譚海 卷之五 疱瘡守札の事
[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]
○「小川與惣右衞門 船にて約束の事」と書(かき)、ではいりの門、又は、戶ある口々に張付置(はりつけおく)ときは、「その家の小兒、疱瘡、輕くする。」と、いへり。是は、前年、疱瘡神、關東へ下向ありしときに、桑名の船中にて、風に、あひ、すでに、船、くつかヘらんとせしを、與惣右衞門といふ船頭、守護して、救ひたりしかば、疱瘡神、よろこびて、「此謝禮には、その方の名、かきてあらん家の小兒は、必ず、疱瘡、かろくさすべき。」と約束ありしゆゑ、かく書付(かきつく)る事と、いへり。
[やぶちゃん注:「疱瘡」は撲滅された天然痘のこと。底本の竹内利美氏の注に、多くの『疫病の流行は、かつては疫神』(やくしん・やくじん・えきしん)『の遊行』(ゆぎょう)『によると信ぜられていたので、その鎮送』(ちんそう)『の呪術や祭事がいろいろおこなわれた。「疫神を救った船頭の名を書いて張る」という素朴なマジナイもその一つだが、意外に同類の話がひろく流布した。「はだか武兵衛」といったものも他にある』とあった。ウィキに「はだか武兵」(はだかぶひょう)があり、『江戸時代後期の中山道の駕籠かき。疫病の人々を救ったという中津川の伝説的な人物。武兵衛ともいう』。『中山道鵜沼宿の出身であるという』。『中津川宿の茶屋坂というところに住んでいたが』、『年中、ふんどし一枚の裸で過ごしていたとされる』。『ある夜、木曽街道の須原宿の神社で疫病神と同宿して、兄弟分の縁を結び、武兵が来れば疫病神が逃げていくという約束をしたという』。『以来、疫病の者のところへ武兵が来ると病が治り、これが評判になったとされる』。『ある時』、『中山道の大湫』(おおくて)『宿で、江戸に向かう長州候の姫が医者も見放すような重い熱病を発したため、武兵を呼んだところ』、『嘘のように全快し、一層』、『評判を高めたという』。『現在も、中津川市字上金往還上地内の旭が丘公園の中に、はだか武兵の祠が祀られて』おり、『武兵の祠の前に置かれた舟形の石は、叩くと金属のようなチンチンという音がすることから「ちんちん石」と呼ばれ、自分の年の数だけ石を叩くと』、『病気にならないといわれている』とあった。]