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2023/05/16

「近代百物語」電子化注始動 / 叙・目錄・巻一「二世のちぎりは釘付けの緣」

 

[やぶちゃん注:明和七(一七七〇)年一月に大坂心斎橋の書肆吉文字屋市兵衛及び江戸日本橋の同次郎兵衛によって板行された怪奇談集「近代百物語」(全五巻)の電子化注を始動する。

 底本は第一巻・第三巻・第四巻・第五巻については、「富山大学学術情報リポジトリ」の富山大学附属図書館の所蔵する旧小泉八雲蔵「ヘルン文庫のこちらからダウン・ロードしたPDFを用いる。しかし、同「ヘルン文庫」は、第二巻がない。ネット上で調べてみたが、この第二巻の原本を見出すことが出来ない。そこで、所持する国書刊行会『江戸文庫』の「続百物語怪談集成」(一九九三年刊)に載るもの(底本は国立国会図書館本とあるが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索しても、かかってこないので、公開されていないことが判ったばかりであった)を底本として、外の四巻とバランスをとるため、漢字を概ね恣意的に正字化して用いることとした。なお、「続百物語怪談集成」からその他の巻もOCRで読み込み、加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。

 本「近代百物語」は上記「続百物語怪談集成」の太刀川清氏の「解題」によれば、刊記は冒頭に記した通りで、以下に示す、『鳥飼酔稚』(「とりがひすいち」(歴史的仮名遣)と読んでおく)『の序によると遍参の僧の怪説を川崎氏なるものが書きとめたことになっているが、『享保以後大坂出版目録』によれば、作者は吉文字屋市兵衛、すなわち序文を識した酔稚こと吉文字屋三代目洞斎である』と明らかにされておられ、この吉文字屋は書肆主人であったが、同時に『百物語怪談集の』執筆・『出版に余念のなかった』人物なのである。但し、太刀川氏は、『本書は全一五話、各巻三話ずつ、そのうち二話は「今はむかし」で始まる説話である。したがってこの形式のものが全巻で一〇話、そのうち七話にこれに先立って内容に関する前置きがある』こと、及び『各説話の長さが一定しないのは怪異小説の通例とはいえ、形式でも前置き、そして「今はむかし」の形を採らないところから』、『これには一考を要するところである。序文で酔雅が川崎氏の名をあげ、出版に際して酔稚が自分を作者としていることを併せてみるとやはり問題がありそうである』と作者を彼と断定するにはやや疑問があると推理されておられる。

 字体は略字か正字かで迷った場合は、正字を採用した。また、かなりの読みが振られてあるが、振れそうなもの、難読と判断したもののみをチョイスし、逆に読みが振られていないが、若い読者が迷うかも知れないと判断した箇所には、推定で歴史的仮名遣で読みを《 》で挿入した。踊字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」などに代えた。句読点は自由に私の判断で打ち、また、読み易くするために、段落を成形し、記号も加えてある。注はストイックに附す。ママ注記は五月蠅くなるので、基本、下付けにした。

 なお、本書には多数の挿絵があるが、「ヘルン文庫」の四巻はPDFから挿絵部分をJPGに変換して絵のみをトリミングしたものを、画像修正は加えずに挿入する。同リポジトリのこちらの「貴重図書について」に『・展示/出版物掲載で利用される際には、原本が富山大学附属図書館所蔵である旨を明示してください。』とあることから、使用は許可されてある。挿絵ごとに、この明示をする。而して、欠損している第二巻は「続百物語怪談集成」では五幅の挿絵があるが、その「続百物語怪談集成」にあるものをトリミング補正して使用する。因みに、後者については、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 ただ、どうも「ヘルン文庫」の場合、挿絵の位置が、どれも、話本文とは離れていて、おかしい。総てに於いて、「続百物語怪談集成」の挿絵配置を参考に、適切と思われる箇所に置いた。

 

 

新版

  近代百物語一 一之巻

繪入

 

[やぶちゃん注:以上は底本の表紙(明らかに新しい「近代百物語」の題箋があるが、省略した)の次にある原版本の表紙と思われるもの。頭の「新版」と「繪入」は底本では標題上に割注式に並んで入っている。なお「巻」の字はざっと全巻を見ても「卷」ではなく、「巻」である。

 以下、「叙」と「目錄」。]

 

近代百物語叙

 

