「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]
海 老 上 﨟 (大正十四年九月『集古』乙丑第四號)
岩瀨醒齋の「骨董集」下に、雛遊びの事共を多く述《のべ》た中に、海老上﨟《えびじやうらふ》の一條あり。『今、童《わらは》の戲《たはぶ》れに、鰕(えび)の目《め》を頭《かしら》とし、紙の衣裳をきせ、雛《ひいな》に造りて、「海老上﨟」とて玩《もてあ》そぶ。是れ、寬文の頃、早くありし業《わざ》にや。寬文十二年の「俳諧三ツ物」に『裏白やえび上﨟の下がさね 正長』」と載す。予、幼時、そんな物有《あつ》たやう想へど、定かに記憶せず。諸友へ聞合《ききあは》したが、皆、知らぬとの返事のみ。唯だ、平沼大三郞君のみ明答された。云く、
[やぶちゃん注:底本よりキャプションも含めてトリミング補正した。キャプションは、右から左に『第一圖』として、『品川で作つた海老上﨟』とある。]
『小生、母に問《とひ》し處ろ、薄々乍ら、そんな物を玩んだ覺えありといえど、委しく記憶せず、幸ひに、近頃、外祖母が近所に來り住める故、拙妹が往《いつ》た序でに問合さしめしに、判然致し候。右の玩品は海老上﨟と稱へ、伊勢海老の目を引き拔くと蠶豆《そらまめ》の形をなし居り、上の黑き所が恰《あたか》もお龜の髮の形也。之に紙を切《きつ》て作つた衣裳をきせ、玩びし由。母の幼時迄、此風有《あり》しも、其後、追々絕《たえ》し事と存じ候。母は四十九歲、幼時、品川に住み、祖母も幼時より同處におり候。』と有て畧圖第一圖を添《そへ》て示されたので、古い事を、長命の人から聞き得たを、悅びの餘り、「腰かゞむ迄傅(かし)づくや海老上﨟」。
[やぶちゃん注:『岩瀨醒齋の「骨董集」』「岩瀨醒齋」は知られた浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の別号(本名とされる一つが「醒(さむる)」)。「骨董集」は文化一二(一八一五)年刊の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』第八十四の塚本哲三等編(大正四(一九一五)年有朋堂書店刊)のこちらで当該箇所を視認出来る。以上の本文はそれと校合し、おかしな箇所は訂した(例えば、底本では「鰕の目を顏とし」とあるのを、そちらに従い、「頭」とした)。
「寬文」一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。
「寬文十二年」一六七二年。
「俳諧三ツ物」連歌・俳諧で発句・脇句・第三の三句を「三つ物」と称し、早くから、この三句だけを詠むことが行われてきたが、近世以降、歳旦の祝いとして各派で詠まれた。而して、その各派の、この「三つ物」を一つに集成したものが、「俳諧三ッ物」という同書名で何度も刊行されている。同名の異書が多く、調べるのが面倒であることが幾つかの資料から判明したので、調べない。悪しからず。
「正長」芭蕉の師であった北村季吟系の、上方の俳人のようである。後の熊楠の言いから
「平沼大三郞」小畔(こあぜ)四郎・上松蓊(しげる)とともに南方熊楠門下の「粘菌学の三羽烏」と称せられた人物で、熊楠の粘菌採集や生活面で協力した。]
右の平沼君の答書を本山豊治《もとやまとよぢ》氏の『日本土俗資料』拾輯(今年四月刊)に出し、『此他にも例ありや』と問《とふ》たが、其方《そつち》からは更に答へを得ず。之に反し、御膝元の紀州よりは、多少の知らせに接した。例せば、東牟婁郡大島の「蛸」となん呼ばれた賣女《ばいた》は、先頃の大火まで、上巳《じやうし》[やぶちゃん注:三月三日。]每《ごと》に、平沼君報告通りの紙雛《かみびな》の頭《かしら》を、鰕の目で作つた。其邊《そのあたり》の海底で鮪網《まぐろあみ》をひくと、四百匁[やぶちゃん注:一・五キログラム。]位い[やぶちゃん注:ママ。]の大鰕を得、其目の大《おほい》さ、小指程有て、隨分、大きな雛人形の頭が出來る、と話された人、有り。同郡請川(うけがは)村では、年始の飾り、海老を貯はへて、上巳の日、女兒ある家へ菱切り餠に、桃の花一枝と、其鰕の足數本を添え[やぶちゃん注:ママ。]贈る。其日に限らず、小兒が鰕の目を頭として紙雛を作り、遊ぶ事あり、と聞く。津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白《うらじろ》を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治《いや》し、「濕《しつ》追出し藥《ぐすり》」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え、請川村如き海遠い僻地では、上巳の祝儀用のみならず、雜多の禁厭《まじなひ》醫療の爲に、飾り海老を貯へ置《おい》た事と察する。
