下島勳著「芥川龍之介の回想」より「俳人井月」 《警告――芥川龍之介関連随筆に非ず――》
[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載に『昭和九・一〇・二一・芥川龍之介全集月報』(岩波書店が同年十月から刊行を始め、翌年八月に完結した没後七年目の第二次普及版『芥川龍之介全集』(全十巻)の『月報』(恐らくは第一回配本のそれ)とあるのが初出で、後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。
著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。
底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た(但し、単行本刊行時期のため、正字と新字が混淆してはいる)。本篇はここから。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。また、本篇にはルビが一切ないが、なくても概ね読めるが、一応、若い読者のために、ストイックに《 》で推定で歴史的仮名遣で読みを振った。
なお、私は底本全部を電子化する意志は全くない。特に芥川龍之介がダシの如く使われている随想は興味がない。本篇の前にある、まず、「墨病」は、下島と室生犀星との関係を述べたもので、最後にちょろっと芥川龍之介が出てくるが、電子化の食指は全く動かない。その後に続く「淺草と私」・「書話」・「素はだかの畫人」の三篇も芥川龍之介とは関係のないものであり、以上の四篇は向後も電子化する気はない。
では、以下の「俳人井月」は芥川龍之介が出るかというと、実は、やっぱり最後に、ちょろちょろっと、二度、出るだけ、である。但し、下島は井上井月の研究家であり、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)の「跋」を芥川龍之介は書いており、その出版を龍之介は後押しもしている。龍之介の跋文は私の『《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋』で電子化しているので見られたい。
芥川も愛した俳人で、「乞食井月」の異名で呼ばれる井上井月(文政五(一八二二)年?~明治二〇(一八八七)年)は信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた、私も熱愛する奇狂俳人である。ウィキの「井上井月」によれば、『井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。伊那谷出身の医師であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号:空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、伊那谷に居住していた実弟の下島五老に調査を依頼。そして』、この翌大正一〇(一九二一)年に「井月の句集」を出版している。『本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられて』おり、『この句が松尾芭蕉』の「野ざらし紀行」の発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」を『踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる』とあり、『また、下島が芥川龍之介の主治医であった縁から』、「井月の句集」の『跋文は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』。但し、芥川が『井月の最高傑作と称揚している』「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」の句は、『皮肉にも』、『井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』ともある(これは国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の「後記」の「三」で具体に書かれてある。前の「二」の誤伝群のここの左ページ下段最後から二句目がそれ)。さらに、昭和五(一九三〇)年十月には、『下島勲・高津才次郎編集による』「井月全集」(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。白帝書房刊)が出版され、「井月の句集」に『掲載された虚子らの「井月賛」俳句と、芥川の序文は』、『この全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。また、本全集には、井月が残した日記も収録されている』とある。同ウィキには下島が描いた井上井月の肖像(大正一〇(一九二一)年作)の画像も載る。
