殘り」上卷に、吉原江戶町三丁目、佐野槌屋の抱かかえ遊女「黛(まゆずみ)」」、美貌無双、孝心、篤《あつ》く、父母の年忌に、廓中・其外、出入《でいり》の者まで、行平鍋《ゆきひらなべ》を、一つヅヽ、施したり。「わがかづく多くの鍋を施して、萬治《ばんぢ》この方《かた》にる者ぞなき」と、ほめある。是等よりも、ずつと、著はれたは、安永二年、菅專助《すがせんすけ》作「傾城戀飛脚《けいせいこひのたより》」で、全國に知れ渡り、「忠兵衞は上方者で二分《にぶ》殘し」と吟ぜられた「龜屋」の亭主を、しくじらせた、北の新地「槌屋」の抱え、「梅川《うめがは》」ぢや。
[やぶちゃん注:「行平鍋」単に「行平」とも呼ぶ土鍋の一種。厚手の陶器製で、蓋・持ち手・注ぎ口がついている。加熱が緩やかで、保温性に富み。粥・重湯(おもゆ)を炊くのに適する。塩を焼く器から起こった名と伝えられ、在原行平が、須磨で、塩焼の海女と親しんだ故事に因むとされる。]
槌は、只今、藁を打《うつ》たり、土を碎いたり、辨慶が七つ道具に備はつたり位は芝居で見るが、專用の武器とはみえず。
だが、昔し、景行天皇、ツバキの槌を猛卒《まうそつ》に持たせ、誅殺し玉ふ(「日本紀」七)、此木は、今も、犬殺しが用ひ、身に、極めて痛く、當る。「史記」には、槌を以て朱亥《しゆがい》が晉鄙《しんひ》を殺し、劉長が審食其《しんいき》を殺した事、あり。北歐の雷神トール、百戰百勝するに、三《みつ》の兵寶《へいはう》あり。先づ、山を擊たば、火が出る大槌、名はムジョルニル、此神、之を以て、山と霜の大鬼を殺し、無數の鬼屬を誅した。次は、身に卷けば、神勇、二倍する帶で、第三には、大槌を執る時の手袋だ(マレーの「北歐考古編」、ボーンス文庫本、四一七頁)。吾邦でも、時代の變るに伴ふて、兵器に興廢あり。砲術、盛んならぬ世には、槍を貴《とうと》び、幾人、槍付けたら、鼈甲《べつかう》柄の槍を許すとか、本多平八の「蜻蜒《とんぼ》切り」抔、名器も多く出で、「昭代記」に、加藤忠廣、封を奪はれた時、「淸正」傳來の槍を折《をり》て武威の竭《つき》たるを示したと記す。槍より先は。刀劍で、「劍の卷」抔、名刀の威德を述べ、是さえ[やぶちゃん注:ママ。]有《あれ》ば、天下治まる樣に言ひ居り、又、弓矢を武威の表徵の如く唱へた。支那でも兵器の神威を說《とい》た者で、越王、「泰阿」《たいあ》の劍」を揮えば[やぶちゃん注:ママ。]、敵の三軍、破れて、流血千里、「湛盧《たんろ》の劍」は、吳王の無道を惡《にく》んで、去《さつ》て楚に往《いつ》たといひ、漢高祖が白蛇を斬った劍は、晉の時、自《おのづか》ら、庫の屋を穿《うが》つて、火災を遁《のが》れ、飛去《とびさつ》た由で、漢より晉迄、此劍を、皇帝の象徵と尊んだらしい。柬埔寨《カンボジア》でも傳來の金劍を盜まば、王となり、是れなくば、太子も王たるを得ず(「淵鑑類函」二二三。「眞臘風土記」。)。漢土で、將軍出征に斧鉞《ふえつ》を賜ふ、とあるは、三代の時、以前、之を以て、人を斬《きつ》たからで、「詩經」に武王鉞(マサカリ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]を執《とれ》ば、其軍に抗する者、なし、とある。上古の人が遺した石製の斧や槌は、雷斧《らいふ》・雷槌《らいつい》など、歐・亞、通稱して、神が用いた武器と心得、神の表徵とした。博物館で、數《しばし》ば見る通り、斧とも槌とも判らぬ「間(あい)の子」的の物も多い。王充の「論衡」に、漢代に、雷神を𤲿《ゑが》くに、「槌で連鼓を擊つ」とした、と有《あれ》ば、其頃、既に「雷槌」てふ名は有たのだ。