芥川龍之介書簡抄159 追加 大正一四(一九二四)年三月十二日 泉鏡花宛
大正一四(一九二四)年三月十二日田端発信・消印十三日・麹町區下六番町廿六 泉鏡太郞樣・三月十二日 市外田端四三五 芥川龍之介
朶雲邦誦仕候開口の拙文御よろこび下され忝く存候 何度試みても四六駢麗体の評論のやうなものしか書けず、今更あゝ言ふもののむづかしきを知りし次第、垢ぬけのせぬ所はいくへにも御用捨下され度候、御言葉に甘へ、味噌に似たものを申上げ候へばあの中野に白鶴の云々より先を書き居候時は少々逆上の気味にて眶のうちに異狀を生じ候 目下仕事やら何やらにて閉口致し居り候へどもいづれ拝眉仕る可くまづ御礼まで如斯に御坐候 頓首
附錄に一句御披露申し候間御一笑下され度候 置酒と前書して、
明星のちろりにひびけほととぎす
十二日夜半 龍 之 介
泉 先 生 侍史
[やぶちゃん注:「開口の拙文」先ほど公開した「芥川龍之介 鏡花全集目錄開口」を指す。そちらの冒頭注で記した通り、その文章は二ヶ月後の大正一四(一九二五)年五月『新小説』の巻末広告に載るのだが、この十一前の同年三月一日の夜、編者を務めた春陽堂版『鏡花全集』の出版記念会が芝紅葉館で行われており、芥川龍之介も出席している(八十余名出席。新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。そこで事前に鏡花にその広告文が披露されたのであろう。同年譜によれば、この三月上旬は『病気がちの上』、仲人を務めた作家『岡栄一郎夫妻の離婚話』、義弟『塚本八州の喀血などが重な』り、『仕事が詰り、面会日を中止して、原稿執筆に追われる』とあった。恐らくは、小説「春」の執筆に難渋していたことを指すのであろう。
「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。
「四六駢麗体」ママ。「四六駢儷体(體)」が正しい。小学館「日本国語大辞典」によれば、「駢儷」は「語句を対にして並べること」を指す語で、『漢文の文体の一つ。主に四字・六字の句を基本として対句』『を用いる華美な文体。漢・魏に起こり、六朝から唐にかけて流行し、韓愈・柳宗元が提唱した古文運動が定着するまでは、文章の主流であった。日本では、奈良・平安時代に盛んに用いられた。駢文。四六文。四六駢儷文』とある。李白の「春夜宴桃李園序」(春夜、桃李園に宴ずるの序)の授業で説明したぜ。
「眶」「まぶた」。]
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