こういう因縁から、私は以下の「俳人井月」は私の偏愛する俳人に就いての文章として、電子化することとする。されば、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」ではなく、同カテゴリ「詩歌俳諧俳句」に収納することとする。
本篇は最後の附記により、昭和六(一九三一)年九月八日の午後七時三十分から、ラジオの中央放送局(東京中央放送局(JOAK)は現在のNHK東京のこと)の「趣味講座」で口演されたもので、その原稿を、恐らくは下島が活字にしたものかと思われる。]
俳 人 井 月
内藤鳴雪翁が――秋凉し惟然の後に惟然あり。と咏まれた俳人井月は、現今ではもはや俳壇や文壇の方々には、――アアあの乞食井月か……と、ご合點の行くほど有名になつてゐるやうですが、一般の方々には、――井月なんて一向聞ゐ[やぶちゃん注:ママ。]たこともない俳人だとおつしやるに相違ありません。それは勿論ご尤なことでありまして、去る大正十年かれの句集がまだ出來ない以前にありましては、井月が多年住んでゐた信州でも――と申したいが。實は彼の第二の故鄕でもあり、また現在墳墓の地であります上伊那の人でさえ、それも六十歲前後の特別な人ででもなければ覺えてゐる人が少ないといふほど、名もない埋もれた俳人だつたのであります。
私は云はば淺からぬ因緣やらから、鄕里に散亂してゐゐ彼の俳句を拾ひ集めまして、――一寸お斷りしておきますことは、かれ井月は元李.自分の俳句の抄錄や手控へを作つておくといふやうな、氣の利いた人物ではありませんので、云はば至る處で咏み放し書きはなしておいたものの中の遺つてゐるものを拾ひ集めまして、去る大正十年の十月に、甚だ不完全ながら初めての彼の句集を作り、世の同好者にお頒けしたやうなわけだつたのであります。
ところが案外なことには、この乞食井月が順頗る評判になつてまゐりましたばかりでなく、それが動機となつて非常に熱心な硏究家が現れるといふやうなわけで、(その硏究者は伊那高等女學校敎諭の高津才次郞といふ人であります)その結果として昨年十月彼の全集が出來たのであります。普通ならば彼井月も定めし地下に瞑するであらうなどと月並を申すところでありますが、この井月といふ人物は、元來自分を立てたり己れを現はす、即ち名聞といふことを嫌つた傾向の人物であるらしいのですから、――世の中にはいらざるおせつかいをする者もあるものだと、あの無愛嬌面をふくらませてゐるかも知れません。況やマイクロホンを通して彼を談《かた》るといふことなどは、最も不本意であらうと思ひますが、實は斯ういふグロテスクな人物であればこそお話の種ともなり、またその價値もあるのではなからうかと思ひます。
これから彼の傳記と生活狀態のあらましと、それから彼の藝術卽ち俳句についてザツと述べてみたいと存じます。尤も傳記などと申しますと一寸大げさに聞えますが。實は信州へ入つてからのことが幾分訣《わか》る[やぶちゃん注:「訣」には「別れる」の意しかない。以下、同じ。]だけで、その他は全く不明な風來坊でありますから、遺憾ながらその點は世話がありません。
井月が越後の國長岡の出身であるといふことは、ある記錄と古老の傳說によりまして確かなやうであります。が、長岡のどういふ處に生れ、どういふそだちをしたものであるかなどといふことは全く不明であります。それでありながら、彼が家を出た動機について一二の傳說が傳へられてゐます。一體生れもそだちも訣らやうな人物に、小說じみた出奔說など勿論眉つばものと云はねばなりません。ただ彼の學文の廣さと深さ、筆蹟の見ごとさなどから考ヘただけでも、相當な敎養あるそだちをした人物に相違なからうと推定されます。
信濃へはいつてからの最も古い文獻は嘉永五年[やぶちゃん注:一八五二年。徳川家慶(翌年死去)の治世。]で、善光寺大勸進の役人吉村隼人といふ人のお母さんの追弔句がそれであります。試みに逆算すると三十一歲の時になります。それから第二の故鄕としてまた墳墓の地となつた伊那の峽《やまかひ》へ現はれたのは、確實ではありませんが、安政[やぶちゃん注:嘉永の次で元年は一八五五年で、安政は七年まで。]へはいつてからといふことになつてをります。