古希臘羅馬共に、斯《かか》る石器を神物とし、今日、西阿《にしアフリカ》に於る如く、石斧に誓ふた言《ことば》を、羅馬人は、決して違《たが》へず、契約に背《そむ》く者、有《あら》ば、祝官、石斧を牲豕《せいし》[やぶちゃん注:生贄の豚。]に投付《なげつけ》て、「此の如くに、ジュピテル大神が、違約者を、雷で、打て。」と唱えへ、北歐では誓約するに、雷神トールの大槌ムジョルニルの名を援《ひい》た。是れ、今日、競賣の約束固めに、槌で案《つくえ》を打つ譯である(一九一一年板、ブリンケンベルグの「雷の兵器」、六一頁)。刀・鎗・弓矢の盛行くした世に、刀・鎗を神威ありと見た如く、石器時代には、斧や槌が、武威を示す絕頂の物だった遺風で、神威を、斧や槌で表はす事となり、厨神《くりやがみ》「大黑」も、中々、武備も怠り居らぬといふ標《しる》しに、槌を持《もた》せたのが、後には、財寶を打ち出す槌と斗《ばか》り心得らるるに及んだと見える。「佛像圖彙」に見る通り、觀音廿八部衆の滿善車王《まんぜんしやわう》も、槌を持ち、辨財天、亦、槌を持つらしい。「大方等大集經」二二には、過去九十一劫毘婆尸佛の時、曠野菩薩、誓願して、鬼身を受《うけ》て、惡鬼を治《ぢ》す、金剛槌の咒《じゆ》の力を以て、一切惡鬼をして、四姓に惡を爲《な》す能《あた》はざらしむ。「一切如來大秘密王微妙大曼挈羅經《いつさいによらいだいひみつわうみめうまんだらきやう》」一には、一切惡及び驚怖障難を除くに、普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徵とした程、見るべし。佛敎外には、エトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。。本邦にも、善相公と同臥した侍童の頭を、疫鬼に、槌で打れて、病出《やみだ》し、染殿后を犯した鬼が赤褌《あかふんどし》に槌をさし居《をつ》たといひ、支那の區純ちう人は、槌で鼠を打《うつ》たといふ(一八六九年板、トザーの「土耳其《トルコ》高地探究記」、二卷三三〇頁。「政治要略」七〇。「今昔物語」二〇の七。「搜神記」下)。何れも、槌が、本《も》と、凶器たり、今も凶器たり得るを證する。〔(增)(大正十五年九月八日記)蒙昧の民が、いかに、斧を重寳な物とし、之をもつ者を羨やんだかは、一八七六年板、ギルの、「南太平洋之神誌及歌謠」二七三頁註を、みて、知るべし。〕
石橋君は、『「大黑天に鼠」は、本と、クベラ神像と混《こん》じたので、クベラの像は金囊其他の寶で飾つた頭巾を戴だき、玉座に踞し、傍らに、金囊から、財寶をまく侍者、あり。後には、侍者の代りに鼠・鼬と成《なつ》た。日本の大黑が、嚢を負ひ、鼠を隨へるは、是に因ると云《いふ》た人、あり。』と言《いは》れた。クベラ、乃《すなは》ち、毘沙門で、印度《ヒンズー》敎の說に、梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て、梵天王に歸し、梵天王、其《その》賞《しやう》に、不死を與へ、福神とした。「羅摩衍《ラーマヤーナ》」に、數《しばし》ば、クベラを、「金と冨の神」と稱へたが、後世、印度で、一向、持囃《もてはや》されず、其𤲿も、像も、見及ばぬ(一九一三年板、ヰルキンスの「印度鬼神誌」四〇一頁)。之に反し、印度以北では大持《おほも》てで、「福神毘沙門」と敬仰さる。印・佛二敎共に、之を北方の守護神とし、支那では、古く、子《ね》は、北方、其獸は鼠としたるに融合して、印度以北の國で、始めて、鼠をクベラ、乃《すなは》ち、毘沙門の使ひ物としたのだ。