尾形亀之助 靑狐の夢 / 初出正規表現版(思潮社版全集の本篇は不全であったことが発覚した)
[やぶちゃん注:初出である国立国会図書館デジタルコレクションの雑誌『あおきつね』(郷土趣味会発行・昭和二(一九二七)年一月一日印行)初出形。扉の表記で、「あお」はママ。但し、その前ページの目次には「靑狐」と漢字表記する。ここで視認出来る)の『二の卷』の当該部を視認した。踊字「〱」、及び、「え」の字の「江」の崩し字は正字ひらがなで示した。
さて、私は二〇〇八年一月に思潮社一九九九年刊「尾形亀之助全集 増補改訂版」を底本として本詩篇を電子化しているのだが、驚くべきことに、それと比べると、そちらは、大きな脱落があることが判った。具体的には、「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。」とあるのが、全集版では「夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくる。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。」とあって、ゴッソりなくなっているのだ! 他にも、全集では、「企」が「企て」、「尾に包まるのだつた。」が「尾に包まるれるのだつた。」となっており、これは、頗るおかしい。問題だ。私は全集の編者である秋元氏の編集には、以前から、ある不審を抱いていたが、後の二箇所は確信犯で秋元氏が書き変えたものである気がしている。しかし、前の有意な脱落は、それ以前に呆れかえった。龜之助よ、遅まきながら、正規表現版を公開するよ……。]
靑 狐 の 夢
尾 形 龜 之 助
ぼんやりとした月が出て、動物薗の中はひつそり靜寂につゝまれてゐた。
しかし、彼は秋晴れの美しい空に三日月の銀箔を見、そよ風に眼をほそくして自動車に乘るところであつた。彼は水色の軍服を着た靑年士官になつてゐるので、心もち反身になつて小脇に細いステツキを抱へ煙草に火をつけてゐた。
そして、彼の瀟洒な散步は事もなく捗どつて、自動車が門を走り出ると彼はほつとした。ほつとして狐にかへつてゐるのであつた。
又、或るときは街のペーブメントを步いてゐて、あまり小さすぎる靴をはいてゐるのに氣がついて姿をかくさなければならなかつた。
彼は靑年士官になり紳士にもなつて、幾度となく催した企が何時も煙のやうにふき消された。動物園の晝の雜踏に、彼は首をたれ眼をつむつてゐた。靑い空が眼にしみた。さみしかつた。
あるとき彼の檻の前に立つてラツパを吹きならす子供があつた。そのとき彼は頭にふる草鞋を載せる藝當を思ひ出して苦しい笑ひを浮べた。人間になりたい希望はもはや見はてぬ夢となつて、彼の親も死ぬまでその希望をすてなかつた。彼もその禁斷の血をひいてゐるのであつた。
日暮れになつて、今までどよめいてゐた園内がひつそりすると、彼はぽつねんとした。そしてつむつてゐた眼をあけた。夕やみの奧から鶴の啼き聲などが聞えてくると、園丁が食物を運んで來るばけつの音がま近くする。外燈の瓦斯が蒼白に燃え初める。彼はペタペタと冷めたい水を嘗めると脊筋まで冷めたくしみるので藁床に入つて尾に包まるのだつた。眠らうとしても眠れない。あわれな記憶が浮ぶ。呼ぶ。惡血が彼の尾を二倍も大きくするだらう。彼はふらふらと立ちあがる。
「女に化けやう――」
そして、彼は喰ひ殘りの雞の骨を頭に載せる。
[やぶちゃん注:「あわれな」はママ。]