信濃へ這入る以前の足跡は彼の遺句と、越後獅子と題する彼が諸國行脚中處々で接した俳人の句を一句づつ書きとめておいて、伊那で版にした小册子によつて確かに窺ひ知ることが出來るばかりであります。それは奥羽から兩毛地方、江戶及び江戶附近、それから東海道沿國、伊勢路、京都、大阪、近畿地方、須磨明石あたりまでの足跡であります。
そして三十年ちかくも信州殊に伊那の地を放浪して、明治十九年の舊師走、べ伊那村の路傍で行きだをれ[やぶちゃん注:ママ。]になり、戶板に載せられて順送りに送られ、彼の入籍の家即ち上伊那郡都美篶村《みすずむら》[やぶちゃん注:現在の長野県伊那市美篶(グーグル・マップ・データ)。]太田窪[やぶちゃん注:現行の地名は美篶六道原(ろくどうはら)。]の鹽原家へ運びこまれ、そこの納屋で翌二十年三月十日旧暦二月二十六日に死んだのであります。年齢は六十六歲といふことが確かめられました。[やぶちゃん注:今も井月の墓は現存する。グーグル・マップ・データのここ。サイド・パネルの写真も参照されたい。いかにも井月に相応しい摩耗し苔むした墓である。]
――妻持ちしこともありしを着そ始め。といふ彼の句があります。この句から考へますと、どうも若年のころ一度は妻帶したことかあるやうに思へます。
爰で彼の容貌を一寸申してみませう。勿論寫眞も何も殘してゐない人物ですから、私の幼少時代の印象をそのまま申しあげるまでであります。彼は瘦せてはゐましたが、骨格の逞しい、身長は私の父と比較して五尺六七寸[やぶちゃん注:一・七〇~一・七二メートル。]ぐらゐあつたらうかと思ひます。高濱虛子氏が――丈け高き男なりけん木枯に。と咏まれましたが、――勿論これは身の丈が高いといふ意味ではなく、思想や行ひの高邁を表現した句でありますが、偶然にも彼は丈高き體格の持主であつたのであります。そして頭の禿げた髯も眉毛もうつすらとした質《たち》でありました。眼は切れ長なトロリとした少し斜視の傾きを持ち、何かものを見詰る時は、一寸凄い光りがありました。鼻も口も可成り大がかりで、どうも私は故大隈侯爵と石黑子爵のお顏を見るとよく井月を思ひ出しましたから、何處か似てゐたに違ゐ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]ありません。顏面は無表情の赤銅色で、丸で彫刻のやうな感じでありました。
[やぶちゃん注:「私の幼少時代の印象」下島勳氏は明治三年八月二十五日(一八七〇年九月二十日)長野県伊那郡原村(現在の駒ヶ根市)の生まれであるから、井月の亡くなった時でも、既に満十六である(但し、後で下島は、井月の最晩年には接触していないことを記す)。]
さて井月の生活狀態はどうかと申しますとこれは全く一處不住の浮浪生活でありまして、例の伊那節で有名な信州伊那の峽を彼處《かしこ》に一泊此處に二泊、氣に入れば三四泊、五六泊も敢て辭するところではありません。また隨所で晝寢もすれば野宿もする。といつたやうな――マア恐る可き行きあたりばつたりといふやつだつたのであります。
井月の立ち寄る家は大既一定してゐたやうであります。それは何處でもマア名望家或は資產家といつたやうな謂ゆる智識階級または特に俳諧に趣味のあるやうな處でありました。併し如何に名望家資產家でも、俳臭のない處や、吝嗇の家や、イヤに迷惑がる家などには決して立ち寄らなんだらしいのです。そしてグルグルと𢌞つて步いたのであります。
その風態は全然あなた任せでありますから、丸でおこもさん[やぶちゃん注:「お薦さん」。乞食。]のやうな風態で來ることもあれば、また時には比較的小ざつぱりした身なりをして來ることもありました。
特に一言しておきたいのは、袴だけは、どんなに汚れてゐても、裾がち切れてゐても、着けてゐたといふことがらであります。――袴着た乞食まよう[やぶちゃん注:ママ。]十六夜。といふ田村甚四郞といふ人の句がありますが、正にその通りだつたに違ゐありません。要するに、人の着せてくれるものを着てゐたのであります、尤もこれは着物に限つたことではありません。食物でも何んでも自分から强て請ひを受けるといふやうなことはなかつたらしいのです。併し彼の好物の酒だけは、さぞ飮みたさうな樣子ぐらゐはしたに相違ありますまい。ここで一寸申上ておくことは、井月を別名乞食井月或は虱井月といつてゐました。斯ういふ生活には虱は勿論つきもので珍らしくありませんが、何處でもこれには惱まされたものに違ゐありませんません[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]。私の家でも井月の衣類を燒いたり煮たりしたことがありました。