日本でも、叡山の鼠、禿倉《ほこら》の本地、毘沙門といひ(「耀天記」)、橫尾明神は、本地、毘沙門で、盜《ぬすみ》を顯《あら》はす爲に祝奉るといふ(「醍醐腮雜事記」)抔、其痕跡を留むる。山岡俊明等、此印度以北の支那學說と、印度本土の經說の混淆地で作られた大乘諸經に見ゆれば迚《とて》、支那の十二支は印度より傳ふ抔言ふも、印度に、本と、五行の、十二支の、という事も、鼠を北方の獸とする事も、毘沙門の使とする事も、ない(『人類學雜誌』、第三四卷第八號、拙文「四神と十二獸に就て」參看[やぶちゃん注:私のPDF一括版『「南方隨筆」底本四神と十二獸について(オリジナル詳細注附)』を参照。])。去《され》ば、石橋君が聞及《ききおよ》んだクベラ像は、印度の物でなくて、多少、支那文化が及び居《をつ》た中央アジア邊の物だろう[やぶちゃん注:ママ。]。中央亞細亞に、多少、鼠を毘沙門の神獸とした證據なきに非ず。十二年前「猫一疋から大冨となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ國(今のコーテン[やぶちゃん注:「崑崙」のことか。])王は毘沙門天の後胤といふ。昔し、匈奴、此國に寇《こう》した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から、甲冑から弓絃《ゆづる》まで、紐や絲《いと》を、悉く、鼠群が嚙斷《かみたつ》たので、匈奴軍、詮術《せんすべ》を知らず、大敗した、王、鼠の恩を感じ、鼠を祭り、多く、福利を獲《え》、若《も》し、祭らないと、災變に遭ふ、と、出づ。似た事は「東鑑」に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し、甲斐源氏を伐《うた》んと、富士北麓に宿つた。其兵の弓絃を、鼠に嚙盡《かみつく》されて、敗軍した、と、あり。ヘロドトスの「史書」にも、埃及王が、クサタナ王同然、鼠の加勢で、敵に勝った話を出す。「宋高僧傳」一には、天寶中[やぶちゃん注:盛唐の玄宗の治世後半に使用された元号。七四二年~七五六年。]、西蕃・大石・康の三國の兵が。西凉府を圍み、玄宗、不空をして、祈らしめると、毘沙門の王子、兵を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、府を救ひ、敵營中に、金色の鼠、入《いり》て、弓絃を、皆、斷《たつ》たから、大勝し、其より、城樓、每《るね》に天王像を置《おか》しめたと記す。「天主閣」の始めとか。右の諸文で、唐の時、既に、鼠を毘沙門の使者としたと知る。
今日、印度では、鼠を、ガネサ(歡喜天)の乘り物とす。大黑は、シワ大神の部屬と云《いふ》たが、ガネサは、シワの長男だ。シワの妻、烏摩后《うまかう》、子、なきを、憂へ、千人の梵士を供養して、韋紐《ヴィシュヌ》に禱《いの》り、美妙の男兒を生み、諸神、來賀した。中に、土星、有りて、土のみ、眺めて、更に、其兒《こ》を見ず。烏摩后、其故を問ふに、「某《それが》し、韋紐を專念して、妻が、いかに、彼《か》の一儀を勤むるも顧みず、『川霧に宇治の橋姬朝な朝な、浮きてや空に物思ふ頃』外《ほか》にいいのが有《ある》んだろう[やぶちゃん注:ママ。]と、九月一日の東京乎《か》として大燒《おほやけ》に燒けた妻が、某《それがし》を詛《のろ》ふて、『別嬪・醜婦を問《とは》ず、一切の物を、吾夫が眺めたら最後、忽ち、破れろ。』と、詛ふた。