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2023/05/20

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 柳の祝言

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は、引用が、あまりにもごちゃごちゃしているので、個人的にそこで改行し、読み易くした。漢文部は後に〔 〕で推定訓読を附した。

 なお、「選集」では、標題後の参照指示の内容を『桜井秀「柳の祝言」参照』と明示してある。この人物は風俗史家の桜井秀(しげる 明治一八(一八八五)年~昭和一七(一九四二)年)のことと思われる。当該ウィキによれば、『東京都出身。国学院卒』で、明治三九(一九〇六)『年、関保之助・宮本勢助らと、風俗史の研究会を結成』した。昭和三(一九二八)年、『「平安朝女装ノ史的研究」で』、『京都帝国大学文学博士』を授与され、『東京帝国大学史料編纂所員、宮内省図書寮御用掛など』を務め、『日本女子大学でも教えた』とあり、さらに『「俗信」という単語を初めて使用した研究者の』一『人と見られ』ているとあった。

 標題は「やなぎのしうげん」(やなぎのしゅうげん)。先に種明かしをしておくと、これは、正月の「詞始め」の目出度い慶事を指す。

 また、本文には崩し字型の約物が出る。これは、活字で示せないので、底本の画像を高解像度でダウン・ロードし、トリミングして示した。]

 

     柳 の 祝 言 (大正四年十月『鄕土硏究』第三卷第八號)

               (『鄕土硏究』二卷五號二八三頁參照)

 

 明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]六月大阪發行『有名無名』第二號に、選者不詳の寫本「歌俳百人集」を引いて、天保初《はじめ》頃[やぶちゃん注:天保は元年が一八三〇年で、天保十五年まで。]、二世歌川豐國名弘(なびろ)めの時、柳橋「大のし」の樓上で、其書の著者が、櫻川慈悲成《さくらがはじひなり》に手跡を乞ふとて扇子を出すと、

「靑柳に蝙蝠《かはほり》の飛びかうさまを畫《か》きて自賛に『靑柳は※1(まいらせそろ)に似たる哉 さればそのこと目出度※2』。」

[やぶちゃん注: 以下、底本画像から。

※1

Mawirasesoro

※2

Sahurahukoto

「※1」はルビごと採った。「※2」はルビはないが、「候͡と」(さふらふこと(事))の約物であろうか。

『柳橋「大のし」』両国柳橋の南の袂(たもと)にあった知られた料理茶屋。サイト「ジャパン・サーチ」のこちらで、歌川広重の「江戸高名會亭盡」(えどこうめいくわいていづくし)の「兩國柳橋 大のし」のまさに、その二階家が描かれ、しかもそこでは書画会が行われている最中である。

「櫻川慈悲成」(宝暦一二(一七六二)年~天保四(一八三三)年か天保一〇(一八三九)年か)は戯作者・落語家。本名は八尾大助。]

 此歌の意、年頃、解し難く思うて居つたが、嘉永三年[やぶちゃん注:一八五〇年。]の頃、本所瓦町(ほんじよかわらちやう)住居《ぢゆうきよ》、誠翁《せいをう》なる者の話に、

「禁中にて、每年、正月元日の詔(みことの)り始めに、皇后の言《いはく》、

『ゆの木の下の御事《おんこと》は。』

とのたまふ時、帝の、

『されば、其事、目出度候。』

と御挨拶遊ばす事、恒例なり、と云ふ。其故由(ゆゑよし)は知らねども、之を『詔《みことのり》の始め』と云ふ。又、洛中・洛外ともに、貴賤の人々、元旦の「詞始め」に夫婦共《とも》、淸服を著《ちやく》し、妻女、先づ、

『柳の下の御事は。』

と云ふ時、亭主、

『されば。その事、目出度候。』

と言終《いひをは》りて、屠蘇を飮み、雜煮を祝ひぬれば、其年、災《わざはひ》を遁《のが》ると言習《いひなら》はされ、禁中にては、「柚(ゆ)の木の下」、地下(ぢげ)にては「柳の下」と言習はす、との話にて、慈悲成の狂歌を發明したり。江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

と出づ。

[やぶちゃん注:「柚(ゆ)」双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos 当該ウィキによれば、中国の『中央および西域、揚子江上流の原産であると言われ』、『中国から日本へは平安時代初期には伝わったとみられ』、『各地に広まって栽培されている』。一方で、『日本の歴史書に』は『飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載がある』ともあった。]

