大手拓次訳 「幻想」 シャルル・ボードレール / (四篇構成の内の三篇・注に原全詩附き)
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。
ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]
幻 想 シャルル・ボードレール
Ⅰ
暗 黑
底のない悲しみの窖(あなぐら)のなかヘ
司命神(デスタン)は既に私をおとしいれた。
そこへは薔薇色に快活なる光線は決して訪れないで、
ただ 陰氣な女主人(あるじ)の、夜(よる)のみがゐる。
私は、物あそびする神が
暗黑の上にゑがくやうに命じた画家と同じである。
そこに、葬儀の慾を料理して
私は、私の心を沸き立たせ、私の心を蝕(むしば)ませる。
きらめく一瞬の間、
そして長くのび、慈悲と光彩とに成長したる幽靈を誇示する。
極東の冥想にふけりつつ
彼がその全き大きさに達する時、
私は、私の美しい訪問者をゆるすのだ。
それは彼女である、暗く、然れども輝ける彼女である。
Ⅱ
香 氣
貪食者よ、お前はをりにふれて
迷亂と緩慢なる貪食とをもつて呼吸したことがあるか、
あの聖堂のなかにみちてゐる燒香の顆粒(つぶ)を、
あるひは麝香のふかくしみこんだ香袋(にほひぶくろ)を。
現在とよみがへれる過去とのなかに
われらを醉はしむる深く不思議なる妖惑よ!
かくしてこひ人は鐘愛のからだのうへに
追憶の美妙なる花をつみとる。
彈力のあるおもい彼女の頭髮から、
寢室の香爐であるにほひ袋の
いきいきしたかをりはのぼつた、あらく茶色に、
また、淸い若さのすつかりしみこんだ寒冷紗(かんれいしや)か或はびろうどの着物からは、
毛皮のにほひがのがれさる。
Ⅲ
緣(ふち)
うつくしい緣が繪につけくはへるやうに、
その繪がどんなにほむべき筆づかひであらうとも、
わたしは無限の自然からはなれては、
不思議も恍惚もあらうとは思はない。
それとひとしく、寶玉(ビジウ)も、裝飾品(ムーブル)も、メタルも金箔(ドリユール)も。
かの女(ぢよ)のたぐひない美しさにしつくりあてはまるとはおもはない、
彼女のまどかなる玲瓏をかくすものは何ひとつとしてなく、
ただすべては緣飾りとなつてつかへてゐるやうに見えた。
それにまた、だれもみんな自分を愛さうとしてゐるのだといふ、
彼女の所信を世人はをりふし噂にのばすだらう。
彼女は繻子やリンネルの接吻のなかにひたつた、
彼女のうつくしい裸躰は身ぶるひにみちて、
そして、おそく或はすみやかに彼女のひとつびとつの動作は
猿のやうな子供らしい愛嬌をふりまく。
[やぶちゃん注:「慾」「躰」は底本の用字である。「Ⅲ」の太字は底本では傍点「﹅」。
本篇は実際には単独の詩篇ではなく、四パートから成る総標題‘ Un Fantôme ’ (「ある幽霊(亡霊)」或いは「ある幻想」)の第三篇である。全体は‘ I Les ténèbres ’(「闇」)・‘ II Le Parfum ’(「香(こう)」)・‘ III Le Cadre ’(「額縁」)・‘ IV Le Portrait ’ (肖像)から成るものである。原子朗「定本 大手拓次研究」(一九七八年牧神社刊)の一八八~一八九ページに拓次の訳出したボードレールの『悪の華』からの詩篇リストがあるが、それによれば(そこでは総標題は「幻想」と訳されている)、原詩の内、拓次は実はこの詩篇を「Ⅰ 暗黑」・「Ⅱ 香氣」・「Ⅲ 緣」と訳しながら、「Ⅳ」は訳していないとする。『大手拓次譯詩集「異國の香」』では、「Ⅱ 香氣」と、「Ⅲ 緣」の二篇が収載されてあり(以上の本文とは「Ⅱ 縁」に決定的な異同(一行脱落。編者によるミスの可能性が高いとも思われる)がある。それはそちらで掲げて示してある)、既に電子化注してあるのだが、以上の第一篇「Ⅰ 暗黑」は収録されていない。‘ IV Le Portrait’ (肖像)が含まれていない点で不完全であることに変わりはないが、せめても、この詩篇は続けて読まれるべきものであるわけであるからして、今回、電子化することとした。
なお、既に「Ⅲ 緣」で注したが、本四篇は、堀口大學譯「惡の華 全譯」(昭和四二(一九六七)年新潮文庫刊)の本篇(堀口氏の標題訳は「或る幽靈」である)の訳者註には、本篇全体は雑誌『『藝術家』一八六〇年十月十五日號に發表』とし、既に述べた『ジャンヌ・デュバル詩篇』としつつ、『この年デユヴァルはアルコールの過飲から激しいリューマチスにかかつて動けなくなりデュボア慈善病院に入院治療した。この詩はその不在の間の作だらうと見られてゐる』ある。
以下に本篇の原詩(四篇全部)を示す。フランス語サイトの幾つかを見たが、どうも、どれこれも、コンマやセミコロン(;)の有無、アポストロフの形状等に微妙な相違が複数あり、確定に自信がないため、私の所持するフランスで一九三六年に限定版(1637印記番本)で刊行されたカラー挿絵入りで、個人が装幀をした一冊(四十年前、独身の頃に三万六千円で古書店で購入したもの)の当該詩篇を参考に以下に示すこととした。
*
UN FANTÔME
I
Les Ténèbres
Dans les caveaux d’insondable tristesse
Où le Destin m’a déjà relégué ;
Où jamais n’entre un rayon rose et gai ;
Où, seul avec la Nuit, maussade hôtesse,
Je suis comme un peintre qu’un Dieu moqueur
Condamne à peindre, hélas! sur les ténèbres ;
Où, cuisinier aux appétits funèbres,
Je fais bouillir et je mange mon cœur,
Par instants brille, et s’allonge, et s’étale
Un spectre fait de grâce et de splendeur.