 釈迦文尊者(しやかぶみそんじや)の大德、大いなるかな。上智をさとすに、不可説、微妙の間《かん》に、大悟を得、下愚(かぐ)に至つては、三世《さんぜ》因果をもつて、𢙣(あく)をこらし、善をすゝむ。衆生濟度の法便、仰ぐべし、尊(たつと)ぶべし。是れ、將(はた)、怪にあらずして、なんぞや。怪の大いなるものなり。近世(きんせ)、風雲の僧ありて、遍參の間《あひだ》、傳聞、或(あるひ[やぶちゃん注:ママ。])は、まのあたり見る處の怪説を、かたる。川崎氏、書きとゞめて、五冊と成る。是(これ)、將(はた)、怪の小なる物也。大ものは、大益あり。小なるものも、また、小補(《しやう》ほ)なくんば、あらじ。此事を得て、梓行《しかう》して、世に弘(ひろむ)るの理(ことわり)、是によつて省悟(せいご)すべし。

 明和七年

  寅正月吉辰           鳥飼醉稚題

 

 

近代百物語目錄

 一之巻

   二世(せ)のちぎりは釘付(くきつけ[やぶちゃん注:ママ。])の緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。]

   いふに甲斐なき蘇生の悅び

   なべ釜の勢ぞろへ

 二之巻

   矢つぼを遁れし狐の妖怪

   貪欲心が菩提のはじまり

   はこね山幽㚑酒屋(ゆうれいさかや)

 三之巻

   㙒馬(のむま)にふまれぬ仕合吉(しあはせよし)

   磨(とき[やぶちゃん注:ママ。])ぬいた鏡屋が引導

   狐の嫁入り出生(しゆつしやう)の男女(なんによ)

 四之巻

   勇氣をくじく鬼面(きめん)の火鉢

   怨(うらみ)のほむらは尻(しり)の火ゑん

   山の神は蟹が好物(こうぶつ)

 五之巻

   巡(めぐ)るむくひは車(くるま)の轍(わだち)

   猫(ねこ)人に化(け)して馬(むま)に乘(のる)

   慈悲をかんずる武士の返礼

 惣目錄終

 

 

近代百物語巻一

   二世の契りは釘(くぎ)づけの緣

 諺に、「ねんりき、岩を、とをす[やぶちゃん注:ママ。]。」とは、古人の妙言、万事、いろにかへて、まなびなば、成就せずといふ事、あらんや。

 今はむかし、傳藏主(でんぞうす[やぶちゃん注:ママ。])といふ小僧あり。生國(しやうこく)は伯耆(はうき)の國の人にして、十二歲より、出家となり、

「學文の爲に。」

とて、諸國に行脚しけるが、生得(しやうとく)、万人《ばんにん》にすぐれたる美僧にて、みな人、

「おしき事かな。」

と、うらやまざるは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「傳藏主」歴史的仮名遣は「でんざうす」が正しい。不詳。「藏主」は禅寺の経蔵を管理する僧職を指す。]

 あるとき、越後の國、高田といふ所に、佛書の講談あるよし、其さた、四方(よも)に聞へければ、傳藏主も、きくと、其まゝ高田にくだり、每日、かうだんの席にすゝむ。春より夏にいたりて、長々の事なれば、武家をはじめ、町人までも、歸依する人、おほくして、あるひは、茶の施主(せしゆ)、「ちやのこ」をおくり、忌日(き《にち》)には、齊米(ときまい)をつかはし、休日には、酒飯をあたへて、労(らう)をたすけなどしけるが、其ころ、高田の町に、むらかみ屋五郞右衞門といふ大あきんど、一人のむすめありて、「おつね」と名づく、二八の、容色、たん花(くは[やぶちゃん注:ママ。])のくちびる、一たび笑(ゑめ)れば、國をかたふけ、蜂腰(はうよう)、しぜんのぼんじゆりふう、窈窕(ようてう[やぶちゃん注:ママ。])と、いよやかなる。