[やぶちゃん注:「本山豊治」(明治二一(一八八八)年~昭和四九(一九七四)年)は号の本山桂川(けいせん)の名で知られる民俗・民芸研究家。長崎市生まれ。早稲田大学政治経済科(明治四五(一九一二)年)卒。『日本民俗図誌』全二十巻や「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、「金石文化研究所」を主宰し、「史蹟と名碑」・「芭蕉名碑」などの著書がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。
「東牟婁郡大島」和歌山県東牟婁郡串本町の「紀伊大島」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「先頃の大火」調べたが、不詳。
「同郡請川(うけがは)村」現在の田辺市本宮町(ほんぐうちょう)の南部和歌山県田辺市本宮町請川。熊楠の言うように、山間部である。
『津村正恭の「譚海」一五に、正月の裏白を貯へ置き、刻みて、切れに包み、含みおれば、齒痛を治し、「濕追出し藥」に、正月の飾り鰕を、煎じ、煮汁を飮むべし、と見え』ブログ・カテゴリ『津村淙庵「譚海」』で二〇一五年から電子化注を行っているが(現在の巻之五がつまらぬため、やや停滞中)、フライングするまでのものでもなく、最終巻「卷の十五」「諸病妙薬聞書」のリストの二箇所。以下に示す(三一書房『日本庶民生活史料集成』第八巻(一九六九年刊底本))。なお、同巻は病状毎の対治療のソリッド記載となっており、二条は離れている。
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○齒の痛みには
正月のうらじろ【齒朶の事】を貯置き、きざみて切れに包み、ふくみ居れば治す。
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○しつをひ[やぶちゃん注:ママ。]出し藥
正月かざりえびをせんじ、煮汁を飮べし。
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この「濕」とは漢方で言う「湿邪」。梅雨時などの湿度の高い時期に、余分な水分や老廃物が溜まることで引き起こされる心身の不調を指す。]
[やぶちゃん注:画像は同前。キャプションは『第二圖』で指示線と記号(甲・乙・丙・丁及びイ・ロ・ハ・ニ・ホ)が附されてある。]
[やぶちゃん注:同前で、『第三圖』。]
田邊町の風流紳士佐山千世氏に問ふと、其幼時、上巳に限らず、鰕の目さへ、手に入《いら》ば、其れで人形を作り、翫《もてあそ》んだとて、特に、伊勢鰕二疋を携へ來り、眼前、之を製し、觀《み》せられた。凡そ伊勢鰕の目は第二圖(甲)で見る如く、蠶豆形で、「ニ」なる眼莖上《がんけいじやう》に附く。目の前部「ハ」は、球狀で、淡黃褐色、半透明故、内部の瞳とも云ふべき黑塊《こくくわい》が、映りだみて、見える。後部は、大分、扁《ひら》たく、その上面口《じやうめんぐち》は、眞紅で、前方に、偏《へん》して白き細條《さいじやう》一《ひとつ》あり。下面「イ」は眞白《しんぱく》で、其後瑞に、近く、やや歪んだ紅の短線「ホ」[やぶちゃん注:「乙」図。]あり。兩面共、滑らかに光り、墨附き良ければ、濃い墨で、黑く眼鼻を𤲿《ゑが》くと、件《くだん》の紅短線《こうたんせん》が、口に紅さした如く見え、宛然、「お多福」の面の如し。此故にや、かやうのことを知らぬなりに、今日も、田邊で、伊勢鰕の目を「お多福」と稱《とな》ふ。扨《さて》、頭は平沼氏が𤲿ける如くに黑からず、茶色の髮の歐米女人《によにん》が斬髮した體《てい》に見え、額の髮際が、兩方、不整等《ふせいとう》に上へ凸入《とつにふ》し居り、較《や》や、猴《さる》の前額《ぜんがく》を見る樣である。