 安政・萬延の交《かう》[やぶちゃん注:安政七年三月十八日(一八六〇年四月八日)に万延に改元された。]、紀藩江戶詰醫員故德田諄輔(じゆんすけ)氏(退役陸軍大佐正稔(せいねん)氏養父で、正稔氏は故本居豐頴(《もとをり》とよかい)博士の實弟)、將軍家茂《いへもち》公の病痾の事で、苫(とも)が島へ三年屛居せられた時、予の亡母、從ひ居りしに、每元旦、誰かが、

「柳の下の御事は。」

と、言ふと、

「されば、そのこと、目出度候。」

と主人が答へたと、每度、語られた。代々、江戶に住んだ人が、かかる祝儀を行ふを、和歌山生れで、大阪に數年居《をつ》た母が、珍しいことと思うて、特に話の種としたのだから、江戶でも、武家には、多少、行はれた事で、「歌俳百人集」に、

『江戶にては、夢にだに、知らざる事也。」

とは穿鑿の不足だらう。

[やぶちゃん注:「將軍家茂公の病痾」第十四代徳川家茂(元和歌山藩主。安政五(一八五八)年十月二十五日将軍就任)は第二次長州征伐のために、慶応元(一八六五)年三度目の上洛をし、大坂城に滞在(同年十月一日に朝廷に将軍職の辞表を提出し、江戸東帰を発表したが、同七日には正式に撤回している)していたが、翌慶応二年六月七日、長幕開戦となり、七月二十日、大坂城で脚気衝心のために亡くなっている(享年二十一(満二十歳))。

「苫(とも)が島」和歌山県和歌山市加太に属する友ヶ島群島の友ヶ島の別名らしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「屛居」藩主時代の担当医として、自ら引責蟄居したものか。]

 件《くだん》の二句の意は、詳《つまびら》かならぬが、何に致せ、木の種子が、芽を發せんとするを、「目出度(めでたい)」の意に取成《とりな》した者らしい。紀州日高郡由良(ゆら)村邊では、柚(ゆ)を、家近く樹(うふ)る[やぶちゃん注:ママ。]を忌み、その木で「すりこぎ」を作れば、ばけるといふ(一卷十二號七五四頁。これは榊(さかき)を人家に樹るを忌むと同格で、凡人には高過ぎた神異(しんゐ)の木と尊《たっつと》み憚《はばか》つての事で無かろうか。

[やぶちゃん注:「紀州日高郡由良(ゆら)村」現在の日高郡由良町(ゆらちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

〔(增)(大正十五年九月記) 「塵添壒囊抄《じんてんあいなうせう》」二、「東山往來《ひがしやまわうらい》」第廿四、並びに云く、『橘・柚等の九種の香果、始めて日本に入《はいつ》た時、天子も使者も共になく成《なつ》たから不言《ふげん》とす。』と。しかし、「江談抄《がうだんせう》」一に、内裏紫宸殿南庭云々、件橘樹地者、昔遷都以前橘本大夫宅也、枝條不改及天德之末〔『内裏、紫宸殿の南庭』云々、『件(くだん)の橘(たちばな)の樹(き)の地は、昔、遷都以前は橘本大夫《たいふ》の宅なり。枝條《えだ》、改まらず、天德の末に及べり。』〕。「拾芥抄」中末には、『此事、「天曆御記」に見ゆ。』とあり、以て、橘・柚等、外來の珍果は、尊貴の特占物で、凡民の栽え[やぶちゃん注:ママ。]食ふを忌《いん》だ者と知るべし。〕

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。「日本古典籍ビューア」のここ(第二巻の「四十九」「柑類不可植在家事」(柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])在家(さいけ)植(う)ゑべからざる事)で当該部が視認出来る。