私はある夏天龍川の磧の柳の蔭で、石の上に虱を並べて眺めてゐる井月を見たことがありますが、人が立つて見てゐるとも感じぬらしいのでした。マア良寬和尙と同じやうに虱と遊んでゐたのです。どうも虱井月の名は確かに當つてゐると思ひますが、乞食はどんなものかと考へさせられます。なぜと云ふに、井月といふ人物は、譬へ饑餓に迫つても寒氣に身をつんざかれるやうな場合でも、滅多に頭を下げ腰をかがめて人から憐みを請うといふやうな人物でなかつたことは、事實らしいからであります。鄕里あたりでは、酒が好きだからといふので飮せてやり、お腹が空いてゐるだらうと食物を與へ[やぶちゃん注:「食物」の間には半角以上の空隙があるので「食べ物」の脱字の可能性がある。]、寒むからうといつて着せてやつたまでのことで、彼が物を强て請ふたといふやうなことは聞いたことがありません。のみならず、貰つたものを人に與へて平氣だつたのです。その例を一つ擧げてみませうなら私の祖母が寒からうといふので、古い綿入羽織をなほし着せてやつたのですが、三四日の後道で逢つたが、その羽織を着てゐないのです。そこで祖母がたづねたら、乞食が寒むさうだから吳れてやつたと平氣なので、祖母もあきれたさうであります。こんな一例だけでも本質的には乞食どころか、彼の魂は殉敎考者とか聖者とかいつたやうな香氣がすると思ひます。
私の知つた頃即ち明治十年頃から十五六年頃までは、古ぼはた竹行李と汚れた風呂敷包みを振り分けにして、時々瓢簞を腰にぶらさげてトボトボと鈍い步調で多いてゐたものです。而も減多に餘所見をしないのが特色でありました。晚年の井月を私は知りませんが、餘ほどなおこもさん姿に成り果てたさうであります。伊那へ初めて現れた頃は、恰も尾羽打ちからしたお芝居の浪人といつた風體であつたとのことですから、何だか紙芝居でも見るやうな幻影を感じもします。
井月は風體が風體ですから犬がほえつく咬みつくで、これには閉口したらしいです。また樣子が樣子ですから惡太郞が動《やや》もすれば石をなげつける、後をつけて惡戲をするで、これにも甚だ苦しめられたらしいです。良寬和尙はよく子供とオハジキや隱れんぼなどをして遊んだものださうですが、井月は犬と子供は大苦手だつたやうであります。
彼の嗜好は酒でありました。酒仙といつて支那で名づけた仙人がありますが、井月ぐらゐ酒仙の俤《おもかげ》のピツタリした人間を私はいまだ見たことが知りません。特別の場合のほか滅多に錢のある筈もないのに、多少とも常に醉ふことの出來たのは、何といつても彼の美德の然らしめたお蔭げと云はねばなりません。私はあまり酒を好みませんが、井月と酒――こればかりは無くてはならぬもののやうに思へてなりません。
彼は元來非常な沈默家で、口をきいても低音でよく聽かぬと何を云ふのか我々には訣らないのです。また洒を飮んでもさし亢奮の樣子も見えず多辯になるでもなく、唯グズグズヒヨロヒヨロの度が加はるぐらゐなことでありました。一體井月は醉つてゐるのか醒めてゐるのか、恐らく誰にも區別はつかなんだであらうと思ひます。我々にも訣る井月の言葉で有名なのが一つありました。それは千兩千兩といふのです。これは謝詞、賀詞、感嘆詞、として使用するばかりか、今日は、さようならの挨拶にまで使用する事さヘあるといふ重寶な言葉でした。この千爾で一つエピソードがあります。ある人が道で井月に行逢ひ、何處へ行くかと訊ねたところ、高遠の市へ行くといつたさうです。そこである人が、一文も持たずに市に行つてどうすると戯れたところ、――一文の錢がなくても心せい月。といつたさうであります。少し出來過ぎてゐますが、事實だ。さうでありまして、彼の面目躍如たるものがあります。
彼の無慾恬淡など今更申上る必要のないほど先刻ご推察であります。またこんな風貌でありながら相當の禮儀を守り、――尤も無用の虛禮などには頓着しなかつたさうですが、場合によつては寧ろ固過ぎるところさえ[やぶちゃん注:ママ。]あつたといふことです。性質は極めて温厚柔順、恰も老牛といつた感じで、全然無抵抗の域にまで達してゐたらしく思はれます。それは曾て爭つたことや怒つたといふところなど見たことも聞いたこともないといふのが事實になつてゐます。それでゐて人並以上の親切心や人情味があつたればこそ、現に生きてゐる老婦人などの中にも、虱や寢小便の厭やな思ひ出も打忘れて、アアいふ人がほんとの聖人といふものでせうといつて、今更ら井月をなつかしんでゐる人が、一人や二人ではありません。
まづザツと斯んな人物でありましたから、その生活の反映として、技巧も覇氣もない即ち綿入でない[やぶちゃん注:事実を膨らました作りものではないことを言うか。]中々面白い奇行逸話が澤山ありますが、時間がありませんからお話することが出來ません。
