譚海 卷之五 日州霧島が嶽つゝじ花の事
[やぶちゃん注:読点・記号を追加した。]
○日向國に「霧島がたけ」といふ在(あり)、滿山、みな、躑躅(つつじ)にて、花のころ、錦を張(はり)たるがごとし。「朝鮮征伐」の時、藤堂家(とうだうけ)の先祖、此山のつゝじを持歸(もちかへり)て、染井(そめゐ)の屋敷に植られしより、その花の名を、やがて、「霧島」といふ事になりたり、今、江戶に、所々にある「きりしま」も、藤堂家より、わかち植(うゑ)たるが、ひろごりたるものと、いへり。「霧島」は漢名「映山紅(えいさんこう)」といふものとぞ。
[やぶちゃん注:「霧島がたけ」霧島山(グーグル・マップ・データ航空写真)。最高峰を「韓国岳(からくにだけ)」と呼ぶ。
「藤堂家」津藩を治め、江戸では、現在の「染井通り」(グーグル・マップ・データ)の南側に津藩藤堂家の下屋敷や抱屋敷(通称「染井屋敷」)が広がっていた。因みに、「『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月15日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第二十六回」を見られたい。「こゝろ」の「先生」が卒論を書いた後に「私」と散歩をし、二人して、植木屋に入り込んで、議論をする重要なシークエンスがあるが、あそこは、高い確率で、染井なのだ。そして、この「染井通り」と「染井霊園」を突き抜けた先にある、日蓮宗慈眼寺(じげんじ)には――芥川龍之介が眠っているのである。
「霧島」「躑躅」被子植物門双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ Rhododendron × obtusum 。当該ウィキによれば、『鹿児島県下の霧島山の山中に自生するツツジの中から江戸時代初期に選抜されたもので、関東の土壌が生育に適していたこともあって江戸を中心に爆発的に流行した。 日本最古の園芸書』で園芸家水野元勝の著になる「花壇綱目」(延宝九・天和元(一六八一)年刊)や、種樹家伊藤伊兵衛三之丞の書いた「錦繡枕」(きんしゅうまくら:元録五(一六九二)年刊)『などに多数の品種が記載されている。その後』、『全国に広がり、各地に古木が残存する。また、日本のみならず欧米でも、江戸時代末期から明治時代に輸出されたものが今日でも重要な造園用樹として盛んに利用されている』。『また、宮崎県えびの市にあった大河平小学校の庭に植えられているもの(通称:大河平つつじ』『)は、真紅に染まっており、ほかの場所に植え替えてもこの赤さにはならないとの伝説』『もある』とある。]