「東山往來」平安末期、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書である「往来物」の古い一つ。

「橘」ミカン属タチバナ Citrus tachibana 。異名に「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」がある。当該ウィキによれば、『日本に古くから野生していた日本固有の』柑橘で、『本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ( C. nipponokoreana )があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(萩市に自生しているものは絶滅危惧IA類に指定され、国の天然記念物となっている)』。『静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の自生地が存在する』。二〇二一『年、タチバナは沖縄原産のタニブター( C. ryukyuensis )とアジア大陸産の詳細不明の種との交配により誕生したこと、日向夏、黄金柑などの日本産柑橘のルーツであることが』、『沖縄科学技術大学院大学などの研究により明らかとなった』。以下は「文化」の項。『日本では固有の』柑橘『類で、実より花や常緑の葉が注目された』。松『などと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた』。記紀には、『垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では』「非時香菓」を『「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘』、『左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に』「古事記」に『登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない』。『奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を下賜し』、『橘氏が生まれた』。「古今和歌集」の夏の部の「詠み人知らず」の『「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以後、橘は懐旧の情、特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることにな』った、ともある。

「九種の香果」元禄一〇(一六九七)年に刊行された、板行物としては本邦最古の農業専門書である宮崎安貞著「農業全書」の「卷之八」(所持する岩波文庫版による)の「柑類(かうるい[やぶちゃん注:ママ。])には、『蜜橘(みかん)の類色々多し。柑(くねんぼ)、柚(ゆづ)、橙(だいだい)、包橘(かうじ)、枸櫞(ぶしゆかん)、金橘(きんかん)、此外、夏蜜橘、じやがたら、じやんぼ、すい柑子(かうじ)此等の類九種、漢土より取り來る事、日本紀に見えたり。』とある。「じやがたら」は「ジャガタラ蜜柑」で、朱欒(ザボン)の異名。「じやんぼ」「すい柑子」は不詳。また、「夏蜜橘」は信頼出来る論文を参看したところ、現在のナツミカンではないそうである。

「江談抄」平安後期の説話集で公卿で文人・学者であった大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)の晩年の談話を、信西(藤原通憲)の実父である実兼(さねかね)が筆録したもの(一部に実兼以外の筆録も混じっている)。匡房の談話は有職故実・漢詩文・楽器などに関する知識、廷臣・詩人たちの逸話など、多岐に亙る。教授された知識の忘備を目的としているため、表現は簡略でしばしば不完全であり、体系を持たない。しかし、正統な学問や歴史の外縁にある秘事異伝をも積極的に取り上げており、院政期知識人の関心の向け方や、説話が口語りされる実態を窺うことが出来る。平安・鎌倉時代の古写本は、問答体をとどめて原本の姿を伝えるが、一部分しか伝存していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。訓読は所持する岩波「新日本古典文学大系」を参考にした。なお、その脚注では、ここに出る「橘本大夫」(「古事談」では『橘大夫』である)は『不詳』としつつ、「帝王編年記」の天徳四(九六〇)年三月二十日の条に、『小一条左大臣記云、橘本主秦保国也』とある。なお、本文も注も「橘本大夫」にはルビが振られていないので、安易に「たちばなほんたいふ」と読むことは控えた。

「天德の末に及べり」天徳は五年までであるが、天徳四年九月二十三日の夜、平安京遷都以来、初めて内裏が全焼している。しかしこの謂い方は、この橘の木は、辛うじて燃えずに余命を保ったこと(少なくとも一年間は)を意味しているようにも採れなくもない。ウィキの「右近橘」によれば、「天暦御記」に『よれば、もとは秦河勝の宅にあったのを、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間』()『まであったという』とあった。

「拾芥抄」本邦で中世に編纂された類書(百科事典)。全三巻。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「天曆御記」「村上天皇御記」「村上天皇宸記」とも呼ぶ。村上天皇の日記。元は三十巻あったと推定されるが、現在は散逸し、わずかに「延喜天暦御記抄」の中に一部分が伝わり、また天暦三(九四九)年)より康保四(九六七)年の間の逸文があるのみ。「宇多天皇御記」「醍醐天皇御記」とともに、本書も政務・儀式の先例を知る上で尊重され、「西宮記」・「北山抄」などの儀式書や、「小右記」などの日記にしばしば引用されている。これらの逸文を収集して『続々群書類従』・『列聖全集』・『増補史料大成』などに収めてある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 他方は知らず、西牟婁郡で、玄猪(ゐのこ)に「穀(こく)の神」を祭るに、必ず、柚(ゆ)を供(そな)ふ。故老の言に、

