大手拓次訳 「田舍のワルツ」 D・フォン・リリエンクローン
[やぶちゃん注:本電子化注は、初回の冒頭に示した通りで、岩波文庫の原子朗編「大手拓次詩集」(一九九一年刊)からチョイスし、概ね漢字を正字化して、正規表現に近づけて電子化注したものである。
以下は、底本の最終パートである『訳詩』に載るもので、原氏の「解説」によれば、明治四三(一九一〇)年から昭和二(一九二七)年に至る約百『篇近い訳詩から選んだ』とあり、これは拓次数えで二十三歳から四十歳の折りの訳になる詩篇である。
ここでは、今までとは異なり、一部で、チョイスの条件が、かなり、複雑にして微妙な条件を持ち、具体には、既に電子化注した死後の刊行の『大手拓次譯詩集「異國の香」』に載っていても、別原稿を元にしたと考えられる別稿であるもの、同一原稿の可能性が高いものの表記方法の一部に有意な異同があるものに就いては、参考再掲として示す予定であるからである。それについての詳細は、初回の私の冒頭注の太字部分を見られたい。]
田舍のワルツ D・フォン・リリエンクローン
わたしは城の露臺へ導かれ、
優しい、うつくしい、まばゆい公女の前に朗讀をさせられた。
わたしはゲーテのタツソーをえらんだ。
夏の夕べのなかを、もはや夜の小蟲がとびはねてゐる。
來の雲は灼灼と輝いて綠を帶び、しづんだ日のこなたにたなびいてゐる。
われらの下の靜かな花園はますます暗い影のなかに取りまかれてゐる。
またもやナイテインゲールが鳴きはじめる。
召使はランプをテーブルの上に置いた、
その光はありとしもない徵風にゆらめきつつ定まらない。
村の方からわれ等のもとへ音が聞える。
この暗黑と光の條(すぢ)との上に明るく
舞踏室の窓は閃めき輝いてゐる。
うはの空なる組組はわたしの後ろをさつとすぎた。
時時、扉が開けたままになつてゐるとき、
足ぶみの音、叫ぶこゑ、またみだれたるバスなど。
その歡樂は抑へがたくある。
わたしが、しばし讀みつづけつづけ行けば、
知らず識らず混沌たる喜びは
昔のはかない繪の如くひらめき通る。
そして、恰度(ちやうど)この句(ライン)に來たときに、
「臺杯(だいさかづき)は保つことが出來るか、
泡だちつつ沸騰し、うめきつつ溢るる酒を。」
わたしは眼をあげてながめると
姬は心なく、左の手を欄干にもたせてわたしの聲も耳に入らない、
彼女の褐色の眼はあこがるる夢幻に滿ち、
物うささうにこの粗野なる踊り手の上におててゐる…………
「どうしたら、お前の高い樂慾が許すだらうか、
そこへ行つて樂しいワルツの舞へ加はることを。」
そして、彼女はため息をした。
『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』
わたしがもし、彼女の聲(トーン)がまねられたら、
彼女が云つたやうにその言葉をわたしにあたへよ、
いま、「どんなに」と「だらう」の調子にふと思ひあたつた。
彼女が云つた「どんなに」を云つて見よう、
『おお、どんなにかそれはわたしを喜ばすだらうに!』
[やぶちゃん注:ドイツの詩人デトレフ・フォン・リーリエンクローン(Detlev von Liliencron 一八四四年~一九〇九年)は、当該ウィキによれば、『キール出身』で、一八六六『年より軍隊に入り』、『普墺戦争』・『普仏戦争に従軍』し、『負傷』した。『軍隊を退いたあとは』、『一時』、『アメリカ合衆国に渡った。帰国後』、『プロイセンの官吏となり』、三十『代で詩作を始め』、「副官騎行」(Adjutantenritte:一八八三年刊)で『注目を集めた。軍人気質の実直さや』、『文学的な伝統にとらわれない感覚的な詩風で、印象主義の詩人として人気があった。劇作や小説も残している』とある。彼の詩の訳は、『大手拓次譯詩集「異國の香」 麥畑のなかの死(デトレフ・フォン・リーリエンクローン)』があり、拓次は彼が好きで、「綠の締金 ――私の愛する詩人リリエンクローンヘ――」という彼に捧げた献詩もある。
「ゲーテのタツソー」かの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が一七九〇年に発表した、十六世紀イタリアの叙事詩人トルクァート・タッソー(Torquato Tasso 一五四四年~一五九五年)を主人公とした戯曲‘ Torquato Tasso ’(ドイツ語音写「トルクワト・タッソ」)。]
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