此目を引き拔くと、深い穴、有《あり》て、眼球の中空な内部に通じ、其穴は、廣いから、松葉や爪楊枝に合はず、帚《はうき》に作つた竹の細枝の一節を頂にして、其穴に差し込むと、節が、目の前端、乃《すなは》ち、「お多福」の頭頂に屆いて、しつかり食ひ留め、搖るがしめず。此鰕の尾は、五枚より成る。その眞中の一枚(「丁」)は、他の四枚と異《かは》り、左右整等で、先《まづ》は、力士の化粧廻しの樣だ。中が空虛で、小兒等《ら》、ホウズキの樣に吹き膨らす。今、二疋の鰕より、眞中の尾片《びへん》、二枚を採り、其胴に著き居《をつ》た端を、相《あひ》接近せしめて、帚竹《はうきだけ》の小枝で、眞中を串刺しにし、扨、上に突き出た枝の端に、鰕の目をさしこむと、第三圖通りの人形が出來る。扨、一手《いつて》で尾片を持ち、他の一手で竹枝を廻《まは》すと、第二圖の「乙」なる白色の「お多福」、「丙」なる赤色の「お多福」の二顏《にがん》が、此方彼方《こつちあつち》と、向き替るを、小兒の遊びとした、との事。念の爲め、斷わり置くは、紅面《こうめん》の方には、「お多福」の口に當たる紅短線が無いから、墨で口を𤲿くを要するが、白面《はくめん》の方には、それが自然に在《あつ》てやゝ歪みおる[やぶちゃん注:ママ。]ので、含笑《ふくみわらひ》する體《てい》に見える。又、此に類した「樟《くす》の葉のサムライ」と云《いふ》は、樟の實が、秋、熟した時、其葉、二枚を、上下とし、黑い實を頭として、其莖で、上下の葉を刺し合せたので、松葉を、大・小、刀《かたな》にさゝせた、と話された(第四圖)。
[やぶちゃん注:「佐山千世」佐山伝右衛門。詳しい事績や名前の読み方は判らないが、「風流紳士」とあるが、調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションで資料検索をしたところ、この『官報』資料で(左ページ上から三段目の五・六項目)、佐山千世の名で、大正一四(一九二五)年三月時点では、『田邊銀行』取締役であったことが確認出来た。
「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 。]
[やぶちゃん注:同前で、『第四圖』『田邊で作つた樟の葉さむらい』とある。]
上に出した「腰かゞむ迄かしづくや海老上﨟」の句を傳聞して、
「季節がない故、句に成《なつ》て居《を》らない。」
と、二、三子、木葉天狗《こつぱてんぐ》が、やり込《こん》で來た。南方先生、長大息《ちやうだいそく》して、歎じて言《いは》く、
「だから、馬琴の歲時記ぐらいを、玉條と滿足する輩《やから》に附《つけ》る藥は、無しだ。汝ら、知《しら》ずや、京傳が引《ひい》た正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年に成た言水《ごんすい》の「俳諧江戶辨慶」に『海老上﨟龍のみやこや屠蘇の酌 如船』とあるを、遠《とほ》から御存知だが、貴樣等《ら》は、知《しら》ぬに極まり居る。正長が「裏白や」といひ、如船が「屠蘇の酌」と言《いつ》たので、海老上﨟は、飾り海老同樣、年始の物と判る。去《され》ばこそ、平沼さんのお祖母さんが、新年祝ひに、『腰かがむ』云々とやらかしたのだ。」
と聞いて、吃驚《びつくり》、木葉どもは、散りてんけり。其後も左思右考するに、どうも近來の名吟としか惟《おも》はれぬ。但し、飾り海老は目出度い物故、保存して禁厭醫療に用ひ、其目で、新年とか、上巳の外にも、雛人形を拵へ玩ぶ所、有たは、上述の如し。是は、雛遊びが、上巳に限らなんだ古風が殘つたので有る。「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」。これは何時頃の書で、此句は何の意味か、大方の敎示を冀《こひねが》ふ。
[やぶちゃん注:「季節がない」確かに、こいつら、救いようのない似非文人の木っ端どもである。かの芭蕉は「季の詞(ことば)とならざるものは無い」と明言している。しかも、歳旦句とは歳旦に詠むものだからこそ、そこに「季」は自動的に定まっているのである。字背にその雰囲気と年始の情景が髣髴すると同時にそれは、「新年」の「季」の特別な「晴れ」の句なのである(というより、私は中学時代に『層雲』に入った元自由律俳句で、今、定型を作ることがあっても、季語を絶対に意識しない無季語志向である)。一昨日来やがれ! 化け烏天狗ども!
