佐々木喜善「聽耳草紙」 九四番 虎猫と和尙
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。]
九四番 虎猫と和尙
或所の山寺にひどく齡《とし》をとつた和尙樣があつた。九十にもなるこつたと謂ふ話で、餘り齡を取つたものだから勞れ切つて、今では夜晝うとうと眠(ネブ)かけばかりして居た。さういふ譯だから山寺に捨てられた樣になつて、世間でも案じ出す人がなかつた。たゞ一疋のこれも猫仲間では餘程の老齡(トシヨリ)な瘦《やせ》きれた虎猫ばかりが和尙樣の相手になつて、和尙樣と同じ樣にいつも爐傍《ろばた》で眠(ネブ)かけばかりして居た。
或日その虎猫が、和尙樣に向つて、和尙樣々々々お前樣も大分齡をとつたものだから、世間では相手にしなくなつたが此俺は隨分永々と和尙樣のお世話になつて居るから、何とかその恩返しをしたいと思ふが、何もよいことが無くてはづみが無いと言つた。
和尙樣は猫が物を言ひ出したから、少し驚いたが、すぐ心を落着けて、何さ虎や、俺とお前は何も考へないで此所に斯《か》うして居ればよいのだでヤと言つた。すると虎猫は、うんにや和尙樣さうでアない。俺は此頃よいことを聞込《ききこ》んだから和尙樣さ敎(オセ)べと思つて居た。この寺も今一遍(ヒトカヘリ)繁昌させて和尙樣にも行先きを安樂にさせたいと思つて居る。それで近い中《うち》に所の長者どんの一人娘が死ぬから、その葬式の時に俺が娘の棺箱《くわんばこ》を中空《ちゆうくう》へ釣上《つりあ》げて中合(チウアヒ)に懸けて下(オロ)さずに居るから其時に和尙樣が來て御經を讀め。そして其經文の中で、南無トラヤヤと謂ふ聲をかけた時に、俺がその棺箱を下(シタ)へおろすからと謂ふのであつた。
さうして居るうちに眞實(ホントウ[やぶちゃん注:ママ。])に、長者どんの一人娘が病氣になつて死んだ。可愛い娘が死んだのだから長者どんでは、所のありとあらゆる宗派のお寺の和尙樣達を呼んで葬禮(トムライ[やぶちゃん注:ママ。])をした。ところがたつた一人《ひとり》山寺の眠《ねぶ》かけ和尙樣ばかりは誰《たれ》も忘れて居て招かなかつた。とにかくさうした所では見たこともないような立派な葬式が野邊に送られた。
その葬禮の行列が野邊へ行つて、やがて蘭塔場[やぶちゃん注:卵塔場に同じ。墓場。]𢌞《らんたうばめぐ》りをしはじめると、どうした事かひどく綺麗に飾り立てた棺箱がしづしづと天へ釣上つて、高い高い中合《ちゆうあひ》に懸つてしまつた。人々は驚いて、たゞあれヤあれヤと言ふばかりであつた。それを見てまた多數(アマタ)の僧侶達は、いつせいにお經を誦んだり珠數を搔揉(カイ《も》)んだりしたが、何の甲斐もなかつた。しまひには一人一人自分等の宗派の祕傳をつくして、空を仰いで叫んで見たが、お日樣が眩しいばかりで一向利目(キキメ)はなかつた。
長者どんは、おういおういと聲を立てゝ泣き悲しんだ。そして和尙達の腑甲斐《ふがひ》無いことの惡口を言つた。村の人達も長者どんと一緖になつて和尙樣達を惡く言つた。そこで長者どんは、誰《だれ》でも何でもよいから、あの棺箱を下(オロ)してくれた者には、一生の年貢米も上げるし、またお寺も普請してやるし、又望みによつては門も鐘搗堂《かねつきだう》も、何でもかんでも寄進してやると言つた。それを聞いて和尙樣達は尙更一生懸命になつて空を仰いで叫んで見たが、やつぱり何の驗《しるし》もあらばこそ。
長者どんはおいおい泣いて、彼方《あちら》へ走《は》せたり此方《こちら》に走せたり、あゝあゝ誰にもあの棺を下すことができないのか、念のためにこの近所近邊のお寺の和尙達をみんな殘らず呼んで來てケろと叫んだが村の人達は近所近邊の和尙坊主どもは皆此所に來て居ると言つた。長者どんは、ほだら後《あと》には誰《たれ》も殘つて居ないかと訊くと、誰《だれ》だか人込みの中から、ここさ來ないで殘つて居るのが彼《あ》の山寺の眠(ネブ)かけ和尙樣たつた一人だけだが、連れて來たつて役には立つまいと言つた。僧侶達も口を揃へて、吾々でさへ出來ないものだもの、彼の眠かけ和尙が來たつて、かへつて邪魔になるばかりだと言つた。長者どんは否々《いやいや》さうでない。とにかく彼の和尙樣を早く招(ヨ)んで來うと言つて、人を急がせて迎へにやつた。
山寺の眠かけ和尙樣は破れた法衣を着て、杖をついて步くべ風もなく[やぶちゃん注:足も耄碌して、歩くというより、摺り足でのろのろと来たことを言うのであろう。]靜かに來た。そして草の上に座つて空を仰ぎながら靜かに御經を誦(ヨ)んだ。そしていい加減なところで、虎猫が敎へた南無トラヤヤトラヤヤと謂ふ文句を誦込(ヨミコ)んだ。さうすると今迄何(ナゾ)にしても動かなかつた娘の棺箱が天からしづしづと下りて來て地上(ヂベタ)に据[やぶちゃん注:ママ。]《すわ》つた。人々は皆《みな》聲を上げて和尙樣を褒めた。そして皆は和尙樣の足下《そつか》にひれ伏して拜んだ。他の僧侶達は面目《めんぼく》なくて、こそこそと遁げて自分の寺へ歸つて行つた。
斯う謂ふ譯で、その御葬禮は眠《ねぶ》かけ和尙樣だけで引導した。長者どんは淚を流してありがたがつて朱塗《しゆぬり》の駕籠《かご》を仕立てゝ和尙樣をば山寺へ送り還《かへ》した。
それから眠かけ和尙樣の山寺は俄《にはか》に立派に建直《たてなほ》された。今迄無かつた山門が出來たり、鐘搗堂が建てられたりした。そして和尙樣は世の中から生佛樣《いきぼとけさま》とあがめられて、每日々々參詣人がぞろぞろと絕間《たえま》なく續いて、たちまち門前が町となつた。