因て、新產の御子《おこ》に見參《けんざん》せぬ。」と、聞きも畢《をは》らず、后は、子自慢の餘り、「初產祝《うひざんいは》ひにきて、其子を見ないは、一儀に懸りながら、キツスをしない如しと怨む。「そんなら、必ず、後悔、あるな。」と、念を押した上、一目、眺むると、新產のガネサの頸、矢庭に切れて、飛失《とびうせ》た。吾邦にも、男の持戒をいやに疑ふて禍《わざはひ》を招いた例、あり。永祿十二年[やぶちゃん注:一五六九年。]十月、武田信玄、三增山《みませやま》の備え[やぶちゃん注:ママ。]を、小田原勢が擊《うつ》て、大敗した時、北條美濃守氏輝の身、危ふきに臨み、心中に、飯綱權現《いひづなごんげん》を賴み、「此命、助け玉はば、十年間、婦女を遠ざけます。」と誓ふた。處え[やぶちゃん注:ママ。]、師岡某、やつえ來り、馬を讓り、禦《ふせ》ぎ戰ふ間に、氏輝は免《のが》れた。歸宅後、夫人が、いかに思ひの色をみせても、構ひ付けず、此夫人は幾歲だつたか書《かい》てゐないが、其時、氏輝の同母兄氏政が卅三だから、氏輝は卅歲斗《ばか》り、隨つて、夫人も廿七、八、縮れ髮たつぷりの、年增盛りだつたでせう。婦女之身三種大過、何等爲、所謂婦女戶門寬大、兩乳汁流是名三種云々〔婦女の身、三種、大過《たいくわ》、何等(なんら)、三と爲す、所謂(いはゆる)、婦女の戶門、寬大なる、兩乳(りやうち)、汁(しる)流るる、之れ、「三種」と名づく云々。〕(「正法念處經」四五)、去《され》ば、「都傳摸年增東夷邊伐廣夷樣」〔「都傳摸(とても)年增(としま)東(と)夷邊伐(いへば)廣夷(ひろい)樣(やう)」其《その》廣夷《ひろい》野《の》に飽き果て、散播都天門《さはつても》吳弩《くれぬ》と、嘆《かこ》ちて、自害した。氏輝は、遺書を見て、不便《ふびん》がり、一生、女と交わらなんだ、と、あるが、後年、秀吉の命で、自裁した時、愛童《あいどう》山角定吉《やまかくさだきち》十六歲、今、打ち落した氏輝の首を、懷《いだ》いて走つた志を、家康、感じて、罰せず、麾下《きか》に列した、と有る(「野史」一二六)は、自分の家から火を出し乍ら、大睾丸の老爺を負《おひ》て逃《にげ》たので、褒美された樣な咄し。蓋し、氏輝は、女は遠ざけたが、「若衆遠《わかしうとほ》[やぶちゃん注:若衆道。]を春留《はどめ》する波は構はぬ庚《かのえ》さる」、小姓を愛し通したのだ。扨、烏摩后、首なき子の骸《むくろ》を抱《いだき》て泣出《なきだ》し、諸神、倣《なら》ふて、亦、泣く時、ブシュパブハドラ[やぶちゃん注:「金翅鳥」(こんじちょう)。ガルーダ。]、河へ飛《とび》ゆき、睡《ねむる》象の頭《かしら》を切《きつ》て、持來《もちきた》り、ガネサの軀《からだ》に繼《つい》でより、此神、今に、象頭だ。是れ、本邦慾張り連が子孫七代いかに落《おち》ぶれても頓着せず、「吾一代、儲けさせ玉へ。」と祈つて、油餅を配り廻り、之を食つた奴の身代、皆な、自分方へ飛んでくるように願ふ、歡喜天、又、聖天、是也。今も、印度人、此神を奉ずる事、盛んで、學問や事始めや、「障碍《しやうげ》よけ」の神とし、婚式にも祀《まつ》る。障碍神《しやうげじん》毘那怛迦《びなたか》も。象鼻あり。象、よく道を塞ぎ、又、道を開く故、障碍除・障碍神ともに、象に形どつたのだ。日本でも、聖天に、「緣祖」、又、「夫婦和合」を祈り、二股大根を供ふ(一八九六年板、クルックの『北印度俗敎及民俗』、一卷、一一一頁。アイテル「梵漢語彙」、二〇二頁。「增補江戸咄」五)。其名を、商家の帳簿に題し、家を立《たつ》る時、祀り、油を、像に、かけ、餅や大根を供ふる抔、よく「大黑祭」に似る。