「馬琴の歲時記」曲亭馬琴編の「俳諧歳時記」は近世歳時記の決定版という評価がなされているもので、発行書肆を異とした四種が刊行されているが、孰れも享和三(一八〇三)年上梓されている。岩波文庫で所持するが、そもそも馬琴は、俳才もなく、というより、彼は確信犯で発句を完全に馬鹿にしており、私は彼が「俳諧歳時記」を書くこと自体が、鼻白むどころか、馬琴の鼻を捩じり曲げてやりたい、ゲロを吐きたいほどであることを告白しておく。守銭奴バキンめガ!
「正長の句が出板されて後ち、八年、延寶八年」「延寶八年」は一六八〇年。徳川家綱が死去し、綱吉が将軍となった年。「後ち、八年」とあるからには、この正長の三ッ物の一句が載る「俳諧三ツ物」は、寛政十三年(二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に延宝に改元)に板行されたものということになる。「三ッ物」本では、これはかなり早い時期の刊行本の一つと考えてよい。
『言水の「俳諧江戶辨慶」』江戸初期の松尾芭蕉と同時代の俳人である池西言水(ごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は、ウィキの「池西言水」によれば、奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』、延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に第一撰集である「江戸新道」を編集、その後、「江戸蛇之鮓」、ここに出る第三撰集「俳諧江戶辨慶」(推定で延宝八(一六八〇)年刊)、「東日記」などを輯し、『岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある人物である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、同書の活字本の当該部(部立「元日」。右ページ下段中央)が視認出来る。
『「嬉遊笑覽」卷六下に引た「前句付廣海原」に「いり海老はげに上﨟の箸休め」』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ(右ページの頭書「蜜柑の猿」の条)を視認されたい。しかし、この熊楠先生も判らぬ「前句付廣海原」なる俳書は不詳である。]
其から、「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、公の寵、衰へたるを歎きて、小さい衣服雛衣を、二つ、縫ひ、下前《したまへ》に、一首宛《づつ》歌を書《かき》て女神に進《まゐ》らせた記事を引《ひき》て、今の女童《めわらは》が「粟島サン」をさきに童部《わらはべ》の仕業《しわざ》に古いことが多いと述《のべ》たは、今日、西說受賣《せいせつうけうり》の民俗學者に、萬々《ばんばん》勝つた創見だ。扨、粟島に鎭座する少彥名命《すくなびこなのみこと》は、高皇產靈尊《たかみむすひのみこと》の指間《しかん》から、漏れ落ちたほど、小さかつたから、雛を奉るも由あり、と說《とい》た。「粟島祭《あはしままつ》り」は上巳の日で(今年より四月三日)、加太《かだ》の「鰕祭り」とて、伊勢鰕斗《ばか》りの料理で、加太浦、擧《こぞ》つて大飮した。此浦で、獨創でも無からうが、鰕の目も、此日、夥しく手に入《はい》る故、廢物利用で、鰕の目の雛人形を、澤山、此神に奉つたと察する。俗にいふ「人形廻し」、又、「夷廻《えびすまは》し」は、專ら、西の宮の夷《えびす》三郞左衞門の尉《じやう》は云々と、漁利の神をほめて、人形を廻し、錢を貰ひ、旅するを、漁村の人々が歡迎する。夷の顏を二つ、前後に合せて廻す事、佐山氏が示された海老人形に、全く似て居《を》る。かやうの「人形廻し」より「操《あやつ》り」、「操り」より「人形芝居」と進化した次第は、喜多村信節《のぶよ》の「畫證錄」や「嬉遊笑覽」を參考せば、判る。近年迄、紀州海草郡淸水てふ漁村では、每度、醵金《きよきん》して、人形芝居を傭《やと》ひ、興行せしめ、其都度、偶人《くぐつ》、一つ、失せた。之を盜めば、漁利多し、と信じたからだ。根本は「夷廻し」と呼んだのが、其から進化した人形芝居を呼ぶ事と成たと見える。
[やぶちゃん注:『「骨董集」に、「蜻蛉日記」より、攝政兼家公の室が、……』先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』のこちらで当該箇所を総て視認出来る。