À sa rêveuse allure orientale,
Quand il atteint sa totale grandeur,
Je reconnais ma belle visiteuse :
C’est Elle ! noire et pourtant lumineuse.
Ⅱ
Le Parfum
Lecteur, as-tu quelquefois respiré
Avec ivresse et lente gourmandise
Ce grain d’encens qui remplit une église,
Ou d’un sachet le musc invétéré ?
Charme profond, magique, dont nous grise
Dans le présent le passé restauré!
Ainsi l’amant sur un corps adoré
Du souvenir cueille la fleur exquise.
De ses cheveux élastiques et lourds,
Vivant sachet, encensoir de l’alcôve,
Une senteur montait, sauvage et fauve,
Et des habits, mousseline ou velours,
Tout imprégnés de sa jeunesse pure,
Se dégageait un parfum de fourrure.
III
Le Cadre
Comme un beau cadre ajoute à la peinture,
Bien qu’elle soit d’un pinceau très-vanté,
Je ne sais quoi d’étrange et d’enchanté
En l’isolant de l’immense nature,
Ainsi bijoux, meubles, métaux, dorure,
S’adaptaient juste à sa rare beauté ;
Rien n’offusquait sa parfaite clarté,
Et tout semblait lui servir de bordure.
Même on eût dit parfois qu’elle croyait
Que tout voulait l’aimer; elle noyait
Sa nudité voluptueusement
Dans les baisers du satin et du linge,
Et, lente ou brusque, à chaque mouvement
Montrait la grâce enfantine du singe.
IV
Le Portrait
La Maladie et la Mort font des cendres
De tout le feu qui pour nous flamboya.
De ces grands yeux si fervents et si tendres,
De cette bouche où mon cœur se noya,
De ces baisers puissants comme un dictame,
De ces transports plus vifs que des rayons,
Que reste-t-il? C’est affreux, ô mon âme!
Rien qu’un dessin fort pâle, aux trois crayons,
Qui, comme moi, meurt dans la solitude,
Et que le Temps, injurieux vieillard,
Chaque jour frotte avec son aile rude ...
Noir assassin de la Vie et de l’Art,
Tu ne tueras jamais dans ma mémoire
Celle qui fut mon plaisir et ma gloire !
*
最後の拓次が訳していないそれが、フランス語で判らず、もやもやされる方のために、前掲の堀口氏の当該パートを引用しておく。氏は著作権継続中であるが、本篇が四篇の部分詩であることから、引用許容の内に入ると判断するし、何より、氏の訳は正字正仮名で、私の数冊のボードレールの訳詩集の内、以上の拓次の訳の参考にするには最も相応しいと考えるからでもある。
《引用開始》
4 肖 像
僕等の爲めに燃え立つた、火の一切を
「病気」と「死」とが、灰にする。
切れ長の、やさしさこめて熱烈な、あの眼(なまこ)さへ、
僕が心を溺らせた、あの口さへが、
薄荷のやうに强烈な、あの數々の接吻も、
日の光より生(いき)のいい、あの度々の合歡も。
いま何を殘してゐるか? 魂よ、何たるこれは切なさだ!
一枚の淡彩の鉛筆描きの色褪せた素描だけとは、
それさへが、僕も同樣、孤獨のうちに泊えて行く、
「時」といふ名の理不盡な老いぼれの
嚴(きびし)い翼に日每日每に擦(こす)られて‥‥
ああ、時よ、「生命」と「藝術」の腹黑い暗殺者よ、
さしもの君も、殺し得まいよ、僕の快樂であり、光榮でもあつた
かの女を僕の記憶から消し去る事だけは!
《引用終了》]
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