又、乳脂で煠《あげ》た餠を奉るは、本邦の聖天供《しやうてんぐ》の油煠げ餅に酷似す。其像形、象首・一牙で、四手に、瓢《ひさご》と、餅と、斧と、數珠をもち、大腹、黃衣で、鼠にのる(ジャクソンの「グジャラット民俗記」、一九一四年、ボンベイ板、七一頁)。佛典にも、宋の法賢譯「頻那夜迦天《びなやかてん》成就儀軌經」に、此神の像を、種々に造り、種々の法で祭り、種々の願《ねがひ》を掛くる次第を、說きある。聚落《しゆうらく》、人を、みな、戰はせ、人の酒を、腐らせ、美しい童女をして、別人に嫁《とつ》ぐを、好まざらしめ、夢中に、童女と通じ、市中の人を、悉く、裸で、躍らせ、女をして、裸で、水を負《おふ》て躍らせ、貨財を求め、後家に惚《ほれ》られ、商店を、はやらなくし、夫婦を睦くし、自分の身を、人に見せず、一切、人民を、狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に俱移等《ぐいと》來《こ》させ、帝釋天に打ち勝ち、人を馬鹿にして、其妻女・男女を取り、人家を燒き、大水を起し、其他、種々雜多の惡事・濫行を、歡喜天のお蔭で、成就する方《はう》を述べある。ダガ、餘り、大きな聲で數え立てると、叱られるから、やめる。
斧と槌が、本《も》と、同器だつた事は上に述《のべ》た。晉の區純《おうじゆん》は、鼠が門を出かかると、木偶《でく》が、槌で打ち殺す機關《からくり》を作つた(「類函」四三二)。北歐のトール神の槌は、專ら、抛《なげう》つて、鬼を殺した。其如く、大黑の槌は、ガネサの斧の變作《へんさく》で、厨《くりや》を荒らす鼠を、平《たひら》ぐるが、本意とみえる。又、現今、韋紐《ヴィシュヌ》宗徒の追善用の厨器《ちゆうき》に、ガネサを𤲿く等より、大黑が、全然、ガネサの變形でない迄も、其形相《ぎやうさう》は、多く、ガネサより因襲したと惟《おも》はる。唐の不空が、詔を奉じて譯した「金剛恐怖集會方廣軌儀觀自在菩薩三世最勝心明王經」といふ、法成寺《ほふじやうじ》から、ツリを取る程、長い題目の佛典に、摩訶迦羅天《まかからてん》は大黑天也、象皮を披《ひら》き、橫に一槍《いつさう》を把《とる》云々。石橋君が、其著八六頁に「一切經音義」より、文、「諸尊圖像鈔」より、圖を、出したのをみるに、日本化しない大黑天の本像は、八臂《はつぴ》で、前の二手に、一劍を橫たへた狀《かたち》が、現今、印度のガネサが一牙を、口吻《こうふん》に橫たへたるに似、後ろの二手で、肩上《かたうへ》に一枚の白象皮《はくざうがは》を張り、而して𤲿にはないが、文には、足下に一《ひとり》の地神女《ぢしんぢよ》あり、双手で、其足を受く、とある。象皮を張《はつ》たは、大黑、もと、象頭のガネサより轉成せしを示す。ボンベイの俗傳に、ガネサ、其乘る所の鼠の背より、落ち、月、之を笑ふて、罰せられた、という事あり(クルック、一卷一三頁)。大黑像も、ガネサより因襲して、鼠に乘り、若《もし》くは、踏み居つたが、梵徒は、鼠を忌む故(一九一五年、孟買《ボンベイ》板、ジャクソンの「コンカン民俗記」八四頁)、追ひ追ひ、鼠を廢し、女神を代用したと見える。