「粟島祭りは上巳の日で(今年より四月三日)」和歌山県和歌山市加太にある淡嶋神社(現行の正式表記は「嶋」である)の例祭であるが、公式サイトの「年中行事」を見ると、「春の大祭」の項に、現在は四月三日としつつ、『以前は』三『月』三『日に行われていた』と注意書きがある。その前の「雛祭(雛流し)」は、三月三日の行事で、かなり力を入れて書かれてある。サイト「きごさい歳時記」の「粟島祭(あわしままつり/あはしままつり) 仲春」の記載では、『婦人の病の平癒を願って、櫛・乳型・雛人形が奉納された。全国から奉納されるおびただしい数の雛人形を舟に積み、海に向かって雛舟が流される。近年、関西では有名な行事となった』とあり、ウィキの「淡嶋神社」の「婦人病祈願」の項に、『淡島神は婦人病にかかったため』、『淡島に流されたという伝承から、婦人病を始めとして安産・子授けなど』、『女性のあらゆる下の病を快癒してくれる神社とされている。かつては祈願のため』、『男根形や自身の髪の毛などが奉納されていたが、現在はそれらに代わって』、『自身の穿いていた下着を奉納する女性が多い。境内奧の末社には絵馬などと共に多数の女性用下着が奉納されている』とあった。則ち、この春の大祭こそが、本来の女性を守る主祭であったのではないかと思われる。しかし、その奉納品の内容が内容だけに、三月三日の、近代以降、女子の晴れやかな「雛祭り」となった同日の、旧主祭事の執行を避け、四月に移されたのではないかとも私には思われる。さればこそ、この熊楠の、わざわざの注意書は、やはり移動した本来の大祭の方を言っているものと考えてよい。
「紀州海草郡淸水」「ひなたGPS」で旧「海草郡」相当の海浜をテツテ的に調べたが、ない。そもそも旧「海草郡」には「淸水」という村自体が、ない。而して、たった一つ、熊楠の表記誤記であるとすれば、現在の和歌山県海南市冷水(しみず)の可能性が極めて高い。ここは旧「海草郡」内で、海浜であるからである。「ひなたGPS」で戦前と現在の地図で示す。
「𤲿證錄」喜多村の考証随筆。]
「窻《まど》のすさび」追加に、『惠比須の像迚《とて》、繪にも書き、木にも刻みぬるは、廣田の神主の像也。」と有て、神功皇后、筑紫より歸途に、西宮廣田の神社、荒れ果《はて》て、神主、釣を業《なりはひ》として、漸《やうや》く、神に仕へ、鯛を釣《つり》て獻じた。由緖を聽取《ききとり》て、所願を問《とは》れしに、神社再興を願ふて、造立された。其神主の名が「夷《えびす》三郞」、本社再興の功で、末社と崇められた。後世、堺の商人、此宮を信じ、月詣りして、富有《ふいう》と成たが、月詣り、叶はなく成たから、其宅に、神影を寫し、朝夕、拜みたい、と望むに、神に寫すべき形、無ければ、彼《か》の夷三郞が、鯛を釣《つり》て獻上に持ち行く體《てい》を繪《ゑが》き與へたのが、世に廣まつた、と出づ。「南水浸遊」に、『傀儡師《くぐつし》、昔しは、西宮並びに淡路島よりも出《いだ》し、夷の鯛を釣り玉ふ仕形《しかた》をして、春の初めに出來る故、「夷廻し」・「夷かき」とも云《いへ》り。』。「東海道名所記」六に、『又、淨瑠璃は、其頃、京の次郞兵衞とかや云ふ者、後に淡路丞を受領せし西の宮の「夷かき」を語らひ、四條河原にして、鎌田政淸が事を語りて、人形を操り、その後、「がうの姬」、「阿彌陀の胸割り」抔いふ事を語りける。』。「夷廻し」が操り人形の初めだつたのだ。「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、生存中、夷三郞殿の神慮に叶ふた道君房てふ人の像を作り、舞《まは》しありきしとか、西の宮なる百太夫の神像は古き雛の形ち抔、記す。其から推すと、佐山氏が示された、「お多福」面が廻る「鰕の目人形」は、專ら、元旦・上巳に依り祝はるゝ「海老上﨟」と異《かは》り、本《も》と、雛人形を廻して、船舶の無難と、漁利多き樣、祈つたを、眞似た兒戲《じぎ》だつたが、後には、鰕の目を頭として、エビスと、エビの、音便、旁(かたが)た、「夷廻し」の眞似事と成たで有《あら》う。紙雛を「船玉神《ふなだまがみ》」と齋《いつ》ぎ、船每《ごと》に、祕し納めおく事は、「松屋筆記」に見え、今日も熊野で一汎にする。
[やぶちゃん注:「窻のすさび」丹波篠山藩家老にして儒者であった松崎白圭(はくけい 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:伊藤東涯に学び、荻生徂徠門下の太宰春台らと親交があった。名は堯臣(ぎょうしん)。別号に観瀾)の考証随筆。「窓のすさみ」の方が一般的呼称である。国立国会図書館デジタルコレクションの『有朋堂文庫』(昭和二(一九二七)年刊)のここで当該部を視認出来る。