「柚(ゆ)の核(さね)は、皆、揃うて[やぶちゃん注:ママ。]發達し、大小、不同無し。因《よつ》て、『穀も此通り、一齊《いつせい》に實(みの)れ。』と祝ふ意ぢや。」

と。

 去《さる》冬、之を聞いた時、丁度、米國植物興產局植物生理學主任スヰングル氏から柚の種子(たね)を送つて欲《ほし》いと賴まれたので、夥しく柚實を採つて剖(さ)いて見ると、大小の差異は、無論、有つたが、諸他の同屬の種子程、甚《はなはだ》しく無かつた。兎に角、昔時《せきじ》、何か柚を目出度《めでたい》物としたので、

「柚の木の下の御事は。」

と詔り初めある由、言傳《いひつた》へたので有らう。柳が、民間信仰と、厚き關係あることは、櫻井君が書かるゝ由(さう)だから、今故(ことさ)らに說かずとして、一寸述ぶるは、「戰國策」に、夫楊、橫樹之則生、倒樹之則生、折而樹之又生〔夫(そ)れ、楊は、橫に之れを樹うれば、則ち、生(しやう)じ、倒(さかしま)に之れを樹うれば、則ち、生じ、折つて之れを樹うるも、又、生ず。〕と有る通り、楊柳の諸種は至つて芽を出し易い者故、柳を目出度いとしたのだらう。或は柚も芽を出し易いものかとも思へど、自宅に多く有りながら、未だ實驗せぬから何とも言へ無い。「易」の「大過卦」に枯楊生ㇾ稊、老夫得其女妻。〔枯楊、稊(ひこばへ)を生じ、老夫、其の女妻(ぢよさい)を得(う)。〕「大戴禮《だいたいれい》」に、『正月、柳稊、「稊」は「葉を發する」也。』と。匡房《まさふさ》の歌に、

「世々をへて絕えじとぞ思ふ春ごとに糸よりかくる靑柳の杜もり《》」

柳は、古く、正月に花ありとされたもので、李時珍が曰《いふ》た如く、春初、早く、つぼみある物、殊に幕府の事を「柳營」と稱する等より、正月の祝詞に用ひられたで有らう。「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》たと見えるが、誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ。歐州では、一汎に、柳を葬喪の木とし、悲しみの象徵とする(フォーカード「植物俚傳」五八六頁)。)

[やぶちゃん注:「戰國策」の当該部は「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(三行目以降)で、「易經」のそれも同じサイトのこの影印本(二行目)で校合した。

「スヰングル氏」アメリカの農学者・植物学者ウォルター・テニソン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 「二」』の私の注を参照されたい。

「大戴禮」中国の経書(けいしょ)。八十五編。そのうち、三十九編が現存。前漢の戴徳撰。漢代以前の諸儒学者の礼説を集成したもの。「大戴記」とも呼ぶ。

「匡房」大江匡房(おおえのまさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は公卿で漢学者。治暦(じりゃく)三(一〇六七)年に東宮学士となり、後三条・白河・堀河天皇の学問上の師を務めた。のち参議・権中納言・大蔵卿などを歴任。正二位。著作に「江家次第」・「本朝神仙伝」などがある。

「李時珍が曰た如く」「木」部で「楊」「柳」のつく項目を縦覧したが、どの項を指しているのか、判らなかった。発見したら、追記する。

『「本草啓蒙」に、柳を、古歌に「ハルススキ」と云《いふ》た』

「誰の歌にありや、讀者の敎へを、まつ」熊楠先生! 九十七年後の私が歌は見つけました!「藻塩草」(室町時代の連歌用語辞書。二十巻。宗碩(そうせき)著。永正一〇(一五一三)年頃成立)の「九」に「春薄」として載っています! 国立国会図書館デジタルコレクションの写本のここの右丁の一行目です! ただ、作者名は載っていません。歌もちょっと判読出来ません。

   *

□つ□の露にみたる春すゝき

□に(或いは「か」か)秋の風をみつくる

   *

『フォーカード「植物俚傳」五八六頁)』リチャード・フォルカード(Richard Folkard)の一八八四年刊の‘ Plant lore, legends, and lyrics ’ (「植物の伝承・伝説・歌詞」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認でき、また、「Project Gutenberg」のこちらで、一括版で電子化されてもある(右にページ・ナンバー有り)。]

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