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2023/05/29

佐々木喜善「聽耳草紙」 九五番 猫の嫁子

 

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]

 

      九五番 猫の嫁子

 

 或所に一人の百姓があつた。正直者であつたが貧乏暮しなので嫁のくれてもなく、四十を越してもまで獨(ヒトリ)で居た。ところが其隣は近鄕きつての長者どんであつたが話にならぬ程の極道者で、たつた一疋居る牝猫さへも、これは餘計な口のあるものだと言つて、首筋をつまんで戶外(トガイ[やぶちゃん注:ママ。])へ投げ棄てた。

 貧乏な百姓が寢て居ると、夜半に頻りに猫の啼聲《なきごゑ》がするから、なんたらこの夜半に不憫だと思つて、寒いのを耐え[やぶちゃん注:ママ。]て起きて、猫を内へ入れてやつた。そしてどうしてお前はこんな寒い夜に外で啼いて居《を》れや。またお前の檀那どんに酷(ヒド)い遣《や》つたのか、どらどらそれだら俺の所に居ろと言つて、なけなしの食物《くひもの》などを自分と同じやうに猫にも分けてやつて、愛(メゴ)がつて居た。

 或夜百姓が退屈(タイクツ)まぎれに、お前が人間であつたらよかつたになア。俺が畠さ出て働いて居るうちに、お前は家に留守居して居て麥粉《むぎこ》でも挽《ひ》いて置いてけでもしたら、なんぼか生計向(クラシムキ)が樂になるべえに、お前は畜生のことだからそれも出來ないでア、とそんなことを言ひながら、其夜もいつものやうに猫をふところに入れて抱いて寢た。

 百姓は翌朝もまだ星のある中《うち》から起きて、山畑へ行つて働き、夕方遲く家へ戾つて來た。すると誰だか灯(アカシ)もつけない家の中で、ごろごろと挽臼《ひきうす》を挽いて居るものがあつた。不審に思つて入つて見ると、それは猫であつた。百姓は魂消《たまげ》て、猫々《ねこねこ》俺が昨夜あんなことを言つたもんだから、お前は挽臼を挽いて居てくれたかと言つて、其夜は小麥團子《こむぎだんご》をこしらへて猫と二人で食つた。それからは何日(イツ)も百姓の留守の間には猫が挽臼を挽いて居た。おかげで百姓は大變助かつた。

 或晚、爐《ひぼと》にあたつて居ると、猫は、私は此儘畜生の姿をして居ては思ふやうに御恩返しが出來ないから、これからお伊勢詣《いせまうで》をして人間になりたい。どうか暇《いとま》をケテがんせと言つた。百姓もこれはただの猫では無いと思ふから、猫の言ふまゝに話をきいてやつた。そして猫のおかげ[やぶちゃん注:底本は「おかけ」。「ちくま文庫」版で訂した。]で少し蓄《た》めた小錢(コゼニコ)を猫の首に結着《むすびつ》けて旅に出した。猫は途中惡い犬にも狐にも出會はず、首尾能《しゆびよ》く伊勢詣をして家に歸つた。歸りには神樣の功德で人間の姿になつて歸つた。そして百姓と夫婦になつて、人間以上に働いたものだから、末には隣の長者どんよりも一倍の長者となつた。

 (村の大洞丑松爺の話の三。大正九年冬の採集分。)

[やぶちゃん注:「お伊勢詣」江戸時代のそれは、実際に犬や豚が伊勢参りをしている。それぞれの宿駅の町役人が、次の宿に向けた正式な依頼状を、その体に結び付けて、伊勢神宮に参詣を完遂している事実が、複数の事実資料として残っているのである。]

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