「西宮廣田の神社」現在の兵庫県西宮市大社町にある広田神社。私は神功皇后の実在を疑っているので、同神社の「御由緒」のページをリンクするに留める。
「南水浸遊」作家・浮世絵師の浜松歌国(颯々亭南水:安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)が書いた随筆。
「鎌田政淸」(保安四(一一二三)年~永暦元(一一六〇)年)は平安後期の武士。遠江国出身か。源義朝の家人で乳母子。「保元の乱」(一一五六年)では、京の白河殿で源為朝と戦い、その頰を射るなどの活躍を見せたが、「平治の乱」(一一五九年)では、一時、藤原信頼が政権を掌握すると、兵衛尉に任ぜられ、「政家」と改名した。しかし、結局、平清盛に敗れ、義朝とともにに東国へ落ちる途中、尾張国知多郡野間の鎌田の舅である長田忠致(ただむね)を頼ったが、裏切られ、義朝とともに殺された(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「がうの姬」不詳。しかし、これ、源義経と最期をともにした正室郷御前(さとごぜん 仁安三(一一六八)年~文治五年四月三十日(一一八九年六月十五日)をモデルとした古浄瑠璃ではなかろうか。故郷である河越では、京へ嫁いだ姫である事から「京姬(きやうひめ)」と呼ばれ、また、延享四(一七四七)年の浄瑠璃「義経千本桜」での義経の正妻は、平時忠の養女で川越太郎の実の娘「卿(きやう)の君」であり、音が似ている。
「阿彌陀の胸割り」古浄瑠璃の本地物(ほんじもの)。六段。六字南無右衛門作とされ、慶長一九(一六一四)年上演の記録がある。他人の難病を治すために娘が自分の生き肝を捧げようとすると、阿弥陀が身代わりになって、その胸から血を流すという粗筋。
『「𤲿證錄」に、傀儡師の祖、百太夫《ももだいふ/ひやくだいふ》なる者、海の荒れを靜めん爲め、……』国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本で概ねの当該部が視認出来る。ここを見ると、熊楠の、この前後の部分全体が、これが種本じゃないか、とバレまくりだ。熊楠は、時に人が寄せて纏めたものを、あたかも自分が、それらの原本を照覧して書いているかのように記すことが、まま、ある。他の研究家のいい加減な謂いを激烈に指弾する割に、自分には、結構、甘いのである。
「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。]
斯く、鰕の目の雛に紙を着せると、鰕の尾を衣裳に擬《ぎ》する、二樣、有り。之を作る理由も、多少、異なる樣だが、要は、雛遊びは、昔し、三月三日に限らず、鰕の目が、女の顏に似るから、其れで雛人形を作り、玩び、正月に作ったのを「海老上﨟」と稱へたが、後には、何時作つても、かく呼《よん》だと見える。
[やぶちゃん注:同前で、キャプションは、『第五圖』『英國の海老上﨟』。]
支那で「鰕杯《かはい》」とて、鰕の殼で盃《さかづき》を作り、其鬚を、簪の柄《え》にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆれど、其眼を玩具にすることを、聞かぬ。歐州に至ては、海老上﨟は有たが、日本のと大《おほい》に差《ちが》ふ。彼方《あちら》の鰕(ロブスター)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。以下の二箇所も同じ。]の胃は頭の内に在《あつ》て、其胃中に、人や獸の臼齒《きうし》の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體《てい》にみえるから、英國で「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」又は、「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」と名《なづ》けた。今は知《しつ》た人、少ないから、去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』に、「海老上﨟」なる語を載《のせ》た書、二種を擧《あげ》て、「何事か。」と問ふた人が有た。