[やぶちゃん注:「茶の施主」茶の湯の施主となって、檀家諸人に茶を施すことを言う。

「ちやのこ」「茶の粉」。

「齊米」僧の斎(とき:食事)に供する米。その料として僧や寺に施す米を指す。

「二八」数え十六歳。

「たん花」正しくは「たんくわ」。「綻花」。花が咲くことを言う。その娘の美しい色形の唇の比喩。

「しぜんの」「自然の」。つくろったりしない、そのままの。

「ぼんじゆりふう」不詳。副詞の「ぼんじや(ゃ)り」ではなかろうか? 「柔和でおっとりしているさま」或いは、特に女性の「ふくよかで美しいさま」を言う語である。

「窈窕」「えうてう」が正しい。「しとやかで奥ゆかしいさま・美しくたおやかなさま・上品なさま。また、そのような美女を指す語。

「いよやかなる」「彌(いよ)やか」「やか」は接尾語で、「明らかなさま・はっきりしているさま」の意。「窈窕」であることが、である。]

 五郞右衞門、一日《いちじつ》、僧衆(そうしゆ)をまねき、珍菓・名酒のもてなしに、僧衆も詩を賦し、和哥(わか)を詠じなどしけるが、娘「おつね」は、

「僧衆の參會(であい)、いかなるものぞ。」

と、物かげより、そと、さしのぞきしに、おりふし、傳藏主も、和歌を詠じ、ともしびのもとに、硯(すゞり)、ひきよせ、したゝむるを見しより、「恋のやまふ[やぶちゃん注:ママ。「戀の病ひ」。]」となり、うちふしてのみ、くらせしが、聞くにつけ、かたるにつけ、其おもかげの、身にそひて、いやましのおもひ寢(ね)や。

 

Kamigakimeruhuhu

 

[やぶちゃん注:この挿絵が「ヘルン文庫」の一之巻の終りの方にある一枚(富山大学附属図書館所蔵のもの)。以下の詞書きが絵の中にある。配置はそのまま。読みは総てあるものを添えた。

   *

我(わか[やぶちゃん注:ママ。])神國(しんこく)は神(かみ)のおしへ

男女夫婦(なんによふうふ)のむすびを出雲(いつも[やぶちゃん注:ママ。])の大社(おゝ[やぶちゃん注:ママ。] やしろ)に神

集(あつま)らせ給ひ

定(さだ)めてたまふ

よしを申傳(つた)へ

          ぬ

皆(みな)神のめざめ

てふ夫婦の

緣(ゑん[やぶちゃん注:ママ。])なれば

《以下、下段。》

互(たがい[やぶちゃん注:ママ。])にむつ

 まじく

  有

   たし

   *]

 

Kamimusubi

 

[やぶちゃん注:同じく前の絵に続くもの(富山大学附属図書館所蔵のもの)。詞書は、

   *

神(かみ)のむすび

置(おか)せ給ふ緣

なるを心のまゝ

       に

すぐなさるを

思(おも)ふまゝ神の

みこゝろ背《そむ》きて

 萬(よろづ)心の叶(かな)わぬ[やぶちゃん注:ママ。]

    事

  のみ

   出來り

    ぬべし

《以下、中段》

出雲

 やしろ

  風

   景

   *]

 

「いはでは、てんも、はかなし。」[やぶちゃん注:「てん」は「天」で、天地・天上界・神・天命の意ではあるが、ここは「『好き』と言わないでは、とてものことに、はかないばかり。」の強調の謂いであろう。最初の挿絵は、それを本文とは特異的に離れつつも、別なシチュエーションとして、具体に描いているようにも見えて、甚だ面白い。]

と、心をこめし筆のあや、人目のせきの、おそろしけれど、媒(なかだち)をもとめ、いひやりしかど、傳藏主は、顏、うちあかめ、手にだに、とらでありけるが、日ごとに、かよふ、ふみの數(かず)、千束(ちつか)にあまれば、大ひに、おどろき、

「我、佛道にこゝろざし、かくまで、学びし『かひ』もなく、今、此ところに、一心、墮落し、女犯(によぼん)をもつて破戒せん事、おそるべし、おそるべし。これぞ、天魔の障碍(しやうげ)なるへし[やぶちゃん注:ママ。]。片時(へんし)も、はや、はや、立《たち》さらん。」

と、多くの文とも[やぶちゃん注:ママ。「ども」。]、取出《とりいだ》し、封のまゝにて、のこらず、燒(やき)すて、柱杖(しゆ(じやう)を友に、一衣(ゑ[やぶちゃん注:ママ。])一鉢(はつ)、身は、うきくもの、さだめなき、古鄕(こきやう)に、いそぎ、かへりしかば、「おつね」は、聞くに、たへかぬる。

