佐々木喜善「聽耳草紙」 八九番 狸の話(二話)
[やぶちゃん注:底本・凡例その他は初回を参照されたい。今回は底本では、ここから。「貉」は「狢」とも書き、「三三番 カンジキツクリ」の本文の最初の注で附してあるのでそちらを見られたい。ここでは中間のシーンから狸であると断じておく。]
八九番 狸 の 話
狸の旦那(其の一)
宮古在山中《やまなか》の家が五軒ばかりの村家での話。そのうちの或家で婚禮があつたが、大屋の旦那樣が宮古町へ行つて未だ歸らぬので、式を擧げることが出來ない。さうしてゐるうちに夜は段々更けて行くので人達は大變氣を揉んで居た。さう斯《か》うして居る所へ表で犬がけたたましく吠えたと思ふと、待ちに待つて居た旦那樣が雨戶を蹴破るやうにして、眼色を變へて入つて來た。そしてやアやア遲れて申譯が無かつた。さアさア大急ぎで式を擧げた擧げたと言ふかと思ふと、膳に向つて御馳走を氣狂者《きぐるひもん》のやうな素振りで食ひ散《ちら》した。振舞《ふるまひ》の人達は彼《あ》の旦那樣はこんな人では無かつたが、きつと今夜は酒に醉つて居るこつたと思つて見て居たが、大屋の旦那樣だから誰一人何とも言はなかつた。
婚禮の式が濟んでから、其家の人達は大屋の旦那樣し今夜はゆつくりお泊りあつてお吳れやんせと言ふと、且那樣はいやいや明日は山林の賣買があつて朝早く宮古サ行かなければならぬから、俺はこれで御免をかうむると言つて急に立ち上つて、あわくたと玄關から出て行つた。すると又犬どもが猛烈に吠えかかつた。旦那樣はキヤツと叫んで床下に逃げ込んだ。
見送りに出た人達やみんなは、これや本統[やぶちゃん注:ママ。]の旦那樣ぢや無い。道理で先刻《さつき》からの樣子が變つて居つた。それやツと言つて、はツく、はツくと犬どもを床下へ追込《おひこ》んでケシ掛けた。又其所に寄集《よりあつま》つて居た人達も總出で床板を剝がし乍ら犬を集めて來てかからせた。床下では暫時《しばらく》犬と何かが嚙合《かみあ》ふけはいがして居たが、やがてずるずると犬に引張り出されたのはひどく大きな古狸であつた。
其所へ眞實の大屋の旦那樣が、宮古町で山林の賣買があつて、斯《こ》んなに遲れて申譯が無かつたと言つてやつと來た。數年前のことであると言つて大正十年[やぶちゃん注:一九二一年。]十一月二十日に宮古在の人から聽いた話である。
狸 の 女(其の二)
宮古在の山中に爺樣が一人、若者共が二人、都合三人で鐵道の枕木取りに上《のぼ》つて小屋がけをして泊つて居た。ある夜一人の妙齡(トシゴロ)の女が小屋へ來て、わたしヤ岩泉《いはいづみ》さ行くのでござんしたが、路を迷うてここさ來やんしたから、どうぞ一晚泊めてくなンせと言つた。爺樣は何俺ところには錄な[やぶちゃん注:ママ。「陸な」。「碌な」は当て字。]食物《くひもの》もねえでがんすし、亦《また》夜お着せ申す物もねえでがんすから、泊め申すのも如何《いかが》なもんで御座《ごぜ》えますが、それとて今から何處さ行けとも申されますめえからハイ宜《よろし》うげます、きたなくも宜かつたら小屋の中さ入つてお泊りんせと言つた。女はわたしや食物も何も入《い》[やぶちゃん注:当て字或いは誤記・誤植。]らなござんすケ、それではどうぞハアお泊めなすツておくれやんせと言つて小屋の中に入つた。そしてあゝほんとに寒いと言つて焚火に差覗《さしのぞ》いてあたつた。若者どもは快(ヨ)い心持ちになつてヒボト[やぶちゃん注:「爐」。]の側にごろりと寢ころんで、お互に朋輩の眠るのを待つて居た。たゞ爺樣だけはハテ不思議なことだ。この夜中にこんな物優しい姿をした姉樣が、こんな山中に迷い來るとは、どうも受取れぬ節がある。それにいくら何でも岩泉へ行くのにここへ來る筈がない。是は油斷の出來ぬ事だと内心用心をし乍ら、橫になつて寢たふりをして窃《ひそ》かに女の樣子を見て居た。
それとも知らぬ女は、あゝ寒いあゝ寒いと言ひながら、ますますヒボトヘ摺寄《すりよ》つて行く振りをしながら傍の若者の體にちよいちよいと觸れた。そして赤い腰卷を出したり白い脛(ハギ)を出したり、それから無心らしく段々と陰部を出して若者どもの氣を惹いた。けれども若者どもは橫合に居つたからよく見えなかつたが、爺樣は差向ひであるから、その一伍一什《いちごいちじふ》[やぶちゃん注:一から十まで。残る隈なく総て。]をよく見て居て、これはまた如何にも可笑しい格好のもんだなアと思つて居た。それも初めはただ局部がちらほらと見えて居ただけだが、火の温(ヌク)もりに遭《あ》つてホウと口を開いてあくびをした。爺樣はコレダと思つた。
爺樣は靜かに起き上つて、姉樣寒《さむ》かんべからこれでも被(キ)て寢(ヤス)んでがんせと言つて、空俵《からだはら》を取つて立ち上りそれを女の顏からかぶせると、いきなり力任《ちからまか》せに押しつけて、ヒボトから燃木尻《もえぎじり》[やぶちゃん注:爐中の薪(たきぎ)の燃え残り。]をとつてガンガンと撲《ぶ》つた。今迄眠つたふりして居た若者どもは驚いて、これもむツくり起上《おきあが》り、何だ爺樣ツ何すれやツと言つた。爺樣はこれは畜生だから早く撲殺《ぶちころ》せと言つて、なほガンガン打叩(ブツ《たた》)いた。女は空俵の中で初めのうちは、あれツお爺さん何しやんすと言つて居たが、しまひには苦しがつて獸《けもの》の啼聲《なきごゑ》を出した。そこで若者どもも初めて、人間でないと謂ふことが分つたので、爺樣と一緖に木や鉈《なた》で叩き伏せた。それは二匹の狸が首乘りに重なり合つて人間に化けて居たのであつた。これは大正七年の冬にあつた話である。
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