ベンスリー氏、答へに、「牛津(オクスフォード)英語大辭典」[やぶちゃん注:読みは「選集」に従った。]に、一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」に、「レヂー・イン・ゼ・ロブスター」なる語有るを、最も古い例としあれど、實は、其より、五十年古く、ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」に、『彼《あの》男が、一番、多く祈って、日夜、燒香するのは、『海老上﨟』だ。」とあり、舊敎徒が、基督の母マリアを「吾人《われら》の上﨟(アワー・レジー)」と呼ぶ故、此鰕の三つの臼齒の正中の奴を、「聖母」と見立てたらし、と有た。然るに、質問者が引《ひい》たは、一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」で、是が、一番、古い。熊楠は、十八世紀の末、ヘルブストが出した「海老上﨟の圖」を、一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」で見出《みいだ》し、古い記文丈《だけ》では、實形が分らない、須《すべか》らく、此圖第五圖を見よと告げ遣《やつ》たが、沒書と成た。英國に、近來、斯樣の穿鑿、大《おほい》に衰へ、日本人に先を超《こさ》れたを、不快での事らしく、大戰爭以來、彼《かの》國人の氣宇《きう》[やぶちゃん注:度量。]、頓《とみ》に狹く成た例は、外にも多々ある。日本人は銳意精勵して、西洋人に西洋の事を指數《さしず》してやらにや成《なら》ぬ。是は、怠らず、又、氣長くやらねば、遂げられぬ。
花 待 つ と 腰 を 掛 け た か 海 老 上 﨟
[やぶちゃん注:『支那で「鰕杯」とて、鰕の殼で盃を作り、其鬚を、簪の柄にし、交趾《かうし》で柱杖《ちゆうじやう》とする等、「淵鑑類函」に見ゆ』「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の四百四十四巻の「鱗介部」の「蝦一」の[449-26b]の影印本を見られたい。そこに(句読点・記号は私が附した)、
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「嶺表錄異」曰、『海蝦、皮殻、嫩、紅色。腦殻、與前脚有鉗者、色、如朱。土人、多製為盃、謂之「蝦杯」。亦有以其鬚為簮杖者。
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「簮」とあるのは、「簪」で大型の海老の触角をそれにするのは、腑に落ちる。因みに、エビ類の、ここで上﨟の首になるところの眼と眼柄であるが、彼らの視力は、それほど良くなく、感覚器としては、直ぐ直近にある触角の方が感覚器として遙かに有能性を持つ。従って、襲われるなどして、例えば、片方を眼柄ごと、欠損した場合、彼らは、そこに触角を再生させる。伏木高校時代の「生物Ⅱ」(私は全くの好みから「Ⅱ」を受講した)で、高橋先生より教えられ、参考書の図も見たが、後年、二十代の頃、行きつけの寿司屋の奈良兄さんが、三本触角の伊勢海老を見つけて呉れ、感動した。無論、すっかり私の腹中へと消えて行った。
「日本のと大に差ふ。彼方の鰕(ロブスター)の胃は頭の内に在て」誤り。ロブスター(英語:Lobster)は、狭義には十脚(エビ)目ザリガニ下目アカザエビ(ネフロプス)科Nephropidaeロブスター属 Homarus に属するが、彼らに限らず、エビ類の内臓(心臓・胃・肝臓)は総て、我々が「頭」と呼んでいる頭甲の頭腹部内にある。
「其胃中に、人や獸の臼齒の樣な石灰質で食物をすり碎く物が、三つ、あり、丁度、婦人が椅子に坐つた體にみえる」これはザリガニ類に見られる「胃石」のことであろう。ザリガニの胃の中にある胃石の古称。胃石は石灰質で、食物を砕く働きをするものであるが(なお、熊楠は三個と言っているが、半球二個が合わさった一対。熊楠の謂いは、その合したものを中央襞部分が損壊されて三分割となったものを言っているものと思われる)、本邦の蘭方書では、「蜊蛄石(ざりがにいし)」又は「オクリカンキリ」(ラテン語:oculi cancri。但し、元来は「カニの眼」の意である)と呼称され、世界的にも眼病や肺病などの民間療法の薬として使われていた。この胃石は吸収しやすい形の非結晶ACC(Amorphous Calcium Carbonate)でカルシウムを含むほか、様々な栄養素や免疫成分が凝縮されており、実際に薬効があった。サイト「ザリガニ.COM」内の「驚異のパワー! ザリガニの胃石オクリカンキリ」(画像有り)を見られたい。