 よしや、うき世にながらへて、見る事だにも、かなはねば、昼は、ひねもす、泣(なき)くらし、夜(よる)は、よすがら泣あかし、かはく間もなき、なみだの床(とこ)、芙蓉(ふよう)のかんばせ、色さめて、日影まつ間のあさがほや、たのみ、すくなく、見へければ、兩親は、かくぞともしらで、見る目の、いたいたしく、神に詣(まふで)つ、佛(ほとけ)に、いのり、傍《そば》を、はなれぬ、かんびやうの、くすりも、つきて、はかなくも、おしや、二八の、つぼめる花、さそふあらしにちらされて、今は、名のみぞ、のこりける。

 傳藏主は、古鄕に庵居(あんご)し、日夜、書籍(しよじやく)に眼(まなこ)をさらし、十五、六年、つとめしかげにや、光陰、とゞまらず、歲霜(せいそう)、つもりて、三十余年、

「いさや、これより、京都に立ちこへ、ゆかりの人のあるを、さいはひ、㚑佛・㚑社を巡拜し、名所古跡も一見せん。」

と、また、たち出づる。

 みやこのかた、岡崎のほとりに、原田源助といふ浪人あり。

 傳藏主が叔父なりしが、たづね行(ゆき)て、座しきに通れは[やぶちゃん注:ママ。]、源助夫婦、對面し、四方やまのはなしうち、

「その方、いにしへ、越後の國へくだり給ふ、もはや十五年いぜんにて、血氣さかんの最中なりしが、三十歲にもあまりぬれば、髭(ひげ)なども、はへ、すがたも、あれて、むかしのかたちは、なきぞ。」

など、物かたりありければ、傳藏主、手をうつて、

「越後くだりに立ちよりしが、十五年になりしよな。愚僧はかへつて、わすれしに、よくこそ、おぼへさふらふ。」

と、あいさつすれば、

「さればとよ、其としの秋のころ、拙者が妻、懷姙して、誕生せし女子(によし)十四歲、これを證據のむかしがたり、娘も、追付(おつつけ)、御目に、かけん。」

と、内室(ないしつ)はおくに入、しばらくありて、娘ともども、座に、なをり、

「さいぜん、はなしの、彼(かの)むすめ、名は『おつね』といひまする。」

と、引(ひき)あはすれば、傳藏主、

「とくにも、御目にかゝるべきに、出家の身といひ、ことに遠國(をんごく)、今般(こんと[やぶちゃん注:ママ。「こんど」(今度)。])、ふしぎの上京にて、始終のやうすをうけ給はる。」

と、見やる。

 「おつね」が顏のいろ、朱(しゆ)をそゝぐがごとくにて、眉毛、さか立ち、

「きつ」

と、にらみ、

「御身に高田ですてられし『おつね』がたましゐ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、時を得て、これまで、生(うま)れ來たりしぞ。」

と、傳藏主に、いだきつき、

「いやでも應(おふ[やぶちゃん注:ママ。])でも、そはねば、おかぬ。今また、こゝで、ころされても、たましゐ、御身に、つきまとひ、我が一念を、はらして見せん。」

と、忿怒のいきほひ、のがれんやうもなかりしが、源助夫婦は、あきれながら、

「いかなる、やうす。」

と尋ぬれば、傳藏主は、なみだをながし、

「我、かく出家と成りたれども、過去の『がういん』、つきずして、眼前(がんぜん)、希代(きたい)の女難(ぢよなん)にあふ事、古今無双の、珍叓(ちんじ)なり。」

と、高田の事ども、つぶさにかたれば、源助夫婦は、夢見しこゝち、まぬがれがたき「ゐんぐわ」をさとり、傳藏主に教訓し、

「還俗して、夫婦となり、我があと、續(つい)で給はれ。」

と、其日を、

「最上、吉日。」

と、婚禮を、とりおこなひ、夫婦となして、くらせしが、友白髮まで、そひはてたり。

 かゝる惡業(あくけう[やぶちゃん注:ママ。])・ゐんゑん[やぶちゃん注:ママ。]も、あるべき事かと、いひつたふ。

[やぶちゃん注:なかなかに面白い展開で、意外にもハッピー・エンドというのも、いいじゃないか。しかし、やっぱ、この挿絵、今まで見たことがない、本文を説明しないちょっと変な挿絵だわい。]

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