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「井月全集」の、ここから、実に二十三ページに亙って三十七条もの「奇行逸話」の項(その内、「私」とあるのは下島が実際に記憶している事実に基づいて記したものであると考えられる)がある。事実、非常に興味深いものである。]
それから彼の俳句でありますが、その數は約一千五百句ほどあります。多作の一茶に較べたら七分の一か八分の一に過ぎまいが、既に亡失したものも可成あらうと思ひますから、決して少ない方ではありますまい。
井月一の俳句にはどんな作があり、またどんな特色があるかといふ問題でありますが、これは中々複雜な問題で簡單に申述べるわけにはまいりません。
唯今日はご參考までに秋の作の中から、數句のご披露に止めおきます。[やぶちゃん注:一字下げがないが、誤植と断じて(改ページであることから)、下げた。なお、以下の句は、底本では総てが同じところで終わる均等割付となっている。]
初秋や分別つかぬ鳶の顏
大事がる馬の尾筒や秋の風
蓮の實の飛びさうになる西日かな
小流れに上る魚あり稻の花
鬼灯の色にゆるむや畑の繩
蜻蛉のとまりたがるや水の泡
落栗の座を定めるや窪たまり
はらはらと木の葉まじりや渡り鳥
新聞や雜誌で見ました句評の一二を簡單に述べてご參考に供します。評者の名まへは差控へますが何れも權威ある有名な方々です。
或る俳人は、萬葉以後、實朝、宗武、元義、曙覽、良寬等が出たやうに、全俳壇を風靡してゐた天保の俗調の中から、然もまだ子規及び其-派の明治新俳句の生れない前に、井月が直に巴蕉七部集ヘ深くつき入り、或は蕪村のやうな寫生句を吐いたといふのは、何としても不思議なことである。だから井月は子規の前驅をしてゐる俳人といつて差支がない、といふのです。
また或る有名な文士で且つ俳人は、――化政天保以後の俳壇の最髙の圓座へ、即ち一茶と同列の圓座へ手をとつて据えるべき俳人である、と云ひ、蒼虬、卓池、梅室などに比べて逈《はる》かに芭蕉の幽遠に迫り漾ひが深いと云ひ、また井月は素直な發想を試み、一茶は好んで人生即ち小說道に特色を發揮してゐる。一茶は睨んでゐるのに、井月は眺めながら聽かうとしてゐる。ここに二つの翼の方向の違ひが出來、自然、兩翼を形ち作ることになつた云々と云ひ、井月の俳句は淸澄のうちに雅純を含み、殆ど完成された大俳人の俤がある、といつてゐます。
次手ながら彼の書につき内田魯庵翁は、芭蕉とりウマイと云つてゐると芥川氏から聞きましたが、これは明らかに褒め過ぎであります。併しながら、井月硏究者の高津氏は、硏究動機の第一印象を彼の筆蹟の美に歸してゐるくらゐでありますし、私の父などはよく――姿を見ると、乞食だが、書を見ると御公卿さんだといつてゐました。私は勿論近代稀に見る高雅な書品であると信じてゐます。芥川龍之介氏は、あの井月句集の有名な跋文で、井月を印度の優陀延比丘になぞらへてゐられますが、これは遉《さす》がの井月も一寸微苦笑を禁ずることが出來なからうと存じます。
最後に、彼はあの幕末から明治初年の極惡い時代に、飽くまで妥協しない理想生活を遂げようとしただけに、勢ひ數奇を極めた乞食生活――虱生活に陷り、あの悲慘ともみえる終末を餘儀なくせざるを得ないハメになつたのであらうと思ひます。或る人が――若し井月をして元祿ならずともせめて化政天保にでもあらしめたら、も少し人間らしい生活が出來たであらう、などと申したこともありましたが、ほんとのことを申しますれば、元祿の已惟然路通ならずとも、芭蕉を始め丈草あたりでさえ[やぶちゃん注:ママ。]、ある意味においてはやはり乞食といつて差支なからうと思ひますから、この道に深く魂を打ちこむ限り、少くも過去の世にありましては、アアいふやうな或は類似の生活に終るのが自然であらうと存じます。私は芭蕉の俳道は詮ずるに、生活の上からはまさしく乞食道であると信じてゐます。――成り金どころか金氣《かねつけ》には頗る緣の遠い餘ほど難儀な道だといふよりほかはありますまい。芭蕉は遇然にも――この道や行く人なしに秋の暮れ。といつてをります。井月は、――この道の神ぞと拜め翁の日。と申してゐます。
私は珍らしく純眞無垢な、そして芭蕉の思想の實踐者として、正風掉尾のいとも不思議な俳人井月の俤を、聊かながら皆樣にお傳へいたしまして、このお話を了らせて頂ます。さようなら……
(昭和六・九・八・午後七・三〇・中央放送局趣味講座口演)
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