明治廿四、五年の間、予、西印度諸島にあり、落魄《らくはく》して、象藝師につき、廻つた。其時、象が些細《ささい》な蟹や、鼠を見て、太《いた》く不安を感ずるを睹《み》た。其後ち、「五雜俎」に、象は鼠を畏《おそ》る、と、あるを、讀《よん》だ。又、「閑窓自語」を見るに、『享保十四年[やぶちゃん注:一七二九年。]、廣南國[やぶちゃん注:現在のベトナムの中・南部に存在した阮(グエン)氏の王朝。]より、象を渡しし術を聞きしに、此獸《けもの》、極めて、鼠をいむ故に、舟の内に、程《ほど》を測り、箱の如き物を拵へ、鼠をいれ、上に、網を、はりおくに、象、之をみて、鼠を外へ出《いだ》さじと、四足にて、彼《かの》箱の上を、ふたぐ。之に、心を入るる故に、數日《すじつ》、船中に立つ、とぞ。然らざれば、此獸、水をも、えたる故に、忽ち、海を渡りて、還るとなむ。』と、有《あり》。此事、「和漢書の外《ほか》、亦、有《あり》や。」と、疑問を、大正十三年、龍動《ロンドン》發行『ノーツ・エンド・キーリス』一四六卷三八〇頁に出したを、答えが出ず。彼是する内、自分で見出《みいだし》たから、十四年七月の同誌へ出し、英書に、此事、記しあるを、英人に敎え[やぶちゃん注:ママ。]やつた。乃《すなは》ち、一九〇五年龍動出板、ハズリットの「諸信及俚傳」一の二〇七頁に『觀察に基づいた信念に、象は、野猪の呻《うめ》き聲のみならず、トカゲ等の、小さい物に逢《あつ》ても、自《みづか》ら防ぐ事、六《むつ》かしと感じ、駭《おどろ》く、と、いう事、あり。歐州へ將來する象を見るに、藁の中に潛むハツカ鼠をみて、狼狽するが、常なり。」と載《の》す。かく、象が、甚《いた》く、鼠を嫌ふ故、大黑が鼠を制伏した體《てい》を表《あらは》して、神威を揭げた事、今日、印度で、象頭神ガネサが、鼠にのる處を𤲿き、昔、希臘のアヴロ神が、クリノスより獻じた年供《ねんぐ》を盜んだ鼠を、射殺《いころ》したので、其神官が、鼠に乘る體《てい》を𤲿いたと、同意と、考ふ、と書き了《をは》つて、グベルナチス伯の「動物譚原」二の六八頁を見るに、ガネサは。足で、鼠を踏み潰すとある故、益《ますま》す自見の當れるを知つた。古羅馬の地獄王后ブロセルビナの面帽は、多くの鼠を、散らし縫つた(一八四五年、巴里板、コラン・ド・ブランシーの「妖怪辭彙」三九三頁)。鼠は、冬蟄《ふゆごもり》し、此女神も、冬は地府に歸るを、表はしたのだ。其から推して、大黑、足下の女神は、「鼠の精」と知《しれ》る。去《され》ば、增長・廣目二天が、惡鬼・毒龍をふみ、小栗判官《をぐりはんぐわん》、和藤内《わとうない》が悍馬《かんば》・猛虎に跨《また》がる如く、ガネサに模し作られた大黑天は、初め、鼠を踏み、次に、乘る所を、像に作られたが、厨神として、臺所荒しの鼠を制伏するの義は、上述、中禪寺の「走り大黑」位い[やぶちゃん注:ママ。]に痕跡を留め、後には、專ら、之を愛し使ふ樣《やう》思はるるに及んだのだ。「淇園一筆《きえんいつぴつ》」に、大内《おほうち》で、甲子祭《きのえねまつり》の夜、紫宸殿の大黑柱に、供物を祭り、箏《こと》一張で、四辻殿《よつつじどの》、「林歌《りんが》」の曲[やぶちゃん注:雅楽の曲名。]を奏す。是れ、本より、大極殿の樂也。此曲を舞ふ時、舞人《まひびと》、甲《かぶと》に鼠の形をつけ、上の裝束も、色糸で、幾つも鼠を縫付《ぬひつく》る、とある。是も、大黑に緣ある甲子の祭りに、其の使ひ物の鼠を、愛し翫《もてあそぶ》樣《やう》だが、本《もと》は、鼠が、大黑柱を始め、建築諸部を損ぜぬ樣、鼠を捉ふる「まね」して、之を厭勝《えんしやう》したので有《あら》う。
[やぶちゃん注:以下の附記一段は、底本では、全体が一字下げである。]
以上、大正十三年正月、『太陽』え[やぶちゃん注:ママ。]出すべく、綴つた鼠の話の内、本題に關する所を寫し取り、其後、知《ち》、及んだ事を、少しく、書加《かきくは》へたもので、歡喜天と大黑天の間に、相纏《あひまと》はつた著しい關係あるを、證するに、十分と思ふ。