「椅子の貴婦(レヂー・イン・ゼ・チェヤー)」“lady in the chair”。
「鰕上﨟(レヂー・イン・ゼ・ロブスター)」“lady in the lobster”。
「去年三月の『ノーツ・エンド・キーリス』」残念ながら、「Internet archive」では、この年の‘Notes and queries’ ( v.146 1924 Jan-Jun.)は視認出来ない。
『一七〇四年に出たスヰフトの「書籍合戰」』「ガリヴァー旅行記」(‘Gulliver's Travels’)で知られるアイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)の‘The Battle of the Books’(「書物戦争」。一六九七年 執筆で一七〇四年出版)。
『ヘルリックの「ゼ・フェヤリー・テムプル」』不詳。
「アワー・レジー」“Our lady”。
『一六二八年初興行の、シャーレイの「ゼ・ウィッチー・フェヤー」』不詳。
「ヘルブスト」ドイツの動物学者クルト・ヘルプスト(Curt Herbst 一八六六年~一九四六年)か。ハイデルベルク大学教授で、一八九二年に海水にリチウムを加えて、その中でウニ卵に発生を行わせると、植物極側の部分が著しく発達するのを発見し、外界からの作用によって発生に変化の生じることを示し、実験発生学に重要な資料を提供、また、海水からその成分の一つであるカルシウムを取除いて、その中にウニの胚を浸すと、胚が個々の細胞にまで分解することを見出した。この方法で胚を分解することは,発生学の実験技術として今日も広く行われている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
『一八九三年、ロンドンで出《だし》たステッビングの「介甲動物史」』イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:イギリス国教会の牧師にして動物学者(甲殻類専門)トーマス・ステビング(Thomas Stebbing 一八三五年~一九二六年:『チャレンジャー』号の探検航海で得られた甲殻類の研究で知られ、また牧師でありながら、進化論を擁護(自らダーウィンの弟子と称して憚らなかった)したことでも有名である。当該ウィキによれば、『進化論に関してダーウィンに反対する記事を分析する多くの論文を書いた。彼の行動は、宗教的な説教を行うことを禁じられることになった』とあった)の‘A History of Crustacea: Recent Malacostraca’ (甲殻類の歴史:現生軟甲綱)。]
追 記 本文中、粟島の神を女として、女童が、紙雛等を奉る由を、「骨董集」より引たが、土佐少掾正本「對面曾我」三に、『さても、ひいなの始りは、淡島の御神、住吉の明神に名殘を惜《をし》み、み形ちを、紙にて作り、御側《おそば》にならべおき給ひしより、をうなの、これを、翫ぶは、男を慕ふ習ひとや。」。作り物乍ら、そんな俗傳が有たのだ。淡島の神、もと、住吉の神に嫁《か》せしが、三熱の病ひ有《あり》て逐《お》ひ出されたといふ話、「滑稽雜談」卷五に出づ。
[やぶちゃん注:「對面曾我」歌舞伎狂言「壽曾我對面」(ことぶきそがのたいめん)の古浄瑠璃か。
「三熱」本来は仏語。竜・蛇などが受けるという三つの苦悩で、熱風・熱砂に身を焼かれること、悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること、彼らの天敵である金翅鳥(こんじちょう)に食われること。「三患」とも言う。淡島神の由来は複数あるが、海に関わるものが有意にあり、龍神との親和性が認められるので、神仏習合期の説として納得出来る。
『「滑稽雜談」卷五に出づ』同書は俳諧歳時記。四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。写本二十四巻。四季の時令・行事・名物等を月の順に配列して二千二百八十六項目を収録。説明は、類書中、最も詳密で、広く和漢の書を典拠とし、著者の見聞を加えて考証している。著者は京都円山正阿弥の住職で,宮川松堅(しょうけん)の門下(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部が視認出来る。]